第一幕 月を待つ村
X693年。
ギルティナ大陸北東部。
山々に囲まれた小さな村に、穏やかな朝が訪れていた。
澄んだ空気の中、石造りの家々から白い煙が立ち上っている。
村の中央にある広場では、朝早くから人々が忙しそうに動き回っていた。
「イリスさーん!」
明るい声が響く。
振り返ると、メイビス・ヴァーミリオンが大きな籠を抱えて駆け寄ってきた。
「おはようございます!」
「おはようございます、メイビスさん」
イリス・アストレアは微笑んだ。
「随分と早起きですね」
「はい! 今日は朝からお手伝いです!」
メイビスは得意げに籠を持ち上げる。
「村の皆さんと一緒に、儀式で使う花を集めてきました!」
籠の中には、白く小さな花がいっぱいに詰まっていた。
「綺麗ですね」
「でしょう?」
メイビスは嬉しそうに頷く。
「この花、夜になると月の光を受けて淡く輝くそうなんです!」
「それは、見てみたいですね」
「はい! 私も楽しみです!」
二人が話していると、近くで作業をしていた女性が声をかけてきた。
「おや、旅人さんたち。今日も手伝ってくれるのかい?」
「もちろんです!」
メイビスが元気よく答える。
「何でも言ってください!」
「ふふっ。頼もしいねぇ」
女性は笑いながら、広場の奥を指差した。
「それじゃあ、祭壇の飾り付けをお願いしようかね」
「はい!」
イリスも頷いた。
「お任せください」
◇
村の中央にある祭壇は、長い年月を感じさせる石造りの建造物だった。
半円形の台座を中心に、月の満ち欠けを表す彫刻が刻まれている。
その周囲には、いくつもの石柱が立っていた。
「……随分と古いものですね」
イリスが呟く。
「はい!」
メイビスは興味深そうに石柱を見上げた。
「この彫刻、かなり昔の様式みたいです!」
「わかるんですか?」
「少しだけですけど!」
メイビスは石柱に刻まれた模様を指差した。
「この月の模様、昨日見せてもらった古い記録にも描かれていたんです」
「なるほど……」
イリスも目を向ける。
満月。
半月。
三日月。
それぞれの形が、円を描くように並んでいた。
「月神竜様は、昔からこの村に来られているんですね」
「そうみたいです!」
メイビスは頷いた。
「村長さんのお話では、何代も前から儀式が続いているそうですよ!」
その時。
「ほっほっほ。よく調べておるのう」
背後から穏やかな声が聞こえた。
振り返ると、村長が杖をついて歩いてきていた。
「おはようございます、村長さん」
「おはようございます!」
「うむ。おはよう」
村長は二人の前で足を止めた。
「昨日はよく眠れたかの?」
「はい。おかげさまで」
イリスが答える。
「静かで、とても過ごしやすい村ですね」
「そう言ってもらえると嬉しいのう」
村長は目を細めた。
そして、祭壇へ視線を向ける。
「この祭壇は、わしが生まれるずっと前からここにある」
「そうなんですね」
「うむ。村の者たちは、代々ここで月神竜様をお迎えしてきたのじゃ」
メイビスが興味深そうに尋ねた。
「セレーネ様は、毎月いらっしゃるんですか?」
「そうじゃ」
村長は頷いた。
「満月の夜になると、月神竜様はお姿を見せてくださる」
「一度も欠かさず、ですか?」
「わしの知る限りではな」
「……すごいですね」
イリスは思わず呟いた。
五神竜の一角。
大陸中を探し回っても、その居場所さえわからなかった存在。
それが、この小さな村には毎月訪れているという。
不思議な話だった。
「……村長さん」
「何じゃ?」
「セレーネ様は、どのようなお方なのでしょうか?」
その問いに、村長は少し考え込んだ。
「そうじゃのう……」
そして、穏やかに笑った。
「たいそう美しいお方じゃよ」
「美しい……?」
「うむ。月の光をそのまま人の姿にしたようなお方じゃ」
メイビスが目を輝かせた。
「人の姿なんですか!?」
「そうじゃ」
村長は頷いた。
「わしらの前には、美しい女性のお姿で現れなさる」
「なるほど……!」
メイビスは早速、手帳を取り出した。
「神竜が人間の姿に……興味深いですね!」
その様子を見て、村長が小さく笑った。
「ただし、気をつけることじゃ」
「……?」
イリスが顔を上げる。
「月神竜様は、たいそう気まぐれなお方でもある」
