ハリーポッターとケモノの子 ~その瞳に映るもの~   作:火力万能主義

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第四話 最後のは誰だ?

 ホグワーツ行列車が停車すると同時に、駅のホームは大勢の生徒たちで埋め尽くされた。

 

 蒸気を吐き出す真紅の機関車。冷たい夜風。

 足元を行き交う旅行鞄と、どこからともなく聞こえてくる笑い声。

 

 十一歳の新入生たちは、慣れない土地に緊張しながらも、これから始まる学校生活への期待を隠しきれない様子だった。

 

 そんな人混みの中を、三人の少年が並んで歩いていた。

 

「うわあ。すごい人だね」

 

「そりゃそうさ! ホグワーツには七学年もあるんだから!」

 

 ハリーの言葉に、ロンが得意げに答える。

 

 アッシュはというと、行き交う生徒たちを眺めながら、少しばかり困った顔をしていた。

 

 これほど大勢の人間に囲まれるのは、まだ慣れない。

 

 だからといって、今さら引き返すわけにもいかないのだが。

 

「一年生! 一年生はこっちだ!」

 

 その時、大きな声が響いた。

 

 三人が顔を上げると、人混みの向こうから、ひときわ大きな男が手を振っていた。

 

 いや、大きいという言葉では足りないだろう。

 

 ほかの大人たちと比べても、頭一つどころか肩から上が丸ごと飛び出している。

 

「ハグリッド!」

 

 ハリーが嬉しそうに声を上げた。

 

「おお、ハリー! 元気そうじゃねぇか!」

 

 大男も嬉しそうに笑い、丸太のような腕を振って応えた。

 

 その巨躯にアッシュが思わず足を止めたほどであった。

 

「……でかいな」

 

「でしょ? でも、すっごくいい人なんだ」

 

「ほら、ほかの一年生も集まれ! こっちだ!」

 

 ハグリッドと呼ばれた男に従い、新入生たちはぞろぞろとホームを離れた。

 

 木々に囲まれた細い道を進み、坂を下り、やがて目の前に広がったのは大きな湖だった。

 

 湖畔には、いくつもの小舟が並べられている。

 

「四人ずつだ! 一艘に四人まで!」

 

 ハグリッドの声に、新入生たちが思い思いに舟へ乗り込んでいく。

 

「ほら、アッシュ! こっち!」

 

 ロンが手招きした。

 

 だが、当のアッシュは舟と湖を見比べたまま、動こうとしない。

 

「どうしたの?」

 

「……あれに乗るのか?」

 

「そうだよ」

 

「泳げばいいだろ。向こうまで」

 

「はぁ!?」

 

 ロンが素っ頓狂な声を上げた。

 

「何言ってんの!? びしょ濡れになるじゃないか!」

 

「別に泳げるぞ」

 

「そういう問題じゃないだろ!」

 

 アッシュにとって乗り物、特に舟のような揺れが大きいものはあまり得意ではなかった。

 汽車や馬車の場合はまだ地に足がつく感覚が残っていたから平気だったものの、さすがに揺れる水面の上に浮かぶ船というものは乗る気がしないだけのこと。

 酔いこそしないだけではるかにマシでいかに恵まれたことなのかを、彼はまだ知らない。

 

 もっとも、服が濡れるという指摘には、アッシュも一理あると思ったのだが。

 それもあくまで人間の服を着たまま泳いだ経験があまり快適なものではなかったというだけ。

 

 しかし、濡れた制服で学校へ入れば、誰に何を言われるかは想像がつく。

 

「……分かったよ」

 

 素直に舟へ足をかけた。

 

「最初からそうしてよ……」

 

 ロンが肩を落とす。

 

 ハリーが笑いながら乗り込み、最後の一人を待っていると。

 

「あら、また会ったわね!」

 

 聞き覚えのある声がした。

 

 振り返れば、長い茶髪の少女がこちらへ歩いてくるところだった。

 

「ハーマイオニー!」

 

「ちょうどよかったわ。ここ、まだ一人乗れるでしょう?」

 

「ああ、うん」

 

「ありがとう!」

 

 ハーマイオニーは舟へ乗り込み、アッシュの隣側へ腰を下ろした。

 

「アッシュ、だったわね?」

 

「なんだ?」

 

「先の列車のことで思ったんだけど、あなたの鼻の良さって  」

 

「忘れろ」

 

「え?」

 

「ただ鼻がいいだけだ。ほかに何がある」

 

「それはそうかもだけど、私が聞きたいのは  」

 

「全員乗ったか! よーし、出発だ!」

 

 幸いというべきか。

 

 ハグリッドの声に遮られ、ハーマイオニーの質問は最後まで続かなかった。

 

 舟がゆっくりと湖を進み始める。

 

 月明かりを映した水面に小さな波紋が広がり、岸辺の灯りが遠ざかっていった。

 

 やがて、湖の向こうに巨大な城が姿を現した。

 

「……わあ」

 

 誰かが息を呑むほどに、その情景はとても幻想的で美しかった。

 

 夜空を背にそびえる塔。無数の窓から漏れる暖かな光。見上げるほど高い城壁。

 

 一年生たちは、誰もがその光景に目を奪われていた。

 

 アッシュも黙って城を見上げる。

 

 広い森の中に建つその城は、彼がこれまで見てきたどの建物とも違っていた。

 

 しばらく四人の間にはいつの間にか静けさが訪れていた。

 岸から離れるにつれて、乗船前の騒がしさは小さくなっていき、水を切る舟の音と遠くの木々が風に揺れる音だけが残った。

 

 アッシュは片手を舟縁に置き、暗い水面へ視線を落とした。

 周囲には初めて見るものばかりだったが、湖の湿った空気には馴染みがある。

 

