ハリーポッターとケモノの子 ~その瞳に映るもの~   作:火力万能主義

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そういえばレイブンクローって鴉じゃなくて鷲だった。


第八話 悪夢、そして獣は牙を剥く

 修繕及び清掃に関する報告。

 

 地下回廊にて、以下の破損と汚損を確認した。

 

 ・天井板、一か所。生徒の頭が突き刺さったことによる穴。

 

 ・その直下の床。血痕が点々と残っており、清掃が必要。

 

 天井の穴については、聞き間違いではない。

 

 生徒の頭である。

 

 どうやってあそこへ突き刺したのか、私にはさっぱり分からん。だが、何がどうなったにせよ、後始末が私の仕事になることだけは分かっている。

 

 なお、天井の修繕を頼む際には、先に生徒を取り外しておくこと。

 

 私は城の管理人であって、天井から生徒を引き抜く係ではない。

 

 床の血も、放っておけば勝手に消えるものではない。

 

 騒ぎを起こした生徒には、せめて自分の汚した床くらい拭かせていただきたい。私が何度磨いた床だと思っているのか。

 

 規則を守らぬ生徒への罰則について、改めて厳しい措置を求める。

 

 アーガス・フィルチ。

 

 

▲

 

 

 

 

 夜が明けた。

 

 それだけで、何かが変わるわけではなかった。

 

 アッシュは寝台のカーテンを開き、まだ眠っている同室の生徒たちを眺めた。誰かが寝返りを打ち、別の寝台では毛布の下から足がはみ出している。耳を澄ませれば、それぞれの呼吸も、寝言も、心臓の音さえ聞こえた。

 

 生きている。

 

 誰もが当たり前のように息をして、あと少しすれば目を覚ますのだろう。

 

 それなのに、どうしてだろうか。

 

 昨夜、あれほど呼んでも返事をしてくれなかった家族の声が、まだ耳の奥に残っている気がした。

 

  起きてよ

 

 胸の奥が、ひどく重かった。

 

 夢だった。そんなことは分かっている。

 もう何年も前に終わったことで、今さら何をどうしたところで、あの頃へ戻れるわけではない。それでも、母の身体へ顔を埋めた時の冷たさも、腕の中でぐったりとしていた兄弟の重さも、思い出そうとすれば、いつだって簡単に蘇ってきた。

 

 何より、最後に見た父の顔が離れなかった。

 

 笑っていた人間たち。

 血の匂い。

 誰かの手に持たれた、あの大きな首。

 

 ……やめろ。

 

 アッシュは強く目を閉じた。

 

 今は、そんなことを考えるな。

 

 寝台から下り、いつものように身支度を始める。シャツを着て、ネクタイを結び、ローブを羽織る。最後に白いマフラーを巻き直すと、ようやく少しだけ息がしやすくなった。

 

 それでも、鏡に映った自分の顔は、随分とひどいものだった。

 

 目の下が重い。

 身体も怠い。

 

 何より、眠いくせに眠るのが嫌だった。

 

……クソ。

 

 こんな調子で、一日中あの連中の中にいなければならないのか。

 

 考えただけで、気が滅入った。

 

 大広間へ向かう途中、誰かと肩がぶつかってしまう。

 

 普段なら、何とも思わなかっただろう。

 だが、今日は違った。

 

 背後から近づく足音に気づき、反射的に身体を引いたところで、相手の肩が僅かに触れたのだ。

 

「おっと。ちゃんと前を見ろよ」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 振り返れば、スリザリンの上級生が二人、こちらを見下ろしている。

 

 何日か前にも、談話室で同じことを言ってきた連中だった。

 

「……そっちが寄ってきたんだろ」

 

「何だ、その口の利き方は?」

 

 答えるのも面倒だった。

 

 アッシュはそのまま横を通り抜ける。

 

 背中へ何か言葉が飛んできたが、聞き返すつもりはなかった。

 

 またか。

 

 ただ、それだけだ。

 

 ホグワーツへ来てから、こういうことが少しずつ増えていた。

 

 最初は、名前のこと。

 どこの家の生まれなのかと聞かれ、知らないと答えると笑われた。次は血筋の話になり、純血だの何だのと聞いたこともない言葉が並んだ。

 

 そのうち、雑種と呼ばれるようになった。

 

 どういう意味なのかは、おおよそ分かる。

 少なくとも、褒めているわけではないらしい。

 

 別に構わなかった。

 

 知らない人間に、何と言われようが知ったことではない。こいつらが自分のことをどう思おうと、こちらまで同じように付き合ってやる必要もなかった。

 

 なのに、向こうはそう思わないらしい。

 

 無視すれば生意気だと言われ、道を譲れば逃げるなと怒鳴られる。今度は立ち止まって話を聞いてやれば、何か言い返せと迫られる。

 

 まったく、どうしろというのだ。

 

……好きにしろよ。

 

 いつもなら、それで済んだ。

 

 少なくとも、昨日までは。

 

 だが、今日はどうにも腹の奥が落ち着かなかった。

 

 誰かの笑い声が聞こえるたびに、昨夜の夢がちらつく。

 後ろから足音が近づけば、つい肩越しに振り返ってしまう。

 何かをされたわけでもないのに、気がつけば指先に力が入っている。

 

 それが、ひどく煩わしかった。

 

 自分の身体なのに、自分の思うようにならない。

 

 アッシュはマフラーを引き上げ、大広間へ向かった。

 

 朝食の席でも、似たようなことがあった。

 

「おい、そこを退けよ」

 

 ようやくパンを口へ運んだところで、また別の上級生がやってきた。

 

