第一幕 幻影の帰還
X696年。
フィオーレ王国、マグノリア近郊。
夜が明けた。
森の向こうから昇る朝日が、木々の間に淡い光を落としている。
小鳥のさえずりが聞こえ、朝露に濡れた草花が柔らかな光を受けて輝いていた。
けれど、その森の一角だけは違っていた。
枯れ果てた木々。
色を失った草花。
生命の気配が消えた、不自然な静寂。
昨夜、メイビス・ヴァーミリオンのアンクセラムの呪いが発動した場所だった。
その中心に、二人の少女がいた。
「……朝に、なりましたね」
メイビスが小さく呟いた。
「……はい」
隣に座るイリス・アストレアが頷く。
二人は、ほとんど眠っていなかった。
何度も言葉を交わし、何度も沈黙した。
リタのこと。
ユーリのこと。
生まれたばかりのマカロフのこと。
そして、これからのこと。
どれだけ話しても、答えは見つからなかった。
「……イリスさん」
「はい」
「……私、やっぱり……」
メイビスは膝の上で両手を握りしめた。
「……ギルドには、戻れません」
イリスは静かに頷いた。
「……そうですね」
「……でも……」
メイビスは唇を噛んだ。
「……みんなに、謝りたいんです」
イリスが顔を上げる。
「……メイビス」
「……ユーリさんに、許してもらえるなんて思っていません」
その声は、小さく震えていた。
「……リタさんの命を奪ってしまったんです。謝ったからって、取り返しがつくことじゃないって……わかっています」
「……はい」
「……それでも、ちゃんと謝りたいんです」
メイビスは震える手を握りしめた。
「……ユーリさんにも、プレヒトさんにも、ウォーロッドさんにも……」
その瞳に、涙が浮かぶ。
「……みんなを悲しませてしまったことも……全部……」
イリスは何も言わず、耳を傾けていた。
「……でも……」
メイビスは顔を伏せた。
「……私が戻ったら、また誰かを……」
その先は、言葉にならなかった。
昨夜の光景が脳裏をよぎる。
黒い波動。
枯れ果てた木々。
そして、リタの命を奪った、あの瞬間。
メイビスは小さく身を震わせた。
イリスは、そんな彼女の手をそっと握った。
「……メイビス」
「……はい……」
「……謝りたいという気持ちは、きっと大切なことだと思います」
イリスは静かに続けた。
「……でも、だからといって、危険を冒してギルドへ戻る必要はありません」
「……でも……」
「……会う方法なら、考えられます」
メイビスが顔を上げる。
「……方法?」
「はい。例えば……」
イリスは少し考えた。
「……幻影魔法を使うことは、できませんか?」
「……幻影魔法……」
メイビスは瞬きをした。
そして、ゆっくりと目を見開く。
「……そう、ですね……!」
小さな声が漏れた。
「……本体が近づかなければ……」
メイビスは立ち上がった。
まだ疲れの残る表情だったが、その緑の瞳に、わずかな思考の光が戻っていた。
「……少し、試してみます」
両手を胸の前で重ねる。
淡い金色の魔力が、指先から溢れた。
光が集まり、空気が揺らぐ。
やがて、イリスの目の前に、一人の少女が姿を現した。
長い金髪。
白い衣装。
緑色の瞳。
メイビス・ヴァーミリオン。
もう一人のメイビスが、そこに立っていた。
「……どうでしょう?」
二人のメイビスが、同時に首を傾げる。
イリスは思わず目を瞬かせた。
「……本当に、そっくりですね」
「ふふ……ありがとうございます」
幻影のメイビスが微笑んだ。
その表情も、声も、本物と変わらない。
「……この幻影には、実体を持たせています」
幻影のメイビスが、そっとイリスの手を握った。
確かな感触が伝わる。
「……本物と同じように、人に触れることもできます」
「……すごいですね」
イリスは感心したように呟いた。
メイビスは少しだけ微笑んだ。
「……ただ、あくまで魔法で作った身体です。私自身がそこにいるわけではありません」
メイビスは幻影を見つめた。
「……本体はここに残ったまま、幻影を通して向こうの景色を見て、声を聞いて、会話することができます」
ただし、遠く離れた場所で複雑な幻影を維持し続けるには、それなりの魔力と集中力が必要だった。
それでも。
今のメイビスには、十分な方法だった。
「……イリスさん」
「はい?」
「……一緒に、行ってもらえますか?」
イリスは微笑んだ。
「……もちろんです」
その返事に、メイビスの目が潤む。
「……ありがとうございます」
イリスは立ち上がり、服についた土を払った。
そして、メイビスの本体へと向き直る。
「……ここで、待っていてください」
「……はい」
「……何かあれば、指輪で知らせます」
メイビスは自分の指輪を見つめた。
青と緑の小さな宝石。
ギルティナ大陸で、二人が交換したもの。
「……わかりました」
イリスは、もう一度メイビスの手を握った。
「……行ってきますね、メイビス」
「……はい。行ってらっしゃい、イリスさん」
その言葉を交わして。
イリスは、メイビスの幻影と共に歩き出した。
◇
マグノリアの街は、いつもと変わらない朝を迎えていた。
商人たちが店を開き、子供たちが通りを駆けていく。
焼きたてのパンの香り。
行き交う人々の笑い声。
昨日と同じ、穏やかな日常。
けれど。
イリスには、そのすべてが少し遠く感じられた。
「……街は、変わりませんね」
隣を歩くメイビスの幻影が呟いた。