「すごい……!」

 

「これがホグワーツかぁ!」

 

 ロンとハーマイオニーも、揃って城を見上げている。

 

 その隣で、アッシュは静かに目を細めた。

 

 大きな城だった。

 

 外から見える窓の数だけでも、数えるのが面倒になるほどである。

 

 森に囲まれ、湖に守られるように建つその姿は、少年の知っている人間の建物とは随分と違っていた。

 

「……立派な巣だな」

 

「……巣?」

 

 ロンが聞き返す。

 

「誰の?」

 

「人間の」

 

「いや、あれ城だよ!?」

 

「? 何を当たり前なことを」

 

 まったく噛み合わない会話に、ハリーが吹き出した。

 

 その笑い声を乗せ、小舟は静かに湖を渡っていった。

 

 

 

 

▲

 

 

 

 

 舟を降りた新入生たちは、ハグリッドの案内で石段を上り、巨大な木製の扉の前へと辿り着いた。

 

 扉が開かれる。

 

 そして、その向こうから姿を現したのは、背筋をぴんと伸ばした一人の魔女だった。

 

 深緑色のローブ。

 きっちりとまとめられた髪。

 

 四角い眼鏡の奥には、いかにも厳しそうな瞳が光っている。

 

「マクゴナガル先生! 一年生を連れてきましたぞ!」

 

「ご苦労さま、ハグリッド。ここからは私が引き受けます」

 

 魔女はそう答えると、新入生たちへ視線を向けた。

 

「皆さん、こちらへ」

 

 よく通る声だった。

 

 それまで騒がしかった少年少女たちも、自然と口を閉じる。

 

 そんな中で。

 

「……ばあさん」

 

 アッシュが小さく声を上げた。

 

 その瞬間、マクゴナガルの眼鏡が光った。

 

「アッシュ」

 

「なんだよ」

 

「学校では、私を何と呼ぶのでしたか?」

 

「…………」

 

 突如のことでその場の全員の視線がアッシュに集まり、しばらくその口が止まった。

 

 しかしマクゴナガルは何も言わず、ただ待つのみ。

 

 やがて。

 

「……マクゴナガル、先生(せんせー)」

 

「よろしい」

 

 ぴしゃり。

 

 いつもどおりのやり取りだった。

 

 ただし、それを見ていたハリーにとっては少々意外だったらしい。

 

「ねえ、アッシュ」

 

「なんだ?」

 

「君、あの先生と知り合いなの?」

 

「ああ」

 

「さっき『ばあさん』って呼んでたよね。もしかして、君のおばあさん?」

 

「違うぞ」

 

「えっ、違うの?」

 

「俺に言葉とか、にんげんのるーるとか、まなーとか。そういうのを叩き込んだ人だよ」

 

「へえ……」

 

「ちょっと間違えただけで、すぐ説教だ。しかも、こっちが分かったって言うまで諦めないんだぞ」

 

 随分と不満そうな口ぶりだった。

 

 もっとも、話している本人は少しも怯えていない。

 

 見知らぬ生徒たちに囲まれていた時とは違い、その表情にはどこか落ち着いたものさえあった。

 

 ハリーは、ロンが兄たちの悪戯や母親の小言について話していた時を思い出した。

 

 文句を言っているくせに、どうしてか嫌そうには見えない。

 

「……君、マクゴナガル先生のこと、嫌いなの?」

 

「は?」

 

 アッシュが顔を向けた。

 

「別に。嫌いじゃねぇよ。面倒なだけだ」

 

「……そっか」

 

 ハリーが小さく笑う。

 

「なんだよ」

 

「ううん。何でもない」

 

「変な奴」

 

 その時。

 

「静かに」

 

 二人の口が同時に閉じた。

 

 マクゴナガルが一年生たちへ向き直っていた。

 

「皆さん。ホグワーツ魔法魔術学校へようこそ」

 

 凛とした声が、石造りの広間に響く。

 

「間もなく、新学期の始まりと皆さんの入学を祝う宴が開かれます。しかし、その前に、皆さんには組分けの儀式を受けていただきます」

 

 組分け。

 

 その言葉に、新入生たちの間で小さなざわめきが起こった。

 

「組分けとは、皆さんの学校生活にとって大変重要な儀式です。なぜなら、今日から七年間、皆さんが生活を共にする寮が決められるからです」

 

 マクゴナガルは、全員を見渡しながら説明を続けた。

 

「同じ寮に属する生徒たちは、皆さんにとって家族のような存在となるでしょう。授業を受け、食事を共にし、談話室では自由な時間を過ごし、同じ寮で寝起きすることになります」

 

 家族。

 

 その言葉に、何人かの生徒が顔を見合わせた。

 

「ホグワーツには四つの寮があります。勇気のグリフィンドール、誠実のハッフルパフ、知恵のレイブンクロー、そして野望のスリザリンです」

 

 四つの寮は、いずれも千年近い歴史を持つ名門である。

 

 それぞれの寮から、これまで数多くの優れた魔女や魔法使いたちが巣立ってきたこと。

 生徒たちの行いや成績によって寮へ得点が与えられ、規則を破れば減点や罰則を受けること。

 そして一年の終わりには、各寮が獲得した得点を競う寮対抗杯があること。

 その説明を受け、新入生たちの表情には期待と緊張が入り混じっていた。

 

 一方のアッシュは、話の途中から少しだけ首を傾げていた。

 

 寮という言葉には馴染みがなくとも、同じ場所で寝起きし、食事を分け合い、互いの行いが仲間にも影響するという仕組みなら理解できる。

 

「……四つの群れ、か」

 

 小さく呟く。

 

 隣にいたハリーが振り返った。

 

「群れ?」

 

「ああ。そういうことだろ?」

 

「……まあ、そうかもしれないね」

 

