X784年。
フィオーレ王国、マグノリア。
魔導士ギルド、妖精の尻尾。
「イリス!!」
昼下がりのギルドに、元気いっぱいの声が響き渡った。
「……はい?」
カウンターで紅茶を楽しんでいたイリス・アストレアが顔を上げる。
そこには、目を輝かせたメイビス・ヴァーミリオンが立っていた。
「ちょっと試してみたいことがあるんです!」
「……また何か思いついたんですか?」
「ふふーん! 今回はすごいですよ!」
メイビスが得意げに胸を張る。
イリスは思わず微笑んだ。
この表情には覚えがある。
長い付き合いの中で、何度見てきただろう。
メイビスがこんな顔をするときは、大抵とんでもないことを思いついているのだ。
「それで、今回は何をするんですか?」
「空間魔法の実験です!」
「空間魔法……?」
「はい! 以前から考えていたことを、ようやく試せそうなんです!」
その言葉に、イリスの表情が少し変わった。
「……もしかして」
「ふふっ!」
メイビスが嬉しそうに頷く。
「異世界への転移です!」
「……!」
イリスは思わず目を見開いた。
異世界。
それは、彼女が生まれ育った世界。
今もなお、遠い場所に残してきた故郷だった。
「……本当ですか?」
「もちろん、まだ成功するかは分かりませんよ?」
メイビスは笑顔のまま続ける。
「でも、今までとは違う方法を思いついたんです!」
「……そうですか」
イリスは小さく微笑んだ。
「それなら、ぜひ試してみましょう」
「はい!」
メイビスが嬉しそうに手を差し出す。
イリスはその手を取った。
「それじゃあ、行きましょう!」
「ふふっ。今からですか?」
「思いついたら、すぐ実験です!」
「相変わらずですね」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
「……あれ?」
カウンターの向こうで、ルーシィが首を傾げた。
「イリスさんとメイビスさん、どこか行くんですか?」
「ええ。ちょっと魔法の実験に」
イリスが微笑む。
「魔法の実験?」
「はい!」
メイビスが元気よく答える。
「とっても面白い実験なんですよ!」
「へえ……!」
ルーシィは興味深そうに二人を見つめた。
「二人とも、魔法の研究もするんですね!」
「ふふっ。メイビスは昔から研究が大好きなんですよ」
「イリスだって、いつも付き合ってくれるじゃないですか!」
「それは、私も楽しいですから」
そんな二人のやり取りに、ルーシィが笑う。
「本当に仲がいいんですね!」
「もちろんです!」
メイビスが即答した。
「私たち、ずーっと一緒ですから!」
「ふふっ。そうですね」
イリスも嬉しそうに頷いた。
「それでは、夕方には戻りますね」
「はい! いってらっしゃい!」
ミラジェーンもカウンターから声をかける。
「気をつけてくださいね」
「ありがとうございます、ミラちゃん」
「お土産は期待しないでくださいねー!」
「実験なのにお土産があるんですか!?」
ルーシィの突っ込みを背に、二人はギルドを後にした。
◇
フィオーレ王国。
人里から遠く離れた、広大な荒野。
風が乾いた大地を吹き抜けていた。
その中央に、二人の少女が立っている。
「ここなら大丈夫そうですね」
イリスが周囲を見渡す。
「はい! 近くに人もいませんし、魔力の流れも安定しています!」
メイビスが満足そうに頷いた。
二人は空間転移によって、一瞬でこの場所まで移動していた。
かつて、空間魔法の術式を眺めながら目を輝かせていた少女。
その少女は今や、複数人を伴って街から街へ転移できるほどの魔導士へと成長している。
しかし。
それでも、越えられない壁があった。
「……イリス」
「はい」
「私たちが普段使っている空間転移は、同じ世界の中にある二つの場所を繋ぐ魔法です」
メイビスが指先に小さな魔法陣を浮かべる。
「距離が離れていても、空間座標を正確に把握できれば転移できます」
「ええ」
「でも、異世界となると話が違います」
魔法陣の周囲に、いくつもの光の輪が現れた。
「そもそも、私たちの世界の外側がどうなっているのか、まだ分からないんです」
「……なるほど」
「だから、今までは転移先の座標を指定することすらできませんでした」
メイビスが小さく息を吐く。
「でも、最近考えたんです」
「何をですか?」
「最初から転移先を探す必要はないんじゃないかって!」
