妖精と聖剣使い   作:使い手なない

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第66話「それでも、あなたと」

 

第一幕 残された者たち

 

 X696年。

 

 フィオーレ王国、マグノリア。

 

 夕暮れの光が差し込む妖精の尻尾は、静まり返っていた。

 

「……リタさんが、死んだ……?」

 

 イリス・アストレアは、プレヒトから告げられた言葉を繰り返した。

 

 まるで、知らない言葉を聞かされたかのように。

 

「……はい?」

 

 自分でも、何を聞き返しているのかわからなかった。

 

「……どうして、ですか?」

 

 プレヒトは答えなかった。

 

 その沈黙が、胸に突き刺さる。

 

「だって……ついこの間まで、元気だったじゃないですか……」

 

 イリスの声が震えた。

 

「赤ちゃんが生まれるのを、あんなに楽しみにしていて……」

 

 思い出す。

 

 リタの穏やかな笑顔。

 

 お茶会で交わした何気ない会話。

 

 ユーリの話をするとき、少し照れくさそうに微笑む姿。

 

『私の自慢の旦那さんなの』

 

 あのときの幸せそうな顔を、イリスはよく覚えていた。

 

「……そんな……」

 

 視界が滲んだ。

 

 頬を、一筋の涙が伝う。

 

「……どうして……」

 

 誰も答えられなかった。

 

 やがて、プレヒトが重い口を開いた。

 

「……マカロフが生まれたんだ」

 

「……マカロフ?」

 

「ユーリとリタの息子だ。メイビスが名前をつけた」

 

 イリスはゆっくりと顔を上げた。

 

「……無事に、生まれたんですね……」

 

「ああ。元気な男の子だ」

 

「……そう、ですか……」

 

 嬉しいはずだった。

 

 心から祝福したかった。

 

 けれど、その喜びを分かち合うはずのリタは、もういない。

 

「……ユーリさんは……?」

 

 プレヒトの表情が曇った。

 

「……今は、リタのそばにいる」

 

「…………」

 

「ウォーロッドも付き添っている。マカロフのことは、皆で見ている」

 

 イリスは唇を噛んだ。

 

 ユーリが、どれほどリタを愛していたか。

 

 誰よりも近くで見てきた。

 

 結婚式の日も。

 

 子供ができたと嬉しそうに報告してくれた日も。

 

 そして、出産を待ちわびていた日々も。

 

 そのすべてを知っている。

 

「……会いに、行きたいです」

 

 かすれた声で呟く。

 

「……でも、その前に……」

 

 イリスは顔を上げた。

 

「プレヒトさん。メイビスさんに、何があったんですか?」

 

 プレヒトの表情が変わった。

 

「……会ったのか?」

 

「はい。帰り道で……泣きながら、走っていました」

 

「…………」

 

「声をかけたんです。でも、何も答えてくれなくて……」

 

 イリスは拳を握りしめた。

 

「……あんなメイビスさん、初めて見ました」

 

 プレヒトは長く息を吐いた。

 

「……俺たちにも、何が起きたのか、すべてはわからない」

 

 そして、ゆっくりと語り始めた。

 

 リタが突然倒れたこと。

 

 セヴェルが治癒魔法を尽くしても、救えなかったこと。

 

 その直後、メイビスが自分のせいだと言い始めたこと。

 

 泣き崩れ、誰も近づかないように叫んだこと。

 

「……あいつは、自分がリタを殺したと思っている」

 

「……メイビスさんが……?」

 

「何があったのかはわからない。だが、あいつは本気で俺たちを恐れていた」

 

「……恐れていた?」

 

「いや……違うな。俺たちに近づかれることを、恐れていたんだ」

 

 イリスは目を伏せた。

 

 脳裏に、泣きながら走り去ったメイビスの姿が浮かんだ。

 

 あのとき。

 

 自分の顔を見たメイビスは、一瞬だけ足を緩めた。

 

 何かを言おうとして。

 

 それでも、逃げてしまった。

 

「……一人に、してはいけない気がします」

 

 イリスは静かに告げた。

 

「……探しに行きます」

 

「イリス」

 

 プレヒトが呼び止める。

 