「獅子に穴熊に鴉に蛇、か」

 

「うん」

 

「狼はいないんだな」

 

「…………」

 

 ハリーは一度目を瞬かせ、それから思わず笑ってしまった。

 

「なに笑ってんだ」

 

「ううん。君らしいなって」

 

「意味分かんねぇ」

 

 アッシュは片方の眉を寄せた。

 

 別におかしなことを言ったつもりはなかったのだが。

 

「以上です。組分けの儀式は、間もなく始まります」

 

 マクゴナガルの声が、再び生徒たちの注意を集めた。

 

「それまでに、服装と身だしなみを整えておきなさい」

 

 たちまち新入生たちは、ネクタイやローブの裾を確かめ始めた。

 

 そんな中で、マクゴナガルの視線が一瞬だけアッシュへ向けられる。

 

 制服と靴にローブ。

 そして、首元の白いマフラー。

 

 それらを一通り確かめると、彼女は小さく頷いた。

 

 アッシュも何も言わずに頷き返す。

 

 傍から見れば、実に何気ないやり取りだった。

 

 しかし、ハリーには少しだけ不思議だった。

 

 あれほど厳しそうな先生が、一人の生徒へこんなふうに目を配っている。

 

 そして、その生徒もまた、それを当然のように受け入れている。

 

 少なくとも、ただの知り合いというわけではなさそうだった。

 

「それでは皆さん。私についていらっしゃい」

 

 マクゴナガルが告げる。

 

 重々しい扉が開かれた。

 

 その向こうから、眩しいほどの明かりと、大勢の人々の話し声が流れ込んでくる。

 

 一年生たちは互いに顔を見合わせ、緊張した面持ちで歩き始めた。

 

 こうして。

 

 ホグワーツの新入生たちは、初めて大広間へと足を踏み入れたのである。

 

 

 

 

 

▲

 

 

 

 

 

大広間

 

 

 

 

 高い天井。

 壁に掲げられたのは四つの寮の旗。

 そして、どこまでも続くかと思えるほど長い 食卓(テーブル)。

 

 何百人もの生徒たちが一斉にこちらへ顔を向け、今年の新入生たちを眺めていた。

 

 だが、それら以上に一年生たちの目を引いたのは、頭上に広がる夜空だった。

 

「……空?」

 

 アッシュが足を止める。

 

 確かに、ここは城の中である。

 

 それなのに、天井には無数の星々が瞬いていた。

 

「魔法よ」

 

 隣から声がした。

 

 ハーマイオニーだった。

 

「『ホグワーツの歴史』に書いてあったわ。本物の空が見えるように、魔法がかけられているんですって」

 

「……ほぉ」

 

 アッシュは短く返事をした。

 

 しかし、すぐには視線を戻さなかった。

 

 夜空の下で過ごしてきた少年にとって、屋根の下にもう一つの空が広がっているというのは、なかなか奇妙な光景だったらしい。

 

 やがて、一年生たちは教師席の前へと案内された。

 そこには一脚の椅子が置かれ、その上に古びた帽子が乗せられていた。

 

 擦り切れた生地。

 何度も繕われた継ぎ接ぎ。

 見るからに長い年月を経てきた帽子だった。

 

 すると、突然。

 

 帽子が動いた。

 

「……は?」

 

 アッシュが目を瞬かせる。

 

 帽子の皺が口のように開き、朗々と歌い始めたのである。

 驚きの声を漏らす新入生もいれば、思わず笑ってしまう者もいた。

 

 ロンはというと、ようやく入学試験の正体が分かったことで安堵していた所であった。

 どうやら、兄たちから聞かされたトロールとの対決は、本当にただの悪戯だったらしい。

 

 しかし、またしても双子の兄たちに騙されたことに今度は顔が赤く染まったロン。

 二度と騙されまいと心の内に誓うものの、彼はまた騙されるだろう。

 いつだってそうだったように。

 

 帽子の歌が終わると、大広間から拍手が起こった。

 

 マクゴナガルが羊皮紙を広げ、一年生たちへ向き直る。

 

「それでは、名前を呼ばれた者から前へ出て、この帽子を被りなさい」

 

 最初の名前が読み上げられた。

 

「アボット、ハンナ!」

 

 一人の少女が緊張した足取りで前へ進み、椅子に腰を下ろす。

 

 マクゴナガルが帽子を被せると、しばらくして。

 

「ハッフルパフ!」

 

 帽子が高らかに叫んだ。

 

 黄色と黒の旗が掲げられた 食卓(テーブル)から歓声が起こる。

 

 少女は安堵したように笑みを浮かべ、仲間たちのもとへ歩いていった。

 

 こうして、組分けの儀式が始まった。

 

 

▲

 

 

「ボーンズ、スーザン!」

 

「ハッフルパフ!」

 

「ブート、テリー!」

 

「レイブンクロー!」

 

 マクゴナガルの呼名に従い、一年生たちは次々と前へ進んだ。

 

 古びた帽子は、ときには即座に、ときには随分と時間をかけ、それぞれの行き先を告げていく。

 だが、結果が発表されるたびに四つの 食卓(テーブル)のどこかから拍手と歓声が沸き起こるのは一緒であった。

 

 すでに自分の寮が決まった生徒たちは、上級生たちに歓迎されながら席へ着き、まだ順番を待っている者たちは、不安そうにその光景を見守っていた。

 

 そんな中、アッシュは一人だけ随分と気楽な様子だった。

 

 時折あくびを噛み殺し、教師席や 食卓(テーブル)の方へ目を向けている。

 

 どうやら、どの寮に入りたいという希望もないらしい。

 

「グレンジャー、ハーマイオニー!」

 

「あっ、私だわ!」

 

