ハリーポッターとケモノの子 ~その瞳に映るもの~   作:火力万能主義

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第七話 悪夢

 

 

 その夜、アッシュは久しぶりに夢を見た。

 

 いつもなら、眠っていても誰かの足音や寝返りに耳を澄ませている。けれど、その日はよほど疲れていたのだろう。首元の白いマフラーに頬を寄せたまま、深い眠りへと落ちていた。

 

 夢の中で、アッシュは小さな狼だった。

 

 

 

▲

 

 

 

 

 温かい。

 

 身体のあちこちに、柔らかい毛が触れていた。

 

 鼻先を動かすと、すぐ隣から寝息が聞こえてくる。兄弟たちだ。まだ眠っているらしく、丸まった背中がゆっくりと上下していた。

 

 その向こうには、もっと大きな身体がある。

 

  母(かあさん)だった。

 

 小さな狼は鼻を鳴らし、母の腹へ顔を押しつけた。すると、頭の上から大きな舌が伸びてきて、額から耳の先までゆっくりと舐めていった。

 

 くすぐったい。

 

 もう一度、鼻を押しつける。

 

  母(かあさん)は少し困ったように顔を上げたが、結局また頭を舐めてくれた。

 

 それが嬉しくて、小さな狼は尻尾を振った。

 

 すぐ横で、兄弟の一匹が目を覚ました。

 

 まだ眠そうにしていたくせに、こちらと目が合うなり前脚を伸ばしてくる。顔を押されたので、こちらも押し返した。

 

 すると今度は耳へ噛みついてきた。

 

 痛い。

 痛いけれど、負けるのはもっと嫌だった。

 

 身体を起こして飛びかかれば、向こうも慌てて起き上がる。二匹で転がっているうちに、もう一匹が混ざってきた。

 

 狭い寝床の中で、三匹がもつれ合う。

 

 とうとう 母(かあさん)に鼻先で押し退けられた。

 それでも遊び足りず、寝床の外へ駆け出そうとしたところで、今度は後ろから首を咥えられた。

 

 父(とおさん)だった。

 

 あっという間に首元を口で持ち上げられ、元の場所へ戻されてしまう。

 不満そうに鳴いてみたものの、父(とおさん)は大きな鼻を押しつけてきただけだった。

 

 仕方なく母(かあさん)の腹へ潜り込む。

 

 父(とおさん)がその隣に伏せると、寝床の入り口が大きな身体で塞がれた。

 

 もう外は見えない。

 けれど、少しも怖くなかった。

 

 どこへ行っても、誰かがいた。

 眠っている時も、目を覚ました時も、走っている時も。

 いつも、誰かがそばにいた。

 

 小さな狼は、母の腹に顔を埋めた。

 

 兄弟たちが身体を寄せてくる。父の尻尾が背中へ触れた。

 

 みんなの匂いがした。

 温かくて、安心する匂い。

 

 もう一度目を閉じる。

 

 明日も、一緒に遊ぼう。

 

 そう思った。

 

 けれど。

 

 次に目を開けた時、そこには誰もいなかった。

 

 

 

▲

 

 

 

 寝床が、冷たい。

 

 小さな狼は鼻先を持ち上げ、きょろきょろと周囲を見回した。

 

 母(かあさん)がいない。

 父(とおさん)も、兄弟たちもいなかった。

 

 いつもなら、目を覚ますと誰かの身体が触れている。寝返りを打てば隣の兄弟にぶつかるし、少し離れたところには父(とおさん)か母(かあさん)がいる。

 

 なのに、今日は誰もいない。

 

 寝床の端まで歩いてみた。

 

 枯れ葉の下へ鼻を突っ込む。兄弟たちが隠れているのかと思って、前脚で掻き分けてみた。

 

 何も出てこなかった。

 

 外へ顔を出す。

 

 見慣れた森が広がっていた。

 大きな木も、苔の生えた岩も、昨日までと変わらない。木の根元には、兄弟たちと遊んだ時につけた小さな穴まで残っている。

 

 ただ、静かだった。

 

 鳥の声が聞こえない。

 風も吹いていない。

 

 まるで、森の中から自分以外の生き物がいなくなってしまったようだった。

 

「……くぅん」

 

 小さく鳴いてみる。

 

 返事はない。

 

 もう少し大きな声で呼んだ。

 

 それでも、誰も来なかった。

 

 おかしい。

 

