翌日。
久々に宿でぐっすりと眠ることができた男は、軽い食事を取ってからザハラの西門へと向かった。
砂船を借りるため――ではない。
砂船は一度レンタルした後、盛大にぶっ壊したばかりだ。どうせまた壊す備品を借りる理由が見当たらない。
そもそも、男は人と契約関係の話をするのが苦手だった。
いや、契約ごとに関わらず、人と話すのが苦手だった。
西門から出るのもその一環だ。
正門から堂々と出発すればいいくせに、昨日の門番と再会するのが気まずかったからこそ別の門から出発しようという魂胆である。
気まずさを回避するためなら、いくらでも無駄な労力を払う。
それが男の方針であった。
顔の下半分に包帯を巻き、フードを深く被った奇妙な風貌の男へ様々な視線が向けられるが、努めて気にしないようにしながら男は足早に西門を目指す。
そんな中、門の近くにある建物の前で二人の主婦が話しているのが聞こえた。
一人は褐色の肌に赤毛の女性だ。
門番が言っていた砂船をレンタルする店の店主、アディラさんかもしれない。
「――ナディラが戻らないの?」
「えぇ……今朝早くに新しい砂船の調子を確認するって飛び出したきり、戻って来なくって……」
「風の影響じゃないかしら?」
「そうかもしれないけれど……あの子は昔から風を読むのが上手だったわ。不利な風が吹くならすぐに引き返してくるはず」
「そうね……もしかして、砂鮫に?」
「可能性はあるわ。次の追い風が来たら私も砂船で出るつもりだから、今日は店を閉めようと思うの」
「分かったわ。気を付けてね。私も旦那に言っておくわ」
「ありがとう」
「……それにしても、このところ砂鮫が多くて困るわねぇ。うちの旦那も隣町まで運送途中に遭遇したって言ってたわ」
「ナディラもこれまで安全だった航路にまで出現し始めていると言っていたし、このまま活性化が続くようだと、ザハラの商売も成り立たなくなるわね……」
「困ったわ本当……。あっ、そういえば聞いた? ギルドからその砂鮫を退治する為に派遣された冒険者の人が昨日到着したみたいで――」
自分の噂が出回っているのを知った男は、足早にその場を去った。
◆◆
一艘の砂船が、砂漠を突き進んでいた。
風を大きく帆に孕ませ、砂丘の斜面を滑るように駆け抜けていく。
その舵を握っているのは、まだ年若い少女だった。
彼女の名はナディラ。今年で十六になる。
照りつける陽光の下、燃えるような赤毛が風になびく。滑らかな褐色の肌には日の光を弾く白い衣装がよく映え、琥珀色の瞳は砂漠の夕陽を閉じ込めたように輝いていた。
そして、その首元にはひとつだけ、深い碧緑の石を嵌め込んだ古びた首飾りが揺れている。
「よし、いい風!」
ナディラは嬉しそうに帆を切り返す。
砂丘と砂丘の狭間を吹き抜ける風を捉え、船体がさらに加速した。
風を読むことにかけて、ナディラは人一倍優れていた。
どこから吹き、どこへ抜けるのか。それを肌で感じ、帆へ乗せることができる。
加えて好奇心旺盛で、一度気になったことがあれば、自分で納得するまで追いかけずにはいられない。
生まれながらの砂船乗り。
そう呼ぶに相応しい少女だった。
彼女は風に導かれ、砂船を走らせていた。
母の店で取り扱う新しい砂船の調子を試す、というのが今回の船出の理由ではあったが、それと同時に彼女には個人的に気に掛かっていることがあった。
「風が、ざわめいてる……?」
ザハラから離れた場所までやって来たナディラは、風の音に耳を澄ませ、眉をひそめた。
風は彼女の友だった。
時に牙を剥いてくることもあるが、それはそれで分かりやすい。
だが、今回のはいつもと訳が違った。
風が安定していない。
砂嵐の予感とはまた違う、不吉な予感にざわめいている。
ナディラはその機微を敏感に感じ取り、危機感を募らせていた。