 列車で出会った少女が、慌ててローブの裾を整えた。

 

 深呼吸を一つ。

 

 それから、何やら小さく呟きながら前へ進み出ていく。

 

 椅子に座り、帽子を被る。

 

 しばらくして。

 

「グリフィンドール!」

 

 赤と金の旗が掲げられた 食卓(テーブル)から拍手が起こった。

 

 ハーマイオニーは嬉しそうに立ち上がり、そちらへ向かっていった。

 

 それからも儀式は順調に進んでいく。

 

「ロングボトム、ネビル!」

 

 今度は、列車でヒキガエルをなくしていた丸顔の少年だった。

 

 ネビルは緊張した足取りで椅子へ向かい、帽子を被った後もなかなか寮を告げられなかった。

 

 やがて。

 

「グリフィンドール!」

 

 大きな拍手が起こる。

 

 ネビルは飛び上がるように立ち上がり、そのまま 食卓(テーブル)へ向かおうとしてしまった。

 

 帽子を被ったままで。

 

「あっ!」

 

 途中で気づき、慌てて引き返す。

 

 その姿に大広間から笑い声が上がった。

 

 新入生たちの緊張も、少しずつ解け始めていた。

 

 そして。

 

「マルフォイ、カリーナ!」

 

 次の名前が読み上げられた。

 

 列の中から、また一人の少女が歩み出る。

 

 プラチナブロンド。

 金色というよりも、磨き上げられた銀に近い、淡い輝きを帯びた長い髪。

 

 その髪が、浮かぶ蝋燭の明かりを受け、歩みに合わせてさらさらと揺れていた。

 

 少女の足取りには迷いがなかった。

 

 背筋を伸ばし、周囲から向けられる視線を気にすることもなく、堂々と前へ進んでいく。

 

 ちょうど、アッシュの前を通り過ぎようとした時だった。

 

「……?」

 

 少年の視線が、ふと止まった。

 

 すれ違ったのは、ほんの一瞬。

 

 少女は彼を見なかった。

 声をかけることもなければ、足を止めることもない。

 ただ、淡い金髪を揺らしながら、そのまま通り過ぎていった。

 

 それなのに。

 

 アッシュは一度だけ、少女の背中を振り返った。

 

 何かが気になったらしい。

 

 だが、何に引っ掛かったのかは、本人にも分からなかった。

 

 やがて少女が椅子へ腰を下ろす。

 

 古びた帽子が、綺麗な髪の上へ被せられた。

 

 そして。

 

「スリザリン!」

 

 ほとんど間を置くこともなく、行き先が告げられる。

 

 緑と銀の 食卓(テーブル)から、大きな拍手が沸き起こった。

 

 カリーナ・マルフォイは帽子を脱ぎ、落ち着いた足取りでそちらへ向かっていく。

 

 その後ろ姿を、アッシュはしばらく眺めていた。

 

 しかし、次の名前が呼ばれる頃には、もう視線を戻していた。

 

 組分けは続く。

 

 そして、やがて。

 

「ポッター、ハリー!」

 

 大広間の空気が、一変した。

 

「ポッター?」

 

「今、ハリー・ポッターって言わなかった?」

 

「どの子だ?」

 

 何百人もの生徒たちが、揃って顔を上げた。

 

 その視線の先にいたのは、丸い眼鏡を掛けた黒髪の少年。

 

 ハリー・ポッター。

 十年前、闇の帝王を打ち破ったとされる、生き残った男の子である。

 

 その名前を知らない者は、このイギリス魔法界ではほとんどいない。

 

 誰もが少年の姿を一目見ようと、身を乗り出していた。

 

 ハリーは居心地悪そうに肩を縮めながらも、椅子へまっすぐに向かっていった。

 

 帽子が被せられる。

 

 それから、しばらくの時間が過ぎた。

 

 大広間は、いつになく静かだった。

 

 やがて。

 

「グリフィンドール!!」

 

 

  ワアアアアアアアアアアアッ!!

 

 お祭り騒ぎだった。

 

 何人もの生徒が立ち上がり、机を叩き、口笛を吹き鳴らす。

 

「ハリー・ポッターだ!」

 

「ポッターがグリフィンドールに!」

 

「やったぞ!」

 

 突然の大歓声に、アッシュの肩も僅かに跳ねた。

 

 その隣では、ロンが興奮した顔で拍手している。

 

 当のハリーは、困惑と嬉しさが入り混じったような表情で帽子を脱ぎ、上級生たちに迎えられながら 食卓(テーブル)へ向かっていった。

 

 何人もの生徒が握手を求め、肩を叩き、少年の入寮を歓迎する。

 

 そんな様子を、アッシュは少しだけ眺めていた。

 

 やがて、組分けは再開された。

 

 しかし、ハリー・ポッターの登場によって沸き起こった熱気は、なかなか収まることがなく。

 

 どこの 食卓(テーブル)でも、誰かが彼の話をしていた。

 

 生き残った男の子が、ホグワーツへ入学した。

 

 しかも、グリフィンドールへ。

 

 その話題だけで、今夜一晩は盛り上がれそうな勢いであった。

 

「ウィーズリー、ロナルド!」

 

「おっ、僕だ!」

 

 隣にいたロンが、慌てて背筋を伸ばす。

 

「じゃ、行ってくる!」

 

「ああ」

 

 アッシュの短い返事に頷くと、ロンは前へ歩き出した。

 

 椅子に座り、帽子を被る。

 

 そして、それほど待たされることもなく。

 

「グリフィンドール!」

 

「やったぁ!」

 

 ロンが勢いよく立ち上がった。

 

 再び、赤と金の 食卓(テーブル)から拍手が沸き起こる。

 