 目の前には、まだ空いている席が幾つもある。それなのに、わざわざアッシュが座っているところを指していた。

 

「……ほかにあるだろ」

 

「お前に聞いてるんじゃない。退けと言ってるんだ」

 

 面倒な奴だ。

 

 アッシュはパンを持ち、鞄を肩へ掛け直した。

 

 そのまま立ち上がる。

 

 どうせ食欲もなかった。残りは歩きながら食べればいい。

 

「何だよ、その態度は」

 

 背中から声がした。

 

 構わず歩く。

 

「おい、聞いてるのか!」

 

 聞こえている。

 けれど、もう話は終わっただろう。

 

 アッシュは振り返らなかった。

 

 すると、今度は後ろで椅子を蹴る音がした。

 

 びくり、と肩が動く。

 

 その瞬間、自分でも驚くほど強く奥歯を噛み締めていた。

 

……うるせぇ。

 

 ただの椅子だ。

 何も起きていない。

 

 そう分かっているのに、腹の奥へ嫌なものが溜まっていく。

 

 アッシュは歩調を速めた。

 

 誰にも、近づいてほしくなかった。

 

 

《center》▲
《/center》

 

 

 その日の授業は、ほとんど頭に入らなかった。

 

 教師の声は聞こえている。黒板に書かれた文字も見えている。

 

 けれど、読んでいるうちに同じ行へ戻ってしまう。気づけば羽根ペンが止まり、羊皮紙には中途半端な文章だけが残されていた。

 

 何度か目を閉じかけた。

 

 だが、そのたびに身体が強張り、すぐに目を開けてしまう。

 

 また、あの夢を見たら。

 また、母の身体に触れたら。

 また、父の首を見つけてしまったら。

 

……もう、嫌だ。

 

 口には出さなかった。

 

 ただ、首元のマフラーを握る力だけが、少しずつ強くなっていた。

 

 休み時間になると、ポッターが声をかけてきた。

 

「アッシュ。大丈夫?」

 

「……何が」

 

「さっきから、ずっと顔色が悪いよ」

 

 黒い髪の少年は、少し離れたところからこちらを覗き込んでいた。

 

 その隣には、ウィーズリーとグレンジャーもいる。

 

「昨夜、ちゃんと眠ったの?」

 

「……うるせぇな」

 

 口をついて出た言葉に、グレンジャーが眉を寄せた。

 

「心配して聞いてるのよ。そんな言い方しなくてもいいでしょう」

 

「……眠いだけだ」

 

「だから、眠れたのかって聞いてるんじゃない」

 

 何だって、こいつらは。

 

 そんなことを知って、どうするつもりなのだ。

 

 昨日の夢を話せとでもいうのか。

 もういない家族のことを、今さら誰かに聞かせろと?

 

 アッシュは机の上の本を閉じた。

 

「……俺に構うな」

 

 それだけ言って立ち上がる。

 

「アッシュ、待って」

 

 ポッターが呼んだ。

 

 足が止まりかけた。

 けれど、振り返らなかった。

 

 今は、誰の顔も見たくない。

 こいつらが何もしていないことくらい、分かっている。

 それでも、近づいてこられるのが嫌だった。

 

 誰かの手が伸びるたびに、その先に何があるのか確かめずにはいられない。

 

 笑っている顔を見れば、別の笑い声を思い出す。

 少しでも気を抜けば、また何かを奪われるのではないかという、どうしようもない不安が胸の内側へ張りついていた。

 

……もう、やめてくれ。

 

 誰に言っているのか、自分でも分からなかった。

 

 授業が終わった時には、空はすっかり傾いていた。

 

 アッシュはそのまま寮へ戻ることにした。

 

 本を読む気にもなれない。

 食欲もない。

 

 今日はもう、何もしたくなかった。

 

 ただ、誰にも見られないところへ行きたかった。

 

 カーテンを閉じて、目を開けたままでもいいから横になりたい。

 

 それだけだった。

 

 地下へ続く階段を下りる。

 

 上の階に残っていた話し声が遠ざかり、湿った石の匂いが強くなる。

 

 あと少し。

 

 もう少し歩けば、寝室へ戻れる。

 

 そう思って、回廊を曲がった。

 

「よう」

 

 足が止まった。

 

 前方に、三人の男子生徒がいた。

 

 朝の連中だった。

 

……また、お前らか。

 

 壁へ寄りかかっていた一人が、ゆっくりと身体を起こす。

 

「随分と早いじゃないか。今日は図書館へ行かないのか?」

 

 アッシュは答えなかった。

 

 横を抜けようとしたところで、別の生徒が一歩動く。

 

 道を塞がれた。

 

「おい。無視するなよ」

 

「……どけ」

 

「何だ、その態度は?」

 

 まただ。

 

 朝も、昨日も、その前も。

 

 何度、同じことを言えば気が済むのだろう。

 

 アッシュは反対側へ足を向けた。

 

 そこにも、別の生徒が立つ。

 

「なあ、聞いたか? こいつ、またどけだってさ」

 

「さすがは名無しの野良犬だ。先輩への礼儀も知らないらしい」

 

 笑い声がした。

 

 その音に、腹の奥がぎゅっと縮む。

 

 嫌な感じだった。

 

……やめろ。

 

 頭の奥で、何かが疼いた。

 

「……通るぞ」

 

 もう一度、言った。

 

 だが、上級生は動かなかった。

 

「お前さあ、いつまでそうやって好き勝手にするつもりだ?」

 

 真ん中の生徒が、苛立たしげに顔を歪める。

 