 いつもなら、母(かあさん)が顔を上げる。

 

 父(とおさん)だって、少し離れた場所からこちらを見る。

 

 兄弟たちなら、面白がって飛びついてくるはずだ。

 

 小さな狼は寝床を飛び出した。

 

 母(かあさん)がよく身体を休めていた木陰へ向かう。そこにいなければ、父(とおさん)が獲物を運んでくる道を走った。

 

 いない。

 

 斜面を下り、小川の向こう側まで探してみる。

 

 そこにもいない。

 

 鼻を地面へ近づけ、何度も匂いを確かめる。確かに、ここを通ったはずなのだ。

 

 知っている匂いが、まだ少しだけ残っている。

 

 それなのに、追いかけても追いかけても、誰にも会えなかった。

 

「……どこ?」

 

 不意に、人間の声が漏れた。

 

 小さな狼は立ち止まり、自分の口元を見下ろした。

 

 いつの間にか、二本の足で立っていた。

 

 灰色の髪をした、幼い少年。

 

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 

「……どこにいるの?」

 

 もう一度、呼んでみる。

 

 誰も答えてくれない。

 

 少年は森の奥へ駆け出した。

 

 転びそうになりながら斜面を上り、木の根を飛び越える。途中で何度も立ち止まり、そのたびに耳を澄ませた。

 

 父(とおさん)の足音がしない。

 

 母(かあさん)の声も聞こえない。

 

 兄弟たちが走り回る音さえ、どこにもなかった。

 

「……ねえ」

 

 少しだけ、声が震えた。

 

「どこ行ったの?」

 

 返事がない。

 

 胸の奥が、変な感じになった。

 

 苦しい。

 

 何かに追いかけられているわけでもないのに、怖くて仕方がなかった。

 

 置いていかれたのだろうか。

 

 自分だけ、寝坊してしまったのだろうか。

 

 だったら、早く追いつかなくちゃ。

 

 みんな、きっと待っている。

 

 そう思って、また走った。

 

 走って、走って。

 

 何度も同じ木の間を抜けた。

 

 やがて、鼻先に嫌な匂いが触れた。

 

 血の匂いだった。

 

 

▲

 

 

 最初に見つけたのは、兄弟だった。

 

 木の根元に、小さな身体が横たわっていた。

 

 少年は駆け寄った。

 

「……あ」

 

 見つけた。

 やっと、見つけた。

 

 嬉しくなって、隣へしゃがみ込む。

 けれど、兄弟は起きなかった。

 

 いつもなら、近づいただけで耳を動かす。鼻先を押しつければ、面倒くさそうに顔を背けるくせに、今日は何もしなかった。

 

「……ねぇ」

 

 肩を揺すってみる。

 

 動かない。

 

 もう一度、揺する。

 

「起きてよ」

 

 返事をしない。

 

 鼻先を寄せると、毛が冷たかった。

 

 それに、身体から変な匂いがする。

 

 いつもの匂いではない。

 

 少年は顔を上げた。

 

 少し離れたところに、もう一匹いた。

 

 その向こうにも。

 

 みんな、地面に倒れていた。

 

 急いで駆け寄り、一匹ずつ身体を揺すった。耳を引っ張り、頬を押し、顔を寄せる。

 

 誰も起きなかった。

 

「……何してんの」

 

 声が、上手く出なくなっていた。

 

「起きてよ。ねえ……」

 

 いつもなら、こんなことをすれば嫌がるはずだった。

 

 前脚で押し返してきたり、顔を舐め返してきたりする。

 

 なのに、今日は何をしても動かない。

 

 少年は、一匹の身体を抱き起こそうとした。

 

 力を入れて引っ張る。

 けれど、身体が重くて、上手く持ち上がらなかった。

 

 手が滑り、尻餅をつく。

 

 その拍子に、兄弟の頭が地面へ落ちた。

 

「……あっ」

 

 慌てて抱き寄せる。

 

「ごめん。ごめんね」

 

 頭を撫でた。

 

 痛かっただろうか。

 怒っているのだろうか。

 だから、起きてくれないのだろうか。

 

「……もう、しないから」

 

 小さな声で謝った。

 

「だから……起きてよ」

 

 それでも、兄弟は目を開かなかった。

 

 少年は、とうとう泣きそうになった。

 

 その時、少し離れた場所に母(かあさん)の姿を見つけた。

 

「……かあ、さん?」

 