 そこにはハリーとハーマイオニーの姿もあった。

 二人を見つけたロンは嬉しそうに駆け寄り、ハリーの隣へと腰を下ろした。

 列車で同じ客室にいた三人が、揃ってグリフィンドールへ入ったのである。

 

 アッシュも、遠くの 食卓(テーブル)で笑い合う三人を眺めていた。

 

 ハリーがそれに気づき、笑顔で振り返る。

 

 その隣で、ロンも大きく手を振っていた。

 

 やがて、組分けは終盤へ差しかかった。

 

「ザビニ、ブレーズ!」

 

 最後の方に呼ばれた少年が、椅子へ腰を下ろす。

 

 帽子が被せられ。

 

「スリザリン!」

 

 緑と銀の 食卓(テーブル)から、大きな拍手が上がった。

 

 ブレーズ・ザビニは帽子を脱ぎ、仲間たちのもとへ向かっていく。

 

 Zの姓はスリザリンに。これで、すべての新入生の組分けが終わった。

 

 少なくとも、その場にいた生徒たちはそう思っていた。

 

 最後の少年が席へ着くと、誰からともなく拍手が起こり、やがてそれは大広間全体へと広がっていった。

 

 新しい一年生たちへの挨拶。

 これから始まる宴への期待。

 

 そして、ハリー・ポッターが入学してきたことへの興奮。

 

 大広間は、今夜一番の賑わいを見せていた。

 

 ところが。

 

 その片隅で、まだ一人だけ立っている少年がいた。

 

 灰色の髪。

 灰色の瞳。

 首元には、季節外れの白いマフラー。

 

 アッシュである。

 

 彼は周囲を見渡し、それから教師席の前に立つマクゴナガルへ顔を向けた。

 

 マクゴナガルは何事もなかったかのように、手元の羊皮紙を確かめている。

 

 そこには、最後に残された一つの名前があった。

 

 通常、ホグワーツの組分けは、生徒の姓のアルファベット順で行われる。

 

 しかし。

 

 アッシュには姓がなかった。

 正確には、正式な姓名が確認できていなかったのである。

 

 どこの家に生まれたのか。

 両親が誰なのか。

 そもそも、本当の名前が何なのか。

 

 そのすべてが不明だった。

 

 アッシュという呼び名も、あくまで彼がそう呼ばれてきたというだけのものにすぎない。

 

 そのため、学校側の判断によって、彼だけは最後に組分けされることになっていた。

 

 もちろん、その事情は教師たちにも事前に知らされている。

 

 問題は、ほかの生徒たちだった。

 

「  アッシュ!」

 

 マクゴナガルの声が、大広間に響いた。

 

 最初は、誰も気に留めなかった。

 

 何せ、組分けは終わったと思っている。

 

 生徒たちは話に夢中で、すでに宴が始まるのを待っていたのである。

 

 ところが。

 

「……ん?」

 

 誰かが顔を上げた。

 

「今、何て言った?」

 

「アッシュ、だって」

 

「アッシュ?」

 

「名字は?」

 

 その一言からだった。

 

 賑やかな声に、少しずつ別の種類のざわめきが混ざり始めた。

 

「家名でも呼ばなかったよな?」

 

「聞き間違いじゃない?」

 

「いや、確かにアッシュって……」

 

 生徒たちが教師席へと顔を向ける。

 

 そこには、まだ椅子も帽子も残されていた。

 

 そして。

 

 すでに誰もいなくなった新入生の列に、ただ一人、少年が立っている。

 

「誰だ、あれ?」

 

「知らない」

 

「名字がないの?」

 

「そんなことあるのか?」

 

 魔法界において、家名はしばしば特別な意味を持つ。

 

 どこの家に生まれたのか。

 誰の血を引いているのか。

 

 それによって相手を見る目を変える者も、決して少なくない。

 

 まして、名門と呼ばれる家々の子供たちにとって、姓を持たない孤児(かれ)の存在は奇妙に映った。

 

「もしかして、孤児?」

 

「親が分からないってこと?」

 

「捨てられたんじゃない?」

 

 憶測が、 食卓(テーブル)から 食卓(テーブル)へと伝わっていく。

 

 同情する者もいた。

 好奇の目を向ける者もいた。

 中には、何の根拠もない噂を面白がる者までいる。

 

 そのすべてが、少しずつアッシュの耳へ届いていた。

 

 しかし、当の本人は特に何かを言い返すつもりもなかった。

 

 名前を一つ聞いただけで、よくもそこまで勝手に話を作れるものだ。

 そんな連中を相手にするより、やることをやってさっさと終わらせた方がいい。

 

 アッシュは小さく息を吐き、前へ歩き出した。

 

 その足取りに迷いはない。

 周囲を見渡すことも、誰かへ目を向けることもなかった。

 

 ただ、教師席の前に置かれた椅子へと向かっていく。

 

 すると。

 

 一人、また一人と、生徒たちが口を閉じ始めた。

 

 それまで隣の者と話していた上級生が、言葉を止めた。

 笑っていた生徒も、こちらを振り返る。

 

 グリフィンドールの 食卓(テーブル)では、ハリーが顔を上げていた。

 隣のロンも、周囲から聞こえてくる憶測に戸惑ったような顔をしている。

 ハーマイオニーは、何かを考え込むように眉を寄せていた。

 

 彼らが知っているのは、列車で出会ったアッシュという少年だけだ。

 

 姓がないということも、その時に聞いていた。

 

 だが、今までそれがどれほど珍しいことなのか、考えもしなかった。

 

 やがて。

 

 大広間を満たしていた歓声が、潮の引くように静まっていった。

 

 ほんの少し前まで、ハリー・ポッターの組分けを祝う声が響いていた。

 

 何百人もの生徒たちが笑い合い、拍手を送り、今年の新入生の話題に夢中になっていた。

 

