「水が湧き出るオアシスがあるの。ザハラからは少し離れているんだけどね」
風を巧みに読みながらナディラは砂船を走らせる
夜が近づいてきているものの、まだ寒いというほどではない。
むしろ、今水浴びができれば、それは至福のひと時になること間違いなしだった。
「とはいえ、皆が皆行けるわけじゃなくて、腕利きの砂船乗りじゃないと行けないちょっと難しいルートなんだ。砂船に乗れる人数は限られているから、私もお母さんや町の子供たちを連れてたまに行ってるの。おっと」
説明しながら凄まじい速度で舵を切るナディラ。
急な砂丘の斜面で倒れかけていた砂船が、その動作だけで軽々と持ち直す。
やはり、彼女はかなり優れた砂船乗りのようだ。
「凄く素敵な場所でね、夜は特に綺麗なんだ~。あっ、見えてきたよ!」
砂船を操るナディラが指を差す。
その方角へ視線を向けると、確かにあった。
砂漠の中にポツンと佇む小さな池。
透き通った青と、僅かな緑が息づくオアシスが。
しかし、美しいオアシスとは対照的に、その周辺には古びた巨大な遺跡が見えた。
石材で囲われた巨大な遺跡。
その規模はザハラよりもずっと大きい。
「……あの遺跡は?」
気になったカインが尋ねると、ナディラは少し言いづらそうにしながら、
「ネフェルだよ」
古き町の名を口にした。
「凄く栄えた都市でね。近くには大きな川もあって、各地から商人たちが集まるほど活気があったんだ」
「……今は、活気がなさそうだな」
「滅んじゃったからね」
あっけらかんと言い放つナディラ。
彼女は砂船を操りながら続きを語る。
「ネフェルには偉い王様がいたの。その王様は町を発展させ、国を発展させた偉大な王。名前は、メディン」
砂船が冷たい強風に煽られて倒れそうになるが、ナディラは巧みな手腕ですぐに砂船の動きを修正し、立て直した。
冷たい風は、滅んだ都市ネフェルから吹いていた。
「皆、メディン王を讃えていたけれど、王様が亡くなってしばらくすると、民たちはその偉大さを忘れてしまった。そして、砂漠の向こうからやって来た人間たちに唆されて、土地を明け渡してしまった。大きな川に面したメディンはとても栄えたけれど……町ができて百年後、突然滅びちゃったんだ」
「……原因は?」
各地でこの手の話をよく聞いていたカインには、大体の結末が読めていた。
だが、あえて尋ねる。
語り部であるナディラは答えた。
「王様の呪いだって言われてる」
「呪い、か」
カインは皮肉げに唇の端を吊り上げた。
皮肉というよりかは、呪いを盾にしている自分自身の情けなさと、ナディラに対する気まずさによるものだった。
「あっ……えっとね、呪いって言ってもただの噂だし、本当かどうかは分からなくて――」
「気にするな。寧ろ、俺にとっては居心地がいい場所かもしれないしな」
本心から出た言葉だった。
カインは別に気にしていない。
寧ろ、ナディラにはもう少し自分の“呪い”について気にして距離を置いて欲しいな、なんて思うくらいだった。
「……それで、続きを教えてくれないか」
カインが先を促すと、ナディラは頷いた。
「これは飽くまでも伝承だけど――王様の呪いによって川は干乾び、土地は飢え、疫病で人々が倒れていき、そうしてネフェルは滅んだ。だけど、王様はこのオアシスだけは残したの。何故なら、王様はこの場所をとても愛していたから。だから私たちも敬意をもってこのオアシスを使わせてもらっているんだ」
その話を聞いたカインは、急に不安になってきた。
地元の民たちだけが知る、伝承の地。
明らかに部外者は立ち入り禁止っぽい。
「……そこは、俺に教えてもいい場所なのか?」
不安そうなカインの声に対し、ナディラはあっけらかんとした声で答えた。
「いいでしょ! カインさんはザハラの恩人なんだし。ダメなんていう人がいたら教えて! 私から言っておくから」
「……あぁ」
(この子、なんで俺への評価がこんなに高いんだ……?)
