第一幕 新しい命
X696年。
フィオーレ王国、マグノリア。
春の柔らかな陽光が街を包み、石畳の通りには穏やかな風が吹いていた。
妖精の尻尾が誕生してから、十年。
かつて五人で始まった小さなギルドは、今では多くの魔導士が集う賑やかな場所となっていた。
そして、そのギルドには今、一つの大きな喜びが訪れようとしていた。
「ユーリ! いい加減、落ち着いたらどうだ!」
ギルドの一角に、プレヒトの呆れた声が響く。
「落ち着いてられるかよ! もうすぐなんだぞ!?」
ユーリ・ドレアーは、先ほどから同じ場所を行ったり来たりしていた。
その様子を見て、ウォーロッドが苦笑する。
「ユーリ。君がそんなに歩き回っても、赤ちゃんが早く生まれるわけじゃないよ」
「わかってる! わかってるけどよ!」
「だったら座れ」
「座ってられるか!」
「……まったく」
プレヒトが深いため息をつく。
そんな三人の様子を、メイビスは楽しそうに眺めていた。
「ふふっ。ユーリさん、すっかりお父さんですね!」
「まだ生まれてねえよ!」
「でも、もう立派なお父さんですよ?」
「そ、そうか……?」
ユーリが照れくさそうに頭をかく。
そこへ、ゆっくりとした足取りでリタが姿を現した。
「もう、ユーリったら。そんなに騒いでいたら、赤ちゃんもびっくりしちゃうわよ?」
「リタ! 歩いて大丈夫なのか!?」
「大丈夫よ。少し動いた方が気分もいいもの」
「いや、でもよ! 何かあったら――」
「ユーリ」
「お、おう」
「心配してくれるのは嬉しいけど、少し落ち着いて?」
リタが優しく微笑む。
その髪には、以前ユーリが贈った花の髪留めが飾られていた。
「……悪い」
「ふふっ。謝らなくてもいいのよ」
リタはそっと大きくなったお腹に手を添える。
「この子も、きっとお父さんに会えるのを楽しみにしているわ」
「……そうだといいな」
ユーリも、その手を重ねた。
その様子を見ていたメイビスが、嬉しそうに笑う。
「素敵ですね……!」
「そうだね」
ウォーロッドも穏やかに頷いた。
プレヒトは腕を組んだまま、静かに二人を見守っていた。
その日、イリスは少し離れた町での依頼に出ていた。
出発前にはリタの体調を気遣い、無理をしないようにと何度も声をかけていたという。
「イリスさんにも、早く赤ちゃんを見せたいですね!」
メイビスが言う。
「ええ。きっと喜んでくれるわ」
リタは幸せそうに微笑んだ。
その時だった。
「……あら?」
リタが小さく声を漏らす。
「リタ?」
ユーリが顔を覗き込む。
リタはお腹に手を添え、少し驚いたように瞬きをした。
「……もしかしたら、そろそろかもしれないわ」
「…………」
ユーリの動きが止まった。
そして。
「な、な、な、何ぃぃぃぃっ!?」
ギルド中に、盛大な叫び声が響き渡った。
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第二幕 落ち着かない父親
それから、数時間後。
リタは自宅の寝室で、出産の時を迎えていた。
経験豊富な産婆が付き添い、セヴェルも万が一に備えて待機している。
その部屋の外では。
「…………」
ユーリが立っていた。
いや、正確には。
「ユーリ。少しはじっとしていられないのか?」
「無理だ!」
また歩き回っていた。
「さっきから何往復してると思ってるんだい?」
ウォーロッドが尋ねる。
「知らねえ!」
「僕はもう数えるのを諦めたよ」
「そんなことより、リタは大丈夫なのか!?」
「産婆さんもいるし、セヴェルもついている。今は待つしかない」
プレヒトが答える。
しかし、ユーリの表情は晴れなかった。
「……あいつ、痛い思いしてんだよな」
ぽつりと漏れた言葉に、プレヒトが顔を上げる。
「俺、何にもしてやれねえんだな……」
いつもの豪快な声ではなかった。
ただ、妻を心配する一人の男の声だった。
プレヒトはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……なら、無事に生まれた後で、できることをすればいい」
「プレヒト……」
「父親になるんだろう?」
