ハリーポッターとケモノの子 ~その瞳に映るもの~ 作:火力万能主義
主よ我に自分をしばくための筋肉をどうかお恵みください。
「……でさ、フレッドとジョージが言ってたんだけど」
「うん?」
「ホグワーツには、入学試験があるらしいんだ」
「入学試験?」
「そう! しかも、トロールと戦わされるんだって!」
「……トロール!?」
「ああ。すごく大きくて、力も強いんだ。あんなのと戦うなんて、僕には絶対に無理だよ!」
「僕だって無理だよ! 魔法なんてほとんど使ったことがないのに!」
「そうなんだよ! だから困ってるんじゃないか!」
ガタン、ゴトン。
列車の走る音に混じって、二人の少年の話し声が聞こえる。
ハリー・ポッターとロン・ウィーズリー。
つい先ほど知り合ったばかりだというのに、二人は随分と打ち解けているようだった。
初めて見る魔法の菓子に驚いてみたり、学校の授業について話し合ったり。
どうやら話題には事欠かないらしい。
もっとも。
「…………」
同じ客室に座るもう一人の少年にとっては、どうでもいい話だった。
アッシュ。
灰色がかった髪に、季節外れの白いマフラー。
窓際の席へ身体を預けたまま、流れていく景色を眺めている。
草原。
丘。
木々の群れ。
時折、羊の姿も見えた。
どれも初めて見る景色ばかり。
それでも、木々の間を覗けば、どこに身を潜められるかは大体分かる。
あの岩陰なら、雨は凌げるだろう。
あちらの森には、小川があるかもしれない。
……あの辺りなら、うん、悪くない。
ぼんやりとそんなことを考えていると、向かい側から声が飛んできた。
「なあ、アッシュ!」
「…………」
「アッシュってば!」
「……ああ、聞こえてる」
「だったら返事してよ!」
「……なんだよ」
顔だけを向ける。
ロンが少しむっとした表情でこちらを見ていた。
「君はどう思う? 入学試験のこと」
「……知らねぇな」
「いや、そうじゃなくて。トロールと戦うって話だよ!」
「……それが?」
「怖くないの?」
アッシュは首を傾げる。
「……見たこともねぇし」
「え?」
「どんな奴か知らねぇんだから、怖いも何もないだろ。強そうなら逃げりゃいいし、無理なら隠れて寝首でも狙えばいい」
「ね、寝首!?」
「……なんだよ」
「いや、トロール相手にそんなこと考える!?」
「じゃあ、どうすんだよ。黙って喰われんのか?」
「そ、そりゃ嫌だけど……!」
ロンは何とも言えない顔になる。
どうやら、期待していた反応とは違ったらしい。
しかし、アッシュにはよく分からなかった。
戦って勝てない相手なら逃げればいい。
逃げられないのなら、勝てる方法を探す。
少なくとも、何もせずに喰われるよりはずっといい。
それだけの話である。
「……そもそも、本当にあんのかよ?」
「え?」
「その入学試験ってやつ」
「ああ、うん。フレッドとジョージがそう言ってたから……」
「自分で見たのか?」
「いや、僕はまだ入学してないんだから……」
「じゃあ、分かんねぇだろ」
「…………」
ロンは黙ってしまった。
何か言い返そうと口を開きかけ、やがて眉間に皺を寄せる。
「……あれ?」
隣のハリーが小さく笑った。
「そう言われると、ちょっと怪しいね」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 確かにあの二人ならやりかねないけどさ!」
ロンが慌てて弁解し始める。
アッシュは、それを最後まで聞かなかった。
もう一度、窓へ顔を戻す。
……試験、か。
まったく興味がない。
そもそも、あの学校に入学すること自体、気が進まないのだ。
見知らぬ人間が大勢いて、同じ場所で食事をして、同じ建物で眠る。
嫌というほど聞かされた『るーる』とやらもある。
それだけでも面倒なのに、魔法の勉強までさせられるらしい。
……帰りてぇ。
窓の外を、一羽の鳥が横切った。
小さくなっていくその姿を、目で追いかける。
自由なものだ。
どこへ行こうが、誰に文句を言われることもない。
少なくとも、あんなところに閉じ込められてはいない。
アッシュは小さく息を吐いた。
……どうして、こんなことになったんだか。
いや。
分かっている。
あの
ただ、今になっても気が進まないだけで。
窓硝子に映る自分の顔を見つめながら、アッシュは少し前のことを思い出していた。
