ハリーポッターとケモノの子 ~その瞳に映るもの~ 作:火力万能主義
残り前回からの続きです。
鼻の奥をツンと刺す薬の匂いは、夜が明けても薄れることはなかった。
医務室の窓から差し込む朝の光の中、アッシュは寝台の縁に腰掛け、包帯の巻かれた右手を眺めていた。
昨夜よりも指は動くようになっている。そうと分かれば、つい確かめたくなるのが性分だったが、そのたびにポンフリーから手を休ませるように注意され、今は仕方なく膝の上に置いていた。
眠れなかったわけではない。少なくとも、何度かは眠りに落ちた記憶がある。
ただ、その眠りはひどく浅かった。
カーテンの向こうで寝具の擦れる音がするたびに目が覚め、その後もしばらくは耳を澄ませていた。
寝返りを打っただけなのか、それとも別の何かなのか。そんなことを考えるより先に、身体が勝手に音を拾ってしまう。やがて聞こえてくる微かな呼吸を確かめて、ようやく目を閉じることができた。
あいつは、生きている。
スネイプもそう言っていたし、自分の耳でも何度となく確かめている。それなのに、カーテンの向こうが静かになると、またそちらへ意識が向いてしまうのだから、どうにも落ち着かなかった。
結局、昼を過ぎても、まだ寝台から下ろしてはもらえなかった。
マクゴナガルとスネイプがやって来たのは、その頃だった。ばあさんは寝台の脇へ椅子を引き寄せて腰を下ろし、黒いローブを纏った教師は、その隣に立った。
「具合はどうですか」
「もう出てってもいいか?」
「その手で、ですか。まだ動かしてはいけないと言われているでしょう」
マクゴナガルの視線を追い、アッシュは知らずに曲げていた指を開いた。こちらが何か言い返すよりも先に、やってはいけないことばかり増えていく。
「……あいつは」
言いかけて、奥のカーテンへ目を向けた。
「今朝には受け答えができるまでに回復した。顎の治療は引き続き必要だが」
スネイプが短く答えた。
アッシュはそれを聞くと、僅かに顎を引いた。
「そうか」
それ以上、何と言えばいいのか分からなかった。目を覚ましたのなら、それでいい。少なくとも、あの時からずっと胸に引っかかっていたものが、一つ減ったのは確かだった。
もっとも、それだけで済む話ではないからこそ、こうして二人も来ているのだろう。
「昨日のことを、あなたからも聞かせてください」
マクゴナガルが口を開いた。
「殴った。それだけだろ」
「ええ。それは聞いています。ですから、その前に何があったのかを教えてください」
アッシュは膝の上へ視線を落とした。
朝、肩がぶつかったこと。飯を食っているところへやって来て、席を退けと言われたこと。言われた通りに席を空けても、背中へしつこく声が追ってきたこと。
思い出せる範囲で話してみたものの、一つ答えれば、今度はいつ、誰が、と聞かれる。
顔なら分かる。声も、匂いも覚えている。けれど、名前まで知っているわけではない。そもそも、好き好んで関わりたい相手でもなかったのだから、覚える必要もなかった。
「昨日の三人と、同じ者ですか」
「ああ。前にも、何度か」
「何度くらいですか」
「数えてねぇよ」
マクゴナガルはすぐに次の質問をせず、何かを考えるように口を閉じた。
その間、アッシュは左手でマフラーの端を押さえていた。
「……飯を食いたかっただけだ。昨日は、もう部屋に戻りたかった」
図書館にも寄らず、そのまま寮へ帰るつもりだった。
本を読む気にもなれなかったし、誰かの顔を見るのも嫌だった。だから、邪魔にならないところへ戻ろうとした。ただ、それだけのことだった。
「そこを、塞がれたのですね」
「どっちへ行っても、前に来た」
答えると、昨日の光景が蘇った。
右へ避ければ、相手も右へ動く。反対側を通ろうとすれば、もう一人が立ちはだかる。何度繰り返しても、その向こうにある廊下へは進めなかった。
何がそんなに面白かったのか、連中は始終笑っていた。
「その時点では、まだ杖は出ていなかったと」
今度はスネイプに確かめられ、アッシュは頷いた。
「あとからだ。しまえとも言ったのに、あいつらは聞かなかった」
「相手が何と言っていたか、覚えているかね」