ユーリは目を見開いた。
そして、ゆっくりと頷く。
「……ああ」
メイビスも、そっと微笑んだ。
「きっと大丈夫です。リタさんは強い人ですから」
「……そうだな」
ユーリは扉を見つめた。
どれほどの時間が過ぎただろう。
やがて――。
「――おぎゃあっ! おぎゃあっ!」
小さな泣き声が響いた。
「…………え?」
ユーリが顔を上げる。
扉の向こうから、産婆の明るい声が聞こえた。
「元気な男の子ですよ!」
その瞬間。
ユーリの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……生まれた……?」
震える声で呟く。
「俺の……子供が……?」
プレヒトが小さく笑った。
「ああ。聞こえただろう」
ウォーロッドも嬉しそうに頷く。
「おめでとう、ユーリ」
メイビスは両手を胸の前で握りしめていた。
「おめでとうございます……!」
ユーリは何度も頷いた。
そして、顔を覆う。
「……っ、くそ……!」
その肩が震えていた。
「……嬉しいじゃねえかよ……!」
誰も、その涙をからかわなかった。
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第三幕 小さな妖精
「……リタ」
寝室に入ったユーリは、ベッドの上の妻を見つめた。
リタは疲れた様子だったが、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
腕の中には、小さな赤ん坊。
「おかえりなさい、ユーリ」
「……ああ」
「ほら。私たちの赤ちゃんよ」
ユーリは、恐る恐る近づいた。
「……ちっせえな」
「ふふっ。そうね」
「こんなに小さいのか……」
赤ん坊の小さな手が、ゆっくりと動く。
ユーリが指を差し出すと、その指をぎゅっと握りしめた。
「……っ!」
ユーリの目から、また涙がこぼれた。
「リタ……」
「なあに?」
「……ありがとな」
リタは優しく微笑んだ。
「こちらこそ。お父さん」
「……おう」
ユーリは、ぎこちなく赤ん坊を抱き上げた。
「……俺が、お前の父ちゃんだぞ」
小さな命は、何も知らずに眠っている。
「……絶対、守ってやるからな」
その言葉に、リタの瞳が潤んだ。
しばらくして、メイビスたちも部屋へ招かれた。
「わあ……!」
メイビスが目を輝かせる。
「本当に小さいですね!」
「生まれたばかりだからね」
ウォーロッドが笑う。
プレヒトも赤ん坊を覗き込み、珍しく柔らかな表情を浮かべた。
「……ユーリに似て、騒がしくならなければいいが」
「何だと!?」
「ふふっ。きっと元気な子になりますよ!」
メイビスが楽しそうに笑った。
リタはそんな仲間たちを見渡し、微笑む。
「ねえ、メイビスさん」
「はい?」
「この子の名前なんだけど……」
リタはユーリと顔を見合わせた。
「メイビスさんに、考えてもらえないかしら?」
「……私が、ですか?」
メイビスは驚いたように目を丸くする。
「ええ」
ユーリが頷いた。
「俺たちにとって、お前は大切な仲間だからな」
「それに、この子も妖精の尻尾の家族だもの」
リタが優しく続ける。
「だから、お願いできる?」
メイビスはしばらく赤ん坊を見つめた。
小さな手。
穏やかな寝顔。
これから始まる、長い人生。
やがて、メイビスは静かに微笑んだ。
「……マカロフ」
「マカロフ……?」
「はい。マカロフ・ドレアー」
その名前を、ユーリがゆっくりと繰り返す。
「……マカロフ、か」
リタも小さく頷いた。
「素敵な名前ね」
メイビスの顔が明るくなる。
「本当ですか!?」
「もちろんよ」
リタは赤ん坊の頬を優しく撫でた。
「よろしくね、マカロフ」
ユーリも笑った。
「よし! 決まりだ!」
その声に驚いたのか、赤ん坊が小さく泣き出した。
「うおっ!? な、何だ!?」
「ユーリ、声が大きいのよ」
「わ、悪い!」
部屋に笑い声が広がった。
メイビスも、プレヒトも、ウォーロッドも。
誰もが、新しい命の誕生を喜んでいた。
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第四幕 奪われた幸福