「ほぐわーと?」
「ホグワーツ、ですよ。アッシュ」
「……同じだろ」
「違います」
「…………」
「もう一度」
「……ほぐわーつ」
「ホグワーツ」
「…………」
……面倒くせぇ。
アッシュは露骨に顔をしかめた。
しかし、目の前の魔女は一向に気にする様子もない。
ミネルバ・マクゴナガル。
ホグワーツ魔法魔術学校の副校長。
そして、書類の上ではアッシュの保護者となっている女性である。
アッシュにとって、これほど厄介な『にんげん』も珍しかった。
少なくとも、彼が知る限りでは。
そもそも、初めて会った頃から妙な女だった。
睨んでも怯まない。
牙を剥いても逃げない。
やっと追い払ったと思ったところで、次の日にはまた何食わぬ顔でやってくる。
しかも、毎度のように何かを教えようとするのだ。
言葉を教える。
文字を教える。
服の着方や食事の仕方。
挨拶に礼儀作法、その他諸々。
……ああ、もう。
思い返すだけで頭が痛くなってくる。
それこそ、朝から晩まで小言の嵐である。
おまけに、一度言ったことは絶対に忘れないときた。
こちらが忘れた頃には、あの眼鏡の奥からじっと見つめられるのである。
まったく、恐ろしいばあさんだ。
もっとも、その甲斐あってか、アッシュも今では人間の言葉を不自由なく話せるようになったのだが。
文字も読める。
食事は椅子に座って取る。
服だって、窮屈ではあるが一応ちゃんと着る。
人間の群れには、人間の群れの掟がある。
そのくらいのことは、もう理解していた。
本人としては、それで十分なはずだったのだが。
「……名前なんかどうでもいいだろ」
「どうでもよくありません。学校の名前くらい、正しく覚えなさい」
「……ばあさん」
「何でしょう?」
「なんで俺が、その『にんげんのがっこー』に行かなきゃなんねぇんだよ」
マクゴナガルは眼鏡の位置を直した。
「あなたも、もうすぐ十一歳です。魔法を持つ子供であれば、ホグワーツで学ぶ資格があります」
「……いらねぇ」
「アッシュ」
「俺は、
そう言って、窓へ顔を向ける。
窓の外には庭があり、その向こうには道が見えた。
あの道を辿っていけば、いずれ森へ行ける。
今までと同じように。
一人で。
「……森に帰る」
短く告げる。
「俺には、あっちの方がいい」
マクゴナガルはしばらく少年を見つめていた。
その間にも、アッシュは窓から顔を逸らさない。
「……そうですか」
ようやく、返事があった。
アッシュは少しだけ目を動かす。
てっきり、また説教が始まると思っていたのに。
ところが、マクゴナガルは声を荒らげるでもなく、机の上へ一枚の羊皮紙を置いただけだった。
「では、一つ尋ねてもよろしいですか?」
「……何だよ」
「どうして、森を出てきたのですか?」
「…………」
アッシュの指が止まる。
「……何の話だ」
「あなたが私たちに保護される前のことです」
マクゴナガルは静かに続けた。
「あなたは、何度も人里へ姿を現していたそうですね」
「…………」
「森で一人でも生きていけるのなら、どうしてわざわざ人間の暮らす場所へ来ていたのでしょう?」
返事はない。
アッシュは、窓から顔を戻した。
灰色の瞳が細まる。
嫌な目だった。
この魔女の目は、どうにも苦手だ。
睨んでも怯まない。
追い払っても諦めない。
こちらが何も言わなければ、黙って待っている。
……本当に、厄介なばあさんだ。
「……言う必要、あんのかよ」
「いいえ。話したくないのであれば、無理に聞くつもりはありません」
「……だったら聞くなよ」
「ですが、理由はあるのでしょう?」
「…………」
アッシュは答えなかった。
マクゴナガルも、それ以上は問い詰めない。
ただ、目の前にいる少年が何の理由もなく人里を彷徨っていたわけではないことだけは、分かっていた。
そもそも、彼が魔法界に発見された経緯からして、普通ではない。
アイルランドの山奥。
人里から離れた森と、その周辺に点在する小さな村々。
そこでは以前から、奇妙な噂が囁かれていた。
人間の子供らしい姿を見かけたと思えば、次の瞬間には姿を消している。
家畜が騒ぎ出したり、食べ物がなくなったり。
何者かが森と人里を行き来していることだけは確かなのに、誰一人、その正体を知らない。
やがて、その地域で不可解な魔法の痕跡が確認された。
調査に向かったのは、魔法省の闇祓いたち。
