マルフォイ邸で過ごすクリスマス休暇は、穏やかに日を重ねていった。
クリスマスの朝、母上から深緑の手袋を、父上から魔法史の古い本をもらった。夕食には、いつもより多くの料理が並び、暖炉の火が遅くまで燃えていた。屋敷の中には、家族の笑い声もあった。
けれど、学校の話になると、私は少しずつ言葉を選んだ。
エレノアと親しくなったことは話せる。授業のことも、クィディッチの試合のことも。
ハリーやハーマイオニーと過ごした時間は、うまく説明できる気がしなかった。スリザリンで感じている居心地の悪さも、リドル先生への疑問も、胸の内にしまったままだった。
休暇の最後の夜。私は自室の窓辺に立ち、雪に覆われた庭を眺めていた。明日にはホグワーツへ戻る。エレノアに会える。ハリーやハーマイオニーとも、また顔を合わせるだろう。
そのことを楽しみに思う自分がいる。
父上に話せなかったことが、またひとつ増えたような気がして、私は窓から目をそらした。
カーテンを閉めてベッドに入る。旅の準備で疲れていたせいか、目を閉じるとすぐに眠りに落ちた。
*
夢の中で、私は石造りの廊下に立っていた。
窓はなく、燭台もない。灰色の壁と床だけが、暗闇の中にどこまでも続いている。廊下の先には黒い扉があり、その向こうから、低い唸り声がかすかに聞こえた。
三つ頭の犬。
そう思った瞬間、扉の前に人影が現れた。
長いローブをまとった男だった。顔は影に隠れていて、年齢も表情も分からない。けれど、男がこちらを見ていることだけは伝わってきた。
「マルフォイ」
男が私の名を呼ぶ。
「あなたは誰?」
「名を知る必要はない」
男は答えず、黒い扉に手を置いた。
「賢者の石を手に入れろ」
胸の奥が冷たくなる。
七百十三番金庫から持ち出された包み。ハグリッドが運んでいた小さな荷物。三つ頭の犬が守るもの。私の記憶が正しければ、扉の向こうにあるのは――。
「手に入れたら、どうするの?」
「それはお前が気にすることではない」
「私に頼むのに?」
男は答えなかった。沈黙のあと、声だけが静かに尋ねる。
「お前は、何を望む?」
私はすぐに答えられなかった。
男は、こちらの返事を待つように黙っている。
「分からないわ」
「本当にか?」
その問いは、決めつける調子ではなかった。私の顔色をうかがうように、少しずつ言葉を選んでいる。
「誰かの期待に応えることに疲れてはいないか」
父上の声が頭に浮かんだ。マルフォイ家の名にふさわしくあること。周囲からどう見られるかを考え、間違いのない振る舞いをすること。
そして、前世の会社で、頼まれた仕事を断れなかった日々。
男は、私の沈黙を見ている。
「お前は、何かを変えたいと思ったことはないのか?」
「……あるわ」
答えてから、私は唇を結んだ。
「何を変えたい?」
「それは、あなたには関係ない」
男の口元が、影の奥でわずかに動いた。
「そうか。なら、こう言おう。賢者の石を手に入れれば、お前の望みを叶えてやる」
「どんな望みでも?」
「自由でも、力でもいい。誰にも縛られずに生きることでも。お前が望むものなら、何でもだ」
自由。
その言葉は、胸の奥に深く入り込んだ。父上の期待から逃げたいわけではない。家族を嫌っているわけでもない。けれど、自分の気持ちを隠し、誰かの望む形に自分を合わせ続けるのは苦しかった。
ホグワーツでは、自分で選んだこともある。ハーマイオニーを助けたこと。ハリーの無事を願ったこと。けれど、その選択が正しいのか、今も迷うときがある。
男の声が、再び廊下に響いた。
「お前は、何を手に入れたい?」
「どうして、賢者の石なの?」
「石には価値がある」
「あなたにとって?」
男は答えなかった。
黒い扉の向こうで、何かが爪を立てるような音をたてる。低い唸り声が、少しずつ近づいてくる。
「石を手に入れろ。そうすれば、望みを叶えてやる」
「あなたの言葉を信じる理由がないわ」
「疑うのか?」
「あなたのことを何も知らないもの」
男は黙った。
その沈黙に、約束を守る気などないのではないかという疑いが膨らんでいく。賢者の石を渡したあと、男が何をするのかも分からない。石がどれほど危険なものなのか、私は知っているはずなのに。
「石は渡さない」
私の声は震えていた。
男は怒りもしなければ、引き止めもしなかった。ただ、影の中で首を傾ける。
「そうか」
黒い扉が、内側から激しく叩かれた。床が揺れ、壁に細い亀裂が走る。男の姿が、闇に溶けていった。
「また会おう、マルフォイ」
その声と同時に、三つの頭が吠えた。
*
私は目を覚ました。
寝室は静かだった。窓の外はまだ薄暗く、枕元の時計は朝食には早い時刻を示している。
胸元に手を当てると、心臓が速く打っていた。ゆっくり息を吸い、吐く。夢だった。そう思っても、男の声は耳の奥に残っている。
賢者の石を手に入れろ。
男は、石の存在を知っていた。私がそれを知っていることまで、見抜いていたように思える。
夢の中で私が考えたことを、男が拾い上げただけなのだろうか。それとも、夢はただの夢ではなかったのだろうか。
答えは出なかった。
身支度を整えて部屋を出ると、廊下の向こうから母上が歩いてきた。私の顔を見るなり、足を止める。
「ドラコ、顔色がよくないわ。眠れなかったの?」
「少し夢見が悪かっただけよ」
「どんな夢だったの?」
母上の声は穏やかだった。話してしまいたい気持ちが、ほんの少しだけ湧く。けれど、賢者の石のことも、男のことも、口にすれば現実のものになってしまう気がした。
「起きたら、もうぼんやりしてしまったわ」
それは嘘ではなかった。男の顔も、ローブの形も、ほとんど思い出せない。ただ、声だけがはっきり残っている。
母上は私の額に手を当てた。熱がないことを確かめると、頬にかかった髪をそっと払う。
「今日は長旅よ。朝食を少しでも食べていきなさい」
「分かったわ、お母様」
朝食を終えると、玄関ホールには出発の支度が整っていた。外套を着た私の前に、父上が立つ。
「襟元が曲がっている」
父上はそう言って、留め具を直した。指先が一瞬だけ止まる。それから、いつもの落ち着いた声に戻った。
「二学期も勉学を怠らないように。マルフォイ家の名にふさわしく、学ぶべきことを身につけなさい」
「はい、父上」
「困ったことがあれば、母上か私に知らせること」
「分かっているわ」
父上は短くうなずいた。私は夢のことを話さなかった。
*
駅に着くと、ホグワーツ特急が白い蒸気を吐きながら待っていた。
「着いたら手紙をちょうだいね」
母上に言われ、私はうなずく。
「いってきます、お母様。父上も」
「しっかりな」
二人に見送られ、私は列車へ乗り込んだ。窓際の席に鞄を置き、外を見る。父上と母上がホームに並んで立っている。
汽笛が鳴り、列車がゆっくり動き出した。
二人の姿が遠ざかっていく。やがて、雪をかぶった駅舎も窓の向こうへ流れていった。
私は鞄の持ち手を握った。
あの男は、私が賢者の石を知っていると言った。
けれど、どうして知っているのだろう。
私が、その石の存在を知っていることまで。
車輪の音が、一定のリズムを刻み始めた。その音に紛れて、もう聞こえないはずの声がよみがえる。
――また会おう、マルフォイ。