「気まぐれ、ですか?」
「うむ」
村長は静かに頷いた。
「気に入ったものには笑みを向けてくださる。じゃが、何をお考えなのか、わしらにはわからぬことも多い」
「……」
「昔、月神竜様のお言葉を軽んじた者がおったそうじゃ」
村長の声が、少しだけ低くなった。
「その者は、二度と月神竜様の前に立とうとはせなんだという」
「……何があったんですか?」
メイビスが尋ねる。
村長は首を横に振った。
「詳しいことは伝わっておらぬ。ただ、月神竜様を人の物差しで測ってはならぬと、先祖たちは言い残しておる」
イリスは静かに頷いた。
「……覚えておきます」
強大な存在だからこそ、必ずしも人間の価値観に従うとは限らない。
エルフセリアの警告が、脳裏をよぎった。
それでも。
イリスは祭壇を見上げた。
ここまで来たのだ。
会わずに帰るという選択肢は、なかった。
――――――――――
第二幕 満ちゆく月
それから、数日が過ぎた。
イリスとメイビスは、村人たちに混じって儀式の準備を進めていた。
祭壇の清掃。
供物を運ぶための道具の修繕。
村の広場を彩る花飾りの制作。
やるべきことは多かった。
「よいしょっ!」
メイビスが木箱を持ち上げる。
「メイビスさん、そちらは私が運びますよ」
「大丈夫です!」
メイビスは胸を張った。
「これくらい、私だって運べます!」
「ふふっ。そうですか」
イリスは微笑んだ。
その直後。
「……あっ」
メイビスの足元で、小石が転がった。
「わわっ!?」
身体が傾く。
しかし、木箱が地面へ落ちることはなかった。
イリスが素早く手を伸ばし、箱を支えていたからだ。
「大丈夫ですか?」
「……えへへ」
メイビスが照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
「無理はしないでくださいね?」
「はーい……」
少しだけしょんぼりするメイビス。
そんな彼女を見て、イリスは小さく笑った。
「では、一緒に運びましょうか」
「はいっ!」
二人は木箱を持ち直し、祭壇へ向かった。
◇
満月まで、あと三日。
村の広場には、儀式で捧げる供物が次々と集められていた。
果実。
穀物。
香り高い酒。
そして、村の料理人たちが腕によりをかけて作る特別な料理。
「わぁ……!」
メイビスが目を輝かせた。
「美味しそうですね!」
「ふふっ。そうですね」
イリスも微笑む。
すると、料理を運んでいた女性が笑った。
「月神竜様は、こういうものを好まれるんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。特にお酒は、毎月楽しみにしてくださっているみたいでね」
「なるほど……」
メイビスは真剣な顔で頷いた。
「月神竜さんは、お酒がお好き……」
「メイビスさん?」
「重要な情報です!」
そう言って、手帳に書き込む。
イリスは思わず笑ってしまった。
「ふふっ。本当に研究熱心ですね」
「もちろんです!」
メイビスは得意げに胸を張った。
「どんな情報が役に立つかわかりませんから!」
◇
その夜。
イリスは、一人で村の外れに立っていた。
山々の向こうに、丸みを増した月が浮かんでいる。
冷たい夜風が、黒髪を静かに揺らした。
「……あと、三日」
小さく呟く。
六年以上。
元の世界へ帰る方法を探し続けてきた。
最初は、何もわからなかった。
この世界の地理も。
魔法の仕組みも。
異世界というものが、どれほど遠い場所なのかさえ。
それでも、諦めずに探してきた。
妖精の尻尾の仲間たちと出会い。
数え切れないほどの冒険を経験し。
そして、メイビスとともに、この大陸までやって来た。
ようやく見つけた、一つの可能性。
けれど。
「……もし」
イリスの唇から、小さな声が漏れた。
「もし、帰れないと言われたら……」
その先の言葉は、続かなかった。
考えたことがないわけではない。
むしろ、何度も考えてきた。
ただ。
今までは、具体的な答えを知る機会がなかった。
だからこそ、希望を持ち続けられたのかもしれない。
「……」
イリスは左手を持ち上げた。
指には、緑色の宝石が付いた銀の指輪。
メイビスから贈られたものだった。
その輝きを、しばらく見つめる。