「ここはお前のいた孤児院じゃないんだぞ。スリザリンにはスリザリンの伝統があるんだ。どこの馬の骨とも知れない奴が、偉そうにしていい場所じゃない」

 

「……だから、何だよ」

 

「だから、少しは立場を弁えろって言ってるんだ!」

 

 声が、石壁に跳ね返った。

 

 アッシュの耳が、その音を拾う。

 

 大きい。

 うるさい。

 耳の奥まで響いてくる。

 

「……もういいだろ」

 

「よくないね」

 

 上級生が顔を寄せてきた。

 

「お前、自分がどうして嫌われてるのか、少しも分かってないんだろう?」

 

 知らない。

 知りたくもない。

 

 どうして嫌いな相手へ、わざわざ近づいてくるのだ。

 

 こいつらは。

 

「それに、その首に巻いてるものは何だ? いつ見ても薄汚い布だな」

 

 アッシュの指が止まった。

 

 視線が、首元へ落ちている。

 

「お似合いだよ。お前みたいな奴にはな」

 

 笑い声。

 また、笑い声だ。

 

 アッシュはマフラーをローブの内側へ押し込んだ。

 

 指先が冷たかった。

 

「……触るなよ」

 

「ああ?」

 

「それに、触るな」

 

 上級生は、呆れたように眉を上げた。

 

「誰がそんな汚いものに触るかよ」

 

……なら、いい。

 

 触らなければ、それでいい。

 

 アッシュは顔を背けた。

 

 もう、行こう。

 これ以上、ここにいたくない。

 

 ところが、前へ踏み出した途端、上級生の声が追ってきた。

 

「まったく。どんな親に育てられたら、こんな出来損ないになるんだか」

 

 足が止まった。

 

「親の顔が見てみたいもんだよ」

 

 どくん

 

 胸の奥で、何かが強く鳴った。

 

 アッシュは振り返った。

 

 目の前の上級生は、まだ笑っている。

 

 何も知らない顔だった。

 

 父のことも。

 母のことも。

 兄弟たちのことも。

 自分がどんなふうに育てられたのかも。

 

 何ひとつ、知らない。

 

 なのに。

 

 何で。

 

 何で、そんなことを。

 

「……知らねぇくせに」

 

 声が漏れた。

 

「何?」

 

「……何も、知らねぇだろ」

 

 思っていたよりも低い声が出た。

 

 上級生の眉が動く。

 

「何だよ。言いたいことがあるなら、はっきり言え」

 

 アッシュは、唇を噛み締めた。

 

 これ以上、口を開きたくなかった。

 怒鳴れば、何かが壊れそうだった。

 喉の奥から、別の声が出てきそうだった。

 

 あの時、父の首を見つけた時と同じように。

 

 だから、黙った。

 

 ただ、通り過ぎようとした。

 

 それが、どうにも気に入らなかったらしい。

 

「……いい加減にしろよ」

 

 上級生の声が、低くなった。

 

「こっちがどれだけ言っても、その態度か。どうやら、一度きっちり躾けてやらなきゃ分からないみたいだな」

 

 ローブの裾が動いた。

 

 右手が、懐へ入る。

 

 アッシュの目が、そこへ向いた。

 

 取り出されたのは。

 

 一本の杖だった。

 

 

 

  やめろ

 

 

 

 喉の奥が、ひゅっと鳴った。

 

「少しは、先輩を敬うってことを覚えろよ」

 

 上級生が杖を持ち上げる。

 

 アッシュは、目を離せなかった。

 

 細い木の棒だった。

 それだけだ。

 

 授業では何度も見ている。教師たちだって使っている。

 

 それなのに。

 

 どうして。

 

 どうして今、こっちへ向ける。

 

「……しまえ」

 

「何だって?」

 

「……杖を、しまえ」

 

 上級生が笑った。

 

「おいおい。何だよ、急に。怖いのか?」

 

 杖先が、僅かに上がる。

 

 胸元から、喉へ。

 

 そして、顔へ。

 

 アッシュの呼吸が止まった。

 

 その先端が、真っすぐに自分を捉えている。

 

  あ。

 

 視界の端で、何かが光った。

 

 緑色だった。

 

 違う。

 今、目の前にある杖は、まだ何も光らせていない。

 

 分かっている。

 分かっているのに、見えた。

 

 燃える館。

 倒れる背中。

 床へ伸びた腕。

 

 何かを叫んでいた声が途切れ、鼻の奥へ、あの嫌な匂いが流れ込んでくる。

 

 死の匂い。

 

 あの時と、同じ。

 

「……っ」

 

 アッシュは息を吸おうとした。

 

 しかし、吸えなかった。

 

 喉が塞がっているようだ。

 胸の内側を、何かが掻き回している。

 

 違う。

 ここは、あの館じゃない。

 

 目の前にいるのは、知らない上級生だ。

 

 父(とおさん)を殺した人間たちでもない。

 

 そんなことは、分かっている。

 

 けれど。

 

 杖(・)を向けている。

 

 こいつは。

 

 俺に。

 

 杖(・)を向けている。

 

 なぜ?

 

 何のために?

 

 何をするつもりだ?