「……はい」
「……昨日、あんなことがあったのに……」
メイビスは足元を見つめた。
自分たちの悲しみなど知らないように、街は動き続けている。
それが、少しだけ苦しかった。
「……メイビス」
イリスが呼びかける。
「……はい」
「……怖いですか?」
メイビスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……はい」
小さく頷いた。
「……とても、怖いです」
イリスは何も言わなかった。
ただ、歩く速さを少し緩めた。
やがて。
二人の前に、見慣れた建物が現れた。
妖精の尻尾。
十年前、仲間たちと共に築いた居場所。
いつもなら、扉の向こうから賑やかな声が聞こえてくる。
ユーリの大きな笑い声。
プレヒトの呆れた声。
ウォーロッドの穏やかな声。
そして、リタの優しい声。
けれど、今日は。
何も聞こえなかった。
「…………」
メイビスの幻影が立ち止まる。
その瞳が、扉を見つめた。
「……イリスさん」
「……はい」
「……私……」
声が震える。
「……ちゃんと、お話しできるでしょうか……」
イリスは少しだけ考えた。
「……わかりません」
「…………」
「……私も、何を言えばいいのか、まだわからないんです」
イリスは扉を見つめた。
「……でも、みんなに会いましょう」
メイビスは目を伏せた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
イリスが扉に手をかける。
重い木製の扉が、静かに開いた。
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第二幕 残された家族
ギルドの中は、静まり返っていた。
いつもなら朝から依頼を取り合い、酒場の席では笑い声が飛び交っている。
けれど、今日は誰も騒いでいなかった。
依頼掲示板の前に立つ者もいない。
テーブルに置かれた飲み物は、ほとんど手をつけられていなかった。
そして。
奥の席に、一人の青年が座っていた。
ユーリ・ドレアー。
その腕には、小さな赤ん坊が抱かれている。
マカロフ。
昨日、生まれたばかりの息子だった。
ユーリは、赤ん坊の顔をじっと見つめていた。
その表情には、いつもの明るさがなかった。
目元は赤く腫れ、頬には涙の跡が残っている。
隣にはウォーロッドが座り、少し離れた場所にプレヒトが立っていた。
セヴェルも、窓際の席に腰掛けている。
イリスが入ってきたことに、最初に気づいたのはプレヒトだった。
「……イリス」
その声に、何人かが顔を上げた。
「……戻ったのか」
「……はい」
イリスは小さく頷いた。
「……メイビスも、一緒です」
プレヒトの視線が、隣の少女へ向かう。
「……メイビス……?」
ウォーロッドも顔を上げた。
「……無事だったんだね」
メイビスは唇を噛んだ。
「……はい……」
そして、深く頭を下げた。
「……ご心配を、おかけしました……」
プレヒトが一歩近づこうとする。
しかし。
「……待ってください」
メイビスが静かに告げた。
「……私は、幻影です」
「……幻影?」
「……はい。本体は、街から離れた場所にいます」
プレヒトの眉がわずかに動いた。
「……どういうことだ?」
メイビスは目を伏せた。
「……それも、これから説明します」
そのとき。
「……メイビス」
低い声が響いた。
ユーリだった。
彼はマカロフを抱いたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「……お前、帰ってきたのか」
「……ユーリさん……」
メイビスの声が震える。
ユーリは、しばらく彼女を見つめていた。
そして。
「……そっか」
小さく呟いた。
「……無事だったんだな」
その言葉に、メイビスの顔が歪んだ。
「……ユーリさん……!」
涙が溢れそうになる。
けれど、彼女は必死に堪えた。
「……お話ししなければならないことがあります」
ユーリは何も言わなかった。
ただ、腕の中のマカロフを見つめた。
「……聞くよ」
やがて、そう答えた。
◇
メイビスは、すべてを話した。
かつてゼレフから聞いた、アンクセラムの呪い。
命を大切に思えば思うほど、周囲の生命を奪ってしまうという、恐ろしい呪い。
自分も、その呪いを受けていたこと。
そして。
マカロフが生まれたとき。
ユーリとリタ、そして生まれたばかりの赤ん坊が、これからも幸せでいてほしいと願ったこと。
その瞬間に、呪いが発動したこと。
「……私が……」
メイビスの声が震える。
「……私が、リタさんの命を奪ってしまったんです……」
ギルドの中に、重い沈黙が落ちた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
プレヒトは険しい表情で目を伏せている。
ウォーロッドは両手を握りしめていた。
セヴェルも、静かに話を聞いていた。
昨日、彼がどれほど治癒魔法を尽くしても救えなかった命。
その原因が、通常の傷や病ではなく、神の呪いによるものだった。
「……そういう、ことだったのか」
ユーリが呟いた。
その声は、驚くほど静かだった。
「……はい……」
メイビスは深く頭を下げた。
「……ごめんなさい……!」
涙が、床へ落ちる。
幻影の身体から零れた涙は、床に触れる前に淡い光となって消えた。