彼らは痕跡を辿り、ついに奇妙な少年を発見することになる。
……もっとも。
発見したことと、無事に保護できたかどうかは別の話ではあるが。
何せ、彼らは魔法省に所属する立派な闇祓い。
危険な相手を見つければ、まず杖を構えるのが習い性というもの。
そして運悪く、その相手は杖を向けられることを何よりも嫌う
結果として、
現場に居合わせた闇祓いたちは、文字どおり
それも一人や二人ではない。
長年危険な任務を経験してきたベテランまで含め、幾人もの闇祓いが療養のための休暇を取ることになったという。
ちなみに。
折れたのは、骨だけではなかったらしい。
一体何本の杖が使い物にならなくなったのか。
その辺りについては、当時の記録を確認する必要があるだろう。
もっとも、関係者の多くは二度と思い出したくもない出来事かもしれないが。
ともあれ、そうした紆余曲折を経て、少年はようやく魔法使いたちの保護下に置かれた。
それが、現在
本当の名前はない。
少なくとも、彼の出生について調べた者たちの中に、その名を知る者は誰一人いなかった。
アッシュという呼び名も、彼が姿を現していた地域で使われていた通称にすぎない。
生まれた場所も、両親も不明。
どこから来て、どうやって今まで生き延びてきたのかも分からない。
ただ、そんな少年の存在を示すかのように、ホグワーツには一つの奇妙な記録が残されていた。
学校が創設された頃から存在する、魔法の書物。
魔法を持つ子供の存在を記録するその書物には、ある時、一つの空白が生まれたのである。
生年月日。
そして、魔法の力を初めて発現した日。
日付だけは確かにある。
ところが、名前がない。
記されるべき場所には、何も書かれていなかったのである。
魔法省の記録と照合しても、該当する子供は見つからない。
そして、長い調査の末に辿り着いたのが、アイルランドの森で発見された少年だったということ。
果たして、この少年と書物の記録が同じものを指しているのか。
まだ分からないことは多い。
しかし、マクゴナガルたちには一つだけ確信していることがあった。
彼は、自分の意思で森を出てきた。
人間を嫌いながらも。
「……アッシュ」
マクゴナガルが呼びかける。
「あなたが何を探しているのか、私は知りません」
「…………」
「ですが、それを見つけるために人里へ来ていたのでしょう?」
沈黙。
少年の指が、椅子の端を掴む。
「……だったら、何だよ」
「ホグワーツへ来てみませんか?」
「…………」
アッシュは顔を上げた。
「……は?」
「そこには、あなたの知らないものがたくさんあります」
「…………」
「魔法も、歴史も、書物も。あなたがこれまで見たことのないものが、数え切れないほどあります」
机の上の羊皮紙が、窓から入り込んだ風に揺れる。
「あなたの探しているものが、必ずそこにあるとは申し上げられません」
「……じゃあ、行っても同じだろ」
「果たして、そうでしょうか?」
マクゴナガルは静かに尋ね返した。
「今まで知らなかったことを知る。それによって、今まで見えなかったものが見えるようになることもあります」
「…………」
「少なくとも、今までと同じ場所だけを探し続けるよりは、選べる道が増えるのではありませんか?」
アッシュは答えなかった。
ただ、目の前の羊皮紙へ視線を向ける。
ホグワーツ。
人間の学校。
知らない奴らが山ほどいる場所。
同じ屋根の下で暮らし、同じものを食べ、同じことを教わる。
想像しただけで、落ち着かない。
できることなら、近づきたくもない。
……けれど。
森を出てきた理由まで、忘れたわけではない。
何も見つからなかったからといって、そこで終わらせるつもりもなかった。
今までと同じことを繰り返しても、何も変わらない。
それなら。
「…………」
長い沈黙。
やがて、アッシュは口を開いた。
「……そこに、あんたもいるのか」
「ホグワーツに、ですか?」
「……ほかに何があんだよ」
「ええ。私の勤め先ですから」
「……そうかよ」
それきり、また黙り込む。
マクゴナガルは急かさなかった。
少年は机の上の羊皮紙を見つめている。
その端を指で押さえ、しばらくしてから、自分の方へ引き寄せた。
「……分かった」
ぽつり。
「その学校、行ってやるよ」
マクゴナガルが目を瞬かせる。
「……本当ですか?」