「……?」
イリスが首を傾げる。
メイビスは楽しそうに笑った。
「まずは、この世界の空間がどこまで続いているのかを調べるんです!」
「……世界の境界、ですか?」
「はい!」
メイビスが頷く。
「もし世界と世界の間に何らかの境界があるなら、そこに干渉できる可能性があります!」
イリスは少し考え込んだ。
「……それで、私の聖剣が必要なんですね?」
「大正解です!」
メイビスが嬉しそうに笑う。
「イリスの聖剣は、普通の魔法では干渉できないものまで切断できますよね?」
「はい。ただ、切断する対象を捉えられなければ、どうにもなりませんけれど」
「そこは私の出番です!」
メイビスが胸を張る。
「私が空間の異常を観測して、イリスに干渉する場所を伝えます!」
「……なるほど」
イリスは微笑んだ。
「面白そうですね」
「でしょう!?」
メイビスの笑顔が、ますます輝いた。
◇
「それでは、始めましょうか」
イリスが左手を差し出す。
「メイビス、聖剣をお願いします」
「はい!」
メイビスが指を鳴らした。
次の瞬間。
イリスの左腰に、濃紺と黄金の鞘に収められた聖剣が現れた。
星の意匠を持つ、美しい聖剣。
イリスは柄に右手を添える。
「準備できました」
「それじゃあ、まずは私から!」
メイビスが両手を広げた。
足元に巨大な魔法陣が展開される。
幾重にも重なる光の輪。
複雑な術式が空中へ浮かび上がり、ゆっくりと回転を始めた。
「……すごいですね」
イリスが感心したように呟く。
「ふふーん! 何十年も研究してきましたから!」
メイビスは得意げだった。
やがて、空中に小さな光の点が生まれる。
それは徐々に広がり、透明な水面のように揺らぎ始めた。
「……これは?」
「空間の歪みを、目に見える形にしたものです!」
メイビスが説明する。
「普通なら観測できないほど小さな変化も、この術式なら増幅できます!」
「……なるほど」
イリスの金色の瞳が、淡く輝いた。
常に魔力の流れを映し出す、その特別な瞳。
彼女には、空中に広がる術式の内部で、無数の魔力が複雑に絡み合っている様子が見えていた。
「……メイビス」
「はい?」
「右側の術式、少し魔力が偏っています」
「えっ?」
メイビスが目を凝らす。
「……あっ、本当です!」
すぐさま指先を動かし、術式を書き換えた。
揺らぎが安定する。
「さすがイリスです!」
「ふふっ。お役に立てたなら何よりです」
二人は笑い合った。
長い年月を共に過ごしてきたからこその、自然な連携だった。
◇
「……それじゃあ、次の段階です」
メイビスの声が、少し真剣になる。
「イリス。あの揺らぎの中心に、聖剣を向けてください」
「分かりました」
イリスが静かに抜刀する。
澄んだ金属音。
美しい刀身が、太陽の光を受けて輝いた。
彼女は聖剣に魔力を通す。
淡い光が刀身を包み込んだ。
「……いきます」
「はい!」
イリスが一歩踏み込む。
そして。
聖剣を、空間の揺らぎへと振り下ろした。
――キィン。
不思議な音が響いた。
金属でも、ガラスでもない。
何かが軋むような、奇妙な音。
「……っ!」
メイビスが目を見開く。
空中の揺らぎが、激しく震え始めた。
「イリス! そのまま!」
「はい!」
イリスが魔力を調整する。
切断するのではなく、まずは対象の反応を確かめる。
聖剣の刃先に、わずかな抵抗が生まれた。
「……何か、ありますね」
「やっぱり!」
メイビスが興奮したように声を上げる。
「通常の空間とは違う反応です!」
魔法陣がさらに輝く。
空間の揺らぎが、細い線のように収束していく。
そして。
――パキン。
小さな音がした。
「……え?」
イリスが瞬きをする。
空中に、ほんの小さな亀裂が生まれていた。
それは指先ほどの幅しかない、黒い裂け目。
しかし。
その奥には。
「…………!」
二人は同時に息を呑んだ。
星が、見えた。
昼間の荒野には存在しないはずの、無数の星々。
深い藍色の空。
見たこともない配置で輝く星座。
それが、亀裂の向こう側に広がっていた。
「……メイビス」
「……はい」
「今の、見えましたか?」
「……見えました」
二人は呆然と、その光景を見つめた。
けれど。
次の瞬間。
亀裂が大きく揺らいだ。
「……っ! まずいです!」
メイビスが即座に術式を解除する。
イリスも聖剣を引いた。
――パァン!
