妖精と聖剣使い   作:使い手なない

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第57話「異界への道」

 

第一幕 月神竜の慧眼

 

 X693年。

 

 ギルティナ大陸北東部。

 

 山々に囲まれた小さな村の上空には、今宵も美しい満月が輝いていた。

 

 白銀の月光に照らされた祭壇。

 

 その中央に立つ、一人の美しい女性。

 

 月神竜――セレーネ。

 

 五神竜の一角に数えられる存在は、扇で口元を隠しながら、楽しそうに微笑んでいた。

 

「お主……この世界の者ではあるまい?」

 

「……っ!」

 

 イリス・アストレアは、思わず息を呑んだ。

 

 隣に立つメイビス・ヴァーミリオンも、驚いたように目を見開いている。

 

 まだ、何も話していない。

 

 自分が異世界から来たことも。

 

 故郷へ帰る方法を探していることも。

 

 それなのに、目の前の女性は、その秘密をあっさりと言い当ててしまった。

 

「……どうして、それを?」

 

 イリスが尋ねると、セレーネは小さく笑った。

 

「ふふ……やはりそうか」

 

 その瞳が、興味深そうにイリスを見つめる。

 

「お主の纏う魔力が、少々変わっておるのでな」

 

「魔力……ですか?」

 

「うむ」

 

 セレーネは扇を閉じた。

 

「魔力というものは、世界によってその在り方が異なることがある。お主の魔力には、この世界の者とは違う気配が混じっておる」

 

「……!」

 

 イリスは無意識に、自分の胸元へ手を当てた。

 

 そんなことを指摘されたのは、初めてだった。

 

「もっとも、それだけで断定できるものではないがのう」

 

 セレーネは愉快そうに笑う。

 

「わらわも幾つかの異界を見てきた身じゃ。少しばかり、見覚えのある気配だったというだけのことよ」

 

 そして、イリスの金色の瞳へ視線を向けた。

 

「それに、その眼も面白い」

 

「……私の、眼ですか?」

 

「ふむ。随分と珍しいものを持っておるようじゃな」

 

 イリスは少し戸惑った。

 

 自分の金色の瞳が、魔力の流れを視認できること。

 

 それは確かに、この世界でも珍しい能力だった。

 

 しかし、セレーネはそれ以上追及しなかった。

 

「さて」

 

 彼女は、ゆっくりと祭壇の縁へ腰を下ろした。

 

「わらわに会うため、わざわざこんな山奥まで来たのであろう?」

 

 扇を広げる。

 

「何用じゃ?」

 

 イリスは、静かに息を吸った。

 

 胸の奥で、鼓動が速くなる。

 

 ようやく。

 

 ようやく、ここまで来た。

 

「……セレーネ様」

 

「うむ?」

 

「私は、六年以上前に、別の世界からこちらへ来ました」

 

 セレーネは黙って耳を傾けている。

 

「どうして転移してしまったのか、今でもわかりません。気がついた時には、この世界の天狼島という場所にいたんです」

 

「ほう……」

 

「それから、ずっと帰る方法を探してきました」

 

 イリスは、左手をそっと握りしめた。

 

 緑色の宝石が、月光を受けて小さく輝く。

 

「この世界で、たくさんの方々と出会いました。大切な友人も、仲間もできました」

 

 隣のメイビスが、静かにイリスを見つめる。

 

「それでも……」

 

 イリスは顔を上げた。

 

「故郷のことを、忘れた日はありません」

 

 セレーネの瞳を、まっすぐに見つめる。

 

「どうか、教えていただけませんか?」

 

 その声には、僅かな震えがあった。

 

「私は……元の世界へ帰ることができるのでしょうか?」

 

 祭壇に、静寂が訪れた。

 

 村人たちも、息を潜めている。

 

 セレーネはしばらくイリスを眺めていた。

 

 やがて。

 

「……ふむ」

 

 ゆっくりと、扇を閉じる。

 

「なるほどのう」

 

 その唇に、薄い笑みが浮かんだ。

 

