X701年。
イシュガル大陸。
フィオーレ王国から遠く離れた、とある山岳地帯。
荒涼とした大地を、一人の青年が歩いていた。
黒い髪。
黒い衣服。
そして、どこか寂しげな瞳。
その青年の名は、ゼレフ。
歴史上、最も凶悪な黒魔道士として恐れられる存在だった。
「……静かだね」
ゼレフが呟く。
周囲には、人の気配がない。
風が岩肌を撫で、乾いた砂を運んでいく。
彼は、しばらく空を見上げていた。
そして、ふと思い出す。
金色の髪をした、小柄な少女。
黒髪に青と金の瞳を持つ少女。
メイビスとイリス。
かつて自分が魔法を教えた少女と、異世界からやってきた聖剣使い。
長い孤独の中で、再び出会うことのできた友人たち。
「……二人とも、元気にしているかな」
自然と、口元が緩んだ。
最後に会ったときも、二人は楽しそうに笑っていた。
互いを大切に思い、支え合いながら生きている。
たとえ困難があっても、二人なら乗り越えていくのだろう。
「……羨ましいな」
小さな声が、風に消えた。
自分にも、あんなふうに誰かと生きる未来があったなら。
そんなことを考えてしまう。
けれど。
ゼレフは、自分の手を見つめた。
アンクセラムの呪い。
命を大切に思えば思うほど、周囲の命を奪ってしまう理不尽な呪い。
それは、今も彼を縛り続けている。
イリスとメイビスは、自分を友人と呼んでくれた。
その事実は、嬉しかった。
だからこそ。
自分の存在が、いつか二人を傷つけてしまうことを恐れていた。
「……僕には、僕のやるべきことがある」
ゼレフは、静かに歩き始めた。
その胸には、一つの研究構想があった。
滅竜魔法。
滅神魔法。
そして、滅悪魔法。
本来、異なる性質を持つ三つの魔法。
それらの因子を、一つの存在に宿すことができたなら。
さらに、その存在をエーテリアスへと変質させたなら。
通常の魔導士とは異なる、まったく新しい魔力の仕組みが生まれるかもしれない。
そして、その先には。
「……無限の魔力」
ゼレフが呟いた。
それは、まだ仮説にすぎない。
三つの魔法因子が共存できる保証もない。
エーテリアス化によって、期待した結果が得られるとも限らない。
それでも。
研究する価値はある。
ゼレフは、そう考えていた。
◇
同じ頃。
山岳地帯の一角で、激しい轟音が響いていた。
「オラァッ!!」
巨大な岩塊が砕け散る。
土煙が舞い上がり、地面に深い亀裂が走った。
その中心に、一人の大柄な男が立っていた。
ガルド・ヴォルグ。
泥の滅竜魔導士。
かつてブルースカルの幹部として活動していた男だった。
「……チッ」
ガルドが舌打ちする。
足元には、砕けた岩と泥が散乱していた。
「こんなもんじゃ、全然足りねえ」
拳を握りしめる。
泥が腕を這い上がり、硬質な装甲のように固まった。
「もっとだ……!」
ガルドは、地面へ拳を叩きつけた。
轟音。
大地が波打ち、泥の柱が幾本も噴き上がる。
「もっと強くならねえと、意味がねえんだよ!」
かつて、自分は敗北した。
妖精の尻尾。
そして、あの黒髪の聖剣使い。
イリス・アストレア。
あの少女は、自分の腕を斬り落とした。
その光景は、今も鮮明に覚えている。
速さ。
剣技。
そして、圧倒的な力。
「……クソが」
ガルドが歯を食いしばった。
あのときは、セヴェルに助けられた。
だが、それは自分の力で勝ち取った生存ではない。
その事実が、何より気に入らなかった。
「次は……絶対に負けねえ」
低い声が響く。
「誰にもだ」
そのときだった。
「……ずいぶん熱心なんだね」
「あ?」
ガルドが振り返る。
少し離れた岩の上に、黒衣の青年が立っていた。
いつからそこにいたのか。
まったく気配を感じなかった。
「……誰だ、てめえ」
「僕かい?」
青年は、穏やかに微笑んだ。
「ゼレフだよ」
その瞬間。
ガルドの表情が変わった。
「……あ?」
数秒の沈黙。
そして。
「……ゼレフ?」
男は、ゆっくりと口角を吊り上げた。
「ハッ!」
豪快な笑い声が響く。
「黒魔道士ゼレフだと!?」
「うん。そう呼ばれているね」
「……面白えじゃねえか!」
ガルドが笑う。
「まさか、こんな場所で伝説の黒魔道士に会えるとはな!」
ゼレフは、少し意外そうに目を瞬かせた。
「……怖くないのかい?」
「ああ?」
「僕の名前を聞いて、逃げ出す人も多いからね」
ガルドは、鼻で笑った。
「くだらねえ」
泥をまとった拳を鳴らす。
「強え奴が目の前にいるってのに、逃げてどうすんだよ」
「……なるほど」
ゼレフが微笑む。
「君は、変わった人だね」