「……本当に……ごめんなさい……!」
ユーリは何も言わなかった。
「……私、そんなつもりじゃ……」
メイビスは首を振った。
「……みんなに、幸せでいてほしかっただけで……!」
声が詰まる。
「……でも、私が……!」
「……メイビス」
ユーリが静かに呼んだ。
メイビスの肩が跳ねる。
「……はい……」
「……ちょっと、待ってくれ」
「…………」
「……頭が、追いつかねえ」
ユーリは額に手を当てた。
腕の中のマカロフを起こさないよう、ゆっくりと息を吐く。
「……呪い、か」
小さく呟いた。
「……お前が、リタを……」
その先の言葉が出てこなかった。
ユーリは俯いた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて。
「……なあ、メイビス」
「……はい……」
「……リタはさ」
ユーリは、かすれた声で話し始めた。
「……昨日の朝まで、笑ってたんだよ」
メイビスの瞳が揺れた。
「……もうすぐ生まれるって、嬉しそうにしててさ」
ユーリは小さく笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……俺、あいつに言ったんだ」
その声が震える。
「……絶対、いい父親になってやるって」
マカロフの小さな手が、ユーリの服を握った。
「……そしたら、リタが笑ってさ」
ユーリは赤ん坊の手を見つめた。
「……『まずは、おむつの替え方から覚えないとね』って……」
誰も笑わなかった。
ユーリの唇が震える。
「……俺、笑って返したんだよ」
目から、一粒の涙が落ちた。
「……そんなの、すぐ覚えてやるって……」
マカロフは、静かに眠っている。
母親の顔を知らないまま。
母親の声を覚える前に。
その温もりを、失ってしまった。
「……なあ……」
ユーリの声が、かすれた。
「……なんで、なんだよ……」
メイビスが息を呑む。
「……なんで、リタなんだよ……」
ユーリは顔を上げた。
その目には、涙が溢れていた。
「……あいつ、何も悪いことしてねえだろ……?」
「……はい……」
「……ずっと、みんなのこと考えて……」
声が震える。
「……俺のことだって、いつも心配してくれて……」
ユーリは歯を食いしばった。
「……やっと、家族が増えたんだぞ……!」
その声が、ギルドに響いた。
「……やっと……!」
涙が頬を伝う。
「……これからだったんだよ……!」
プレヒトが目を伏せた。
ウォーロッドの表情が歪む。
イリスも、唇を噛みしめていた。
「……三人でさ……」
ユーリは震える声で続けた。
「……いろんなところ、行こうって……」
マカロフの顔を見つめる。
「……こいつが歩けるようになったら、一緒に街を歩いて……」
涙が落ちる。
「……大きくなったら、魔法を教えてやって……」
声が途切れた。
「……リタと二人で、こいつの成長を見守って……」
ユーリは顔を覆った。
「……そんな、普通のことを……」
肩が震える。
「……ずっと、続けていけると思ってたんだよ……!」
メイビスの幻影が、静かに涙を流した。
遠く離れた森の中。
本体のメイビスもまた、膝を抱えながら泣いていた。
ユーリの声が聞こえる。
その悲しみが、痛いほど伝わってくる。
けれど、今の自分には。
謝ることしか、できなかった。
「……ごめんなさい……」
幻影のメイビスが呟いた。
「……本当に……ごめんなさい……」
ユーリは顔を上げた。
その瞳に、怒りが浮かぶ。
「……謝ったら……!」
声が大きくなった。
「……謝ったら、リタは帰ってくるのかよ……!」
「……っ……!」
メイビスの身体が震えた。
「……俺だって、わかってる……!」
ユーリは涙を流しながら叫んだ。
「……お前が、わざとやったんじゃねえってことくらい……!」
その声が震える。
「……でも……!」
言葉が詰まった。
「……でも、どうすりゃいいんだよ……!」
ユーリは俯いた。
「……怒ればいいのか……?」
誰も答えなかった。
「……お前を恨めば、楽になるのか……?」
その声は、もう叫びではなかった。
迷子になった子供のような、頼りない声だった。
「……俺、わかんねえよ……」
プレヒトが静かに近づいた。
「……ユーリ」
「……プレヒト……」
ユーリは親友を見上げた。
「……俺、どうしたらいい……?」
プレヒトは、すぐには答えなかった。
そして、ユーリの隣に腰を下ろした。
「……わからなくていい」
「…………」
「……今すぐ、答えを出す必要はない」
ユーリの目から、また涙が落ちた。
「……俺……」
唇が震える。
「……リタに、会いてえよ……」
その一言は、あまりにも小さかった。
けれど。
ギルドにいた全員の胸に、深く突き刺さった。
「……もう一回でいいから……」
ユーリは泣きながら続けた。
「……あいつの声、聞きてえ……」
マカロフを抱く腕に、そっと力がこもる。
「……こいつを抱いて、笑ってるリタが見てえよ……」
涙が止まらなかった。
「……俺、まだ……」
声が途切れる。
「……まだ、何にも返せてねえんだよ……!」
ユーリは、とうとう顔を伏せた。
肩が大きく震える。
その姿を見て、ウォーロッドが静かに立ち上がった。
「……ユーリ」
穏やかな声だった。
「……マカロフを、少し抱いていてもいいかな」
ユーリは顔を上げた。