「わらわの力を頼ってきた、というわけか」

 

「……はい」

 

「ふふ……面白い」

 

 セレーネは、満月を見上げた。

 

「よかろう」

 

 そして、再びイリスへ視線を戻す。

 

「少しばかり、話してやろうではないか」

 

 イリスの胸に、小さな希望が灯った。

 

――――――――――

 

第二幕 世界を渡る者

 

「まず、一つ教えておこう」

 

 セレーネは、ゆっくりと立ち上がった。

 

「異なる世界へ渡ることは、不可能ではない」

 

「……!」

 

 イリスの瞳が、大きく見開かれた。

 

「本当……ですか?」

 

「うむ」

 

 セレーネは当然のように頷いた。

 

「わらわは月神竜。世界と世界の狭間に干渉し、異界への道を開く力を持っておる」

 

 そう言って、片手を持ち上げた。

 

 すると。

 

 ――リン。

 

 澄んだ鈴の音が響いた。

 

 セレーネの指先に、白銀の光が集まる。

 

 その光が、空中で小さな輪を描いた。

 

「……!」

 

 メイビスが息を呑む。

 

 輪の内側。

 

 そこには、祭壇の向こう側とは異なる景色が映っていた。

 

 見たこともない森。

 

 紫色の空。

 

 空中を漂う、奇妙な光の粒子。

 

「……これは」

 

 イリスが呟く。

 

「異界の一つじゃ」

 

 セレーネは何でもないことのように答えた。

 

「わらわの知る場所へ、ほんの少し道を繋いでおる」

 

 メイビスが一歩前へ出た。

 

「……すごいです!」

 

 その声には、純粋な驚きがあった。

 

「空間を歪めているだけではありませんね……!」

 

「ほう?」

 

 セレーネが興味深そうに目を細める。

 

「わかるのか?」

 

「少しだけです!」

 

 メイビスは真剣な表情で答えた。

 

「私も空間魔法を研究しているんです。でも、これは私の知っている空間転移とは根本的に違います」

 

 彼女は光の輪を見つめた。

 

「単に離れた場所を繋いでいるのではなく……別々の空間の境界そのものに干渉しているような……」

 

「ふふ……なかなか聡い娘じゃな」

 

 セレーネは楽しそうに笑った。

 

「その歳でそこまで気づくとは、面白い」

 

「ありがとうございます!」

 

 メイビスは嬉しそうに答えた。

 

 しかし、すぐに真剣な表情へ戻る。

 

「では、セレーネ様」

 

「何じゃ?」

 

「その力を使えば、イリスさんの故郷にも行けるのでしょうか?」

 

 その問いに。

 

 セレーネは、すぐには答えなかった。

 

 ただ、指先を軽く動かす。

 

 白銀の輪が、静かに消えた。

 

「……それが、そう簡単にはいかぬのじゃよ」

 

「……え?」

 

 イリスの胸が、小さく跳ねた。

 

 セレーネは、ゆっくりと歩き始めた。

 

「異界へ渡る力を持つことと、望む異界へ自由に行けることは、同じではない」

 

「……」

 

「わらわにも、行き先を知らぬ世界は数多くある」

 

 セレーネは夜空へ視線を向けた。

 

「世界というものは、お主たちが考えておるより、遥かに広大じゃ」

 

 満月の周囲には、無数の星が瞬いている。

 

「一つの空に、数え切れぬ星があるように」

 

 セレーネは、扇をゆっくりと広げた。

 

「異界もまた、数え切れぬほど存在しておる」

 

 イリスは、黙って耳を傾けていた。

 

「わらわが渡れるのは、存在を知り、その位置を捉えられる世界じゃ」

 

「……位置?」

 

「世界の座標、とでも呼べばよいかのう」

 

 メイビスが小さく頷く。

 

「なるほど……」

 

 そして、すぐに尋ねた。

 

「では、その座標を調べる方法はあるんですか?」

 

「無論、皆無ではない」

 

 セレーネは微笑んだ。

 