「お前も、つらいだろう」

 

「…………はい」

 

 イリスは俯いた。

 

「……とても、つらいです」

 

 涙が、また一粒落ちた。

 

「リタさんに、もう会えないなんて……まだ、信じられません」

 

 声が震える。

 

「……でも」

 

 イリスは顔を上げた。

 

「メイビスさんまで、失いたくないんです」

 

 プレヒトは何も言わなかった。

 

 やがて、静かに頷く。

 

「……わかった」

 

「ありがとうございます」

 

「見つけたら、伝えてくれ」

 

 プレヒトは苦しそうに目を伏せた。

 

「……俺たちは、あいつのことも心配している」

 

「……はい」

 

 イリスは涙を拭った。

 

 そして、ギルドの扉へ向かう。

 

 その背中に、プレヒトの声が届いた。

 

「……イリス」

 

「はい?」

 

「……頼んだ」

 

 イリスは振り返り、小さく頷いた。

 

「……必ず、見つけます」

 

 そうして、少女は夕暮れの街へ駆け出した。

 

---

 

第二幕 妖精の残した光

 

 マグノリアの街には、夜の帳が下り始めていた。

 

 石畳の道を、イリスは走る。

 

 行き交う人々の間を抜け、先ほどメイビスとすれ違った場所へ向かった。

 

「……この辺り、でしたね」

 

 足を止める。

 

 金色の瞳に、淡い光が映っていた。

 

 普通の人間には見えないもの。

 

 空気の中に漂う、魔力の残滓。

 

 それは、夜空に散らばる星屑のように、きらきらと輝いている。

 

 イリスにとっては、いつも見えている光景だった。

 

 その中に、見慣れた魔力の輝きがあった。

 

「……メイビスさん」

 

 小さな光の粒が、街の外へ続いている。

 

 イリスはその跡を追った。

 

 やがて、街外れの道へ出る。

 

 民家が減り、木々が増えていく。

 

 風が、黒髪を揺らした。

 

「……どこまで、行ったんでしょう……」

 

 イリスは左手を胸元へ持ち上げた。

 

 指には、小さな宝石をあしらった指輪。

 

 ギルティナ大陸で、メイビスと交換したものだった。

 

 青と緑の宝石が、月明かりを受けて淡く輝く。

 

「……お願いします」

 

 指輪に、そっと魔力を通す。

 

 すると、胸の奥に微かな感覚が生まれた。

 

 遠くにいる誰かが、こちらを呼んでいるような。

 

 言葉にはならない、小さな繋がり。

 

「……あちら、ですね」

 

 イリスは森の方角へ顔を向けた。

 

 金色の瞳には、メイビスの魔力残滓が続いている。

 

 指輪もまた、同じ方向を示していた。

 

「……よかった」

 

 小さく息を吐く。

 

「……まだ、繋がっていますね」

 

 その言葉とともに、イリスは再び走り出した。

 

 ◇

 

 森の中は、静かだった。

 

 枝葉の隙間から、月明かりが差し込んでいる。

 

 イリスは木々の間を進んだ。

 

 足元には、メイビスの魔力の光が点々と残っていた。

 

 やがて、その光が濃くなる。

 

「……近い」

 

 指輪の感覚も、少しずつ強まっていた。

 

 そして。

 

 木々の向こうに、小さな開けた場所が見えた。

 

 月明かりの下。

 

 一人の少女が、膝を抱えて座り込んでいた。

 

 長い金髪。

 

 見慣れた白い衣装。

 

 小さく震える肩。

 

「……メイビスさん」

 

 イリスの声が、静かな森に響いた。

 

 少女の肩が、びくりと跳ねた。

 

---

 

第三幕 孤独な妖精

 

「……イリス、さん……?」

 

 メイビスがゆっくりと顔を上げた。

 

 その目は赤く腫れていた。

 

 頬には、乾ききらない涙の跡。

 

 いつも輝いていた緑の瞳には、深い恐怖が浮かんでいた。

 

「……どうして……」

 

 かすれた声が漏れる。

 

「……どうして、ここに……?」

 

「探しに来ました」

 

 イリスは静かに答えた。

 