それから、少し時間が経った。
産婆がリタの体調を確認し、母子ともに落ち着いていることを告げた。
セヴェルも、ようやく肩の力を抜いた。
「ひとまず、問題はなさそうだ」
「ありがとう、セヴェルさん」
リタが微笑む。
「礼なら、よく頑張った君自身に言うべきだな」
セヴェルはそう答え、産婆とともに部屋を離れた。
プレヒトとウォーロッドも、親子三人を休ませようと席を外していた。
部屋に残ったのは、ユーリとリタ、そしてメイビス。
「メイビスさん」
リタが呼びかける。
「この子、抱いてみる?」
「……いいんですか?」
「もちろん」
メイビスは嬉しそうに頷いた。
ユーリから赤ん坊を受け取ると、そっと腕の中に抱く。
「……わあ」
小さな体。
温かな肌。
規則正しく繰り返される呼吸。
メイビスは、その小さな命を見つめた。
「……こんなに、小さいのに」
赤ん坊が、ゆっくりと手を動かす。
メイビスの指に、小さな指先が触れた。
「……生きているんですね」
その声は、どこか感慨深かった。
かつて天狼島で、一人きりだった少女。
仲間と出会い、ギルドを創り、家族のような絆を知った少女。
その目の前に、今、新しい命がある。
「……すごいです」
メイビスは微笑んだ。
「ユーリさんとリタさんの、大切な赤ちゃん……」
胸の奥に、温かなものが広がっていく。
この子が大きくなったら、どんな子になるのだろう。
きっと、ユーリのように元気で。
リタのように優しくて。
たくさん笑って。
たくさんの人に愛されて。
そして、いつか――。
「……幸せになってくださいね、マカロフ」
メイビスは心から願った。
「ふふっ。可愛いですね」
「でしょう?」
リタが嬉しそうに笑った。
「メイビスさんも、すっかりこの子に夢中ね」
「はい!」
メイビスは元気よく頷く。
「これから大きくなって、どんな子になるのか楽しみです!」
「ははっ! きっと俺に似て強い男になるぜ!」
「それなら、少しは落ち着きのある子に育てないとね」
「おい、リタ!?」
部屋に笑い声が広がる。
メイビスも楽しそうに笑いながら、マカロフをそっとリタに返した。
「ありがとうございます、リタさん」
「こちらこそ。素敵な名前をありがとう」
リタは我が子を愛おしそうに見つめると、隣にいるユーリへと預けた。
「はい、お父さん」
「お、おう!」
ユーリはまだ慣れない手つきで、マカロフを抱き上げる。
「……へへっ」
その顔には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。
メイビスは、そんな三人を見つめていた。
幸せそうな父親。
優しく微笑む母親。
そして、生まれたばかりの小さな命。
なんて素敵な家族なのだろう。
これからも、ずっと。
この幸せが続いてほしい。
心から、そう願った。
――その瞬間。
「……え?」
メイビスの背筋を、冷たいものが走った。
胸の奥で、何かが脈打つ。
ぞっとするほど不気味な感覚。
「……?」
メイビスが自分の胸元に手を当てる。
何だろう。
今のは。
そう思った直後だった。
「……あら?」
リタが小さく声を漏らした。
「リタ?」
ユーリが顔を向ける。
リタは不思議そうに瞬きをしていた。
「……何だか、急に……」
その言葉が、最後だった。
ふっと、リタの身体から力が抜けた。
「……リタ?」
ユーリの表情が変わる。
ベッドの上で、リタが力なく倒れた。
「リタ!?」
ユーリが叫ぶ。
しかし、返事はなかった。
「おい、リタ! どうした!?」
呼びかける。
それでも、リタは目を開けない。
「リタ!!」
その叫びに、廊下から足音が響いた。
「何があった!?」
セヴェルが駆け込んでくる。
状況を確認した瞬間、その表情が険しくなった。
「ユーリ、マカロフを安全な場所へ! リタを診る!」
ユーリは慌ててマカロフを寝かせると、再び妻のもとへ駆け寄った。
セヴェルはすぐさま治癒魔法を発動した。
黒い水がリタの身体を包み込む。
傷があれば塞ぐ。
失われた組織があれば再生する。
命を繋ぎ止めるために、持てる技術を注ぎ込む。
だが。
「……っ!」
セヴェルの眉が険しく寄った。