 

 答えが欲しかった。

 けれど、聞いている時間はなかった。

 

 相手が杖(・)を握っている。

 

 その先が、こちらへ向いている。

 

 もう、それだけで十分。

 

 頭の奥から、別の光景が溢れてくる。

 

 血に濡れた土。

 冷たくなった母の身体。

 兄弟たちの開いた目。

 

 どれだけ揺すっても、もう二度と起きてくれなかった。

 

 あの時も、何もできなかった。

 

 気がついた時には、全部終わっていた。

 

 家族は死んでいた。

 誰ひとり、助けられなかった。

 

 そして、そこには人間がいた。

 

 笑っていた。

 

 父の首を持って。

 

 何か、楽しそうに。

 

 笑っていた。

 

  次はお前だ。

 

 耳の奥で、誰かが囁いてくる。

 

 アッシュは息を呑んだ。

 

 誰だ。

 

 今、誰が言った。

 

 目の前にいる上級生は、まだ何かを喋っている。周囲の二人も笑っていた。けれど、その声ではない。

 

 もっと近いところから聞こえた。

 

 耳の奥よりも、さらに奥。

 

 自分の頭の中から。

 

次はお前だ

 

 また、聞こえる。

 

父の次は、母だった。

 

母の次は、兄弟たちだった。

 

 みんな死んだ。冷たくなって、呼んでも返事をしてくれなくなった。あれほど探して、何度も揺すって、起きてくれるまで待ったのに、誰一人として帰ってこなかった。

 

 残ったのは、自分だけだった。

 

 だったら、次は。

 

最後に残った、お前の番だ。

 

「……っ、は……」

 

 喉から、引きつった息が漏れた。

 

 心臓がうるさい。

 

 胸の内側を叩くたびに、そこに収まっていたものが少しずつ壊れていくようだった。

 

 上級生が杖を動かす。

 その先端が、こちらの顔を追ってきた。

 

 逃げなければ。

 

 早く、ここから離れなければ。

 

 だが、どうやって?

 

 背中を向ければ、その背中へ杖を向けられる。逃げ出すより早く呪文を唱えられたら、もうどうすることもできない。

 

 あの時だって、そうだった。

 

 振り返るより早く、緑色の光が走った。

 目の前に立っていた大きな背中が倒れて、二度と起き上がらなくなった。

 

 何をしたって間に合わなかった。

 助けてと叫んでも、誰も来なかった。

 

 また、同じことになる。

 

 今度は、自分がああなる。

 

 冷たい床へ倒れて、動かなくなって。

 誰かがやって来ても、もう返事をすることさえできない。

 

 嫌だ。

 

 アッシュの唇が震えた。

 

 死にたくない。

 

 まだ、死にたくない。

 

 こんなところで、こんな奴に。

 

 ようやく森を出て、ここまで来たのに。

 

 何も見つけていない。

 

 まだ、何も。

 

 それなのに。

 

 また、奪うのか。

 

 もう家族はいないのに。

 

 あれだけ奪って、まだ足りないのか。

 

 今度は俺の命まで。

 

やられる前に、やれ

 

 頭の奥で、また声がする。

 

 アッシュの呼吸が浅くなる。

 

 分かってる。

 

 そんなこと、言われなくたって。

 

 森では、いつもそうだった。

 

 生きるためには食わなければならなかったし、襲われれば戦わなければならなかった。相手が牙を剥いた時、こちらが何もしなければ、ただ喉を食い破られるだけだ。

 

 そこに、話し合う余地などない。

 

 相手が諦めるまで待っていたら、次に死ぬのは自分(オレ)だった。

 

 だから、先に仕留める。

 

 牙を立てる。

 

 喉を裂く。

 

 自分が生き残るために、相手を殺す。

 

 それが森(やせい)の掟(しんり)。

 

 誰に教わるまでもなく、身体が覚えている。

 

 それなのに、どうして今さら迷う必要がある。

 

 目の前にいるのは、自分へ杖を向けた人間だ。

 

 こいつが何を言っていようが、何を考えていようが、もう関係ない。

 

 次に殺されるのは、俺なんだ。

 

 ならば。

 

殺せ

 

 アッシュの指が開いた。

 

 爪が伸びる。

 

 人間の指先にあるはずのない、鋭く曲がった鉤爪。腕の皮膚が毛に覆われ、指の関節が、獲物を掴み裂くための形へと変わっていく。

 

 気づけば、身体が低く沈んでいた。

 

 目の前の人間が、ひどく大きく見える。

 けれど、その大きさはもう怖くなかった。

 

 喉がある。

 そこへ繋がる太い血管がある。

 息をするたびに動く首筋も、血の流れる音も、はっきりと分かった。

 

 あそこだ。

 

 あそこを裂けばいい。

 

 そうすれば、もう杖は向かない。

 

 もう、自分を殺せなくなる。

 

殺せ。今すぐに

 

「……お、おい」

 

 隣にいた上級生が、僅かに後ずさった。

 

 何かに気づいたのだろう。

 

 先ほどまで浮かべていた笑みが消えている。

 

「何だよ、その目……!」

 

 アッシュは答えなかった。

 

 答えられなかった。

 

 口を開けば、何が出てくるか分からなかった。

 

 怖い。

 

 怖い。

 

 殺される。

 

 だったら、殺さなければ。

 

 もう二度と。

 

 あんなふうに。

 

 誰かの命を奪われる前に。

 

「浮き上が(レビコーパ)  !」

 

 杖の先が動く。

 と同時に、アッシュは床を蹴った。

 

 上級生の目が、大きく見開かれる。

 

 先ほどまで少し離れた場所にいたはずの少年が、もう目の前にいた。

 

 振り下ろされようとした杖の下へ、身体が滑り込む。

 

 相手が慌てて腕を引こうとしたのが見えた。

 

 だがもう遅い。

 

 もうすぐで届く。

 

 目の前の喉。

 たった今、そこへ向けて杖を構えていた人間の首だ。

 

 ここを裂けば。

 

 全部、終わる。

 

 アッシュは右手を伸ばした。

 

 鋭い爪が大きく開き、上級生の首へ迫る。

 