乾いた音と共に、空中の亀裂が消滅した。
後には、何も残らなかった。
ただ、荒野を吹き抜ける風だけが、二人の髪を揺らしていた。
◇
「…………」
「…………」
しばらく、二人は無言だった。
やがて。
「……イリス」
「……はい」
「……今の」
「……ええ」
二人は顔を見合わせた。
「「すごかったですね!!」」
声が重なった。
メイビスが勢いよくイリスの手を握る。
「見ました!? 見ましたよね!?」
「はい! 確かに見えました!」
「あれ、絶対に普通の空間じゃありませんでしたよ!」
「ええ。魔力の流れも、これまで見たことがないものでした!」
メイビスの瞳が輝く。
「もしかしたら……!」
しかし、そこで彼女は言葉を止めた。
「……いえ」
「メイビス?」
「まだ、異世界だったとは言い切れません」
メイビスは少しだけ真剣な表情になった。
「特殊な空間だった可能性もありますし、術式によって生じた現象かもしれません」
「……そうですね」
イリスも頷く。
「でも……」
メイビスが微笑んだ。
「今までとは、明らかに違う反応でした」
「……はい」
イリスは聖剣を見つめた。
あの瞬間。
確かに、何かに触れた感覚があった。
それが何だったのかは分からない。
けれど。
何十年もの間、手掛かりすら掴めなかった問題に、初めて新しい可能性が生まれた。
「……メイビス」
「はい?」
「ありがとうございます」
イリスが、心から嬉しそうに微笑んだ。
「私のために、ずっと研究を続けてくれて」
メイビスは目を丸くした。
そして。
「……もう!」
少しだけ頬を膨らませる。
「そんなこと、今さら言わないでください!」
「……ふふっ」
「私だって、知りたいんです!」
メイビスはイリスの手を握り直した。
「イリスが生まれた世界が、どんな場所なのか!」
「……メイビス」
「それに……」
メイビスが、少し照れたように笑った。
「いつか、イリスの故郷を見てみたいですから」
イリスは静かに目を細めた。
「……そうですね」
そして、優しく微笑む。
「そのときは、私が案内しますね」
「……!」
「私が育った町も、通っていた魔法学院も」
懐かしい景色が、イリスの脳裏に浮かぶ。
「それから、私の大切な人にも……」
そこで、少しだけ言葉を止めた。
長い年月が過ぎている。
故郷でどれほどの時間が流れたのかも分からない。
それでも。
「……会えたら、嬉しいですね」
メイビスは、何も言わずに微笑んだ。
そして、イリスの手をぎゅっと握った。
「はい!」
◇
夕暮れ。
二人は荒野の小高い丘に並んで座っていた。
実験は、ひとまず終了していた。
メイビスは膝の上に研究ノートを広げ、先ほどの現象を夢中で書き留めている。
「……うーん」
「どうしました?」
「もう少し術式を安定させられれば、観測時間を延ばせそうなんですけど……」
「ふふっ。続きはまた今度にしましょう?」
「えーっ!」
「今日はもう、十分頑張りましたから」
イリスが微笑む。
「それに、そろそろ夕食の時間ですよ?」
「……!」
メイビスの手が止まった。
「……夕食」
「はい」
「……今日の献立、何でしょうね?」
「ふふっ。気になりますか?」
「もちろんです!」
メイビスが勢いよくノートを閉じた。
「研究は明日でもできます!」
「切り替えが早いですね!?」
「美味しいご飯は待ってくれませんから!」
イリスは声を上げて笑った。
そんな彼女を見て、メイビスも嬉しそうに笑う。
やがて、二人は静かに夕焼けを眺めた。
「……イリス」
「はい?」
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
メイビスは少しだけ迷ってから、口を開いた。
「……イリスは、やっぱり故郷に帰りたいですか?」
イリスは夕日に目を向けた。
遠い世界。
もう百年近く、足を踏み入れていない場所。
懐かしい人々。
懐かしい景色。
忘れたことなど、一度もなかった。
「……そうですね」
イリスは静かに答える。
「帰るというより、一度訪ねてみたいです」
「……訪ねる?」
「はい」
そして、隣の少女を見つめた。
「私が帰る場所は、もう決まっていますから」
「……!」
メイビスが目を見開く。
イリスは優しく微笑んだ。
「私の帰る場所は、妖精の尻尾です」
そして。
「……メイビスがいる、この世界です」
「…………」
「だから、もし故郷へ行けるようになったとしても……」
イリスはメイビスの手を取った。
「もちろん、一緒に行きましょうね?」
「……はい!」
メイビスの顔が、ぱっと明るくなった。
「絶対ですよ!」
「ふふっ。もちろんです」
「約束ですよ!」
「はい。約束です」
二人は小指を絡めた。
夕焼けの下で交わされた、小さな約束。
百年近く前。
天狼島で出会ったばかりの頃。
この世界を知らなかったイリスに、メイビスはお気に入りの景色を見せてくれた。
森。
海。