「ああ」
「……そうですか」
眼鏡の奥の瞳が、僅かに和らいだ。
しかし。
「一つ、言っとく」
アッシュが顔を上げた。
「俺は、にんげんと仲良くするために行くんじゃねぇぞ」
「ええ」
「友達もいらねぇ。あいつらの群れに入るつもりもない」
「……分かっています」
「なら、いい」
それだけだった。
少年にとっては、それで話は終わったらしい。
だが、マクゴナガルにとってはそうもいかない。
「……それでも、学校へ通う以上、守っていただく規則があります」
「……
「ええ」
「分かってるよ」
アッシュは面倒そうに答えた。
「群れの掟だろ?」
「……ええ。そう考えてもらって構いません」
「勝手に人の物を取るな。決められた時間に飯を食え。ほかの奴に理由もなく手を出すな」
「それから、挨拶をすること。他人の話を最後まで聞くこと。困ったことがあれば、
「……覚えてるって」
少々不機嫌そうではあるが、答えは淀みない。
少なくとも、教わったことはきちんと覚えているらしい。
人間の群れには、人間の群れの掟がある。
そこに入る以上、掟を守る。
その考え方自体は、アッシュにも理解できるものだった。
狼の群れにも、守るべき決まりはある。
誰もが好き勝手に振る舞っていれば、群れは成り立たない。
……ただし。
「……ああ、そうだ」
少年が顔を上げる。
「何でしょう?」
「二つだけ、先に言っとくぞ」
その声は、先ほどまでと何も変わらない。
「……俺に杖を向ける奴は、知らねぇからな」
「…………」
「あと、これに手ぇ出す奴も」
くしゃり。
首元に巻かれた白いマフラーを掴む。
その瞬間、マクゴナガルの表情が僅かに曇った。
「……アッシュ」
「何だよ」
「学校では、時には相手と意見が食い違ったり、喧嘩になったりすることもあるでしょう。しかし、そのたびに力で解決してはいけません」
「分かってるよ」
「本当に?」
「俺からは何もしねぇって」
面倒くさそうに答える。
「何もしてこない奴に、わざわざ手ぇ出す理由もないだろ」
「……ええ。それが守れるのでしたら」
「けどな」
そこで、少年の声が少しだけ低くなった。
「先にやってきた奴は別だ」
「…………」
「俺に杖を向けたら、そいつは
灰色の瞳が、まっすぐにマクゴナガルを見据える。
「アッシュ。たとえ相手が先に杖を向けたとしても、必ずしも攻撃する意思があるとは限りません」
「……それをどうやって分かる?」
「……それは」
「何もしないって、誰が決めたんだよ」
声は静かだった。
怒鳴るわけでも、威嚇するわけでもない。
ただ、それだけを確かめようとしている。
「……危険を感じた時は、まず
「間に合わなかったら?」
「そのような時は、身を守るために必要な行動を――」
「……なら、先に止める」
「アッシュ!」
「…………」
少年は黙った。
先ほどまでの不機嫌そうな様子が消え、代わりに、冷たい眼差しだけが残っている。
「……やらなきゃ、やられる」
ぽつり。
「やられる前にやる。それだけだろ」
「…………」
「一回やられたら、終わりなんだぞ」
何の迷いもなかった。
それは、彼にとって疑う余地すらない、ごく当たり前の話だったからだ。
森の中では、誰もが命を懸けて生きている。
喰う側と、喰われる側。
追う側と、追われる側。
そこに、やり直しなどというものはない。
逃げ遅れれば、喰われる。
爪が届けば、血が流れる。
牙が喉に食い込めば、それで終わりだ。
強い
大きな身体も、鋭い牙も、たった一度の油断で意味を失うの
相手が弱いと思った。
逃げ切れると思った。
まだ大丈夫だと思った。
その
だから、迷わない。
逃げられるなら逃げる。
戦うしかなければ戦う。
そして、戦うと決めたなら、相手が動けなくなるまで止めない。
強いから生き残るのではない。
生き残った方が、強い。
少なくとも、次の朝を迎えられるのは生き残った方だけだ。
――生き残った方が、正義。
それが、アッシュの知る
彼は、そんな世界を十年近く生きてきたのである。
そんな少年にとって、人間の
危険を感じたら、誰かに助けを求める。
相手が間違いを犯しても、話し合って解決する。
失敗した者にも、もう一度機会を与える。
……
アッシュは思う。
甘くて、
けれど、その優しさが自分の命を守ってくれるとは限らない。
相手が待ってくれなかったら?