「じゃが、容易なことではないぞ?」

 

 その声が、少しだけ低くなった。

 

「ましてや、何の手掛かりもない世界となればな」

 

 イリスは、唇を結んだ。

 

 胸の奥に灯った希望が、僅かに揺らいだ。

 

――――――――――

 

第三幕 遥かなる故郷

 

「……では」

 

 イリスは、静かに口を開いた。

 

「私の故郷を見つけることができれば、帰れるのでしょうか?」

 

 セレーネは、イリスを見つめた。

 

「ふむ……」

 

 その表情から、先ほどまでの楽しげな笑みが少し薄れる。

 

「お主は、どのようにしてこの世界へ来たのじゃ?」

 

「……わかりません」

 

 イリスは首を横に振った。

 

「気がついた時には、天狼島にいました。転移する直前のことも、はっきりとは覚えていないんです」

 

「ほう……」

 

 セレーネは考え込むように目を細めた。

 

「自ら術を行使したわけではない、と」

 

「はい」

 

「何者かに召喚された覚えもないのじゃな?」

 

「……ありません」

 

「ふむ」

 

 セレーネは、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「ならば、偶発的に世界の境界を越えた可能性があるのう」

 

「……偶発的に?」

 

「うむ」

 

 セレーネは夜空を見上げた。

 

「世界と世界は、常に同じ距離にあるわけではない。時として、その境界が不安定になることもある」

 

 メイビスが、真剣な表情で耳を傾ける。

 

「つまり……偶然、二つの世界が繋がることがあるんですか?」

 

「そういうことじゃ」

 

 セレーネは頷いた。

 

「もっとも、そう頻繁に起こるものではないがのう」

 

 イリスは、胸の前で手を握りしめた。

 

「……それなら」

 

 声が、僅かに弾む。

 

「もう一度、その現象を起こすことはできないのでしょうか?」

 

 セレーネは、ゆっくりとイリスへ視線を戻した。

 

「……お主」

 

「はい」

 

「世界の境界というものを、随分と軽く考えておるようじゃな」

 

「……っ」

 

 その声に、怒りはなかった。

 

 ただ、静かな事実を告げる響きがあった。

 

「わらわが異界へ渡れるのは、その力を持つからじゃ。じゃが、あらゆる世界の境界を、好き勝手に開けるわけではない」

 

 セレーネは扇を閉じた。

 

「中には、外からの干渉をほとんど受け付けぬ世界もある」

 

「……」

 

「そうした世界へ渡るには、境界が緩む瞬間を待つか、それに匹敵する特殊な条件を満たさねばならぬ」

 

 メイビスが尋ねた。

 

「イリスさんの故郷も、そういう世界なのでしょうか?」

 

「さてのう」

 

 セレーネは肩をすくめた。

 

「それは、実際に調べてみねばわからぬ」

 

「……調べることは、できますか?」

 

 イリスが尋ねる。

 

 セレーネは、少しだけ笑った。

 

「お主の魔力を手掛かりに、異界の痕跡を探ることはできよう」

 

「……!」

 

「じゃが、それで必ず故郷を見つけられるとは限らぬ」

 

 イリスは、息を呑んだ。

 

「……それでも」

 

 思わず、一歩前へ出る。

 

「お願いします。どうか、調べていただけませんか?」

 

 深く頭を下げた。

 

「私にできることなら、何でもします」

 

 セレーネは、しばらくイリスを見つめていた。

 

 やがて。

 

「……ふふ」

 

 小さく笑う。

 

「よかろう。少しばかり、興が乗った」

 

 その言葉とともに、セレーネの周囲に白銀の光が浮かび上がった。

 

「ただし、期待しすぎるでないぞ?」

 

「……はい」

 

 イリスは顔を上げた。

 

 セレーネが片手を伸ばす。

 

「少し、魔力を見せてみよ」

 

 イリスは頷き、掌に小さな光を灯した。

 

 淡い黄金の魔力。

 