「……イリスさん?」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、メイビスが立っていた。
「こんなところにいたんですね」
「メイビスさん……」
イリスは少し驚いたように目を瞬かせた。
「どうしてこちらに?」
「お部屋にいなかったので、探しに来たんです!」
メイビスは笑顔で左手を見せた。
青い宝石の指輪が、月光を受けて輝いている。
「これのおかげで、すぐにわかりました!」
「……ふふっ」
イリスは微笑んだ。
「便利ですね、その指輪」
「はい!」
メイビスは嬉しそうに頷いた。
そして、イリスの隣へ並ぶ。
二人はしばらく、黙って月を見上げていた。
やがて。
「……イリスさん」
「はい?」
「緊張していますか?」
イリスは、少しだけ考えた。
そして、静かに頷いた。
「……はい」
「そうですよね」
メイビスは、穏やかに答えた。
「ずっと探してきたんですもんね」
「……」
「私だったら、きっと落ち着かないと思います」
イリスは小さく笑った。
「実は、私もそうなんです」
「ふふっ」
メイビスも笑った。
そして、少しだけ真剣な表情になる。
「イリスさん」
「はい」
「一人で全部抱え込まないでくださいね?」
「……!」
イリスが目を見開いた。
「私も、一緒に考えますから」
メイビスは、まっすぐにイリスを見つめた。
「どんなお話が聞けても、聞けなくても。私たち、二人でここまで来たんですから!」
「……メイビスさん」
「だから、遠慮しないでください!」
その言葉に、イリスはしばらく黙っていた。
そして。
「……ありがとうございます」
柔らかく微笑んだ。
「本当に、頼りにしています」
「はいっ!」
メイビスが満面の笑みを浮かべた。
夜空には、満ちかけた月。
その光の下で、二人の指輪が静かに輝いていた。
――――――――――
第三幕 満月の儀式
そして、十日目。
ついに、その夜が訪れた。
山々に囲まれた村の上空には、雲一つない夜空が広がっていた。
その中央に浮かぶのは、真円を描く巨大な満月。
白銀の月光が、村全体を静かに照らしている。
広場には、村人たちが集まっていた。
祭壇の周囲には、白い花が飾られている。
石柱には小さな灯火が並び、柔らかな光を放っていた。
そして、祭壇の中央。
そこには、村人たちが丹精込めて用意した供物が並べられていた。
「……綺麗ですね」
イリスが呟いた。
「はい……!」
隣のメイビスも、感嘆したように頷く。
「昼間とは、まるで別の場所みたいです」
二人は村人たちの後方に立っていた。
今夜は、月神竜セレーネを迎える特別な夜。
村の誰もが、静かな緊張と期待を抱いていた。
やがて。
村長が祭壇の前へ進み出た。
「……皆の者」
穏やかだが、よく通る声が響く。
「今宵も、月が満ちた」
村人たちが静かに頭を垂れる。
「我らが村を見守りし、偉大なる月神竜様へ」
村長は、ゆっくりと両手を広げた。
「感謝と敬意を込め、今宵の供物を捧げ奉る」
その言葉を合図に、村人たちが一斉に膝をついた。
広場に、静寂が訪れる。
風の音さえ、遠く感じられた。
イリスは、祭壇を見つめていた。
胸の奥で、鼓動が少しずつ速くなる。
――本当に、来るのでしょうか。
その時だった。
「……?」
イリスの金色の瞳が、微かな変化を捉えた。
祭壇の上。
何もない空間に、小さな魔力の光が現れたのだ。
一つ。
二つ。
そして、無数に。
それらは、夜空に浮かぶ星のように輝いていた。
「……メイビスさん」
イリスが小さく声をかける。
「はい」
メイビスも、すでに気づいていた。
「……空間が、揺らいでいますね」
「ええ」
イリスは頷いた。
金色の瞳には、普段とは異なる魔力の流れが見えていた。
魔力が一点へ集まっているのではない。
まるで、そこにある空間そのものが、別の場所へ繋がろうとしているようだった。
「……すごい」
メイビスが、思わず呟いた。
「こんな術式……見たことがありません」
その声には、驚きと興味が入り混じっていた。
だが、二人が言葉を交わしている間にも、変化は進んでいく。
祭壇を照らす月光が、次第に強くなった。
白銀の光が石柱を包み込む。
白い花々が、風もないのに揺れ始めた。
そして。