 灰色の髪が跳ねた。

 

 白いマフラーが翻る。

 

 杖を握っていた上級生は、声を上げることさえ忘れていた。

 

 その目に映っていたのは、先ほどまで見下していた一年生などではなかった。

 

 自分の喉を目がけて、爪を振り下ろそうとする、一匹の獣だった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

殺せ

 

 あと少し。

 

 ほんの少し、指を曲げれば届く。

 

 柔らかな皮膚を突き破り、その下の肉を引き裂くことなど、造作もない。

 

 あとは息が止まるまで、離さなければいい。

 

 そうすれば、もう何もされない。

 

 こいつは二度と杖を向けられない。

 

 二度と自分を傷つけられない。

 

 だから。

 

  死ね

 

 爪が、首筋へ届こうとした。

 

 その時。

 

『必要以上に相手を傷つけてはいけません!』

 

 聞き覚えのある声が、頭の中を横切った。

 

 眼鏡の向こうから、真っすぐにこちらを見る目。

 

 何度言い返しても、決して諦めなかった、あのばあさん。

 

 うるせぇ。

 今は、そんなことを考えている場合じゃない。

 

 こいつが先に杖を向けたんだ。

 

 俺は、何もしていない。

 

 逃げようとした。

 何度も、しまえと言った。

 

 なのに。

 

 なのに、こいつは。

 

殺せ

 

 分かってるよ。

 

 分かってる。

 

 早くしなければ、俺が殺される。

 ここで止まったら、また何もできなくなる。

 

 それだけは、嫌だ。

 

 もう、あんな思いをするのは。

 

 思考が、そこで途切れた。

 

 視界の端で、白いものが揺れた。

 

 マフラーだった。

 

 伸ばした腕に引かれ、首元から垂れた布がふわりと浮き上がる。

 

 それを見た瞬間。

 

 雪が見えた。

 

 どこまでも白い景色。

 

 冷たくなった身体。

 もう立ち上がれないと思っていた自分へ、差し出された小さな手。

 

 あの手は、何も持っていなかった。

 

 杖も。

 刃物も。

 

 何ひとつ。

 

 ただ、こちらへ伸ばされていた。

 

 何で。

 

 アッシュの爪が、僅かに止まった。

 

 どうして、今。

 どうして、あの時の。

 

 もう、相手の首は目の前にある。

 

 殺せる。

 今なら、確実に。

 

 それなのに、指が動かない。

 

 怖い。

 

 今だって、怖い。

 

 殺したい。

 

 こいつが動かなくなれば、もう怖がらずに済む。

 

 その考えは、少しも変わっていなかった。

 

 けれど。

 

   殺す必要は、ねぇ

 

 ふと、以前、自分が口にした言葉を思い出した。

 

 相手を止めることと、殺すことは違う。

 動けなくなれば、それで終わりだ。

 

 あの時、自分でそう言った。

 

 何も、あのばあさんに言われたからではない。

 

 自分が、そう思ったのだ。

 

 そうだろ。

 

 こいつを殺したいのか。

 それとも、こいつに殺されたくないのか。

 

 答えなんて、最初から分かっている。

 

 俺は。

 

 俺は、ただ。

 

 生きたい。

 

 それだけなんだ。

 

 目の前にある首筋が、かすかに脈打っている。

 

 このまま指を曲げれば、本当に終わる。

 

 もう、戻せない。

 

 アッシュは奥歯を噛み締めた。

 

殺せ

 

 まだ声がする。

 

 頭の奥で、何度も。

 

殺せ。

 

殺せ。

 

殺される前に。

 

こいつを。

 

今すぐに。

 

 黙れ。

 

殺せ

 

 黙れって、言ってんだろ。

 

 もう、分かった。

 

 怖いことくらい。

 死にたくないことくらい。

 

 そんなもの、言われなくたって。

 

 俺が。

 決めるんだよ。

 

 アッシュは、伸ばしていた右手を握り込んだ。

 

 鉤爪が、掌へ突(・)き(・)刺(・)さ(・)る(・)。

 

 痛みが走った。

 

 反射的に指が開きかける。

 

 それを、さらに強く握り締めた。

 

 温かい血が、指の間へ溢れてくる。

 

 痛い。

 痛くて、たまらない。

 

 それでも、開かなかった。

 目の前にある喉から、爪をズラす。

 

 上級生はまだ杖を握っていた。

 

 こちらへ向けようとしている。

 

 だったら。

 

 それを、止めるだけ。

 

 殺さずに。

 動けなくする。

 

 それでいい。

 

 それで、終わりにする。

 

「  ッ!!」

 

 アッシュは、握り締めた拳を突き上げた。

 

 今度は、首ではない。

 

 狙ったのは、顎(・)だった。

 

 もう、近づいてくるな。

 

 俺に杖を向けるな。

 

 二度と。

 

  吹き飛べ(▨▨▨▨▨)。

 

 拳が、上級生の顎を捉えた。

 

 鈍い音。

 何かが砕けるような感触が、腕を伝ってきた。

 

 同時に、目の前から相手の顔が消えた。

 

 上級生の身体が、真上へ跳ね上がったのである。

 

 両足が床を離れ、ローブが大きく翻った。

 後ろへ倒れることも、壁にぶつかることもなく、身体はそのまま天井へ向かっていく。

 

 アッシュは、拳を突き出したまま顔を上げた。

 

 そして。

 

 地下回廊に、ひどく大きな音が響いた。

 

 

▲

 

 

 アッシュは、拳を突き出した姿勢のまま立ち尽くしていた。

 