「……心配したんですよ」

 

「…………」

 

 メイビスは唇を震わせた。

 

 そして、イリスが一歩踏み出した瞬間。

 

「……来ないでください!」

 

 鋭い声が響いた。

 

 イリスの足が止まる。

 

「……お願いです……」

 

 メイビスは首を振った。

 

「……それ以上、近づかないで……」

 

「メイビスさん……」

 

「……駄目なんです……!」

 

 声が震える。

 

「私……もう、誰にも近づいちゃいけないんです……!」

 

 イリスは黙って、その言葉を聞いていた。

 

「……リタさんが……」

 

 メイビスの瞳から、涙が零れた。

 

「……リタさんが、死んじゃったんです……!」

 

「……はい」

 

「……私の、せいで……!」

 

 イリスは息を呑んだ。

 

「……私が、殺したんです……!」

 

 メイビスは両手で顔を覆った。

 

「……私が、あの家族の幸せを願ったから……!」

 

 涙が止まらなかった。

 

「……マカロフが生まれて……ユーリさんも、リタさんも、あんなに嬉しそうで……」

 

 声が途切れる。

 

「……ずっと、幸せでいてほしかったんです……」

 

 メイビスは泣きながら続けた。

 

「……ただ、それだけだったのに……!」

 

 イリスの胸が締めつけられた。

 

「……ゼレフさんが、言っていたんです……」

 

 メイビスは顔を上げた。

 

「……命を大切に思えば思うほど、周りの命を奪ってしまう……」

 

「……ゼレフさんが……?」

 

「……アンクセラムの呪い……」

 

 その名前を口にした瞬間、メイビスの表情が歪んだ。

 

「……私も、同じ呪いを受けていたんです……」

 

 イリスは言葉を失った。

 

 かつてマグノリア近郊で出会った、黒髪の魔導士。

 

 メイビスたちに魔法を教えてくれた、不思議な青年。

 

 ゼレフ。

 

 その彼と、同じ呪い。

 

「……だから……」

 

 メイビスは必死に首を振った。

 

「……お願いです、イリスさん……」

 

 涙が頬を伝う。

 

「……帰ってください……」

 

「…………」

 

「……私のことなんて、放っておいてください……!」

 

 その言葉に、イリスの胸が痛んだ。

 

 メイビスは、こんなことを言いたいわけではない。

 

 本当は、誰よりも仲間が好きで。

 

 誰よりも、一緒にいたいはずなのに。

 

「……メイビスさん」

 

 イリスは静かに口を開いた。

 

「……私は、あなたを放っておけません」

 

「……駄目です……!」

 

 メイビスが叫ぶ。

 

「……イリスさんまで、死んじゃったら……!」

 

 その声は、悲鳴に近かった。

 

「……私、もう……耐えられません……!」

 

 イリスは目を伏せた。

 

 リタの笑顔が、脳裏に浮かぶ。

 

 もう二度と会えない、大切な仲間。

 

 その事実は、何も変わらない。

 

「……私も、悲しいです」

 

 イリスは小さく呟いた。

 

「……リタさんが亡くなったと聞いて……信じられませんでした」

 

 メイビスの肩が震えた。

 

「……もっと、お話ししたかった」

 

 イリスの瞳が潤む。

 

「……赤ちゃんが生まれたら、一緒にお祝いしたかった……」

 

 涙が、一筋落ちた。

 

「……もう、叶わないんですね……」

 

「……ごめん、なさい……」

 

 メイビスが泣きながら謝る。

 

「……ごめんなさい……!」

 

「……メイビスさん」

 

 イリスは顔を上げた。

 

「……リタさんが亡くなったことを、なかったことにはできません」

 

「…………」

 

「……ユーリさんの悲しみも、マカロフの未来も……簡単な言葉で済ませられるものではありません」

 

 メイビスは俯いた。

 

「……はい……」

 

「……でも」

 

 イリスは、静かに続けた。

 

「……だからといって、あなたまで一人で苦しみ続けなければならないとは、思いません」

 

 メイビスが顔を上げる。

 

「……イリスさん……?」

 

 イリスは、一歩踏み出した。

 