腕の中の赤ん坊を見る。
小さな寝息。
柔らかな頬。
リタが命をかけて産んだ、大切な息子。
「……ああ……」
ユーリは、そっとマカロフをウォーロッドへ預けた。
ウォーロッドは慎重に赤ん坊を抱き上げる。
「……大丈夫。僕が見ているよ」
その言葉を聞いた瞬間。
ユーリの表情が崩れた。
「……っ、う……!」
プレヒトが、親友の肩に手を置く。
すると。
ユーリは、その肩に顔を埋めた。
「……リタ……!」
嗚咽が漏れる。
「……リタぁ……!」
何度も。
何度も。
最愛の妻の名前を呼んだ。
プレヒトは何も言わず、その背中を支えた。
ウォーロッドは、マカロフを抱きながら目を伏せた。
セヴェルも静かに立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。
イリスは涙を拭うこともできず、ただ立ち尽くしていた。
そして。
メイビスの幻影は、泣いていた。
頬を伝う涙が、光となって消えていく。
何度も謝りたかった。
けれど。
その言葉を繰り返すことさえ、今は残酷な気がした。
だから、何も言わなかった。
ただ、ユーリの悲しみから目を逸らさなかった。
◇
どれほどの時間が過ぎただろう。
ユーリの泣き声は、少しずつ小さくなっていた。
けれど、涙が止まったわけではない。
プレヒトの肩に手を置いたまま、何度も息を整えていた。
やがて。
「……メイビス」
ユーリが顔を上げた。
「……はい……」
メイビスの幻影が、震える声で答える。
「……俺、今は……」
ユーリは言葉を探した。
「……お前を、どう思えばいいのかわかんねえ」
メイビスは目を伏せた。
「……はい……」
「……許せるかどうかも、わかんねえ」
「……はい……」
「……正直、顔を見るのもつらい」
その言葉に、メイビスの肩が震えた。
けれど、彼女は逃げなかった。
「……はい……」
ユーリは深く息を吐いた。
「……でもな」
その声が、少しだけ柔らかくなる。
「……お前が、俺たちの幸せを願ってくれてたことは……わかってる」
メイビスの瞳が揺れた。
「……ユーリさん……」
「……だから、余計に……」
ユーリは唇を噛んだ。
「……どうしていいかわかんねえんだよ……」
メイビスは、深く頭を下げた。
「……ごめんなさい……」
ユーリは、もう何も言わなかった。
許しの言葉も。
拒絶の言葉も。
今は、どちらも口にできなかった。
ただ、そこには。
大切な人を失った一人の青年と。
その命を奪ってしまった一人の少女がいた。
十年間、共に笑い、共に戦い、共にギルドを育ててきた仲間たち。
その絆が、簡単に消えるわけではない。
けれど。
傷つかなかったことにも、できなかった。
イリスは、静かに二人を見つめていた。
そして、心の中で思った。
――いつか。
いつか、みんながまた笑える日が来てほしい。
けれど、その願いを口にはしなかった。
今は、まだ。
悲しんでいていいのだから。
---
第三幕 変わらぬ少女
昼を過ぎた頃。
ギルドには、静かな時間が流れていた。
ユーリはウォーロッドからマカロフを受け取り、奥の部屋へ向かった。
少し休むという。
プレヒトも、しばらく彼のそばについていくことになった。
メイビスの幻影は、イリスと共に窓際の席に座っていた。
どちらも、ほとんど言葉を交わさなかった。
やがて。
「……イリス」
低い声が聞こえた。
顔を上げると、セヴェルが立っていた。
「……セヴェルさん」
「……少し、いいか」
イリスは首を傾げた。
「……はい?」
セヴェルは一度、奥の部屋へ視線を向けた。
そして、ギルドの中を見渡す。
「……今でなくても構わない」
静かな声だった。
「……だが、以前から調べていた件について、報告できることがある」
イリスは瞬きをした。
「……以前から……?」
そして、思い出す。
「……私の身体のこと、ですか?」
「ああ」
セヴェルは頷いた。
「……もっとも、結論と呼べるほどのものではないがな」
イリスは少し考えた。
そして、隣のメイビスを見た。
「……メイビスも、一緒に聞いてもいいですか?」
「……構わない」
セヴェルは静かに答えた。
「……むしろ、彼女にも関係のある話かもしれん」
メイビスが顔を上げる。
「……私にも、ですか?」
「……ああ」
セヴェルは、少しだけ表情を和らげた。
「……場所を変えよう」
◇
ギルドの奥にある、小さな研究室。
そこには、セヴェルが集めた魔法書や研究資料が並んでいた。
机の上には、魔力測定用の器具や、いくつもの記録用紙。
イリスとメイビスの幻影は、並んで椅子に座った。
セヴェルは一冊の資料を開く。
「……四年前のことを覚えているか?」
「……はい」
イリスは頷いた。
「……私の身体が、昔からほとんど変わっていないことを相談しました」
「……そうだ」
セヴェルは資料に目を落とした。
「……あれから、可能な範囲で調査を続けていた」
メイビスが、イリスを見つめる。
「……そうだったんですね」
「……はい。実は、少し気になっていたんです」
イリスは苦笑した。
「……十年も経っているのに、背も伸びませんし……」
メイビスは小さく瞬きをした。
そして、改めてイリスを見つめる。
黒髪。
青と金の瞳。
整った顔立ち。
天狼島で初めて出会った頃から、ほとんど変わっていない少女。
確かに。
十年という月日が流れたとは思えないほど、その姿は変わらなかった。