外傷がない。
出血もない。
治癒すべき損傷が、見当たらない。
それなのに。
生命の反応が、戻らない。
「……どういうことだ……?」
「セヴェル!!」
ユーリが叫んだ。
「頼む! リタを助けてくれ!!」
「……わかっている!」
セヴェルはさらに魔力を注ぎ込んだ。
しかし。
何も、変わらなかった。
やがて、黒い水が静かに消える。
「…………」
「……おい」
ユーリの声が震えた。
「……何で、やめるんだよ」
セヴェルは答えなかった。
「おい……セヴェル……!」
長い沈黙の後。
セヴェルは、絞り出すように告げた。
「……すまない」
「…………」
「……私には、救えなかった」
その瞬間。
「……嘘だろ……?」
ユーリの顔が歪んだ。
「……リタ……?」
ユーリは妻の手を握りしめた。
「……おい、リタ」
返事はない。
「……起きろよ」
いつもなら。
困ったように笑って。
『もう、ユーリったら』
そう言ってくれるはずなのに。
「……頼むから……」
涙が、リタの手に落ちた。
「……目を開けてくれよ……!」
その悲痛な声が、部屋に響いた。
メイビスは、ただ立ち尽くしていた。
「…………」
目の前で起きたことが、理解できなかった。
いや。
理解したくなかった。
リタが倒れる直前。
自分の身体を駆け抜けた、あの感覚。
そして。
かつてゼレフから聞いた言葉が、脳裏に蘇った。
――命を大切に思えば思うほど、周囲の命を奪ってしまう。
――それが、アンクセラムの呪い。
「…………あ」
メイビスの唇が震えた。
違う。
そんなはずはない。
だって、自分はただ。
マカロフの誕生が嬉しくて。
ユーリとリタの幸せを、心から喜んで。
この家族が、いつまでも幸せでいてほしいと。
そう、願っただけなのに。
「……私……?」
メイビスの顔から血の気が引いていく。
「……私が……?」
視線が、動かなくなったリタへ向けられる。
先ほどまで、笑っていた。
あんなに幸せそうに。
自分に、ありがとうと言ってくれた。
それなのに。
「……私が……リタさんを……?」
足から力が抜けた。
がくり、と。
メイビスは床に膝をついた。
「……あ……あぁ……」
震える手を口元に当てる。
涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。
「……違う……」
小さな声が漏れる。
「……そんな……そんなつもりじゃ……」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
「……私……」
目の前には、動かないリタ。
泣き崩れるユーリ。
そして、生まれたばかりのマカロフ。
そのすべてが、自分のしたことを突きつけていた。
「……私が……殺した……?」
次の瞬間。
「いやああああああああああっ!!」
メイビスの悲鳴が響き渡った。
「いや……いやです……!」
両手で顔を覆い、激しく首を振る。
「ごめんなさい……! ごめんなさい、リタさん……!」
涙が止まらなかった。
「私……そんなつもりじゃ……!」
何度謝っても。
どれほど泣いても。
リタは、もう答えてくれない。
「メイビス……?」
駆けつけたプレヒトが近寄ろうとした。
しかし。
「来ないでっ!!」
メイビスが叫んだ。
プレヒトの足が止まる。
「……メイビス?」
「……お願いです……」
メイビスは震えながら立ち上がった。
「……私に、近づかないで……!」
その目には、恐怖が浮かんでいた。
自分が誰かを愛おしいと思うだけで。
また、誰かが死んでしまうかもしれない。
大切な仲間たちを。
これ以上、傷つけてしまうかもしれない。
「……ごめんなさい……」
メイビスは後ずさった。
「……ごめんなさい……!」
そして。
踵を返し、部屋から飛び出した。
「メイビス!」
プレヒトが叫ぶ。
だが、メイビスは振り返らなかった。
涙を流しながら。
ただ、仲間たちから遠ざかるように走り続けた。
---
第五幕 帰還した聖剣
夕暮れのマグノリア。
街を染める茜色の光の中、一人の少女が歩いていた。
艶やかな黒髪。
青と金のオッドアイ。