---

 

第四幕 それでも、あなたと

 

「……来ないでください……!」

 

 メイビスが後ずさる。

 

 イリスは歩みを止めなかった。

 

「……駄目です……!」

 

 メイビスの声が震える。

 

「……私の近くにいたら……イリスさんまで……!」

 

「……大丈夫です」

 

「大丈夫なわけないじゃないですかっ!!」

 

 メイビスが叫んだ。

 

「リタさんだって……! さっきまで、あんなに元気だったのに……!」

 

 涙が溢れる。

 

「……私が幸せを願っただけで……死んじゃったんですよ……!?」

 

 イリスの足が、わずかに止まった。

 

 メイビスの恐怖は、本物だった。

 

 それを軽く扱うことなど、できない。

 

 イリス自身にも、確信はなかった。

 

 アンクセラムの呪い。

 

 命を奪うという、恐ろしい力。

 

 聖剣で斬れるものなのか。

 

 防御魔法で防げるものなのか。

 

 何もわからない。

 

 けれど。

 

 不思議と、恐怖はなかった。

 

 胸の奥に、説明のつかない感覚があった。

 

 ――大丈夫。

 

 なぜだろう。

 

 何の根拠もないのに、そう思えた。

 

「……メイビスさん」

 

 イリスは静かに呼びかけた。

 

「……私にも、どうしてなのかはわかりません」

 

「……え……?」

 

「……でも」

 

 イリスは、少しだけ微笑んだ。

 

「……大丈夫な気がするんです」

 

 そして、一歩踏み出した。

 

「……やめて……!」

 

 メイビスが首を振る。

 

「……お願いです……!」

 

 それでも。

 

 イリスは、メイビスの前に膝をついた。

 

 震える小さな肩。

 

 涙に濡れた頬。

 

 必死に自分を遠ざけようとする、緑の瞳。

 

「……一人には、しません」

 

 イリスは両腕を伸ばした。

 

「――っ!」

 

 メイビスが息を呑む。

 

 次の瞬間。

 

 イリスは、メイビスをそっと抱きしめた。

 

「……いや……!」

 

 メイビスの身体が強張った。

 

 震える手が、イリスの肩を押す。

 

「……駄目です……! 離れて……!」

 

 しかし、イリスは離れなかった。

 

 強く締めつけるのではなく。

 

 ただ、逃げなくてもいいのだと伝えるように。

 

 優しく、抱きしめ続けた。

 

「……イリスさん……!」

 

 メイビスの声が震える。

 

「……死んじゃいます……!」

 

「……ここにいますよ」

 

「……っ!」

 

「……私は、ここにいます」

 

 その瞬間。

 

 メイビスの胸の奥で、何かが脈打った。

 

「……っ!?」

 

 覚えのある感覚だった。

 

 つい先ほど、リタの命を奪ったときと同じ。

 

 冷たく、禍々しい何かが、身体の奥から溢れ出す。

 

「……駄目っ!!」

 

 メイビスが悲鳴を上げた。

 

 その瞬間、二人の足元から黒い波動が広がった。

 

 ざわり、と木々が揺れる。

 

 青々と茂っていた葉が、一瞬で色を失った。

 

 草花が萎れ、枝が枯れ、周囲の木々が次々と朽ちていく。

 

 ほんの数秒前まで生命に満ちていた森が、見る影もなく変わり果てていた。

 

「……あ……あぁ……!」

 

 メイビスの顔が、絶望に染まる。

 

「……イリスさん……!」

 

 震える声で、その名を呼んだ。

 

 また、殺してしまった。

 

 そう思った。

 

 けれど。

 

「……メイビス」

 

 優しい声が聞こえた。

 

「…………え?」

 

 メイビスが顔を上げる。

 

 そこには、変わらず自分を抱きしめている少女がいた。

 

 黒髪も。

 

 青と金の瞳も。

 

 その温かな手も。

 

 何一つ、変わっていなかった。

 

「……どう、して……?」

 

 メイビスの唇が震える。

 

「……今……確かに、呪いが……!」

 

 イリスは周囲を見渡した。

 

 枯れ果てた木々。

 