「先輩を敬えとか、躾けるとか。そんなことを言ってたな」
どうして自分が、わざわざあいつらに躾けられなければならないのか。
思い出すだけで、腹が立った。
「頼んでもねぇのに」
吐き捨てるように付け加えると、膝の上に置いていた右手の指が僅かに曲がった。包帯の下で傷口が引きつり、そこで初めて力を抜く。
「それで、何か言ってたな。いや、杖持ったら呪文しかねぇだろ」
「相手を逆さに吊り上げる呪文だ。本人も、君に使おうとしたことは認めている」
アッシュは顔を上げた。
「だが、大怪我をさせるつもりはなかったと主張している」
その言葉を聞いた途端、胸の奥が冷たくなった。
「……だから、何だよ」
思っていたよりも低い声が出た。
スネイプの表情は変わらない。
「使われるまで、待ってろってのか。どんなものか、当たってから確かめろって?」
そんなことをしていたら、遅い。
声が途切れたあとでは、もう何も聞けない。倒れたものへ何度顔を押しつけても、温かくはならない。
あいつらだって。
喉が詰まった。
今、そのことを口へ出したくはなかった。
「……俺には、分かんねぇんだよ」
アッシュは俯いたまま答えた。左手はマフラーの端を握り締めており、緩めようとしても、なかなか指が動かなかった。
「君が何をされるか分からなかったことと、相手が何をするつもりだったかは、別々に確かめている」
スネイプは淡々と答えた。
「君が倒れるまで待てと、言っているのではない」
思わず顔を上げると、相変わらず不機嫌そうな顔がこちらを見下ろしていた。
「相手は冗談のつもりだったとも言っていた。だが、三人で道を塞ぎ、一人へ杖を向けることを、我が寮の作法として認めた覚えはない」
最後の言葉には、僅かに冷たいものが混じっていた。
けれど、それが自分へ向けられたものなのか、それともあの三人に対してなのか。アッシュには、すぐに判断がつかなかった。
「朝食の席での件も、ほかの生徒から聞いています」
今度はマクゴナガルが口を開いた。
「あなたが席を空けても、相手がしつこく声をかけ続けていたこと。回廊でも、あなたが何度も通り抜けようとしていたこと。その点については、証言が一致しています」
アッシュは口を閉じた。
見ていた奴が、他にいたのか。
昨日は自分のことで精一杯だった。周囲に誰がいたのか、ましてや自分たちの様子を見ていた者がいたかどうかなど、気にする余裕もなかった。
「ですが、アッシュ」
マクゴナガルは、そこで一度言葉を切った。
「あなたが相手に何をしたのかについても、きちんと聞かなければなりません」
ばあさんの目が、右手へ下がる。
「その傷は、どうしてできたのですか」
マクゴナガルに尋ねられ、アッシュは、包帯を巻かれた右手へ目を落とした。
白い布を見ているはずなのに、襟元から覗いていた首と、そこへ伸びる自分の指が浮かぶ。爪の先が届くまで、あと僅かだった。あの近さを思い出すと、掌の奥が再び疼くような気がした。
「爪を、出した」
スネイプの視線が、右手へ移った。その隣で、マクゴナガルが問いを重ねる。
「どこを狙ったのです」
答えずにいれば、諦めるだろうか。
アッシュは顔を上げ、眼鏡の向こうを窺った。
ばあさんは急かさなかったが、こちらから目を逸らすこともなかった。このまま黙っていても、話が終わるわけではないらしい。
「……首を」
改めて言葉にした途端、あの時の考えまで戻ってくる。
あそこを裂けば、すべて終わると思っていた。そうすれば、もう杖を向けられることも、自分を見ている目がこちらを追ってくることもない。二度と怖がらずに済むのだと、本気でそう考えていた。
だから、手を伸ばした。
今、こうして包帯を眺めているからといって、あの時に考えたことまで変わるわけではなかった。
「けど、やめた。手を握ったんだ。だからこうして爪が刺さった」
左手を持ち上げ、指を握り込む仕草をしてみせる。
もっとも、わざわざ見せる必要はなかったらしい。二人の教師は、すでに包帯の巻かれた右手へ目を向けていた。
「首からは外した。顎を殴った」
「……なぜ、狙いを変えたのですか」
