X701年。
フィオーレ王国、マグノリア。
魔導士ギルド「妖精の尻尾」。
朝の光が差し込む研究室には、四人の魔導士が集まっていた。
「お待たせしました!」
弾んだ声とともに、大きな資料の束が机に置かれる。
メイビス・ヴァーミリオン。
かつて妖精の尻尾を創設した初代マスターは、目を輝かせながら資料を広げていた。
その隣では、黒髪の少女が微笑んでいる。
イリス・アストレア。
青と金のオッドアイを持つ聖剣使いは、楽しそうなメイビスの様子を眺めていた。
「ずいぶん張り切っていますね、メイビス」
「もちろんです! こんなに本格的な共同研究、久しぶりですから!」
「……研究そのものが目的にならなければいいのですが」
そう呟いたのは、机の向こうに座るプレヒト・ゲイボルグだった。
眼帯をつけた二代目マスターは、すでに筆記具と魔法陣の資料を用意している。
その隣には、もう一人の男がいた。
セヴェル・アクエリス。
イリスの身体やメイビスの呪いについて研究を続ける協力者だった。
「研究者が四人も集まれば、脱線する可能性は高いでしょうね」
「セヴェルさんまで、そんなことを言うんですか?」
イリスが苦笑すると、セヴェルは涼しい顔で答えた。
「私は事実を述べただけですよ」
「むう。皆さん、少し失礼ではありませんか?」
頬を膨らませるメイビスに、三人の間から小さな笑いがこぼれた。
五年ぶりに戻ってきたギルドで、こうして仲間と同じ机を囲める。
それだけでも、イリスには嬉しいことだった。
けれど、今日集まったのは懐かしい時間を楽しむためだけではない。
メイビスがこれからも人々の中で暮らしていくために。
その可能性を、魔法の力で広げるためだった。
◇
「まずは、現在の実体幻影について確認しましょう!」
メイビスが指先を動かす。
淡い光が机の上に集まり、小さな人影を形作った。
手のひらほどの大きさをした、メイビスそっくりの少女。
小さな幻影は机の上を歩き、置かれていた木片を両手で持ち上げた。
「……やはり、普通の幻影とは根本的に違うな」
プレヒトが身を乗り出す。
「外見だけでなく、物体に干渉するための術式まで組み込まれている」
「はい! 身体の形を維持する部分と、動作を制御する部分を分けているんです」
「感覚の再現も含まれているのでしょう?」
セヴェルの問いに、メイビスは頷いた。
「ええ。ただし、人体を完全に再現しているわけではありません。今は必要な機能を優先しています」
「合理的ですね。人体の内部構造は非常に複雑です。すべてを再現しようとすれば、それだけ維持する負担も増えるでしょう」
「セヴェルさんは、そういった分野にも詳しいんですよね?」
イリスが尋ねる。
「再生や治癒を研究する以上、人体の知識は欠かせませんからね」
セヴェルは小さな幻影を観察しながら続けた。
「もっとも、魔力で構成された身体を、生身の人間と同じように扱えるとは限りません。そこは慎重に調べる必要があります」
「なるほど……」
メイビスは興味深そうに頷いた。
その横で、イリスの金色の瞳には、幻影を構成する魔力が細い光の糸となって映っていた。
「……メイビス。少しだけ、歩く速さを変えてもらえますか?」
「はい!」
小さな幻影が歩き始める。
ゆっくりと。
そして、少しずつ速く。
「……あ」
イリスが目を細めた。
「身体の形を保っている魔力は、ほとんど変わっていません。でも、足を動かす部分の流れが強くなっています」
「動作によって必要な魔力量が変わるわけか」
プレヒトが素早く記録する。
「ええ。それに、魔力の供給を少なくすると、細かい動作から不安定になっていきます」
メイビスが幻影への魔力を絞る。
小さな少女の歩みがぎこちなくなり、やがて立ち止まった。
姿そのものは、まだ保たれている。
「……なるほど」
セヴェルが呟いた。
「魔力が不足した場合、すべての機能が同時に停止するわけではない。どの部分に優先して魔力を配分するかも、重要になりそうですね」
「はい! そこも改良したいところなんです!」
メイビスは嬉しそうに笑った。
しかし、プレヒトは資料へ視線を落とす。
「問題は、それだけではない。実体幻影を長時間維持するには、相応の魔力が必要だ。まして、本体から離れた場所で活動させるならなおさらだろう」
メイビスの笑顔が、少しだけ落ち着いた。
現在、彼女の本体はマグノリア郊外の森にいる。