――リン。
どこからともなく、鈴のような音が響いた。
それは一度きりではなかった。
――リン……リン……。
澄んだ音色が、夜の静寂へ溶けていく。
村人たちは、さらに深く頭を下げた。
「……月神竜様じゃ」
村長が、震える声で呟いた。
「お越しになられる……!」
イリスは、静かに息を吸った。
聖剣へ手を伸ばすことはしなかった。
敵意は感じない。
ただ。
これまで出会った多くの魔導士たちとは、明らかに異なる魔力の気配があった。
それは、途方もなく深く。
そして、奇妙なほど静かだった。
「……イリスさん」
メイビスが、小さく声をかける。
「はい」
二人は顔を見合わせた。
言葉は、それ以上必要なかった。
ついに。
その時が来たのだ。
――――――――――
第四幕 月神竜セレーネ
祭壇の上に、白銀の光が降り注いだ。
まるで、満月から一本の光の道が伸びてきたかのようだった。
その光の中心。
何もなかったはずの空間が、静かに揺らぐ。
水面に波紋が広がるように。
薄い硝子が、ゆっくりと形を変えるように。
空間が歪み。
そして。
そこから、一人の女性が姿を現した。
月光を思わせる美しい髪。
優雅に揺れる、華やかな和装。
人間離れした美貌。
その立ち姿には、何の力みもなかった。
ただ、そこにいる。
それだけで、祭壇の周囲の空気が変わったように感じられた。
女性は、ゆっくりと夜空を見上げた。
「……ふむ」
そして、満足そうに微笑む。
「今宵も、よい月じゃのう」
澄んだ声が、広場に響いた。
その瞬間。
「月神竜様……!」
村長が深く頭を垂れた。
村人たちも、一斉に声を揃える。
「セレーネ様!」
女性は、そんな人々を見下ろした。
「ふふ……今宵も随分と賑やかじゃな」
楽しそうに笑う。
そして、祭壇に並べられた供物へ視線を向けた。
「ほう。なかなかよい酒を用意したようじゃ」
女性は一本の酒瓶を手に取った。
その仕草は、どこまでも優雅だった。
「毎度のことながら、感心なことよ」
「ありがたきお言葉にございます!」
村長が嬉しそうに答えた。
女性は、小さく笑った。
「そう畏まるでない。今宵は月も美しい。少しは楽しませてもらおうぞ」
その声を聞きながら。
イリスは、静かに目の前の存在を見つめていた。
――月神竜、セレーネ。
五神竜の一角。
異なる世界を渡る力を持つという存在。
六年以上、探し続けてきた帰還への手掛かり。
それが今、目の前にいる。
「……」
イリスは、無意識に左手を握りしめた。
緑色の宝石が、指先で小さく輝く。
その隣では、メイビスが興味深そうにセレーネを観察していた。
しかし。
「……すごいですね」
メイビスが、小さく呟いた。
「はい」
イリスは頷く。
「……想像していた以上です」
セレーネの魔力は、確かに強大だった。
だが、それ以上に不思議なのは、その在り方だった。
まるで、周囲の空間が彼女を中心に形を変えているかのような。
そんな奇妙な感覚。
イリスの金色の瞳にも、その全容は捉えきれなかった。
それでも、イリスは目を逸らさなかった。
相手がどれほど強大な存在であろうと。
自分には、どうしても尋ねたいことがある。
その時。
「……ほう?」
セレーネの声が響いた。
彼女の視線が、ゆっくりと動く。
村人たちを見渡し。
そして。
イリスとメイビスのところで、ぴたりと止まった。
「……ふむ」
セレーネが、興味深そうに目を細めた。
「今宵は、珍しい客がおるようじゃな」
村長が顔を上げる。
「は、はい。月神竜様」
「そこの二人じゃ」
セレーネは、扇を手にしたまま微笑んだ。
「見慣れぬ顔じゃのう」
村長が慌てて説明する。
「旅の魔導士でございます。月神竜様にお会いしたいと、遠方より参られまして……」
「ほう……?」
セレーネの瞳が、楽しそうに細められた。
「わらわに会いに、とな?」
イリスは、静かに一歩前へ出た。
「……はい」
セレーネの視線が、イリスへ向けられる。
その眼差しには、敵意も警戒もなかった。
ただ、何か面白いものを見つけたような。
そんな好奇心が宿っていた。
「初めまして」
イリスは、丁寧に頭を下げた。
「私は、イリス・アストレアと申します」
そして、隣のメイビスも一歩前へ出る。
「メイビス・ヴァーミリオンです!」