やたらとフレンドリーで世話を焼いてくれるナディラに内心で首を傾げるカイン。
彼が彼女にしたことを思えばこれくらいの評価になってもおかしくないところではあるのだが、そこら辺を客観視する視点に欠けているのがカインという男であった。
そんな話をしていると、いよいよオアシスが間近に迫ってきた。
見れば見るほど美しいオアシスだ。
澄み切った水が満天の星空を映し込み、緑が風に揺れている。
ナディラの素晴らしい操縦技術によって、砂船はオアシスの草木を踏みつけないギリギリの場所で停止した。
「はい、到着~! 水浴びどうぞ! あっ、これも持って行ってね」
明るい声で告げる船長は、何かをカインに向かって投げた。
「……これは?」
「身体の垢を落とすための布と、身体の水を拭き取るための布。必要でしょ?」
確かにとても必要だが……準備が良すぎる。
してやったりの顔を見るに、カインはナディラの掌の上で転がされていたらしい。
とはいえ、それを屈辱的に感じるカインではなかった。
何故なら、目の前に文字通りのオアシスが広がっているからだ。
「あっ、これも持って行って」
「これは……壺か?」
「うん。そこに水を溜めて、頭から水を被るの。オアシスの水は貴重だから、直接飛び込んだりはしないでね」
「……分かった」
本音を言えば、今すぐにでも飛び込みたかったところではあるが、確かにカインの垢で汚れてしまってはここを使う皆に申し訳が立たない。
カインは大人しく頷き、壺と布を持って砂船を飛び降りた。
「それじゃあ、私はここで待ってるから」
「あぁ」
「覗いてほしかったら言ってね」
「……」
揶揄うような言葉に対し、カインは何も返さずにオアシスへ向かって歩いていった。
「つれないな~」
砂船の縁に腕と顎を乗せながら不満そうな表情をするナディラだが、既に水浴びで頭を支配されているカインの耳には全く届かなかった。
◆◆
冷たい水が身体に降り注ぐ。
それは、恵みの水だった。
砂と血で汚れた身体を洗い流していく。
浄化されていく。
「……生き返るぅ」
カインは心の底からの感想を漏らした。
死んでいた身体が、生き返ったのだ。
悪臭が、不快感が、血が、洗い流されていく。
垢を落とすための布で身体を擦り、壺に溜めた水で洗い流す。
それを何度も繰り返す。
ただそれだけの作業だというのに、カインは熱中して取り組んでいた。
やがて満足いくまで垢を落とし終えたカインは、最後に壺の水を頭から一気に被り、髪を掻き上げて空を見上げた。
まだ完全な夜とは言えない空に、星が幾つか浮かんでいる。
全てから解き放たれたような解放感に包まれたカインは、しばらくその空を眺めていた。
「……冒険者になってよかったぁ」
基本的に苦しくて、辛いことばかりだけれど。
こういう瞬間があるから、カインは冒険者をやめられないのだ。
あとは、彼の資質的に他の仕事――特に他人と継続的にコミュニケーションを取らなければならないような仕事――が全く向いていないということもあった。
「カインさん。水浴び終わったらこっちの壺に水を入れて砂船に持ってきてくれる? ザハラに持って帰るから」
「分かった」
ナディラの言葉に応じたカインは、しっかりと身体を拭いて衣服を身に纏い、砂船へと戻った。
壺を受け取ると再び湖へ向かい、水を汲む。
凄まじい膂力を持つ彼からすれば、満タンになった壺も大した重荷にはならない。
軽々と担ぎ上げて砂船へ積み込んだ。
「ありがとね。カインさん、力持ちで助かるな~」
「……礼を言うのはこちらの方だ」
「へっ?」
「ありがとう、ナディラ。お陰で、スッキリした」
壺を固定しているナディラへ向かって、カインは心の底から礼を述べた。
ただの水だが……されど水。
この砂漠では貴重極まりない水浴びは、間違いなくこれまでの人生で一番気持ちのいい水浴びだった。
カインの礼を聞いたナディラは、にへらと顔を緩めた。
「うんっ! そんなに喜んでくれるなら、紹介した甲斐があったってもんだよ! ここ、いいでしょ!」