マクゴナガルの問いに、アッシュは持ち上げた手を膝へ戻した。
「……殺す必要は、ねぇだろ」
前にも、そう言ったことがある。
相手が動けなくなれば、それで終わりだ。
ほかの誰でもない、自分で言った言葉を。
「動けなくなれば、もう杖も向けられねぇ。だから、それで」
言いかけて、口を閉じた。
そこから先が、うまく出てこなかったのだ。
あの時は、とにかく離れてほしかった。もう近づいてくるな、二度と杖を向けるなと、ただそれだけを考えて拳を振り上げた。
そして、あいつは天井へ飛んでいった。
「あそこまで飛ばすつもりは、なかった」
「君は杖を使ったかね」
「出してねぇ。呪文も唱えてねぇよ」
黒い目が、しばらくこちらへ留まった。
ほかに何か言うべきなのかとも思ったが、出していないものは出していない。
アッシュが黙っていると、スネイプはマクゴナガルへ顔を向けた。
「あの飛び方については、まだ確かめることがある。頭部の傷も、あの位置まで飛んだ結果としては少なすぎる。殴った力だけで説明できるとは思えません」
マクゴナガルは短く頷いたが、アッシュには二人が何を考えているのか分からなかった。
殴ったのは自分だ。
けれど、あんなふうに飛ばせるとは、自分でも知らなかった。
自分は、ただ殴っただけだ。
それなのに、
アッシュはもう一度、右手の包帯を見下ろした。
「あなたは、途中で攻撃を変えたのですね」
マクゴナガルが、改めて確かめた。
「……ああ」
「分かりました。そのことも含めて、判断します」
顔を上げると、眼鏡の向こうの目は、まだこちらを見ていた。
「ですが、相手が生きていたから、それでよかったとは言えません。あなた自身、相手があそこまで飛んでいくとは思っていなかったのでしょう?」
答えられなかった。
天井から垂れ下がっていた脚は、しばらく動かなかった。殺さないようにしたはずなのに、あの時は、生きているかどうかさえ分からなかった。
命を奪ったことなら、何度もある。
捕らえた獲物が暴れ、やがて力を失っていく感触も知っている。その肉を喰い、腹を満たして、次の日も生きる。それが森の掟だった。
けれど、仕留めてきた獲物の中に、憎かった相手など一匹もいなかった。
昨日だって、死にたくなかった。杖を向けられた瞬間、次に殺されるのは自分だと思った。
ただ、それだけではなかった。
何度離れても、まだ来る。まだ笑う。あの顔も声も憎かった。二度とこちらへ近づけないように、何も言えないようにしてやりたかった。
死ね。
腹を満たすためでもなく、相手の命が終わることだけを願って爪を伸ばした。そんなことは、初めてだった。
包帯を巻かれた右手を見下ろす。どこを裂けばいいのかも、どれだけ近くまで届いていたのかも、まだ覚えている。思い出すほど、胃の辺りが冷たくなった。
「……じゃあ、どうすりゃよかった」
気がつけば、声が出ていた。
「俺はちゃんと言葉で通せって言った。席だって退いた。あいつらが何を言っても、ずっと放っといた。昨日だって、俺は部屋に帰ろうとしただけだ」
言葉を重ねるうちに、腹の奥がじわじわと熱くなっていく。
自分から手を出さなかった。何を言われても相手にせず、邪魔にならないところへ行こうとした。何度も、そうしてきたはずだった。
言われた通りにしたではないか。
人間の決めた、るーるを。
「なのに、まだ来たんだよ。何で俺が、まだ何かしなきゃならねぇんだ」
マクゴナガルは、すぐには答えなかった。
その沈黙が嫌になり、アッシュは顔を背けた。
窓の向こうでは、風に揺れる木の枝が、日の光を受けている。外へ出れば、行きたいところへ行ける。嫌なものから離れたければ、自分で場所を選ぶこともできる。
少なくとも、森ではそうだった。
「……そこまで、繰り返されていたのですね」
やがて、マクゴナガルの声がした。
アッシュは振り向かなかった。
「以前、あなたに何か困ったことはないかと尋ねましたね。ですが、私は十分に聞けないまま、あなたを帰してしまいました」
覚えている。
何かあれば来なさいと言われた。返事だけでは駄目だとも言われた。
