試合の翌朝、大広間ではハリーの箒が暴れた原因について、さまざまな噂が飛び交っていた。
「スネイプ先生が呪いをかけていたんだって」
「でも、箒が止まったあと、先生は何もしていなかったように見えたぞ」
グリフィンドールのテーブルから聞こえた声に、私はスプーンを持つ手を止めた。
双眼鏡越しに見たスネイプ先生の口元。唇は確かに動いていた。けれど、何を唱えていたのかまでは分からない。
「ドラコ」
隣のエレノアが、私の顔をのぞき込んだ。
「考え込んでいるわね」
「スネイプ先生のこと。試合中、口が動いていたのを見たの。ハリーの箒が暴れたのと関係あるのかなって」
「そうかもしれない。でも、見たことと、そこから考えたことは分けた方がいいわ」
エレノアはカップを置いた。
「口が動いていたのは見た。でも、それが箒を暴れさせる呪文だったかは分からない。そうでしょう?」
「……うん」
「リドル先生が調べているんだから、まずは先生に任せてみたら?」
私は小さくうなずいた。
トロールの首筋にあった黒い痕。ハリーの箒から見つかった黒い糸。どちらも気になる。けれど、分からないものを前にして、勝手に答えを決めつけるのは危険だ。
「ドラコは、ポッターが心配なの?」
エレノアが尋ねた。
「箒が暴れていたときは、落ちるんじゃないかと思ったから」
「それだけ?」
からかうような声ではなかった。私は答えに迷い、紅茶に目を落とした。
「……無事でよかったとは思ってる」
「そう」
エレノアはそれ以上、聞かなかった。
そのとき、スリザリンのテーブルの向こうから、聞き覚えのある声がした。
「ポッターの箒が暴れたとき、マルフォイは応援もせずに見ていたんだって?」
ネビルの思い出し玉を取り上げた男子生徒が、友人たちに向かって笑っている。
「スリザリンの選手が出ていたのに、グリフィンドールの心配か?」
周囲から、くすくすと笑い声が上がった。
私は言い返そうとして、口を閉じた。何か言えば、また寮の仲間から浮くかもしれない。その考えが、先に頭をよぎった。
「ドラコが誰を心配するかは、本人が決めることよ」
エレノアが静かな声で言った。
「誰かをからかって、何が楽しいの?」
男子生徒は肩をすくめ、仲間との会話に戻った。
「ありがとう」
「私が言いたかったことを言っただけよ」
エレノアはカップに口をつけた。彼女は私の代わりに答えたのではなく、私が黙ったことを責めもしなかった。そのことが、ありがたかった。
*
その日の防衛術の授業で、リドル先生は、古びた黒いローブを教卓に広げた。
袖には何度も繕った跡があり、胸元の布には焼け焦げたような穴が残っている。先生が手袋をはめた指でその周りをなぞると、布の上に灰色の細い筋が浮かび上がった。
「これは、ずいぶん前に呪いを受けたローブだ。残っているのは、術そのものではなく、その痕跡だ」
教室が静かになる。
「これを見て、何が分かる?」
生徒たちはローブをのぞき込んだ。何人かが手を挙げる。
「火の呪文を受けたんだと思います」
「何かに引っかけて破れたのかもしれません」
リドル先生は、それぞれの答えを聞いたあと、杖先をローブに向けた。灰色の筋がかすかに光り、すぐに消える。
「術の痕跡を見つけても、それだけで術者や目的まで分かるわけではない。形が似ているものを、同じものだと思い込むことも危険だ」
私は、トロールの首筋と箒から見つかったものを思い浮かべた。
授業の終わりを告げる鐘が鳴り、生徒たちは教室を出ていく。私は席に残った。リドル先生がローブを畳み終えると、こちらを見た。
「試合のあと、私が箒から取り出したものを見たのか?」
「はい。細い黒い糸のようなものが見えました。トロールの首筋にあった黒い痕を思い出したんです」
先生の手が、畳んだローブの上で止まった。
「その話は、ここまでにしなさい」
声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
私は息をのみ、先生の顔を見た。仮面の奥は見えない。しばらくして、先生は小さく息を吐き、声を落ち着かせた。
「……悪かった。君を責めるつもりはない。ただ、それについては話せない」
「同じものなんでしょうか?」
「似ていることと、同じものだと決めつけることは違う。君は、何を根拠に二つを結びつけた?」
私は答えに詰まった。
「黒いものがあったことと、先生が気にしていたことです。でも、それだけです」
「よく考えたな。今のところ、分かっているのはそこまでだ」
先生はそれ以上、詳しいことを話さなかった。
「では、どうすればいいんですか?」
「見たことを正確に覚えておく。分からないことは、分からないままにしておく。誰かを疑うのは、それからだ」
「スネイプ先生のことも?」
「特定の誰かを疑うのは、証拠が見つかってからにしなさい」
リドル先生は、畳んだローブを教卓の脇へ置いた。もう、先ほどの冷たさは表情にも声にも残っていない。けれど、何かを隠しているのだという感覚は消えなかった。
「それから、試合中に教師席の方を双眼鏡で見ていただろう」
私は思わず顔を上げた。
「気づいていたんですか?」
「観客席から、ずいぶん熱心に見ている生徒がいたからな」
先生の口元がわずかに緩んだ。笑ったのかもしれない。
「見たことを知らせてくれたのは助かった。だが、確かめる前に噂を広めないように」
「分かりました」
「マルフォイ。誰かに言われたからではなく、自分で見て考えたことを話しなさい。間違いを恐れて黙る必要はない。ただし、分からないことを事実のように話してはいけない」
「……はい」
先生はうなずいた。仮面の奥の表情は見えない。それでも、前より少しだけ、この先生の言葉を信じてみたいと思った。
*
教室を出ると、廊下でハリーとロンが待っていた。
「リドル先生と話していたの?」
「少しね」
「箒のことで、何か分かった?」
ハリーが尋ねた。
「まだ分からないって。先生が調べているところよ」
「そっか」
ハリーは残念そうだったが、無理に続きを聞こうとはしなかった。
ロンは、私を見て少し眉を寄せた。
「スネイプをかばってるわけじゃないよな?」
「かばってないわ。見たことを話しただけ。先生の口が動いていたのは見たけれど、何をしていたかは分からない」
「でも、あいつはハリーにいつも厳しいし、試合中もずっと見てた」
「だからって、箒を暴れさせたと決まったわけじゃないわ」
ロンは返事をせず、ハリーの方を見た。まだ納得しきれていないようだったが、それ以上問い詰めることはなかった。
「分かった。何か分かったら教えてよ」
「確かなことが分かったらね」
そう答えると、ロンは小さくうなずいた。
短い会話を交わし、私は二人と別れた。
試合後、リドル先生が黒い糸をローブの袖口に隠したとき、指先が一瞬止まった。あの反応を、私は忘れられない。
トロールの痕と箒の糸は同じものなのか。先生は何を知っていて、何をまだ話せないのか。
答えは見つからない。それでも、今は分からないことを、分からないままにしておこう。
私はエレノアの待つ談話室へ向かった。リドル先生の仮面の奥には、まだ私の知らない事情が隠れている。