 それが今では。

 

 しん、と。

 

 何かを申し合わせたかのように、静まり返っていた。

 

 誰もが、たった一人の少年を見ている。

 

 姓のない少年。

 出自の分からない少年。

 この学校に来るまで、誰一人としてその存在を知らなかった少年。

 

 ハリー・ポッターとは、まるで正反対だった。

 

 生まれた時から世界に名を知られた少年と、生まれた時の名前すら分からない少年。

 

 その二人が、同じ年にホグワーツへ入学したのである。

 

 そして。

 

 生徒たちの視線を一身に浴びながら、アッシュは椅子の前へ辿り着いた。

 

「アッシュ」

 

 マクゴナガルが声をかける。

 

「こちらにお座りなさい」

 

「ああ」

 

 短く返事をして、椅子へ腰を下ろす。

 

 アッシュは一度だけ、彼女を見上げた。

 

 眼鏡の奥の瞳が、静かに少年を見返す。

 

 そこには、いつもどおりのマクゴナガルがいた。

 

 そして、彼女は何も言わずに帽子を持ち上げた。

 

 古びた生地。

 擦り切れた縁。

 何度も繕われてきた継ぎ接ぎ。

 

 近くで見れば見るほど、随分と年季が入っている。

 しかし、不思議にも鼻を刺すような臭いは何もしない。

 

「……これ、洗ってるのか?」

 

「アッシュ」

 

「分かったよ」

 

 小さな声で交わされた会話。

 

 マクゴナガルの眉が僅かに動く。

 

 それだけで、アッシュは大人しく背筋を伸ばした。

 

 そして。

 

 何百人もの生徒たちが見守る中。

 

 最後の組分けが、始まった。

 

 

▲

 

 

 古びた帽子が、灰色の髪を覆った。

 

 その瞬間。

 

『……ほう』

 

 声がする。

 

 耳元からではない。

 

 頭の中へ、直接語りかけてくるような奇妙な声が。

 

『これはまた、随分と珍しい子供が来たものじゃ』

 

 アッシュの眉が動いた。

 

 帽子には口がある。

 

 先ほど歌っていたのだから、それ自体は不思議ではない。

 

 しかし、声が頭の中から聞こえるというのは、初めての経験だった。

 

『ふむ……なるほど。実に面白い』

 

 組分け帽子は、何やら考え込んでいるらしい。

 しかし、どこか楽しそうでもあった。

 

 長い年月の中で、どの寮へ入れるべきか迷った子供は幾人もいる。

 だが、この少年は、また違った意味で難しかった。

 

『勇気は十分。恐ろしいものを前にしても、簡単には引かぬじゃろう』

 

 少年は黙っていた。

 

 勇気は、確かにある。

 だが、危険が迫ってから立ち向かうのではない。

 

 その兆しを見つけただけで、先に潰しに行く。

 自分に牙を剥いた相手には、迷いも慈悲もない。

 

 野性のケモノ、そのものだった。

 

 それでいて、周囲はよく見ている。

 相手を見極め、状況を見分け、何をすればよいのかを考えている。

 

 戦うことも、逃げることも、そのために使う手段も。

 最も効率のよい方法を選び取る、冷静な判断力があった。

 

 そこは、スリザリンにも近い。

 

 しかし、誰かの上に立ちたいという野望は見当たらなかった。

 

 地位も、名誉も、人を従えることにも、まるで関心がない。

 

『それに、仲間と認めた者への忠誠もある。考えることが嫌いなわけでもない。むしろ、知らないことを放っておけぬところもありそうじゃ』

 

 仲間には忠実だ。

 一度その内側へ迎えた者を、簡単には見捨てない。

 

 ハッフルパフも、その心を好むだろう。

 しかし、その柵の向こうにまで、同じだけの関心を向けるわけではなかった。

 慈悲にも、限りがある。

 

 そして、何かを探し求めている。

 知らないものを知りたがり、そのために、見知らぬ世界へ足を踏み出してきた。

 その探求心は、レイブンクローにも通じるものだった。

 

 ただ、知識そのものを集めたいわけではない。

 

 どうしても、知りたいことがある。

 そのために、知ることを求めている。

 

 グリフィンドールの勇気。

 ハッフルパフの誠実。

 レイブンクローの知恵。

 スリザリンの、目的のために手段を選び取る力。

 

 どれもがあって、どれもが合わない。

 

 いや。

 

 どれもが混じり、繋がっているが故に、どれか一つだけを選ぶのが難しいのか。

 

 野性のケモノと、人間の理性。

 そのどちらもが、この少年の中にある。

 

 難しい。

 難しくて、選べない。

 

 帽子はしばらく言葉を止めた。

 

 その間にも、大広間では何百人もの生徒が結果を待っている。

 

 さすがに、少し時間がかかりすぎていた。

 

 ハリーの時も随分と長かったが、今回はそれ以上かもしれない。

 

 グリフィンドールの 食卓(テーブル)で、ロンがそわそわと身じろぎした。

 

「……まだかな」

 

 ハリーも落ち着かない様子で椅子を見つめている。

 

 その頃、帽子の下では。

 

『お前さんは、何を望んでおる?』

 

 不意に、そんな問いが投げかけられていた。

 

 アッシュは少しだけ首を傾げた。

 

 望み。

 欲しいもの。

 あるいは、ここへ来た理由。

 

 そんなものは、すでに決まっている。

 

 何も知らないまま、ずっと森の中で生きていくことだってできた。

 

 それでも、自分の足で外へ出たのは、知りたいことがあったから。

 

 見つけたいものがあったからだ。

 

『……そうか』

 

 帽子の声が、僅かに弾んだ。

 

『お前さんには、四つの道がある』

 

 アッシュの眉が、また動いた。

 