 生命の気配を失った草花。

 

 呪いが発動したことは、疑いようもなかった。

 

 それでも。

 

 イリス自身には、何の異変も起きていなかった。

 

「……私にも、わかりません」

 

 イリスは静かに答えた。

 

 そして、もう一度メイビスを抱き寄せる。

 

「……でも、私はここにいますよ」

 

「……っ……!」

 

 メイビスは、震える手でイリスの胸元に触れた。

 

 とくん。

 

 とくん。

 

 確かな心臓の鼓動。

 

 温かな身体。

 

 生きている。

 

 間違いなく、イリスは生きていた。

 

「……イリス、さん……!」

 

 メイビスの瞳から、大粒の涙が溢れた。

 

「……よかった……!」

 

 その言葉とともに、メイビスはイリスの胸に顔を埋めた。

 

「……本当に……よかった……!」

 

 イリスは何も言わず、泣きじゃくる少女を抱きしめ続けた。

 

 周囲の木々は、すべて枯れ果てていた。

 

 草花も、小さな虫たちも、命を失っていた。

 

 それでも。

 

 メイビスの腕の中にいる、たった一人の少女だけは。

 

 変わらず、温かな鼓動を刻み続けていた。

 

 ◇

 

 メイビスの泣き声が、少しずつ小さくなっていく。

 

 けれど、その身体はまだ震えていた。

 

「……怖かった……」

 

 メイビスが、かすれた声で呟いた。

 

「……また、誰かを殺してしまうかもしれない……」

 

「……はい」

 

「……ユーリさんに、何て言えばいいのか……」

 

「……はい」

 

「……マカロフから、お母さんを奪ってしまった……」

 

 メイビスは、イリスの服を握りしめた。

 

「……私……どうしたらいいんですか……?」

 

 イリスはすぐには答えなかった。

 

 答えられるはずがなかった。

 

 リタを生き返らせることも。

 

 ユーリの悲しみを消すことも。

 

 メイビスの呪いを解くことも。

 

 今の自分には、できない。

 

 けれど。

 

「……一緒に、考えましょう」

 

 イリスは静かに言った。

 

「……これから、どうすればいいのか」

 

「……一緒に……?」

 

「はい」

 

 イリスはメイビスを抱きしめたまま、目を閉じた。

 

 思い出す。

 

 ギルティナ大陸での旅。

 

 月神竜セレーネから聞いた、異世界へ帰るための途方もない条件。

 

 ようやく見つけた希望が、手の届かない場所にあると知った日。

 

 あのとき、自分は泣いた。

 

 元の世界に帰りたかった。

 

 懐かしい景色を、もう一度見たかった。

 

 家族や友人たちに、会いたかった。

 

 その願いが叶わないかもしれないと知って、どうしようもなく苦しかった。

 

 そんな自分の隣に、メイビスがいてくれた。

 

 無理に笑わせようとはせず。

 

 簡単に大丈夫だとも言わず。

 

 ただ、泣いている自分のそばにいてくれた。

 

 あの温かさを、今でも覚えている。

 

「……メイビスさん」

 

 イリスは、そっと呼びかけた。

 

「……覚えていますか?」

 

「……何を、ですか……?」

 

「……ギルティナで、私が泣いてしまった日のことです」

 

 メイビスの肩が、わずかに揺れた。

 

「……はい……」

 

「……あのとき、あなたは私のそばにいてくれました」

 

「…………」

 

「……帰れるかどうかもわからない私に、一緒に考えようと言ってくれました」

 

 イリスは小さく微笑んだ。

 

「……とても、嬉しかったんです」

 

 メイビスの瞳が揺れる。

 

「……でも……それと、これとは……」

 

「……同じではありませんね」

 

 イリスは静かに頷いた。

 

「……あなたが背負っているものは、私の悩みとは違います」

 

 リタの死。

 

 アンクセラムの呪い。

 

 これから先も続くかもしれない、終わりの見えない孤独。

 

 その重さを、簡単に理解したなどとは言えない。

 

「……それでも」

 

 イリスは、メイビスの肩にそっと手を置いた。

 

「……あのとき、あなたが私を一人にしなかったように」

 