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
◇
「……それで?」
ガルドが腕を組んだ。
「伝説の黒魔道士様が、俺に何の用だ?」
「少し、興味が湧いたんだ」
「興味?」
「君の魔法にね」
ゼレフは、ガルドの腕を見つめた。
「泥の滅竜魔法。それも、体内に滅竜魔法の因子を宿している」
「……ほう」
ガルドの目が細くなる。
「見ただけでわかんのか」
「ある程度はね」
ゼレフは、穏やかに答えた。
「それに、君はずいぶん強さに執着しているようだ」
「当たり前だろ」
ガルドが即答する。
「弱え奴は、強え奴に踏み潰される。それだけの話だ」
「……そうか」
「俺は、踏み潰す側でいたいんだよ」
ガルドが笑った。
「誰にも負けねえ。誰にも従わねえ。そんな力が欲しい」
ゼレフは、しばらく黙っていた。
ふと、二人の少女の姿が脳裏をよぎる。
イリスとメイビス。
彼女たちは、大切な誰かを守るために力を使う。
目の前の男は違う。
ただ、自分自身のために強さを求めている。
それでも。
「……君は、とても正直なんだね」
「あ?」
「自分の望みを、迷わず口にできる」
ゼレフが小さく笑った。
「少し、羨ましいよ」
「……変な奴だな、てめえ」
「よく言われるよ」
ゼレフは、穏やかに答えた。
そして。
「ガルド・ヴォルグ」
初めて、男の名を呼んだ。
「君に、一つ提案がある」
◇
「……提案だと?」
「うん」
ゼレフは、ゆっくりと口を開いた。
「君は、もっと強くなりたいんだよね?」
「ああ」
「だったら、僕の研究に協力してみないかい?」
ガルドの眉が動く。
「……研究?」
「少し、危険な研究だけどね」
ゼレフは、足元に小さな魔法陣を描いた。
三つの異なる紋様が浮かび上がる。
「滅竜魔法」
一つ目の紋様が輝く。
「滅神魔法」
二つ目の紋様が灯る。
「そして、滅悪魔法」
三つ目の紋様が現れた。
「……こいつらが、どうした?」
「三つの魔法は、それぞれ異なる性質を持っている」
ゼレフは、魔法陣を見つめた。
「通常なら、一人の人間がすべてを扱うことは極めて難しい」
「……だろうな」
「でも、もし三つの魔法因子を一つの存在に宿すことができたら?」
ガルドの目が、わずかに見開かれた。
「……何?」
「さらに、その存在をエーテリアスへと変質させる」
ゼレフが指を動かす。
三つの紋様が重なり合い、複雑な魔法陣へと変化した。
「肉体そのものを変え、魔力の生成や循環の仕組みを作り替えるんだ」
「……おいおい」
ガルドが笑う。
「そいつは、とんでもねえ話じゃねえか」
「そうだね」
ゼレフも頷いた。
「成功すれば、これまでにない力を得られる可能性がある」
「どれくらいだ?」
「……わからない」
「あ?」
「まだ、理論の段階だからね」
ゼレフは、正直に答えた。
「三つの因子が共存できるかどうかも不明だ。肉体が変化に耐えられる保証もない」
「……」
「最悪の場合、命を落とす可能性だってある」
ガルドは、黙って聞いていた。
ゼレフは続ける。
「ただし、もし僕の仮説が正しければ……」
魔法陣の中心に、小さな光が生まれた。
「無限の魔力に近づけるかもしれない」
沈黙。
風が吹き抜ける。
やがて。
「……ククッ」
ガルドの肩が震えた。
「クハハハハッ!!」
大きな笑い声が、山々に響き渡った。
「最高じゃねえか!!」
ゼレフが目を瞬かせる。
「……本当に、そう思うのかい?」
「ああ!」
ガルドは、獰猛な笑みを浮かべた。
「滅竜、滅神、滅悪……全部まとめて俺の力になるってんだろ?」
「成功すれば、だけどね」
「十分だ!」
ガルドが拳を握りしめた。
「そんな面白え話、断る理由がねえ!」
ゼレフは、静かに男を見つめた。
「……危険だよ?」
「何度も言わせんな」
ガルドが笑う。
「強くなれる可能性があるなら、俺は賭けるぜ」
その瞳には、迷いがなかった。
◇
「……一つ、確認しておきたい」
ゼレフが口を開いた。
「何だ?」
「僕は、君に力を与えると約束することはできない」
「……」
「研究が失敗する可能性もある。期待した結果が得られないかもしれない」
ゼレフは、真っ直ぐにガルドを見つめた。
「それでも、協力してくれるのかい?」
ガルドは、しばらく黙っていた。
そして。
「……おい、ゼレフ」
「何だい?」
「てめえは、何でそんな研究をしてんだ?」
今度は、ゼレフが黙る番だった。
少しだけ考える。
自分は、何を求めているのだろう。
魔法の可能性。
未知の領域。
そして、今まで誰も到達したことのない力。