セレーネは、二人を交互に見つめた。
「イリスに、メイビス……か」
その名前を、確かめるように口にする。
「ふふ……」
小さな笑みが浮かんだ。
「面白い」
イリスは、静かにセレーネを見つめ返した。
その時だった。
セレーネの視線が、イリスの金色の瞳へ向けられた。
そして、わずかに細められる。
「……ほう」
何かを確かめるように。
セレーネは、しばらくイリスを見つめていた。
やがて。
その唇が、ゆっくりと弧を描く。
「……なるほどのう」
楽しそうな声だった。
「これは、珍しい」
イリスは、僅かに首を傾げた。
「……?」
セレーネは、扇で口元を隠した。
そして。
「お主……」
月光の下。
月神竜の瞳が、妖しく輝いた。
「この世界の者ではあるまい?」
「……っ!」
イリスの目が、大きく見開かれた。
隣のメイビスも、驚いたように息を呑む。
まだ、何も説明していない。
異世界から来たことも。
故郷へ帰りたいという願いも。
それなのに。
目の前の女性は、まるで最初から知っていたかのように。
イリスの秘密を言い当てた。
セレーネは、そんな二人の反応を眺めながら。
実に楽しそうに笑った。
「ふふふ……!」
満月が、夜空に輝いていた。
長い旅の果て。
聖剣使いと妖精は、ついに月神竜と出会った。
だが。
その出会いが、イリスにもたらすものは。
希望か。
それとも、残酷な現実か。
今はまだ、誰にもわからない。
――第56話 完――
【こそこそ妖精話】
~月神竜様のお供え物~
満月の儀式を数日後に控えた、ある日のこと。
村の広場では、イリスとメイビスが供物の準備を手伝っていた。
メイビス「村長さん! 一つ質問してもいいですか?」
村長「うむ。何じゃ?」
メイビス「月神竜様は、どんなお料理がお好きなんですか?」
村長「そうじゃのう……上質な酒と、美味い料理は特にお喜びになる」
メイビス「なるほど……!」
メイビスは真剣な顔で手帳に書き込んだ。
イリス「メイビスさん、何を書いているんですか?」
メイビス「月神竜様の好物一覧です!」
イリス「……好物一覧?」
メイビス「はい! 相手の好みを知ることは、円滑な交渉の第一歩です!」
イリス「ふふっ。確かにそうかもしれませんね」
村長「ほっほっほ。熱心なことじゃ」
メイビス「ちなみに、お菓子はお好きでしょうか?」
村長「甘いものか……。そういえば、以前お出しした菓子は、たいそう気に入っておられたのう」
メイビス「……!」
メイビスの目が輝いた。
メイビス「イリスさん!」
イリス「はい?」
メイビス「お菓子も用意しましょう!」
イリス「いいですね。何を作りましょうか?」
メイビス「ケーキです!」
イリス「……ケーキ?」
メイビス「はい! 私たちが食べても美味しいですし!」
イリス「……私たちも?」
メイビス「もちろんです! 味見は大切ですから!」
イリス「ふふっ。そういうことでしたか」
その後。
二人は村の料理人に協力してもらい、果実を使ったケーキを作った。
そして、完成したケーキを前に。
メイビス「では、味見を……!」
イリス「メイビスさん」
メイビス「はい?」
イリス「それ、三切れ目です」
メイビス「……!」
メイビスは、そっとフォークを置いた。
メイビス「……品質確認は、念入りにするべきです」
イリス「ふふっ。そうですね」
その様子を見ていた村長が、楽しそうに笑った。
村長「ほっほっほ! 月神竜様にも負けぬ食欲じゃのう!」
メイビス「そ、そんなことありませんよ!?」
――後日。
満月の夜。
供物の中に並んでいた果実のケーキを、セレーネが一口食べた。
セレーネ「……ほう。これはなかなか美味いのう」
その言葉を聞いたメイビスは、イリスに小さく耳打ちした。
メイビス「イリスさん! 大成功です!」
イリス「ふふっ。よかったですね」
メイビス「はい! やっぱり味見は大切です!」
イリス「……三切れも?」
メイビス「イリスさんっ!」
――月神竜様のお供え物。
その完成までには、知られざる努力があった。
主に、味見方面で。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
今後とも『妖精と聖剣使い』をよろしくお願いいたします。