けれど、何もなかったわけではない。
「あなたが何も言わなければ、何も起きていない。それで済ませてよいことではありませんでした」
アッシュは、ようやく顔を戻した。
マクゴナガルは、真っすぐこちらを見ていた。
「次に同じことがあっても、何かをされるまで待つ必要はありません。道を塞がれた時点で、近くの教師へ知らせなさい。何度も絡まれているのなら、そのことも話して構わないのですよ」
「間に合わなかったら」
「その場で身を守らなければならないことも、あるでしょう。昨日、あなたがそう感じたことは聞きました」
そこで一度、言葉を切った。
「ですが、その前に、私たちが止める機会を作ってほしいのです。あなた一人で、毎回追い払わなくても済むように」
アッシュは黙っていた。
困ったら来ればいい。
また、そう言われている。
けれど、昨日あの回廊に、ばあさんはいなかった。
そのことは、今さらどうしようもない。
「彼らには、今後、君へ不必要に近づくことを禁じた」
スネイプが口を開いた。
「寮内でも同様だ。この事件を持ち出して嫌がらせを続けることはもちろん、他の生徒を使って同じことをさせるのも許さん。監督生にも通達してある」
「……言うことを聞くのかよ」
「聞かなければ、処分を重ねるまでだ」
返事は短かった。
「寮内でまた何かあれば、私へ直接言いたまえ。ほかの生徒に許可を取る必要はない」
アッシュは黒いローブの教師を見た。
以前、魔法薬の授業で大鍋の火が強くなりすぎた時と、まったく同じ顔をしている。
ただ、何と答えれば話が終わるのかは、まだ分からなかった。
「彼らの件は、彼らの責任として扱います」
マクゴナガルが言った。
「ですが、あなたが相手を負傷させ、回廊の天井を壊したことについても、処分はあります」
そう告げられ、アッシュは顔を上げた。
スネイプが椅子の脇から一歩前へ出る。
「スリザリンから二十点の減点。加えて、君には手の治療を終えてから三晩、フィルチの監督下で清掃を行ってもらう」
アッシュは、膝の上の右手を見た。
「……あいつらは」
「杖を向けた者は三十点。道を塞ぎ、これまで同調してきた二人は、それぞれ二十点の減点だ。三人とも、一週間の罰則を課している」
点が減る。
その仕組みなら、アッシュも知っていた。大広間へ続く入口に並んだ、色とりどりの宝石が詰まった大きな砂時計。教師が点数を告げるたび、あの中身が増えたり減ったりするらしい。
だからといって、昨日の道が空くわけでも、向けられた杖がなくなるわけでもない。
それでも、どうやら叱られているのは自分だけではないらしかった。
「清掃って、床だけでいいのかよ」
「フィルチから指示を受けたまえ」
アッシュは少し考え、それから頷いた。
まだ納得していないことはある。
けれど、天井にあの穴を開けたのが自分であることも、間違いではなかった。
「……分かった」
スネイプはマクゴナガルへ一言告げ、医務室の奥へ向かった。
別の寝台のカーテンが開く。その向こうから、少し嗄れた声が聞こえた。
昨日の声だった。
アッシュの肩が、僅かに強張る。
けれど、こちらへ近づいてくる足音はなかった。
「アッシュ」
ばあさんが、立ち上がった。
「今夜も、まずはここで休みなさい。眠れない時は、そのことも伝えてください」
「……言って、どうすんだよ」
「眠れるように、マダム・ポンフリーと考えます」
そんなことまで、話さなければならないのか。
アッシュは窓へ顔を向けかけ、やめた。
「授業が終わってても、行っていいのか」
マクゴナガルの手が止まった。
「何ですか?」
「何かあったら、来いって。授業のあとでも」
ばあさんは、頷いた。
「ええ。構いません」
それから、少し間を置いて続けた。
「授業に関係のないことでも」
アッシュは、左手でマフラーの端を撫でた。
言ったところで、すぐに信じられるわけではなかった。
だが、行ってはいけない時間ばかりではないらしい。
「……そうか」
夕方になると、また足音が増えた。
ポンフリーのところで、聞き覚えのある声がする。三つ。入ってきた時から、誰なのかは分かっていた。
「長居はしません。少しだけです」