それらを追い求める理由は、一つではなかった。
「……僕にも、知りたいことがあるんだ」
「知りたいこと?」
「うん」
ゼレフは、遠くの空を見つめた。
「今の僕には、できないことがたくさんある」
呪い。
死。
そして、失われた命。
どれほど魔法を研究しても、思いどおりにならないことがある。
「……だから、もっと知りたい」
ゼレフが静かに言った。
「魔法が、どこまで可能性を広げられるのか」
ガルドは、しばらくゼレフを見つめていた。
そして、鼻で笑う。
「……なるほどな」
「?」
「てめえも、結局は欲しいもんがあるってことか」
ゼレフは、少し驚いたように目を瞬かせた。
それから。
「……そうかもしれないね」
小さく笑った。
「だったら、話は早え」
ガルドが右手を差し出す。
「俺は力が欲しい」
「……うん」
「てめえは研究を進めたい」
「そうだね」
「なら、利害は一致してるじゃねえか」
ゼレフは、差し出された手を見つめた。
そして、少しだけ困ったように微笑む。
「……握手は、やめておこうか」
「あ?」
「僕には、少し厄介な呪いがあるんだ」
ガルドが眉をひそめる。
「呪い?」
「うん。場合によっては、近くにいる人の命を奪ってしまう」
「……ほう」
「だから、必要以上に近づかない方がいい」
ガルドは、数秒ほど黙っていた。
そして、差し出した手を引っ込める。
「……チッ。面倒くせえな」
「ごめんね」
「謝んな。俺はまだ死ぬつもりはねえ」
ガルドは、獰猛に笑った。
「最強になる前に死んじまったら、笑い話にもならねえからな!」
「……ふふっ」
ゼレフも、小さく笑った。
「君は、本当に面白い人だね」
「そいつはどうも」
ガルドが肩をすくめる。
「で、どこへ行くんだ?」
「研究を進められる場所へ案内するよ」
「アルバレスか?」
その言葉に、ゼレフが少しだけ目を細めた。
「……よく知っているね」
「噂くらいは聞くさ」
ガルドが笑う。
「まあ、どこだって構わねえ」
そして、拳を鳴らした。
「強くなれるならな」
◇
夕暮れ。
二人の男が、荒涼とした大地を歩いていた。
一人は、世界に恐れられる黒魔道士。
もう一人は、強さを渇望する泥の滅竜魔導士。
目的も、性格も、歩んできた道も違う。
それでも。
二人には、共通するものがあった。
今の自分にはない、何かを求めていること。
「……なあ、ゼレフ」
「何だい?」
「その研究、いつ始めるんだ?」
「まずは、君の身体と魔法因子を詳しく調べる必要があるね」
「……チッ。面倒くせえ」
「研究には、準備が必要だからね」
「さっさと強くなりてえんだがな」
「焦って失敗したら、意味がないだろう?」
「……そりゃそうだ」
ガルドが、つまらなそうに鼻を鳴らす。
ゼレフは、その様子を見て小さく笑った。
不思議なものだ。
つい先ほど出会ったばかりの男と、こうして言葉を交わしている。
友人と呼べる関係ではない。
互いに、相手を完全に理解しているわけでもない。
ただ、目的が一致しただけ。
それでも。
誰かと並んで歩くという行為は、ゼレフにある光景を思い出させた。
イリスとメイビス。
いつも楽しそうに笑いながら、隣を歩いていた二人。
「……」
ゼレフは、ほんの少しだけ目を伏せた。
自分たちが、あの二人のようになれるとは思わない。
そもそも、求めているものが違う。
けれど。
誰かと同じ目的に向かって進むこと。
それ自体は、決して悪いものではないのかもしれない。
「……ゼレフ?」
「……ああ、ごめん」
ガルドの声に、ゼレフが顔を上げる。
「何でもないよ」
「変な奴だな、てめえは」
「そうかもしれないね」
ゼレフは、穏やかに微笑んだ。
そして、再び歩き始める。
この出会いが、何をもたらすのか。
研究は成功するのか。
三つの魔法因子は、一つの存在に共存できるのか。
エーテリアス化によって、無限の魔力へ至る道は開かれるのか。
その答えは、まだ誰にもわからない。
ただ一つ、確かなことがある。
この日。
黒魔道士ゼレフと、泥竜ガルド・ヴォルグは出会った。
そして、互いの目的のために手を組んだ。
遠く離れたマグノリアでは、二人の少女が新しい未来へ向かって歩き始めている。
その一方で。
世界の別の場所でも、もう一つの物語が動き始めていた。
それが、いつかどのような運命へ繋がるのか。
今はまだ、誰も知らない。
――第82.5話 終――
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
今後とも『妖精と聖剣使い』をよろしくお願いいたします。