『グリフィンドールでも、ハッフルパフでも、レイブンクローでも、スリザリンでも。お前さんを迎える理由はある』

 

 なら、どこでもいいのではないか。

 そう思ったところで、帽子が小さく笑った。

 

『そう急ぐでない。もう一つだけ、聞かせておくれ』

 

 少年は黙って、続きを待った。

 

『どの道へ進むにしても、お前さんがもっとも曲げたくないものは何じゃ?』

 

 曲げたくないもの。

 アッシュは、その言葉を頭の中で繰り返した。

 

『失いたくないもの、と言ってもよい』

 

 少しだけ、考えた。

 

 けれど、答えを探す必要はなかった。

 

「……俺が、どう生きるかだ」

 

 小さな声だった。

 

『ほう?』

 

「最初に、そうしたいと思ったんだ。最後まで、その気持ちは持っていたい」

 

 知りたいことがある。

 

 見つけたいものがある。

 

 そのために、自分で森を出た。

 

 これからどこへ行こうとも、それをなかったことにするのは嫌だった。

 

「俺がどう生きるかは、俺が決める」

 

 何でもないことのように、少年は言った。

 

 帽子は、しばし黙っていた。

 

 長い年月の中で、数えきれないほどの望みを聞いてきた。

 

 強くなりたい。

 認められたい。

 誰かのようになりたい。

 そうした願いに、優劣をつけるつもりはない。

 

 ただ、この少年は、自分が何を失いたくないのかを知っている。

 

 誰かに聞かせるために飾ることもなく、偽ることもなく。

 それを、当たり前のように答えてみせた。

 

 帽子の奥に残る、四人の賢者たちの意志が、静かに頷く。

 それぞれが、この少年に見出したものを、確かめたかのように。

 

『……なるほど』

 

 帽子の声が、どこか楽しそうに響いた。

 

『勇気も、誠実も、知恵もある。じゃが、お前さんをここまで動かしてきたものは、それらだけではなさそうじゃ』

 

 アッシュは黙っていた。

 

『知りたいことを知り、見つけたいものを見つける。そのために、自分の足で進んでいく。誰に命じられたのでもなく、お前さん自身が、そう望んでおる』

 

 初めに抱いた、その思いを。

 最後まで、自分のものとして持ち続けたい。

 

『なるほど。これは確かに、立派な野望じゃ』

 

 野望。

 そう呼ばれても、アッシュには、あまり実感がなかった。

 

 ただ、自分がそうしたいだけだ。

 

 血筋は、純粋ではない。

 しかし、この子供には、別の純粋がある。

 

 帽子は、少年の答えを、もう一度味わっていた。

 

 そして、その答えのさらに奥を。

 四つの意志のうち、一つだけが、ひときわ深く見つめていた。

 

 望んでいたものを、見つけたかのように。

 

 その満足の理由を、アッシュは知らない。

 

 結果を待っている生徒たちも、教師たちも。

 ただ、古びた帽子だけが、少年のこれからを楽しみにしていた。

 

 何を見て、何を知り、何を選ぶのか。

 

 そして、どんなふうに育っていくのか。

 

……これから世界は、面白くなるぞ。

 

『ならば、答えは決まったようじゃな』

 

 次の瞬間。

 

 大広間に、高らかな声が響き渡った。

 

「  スリザリン!!」

 

 …………。

 

 静寂。

 

 そして。

 

「……え?」

 

 最初に声を漏らしたのは、グリフィンドールの 食卓(テーブル)にいたロンだった。

 

「スリザリン!?」

 

 思わず身を乗り出す。

 

 その隣で、ハリーも目を丸くしていた。

 

 アッシュが、スリザリン。

 

 列車で初めて出会い、ロンの魔法に呆れ、迷子のヒキガエルを見つけたあの少年が。

 

 よりによって、スリザリンに。

 

「……なんで?」

 

 ロンが呟いた。

 

「だって、あいつ……」

 

 言葉が続かなかった。

 

 何を言おうとしたのかは、本人にもよく分からなかったのだろう。

 

 スリザリンは、あ(・)ま(・)り(・)い(・)い(・)寮(・)で(・)は(・)な(・)い(・)。

 

 少なくとも、ロンは兄たちからそう聞かされてきた。

 

 けれど、アッシュが悪い奴なのかと聞かれれば、そんなことはない。

 

 少し変わっている。

 口も悪い。

 何を考えているのか分からないところもある。

 

 しかし、困っているネビルを助けたのも、彼だった。

 

「……ロン」

 

 ハリーが小さく声をかける。

 

「うん?」

 

「アッシュは、アッシュだろ?」

 

「…………」

 

 ロンは口を閉じた。

 

 その隣で、ハーマイオニーも静かに椅子の方を見つめていた。

 

 彼女にとっても、少々意外な結果だったらしい。

 何せ、列車の中で出会った少年は、野望や名誉という言葉からは随分と遠いところにいるように見えたのだから。

 

 もっとも、組分け帽子が何を見て彼を選んだのかは、誰にも分からない。

 

 そして、驚いていたのは三人だけではなかった。

 

 スリザリンの 食卓(テーブル)でも、何人もの生徒たちが顔を見合わせていた。

 

「……本当にスリザリン?」

 

「家名も分からない雑種がだと!?」

 

 食卓の奥で、上級生の一人が顔をしかめた。

 

 声は低かった。

 

 だが、吐き捨てるような口調に、近くの新入生たちが振り向く。

 

「一体どこの家の子なんだ? まさか海外?」

 

「さあ……」

 

「どこの国だろうと、まともな家の子なら姓くらいあるだろ」

 

 答えたのは、別の上級生。

 椅子の背にもたれたまま、鼻で笑う。

 