「……言われてみれば……」
メイビスが呟いた。
「……イリスさん、ずっと同じ姿ですね」
「……そうなんですよ」
イリスは困ったように笑った。
「……自分でも、不思議で」
セヴェルが静かに口を開いた。
「……結論から言おう」
二人が顔を向ける。
「……お前の身体には、長期間にわたって老化の兆候が確認できない」
イリスは目を瞬かせた。
「……やっぱり、ですか」
「ああ」
セヴェルは資料をめくった。
「……魔力の状態、身体の変化、これまでの記録。調べられる範囲では、いずれも通常の人間とは異なる」
「……異なる……」
「……ただし」
セヴェルは顔を上げた。
「……ここからが重要だ」
イリスは背筋を伸ばした。
「……はい」
「……原因は、わからない」
「…………」
「……お前の身体に何らかの特殊な性質があることは考えられる。だが、それが魔法によるものなのか、生まれ持ったものなのか、それすら断定できん」
セヴェルは静かに続けた。
「……そして、永遠に老化しないと証明されたわけでもない」
イリスは頷いた。
「……つまり……」
「……現時点では、老化の兆候が見られない。それ以上でも、それ以下でもない」
研究者らしい、慎重な言葉だった。
「……今後、突然変化が現れる可能性も否定できん」
「……そうですか」
イリスは、しばらく考え込んだ。
十年前。
異世界から、この世界へ迷い込んだとき。
自分は十七歳だった。
あれから十年。
本来なら、二十七歳になっているはずだった。
けれど、身体はあの頃のまま。
鏡に映る顔も。
手の大きさも。
背丈も。
何一つ、変わっていない。
「……不思議ですね」
イリスは小さく呟いた。
「……本当に」
セヴェルは頷いた。
「……俺も、これほど興味深い例は初めてだ」
その声には、研究者としての純粋な好奇心が滲んでいた。
けれど。
「……とはいえ」
セヴェルは資料を閉じた。
「……現時点では、これ以上の結論は出せん」
イリスが顔を上げる。
「……曖昧な結果ですまないな」
「……いえ」
イリスは首を振った。
「……調べてくださって、ありがとうございます」
セヴェルは小さく頷いた。
「……今後も調査は続ける。何かわかれば、また伝えよう」
「……はい」
そこで、話は終わるはずだった。
けれど。
イリスは、隣のメイビスを見つめた。
長い金髪。
緑色の瞳。
いつまでも幼い姿のままの少女。
アンクセラムの呪い。
それは、命を奪うだけではない。
ゼレフが長い年月を生き続けていることからも、通常の人間とは異なる時間を生きる可能性がある。
メイビスもまた、同じ呪いを背負ってしまった。
これから先。
彼女がどれほど長い時間を生きることになるのか。
誰にもわからない。
けれど。
もし、自分も。
同じように、長い時間を生きるのだとしたら。
イリスは、ふっと微笑んだ。
「……メイビス」
「……はい?」
「……これなら、ずっと一緒にいられますね」
メイビスが目を見開いた。
「…………え……?」
イリスは少しだけ首を傾げる。
「……もちろん、まだわからないことばかりですけど」
その声は、どこか冗談めいていた。
「……もし、このまま歳を取らないのなら……」
イリスは穏やかに笑った。
「……何十年でも、何百年でも、一緒にいられるかもしれませんね」
メイビスの瞳が揺れた。
何十年。
何百年。
その言葉が、胸に染み込んでいく。
昨日まで。
メイビスは、これから先の未来を考えることさえ怖かった。
自分だけが生き続けるかもしれない。
大切な仲間たちが、いつか皆いなくなってしまうかもしれない。
そして、自分は誰にも触れられず、一人で生きていかなければならないのかもしれない。
そんな未来が、恐ろしかった。
けれど。
目の前の少女は。
まるで、何でもないことのように。
一緒にいられるかもしれないと、笑っていた。
「……イリスさん……」
メイビスの声が震えた。
「……そんなこと、言われたら……」
瞳に、涙が浮かぶ。
「……期待、しちゃいますよ……?」
イリスは微笑んだ。
「……いいじゃないですか」
「……え……?」
「……少しくらい、期待しても」
イリスは静かに続けた。
「……まだ、何も決まっていないんですから」
メイビスは唇を噛んだ。
そして。
「……はい……」
小さく頷いた。
「……そう、ですね……」
その頬を、一粒の涙が伝った。
けれど。
その涙は、昨日のような絶望だけの涙ではなかった。
「……私も……」
メイビスは、かすかに微笑んだ。
「……イリスさんと、ずっと一緒にいたいです」
イリスは嬉しそうに笑った。
「……はい」
少しの沈黙。
そして、メイビスはふと何かを思いついたように、イリスを見つめた。
「……あの、イリスさん」
「……はい?」
「……一つ、お願いしてもいいですか?」
イリスは首を傾げた。
「……何でしょう?」
メイビスは、少しだけ頬を赤らめた。
「……私も、名前で呼んでいいですか?」
イリスは不思議そうに瞬きをした。
「……今までも、名前で呼んでいましたよ?」
「……そうじゃなくて……」
メイビスは、少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……イリス、って」
