トロール騒ぎから数日が過ぎた。
頬の傷は、薄い線を残すだけになっていた。ポンフリー先生の薬はよく効いたらしい。けれど、スリザリンの談話室で感じた居心地の悪さは、薬では消えてくれなかった。
朝食の席で、私は隣に座った女生徒に声をかけた。
「エレノア、おはよう」
彼女は一瞬きょとんとして、それから頷いた。あの夜、紅茶を差し出してくれた同室の子――エレノア・ロウルだ。
「傷はもう平気そうね」
「うん」
エレノアは少し笑った。私もつられて笑いかけたが、彼女の視線がスリザリンのテーブルの向こうへ動いた。飛行訓練のとき、ネビルの思い出し玉を取り上げた男子生徒が、こちらを見ている。
「あのこと、まだ言われてる?」
「少しね」
「私がグレンジャーを助けたことで、あなたまで何か言われてるんじゃないかと思って……」
「あなたのせいじゃないわ」
エレノアはカップを両手で包んだ。
「うちの家も純血の家柄を大事にしているの。そういう考えが好きじゃなくても、家族の前では言いにくいことがある」
彼女の声は静かだった。家の考えに違和感を覚えているのは、自分だけではない。そのことに、胸が少しだけ軽くなる。
「私も、まだうまくできない」
「うまくできなくてもいいんじゃない? 少しずつ考えれば」
エレノアはそれ以上、踏み込んでこなかった。私はその距離感に、ほっとした。
*
その日の午後、グリフィンドールとスリザリンのクィディッチの試合が行われる。
ハリーがシーカーとして出場する。噂は試合前から学校中に広がっていた。
スリザリンの生徒たちは緑と銀の旗を振り、声を張り上げている。例の男子生徒は、ハリーの名前が聞こえるたび鼻を鳴らした。
「一年生のシーカーなんて、すぐに地面へ落ちるさ」
周囲から笑い声が上がる。私は笑わなかった。
エレノアが隣に腰を下ろし、小さな双眼鏡を取り出した。
「遠くの選手を見るのに便利よ。使ってみる?」
「いいの?」
「ええ。どうぞ」
礼を言って受け取り、私は試合場をのぞいた。選手たちの姿がぐっと近くなる。
「クィディッチのルール、分かる?」
「スニッチを捕まえると試合が終わるんでしょう?」
「そう。でも、捕まえた側が必ず勝つわけじゃないのよ。スニッチは百五十点。ほかの得点と合わせて、最終的な点数で勝敗が決まるの」
「なるほど。点差が大きいと、捕まえても負けることがあるのね」
「そういうこと」
試合開始の合図が鳴り、選手たちが空へ舞い上がった。ハリーは赤いローブの中で、小さな影のように飛んでいる。観客席から歓声が上がるたび、反対側からも大きな声が返された。
試合が始まってしばらくして、ハリーの箒が急に揺れた。
彼の体が横へ振られ、両手が柄にしがみつく。観客席から悲鳴が上がった。
「何が起きたの?」
エレノアが身を乗り出す。
箒は上下に跳ね、ハリーを振り落とそうとしているようだった。ハリーは柄にしがみついているが、先ほどまでのように操れていない。
スリザリン側から、歓声が上がる。
「落ちろ、ポッター!」
例の男子生徒も立ち上がって叫んでいた。私はその声に加われなかった。ハリーの指が、箒の柄から少しずつ滑っていく。
私は双眼鏡を教師たちの席へ向けた。スネイプ先生が目をハリーから離さず、唇を小さく動かしている。何を唱えているのかまでは聞こえない。ただ、あの口の動きが気になった。
そのとき、観客席の向こうでハーマイオニーが立ち上がった。彼女も教師たちの席を見ている。スネイプ先生と、空で暴れるハリーを交互に見て、迷うように一瞬立ち止まった。それから、教師たちのいる方へ駆けていく。
「ハーマイオニー、どうしたの?」
私がつぶやくと、エレノアも彼女の姿を追った。
ハーマイオニーはリドル先生のそばへたどり着き、何かを告げた。リドル先生はすぐにスネイプ先生を見たあと、空のハリーへ杖を向ける。
杖先から淡い光が走った。
リドル先生は短く呪文を唱え、ハリーの箒を包むように杖を動かした。箒の激しい揺れが、少しずつ弱まっていく。最後に大きく一度跳ねたあと、ようやく姿勢を取り戻した。