――と、その時のことである。
風読みとしての優れた直感が何者かの接近を知らせた。
ナディラは直感に従い、咄嗟に舵を切る。
それと同時、砂漠の中から飛び出してきた鮫が虚空で牙を打ち鳴らし、再び砂漠の中へと潜っていった。
「砂鮫……!」
砂海の覇者、砂鮫。
砂船の振動や風晶機関の放つ波動を敏感に察知し、それを追って獲物に襲い掛かる。
砂漠にしか存在しない凶暴な鮫である。
ナディラは歯噛みをした。
先程舵を切らなければ、今頃頭部を食いちぎられていただろう。
風の予感は気になるが、今は生き残ることを優先しなければならない。
ナディラは即座に舵を切り直し、砂船を操り始めた。
風を読み、高速で船を巡行させながら背後を確認する。
砂の中から背ビレが複数覗いている。
砂鮫の群れだ。
これまでなら、今の動きで振り切れていた。
ザハラでも随一と評される彼女の操船技術なら、大抵の砂鮫は相手にもならなかったはずだ。
しかし、
「振り切れない……!」
今回の砂鮫たちは異様にしつこかった。
左右に揺さぶり、追い風を受けて速度を上げているものの、必死に食らいついてくる。
砂鮫は狡猾な生き物だ。
その知能の高さ故に、無駄な深追いはしないはずなのだが……何かが変だ。
「――しつこいっ、なぁ!」
苛立ちの声を上げながら、ナディラは舵を切る。
見事な操縦で砂船は右へ動き――同時、風が彼女の味方をするようにその帆を後ろから押した。
急な方向転換についていけなかった砂鮫たちが取り残されるが、勘のいい数匹はまだ彼女へ食らいついてくる。
砂船に無理を言わせた方向転換だったこともあり、わずかに船体が傾いて少し速度が減衰してしまった。その隙に側面に回り込んだ砂鮫は、船上にいるナディラへと狙いを定める。
砂鮫は勢いをつけて砂漠の中から飛び上がり、大きな顎を開いて少女を捕食しようと迫りくる――
「しっ!」
絶体絶命のピンチの中、しかしナディラは焦ってはいなかった。
砂船の上に載せていた武器――銛を手に持つと、見事な投擲技術で砂鮫の大口の中にそれを投げ込んだ。
外皮は堅いが、口内までは守られていない。
あっという間に銛に串刺しにされた砂鮫は砂漠へと沈んでいった。
「へへーん、どんなもんよ!」
得意げな笑みを浮かべるナディラだが、戦いはまだ終わっていない。
残る砂鮫は二匹。
仲間がやられたのを目撃していた砂鮫は少し砂船から距離を取ると――
「きゃっ⁉」
思い切り、横から体当たりをしかけた。
砂船は高速巡行を目的とした船の為、とても軽い。
頑強な砂鮫の体当たりによって船体は大きくぐらつく。
銛を準備していたナディラはバランスを崩し、船上で転倒してしまう。
大きな隙を晒したナディラ。
仕留めに掛かるべく、別で回り込んでいた砂鮫が、砂漠の中から飛び出してきた。
完璧なルート。
避けようがない攻撃。
聡明なナディラは悟った。
これで、終わりなのだと。
「おかあ、さん――」
女手一つで自分を育ててくれた母の姿が脳裏に浮かぶ。
続けて、幼い頃に死んだ父の姿が浮かび、ザハラの皆の顔が浮かぶ。
ゆっくりと瞼を閉じようとしたその時。
光が煌めき、縦に線が走った。
「えっ―――」
そして、
正しく、一刀両断という表現が適切な光景だった。
堅い皮膚に覆われた砂鮫の胴体は真っ二つに割れ、唖然と口を開いたまま固まっているナディラの左右を通り抜けていく。
砂漠の上に砂鮫の死体が叩きつけられた音で我に返ったナディラは、そこでようやく気が付いた。
砂鮫を両断した人物が、砂船の先頭に立っていることを。
奇妙な男だった。
フード付きのマントを砂風になびかせ、立っている。
その右手には刃が太い武骨な剣が握られており、その剣で砂鮫を両断したのだと直感的に理解した。
不意に、男がナディラの方を振り返った。
その拍子にフードがずれ、黒髪が風になびく。