イリスの防御魔法で保護された、人の立ち入らない場所。
この研究室にいるメイビスは、本体から魔力を受けて活動する実体幻影だった。
「……そうですね」
メイビスは小さく頷く。
「今のままでも活動はできます。でも、もっと長く、もっと自由に動けるようになりたいんです」
その言葉に、イリスは静かに微笑んだ。
「では、その方法を探しましょう」
「はい!」
メイビスが再び顔を上げる。
「実は、ゼレフと研究した資料の中に、使えそうなものがあるんです!」
机の上に、古い術式の写しが広げられた。
◇
「……封印魔法か」
プレヒトが資料を読み進める。
「対象を閉じ込めるだけではない。内部の魔力の流れを制御する術式が含まれているな」
「はい。ゼレフと一緒に、魔力を一定の領域に保持する方法を考えていたんです」
メイビスが説明する。
かつて三人で旅をしていた頃。
ゼレフと交わした魔法についての議論は、今も彼女の中に残っていた。
「……なるほど」
セヴェルが別の資料を手に取る。
「魔力を単に閉じ込めるのではなく、内部の流れまで制御するわけですか」
「ああ。封印術式を応用すれば、魔力の保持と供給を両立できる可能性がある」
プレヒトが答える。
「興味深いですね。ただし、内部の魔力が不安定になった場合の対策も必要でしょう」
「それなら、実際に試してみませんか?」
メイビスの提案に、プレヒトが頷いた。
「まずは小規模な実験からだな」
用意されたのは、一つの魔水晶だった。
魔力を蓄積できる性質を持つ、研究用の小さな結晶。
プレヒトが周囲に封印術式を組み込み、魔力を内部へ保持するための装置を作る。
「イリス。少しずつ魔力を流してもらえるか?」
「はい」
イリスが魔水晶へ手を向ける。
淡い光が指先から伸び、透明な結晶の内部へ吸い込まれていった。
最初は順調だった。
魔水晶の中に、少しずつ魔力が蓄えられていく。
しかし。
「……あれ?」
イリスが眉を寄せた。
金色の瞳に映る光が、一か所へ集まり始めている。
「プレヒトさん。内部の魔力が偏っています」
「何?」
プレヒトが計測用の魔法陣を確認する。
「……蓄積量は、まだ限界に達していないはずだが」
「供給を止めてください」
セヴェルの声が鋭くなる。
イリスはすぐに魔力を止めた。
だが、次の瞬間。
――パキンッ!
魔水晶に亀裂が走った。
「っ!」
イリスが片手を上げる。
透明な防御障壁が四人を包み、飛び散った破片を受け止めた。
乾いた音が収まり、研究室に静けさが戻る。
「……皆さん、お怪我はありませんか?」
「大丈夫です!」
「私も問題ない」
「ええ。適切な判断でした」
セヴェルは割れた魔水晶を見下ろした。
「……容量の限界ではありませんね。内部で魔力が偏ったことが原因と考えられます」
「はい。一か所に魔力が集まっていくのが見えました」
イリスが答える。
「なるほど。ならば、蓄積量を増やす前に、魔力を均等に分散させる必要があります」
「……それなら!」
メイビスが勢いよく顔を上げた。
「循環術式が使えるかもしれません!」
プレヒトの眼差しが鋭くなる。
「魔力を一か所に留めず、内部で循環させるのか」
「はい! ゼレフと研究した術式を応用すれば……!」
メイビスは新しい紙を広げ、魔法陣を描き始めた。
プレヒトも隣から筆を走らせる。
セヴェルは破損した魔水晶の状態を調べ、イリスは二人が描く術式を覗き込んだ。
失敗したばかりだというのに、研究室の空気は不思議と明るかった。
イリスは思わず笑ってしまう。
「……皆さん、本当に研究がお好きなんですね」
「もちろんです!」
メイビスの返事は、驚くほど早かった。
◇
それから、一週間ほどが過ぎた。
研究室では何度も実験が繰り返されていた。
魔水晶の内部に循環路を作り、魔力が一か所へ集中しないようにする。
その方法自体は、比較的早く形になった。
しかし、新しい問題が生まれた。
「……また流れが乱れました」
イリスが魔水晶を見つめる。
内部では魔力が円を描くように循環していたが、新たな魔力を加えた瞬間、その流れが大きく揺らいでいた。
「循環そのものは安定している。問題は外部からの流入か」
プレヒトが呟く。
「流れている水に、別の方向から勢いよく水を注ぎ込むようなものですね」
セヴェルが言った。
「流入する魔力を、そのまま循環路へ加えるのは避けた方がいいでしょう」