左腰には、星の意匠を持つ聖剣。
イリス・アストレアだった。
「……ふう」
依頼を終えたイリスは、軽く息をついた。
「思ったより早く帰れましたね」
今回の依頼は、街道に現れた魔物の討伐。
予定より順調に終わったため、夕方にはマグノリアへ戻ることができた。
「リタさん、もうすぐでしたよね……」
イリスは小さく微笑む。
「無事に生まれてくれるといいのですが」
そんなことを考えながら、ギルドへ向かって歩いていた。
その時。
「……っ!」
前方から、一人の少女が走ってきた。
長い金髪。
見慣れた小さな姿。
「……メイビスさん?」
イリスが足を止める。
メイビスだった。
しかし。
「……メイビスさん?」
その顔を見た瞬間、イリスの表情が変わった。
メイビスは泣いていた。
顔をくしゃくしゃに歪め、涙を流しながら走っていた。
「どうしたんですか!?」
イリスが声をかける。
メイビスは一瞬だけ顔を上げた。
青と金の瞳が、緑の瞳と交わる。
「……イリス……さん……」
かすれた声。
しかし、次の瞬間。
「……っ!」
メイビスは顔を背け、そのまま走り去った。
「メイビスさん!?」
イリスは振り返った。
呼び止めようとして、思わず足を踏み出す。
だが。
「……何が……?」
あんなメイビスを、見たことがなかった。
いつも明るく笑っている少女。
どんな困難にも、仲間たちと向き合ってきた少女。
そのメイビスが。
まるで何かから逃げるように、泣きながら走っていた。
「…………」
イリスは唇を噛んだ。
そして、ギルドへ向かって駆け出した。
何かが起きた。
それだけは、確かだった。
◇
妖精の尻尾。
いつもなら、夕方のギルドは賑やかだった。
依頼から帰ってきた魔導士たちの笑い声。
酒を酌み交わす仲間たち。
誰かの冗談に、誰かが笑う。
そんな、当たり前の光景。
けれど。
「……?」
扉を開けたイリスは、違和感を覚えた。
静かだった。
あまりにも、静かだった。
「……皆さん?」
声をかける。
しかし、誰もいつものように迎えてくれない。
エマが俯いていた。
ほかの仲間たちも、沈痛な表情を浮かべている。
「……何か、あったんですか?」
イリスが尋ねる。
その時。
「……イリス」
プレヒトが姿を現した。
その顔を見て、イリスは息を呑んだ。
いつも冷静な彼が。
今は、ひどく疲れた顔をしていた。
「プレヒトさん……?」
「……帰ってきたのか」
「はい。それより、メイビスさんが……」
イリスは言葉を続けようとした。
しかし。
プレヒトの表情を見て、口を閉じた。
「……何があったんですか?」
プレヒトは答えなかった。
ただ、静かに目を伏せた。
「……プレヒトさん?」
嫌な予感がした。
胸の奥が、冷たくなる。
やがて、プレヒトが口を開いた。
「……リタが」
「……え?」
イリスは瞬きをした。
「……リタさんが、どうしたんですか?」
プレヒトは拳を握りしめた。
その手が、かすかに震えていた。
そして。
「……リタが、死んだ」
時間が止まった。
「…………え?」
イリスの唇から、かすれた声が漏れる。
何を言われたのか。
一瞬、理解できなかった。
「……何を……」
プレヒトは何も言わなかった。
その沈黙が、答えだった。
イリスの脳裏に、いくつもの光景が浮かぶ。
優しく笑うリタ。
ユーリと並んで歩く姿。
ギルドで仲間たちを守る、淡い黄金色の結界。
女の子たちのお茶会。
『私の自慢の旦那さんなの』
幸せそうに、そう語っていた。
つい先日まで。
あんなに、笑っていたのに。
「……そんな……」
イリスは呟いた。
「……嘘、ですよね……?」
誰も答えなかった。
遠くから、小さな赤ん坊の泣き声が聞こえた。
新しい命が、生まれたのだ。
それなのに。
大切な仲間が、いなくなってしまった。
イリスは、その場に立ち尽くした。
何も言えなかった。
何も、考えられなかった。
ただ。
胸の奥に広がる冷たさだけが、消えなかった。
――第65話 終――
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
今後とも『妖精と聖剣使い』をよろしくお願いいたします。