そうなれば、終わりだ。
後から叱られたところで、死んだ者は戻らない。
だから。
「……一度やられたら、終わりだ」
アッシュは静かに告げた。
「次があるなんて、誰にも分かんねぇだろ」
「…………」
「……俺は、待たねぇよ」
マクゴナガルは少年を見つめていた。
十一歳。
まだ、ほんの子供である。
けれど、その口から語られるのは、あまりにも冷たい現実だった。
彼にとっては、誰かが助けに来てくれることも、間違いをやり直せることも、当たり前ではない。
「……アッシュ」
マクゴナガルはゆっくりと口を開いた。
「あなたが、これまでどのように生きてきたのか。私には、すべてを理解することはできないでしょう」
「…………」
「ですが、ホグワーツはあなたのいた森ではありません」
真剣な眼差しだった。
「そこには、あなたと同じ年頃の子供たちが大勢います。間違いを犯す子もいるでしょう。喧嘩になることもあるかもしれません」
「…………」
「だからといって、そのすべてを命の奪い合いにしてしまってはいけません」
少年は何も言わない。
「
「……じゃあ」
アッシュが口を開く。
「俺は、誰が守んだよ」
「……私たち
「間に合わなかったら?」
「…………」
「俺がやられた後で、そいつを叱るのか?」
マクゴナガルはすぐには答えられなかった。
少年も、それ以上は尋ねない。
その沈黙を、どう受け取ったのか。
アッシュは首元のマフラーから手を離した。
「……俺は、俺で守る」
それだけだった。
マクゴナガルは小さく息を吐く。
「……自分の身を守ることは、決して間違っていません」
「……なら、問題ねぇだろ」
「ですが!」
ぴしゃり。
「必要以上に相手を傷つけてはいけません!」
「……必要以上?」
「ええ!」
「…………」
アッシュは少し考え込んだ。
そして。
「……動けなくすりゃいいんだろ?」
「……はい?」
「殺す必要はねぇ。動けなくなれば、それで終わりだ」
「……アッシュ?」
「足を折るくらいなら、死なねぇだろ」
「いけません!!」
「…………」
「相手の足を折ってもよいなどと、誰が言いましたか!」
「……じゃあ、腕は?」
「同じことです!!」
「…………」
……
アッシュは目を細めた。
足も駄目。
腕も駄目。
首を締め上げるのも、恐らく駄目なのだろう。
では、どうやって相手を止めろというのか。
まったく、人間の
別に、殺そうってわけでもないのに。
一方、マクゴナガルは額へ手を当てていた。
これまで数え切れないほどの生徒を教えてきた。
やんちゃな子供も。
問題を起こす子供も。
しかし、これほどまでに話が噛み合わない生徒も珍しい。
とはいえ、アッシュが悪意を持って他人を傷つけようとしているわけではないことは、彼女自身もよく知っている。
何もしてこない相手には、わざわざこちらから手を出さない。
出すまでもないし、その必要もない。
人間社会の
ただ。
自分へ杖を向けられた時。
そして、首元の白いマフラーへ悪意を持って手を出された時。
その二つに限っては、どれほど言い聞かせても譲ろうとしないのだ。
無理もないのかもしれない。
十年近く、文字どおり生きるか死ぬかの世界に身を置いてきた
そんな
それが、どれほど難しいことか。
マクゴナガルには、嫌というほど分かっていた。
……そして。
後にホグワーツでは、彼女の苦労が絶えない日々が訪れることになる。
何せ、忠告を無視して杖を向けた生徒や、あの白いマフラーへ悪戯を仕掛けようとした生徒が、壁や天井と熱烈な口づけを交わす羽目になるのだから。
それも、一度や二度では済まなかったという。
……もっとも。
それは、まだ先の話である。
「……とにかく、アッシュ」