 その光が、セレーネの白銀の魔力と触れ合う。

 

 次の瞬間。

 

 ――リン。

 

 鈴の音が響いた。

 

 セレーネの周囲に、幾重もの光の輪が現れる。

 

 それぞれが、異なる方向へ伸びていく。

 

 まるで、夜空に無数の道が描かれているようだった。

 

「……!」

 

 メイビスが目を見開く。

 

「こんなに……!」

 

 イリスの金色の瞳にも、膨大な魔力の流れが映っていた。

 

 無数の光。

 

 無数の道。

 

 その一つ一つが、異なる世界へ繋がっているのだろうか。

 

 セレーネは、静かに目を閉じていた。

 

 やがて。

 

「……ふむ」

 

 その眉が、僅かに動いた。

 

「なるほどのう」

 

 イリスの胸が高鳴る。

 

「……何かわかったのですか?」

 

 セレーネは目を開いた。

 

 そして、静かに告げた。

 

「お主の魔力に、この世界とは異なる性質が残っておることは確かじゃ」

 

「……!」

 

「じゃが、その繋がりはあまりにも薄い」

 

 白銀の光の輪が、一つ、また一つと消えていく。

 

「これだけでは、故郷の座標を特定することはできぬ」

 

「……そう、ですか」

 

 イリスは、小さく俯いた。

 

 しかし、まだ諦めなかった。

 

「では、もっと強い魔力を使えば……」

 

「魔力の大小の問題ではない」

 

 セレーネは、静かに首を横に振った。

 

「道を知らぬまま、いくら力を注いだところで、辿り着く先はわからぬ」

 

「……」

 

「それに」

 

 セレーネは、満月を見上げた。

 

「仮に故郷の座標を見つけたとしても、その世界へ渡れるとは限らぬ」

 

 イリスの指先が、僅かに震えた。

 

「……どういう、ことでしょうか」

 

「先ほども言うたであろう?」

 

 セレーネは淡々と続けた。

 

「世界によっては、境界が固く閉ざされておる。そうした世界へは、わらわの力をもってしても、容易には渡れぬ」

 

「……」

 

「もし、お主の故郷がそのような世界であれば……」

 

 そこで、セレーネは一度言葉を切った。

 

 そして。

 

「境界が開く時を、待つしかないやもしれぬ」

 

 イリスは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……それは」

 

 喉が、ひどく乾いていた。

 

「……いつに、なるのでしょうか?」

 

 セレーネは、少し考えるような仕草を見せた。

 

 そして、何でもないことのように答えた。

 

「さてのう」

 

 扇が、ゆっくりと開かれる。

 

「明日かもしれぬ」

 

 イリスの胸が、僅かに高鳴る。

 

「百年先かもしれぬ」

 

 その鼓動が、止まりそうになる。

 

「千年先かもしれぬ」

 

「……」

 

「あるいは……」

 

 セレーネは、静かに微笑んだ。

 

「二度と、その時が訪れぬかもしれぬな」

 

 ――その瞬間。

 

 イリスの中で、何かが音を立てて崩れた。

 

 ◇

 

「……そんな」

 

 声が、震えた。

 

 イリスは、呆然とセレーネを見つめていた。

 

 六年以上。

 

 ずっと、探してきた。

 

 この世界の魔法を調べ。

 

 各地を旅し。

 

 数え切れないほどの書物を読み。

 

 手掛かりを求めて、海を越えた。

 

 そして、ようやく。

 

 異世界へ渡る力を持つ存在に、出会えたのだ。

 

 その相手が、目の前にいる。

 

 なのに。

 

「……他に」

 

 イリスは、かすれた声で尋ねた。

 

「他に、方法はないのでしょうか?」

 

 セレーネは、静かにイリスを見つめる。

 

「……」

 

「例えば、魔法を研究して……もっと強い力を手に入れれば……」

 

 言葉が、途切れる。

 

「私の聖剣なら……世界の境界を……」

 

「やめておくがよい」

 

 セレーネの声が、静かに響いた。

 