 目の前に、誰もいない。

 

 つい先ほどまで、そこにいたはずの人間が消えている。

 

 代わりに、頭上から黒いローブが垂れ下がっていた。

 

 上級生だった。

 頭だけが、天井へ埋まっている。

 両腕は力なく垂れ下がり、脚も動かない。

 

……あ。

 

 アッシュは、ゆっくりと顔を上げた。

 

 殴った。

 確かに、殴った。

 

 けれど。

 

 何で。

 

 何で、あんなところに。

 

 首は、裂かなかった。

 殺さないように。

 ちゃんと、止めたはずだった。

 

 なのに。

 

 動かない。

 

 上級生(あれ)は、動かない。

 

 アッシュの胸が、ひどく大きく脈打った。

 

……おい。

 

 声が出なかった。

 

 天井へ突き刺さった上級生の脚を見つめる。

 

 動かない。

 

 まるで。

 

 あの時の。

 

 兄弟たちのように。

 

……違う。

 

 アッシュは一歩踏み出した。

 

 その瞬間、頭上で小さな音がした。

 

 ぶら下がった脚が、ぴくりと動いた。

 

 もう一度。

 

 僅かに、爪先が揺れる。

 

 生きている。

 

 まだ。

 

 生きている。

 

 アッシュの膝から、力が抜けそうになった。

 

 息を吸う。

 

 今度は、ちゃんと吸えた。

 

 けれど、胸の奥へ絡みついたものは、少しも消えてくれなかった。

 

 殺そうとした。

 本気で。

 あの首を裂こうとした。

 

 その感触が、まだ指先に残っている。

 

 届くはずだった。

 

 あと少しで。

 

 ほんの少しだけ、手を伸ばしていれば。

 

……。

 

 ぽたり。

 

 何かが床へ落ちた。

 

 アッシュは、ゆっくりと視線を下げた。

 

 右手。

 拳の隙間から、血が流れている。

 

 握り込んだ爪が、掌へ深く食い込んでいた。

 

 指を開こうとすると、激しい痛みが走った。

 

「……っ」

 

 それでも、ゆっくりと力を緩める。

 

 爪が抜け、血が溢れる。

 

 床に落ちる一滴。

 さらにもう一滴。

 

 アッシュは、それを見つめた。

 

 赤い。

 

 あの時と同じ色だった。

 

 父の血も。

 母の血も。

 兄弟たちの血も。

 

 全部。

 

 同じ色だった。

 

「……お、お前……」

 

 声が聞こえた。

 

 顔を上げる。

 

 残る二人の上級生が、壁際に立っていた。

 

 顔が青ざめたまま。

 こちらを見ている。

 

 その目には、明らかな恐怖が浮かんでいた。

 

 アッシュが一歩動くと、二人は慌てて後ずさった。

 

「……来るな!」

 

 その声に、身体が強張った。

 

 来るな。

 

 それは。

 こっちの台詞だろ。

 

 そう思った。

 

 さっきまで、追いかけてきたのはそっちだ。

 

 道を塞いだのも。

 笑っていたのも。

 杖を向けたのも。

 

 全部。

 

 そっちだったのに。

 

 何で、今さら。

 

 そんな顔をする。

 

「……どけ」

 

 声が出た。

 

 掠れていた。

 

 それでも、二人には聞こえたらしい。

 

 片方が踵を返した。

 

 もう一人も、すぐにそのあとを追う。

 

 靴音が遠ざかっていく。

 

 ようやく、道が空いた。

 なのに、アッシュは歩き出せなかった。

 

 床には杖が落ちている。

 

 上級生が、さっきまで握っていたものだった。

 

 それが、まだ怖かった。

 

 誰も持っていない。

 もう、こちらへ向けられているわけでもない。

 

 分かっている。

 

 それでも、目を逸らすことができなかった。

 

……もう、終わっただろ。

 

 終わったはずだ。

 

 なのに、どうして。

 

 まだ、こんなに。

 

 怖いんだ。

 

「  先生! 誰か先生を呼んで!」

 

 廊下の向こうで、誰かが叫んだ。

 

 足音が増える。

 

 人が集まってくる。

 何かを言っている。

 

 けれど、もう聞き取る気にもなれなかった。

 

 アッシュは、血に濡れた右手を見下ろした。

 

 自分の手だった。

 ついさっき、人間を殺しかけた手だった。

 

 ぎゅっと握ろうとして。

 

 痛みで、止まった。

 

「アッシュ!」

 

 聞き覚えのある声がした。

 

 顔を上げると、黒い髪の少年が駆けてくるところだった。

 

 ポッター。

 その後ろには、ウィーズリーとグレンジャーもいる。

 

 三人は天井を見上げ、その場で足を止めた。

 

「……何だよ、あれ」

 

 ウィーズリーの声が震えた。

 

 ポッターは答えなかった。

 

 天井からぶら下がった生徒を見て、それからこちらへ目を向ける。

 

 何かを言おうとして、口を閉じた。

 

 アッシュの右手から、血が流れていたからだ。

 

「……君、怪我してるよ!」

 

 ポッターが近づいてきた。

 

 その瞬間。

 

 アッシュの身体が、反射的に動いた。

 

「  来るな!」

 

 声が、廊下へ響いた。

 

 ポッターが足を止める。

 

 アッシュ自身も、その声に驚いた。

 

 目の前にいるのは、ポッターだ。

 

 杖を持っていない。

 こちらを傷つけようとしているわけでもない。

 

 そんなことは、分かっている。

 

 なのに、身体が勝手に動いた。

 

 もう、誰にも近づいてほしくなかった。

 