「……なるほど!」
メイビスが手を打つ。
「一度、別の領域で流れを整えてから加えるんですね!」
「ええ。流入する魔力の量と勢いを調整できれば、循環を乱さずに済む可能性があります」
プレヒトが新しい術式を書き加えた。
「ならば、ここに調整領域を設けよう」
数日後。
四人は改良した装置の前に立っていた。
「では、始めます」
イリスが魔力を流し込む。
魔水晶の内部へ入った魔力は、まず小さな調整領域を通過した。
そこで流れを整えられ、循環路へと加わっていく。
イリスの金色の瞳には、魔力が滑らかな輪を描いている様子が見えていた。
「……安定しています」
「数値も問題ない」
プレヒトが頷く。
「流入による乱れも、ほとんど確認できませんね」
セヴェルが記録を確かめる。
メイビスは両手を握りしめた。
「……ということは!」
「成功ですね」
イリスが微笑む。
「やりました!」
メイビスが嬉しそうに両手を上げた。
プレヒトも満足そうに息を吐く。
「これで、魔力を安定して保持する仕組みは一歩前進したな」
「ええ。ただし、保持できることと、必要な量を取り出せることは別問題です」
セヴェルの言葉に、メイビスがにっこり笑う。
「もちろんです! 次はそこを研究しましょう!」
「……少しは休憩を挟みませんか?」
イリスの控えめな提案は、三人の研究者には聞こえなかったらしい。
◇
次の課題は、蓄えた魔力を実体幻影へ供給することだった。
メイビスが、再び小さな人型の幻影を作る。
プレヒトは魔水晶と幻影を繋ぐ供給術式を構築した。
「まずは、幻影の維持に必要な魔力の一部を外部から補う」
「はい。私自身の魔力も使いながら、少しずつ切り替えてみます」
メイビスが頷いた。
供給装置が起動する。
魔水晶から伸びた魔力が、小さな幻影へ流れ込んだ。
最初の数秒は、何も起こらなかった。
しかし、幻影が一歩踏み出した瞬間。
「……あっ!」
イリスの瞳に映る魔力の流れが、大きく乱れた。
小さな幻影の輪郭が揺らぐ。
次の瞬間、その姿は光の粒子となって消えてしまった。
「……失敗ですね」
メイビスが肩を落とす。
「供給装置の魔力量が不足していたのか?」
「いいえ。むしろ、必要な量と供給量が合っていなかったようです」
イリスが答える。
「歩き始めた瞬間に、幻影の中の魔力の流れが変わりました」
「……そうか」
メイビスが考え込む。
「実体幻影は、動くたびに必要な魔力量が変化するんです。立っているときと、走っているときでは同じではありません」
セヴェルが頷いた。
「魔力を大量に供給すれば安定する、というものではありませんね」
「ああ。必要量に合わせた制御が必要だ」
プレヒトが応じる。
「供給量が急激に変化すれば、幻影の構造そのものが不安定になる可能性があります」
「……ならば!」
メイビスの瞳が輝いた。
「幻影の維持術式と、供給装置を連動させましょう!」
「必要な魔力を装置側で読み取り、自動的に調整するわけか」
「はい!」
プレヒトは腕を組み、しばらく考えた。
「……難しいが、不可能ではなさそうだ」
「問題は調整の速さですね」
セヴェルが言う。
「幻影の動作に対して供給が遅れれば、同じことが起こります」
「それなら、私が魔力の変化を観察します」
イリスが申し出た。
「どの動作で、どのくらい流れが変わるのか。できるだけ細かくお伝えしますね」
「助かります、イリス!」
メイビスが嬉しそうに笑った。
こうして、四人の研究はさらに続いた。
◇
研究を始めてから、およそ三週間。
机の上には、何枚もの術式図と実験記録が積み重なっていた。
失敗した試作品も少なくない。
しかし、その一つひとつが、次の改良へ繋がっていた。
「……準備はいいか?」
プレヒトが尋ねる。
「はい!」
メイビスが頷く。
セヴェルは計測用の魔法陣へ視線を向けた。
「供給量、循環状態、ともに正常です。異常があれば、すぐに停止してください」
「わかりました」
イリスは魔水晶と実体幻影の間に流れる魔力を見つめる。
金色の瞳には、細い光の糸が幾重にも重なって映っていた。
メイビスが指先を動かす。
机の上に、小さな少女が現れた。
「……始めます!」
供給装置が起動した。
魔水晶から魔力が流れ込む。
小さな幻影は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