グレンジャーだった。
そのあとに、小さく何かを言う赤髪の声。ポッターが、それへ答えている。
アッシュは、膝の上の手を見た。
昨日、来るなと叫んだ。
あいつは、止まった。
それなのに、また来たのか。
「お友達が来ていますよ。会えますか?」
ポンフリーが尋ねた。
友達かどうかは、こちらへ聞かれても困る。
アッシュが黙っていると、少し離れたところからポッターが顔を出した。
「……入ってもいい?」
足は、そこで止まっている。
こちらへ手を伸ばすこともなかった。
「別に。起きてる」
答えると、ポッターはポンフリーを見た。頷かれてから、ようやく近づいてくる。
赤髪とグレンジャーも、そのあとへ続いた。
「手、どう?」
「もう動く」
「だからといって、動かしてよいわけではありませんよ」
少し離れたところから声が飛んできた。
アッシュは顔をしかめる。
赤髪がこちらを見て、小さく口元を曲げた。
「……何だよ」
「いや。動かすなって言われたんだろうなと思って」
「今、聞いただろ」
「そうだけどさ」
ウィーズリーは、そこで口を閉じた。
視線が右手へ向く。すぐに逸れた。
笑いたいのか、何か聞きたいのか。昨日ほど青い顔ではなかったが、いつも通りとも違っていた。
「これ、今日の授業の分」
グレンジャーが、折った羊皮紙を取り出した。
アッシュの目が、その手を追う。
紙だった。
「全部は写せなかったけれど、課題のところは書いてあるわ。ここへ置いてもいい?」
脇の小卓を示され、頷いた。
紙が置かれる。そのすぐ横にある白い布へ、少女の目が止まった。
「あ。それ」
「お前のだろ」
朝、ポンフリーが洗ったと言って置いていったものだった。
アッシュは左手で取り、差し出した。
「返す」
「……ええ」
グレンジャーが受け取る。
布を広げ、赤いものが残っていないことを確かめるように指で撫でた。それから、小さく畳み直してポケットへしまった。
「今日は、血が出ていなくてよかったわ」
アッシュは、自分の手へ目を落とした。
「ああ」
昨日は、いくら押さえても赤くなった。
今、包帯は白いままだった。
「赤髪」
「何?」
「昨日、先生を呼んだの、お前か」
「そうだよ」
ウィーズリーが頷いた。
「スネイプ先生、歩くの速いんだぜ。呼びに行った僕が、帰りも走ることになるとは思わなかったよ」
その横で、ポッターが少し笑った。
アッシュは、赤毛の少年を見た。
こいつも、昨日の天井を見ていた。自分の手も、顔も。
「……そうか」
それしか出てこなかった。
ウィーズリーは一度頷き、寝台の足元へ目を移した。
昨日のことを、誰も聞かなかった。
何をしたのかも、何でそうなったのかも。
代わりに、グレンジャーが羊皮紙の端を指して、提出する日だけは間違えないようにと言った。赤髪は、それを自分にも言われたものだと思ったらしく、分かってるよと答えた。
「今は、アッシュに言ってるの」
「……ああ、そう」
その返事が少しおかしなものになり、ポッターがまた口元を押さえた。
しばらくして、ポンフリーがこちらを見た。
グレンジャーが気づき、二人の袖へ手を伸ばす。
「そろそろ行きましょう」
「うん」
ポッターが、一歩下がった。
「じゃあ、また。教室で」
アッシュは、その顔を見た。
昨日、近づくなと言われた時のように、目を見開いてはいなかった。
だが、いつもより少し離れている。
「……ああ」
片手を上げる。
左手だ。
ポッターも手を上げ、三人は並んで医務室を出ていった。
静かになってから、アッシュは小卓の紙へ目を向けた。
細かい文字が、何行も並んでいる。
寝ていても、やることは増えるらしい。
紙の端へ、指を置いた。
すぐに捨てたり、鞄へ押し込んだりはせず、書かれていた最初の行から目を通した。
事件から三日後。
「違います」
フィルチが言った。
アッシュは、床に置いた布から顔を上げた。
「何が」
「それでは、水を撒いているだけでしょうが」
見下ろす。
確かに、布を動かしたあとへ、水の筋が残っていた。
「拭けって言っただろ」
「拭けとは言ったが、廊下を池にしろとは言っておらん」