「お主の剣がどれほど鋭かろうと、行き先のわからぬ道を斬り開いたところで、故郷へ辿り着けるわけではない」

 

「……っ」

 

「力で解決できぬこともあるのじゃ」

 

 イリスは、唇を噛んだ。

 

 その隣で、メイビスが口を開いた。

 

「……セレーネ様」

 

「何じゃ?」

 

「もし、イリスさんの故郷に関する情報を集め続けたら……いつか、座標を特定できる可能性はありますか?」

 

 セレーネは、メイビスへ視線を向けた。

 

「ふむ」

 

 少しだけ、興味深そうに笑う。

 

「可能性はあるじゃろうな」

 

「……!」

 

「ただし、どれほどの年月が必要になるかはわからぬ」

 

「……そう、ですか」

 

 メイビスは、静かに頷いた。

 

 そして、もう一つ尋ねた。

 

「もし、座標がわかって、境界も開いたとして……」

 

「うむ?」

 

「一度向こうへ渡った後、こちらへ戻ってくることはできるのでしょうか?」

 

 その問いに、セレーネは小さく笑った。

 

「ふふ……随分と先のことまで考える娘じゃな」

 

「……大切なことですから」

 

 メイビスは、真剣な表情で答えた。

 

 セレーネは、そんな彼女をしばらく眺めていた。

 

 そして。

 

「……容易ではあるまいな」

 

 静かに告げた。

 

「行きと帰りで、同じ道が開いておるとは限らぬ」

 

「……」

 

「一度渡れば、再びこちらへ戻れる保証はない」

 

 メイビスの表情が、僅かに曇った。

 

 イリスも、顔を上げる。

 

 故郷へ帰る。

 

 それは、ずっと願ってきたことだった。

 

 けれど。

 

 もし、本当に帰れたとして。

 

 もう二度と、この世界へ戻れないのだとしたら。

 

 妖精の尻尾の仲間たちには。

 

 ユーリさんには。

 

 プレヒトさんには。

 

 ウォーロッドさんには。

 

 そして。

 

 ――メイビスさんには。

 

「……」

 

 イリスは、何も言えなかった。

 

 その沈黙を見つめながら。

 

 セレーネは、静かに扇を閉じた。

 

「……わらわが知るのは、ここまでじゃ」

 

 そして、淡々と続ける。

 

「帰れぬとは言うておらぬ」

 

 その言葉に、イリスが顔を上げる。

 

「じゃが……」

 

 セレーネは、満月を背にして微笑んだ。

 

「お主が生きておる間に、その機会が訪れるとは限らぬぞ?」

 

 イリスは、立ち尽くした。

 

 何も、答えられなかった。

 

――――――――――

 

終幕 零れ落ちる涙

 

 満月の儀式が終わる頃には、夜も随分と更けていた。

 

 セレーネは、最後まで悠然としていた。

 

 村人たちが用意した酒を楽しみ、料理を味わい、何事もなかったかのように笑っていた。

 

 そして、帰り際。

 

「ふふ……イリスと申したな」

 

「……はい」

 

「なかなか面白い娘じゃった」

 

 セレーネは、扇で口元を隠した。

 

「また縁があれば、会うこともあろう」

 

「……ありがとうございました」

 

 イリスは、深く頭を下げた。

 

 セレーネは小さく笑う。

 

「礼を言われるほどのことはしておらぬよ」

 

 そして。

 

 白銀の光が、再び祭壇を包み込んだ。

 

 空間が静かに揺らぎ。

 

 月神竜の姿は、夜の向こうへ消えていった。

 

 残されたのは、満月の光だけだった。

 

 ◇

 

 村の外れ。

 

 山々を見渡せる小さな丘に、イリスは立っていた。

 

 夜風が、黒髪を静かに揺らしている。

 

 遠くでは、村の灯火が小さく瞬いていた。

 

「……」

 

 イリスは、何も言わずに月を見上げていた。

 

 あれほど美しく感じられた満月が。

 

 今は、ひどく遠く見えた。

 

 ――帰れぬとは言うておらぬ。

 

 セレーネの言葉が、頭の中で繰り返される。

 

 ――お主が生きておる間に、その機会が訪れるとは限らぬぞ?