二歩。
三歩。
「……安定しています」
イリスが呟く。
「次は走らせます!」
メイビスの声に合わせて、幻影が机の上を駆け始めた。
供給される魔力が増える。
だが、流れは乱れない。
「供給量の自動調整が機能しているな」
プレヒトが記録する。
「急激な変動もありません。続けて問題ないでしょう」
セヴェルが答えた。
「では……!」
小さな幻影が跳躍した。
ふわりと宙に浮き、机の上へ着地する。
続いて、置かれていた木片を両手で持ち上げた。
その姿は、消えない。
輪郭も揺らがない。
魔力の流れは、滑らかに保たれていた。
「……成功、です」
イリスが微笑んだ。
一瞬の沈黙。
そして。
「やりましたぁっ!」
メイビスが両手を上げた。
「本当にできました! 外部からの魔力供給です!」
「……ああ」
プレヒトの口元にも、わずかな笑みが浮かぶ。
「小規模とはいえ、実体幻影の維持に外部の魔力を利用できた。大きな成果だ」
「ええ。魔力の安定性も、今回の実験では問題ありません」
セヴェルが頷いた。
「ただし、成功したのはあくまで小さな幻影です。人間と同じ大きさの実体幻影で、同じ結果が得られるとは限りません」
「それでも、一歩前進ですよ!」
メイビスは満面の笑みを浮かべた。
「ねっ、イリス!」
「はい。とても大きな一歩です」
イリスも嬉しそうに頷く。
三週間。
短いようで、決して短くはない時間。
その間に重ねた失敗が、ようやく一つの成果へ結びついた。
四人はしばらく、小さな幻影が机の上を歩く姿を眺めていた。
◇
「……さて」
喜びが落ち着いた頃。
プレヒトが机に広げられた記録を見つめた。
「次の問題を考えなければならないな」
「次の問題、ですか?」
イリスが尋ねる。
「ああ。今回の装置は、小さな幻影を短時間維持するためのものだ」
プレヒトは魔水晶を指差した。
「メイビス本人の実体幻影を、長期間活動させるとなれば、必要な魔力は比較にならないほど大きくなる」
「……そうですね」
メイビスが頷いた。
「身体の大きさだけではありません。複雑な動作や魔法を使えば、もっと多くの魔力が必要になります」
「……もう一つ、問題があります」
セヴェルが静かに口を開いた。
「何でしょうか?」
イリスが尋ねる。
「魔力は使えば減ります。どれほど優れた供給装置を作っても、消費した魔力を補充できなければ、いずれ機能を停止します」
研究室が静かになった。
セヴェルは続ける。
「今回の実験では、あらかじめ魔水晶へ蓄えた魔力を使用しました。しかし、長期間の運用となれば話は別です」
「ああ。膨大な魔力を、安定して確保する方法が必要だ」
プレヒトが頷く。
「……魔力を、確保する方法」
メイビスが小さく繰り返した。
魔力を蓄える。
循環させる。
封印によって保持する。
必要な場所へ供給する。
その仕組みは、少しずつ形になってきた。
けれど、それを動かし続けるための魔力を、どこから得るのか。
まだ答えはない。
メイビスは机の上の小さな幻影を見つめた。
先ほどまで嬉しそうに笑っていた顔に、わずかな陰りが差す。
「……まだ、遠いですね」
ぽつりと漏れた言葉。
イリスは、その隣へ歩み寄った。
「メイビス」
「……イリス?」
「今日、できるようになったことがありますよね?」
「……はい」
「三週間前には、できなかったことです」
イリスは微笑んだ。
「でしたら、次の三週間で、また何かができるようになるかもしれません」
メイビスが顔を上げる。
「焦る必要はありませんよ」
イリスは、そっとメイビスの手を取った。
実体幻影の手。
けれど、そこには確かな温もりがあった。
「私たちには、時間がありますから」
「…………」
メイビスは、しばらくイリスを見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうですね」
繋いだ手を、きゅっと握り返す。
「まだまだ、これからです!」
「ええ」
その様子を見ていたプレヒトが、静かに資料をまとめ始めた。
「ならば、次の研究課題は決まったな」
「膨大な魔力を、継続的に確保する方法ですね」
セヴェルが続ける。
「ああ。ただし、魔力の量だけを追い求めるわけにはいかない。安定性と安全性も必要だ」
「もちろんです!」
メイビスが元気よく答えた。