マクゴナガルは気を取り直す。
「危険を感じた時は、まず
「…………」
「アッシュ?」
「……聞いてるよ」
「では、返事は?」
「……はい」
「よろしい」
ぴしゃり。
ようやく説教が終わった。
アッシュは小さく息を吐く。
……やっぱり、厄介なばあさんだ。
何を言っても引かない。
睨んでも、黙っていても、絶対に諦めない。
けれど。
だからといって、先ほどの二つの条件を取り下げるつもりはなかった。
人間の群れに入る。
人間の
それはいい。
ただし。
自分の命まで、差し出すつもりはない。
「……それから、アッシュ」
「……まだあんのかよ」
「学校では、私のことを
「…………」
「聞いていますわね?」
「……ばあさん」
「マクゴナガル先生」
「…………」
睨み合い。
数秒。
やがて、先に視線を逸らしたのはアッシュの方だった。
「……分かったよ」
「では、もう一度」
「…………」
「アッシュ?」
「……マクゴナガル、
「ええ。よくできました」
「……
マクゴナガルは小さく笑った。
アッシュはますます顔をしかめる。
まったく。
どうして、このばあさんには勝てないのだろう。
そんなことを考えながら、机の上に置かれた羊皮紙へ手を伸ばす。
ホグワーツ。
人間の学校。
知らないものが山ほどあるという場所。
そこに何があるのか。
まだ、分からない。
けれど。
それを確かめるくらいなら、してもいい。
「……ホグワーツ」
「ええ」
今度は、訂正されなかった。
ガタン。
列車が揺れる。
窓硝子に映った顔が、僅かに歪んだ。
「…………」
アッシュは頬杖をつき直す。
……ホグワーツ。
人間の学校。
あのばあさんがいる場所。
自分で行くと決めたことに、後悔はない。
ただ、面倒なことになりそうだとは思っている。
……まあ、いい。
知らないことばかりなら、行って確かめればいいだけだ。
それでも何も見つからなければ、その時に考えればいい。
アッシュは窓の外へ目を向けた。
緑の丘が続いている。
遠くには、小さな森。
木々の間へ続く細い道が見えた。
……あの道なら、走りやすそうだ。
そんなことを考えていると。
「 だからさ、こいつで試してみようと思って!」
「へえ! そんな魔法があるの?」
「あるんだよ! フレッドが教えてくれたんだ!」
いつの間にか、話題が変わっていた。
先ほどまで入学試験だのトロールだのと騒いでいたというのに、今度は魔法を見せるらしい。
ロンが膝の上をごそごそと探り始める。
取り出されたのは、一匹の灰色のネズミだった。
「スキャバーズっていうんだ。僕のネズミさ」
「へえ。眠ってるの?」
「いつもこんな調子なんだ。ちっとも動かないんだよ」
ロンが指先でネズミの背中をつつく。
反応はない。
もう一度つついても、やはり起きない。
「それでさ、こいつを黄色くする呪文があるんだって!」
「黄色に?」
「そう!」
……黄色?
アッシュの目が、ネズミへ向いた。
灰色の毛並み。
丸い身体。
小さな鼻。
特におかしなところは見当たらない。
あえて言うなら、片足の指が一本足りない。いや、欠けているぐらいか?
「……なんで、色なんか変えるんだ?」
「え?」
「そのままで困んのか?」
「いや、別にそういうわけじゃないけど……」
「……じゃあ、なんでだよ」
ロンが少し考える。
そして、至極当然といった顔で答えた。
「面白そうだからさ!」
「…………」
アッシュは黙った。
……は?
面白いから?
それだけ?
もう一度、ネズミを見る。
相変わらず、気持ちよさそうに眠っている。
別に困っているわけでも、怪我をしているわけでもない。
それなのに、わざわざ魔法をかけるという。
……なんのために?