 

「……」

 

 イリスは、ゆっくりと目を閉じた。

 

 故郷の景色が、浮かんでくる。

 

 魔法学院の校舎。

 

 慣れ親しんだ街並み。

 

 冒険者として歩いた道。

 

 見上げた空。

 

 何気ない日常。

 

 いつか、また帰れると思っていた。

 

 どれほど遠く離れていても。

 

 どれほど時間がかかっても。

 

 努力を続けていれば、きっと。

 

 そう信じていた。

 

「……どうして」

 

 小さな声が漏れた。

 

「どうして……」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

 

 この世界へ来てしまったことを、恨んでいるわけではない。

 

 妖精の尻尾に出会えたことを、後悔しているわけでもない。

 

 メイビスと過ごした日々は、何よりも大切な宝物だった。

 

 それでも。

 

 故郷が恋しかった。

 

 帰りたかった。

 

 もう一度、あの場所を歩きたかった。

 

「……っ」

 

 イリスは、唇を噛んだ。

 

 視界が、滲む。

 

 慌てて目元を拭う。

 

 けれど。

 

 一度溢れた涙は、止まらなかった。

 

「……私」

 

 震える声が、夜風に消えていく。

 

「……ずっと、頑張ってきたのに……」

 

 六年以上。

 

 決して短くはない時間。

 

 それでも、まだ足りないというのだろうか。

 

 百年。

 

 千年。

 

 そんな途方もない年月を、待たなければならないのだろうか。

 

 それとも。

 

 何年待っても、帰れないのだろうか。

 

「……帰りたい」

 

 小さな声だった。

 

「……帰りたい、です……」

 

 涙が、頬を伝った。

 

 イリスは、両手で顔を覆った。

 

 誰にも見られたくなかった。

 

 こんな姿を。

 

 こんな、弱い自分を。

 

 けれど。

 

「……イリスさん」

 

 背後から、聞き慣れた声がした。

 

 イリスは、びくりと肩を震わせた。

 

「……メイビス、さん……?」

 

 振り返る。

 

 そこには、メイビスが立っていた。

 

 いつもの明るい笑顔ではなかった。

 

 ただ、静かに。

 

 イリスを見つめていた。

 

「……探しました」

 

 メイビスは、そっと左手を持ち上げた。

 

 青い宝石の指輪が、月光を受けて輝いている。

 

「……これがあって、よかったです」

 

 イリスは、何かを言おうとした。

 

 けれど、声にならなかった。

 

「……すみません」

 

 ようやく出た言葉は、それだった。

 

「……こんな、姿を……」

 

 イリスは、慌てて涙を拭おうとした。

 

 しかし。

 

「……謝らないでください」

 

 メイビスの声が、静かに響いた。

 

「……」

 

「イリスさんが、どれだけ故郷へ帰りたかったのか……私は、知っています」

 

 メイビスは、ゆっくりと近づいた。

 

「ずっと、一緒に探してきましたから」

 

「……っ」

 

「だから……」

 

 メイビスは、イリスの前で足を止めた。

 

「今は、無理に笑わなくていいんですよ」

 

 その言葉に。

 

 イリスの表情が、くしゃりと歪んだ。

 

「……メイビスさん……」

 

「はい」

 

「……私、どうしたら……」

 

 声が震える。

 

「どうしたら、いいんでしょうか……」

 

 メイビスは、すぐには答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 彼女にも、わからなかったからだ。

 

 どうすれば、イリスを故郷へ帰してあげられるのか。

 

 どうすれば、その悲しみを消してあげられるのか。

 

 どれほど頭を働かせても。

 

 今、この瞬間に答えを出すことはできなかった。

 

 だから。

 

 メイビスは、そっと両手を伸ばした。

 

 そして。

 