「皆さん、これからもよろしくお願いします!」
プレヒトは頷き、セヴェルも小さく微笑んだ。
イリスは、そんな三人を見つめながら思う。
かつて、自分はこの世界に一人でやってきた。
帰る方法もわからず、知り合いもいなかった。
けれど今は違う。
共に未来を考えてくれる仲間がいる。
守りたい人がいる。
そして、その人と歩んでいく時間がある。
窓の外では、夕日がマグノリアの街を黄金色に染めていた。
研究室の机には、何枚もの術式図が広がっている。
封印。
蓄積。
循環。
供給。
今はまだ、それぞれが独立した研究成果にすぎない。
けれど、いつか。
そのすべてが、一つの大きな可能性へと繋がる日が来るのかもしれない。
四人はまだ、その答えを知らない。
ただ、今日もまた一つ。
未来へ続く道が、確かに開かれたのだった。
――第79話 終――
【こそこそ妖精話】
~研究室の大掃除~
X701年。
妖精の尻尾、研究室。
三週間にわたる共同研究が一段落した翌日。
イリスは、研究室の扉を開けて立ち尽くしていた。
イリス「…………」
メイビス「あっ、イリス! おはようございます!」
プレヒト「ちょうどいいところに来たな。昨日の実験結果についてだが――」
イリス「……その前に、一つよろしいでしょうか?」
プレヒト「む?」
イリス「この部屋……少し散らかりすぎではありませんか?」
机の上には大量の資料。
床には試作品の部品。
棚からは書類がはみ出し、研究室の隅には用途不明の魔道具まで積み重なっていた。
メイビス「だ、大丈夫です! どこに何があるかは把握しています!」
イリス「では、この書類は?」
メイビス「ええと……昨日の……いえ、一昨日の……?」
プレヒト「それは三日前の実験記録だ」
メイビス「そうでした!」
イリス「…………」
イリスは静かにプレヒトへ視線を向けた。
イリス「プレヒトさんも、少し整理した方がよいと思いませんか?」
プレヒト「確かに散らかってはいる。だが、研究中の資料はすぐ手に取れる場所に置いておく必要がある」
イリス「……床の上にも、ですか?」
プレヒト「…………」
そのとき。
セヴェル「片付けは必要でしょうね。研究環境を清潔に保つことは、安全管理の基本です」
イリス「さすがセヴェルさん!」
ようやく味方が現れた。
そう思ったイリスだったが――。
イリス「では、こちらの資料から片付けましょうか」
セヴェル「……お待ちください」
イリス「はい?」
セヴェル「その資料は、まだ確認が終わっていません」
イリス「では、こちらは?」
セヴェル「それは魔力の安定性に関する記録です。すぐ参照できるようにしておきたいですね」
イリス「……この山は?」
セヴェル「今後の研究に必要です」
イリス「…………」
イリスは三人を順番に見つめた。
イリス「……皆さん、同じですね」
メイビス「えっ?」
プレヒト「む……」
セヴェル「……否定は難しいですね」
イリスは小さくため息をつき、机の端に置かれた空の袋を手に取った。
イリス「それと……これは何でしょう?」
メイビス「あっ、お菓子の袋です!」
イリス「それはわかりますけど……誰のですか?」
プレヒト「…………」
沈黙。
イリスの視線が、ゆっくりとプレヒトへ向けられる。
イリス「……プレヒトさん?」
プレヒト「……研究中は、糖分の補給も必要だからな」
メイビス「プレヒト! いつの間にお菓子を食べていたんですか!?」
プレヒト「……昨日の夜だ」
メイビス「ずるいです!」
イリス「メイビス……?」
メイビス「あっ……いえ! なんでもありません!」
セヴェルが小さく咳払いをした。
セヴェル「……ともかく、研究資料の整理は必要でしょう」
イリス「はい。ですので――」
イリスはにっこりと微笑んだ。
イリス「今日は四人で、大掃除をしましょう!」
メイビス「えええっ!?」
プレヒト「……今日中に終わるだろうか」
セヴェル「……まず、資料の分類方法を決める必要がありますね」
イリス「分類方法の研究を始めないでくださいね?」
三人の研究者は、揃って目を逸らした。
――なお。
研究室の大掃除は、魔力供給装置の開発よりも意見がまとまらなかったという。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
今後とも『妖精と聖剣使い』をよろしくお願いいたします。