「……アッシュ」

 

 ポッターは、ゆっくりと両手を下ろした。

 

「分かった。近づかないよ。でも、その手……」

 

 そこで言葉が途切れた。

 

 グレンジャーが、鞄からハンカチを取り出していた。

 

「ロン、先生を呼んできて! 早く!」

 

「あ、ああ!」

 

 ウィーズリーが駆け出す。

 

 グレンジャーは、こちらの様子を見ながら少しだけ近づいた。

 

「……アッシュ。そのままだと、血が止まらないわ」

 

「…………」

 

「触らないから。これ、自分で押さえられる?」

 

 差し出されたのは、白いハンカチだった。

 

 アッシュは、それを見た。

 

 白い布。

 小さな手。

 

 雪の中で、自分へ伸ばされたもの。

 

……。

 

 喉が、詰まった。

 

 アッシュは、ゆっくりと左手を伸ばした。

 

 ハンカチを受け取る。

 

 右手の掌へ押し当てると、すぐに赤い染みが広がった。

 

「……悪い」

 

 小さな声が出た。

 

 グレンジャーが、僅かに目を見開く。

 

「……いいの。今は、ちゃんと押さえてて」

 

 アッシュは頷いた。

 

 ポッターが、少し離れたところに立っている。

 

 あいつは何も聞いてこなかった。

 ただ、こちらの手と、天井の上級生を交互に見ていた。

 

「……あの人、生きてるよね」

 

 やがて、ポッターが呟いた。

 

 アッシュも顔を上げた。

 

 天井から、脚が下がっている。

 

 先ほど一度だけ動いた。

 

 けれど、今は。

 

……。

 

 何も言えなかった。

 

 その時。

 

「  道を空けたまえ!」

 

 低い声が響いた。

 

 スネイプだった。

 

 黒いローブが人垣を抜け、廊下へ入ってくる。

 

 教師は、まず床に落ちた血を見た。

 

 次に、アッシュ。

 そして、天井へ目を向けた。

 

 一瞬だけ、足が止まる。

 

 だが、すぐに杖を取り出した。

 

「全員、壁際へ下がれ。誰も真下に立つな」

 

 生徒たちが、慌てて動く。

 

 スネイプは慎重に杖を動かし、上級生の身体を下から支えた。

 

 首に重さがかからないようにしながら、天井へ埋まった頭を少しずつ引き抜いていく。

 

 木が軋んだ。

 細かな埃が落ちた。

 

 やがて、上級生の身体が完全に抜けた。

 

 スネイプはそのまま床へ降ろさず、横向きに浮かせて顔を覗き込む。

 

 アッシュは、息を殺して見ていた。

 

 動け。

 

 頼むから。

 

 動いてくれ。

 

 もう。

 

 もう、誰も。

 

「……呼吸はある」

 

 スネイプが言った。

 

 その言葉を聞いた瞬間、アッシュの胸から、何かが抜けたような気がした。

 

 しかし、教師の顔は険しいままだった。

 

「意識がない。頭部の状態も分からん。すぐに医務室へ運ぶ」

 

 そう言って、今度はアッシュへ視線を向ける。

 

「……君もだ」

 

 アッシュは答えなかった。

 

 右手を見下ろす。

 

 ハンカチは、もうほとんど赤く染まっていた。

 

「何があった」

 

 スネイプの声が、低くなった。

 

「……杖を向けられた」

 

「誰にだ」

 

 アッシュは、宙に浮かんだ上級生を見た。

 

「……そいつ」

 

 スネイプの目が僅かに動いた。

 

「それで?」

 

「……俺が、殴った」

 

 その言葉を聞いて、周囲の生徒たちがざわめいた。

 

 スネイプは何も言わなかった。

 

 ただ、アッシュの顔と、その血に濡れた右手を見ていた。

 

 やがて。

 

「……事情は後で聞かせてもらう」

 

 短く告げた。

 

「今は、二人とも医務室へ行くのが先決だ」

 

「  セブルス!」

 

 マクゴナガルが駆けつけたのは、その時だった。

 

 彼女は浮かんだ上級生を見て、アッシュの右手へ目を向けた。

 

 そして、少年の顔を見た途端、表情が変わった。

 

「……アッシュ」

 

 アッシュは、顔を上げた。

 

 眼鏡の向こうに、見慣れた目があった。

 

 厳しくて。

 いつも怒っていて。

 何度言い返しても、決して目を逸らさない。

 

 そんないつもの、ばあさんの目だった。

 

「……その手は?」

 

 アッシュは、しばらく黙っていた。

 

 それから。

 

「…俺が、やった」

 

「あなたが?」

 

「ああ」

 

 マクゴナガルは、傷ついた手を見つめた。

 

 掌に残る幾つもの傷。

 何かを握り込んだような、深い裂け目。

 

 そして、少年の顔。

 

「……何があったのです」

 

 アッシュは、答えようとした。

 けれど、言葉にならなかった。

 

 何から話せばいいのか分からない。

 

 朝からずっと、あの連中がしつこく絡んできたことか。

 

 杖を向けられたことか。

 あの光が見えたことか。

 

 それとも。

 

 自分が、本気で人を殺そうとしたことか。

 

 どれも、本当だった。

 どれも、まだ胸の奥へ残っている。

 

 アッシュは、ゆっくりと口を開いた。

 

「……ばあさん」

 

「何ですか」

 

「……俺」

 

 そこで、声が止まった。

 

 マクゴナガルは、急かさなかった。

 

 ただ、少年の言葉を待っていた。

 

 アッシュは、血に濡れた手を見下ろした。

 