顔は鼻先から喉元まで包帯で覆われており、全貌を知ることはできない。
黒曜石のような瞳がナディラを見つめる。
かなりいかつい外観をしていたため、ナディラは反射的にびくりと身体を竦ませた。
だが、すぐに恐れの感情は遠のいた。
(優しい……目)
ナディラは昔から感覚に優れた少女だった。
砂嵐の前触れを感じ取り、風の匂いをかぎ分けるほどに鋭い感覚。
厳しい自然の中で養われたその感覚は、時に人間に対しても発揮される。
彼女は直感した。この人は、決して怖い人ではないのだと。
むしろ、とても優しい人で――
「……ザハラへ舵を切ってくれ」
「えっ」
「ここは危ない。だから、ザハラへ舵を切ってくれ」
大丈夫か、と安心させる為の声を掛けることもせず、男は淡々と指示を繰り返した。
「う、うん!」
端的なその指示は、今が危機的な状況下であることをナディラに再認識させた。
彼女は即座に帆を掴み、舵を手に取って砂船の進行方向を変える。
そして、迷うことなく搭載されている風晶石を砕いた。
最大出力だ。
無理やり生み出した推進力を受け、砂船はザハラを目指して突き進む。
「ッ!」
舵を取るナディラに、不意に風が語り掛けてきた。
「気を付けて! 砂鮫がくる!」
警告が発せられた数秒後のことだった。
砂船の上にいる二人を狙って砂の海から鮫が飛び出してきた。
口を大開きにし、獲物を噛みちぎろうと迫りくる。
一閃。
「えっ――」
なにかが煌めいたと思った次の瞬間、宙へ浮いていたはずの砂鮫は急に力尽きたように砂の海へ墜落した。
思わず目で追うナディラ。
砂鮫の胴体に線が刻まれており、そこから少し胴体がズレているのを目撃した彼女は、誰が何をしたのかを悟った。
バッと顔を上げて前を見れば、砂船の先頭に立ったままザハラを見据える男の背中が見える。
手に持つその剣は、つい先程ナディラが見た位置より横にズレていた。
まるで、横一閃の斬撃を放ったかのように。
「すごい……」
思わず感嘆の声が漏れる。
まるで、夢を見ているような、現実感のない光景だった。
剣の一振りで堅い皮膚を持つ砂鮫が両断されていく。それを目の前の剣士が実際にやり遂げたことが信じられなくて――その背中を見つめ続けることしかできない。
そんな中でも適切に砂船を操っていたナディラは、愛しの故郷、ザハラが見えてきたことを確認した。
(あれ、そういえば……)
緊迫した状況下だったので失念してしまっていたが、ナディラを助ける為に砂船に飛び乗って来たということは、この謎の男性の砂船を置き去りにしてきてしまったということになる。
慌てて背後を振り返るナディラだが、先程の地点からだいぶ離れてしまったせいか、男性の砂船は見当たらない。
申し訳なさを覚えたナディラは、思い切って口を開いた。
「あのぉー」
「……」
無言で振り向く男に尋ねる。
「あなたの砂船は、どこにあるんですか? 回収して帰らないと――」
「歩いてきた」
「えっ?」
「歩いてきた」
何故か、断固とした態度で歩いてきたことを強調する謎の男性。
ナディラは絶句した。
先程彼女が砂鮫に襲われていた場所は、ザハラからそれなりに離れていた。
そこまで、歩いてきた?
先程の砂鮫を両断した剣技といい、この男、只者ではない。
「あなた……誰なの?」
驚きのあまり、要領を得ない質問をするナディラ。
名前を尋ねられたのだと判断した男は、マントを風になびかせながら答えた。
「
ナディラは無意識にその名を口の中でなぞった。
「ギルドから派遣された、冒険者だ」
これが運命の出会いとも知らぬ男――カイン。
彼は砂船の先頭に立ちながら、内心で頭を抱えていた。
(絶対、この子のお母さんと話をしなきゃダメじゃん……)
説明責任。
数ある責任の中でも、特に負いたくないものだった。