ハリーは箒にしがみついたまま、低く旋回して地面近くまで下りた。落ちることはなかった。
「先生が箒を安定させたのね」
エレノアが息を吐いた。
私は頷いた。けれど、胸の中の不安は消えなかった。ハーマイオニーは何に気づいたのだろう。スネイプ先生の動きは、ハリーの箒が暴れたことと関係があるのだろうか。
リドル先生は、まだ杖を下ろしていなかった。空を見据えたまま、ハリーへ着地するよう合図している。
ハリーは地面へ降りた。数人の選手と先生たちが駆け寄る。試合は一時中断され、フーチ先生がハリーと箒の様子を確かめた。
少しして、ハリーは再び箒にまたがった。
「続けるんだ……」
私は思わず声を漏らした。
「ハリーが試合を続けたいと言ったのかもしれないわ」
エレノアは心配そうに試合場を見つめた。
フーチ先生が再開を告げる。ハリーは慎重に高度を上げ、少しずつ速度を取り戻した。今度は箒が揺れることはない。彼は周囲を見回しながら、スニッチの姿を探している。
グリフィンドールの選手がゴールを決めるたび、赤い応援席が沸いた。スリザリンも負けじと声を上げる。点差は縮まったり開いたりを繰り返し、試合の行方はまだ分からなかった。
その間も、ハリーは何度か急旋回し、他の選手の隙間を抜けていく。先ほどの恐怖が残っているのか、箒の柄を握る手に力が入っているように見えた。
やがて、ハリーがふいに顔を上げた。
彼の視線の先で、金色のスニッチが陽光を受けてきらめいた。
ハリーは箒を傾けて追い始める。スニッチは選手たちの間をすり抜け、ゴールの輪のそばへ飛んだ。ハリーは一度、他の選手の進路を避けるために大きく回り込む。距離が開き、観客席からもどよめきが起きた。
それでもハリーは追うのをやめなかった。
箒を低くし、競技場の端をかすめるように飛ぶ。スニッチが急に向きを変えた。ハリーは体をひねり、片手を伸ばす。
あと少し。
金色の羽が、彼の指先をかすめた。
ハリーはさらに腕を伸ばし、ついにスニッチを握りしめた。
試合終了の笛が鳴り響く。グリフィンドールの応援席が歓声に包まれた。スニッチの百五十点を加えた得点が掲げられ、グリフィンドールの勝利が告げられる。
ハリーは無事に地面へ降り立った。ハーマイオニーも、ほっとした顔でいた。
スリザリン側は静まり返っていた。例の男子生徒も、何か言いかけて口を閉じた。
エレノアは私の顔を見た。
「怖かったね」
「うん」
「あなた、ずっとハリーを見てた」
私は否定しなかった。
*
試合後、選手たちが引き上げていく中、リドル先生はハリーの箒を確かめていた。私はエレノアから借りた双眼鏡で、その様子を見守る。
先生は箒の柄に触れず、杖を近づけた。かすかな光が走る。先生の手が止まった。
指先に、細い黒い糸のようなものが引っかかっている。リドル先生はそれをそっと取り、誰にも見えないよう手袋の中へ隠した。
トロールの首筋にあった黒い痕が、脳裏によみがえる。
関係があるのだろうか。
リドル先生は顔を上げ、観客席のこちらを見た。目が合った気がして、私は思わず背筋を伸ばす。けれど先生はすぐに視線を戻し、ハリーに何かを尋ねていた。
「ドラコ、戻りましょう」
エレノアが声をかけた。
「うん」
私たちはスリザリンの生徒たちの列に加わった。少し離れたところにハリーの姿が見える。彼がこちらに気づき、小さく手を上げた。私は一度だけ、頷き返す。
「友達なの?」
エレノアが尋ねた。
「まだ、そう呼べるか分からない」
「そう」
彼女はそれ以上聞かず、私の歩幅に合わせた。
スリザリンの緑の旗が、風に大きく揺れている。
ハリーの箒は、なぜ暴れたのか。スネイプ先生は、何をしていたのか。リドル先生が取り出した黒い糸は、トロールの痕とつながっているのだろうか。
答えは、まだ見つからない。
ただ、ハリーを見ていた私は、彼が無事だったことに心から安堵していた。