 メイビスが顔を上げる。

 

「……今度は、私があなたのそばにいたいんです」

 

「……イリス、さん……」

 

 イリスは静かに息を吸った。

 

 元の世界。

 

 ずっと帰りたいと願ってきた場所。

 

 今でも、懐かしい。

 

 今でも、大切だ。

 

 帰る方法が完全に失われたわけでもない。

 

 けれど。

 

 この世界にも、大切なものができた。

 

 天狼島で出会った少女。

 

 一緒に創ったギルド。

 

 共に笑い、泣き、戦ってきた仲間たち。

 

 そして、目の前で震えている、大切な人。

 

 自分はもう、この世界に迷い込んだだけの旅人ではない。

 

 ここにも、帰る場所がある。

 

 ここにも、守りたい人がいる。

 

 イリスは、メイビスの緑の瞳をまっすぐに見つめた。

 

「……メイビス」

 

 その呼びかけに、メイビスが瞬きをした。

 

 いつもの「さん」が、なかった。

 

 けれど、不思議と違和感はなかった。

 

 むしろ。

 

 その声は、今までよりもずっと近くに感じられた。

 

「……私は、この世界でメイビスと共に生きていきます」

 

「…………え……?」

 

 メイビスの瞳が大きく開かれた。

 

 イリスは微笑んだ。

 

「……元の世界へ帰りたいという気持ちが、なくなったわけではありません」

 

「…………」

 

「……大切な人たちに、会いたい気持ちもあります」

 

 その声に、迷いはなかった。

 

「……でも、それと同じくらい」

 

 イリスは、メイビスの手を握った。

 

「……この世界で出会った人たちが、大切なんです」

 

 メイビスの唇が震える。

 

「……だから」

 

 イリスは、もう一度告げた。

 

「……あなたと、一緒に生きていきたい」

 

「……っ……!」

 

「……呪いを解く方法も、一緒に探しましょう」

 

「……でも……」

 

「……すぐには、見つからないかもしれません」

 

 イリスは頷いた。

 

「……それでも、構いません」

 

「……どうして……」

 

 メイビスの目から、涙が溢れた。

 

「……どうして、そこまで……?」

 

 イリスは少しだけ考えた。

 

 そして、穏やかに笑った。

 

「……大切な友達だからです」

 

 その言葉に。

 

 メイビスの表情が、くしゃりと歪んだ。

 

「……っ、う……」

 

 握られた手が震える。

 

「……私……」

 

 声が詰まる。

 

「……私、もう……誰とも一緒にいられないと思って……!」

 

 イリスは、もう一度メイビスを抱きしめた。

 

「……はい」

 

「……みんなのこと、大好きなのに……!」

 

「……はい」

 

「……もう、誰にも近づいちゃいけないって……!」

 

「……はい」

 

 メイビスは、イリスの胸に顔を埋めた。

 

「……怖かった……!」

 

 堪えていた感情が、溢れ出す。

 

「……一人になるのが……怖かったんです……!」

 

 イリスは何も言わず、その背中を撫で続けた。

 

「……リタさん……ごめんなさい……!」

 

 メイビスの泣き声が、夜の森に響く。

 

「……ごめんなさい……!」

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 謝り続けた。

 

 イリスも、静かに涙を流していた。

 

 リタのことを思えば、胸が痛む。

 

 ユーリのことを思えば、言葉が見つからない。

 

 これから何が待っているのかも、わからない。

 

 それでも。

 

 腕の中の少女を、一人にはしたくなかった。

 

 だから、抱きしめ続けた。

 

 月明かりの下。

 

 二人の少女は、長い時間、寄り添っていた。

 

---

 

第五幕 消えない悲しみ、消えない絆

 

 どれほどの時間が過ぎただろう。

 

 森の中には、静かな夜風が吹いていた。

 

 メイビスは、ようやく泣き声を小さくしていた。

 

 けれど、その目はまだ赤く、頬には涙の跡が残っている。

 

「……イリスさん」

 

「……はい」

 

「……本当に、いいんですか……?」

 

 メイビスは不安そうに尋ねた。

 

「……私と、一緒にいて……」

 