管理人が、脇の桶を指した。
アッシュは布を持ち上げる。
ポンフリーから手を使ってよいと言われたのは、その日の午後だった。
傷は塞がっている。指を曲げても、もう包帯の下から血が滲むことはなかった。何度も動かして確かめていると、痛まないなら結構と、今度こそ医務室を出ることを許された。
そして、夕食を終えてから来いと言われた場所が、ここである。
地下回廊。
桶。雑巾。柄の短いブラシ。
それらを指で示したフィルチは、どこからどこまで拭くのかを、念入りに言い渡した。
随分と、遠くまで。
「……俺が汚したの、あの辺りだろ」
「あの血を、今日まで放っておいたとでも?」
言い返され、口を閉じた。
床には、もう何も残っていなかった。
天井の穴も塞がれている。ただ、取り替えた板だけが、周囲と少し色を違えていた。
アッシュは、そこを一度見上げた。
何も、下がっていない。
「上を見ていても、床は綺麗になったりはせん」
フィルチの声で、顔を戻す。
布を桶の上で絞った。水が落ちる。握った指の間を冷たいものが通ったが、痛みはなかった。
「……これでいいか」
「さっきよりは、ましだ。ほれ、今濡らしたところからやり直せ」
アッシュは膝をついた。
何で、同じところを二度も拭かなければならないのか。
そう思ったが、さっきの水が残っているのも、自分が濡らしたからだった。
布を押す。
石と石の継ぎ目へ、指が引っかかった。
力を抜き、もう一度動かす。
向こうから、足音がした。
顔を上げる。
二人の生徒が、回廊へ入ってきたところだった。こちらに気づくと、話し声が途切れる。片方が隣の袖を引き、小さく何かを言った。
アッシュの目が、その手へ向いた。
杖は、なかった。
生徒たちは壁際へ寄り、少し遠回りをして通り過ぎていった。
曲がり角の向こうから、また声がする。
「……あいつが」
その先も聞こえたが、アッシュは布へ目を戻した。
右手へ、少し力が入っていた。
指を開き直し、捲れた端を広げる。
「そこは、石の隙間に汚れが残っている」
今度は、真上から声がした。
フィルチが、こちらの拭いたところを覗き込んでいる。
「見えてる」
「見えているなら、さっさと落とせ」
「今、やるところだった」
ブラシへ持ち替える。
擦れば、乾いた音がした。何度か往復させ、布で拭き取ると、さっきまで黒く残っていたものが薄くなった。
「……こうか」
フィルチが屈んだ。
指で石の端をなぞり、目の高さを変えてまで確かめる。
「ふん。次は向こうだ」
ようやく言われ、アッシュは桶へ手を伸ばした。
水を替える必要は、まだないらしい。布をすすぎ、今度は先ほどと同じくらいに絞る。
見上げなくても、天井のどこに穴があったかは分かった。
手を動かしている間にも、あの脚が浮かぶことはあった。床に落ちた杖も。そこから目を離せなくなったことも。
ただ、今、そこにあるのは石の継ぎ目だった。
拭き残した汚れと、布の端。
アッシュは、もう一度、床へ手を伸ばした。
その目の前を、靴が横切った。
「……おい」
フィルチが足を止める。
「何だ?」
「そこ、今、拭いた」
「見れば分かるわ」
「だったら、何で踏むんだよ」
濡れた石の上に、靴底の形が残っている。
フィルチは自分の足元を見た。
それから、何事もなかったように、持っていた別の布を差し出した。
「最後は乾拭きだ」
アッシュは、布と管理人の顔を交互に見た。
「……先に言えよ」
受け取った布を、右手で広げる。
その前に、まだ目の前へ立っている靴を指さした。
「あと、そこをどけ。拭けねぇだろ」
今回も読みに来てくださってありがとうございます。
最初の構成は見切り発車でのギャグ路線しか考えてなかったのに、今じゃこんなギスギスした学校生活の中で笑顔と青春を取り戻す物語もありやなと開き直ることにしました。
先に投稿してから考えてみましたけど、やはりこのまま僕の好きを込めた作品だからこそ向き合ってもっと頑張ってみるかと思いました。
まぁ文字数だけは改善した方がいいとは感じたものもありますのでこればかりはもっと努力してみます、これからもよろしくお願いいたします!