 急いで駆け寄る。

 

 母(かあさん)は横たわっていた。

 

 身体には幾つもの傷があり、その下の土が赤黒く濡れている。

 

 けれど、少年はそんなものを見ていなかった。

 

 母(かあさん)がいた。

 

 それだけでよかった。

 

「かあさん」

 

 膝をついて、身体へ抱きつく。

 

 冷たかった。

 

 いつもなら温かいはずの毛皮が、冷たい土と同じくらい冷たかった。

 

 少年は顔を押しつけた。

 

「……かあさん?」

 

 返事がない。

 

 頭を上げる。

 

 母(かあさん)の目は、開いたままだった。

 

 こちらを見ているようで、何も見ていない。

 

 少年は何度もその顔を覗き込んだ。

 

「……ねえ」

 

 小さな手で、母(かあさん)の頬を撫でる。

 

「……起きて」

 

 また返事をしてくれない。

 

 胸が、動いていなかった。

 

 どうして。

 寝ているだけなら、息をするはずなのに。

 

 いつもは、鼻先を近づければ温かい息が触れたのに。

 

「……かあさん」

 

 声が震えた。

 

 母(かあさん)の首へ、両腕を回す。

 

「……やだ」

 

 ぎゅっと抱きしめた。

 

「……起きてよ」

 

 母(かあさん)は、動かなかった。

 

「ねえ……」

 

 涙が、毛皮へ落ちた。

 

「……ひとりに、しないで」

 

 もう一度、強く抱きつく。

 

 いつもなら、母(かあさん)の大きな舌が伸びてきて、頭を撫でてくれた。

 

 もう泣かなくていいとでもいうように、顔を舐めてくれた。

 

 だから、待った。

 ずっと、待った。

 

 けれど。

 

 どれだけ待っても、母(かあさん)は動かなかった。

 

 やがて少年は、しゃくり上げながら顔を上げた。

 

「……とおさん」

 

 父(とおさん)がいれば。

 父(とおさん)なら、何とかしてくれるかもしれない。

 

 いつも、困った時には父(とおさん)がいた。

 

 怖いものが近づいてきても、父(とおさん)が前へ出てくれた。

 

 だから。

 

「とおさん……!」

 

 母(かあさん)の身体から手を離し、少年は立ち上がった。

 

 涙で滲んだ目を擦る。

 

 父(とおさん)を探さなくちゃ。

 早く、呼んでこなくちゃ。

 

 そう思って、また森を走り始めた。

 

 少し先に、父(とおさん)の匂いがあった。

 

 少年は必死にその匂いを追いかけた。

 

 そして、見つけた。

 

 大きな身体だった。

 

 太い前脚。

 何度も乗せてもらったその背中。

 見慣れた、父(とおさん)の少し粗いけど温かい毛並み。

 

 寝床では、いつも入り口に伏せていた、大好きな父(とおさん)だった。

 

「……とおさん!」

 

 駆け寄ろうとして、足が止まった。

 

 父(とおさん)には。

 

 首(・)がなかった。

 

「…………」

 

 少年は、その場に立ち尽くした。

 

 何が起きているのか、分からなかった。

 

 父(とおさん)の身体は、確かにそこにある。

 

 でも、顔がない。

 

 耳も。

 鼻も。

 いつも自分を咥えて運んでくれた、大きな口も。

 

 どこにもなかった。

 

「……とお、さん?」

 

 呼んでみた。

 

 返事はない。

 

 少年は、震える足で近づいた。

 

 父(とおさん)の身体へ手を伸ばす。

 

 毛皮に触れる。

 

 冷たい。

 

 母(かあさん)と同じだった。

 

「……ねえ」

 

 揺すってみる。

 

 動かない。

 

 どれだけ力を込めても、父(とおさん)は起き上がらなかった。

 

 それでも少年は、何度も呼び続けた。

 

「とおさん……とおさん……」

 

 声が擦れた。

 もう、何をすればいいのか分からなかった。

 

 母(かあさん)は起きない。

 兄弟たちも起きない。

 父(とおさん)まで、動かなくなってしまった。

 

 誰も返事をしてくれない。

 

 どうして。

 自分が、何か悪いことをしたのだろうか。

 

 さっき、寝床で騒いだから?

 

 父(とおさん)に怒られたのに、言うことを聞かなかったから?