夕日に染まる丘。
あのとき、メイビスがイリスの手を引いてくれた。
だから、今度は。
自分が、メイビスの手を引く番だ。
「……楽しみですね」
「はい!」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
夕方。
妖精の尻尾。
「ただいま戻りました!」
「ただいまですー!」
二人がギルドへ帰ってくると、いつもの賑やかな声が迎えてくれた。
「おっ! イリスねえちゃん!」
ナツが振り返る。
「どこ行ってたんだ?」
「ふふっ。ちょっと魔法の実験をしていました」
「魔法の実験?」
グレイも興味深そうに顔を上げた。
「なんか面白いことでもやってたのか?」
「はい!」
メイビスが元気よく答える。
「とーっても面白いことがありました!」
「へえ! 何だよ?」
「秘密です!」
「なんだそりゃ!?」
ナツが不満そうに叫ぶ。
その様子を見て、イリスは楽しそうに笑った。
「まだ研究の途中なんですよ」
「ちぇーっ!」
そこへ、ルーシィが近づいてきた。
「あっ! 二人ともおかえりなさい!」
「ただいまです、ルーシィさん」
「実験、どうでした?」
「ふふっ。とても有意義でしたよ」
「そうなんですか!」
ルーシィが笑顔になる。
「それで、何の実験だったんですか?」
イリスとメイビスは顔を見合わせた。
「……どうしましょう?」
「ふふっ。せっかくですから、教えてあげましょう!」
メイビスが得意げに胸を張る。
「世界の秘密を調べてきたんです!」
「…………」
ルーシィが固まった。
「……はい?」
「世界の秘密です!」
「……えっと」
ルーシィはイリスを見る。
「……本当ですか?」
「ふふっ。少し大げさですけれど、間違ってはいませんね」
「えええええっ!?」
ギルド中に絶叫が響き渡った。
「ちょっとした魔法実験って言ってませんでした!?」
「はい。ちょっとした実験ですよ?」
「どこが!?」
メイビスが楽しそうに笑った。
「あははっ! ルーシィちゃん、今日も元気ですね!」
「私がおかしいんですか!?」
イリスも思わず笑ってしまった。
そのとき。
「おーい! 飯できたぞー!」
厨房の方から声が響く。
「……!」
メイビスの表情が変わった。
「イリス!」
「はい?」
「ご飯です!」
「ふふっ。そうですね」
「早く行きましょう!」
メイビスがイリスの手を引く。
「あっ、ちょっと待ってください!」
ルーシィが慌てて声を上げた。
「まだ話の途中なんですけど!?」
「続きはご飯のあとですー!」
「えええっ!?」
そんなルーシィを残して、二人は楽しそうに食堂へ向かっていった。
◇
夜。
ギルドの賑わいが、少しずつ落ち着いてきた頃。
イリスとメイビスは、窓際の席に並んで座っていた。
メイビスの手元には、今日の研究ノート。
そこには、空間の揺らぎと、小さな亀裂の観測結果が記されている。
「……イリス」
「はい?」
「次は、もう少し長く観測できるようにしたいですね」
「そうですね」
「それから、向こう側の魔力も調べたいです!」
「ふふっ。やりたいことが増えましたね」
「はい!」
メイビスが嬉しそうに笑う。
イリスは、そんな彼女を見つめていた。
長い年月。
何度も挑戦しては、手掛かりを失ってきた。
それでも、メイビスは諦めなかった。
自分の故郷へ繋がる道を、ずっと探し続けてくれた。
「……メイビス」
「はい?」
「これからも、よろしくお願いしますね」
メイビスは一瞬きょとんとした。
そして、満面の笑顔になる。
「もちろんです!」
彼女はイリスの手を握った。
「これからも、ずーっと一緒ですよ!」
「……はい」
イリスも、その手を優しく握り返した。
窓の向こうには、満天の星空が広がっている。
今日、二人が見た不思議な星々。
あれが本当に別の世界だったのかは、まだ分からない。
けれど。
世界は、きっと自分たちが思っているよりも広い。
そして、その広い世界には、まだ知らない可能性が眠っている。
いつか。
この手を繋いだまま、あの向こう側へ行ける日が来るのだろうか。
イリスは、隣で楽しそうに研究ノートを眺めるメイビスを見つめた。
そして、小さく微笑む。
たとえ、どれほど長い時間がかかっても。
二人なら、きっと。
その答えに辿り着ける。
そんな気がしていた。
――世界の境界に生まれた、小さな亀裂。
それがいつの日か、二人の運命を大きく動かすことになるのか。
今はまだ、誰にも分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
二人の少女の冒険は、これからも続いていく。
どこまでも。
いつまでも。
手を取り合いながら。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
今後とも『妖精と聖剣使い』をよろしくお願いいたします。
92話、こそこそデータ消えちゃった…()