 イリスを、優しく抱きしめた。

 

「……っ!」

 

 イリスの身体が、僅かに震えた。

 

「……メイビス、さん……?」

 

「……覚えていますか?」

 

 メイビスが、静かに尋ねる。

 

「満月の三日前に、ここでお話ししたこと」

 

「……」

 

「私、言いましたよね」

 

 メイビスは、イリスを抱きしめたまま続けた。

 

「一人で全部抱え込まないでくださいね、って」

 

「……っ」

 

「……今も、同じ気持ちです」

 

 その声は、優しかった。

 

「私には、イリスさんを必ず故郷へ帰してあげられるなんて、言えません」

 

「……」

 

「でも……」

 

 メイビスは、少しだけ腕に力を込めた。

 

「一緒に考えることはできます」

 

 イリスの瞳から、また涙が溢れた。

 

「イリスさんが悲しい時には、そばにいます」

 

「……っ」

 

「どうしていいかわからない時には、一緒に悩みます」

 

 メイビスは、静かに続けた。

 

「だから……」

 

 その声が、ほんの少しだけ震えた。

 

「一人で、泣かないでください」

 

 イリスは、何も言えなかった。

 

 ただ。

 

 ゆっくりと、メイビスの背中へ腕を回した。

 

「……っ、う……」

 

 堪えていた声が、漏れた。

 

「……私……」

 

「……はい」

 

「……帰りたかった、です……」

 

「……はい」

 

「……ずっと……帰れるって……」

 

 言葉が、途切れる。

 

「……信じて、いたんです……」

 

 メイビスは、何も否定しなかった。

 

 ただ、イリスを抱きしめていた。

 

「……はい」

 

 静かな声が、夜に溶けていく。

 

「……知っています」

 

 イリスは、メイビスの肩に顔を埋めた。

 

 そして。

 

 声を上げて、泣いた。

 

 六年以上。

 

 誰にも見せなかった弱さを。

 

 胸の奥に押し込めてきた不安を。

 

 もう二度と故郷へ帰れないかもしれないという恐怖を。

 

 すべて、涙に変えて。

 

 メイビスは、ただ抱きしめ続けた。

 

 慰めの言葉を探すこともなく。

 

 無理に励ますこともなく。

 

 今は、それでよかった。

 

 ◇

 

 どれほどの時間が過ぎただろう。

 

 夜風が、二人の髪を静かに揺らしていた。

 

 イリスの涙は、ようやく落ち着き始めていた。

 

「……すみません」

 

 小さな声がした。

 

「……服、濡らしてしまいました」

 

 メイビスは、少しだけ身体を離した。

 

 そして、優しく微笑んだ。

 

「ふふっ。気にしないでください」

 

「……でも」

 

「それより、少し落ち着きましたか?」

 

 イリスは、ゆっくりと頷いた。

 

「……はい」

 

 目元は赤くなっていた。

 

 それでも、先ほどよりは穏やかな表情だった。

 

「……ありがとうございます、メイビスさん」

 

「どういたしまして!」

 

 メイビスは、いつものように明るく答えた。

 

 けれど、すぐに少しだけ真剣な表情になる。

 

「……イリスさん」

 

「はい」

 

「今日、答えを出さなくてもいいと思うんです」

 

「……」

 

「故郷へ帰る方法も、これからどうするかも」

 

 メイビスは、イリスの左手をそっと取った。

 

 緑色の宝石が、月光を受けて輝いている。

 

「まだ、何も終わっていませんから」

 

「……はい」

 

「だから、今は……」

 

 メイビスは、優しく微笑んだ。

 

「少し、休みましょう?」

 

 イリスは、しばらくその顔を見つめていた。

 

 そして。

 

「……そう、ですね」

 

 小さく頷いた。

 

「……少しだけ、疲れてしまいました」

 

「ふふっ。そうでしょうね」

 

 メイビスは、イリスの手を握った。

 

「では、帰りましょう!」

 

「……はい」

 

 二人は、ゆっくりと歩き始めた。

 