 

 だったら、もうしないから。

 ちゃんと言うことも聞くから。

 みんなが寝ている時には、静かにするし、嫌がることももうしないから。

 

 だから。

 

「……お願い」

 

 少年は、父(とおさん)の身体へ縋りついた。

 

「……おいて、いかないで」

 

 その時だった。

 

 鼻先に、父(とおさん)の匂いがした。

 けれど、それは目の前の身体から漂ってきたものではなかった。

 

 もっと、遠く。

 

 木々の向こうからだった。

 

 少年は顔を上げた。

 

 父(とおさん)がいる。

 あそこにいるのかもしれない。

 もしかしたら、あそこで倒れていたのは父(とおさん)じゃなかったのかもしれない。

 

 そう思うと、身体が勝手に動いた。

 

 涙を拭うことも忘れて、匂いのする方へ走り出す。

 

 何度転んだのだろう。

 膝を擦りむき、足裏に石で枝が刺さった。

 

 それでも走った。

 

 父(とおさん)に会いたかった。

 もう一度だけでいいから、顔を見たかった。

 大きな鼻先で、頭を押してほしかった。

 

 そして、木立の向こうに。

 

 人間たちがいた。

 何人もの人間が、何かを囲んでいた。

 

 少年は立ち止まった。

 

 その中心にあったものを見た。

 

 父とおさんの首だった。

 

 ……あった。

 やっと、見つけた。

 

 少年は一歩踏み出した。

 

 しかし、父(とおさん)の顔は動かない。

 

 こちらを見てもくれない。

 

 人間たちが何かを話している。

 そのうちの一人が、父(とおさん)の首へ手を伸ばした。

 

 少年の鼻が動いた。

 その人間たちから、匂いがした。

 

 母(かあさん)の身体についていた匂い。

 兄弟たちの血に混じっていた匂い。

 父(とおさん)の身体にも残っていた、あの匂い。

 

「…………」

 

 少年は、ゆっくりと後ずさった。

 

 どうして。

 どうして、この人たちから。

 

 同じ匂いがするの。

 

 誰かが、こちらを向いた。

 

 何かを言っている。

 けれど、聞き取れなかった。

 

 少年は父(とおさん)の首を見ていた。

 

 その目は、もう自分を追いかけてくれない。

 声をかけても、振り向いてくれない。

 鼻先を押しつけてくることも、もうない。

 

 少年の唇が、震えた。

 

「……かえして」

 

 声が出た。

 

 小さな声だった。

 

「……とうさん、かえしてよ」

 

 誰も答えなかった。

 

 少年は、もう一度口を開いた。

 

 けれど。

 

 その先は、言葉にならなかった。

 

「みんなをかえせぇぇぇっ!!」

 

 目の前が、真っ赤に染まった。

 

 

 

 

▲

 

 

 

 ぱちっ、と何かが爆ぜた。

 次に見えたのは、燃える館だった。

 さっきまでの森はどこにもない。木の床が熱を帯び、窓の向こうでは炎が揺れていた。

 

 少年は、その場に座り込んでいた。

 

 どうしてここにいるのか分からない。

 

 目の前には、大きな人影が立っていた。

 

 顔は見えなかった。

 ただ、こちらへ背中を向けて、何かを叫んでいた。

 

 その向こうに、別の影がいる。

 

 細長い木の棒を握った人間だった。

 

 棒が持ち上がる。

 

 先端が、こちらへ向く。

 

 いや。

 

 目の前の背中へ。

 

 真っすぐに。

 

   緑色の閃光

 

 目が眩んだ。

 

 大きな背中が、ぐらりと揺れる。

 

 そして、そのまま倒れた。

 

「……あ」

 

 少年は、目を見開いた。

 

 倒れた人影へ手を伸ばす。

 

 けれど、届かなかった。

 

 動かない。

 さっきまで、あんなに大きかったのに。

 もう、立ち上がらない。

 

 近づいてくる影が見えた。

 

 その手には、まだ杖が握られていた。

 

 少年は後ずさった。

 

 身体が震える。

 

 怖い。

 あれが、怖い。

 

 杖が上がる。

 

 少年は、両腕で頭を庇った。

 

 やめて。

 もう、やめて。

 

 これ以上は。

 

 もう、誰も。

 

「……やだ……」

 

 声が漏れた。

 

「……こないで……」

 

 杖の先が、こちらへ向く。

 

 緑色の光が灯る。

 

 少年は泣きながら、倒れた人影へ手を伸ばした。

 