イリスは一瞬驚いた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……もちろんです」
メイビスは小さく息を吸った。
「……イリス」
「……はい、メイビス」
その短いやり取りに、二人は顔を見合わせた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「……なんだか、不思議な感じですね」
メイビスが呟く。
「……そうですね」
イリスも微笑んだ。
「……でも、私は嬉しいです」
メイビスの表情が、少しだけ明るくなる。
「……私も、です」
セヴェルは、そんな二人を静かに見つめていた。
そして。
「……まったく」
小さく息を吐く。
「……研究者としては、まだ何も保証できんのだがな」
イリスが振り返る。
「……ふふ、わかっていますよ」
セヴェルは肩をすくめた。
「……なら、いい」
その口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
◇
研究室を出る前。
メイビスが、ふと立ち止まった。
「……セヴェルさん」
「……何だ?」
「……昨日は……」
メイビスは目を伏せた。
「……リタさんを、助けようとしてくださって……ありがとうございました」
セヴェルの表情が静かになった。
「…………」
「……私のせいで……」
メイビスの声が震える。
「……あなたにも、つらい思いを……」
「……メイビス」
セヴェルが静かに遮った。
「……俺は、治癒魔導士だ」
メイビスが顔を上げる。
「……目の前で命が失われることを、平然と受け入れられるほど、達観してはいない」
セヴェルは目を伏せた。
「……救えなかったことは、悔しい」
その声は、静かだった。
「……だが、今ここでお前を責めても、リタは戻らん」
「…………」
「……だからこそ、調べる必要がある」
メイビスが瞬きをした。
「……調べる……?」
「……その呪いについてだ」
セヴェルは、机の上の資料へ視線を向けた。
「……俺の知る魔法体系では説明できない現象が、まだ多すぎる」
そして、静かに告げた。
「……何も知らないまま、同じ悲劇を繰り返すつもりはない」
メイビスの瞳が潤んだ。
「……ありがとうございます……」
セヴェルは、それ以上何も言わなかった。
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第四幕 妖精たちの約束
夕暮れ。
ギルドの窓から、橙色の光が差し込んでいた。
ユーリは奥の部屋で、マカロフと共に休んでいる。
プレヒトとウォーロッドは、再び広間へ戻ってきていた。
イリスとメイビスの幻影。
そして、セヴェル。
五人は、一つのテーブルを囲んでいた。
「……それで」
プレヒトが静かに口を開いた。
「……これから、どうするつもりだ?」
イリスは、メイビスを見た。
メイビスもまた、イリスへ視線を向ける。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……私たち、ゼレフさんを探そうと思っています」
プレヒトの眉が動いた。
「……ゼレフを?」
「……はい」
メイビスが答える。
「……ゼレフさんも、アンクセラムの呪いを受けています」
その名前に、ウォーロッドも顔を上げた。
「……僕たちに魔法を教えてくれた、あの人だね」
「……はい」
メイビスは頷いた。
「……あの人なら、呪いについて何か知っているかもしれません」
プレヒトは腕を組んだ。
「……確かに、可能性はあるな」
セヴェルも静かに頷く。
「……同じ現象を経験している者なら、得られる情報は多いだろう」
イリスは口を開いた。
「……もちろん、ゼレフさんに会えたからといって、すぐに解決するとは思っていません」
「……だろうな」
プレヒトが頷く。
「……神の呪い、か」
その声には、苦い響きがあった。
「……厄介な話だ」
メイビスは目を伏せた。
「……すみません……」
「……謝るな」
プレヒトが静かに言った。
メイビスが顔を上げる。
「……いや、違うな」
プレヒトは一度、言葉を切った。
「……お前が謝らなければならないことがあるのは、わかっている」
「…………」
「……だが、これからどうするかを考えることまで、諦める必要はない」
メイビスの瞳が揺れた。
プレヒトは続けた。
「……ゼレフを探すというなら、俺も協力しよう」
「……プレヒトさん……?」
「……古代魔法や呪いについて、調べてみる」
その声は、いつもの冷静なものだった。
「……今すぐ答えが出るとは思わん。だが、何もしないよりはいい」
セヴェルが頷いた。
「……なら、俺も加わろう」
プレヒトが顔を向ける。
「……セヴェル?」
「……魔法理論や術式の解析なら、お前の方が詳しいだろう」
セヴェルは静かに続けた。
「……だが、魔力の作用や身体への影響については、俺にも調べられることがある」
プレヒトは少し考えた。
「……共同研究、ということか」
「……そういうことだ」
セヴェルの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「……お前となら、退屈はしなさそうだ」
プレヒトも、小さく息を吐いた。
「……こちらの台詞だ」
イリスは、そんな二人を見つめた。
かつて敵として戦ったセヴェル。
そして、天狼島から共に歩んできたプレヒト。