いや、だから面白そうだから、なのだろう。
聞いたところで、きっと同じ答えが返ってくるに違いない。
……分かんねぇ。
心の底から理解できなかった。
魔法というのは、人間が使う不思議な力だ。
火を出したり、物を動かしたり、動物の姿を変えたり。
その気になれば、相手を傷つけることだってできる。
だからこそ、アッシュは杖を持った人間を警戒していた。
相手が何をするのか。
何のために使うのか。
その手元から、一瞬たりとも目を離してはならない。
それなのに。
こいつらときたら、面白いからという理由だけで、その力を使おうとしている。
……まったく。
いや。
もちろん、全員がそうではないことくらい知っている。
あの口うるさいばあさんだって杖持ちだし、少なくとも意味もなく他人に魔法をかけるような真似はしない。
それくらいの分別はある。
……ただし、小言の多さについては別の話だが。
ともあれ。
何のために魔法を使うのかと思えば、ただ面白そうだから。
そんな理由で、他の生き物にまで魔法をかけようとするのだから、理解に苦しむ。
……こんなんで、大丈夫なのかよ。
これから自分が通うという学校には、こんな奴らが何百人もいるらしい。
しかも、揃いも揃って魔法を習うのだとか。
……ああ。
先が思いやられる。
「……好きにしろよ」
「うん? 何か言った?」
「……別に」
アッシュはそれだけ答えると、窓へ顔を戻しかけた。
他人のネズミだ。
自分に関係のないことで、いちいち口を挟んでも仕方がない。
それに、魔法を使う理由が分からないからといって、相手が悪い奴と決まったわけでもない。
……多分。
その時だった。
「よし、やってみるぞ!」
ロンがローブの中から杖を取り出した。
そして。
勢いよく、
「 っ!」
その瞬間、アッシュの身体が動いた。
座席から背中が離れ、灰色の瞳が細まる。
先ほどまでの呆れたような表情は、どこにもない。
ただ、ロンの手元を見据えていた。
杖。
握り方。
腕の向き。
そして、その先にいるもの。
「…………」
……ネズミ。
杖を向けられているのは、自分ではない。
それを確かめてから、アッシュはゆっくりと指の力を緩めた。
……大丈夫だ。
こっちには向いていない。
しかし、目を離す気にはなれなかった。
「……な、なあ」
ロンが怪訝そうに顔を上げた。
「さっきから何だよ。そんなに見られたら、やりにくいじゃないか」
「…………」
「アッシュ?」
「……別に」
「いや、絶対なんか怒ってるだろ?」
「……怒ってねぇよ」
「本当かよ……」
ロンは首を傾げた。
妙な奴だな。
さっきまでは話しかければ何だかんだで言い返してきたくせに、今度は何を聞いてもろくに答えようとしない。
しかも、あの目つき。
まるで、今にも飛びかかってきそうではないか。
「……杖」
「え?」
「こっちに向けんなよ」
「向けるわけないだろ!」
「……ならいい」
それだけ告げると、アッシュは黙った。
ロンは釈然としない様子だったが、ひとまずスキャバーズへ向き直る。
しかし、当のアッシュからすれば、何もおかしなことはない。
何もしない相手なら、こちらも何もしない。
けれど、危険なものが目の前に現れれば話は別だ。
無駄に吠える暇があるのなら、相手の動きを見ていた方がいい。
それだけのこと。
……それにしても。
アッシュはロンの手元を見つめながら思う。
たかがネズミの毛色を変えるだけで、どうしてあんなに楽しそうなのだろう。
……分かんねぇな。
やっぱり、杖持ちという奴はよく分からない。
もっとも。
少なくとも、今のところ、この赤毛の少年が自分に危害を加えるつもりはないらしい。
ならば、それでいい。
「……よーし、今度こそ!」
ロンが大きく息を吸い込んだ。
ハリーが身を乗り出す。
そしてアッシュは、相変わらず杖の先だけを見つめている。
……ったく。
この先、こんな調子の奴らと七年も暮らすのか。
あのばあさんには悪いが。
ホグワーツへ行くと決めたのは、少々早まったかもしれない。
「いくぞ!」
ロンが眠ったままのスキャバーズへ杖を向けた。
アッシュは、もう窓の外を見ていなかった。
魔法使いと魔法族の使い分けがいまだにピンと来ないし、なんならルビ振りが多い原作に対して自らルビ振りを増やすという二重縛り...
でも書くのも思いついた設定やこうだったらどうだろ?と考えてみたプロットを編んで整理するのは楽しいし好きだから文句のいいようがない日々。
ただ、かぐや姫の方だけはいいかげん他のに現を抜かさずにさっさと書き上げればいいのになー