「あぁ」
カインは決して表情が豊かな方ではない。
それどころか、感謝を口にした今だって鉄仮面のような無表情のままだ。
しかし、ナディラには彼が喜んでいることが分かった。
だから彼女も嬉しかったのだ。
「よし! それじゃあ、私も水浴びしてくるね~」
「あぁ」
「覗かないでねっ!」
「あぁ」
素っ気ない返事を聞いたナディラは不満そうに唇を尖らせたが、すぐに布と壺を持つと砂船を飛び降りて湖へと駆けて行った。
その後ろ姿を見送ってから、カインは砂船の帆に背中を預けて腰を下ろした。
もちろん覗きになど行かない。
彼は法律と約束を遵守する男だった。
「……ん?」
ぼーっとネフェル遺跡を眺めていたカインだったが、不意に気配を感じた。
強い呪いの気配だ。
「……」
カインは無言で左腕の包帯を解くと、遺跡に向かって翳してみた。
彼の身体に刻まれた青い呪印が、ほんのりと輝いている。
『王様の呪いだって言われてる』
ナディラの言葉が脳裏を過る。
カインは頭をフル回転させながら目を細めて遺跡を見つめ――
「あぁ、スッキリした! やっぱり水浴びは最高だね!」
上機嫌な少女の声が聞こえる。
その声が聞こえた瞬間、カインは咄嗟に左腕へ包帯を巻き直し、彼女から隠した。
「あれ? どうしたのカインさん。怖い顔して……」
「……」
水浴びを終えたらしいナディラが砂船へ上がり込み、険しい表情を浮かべているカインに疑問を投げかける。
カインは彼女にも知らせておくべきかと思ったが――
「……いや、なんでもない」
すぐにその考えを取りやめた。
今日の出来事からしてそうだが、ナディラは使命感と勢いで突っ走ってしまうところがある。
きっと呪いの存在を知れば、砂鮫のように突進をかますことは想像に難くない。
彼女を危険に巻き込まないためにも、ここは黙っておくべきだと判断した。
「ネフェルという町は、さぞかし栄えていたのだろうなと思っていただけだ」
輝く呪印を包帯で覆い隠しながら、カインは言い訳を述べる。
ナディラは水滴を纏った艶やかな赤髪をかき上げながら頷いた。
「確かに、大きな遺跡だよねぇ。昔は、よくこの町に私たちのご先祖様が荷物を運んでいたんだよ? その時期はザハラもとても栄えていたんだって」
「……ザハラは、今でも運送業を嗜んでいるのか?」
ふと、あの町の収入源が気になったカインが尋ねると、ナディラは頷いた。
「うん。今でもそれが私たちの仕事だよ。他にも砂魚を取ったり、陶器を作って売りに行ったり、色々なことをしてるの。……ただ、ザハラ以外の町がどんどんなくなっちゃって、年々収入は減っているんだけどね」
彼女は故郷を、ザハラを愛している。
だが、それはそれとして、皆が過酷な生活を強いられている現状を憂う気持ちもあった。
「……皆で別の場所に移住するという考えはないのか?」
「今のところは、ないよ」
カインが抱いた素朴な疑問を、ナディラはばっさりと切って捨てた。
「水辺は遠いし、砂鮫は凶暴で砂魚は取りにくいし、暑いし、寒いし、過酷なところだけれど……それでも、私たちの故郷なの。だから、私たちが守らなくちゃいけないんだ」
愛する故郷を守るための心意気を、彼女は嫌というほど行動で示している。
故に、その気持ちは嘘ではないのだろう。
だが同時に、その強い言葉にはどこか自分自身へ言い聞かせているような響きもあった。
「――さて、もう行こう! カインさんもお腹空いたでしょ?」
少し暗くなった空気を払拭するようにナディラは明るく笑う。
「ん? あぁ……」
「だよね! じゃあ、帰ろうか!
何も考えずに頷いたカイン。
そこで、もう少し言葉の意味を考えておくべきだったと、後に彼は後悔することになるのだが――今は知る由もなかった。
「よしっ! じゃあ、ザハラに向かってしゅっぱーつ!」
片腕を天へ突き上げ、ナディラは勢いよく舵を切った。
風を味方につけた砂船が進み出す。
古の遺跡からは、相も変わらず冷たい風が吹いていた。