 イリスは微笑んだ。

 

「……はい」

 

「……また、何か起きるかもしれません……」

 

「……そうですね」

 

 イリスは、その可能性を否定しなかった。

 

「……でも、何か起きたら、そのときも一緒に考えましょう」

 

「…………」

 

「……一人で全部背負わなくても、いいんですよ」

 

 メイビスは俯いた。

 

「……私、まだ……ギルドには戻れません……」

 

「……はい」

 

「……ユーリさんに、会うのが怖いです……」

 

 イリスは静かに頷いた。

 

「……無理に戻る必要はありません」

 

「……でも……」

 

「……いつか、ちゃんと向き合わなければならないとは思います」

 

 メイビスの肩が震える。

 

「……はい……」

 

「……そのときは、私も一緒にいます」

 

 イリスは、メイビスの手を優しく握った。

 

「……一人には、しません」

 

 メイビスはしばらく黙っていた。

 

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

「……ありがとう、ございます……」

 

 その声は、まだ震えていた。

 

 けれど。

 

 先ほどまでのような、絶望だけの声ではなかった。

 

 ◇

 

 夜空には、無数の星が輝いていた。

 

 イリスとメイビスは、並んで座っていた。

 

 互いの指には、お揃いの指輪。

 

 青と緑の宝石が、月明かりを受けて小さく光っている。

 

「……見つけてくれて、ありがとうございました」

 

 メイビスがぽつりと言った。

 

「……指輪のおかげでもありますね」

 

 イリスは左手を持ち上げた。

 

「……それに、メイビスの魔力の光が見えましたから」

 

「……そうでしたね」

 

 メイビスは、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「……イリスさんの金色の瞳には、キラキラ見えるんでしたね……」

 

「はい」

 

 イリスも小さく微笑んだ。

 

「……とても、綺麗な光でしたよ」

 

 メイビスは、自分の指輪を見つめた。

 

 ギルティナ大陸で過ごした日々。

 

 一緒に歩いた街。

 

 見上げた夜空。

 

 交わした約束。

 

 そのすべてが、遠い昔のことのように思えた。

 

「……イリスさん」

 

「はい?」

 

「……私、まだ……どうしたらいいのか、わかりません」

 

 イリスは頷いた。

 

「……私もです」

 

「……え?」

 

「……わからないことだらけですよ」

 

 イリスは夜空を見上げた。

 

「……でも、一つだけ決めたことがあります」

 

 メイビスが顔を向ける。

 

「……私は、メイビスの隣にいます」

 

「…………」

 

「……それだけは、変わりません」

 

 メイビスは、しばらくイリスを見つめていた。

 

 そして。

 

「……はい……」

 

 小さく頷いた。

 

 涙が、また一粒こぼれた。

 

 けれど今度は、顔を背けなかった。

 

 イリスは、そんなメイビスの手をそっと握った。

 

 遠く離れたマグノリアでは、きっと今も仲間たちが悲しんでいる。

 

 リタがいない朝が、やって来る。

 

 ユーリは、幼いマカロフを抱いて、その現実と向き合わなければならない。

 

 メイビスの呪いも、消えてはいない。

 

 何一つ、解決していない。

 

 それでも。

 

 今夜、二人は一つの約束を交わした。

 

 かつて、異世界から迷い込んだ少女が、天狼島で一人の妖精と出会った。

 

 あれから十年。

 

 たくさんの喜びを知り。

 

 たくさんの仲間と出会い。

 

 そして、取り返しのつかない悲しみを知った。

 

 それでも、共に生きていく。

 

 それが、イリス・アストレアの選んだ未来だった。

 

 夜風が、二人の髪を静かに揺らす。

 

 メイビスは、イリスの肩にそっと寄りかかった。

 

 イリスは何も言わず、その小さな身体を受け止めた。

 

 今は、まだ。

 

 明日のことを考えられなくてもいい。

 

 ただ、隣に誰かがいる。

 

 その温かさだけを、確かめるように。

 

 二人は、静かな夜を過ごした。

 

 ――第66話 終――

 




ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。

今後とも『妖精と聖剣使い』をよろしくお願いいたします。
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