 村へ続く、小さな山道。

 

 その先には、温かな灯火が見えている。

 

 イリスは、もう一度だけ夜空を見上げた。

 

 満月は、変わらず美しかった。

 

 けれど。

 

 今はまだ、その光をまっすぐに見つめることができなかった。

 

 それでも。

 

 隣には、メイビスがいる。

 

 繋いだ手の温もりが、確かにそこにあった。

 

 故郷への道は、あまりにも遠い。

 

 その道が、本当に存在するのかさえわからない。

 

 けれど。

 

 今夜、自分を一人にしなかった人がいる。

 

 そのことだけは、確かだった。

 

 イリスは、そっと手を握り返した。

 

 メイビスも、何も言わずに握り返す。

 

 二人の指には、青と緑の宝石。

 

 月光の下で、小さな輝きが寄り添っていた。

 

 長い旅の果てに、聖剣使いが見つけたもの。

 

 それは、故郷へ帰るための答えではなかった。

 

 けれど。

 

 失いたくないほど大切な、もう一つの居場所が。

 

 確かに、ここにあった。

 

 ――第57話 完――

 

 




【こそこそ妖精話】
~月神竜の興味~

 ――ギルティナ大陸、とある山奥。

 満月の夜。

 村を離れたセレーネは、月光に照らされた岩の上で、静かに酒杯を傾けていた。

セレーネ「ふむ……なかなか面白い夜じゃったのう」

 思い浮かべるのは、祭壇で出会った二人の少女。

 一人は、異界から迷い込んだ聖剣使い。

 もう一人は、空間魔法を研究する小さな魔導士。

セレーネ「特に、あの黒髪の娘……」

 セレーネは、扇で口元を隠した。

セレーネ「異界の気配を纏うだけでも珍しいというのに、あの眼に、あの剣……」

 イリスの金色の瞳。

 そして、腰に佩いていた美しい聖剣。

 いずれも、ただの魔導士が持つものとは思えなかった。

セレーネ「ふふ……わらわの鱗を、あの剣で斬れるかのう?」

 楽しげな笑みが浮かぶ。

 しかし、すぐに肩をすくめた。

セレーネ「……まあ、今すぐ試すほど野暮ではないがな」

 酒杯を傾ける。

 そして、もう一人の少女を思い出した。

セレーネ「それに、あの金髪の娘も面白い」

 異界への道を、ほんの一瞬見せただけ。

 それなのに、空間の境界へ干渉していることを見抜いた。

セレーネ「まだ幼いというのに、なかなか鋭い目をしておった」

 セレーネは、夜空を見上げる。

セレーネ「……何より」

 その口元に、薄い笑みが浮かんだ。

セレーネ「あの二人、随分と互いを大切にしておるようじゃな」

 故郷へ帰る方法を尋ねるイリス。

 その隣で、必死に可能性を探していたメイビス。

 そして、最後に尋ねた問い。

 ――一度向こうへ渡った後、こちらへ戻ってくることはできるのでしょうか?

セレーネ「ふふ……あの問いが、なかなか興味深かった」

 セレーネは、小さく笑った。

セレーネ「帰る方法だけでなく、帰ってくる方法まで考えるとはのう」

 酒杯を置く。

 白銀の月光が、彼女の髪を照らした。

セレーネ「……さて」

 セレーネは、ゆっくりと立ち上がった。

セレーネ「あの娘たちが、これからどのような道を選ぶのか……」

 扇を広げる。

セレーネ「少しばかり、楽しみじゃな」

 そして、空間が静かに揺らいだ。

 姿が消える、その直前。

セレーネ「……おっと」

 ふと、何かを思い出したように足を止める。

セレーネ「そういえば、あの村の酒……なかなか美味かったのう」

 しばし考え込み。

セレーネ「……来月も、顔を出すとするか」

 月神竜の興味は、どうやら少女たちだけに向けられているわけではなかった。



ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。

今後とも『妖精と聖剣使い』をよろしくお願いいたします。

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