 あの時。

 相手の喉が見えた。

 そこへ爪を立てれば終わると、本気で思った。

 

 怖かった。

 

 死にたくなかった。

 

 だから。

 

 殺そうとした。

 

「……殺す、ところだった」

 

 ぽつりと、声が漏れた。

 

 マクゴナガルの目が、僅かに見開かれた。

 

「……あいつを」

 

 アッシュは続けた。

 

「……殺そうとした」

 

 誰も、何も言わなかった。

 

 アッシュは、右手を見つめていた。

 

 この手が。

 

 あの首へ、伸びた。

 

 あと少しだった。

 

 ほんの少しだけ、違っていたら。

 

 今頃。

 

……。

 

「……けど」

 

 指が、僅かに動いた。

 

「……やめた」

 

 それだけ言って、アッシュは口を閉じた。

 

 マクゴナガルは、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、ゆっくりと息を吐く。

 

「……そうですか」

 

 静かな声だった。

 

「アッシュ。あなたが何をされたのか、これからきちんと調べます。相手の生徒にも、事情を聞かなければなりません」

 

 アッシュは、顔を上げなかった。

 

「ですが、今は……まず、その手を治しましょう」

 

 教師が、そっと手を差し出す。

 

 アッシュの身体が、僅かに強張った。

 けれど、その手には杖がなかった。

 

 何も持っていなかった。

 

 ただ、こちらへ向けて伸ばされている。

 

「……歩けますか?」

 

 アッシュは、しばらくその手を見つめた。

 

 やがて。

 

「……歩ける」

 

 小さく答えた。

 

 マクゴナガルは頷いた。

 

「では、行きましょう」

 

 アッシュは、ゆっくりと歩き出した。

 

 

▲

 

 

 医務室では、薬の匂いがした。

 

 マダム・ポンフリーが、傷口を確かめている。

 右手の掌には、爪を握り込んだ跡が幾つも残っていた。深い傷だったが、治療を受ければ塞がるらしい。

 

 それでも、手を動かすたびに痛みが走った。

 

「……まったく。どうしたら、こんな傷ができるんです」

 

 ポンフリーが、困ったように眉を寄せる。

 

 アッシュは答えなかった。

 

 自分でやった。

 

 自分の爪で。

 自分の手を。

 

 そう説明したところで、納得してもらえる気がしなかった。

 

 いや。

 

 それ以前に。

 

 今は、もう何も話したくなかった。

 

 隣の寝台には、あの上級生が運び込まれていた。

 

 カーテンが閉じられている。

 

 ポンフリーが何度か様子を確かめに行ったが、まだ意識は戻っていないらしい。

 

 アッシュは、ずっとそのカーテンを見ていた。

 

 動かない。

 声も聞こえない。

 

 けれど。

 

 呼吸はある。

 心臓も動いている。

 

 生きている。

 

 それだけは、分かった。

 

 マクゴナガルは、隣に座っていた。

 

 いつものように説教することもなく、今はただ黙って、アッシュの手当てが終わるのを待っている。

 

 やがて、ポンフリーが包帯を巻き終えると、少年へ言った。

 

「今夜は、ここで休みなさい。傷が塞がるまで、右手はできるだけ動かさないこと」

 

 アッシュは、頷いた。

 

 それから、包帯に覆われた手を見下ろした。

 

 あの時。

 本当に、殺すつもりだった。

 

 相手がどんな人間なのか。

 何をしようとしていたのか。

 

 そんなことは、もうどうでもよかった。

 

 杖を向けられた。

 

 殺されると思った。

 だから、殺そうとした。

 

 それだけだった。

 

……怖かった。

 

 今だって、思い出すだけで身体が震えそうになる。

 

 それでも。

 

 アッシュは、ゆっくりと指を伸ばした。

 

 痛みが走る。

 爪を握り込んだ時の感触が、まだ残っている。

 

 殺したいと思った。

 

 その気持ちは、本物だった。

 

 けれど、最後には。

 

 自分で。

 

 手を、握った。

 

……。

 

 カーテンの向こうで、布の擦れる音がした。

 

 アッシュの顔が上がる。

 

 ポンフリーの声が聞こえ、それに続いて、かすかな呻き声がした。

 

 生きている。

 

 まだ。

 

 生きている。

 

 アッシュは、しばらくその方を見ていた。

 

 左手が、首元のマフラーへ伸びる。

 

 白い布を掴む。

 

 その感触に、ほんの少しだけ呼吸が落ち着いた。

 けれど、胸の奥には、まだ嫌なものが残っていた。

 

 目を閉じれば、あの光景が浮かぶ。

 

 血に濡れた毛皮。

 

 冷たくなった母の身体。

 

 父の首。

 

 そして。

 

 自分へ向けられた、細長い木の棒。

 

 あの時、本当に怖かったのは何だったのだろう。

 

 殺されることか。

 

 また、何かを奪われることか。

 

 それとも。

 

……。

 

 アッシュは、傷ついた右手を見下ろした。

 

 今は、もう握り締めていない。

 

 それでも。

 

 あの瞬間、自分が何をしようとしたのか。

 

 何を望んでいたのか。

 

 そのことだけは、忘れられそうになかった。

 

 隣の寝台から、もう一度、小さな呻き声が聞こえた。

 

 アッシュは顔を上げた。

 

 そして今日は目を逸らさなかった

 




あらすじを見て来られた方々はまさか入学して早々殺害未遂が起きかけるとは思ってはいなかっただろうか。

前回予告した通りにアンケートは締め切り、この書き方のままでいかせていただきます。

今回もお読みに来てくださりありがとうございます。
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