「名乗らないんじゃない。名乗れる家がないんだよ」

 

 くす、と笑いがこぼれた。

 

 先ほどまでとは、また違うざわめきが起こる。

 

 名門の家系に生まれたことを誇る者たちにとって、姓すら明らかでない雑種(いぶつ)が、自分たちと同じ寮へ選ばれたことが、まず気に入らなかった。

 

「とうとう、どこの馬の骨とも知れない拾いものまで押しつけられるようになったのか」

 

「ここは孤児院じゃないんだぞ」

 

 顔を見合わせ、口元を歪める。

 笑っている者までもいる。

 

 アッシュを見ることさえ不愉快だと言わんばかりに、顔を背ける者もいた。

 

「拾ってきた野良犬を入れるなら、先に首輪でもつけておこうか」

 

 また、笑いが起きた。

 

 近くに座っていた新入生の一人が、上級生たちの顔を見比べる。

 そして、少し遅れて笑った。

 

 何がおかしいのかよりも、誰が笑っているのかを確かめるように。

 

「……あんなのと、同じ寮だと思われるのか」

 

 それまで黙っていた上級生が、低く呟いた。

 その声には、笑いすらなかった。

 

「あの帽子も、いよいよ古くなりすぎたんじゃないか?」

 

「だとしても、僕たちが面倒を見る義理はないだろう」

 

 隣の生徒が、空いている席を一瞥する。

 

「こっちには座らせるなよ。食事がまずくなる」

 

 それを聞いた上級生が、ようやく口元だけで笑った。

 

「当然だ。うちの面汚しに、隣へ座られてたまるか」

 

 アッシュが何者なのか。

 どこから来て、どのように生きてきたのか。

 

 彼らは、何も知らない。知る気もない。

 けれど、どう扱うかは、もうすでに決めていた。

 

 姓すら持たない雑種(いぶつ)。

 それだけで、見下す理由には十分だった。

 

 一方。

 

 教師席の前では、マクゴナガルが静かに帽子を持ち上げていた。

 

 彼女は結果を聞いた直後、僅かに瞬きをしたものの、それ以上の反応を見せることはなかった。

 

 アッシュの事情は知っている。

 しかし、組分け帽子がどの寮を選ぶのかまでは、彼女にも分からなかった。

 

 そして何より。

 

 これは、彼自身の学校生活の始まりなのだ。

 

「さあ、アッシュ」

 

 マクゴナガルが帽子を椅子へ戻す。

 

「あなたの席へお行きなさい」

 

「ああ」

 

 アッシュは椅子から立ち上がった。

 

 周囲の生徒たちは、まだ何やら囁き合っている。

 

 グリフィンドールの 食卓(テーブル)では、ハリーたちがこちらを見ていた。

 

 アッシュはその視線に気づくと、軽く頷いた。

 

 それにハリーが応え、ロンも少し遅れて手を振った。

 

 それを見届けたアッシュは、緑と銀の旗が掲げられた 食卓(テーブル)へ向かって歩き始めた。

 

 すると。

 

 ぱち。

 

 どこかから、小さな拍手が聞こえた。

 

 それに続いて、また一つ。

 

 さらに一つ。

 

 やがて、スリザリンの 食卓(テーブル)から、控えめながらも確かな歓迎の拍手が起こり始めた。

 

 もちろん、全員が喜んでいたわけではない。

 

 怪訝そうな顔をする者。

 興味深そうに少年を見つめる者。

 隣の者へ何やら耳打ちしている者。

 

 その反応は、実にさまざまだった。

 

 しかし、それでも。

 

 組分け帽子がスリザリンと告げた以上、彼もまた、今日からこの寮の一員である。

 

「こっちだよ。一年生」

 

 上級生の一人が、空いた席を示した。

 

 アッシュは短く頷き、 食卓(テーブル)の方へ向かう。

 

 そして、その途中。

 

 ふと。

 

 見覚えのある淡い金色が、視界を横切った。

 

 プラチナブロンド。

 

 先ほど、自分の前を通り過ぎていった少女だった。

 

 カリーナ・マルフォイ。

 彼女もまた、同じスリザリンの一年生である。

 

 少女は新しくやって来た少年を一度だけ見つめ、それから何事もなかったかのように視線を戻した。

 

 アッシュも特に声をかけなかった。

 

 ただ、ほんの一瞬だけ。

 その横顔を見て、僅かに首を傾げた。

 

 そして、案内された席へ腰を下ろした。

 

 向こうの 食卓(テーブル)では、ハリーたちが笑い合っている。

 こちらの 食卓(テーブル)では、まだ名前も知らない少年少女たちが、興味深そうに自分を見ていた。

 

 四つの群れ。

 

 そのうちの一つ。

 

 今日から、ここが彼の居場所となる。

 

 それがどのような意味を持つのか。

 

 今はまだ、誰も知らない。

 

 ただ一つ、確かなことがあった。

 

 ハリー・ポッター。

 生まれた時から、魔法界にその名を知られていた少年。

 

 そして、アッシュ。

 生まれた時の名前さえ、誰にも分からない少年。

 

 二人は同じ列車に乗り、同じ城へ辿り着き、そして今、それぞれ違う寮へと迎え入れられた。

 

 勇気のグリフィンドール。

 

 野望のスリザリン。

 

 奇しくも。

 

 どこの家に生まれたのかさえ分からない少年を迎え入れたのは、家名と血統を何よりも重んじる者たちが集う寮だったのである。

 

 

 




原作の英語名もそうだけど日本語でのホグワーツの正式名称ってホグワーツ魔法魔術学校だそうですね。
魔法と魔術が同時に入るのはどうしてだろ。
たぶん魔女と魔法使いをわざわざ言い分けていた原作だから翻訳しているうちにそうなったのかな。

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