今では、同じギルドの仲間として、同じ問題に向き合おうとしている。
「……ありがとうございます」
イリスは深く頭を下げた。
メイビスも、幻影の身体で頭を下げる。
「……本当に、ありがとうございます……」
ウォーロッドが穏やかに微笑んだ。
「……僕も、できることを探してみるよ」
「……ウォーロッドさん……」
「……各地の情報なら、少しは集められると思う」
ウォーロッドは続けた。
「……それに、ギルドのことも心配しなくていい」
イリスが顔を上げる。
「……はい?」
「……二人が旅に出ても、僕たちがここを守るから」
その言葉に、イリスの胸が温かくなった。
十年前。
天狼島で出会った仲間たち。
何もなかったところから、共に築いたギルド。
あの頃は、こんな未来など想像もしていなかった。
「……ありがとうございます」
イリスは、もう一度頭を下げた。
ウォーロッドは首を振った。
「……お礼なんていらないよ」
そして、少しだけ笑った。
「……僕たち、仲間だろう?」
その言葉に。
メイビスの瞳が潤んだ。
「……はい……」
小さな声だった。
「……仲間、です……」
◇
話し合いが一段落した頃。
メイビスが、ゆっくりと顔を上げた。
「……プレヒトさん」
「……何だ?」
メイビスは、真剣な表情で彼を見つめた。
「……お願いがあります」
プレヒトの眉が、わずかに動いた。
「……お願い?」
「……はい」
メイビスは、膝の上で両手を握りしめた。
「……私の代わりに、妖精の尻尾を守っていただけませんか?」
その言葉に、プレヒトは目を見開いた。
「……それは……」
メイビスは、静かに続けた。
「……二代目ギルドマスターを、お願いしたいんです」
ギルドに、静寂が落ちた。
ウォーロッドが驚いたように顔を上げる。
セヴェルも、メイビスを見つめた。
イリスは、何も言わなかった。
ただ、メイビスの決意を静かに見守っていた。
「……私がギルドへ戻れなくても、妖精の尻尾は続いていかなければなりません」
メイビスの声は、少しだけ震えていた。
「……みんなが帰ってこられる場所を、これからも守ってほしいんです」
プレヒトは、長い間黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……メイビス」
「……はい」
「……お前は、本当にそれでいいのか?」
メイビスは頷いた。
「……はい」
その瞳には、確かな決意が宿っていた。
「……私は、今のままではギルドを守れません」
メイビスは続けた。
「……でも、妖精の尻尾を失いたくないんです」
その声が、少しだけ震える。
「……ここは、私たちが一緒に創った、大切な居場所ですから」
プレヒトは目を伏せた。
十年前。
天狼島で出会った少女。
誰よりも小さな身体で、誰よりも大きな夢を語っていた少女。
その少女が、今。
自分に、ギルドの未来を託そうとしている。
「……わかった」
プレヒトは、ゆっくりと頷いた。
「……引き受けよう」
メイビスの瞳が揺れた。
「……プレヒトさん……!」
「……お前たちが帰ってくる場所は、俺が守る」
その声には、確かな決意があった。
「……だから、お前たちは自分たちのやるべきことをやれ」
メイビスの頬を、涙が伝った。
「……ありがとうございます……!」
プレヒトは、少しだけ表情を和らげた。
「……ただし」
メイビスが顔を上げる。
「……何ですか?」
「……お前は、妖精の尻尾の初代マスターだ」
その言葉に、メイビスは息を呑んだ。
「……それは、これから先も変わらん」
プレヒトは静かに続けた。
「……お前がどこにいようと、俺たちが一緒に創ったギルドであることに変わりはない」
メイビスの瞳から、涙が溢れた。
「……はい……!」
ウォーロッドも、穏やかに微笑んだ。
「……これで、安心して旅に出られるね」
セヴェルも静かに頷いた。
「……研究のことも、ギルドのことも、こちらに任せておけ」
イリスは、そんな仲間たちを見つめていた。
胸の奥に、温かなものが広がっていく。
十年前。
何も知らない世界に迷い込んだ自分に、居場所をくれた仲間たち。
その仲間たちが、今度はメイビスの未来を支えようとしている。
「……ありがとうございます」
イリスは、深く頭を下げた。
その声は、少しだけ震えていた。
◇
話し合いが終わりかけた頃。
奥の部屋から、足音が聞こえた。
ユーリだった。
腕には、マカロフを抱いている。
「……ユーリ」
プレヒトが立ち上がる。
「……休んでいなくていいのか?」
「……ああ」
ユーリは小さく頷いた。
「……少し、眠れた」
その顔には、まだ疲れが色濃く残っていた。
目元も赤い。
けれど、先ほどよりは落ち着いているように見えた。
ユーリはテーブルへ近づいた。
「……話、少し聞こえた」
イリスが顔を上げる。
「……ユーリさん……」
「……ゼレフを探すんだって?」
「……はい」
イリスは頷いた。
「……呪いについて、何か手掛かりがあるかもしれませんから」
ユーリは、しばらく黙っていた。
そして、メイビスの幻影へ視線を向けた。
「……メイビス」
「……はい……」
メイビスの身体が強張る。
ユーリは、少しだけ目を伏せた。
「……俺、まだ……」
声が震える。
「……お前と、どう話せばいいのかわかんねえ」
「……はい……」
「……リタのことも……」