 助けてほしかった。

 

 誰でもいい。

 

 父(とおさん)でも、母(かあさん)でも。

 

 兄弟たちでも。

 

 さっきまで一緒にいた誰かでも。

 

 お願いだから。

 

 ひとりに、しないで。

 

 

「  だれかぁっ!!」

 

 

 

▲

 

 

 

 

「  ッ、あ……!」

 

 アッシュは寝台の中で跳ね起きた。

 

 息が荒い。

 喉が引きつり、空気を吸い込もうとするたび、胸の奥が痛んだ。

 

 目の前には、閉じたカーテンがある。

 

 古い石壁の匂い。

 少し離れたところで、誰かが寝返りを打つ音が聞こえる。

 

  ホグワーツ(がっこー)だった。

 

 森ではない。

 あの館でもない。

 

 それでも、しばらく動けなかった。

 

 両手が、何かを探すように毛布の上を這う。

 

 温かい毛皮。

 母(かあさん)の腹。

 兄弟たちの身体。

 父(とおさん)の大きな前脚。

 

 さっきまで、確かに触れていたはずなのに。

 

 どこにもなかった。

 

「…………」

 

 アッシュは、ゆっくりと手を引っ込めた。

 

 指先が震えている。

 

 夢だ。

 

 そんなことは分かっている。

 

 もう、ずっと前のことだ。

 

 みんな、いない。

 

 知っている。

 知っているはずなのに。

 

 どうして。

 まだ、こんなにも。

 

 アッシュは俯いた。

 

 その拍子に、首元の白い布が頬へ触れた。

 

 はっとして、マフラーを掴む。

 

 両手で引き寄せると、くしゃりと柔らかな布が掌に収まった。

 

 あった。

 ちゃんと、ここにあった。

 

 破れていない。

 なくなっていない。

 

 アッシュは、そのまま顔を埋めた。

 

 しばらく、動かなかった。

 

 寝室の中では、誰かが小さく寝言を言っていた。隣の寝台からは規則正しい寝息が聞こえてくる。

 

 みんな、眠っている。

 当たり前のように、安心しきって。

 

 アッシュは膝を抱えた。

 

 そのまま、顔を伏せる。

 

 夢の中では、何度も呼んだ。

 

 母(かあさん)を。

 父(とおさん)を。

 兄弟たちを。

 

 けれど、誰も返事をしてくれなかった。

 

 今だって、そうだ。

 

 どれだけ耳を澄ませても、あの足音は聞こえない。

 どれだけ鼻を動かしても、あの匂いは見つからない。

 

 もう二度と、帰ってこない。

 

 そのことを、アッシュは知っていた。

 

 けれど。

 

「……かあ、さん……」

 

 ぽつりと、声が漏れた。

 

 自分でも、なぜ呼んだのか分からなかった。

 

 もう一度、呼ぼうとした。

 

 その前に、喉が詰まった。

 

 アッシュは唇を噛み、白いマフラーを握り締める。

 だがどんなに強く握っても、あの頃の温かさは戻ってこなかった。

 

 それでも、手放せなかったのはいまだに怖いと思っているからだろうか。

 

 やがて、マフラーへ顔を押しつけたまま、身体を丸める。

 

 小さく。

 もっと、小さく。

 

 まるで、誰かの腹の下へ潜り込もうとする子狼のように。

 

 その夜、アッシュはもう一度眠ろうとはしなかった。

 

 ただ、夜が明けるまで。

 

 誰にも聞こえないほど小さな声で、何度も家族を呼んでいた。

 

 




今日もお読みに来てくださりありがとうございます。
5,6話でだいぶ迷いというか、まだ設定もプロットも定かでない状態でとりあえず勢いだけに任せて走っていたせいか書いてる作者も消化不良気味がありましたが、やっと物語の土台といえるものが出来上がったので即投稿です。

アッシュは今書いてるもう一つの作品の主人公とはまた違うタイプの人物像になるでしょうが、それでも最後のエンディングまで走りたいので、どうかそれまでお付き合いくださいませ。
アンケートは今週の金曜で締め切りにする予定ではあります。

もし「○○こういった部分の書き方がいまいちだった、読みづらかった」といった意見があったら感想で書いて下されればできるだけ作者も改善できるように努力しますので遠慮なく思ったことは書いてくださってかまいません。
ではまた今度に!さらばーい!
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