ユーリはマカロフを見つめた。
「……たぶん、一生忘れられねえ」
メイビスの瞳に、涙が浮かぶ。
「……はい……」
ユーリは深く息を吐いた。
「……だから、今は……何も言えねえ」
「…………」
「……許すとも、許さねえとも……」
その声が、少しだけかすれた。
「……まだ、決められねえんだ」
メイビスは、ゆっくりと頷いた。
「……わかっています……」
ユーリは目を閉じた。
そして。
「……でも」
小さく呟いた。
「……呪いをどうにかする方法があるなら……探してこい」
メイビスが顔を上げた。
「……ユーリさん……?」
「……リタみたいなことが、もう二度と起きねえように……」
ユーリは、マカロフを抱き直した。
「……それだけは、頼む」
メイビスの頬を、涙が伝った。
「……はい……!」
声が震える。
「……必ず、探します……!」
ユーリは、それ以上何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
イリスは、そんな二人を静かに見つめていた。
許しではない。
和解でもない。
失われたものが戻ったわけでもない。
それでも。
互いに背を向けたままではなく。
これから先のことを、少しだけ話すことができた。
今は、それで十分だった。
◇
夕日が沈み始めていた。
イリスとメイビスの幻影は、ギルドの扉の前に立っていた。
「……今日は、ありがとうございました」
イリスが頭を下げる。
プレヒトは小さく頷いた。
「……気をつけろ」
ウォーロッドも微笑む。
「……また、いつでも連絡してね」
セヴェルは腕を組んだまま、静かに言った。
「……何かわかれば、知らせる」
「……はい」
イリスは微笑んだ。
「……よろしくお願いします」
メイビスの幻影も、深く頭を下げた。
「……皆さん……」
その声が震える。
「……本当に、ありがとうございます……」
プレヒトは、しばらくメイビスを見つめていた。
そして。
「……メイビス」
「……はい」
「……帰る場所は、残しておく」
メイビスの瞳が揺れた。
「……だから、いつかまた、帰ってこい」
メイビスの幻影が、涙を流した。
「……はい……!」
その涙が、淡い光となって消えていく。
イリスは、そんなメイビスを見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「……行きましょうか、メイビス」
「……はい、イリス」
二人は、ギルドの扉を開いた。
外には、夕暮れのマグノリアが広がっていた。
見慣れた街並み。
見慣れた空。
十年間、何度も歩いた道。
けれど。
明日からは、もう以前と同じ日常には戻れない。
リタはいない。
ユーリの悲しみは、消えていない。
メイビスの呪いも、解けていない。
イリスの身体の謎も、まだ何一つ明らかになっていない。
それでも。
仲間たちは、手を差し伸べてくれた。
プレヒトとセヴェルは、呪いの研究を。
ウォーロッドは、ギルドと仲間たちを守ることを。
そして、ユーリは。
悲しみの中で、それでも未来へ進むための言葉を口にしてくれた。
イリスは、夕焼けの空を見上げた。
「……メイビス」
「……はい?」
「……私たち、幸せ者ですね」
メイビスは、少しだけ目を見開いた。
そして。
「……はい……」
涙の残る顔で、微笑んだ。
「……本当に、そうですね……」
その笑顔は、まだ弱々しかった。
けれど。
昨日のような、絶望だけの表情ではなかった。
◇
ギルドの奥。
窓際の席に、ユーリが座っていた。
腕の中では、マカロフが静かに眠っている。
ユーリは、その小さな顔を見つめた。
「……なあ、リタ」
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
「……俺、ちゃんと父親になれるかな……」
返事はない。
もう二度と、あの優しい声は聞こえない。
ユーリは目を閉じた。
「……お前がいねえと、何にもわかんねえよ……」
涙が、頬を伝った。
それでも。
腕の中の小さな命は、確かに温かかった。
ユーリは、そっとマカロフの額に触れた。
「……でも……」
声が震える。
「……こいつだけは、絶対に守るからな……」
その言葉は、誰に聞かせるでもない約束だった。
リタへ。
そして、生まれたばかりの息子へ。
窓の外では、夕日が静かに沈んでいく。
かつて、五人で始まった小さなギルド。
十年の月日を経て、多くの仲間が集まった。
喜びも、笑い声も、数え切れないほどあった。
そして今。
初めて、取り返しのつかない悲しみを知った。
けれど。
悲しみを抱えたままでも、誰かのそばにいることはできる。
涙を流しながらでも、誰かの手を握ることはできる。
失われた命は戻らない。
過ぎ去った時間も戻らない。
それでも、残された者たちは生きていく。
妖精の尻尾。
それは、楽しいときだけ集まる場所ではない。
悲しいときも。
苦しいときも。
立ち上がれないときも。
帰ってこられる場所。
仲間たちが、共に築いた家族のような居場所だった。
そして。
その絆は、これから先も。
決して、消えることはない。
――第67話 終――
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
今後とも『妖精と聖剣使い』をよろしくお願いいたします。