みぞの鏡の話を聞いてから、数日が過ぎた。
ハリーは、鏡の部屋へ戻らないと決めたらしい。それでも、食堂でふと黙り込む横顔には、鏡の中に映った両親を思い出しているような寂しさがあった。
私も、休暇最後の夜に見た夢を忘れられずにいた。
黒い扉の向こうにいた男。賢者の石を手に入れれば、望みをかなえてやると言った声。
誰かに話そうとしても、何から話せばいいのか分からなかった。
*
ある日の午後、ハリーが図書室で声をかけてきた。
「ハグリッドの小屋に行こうと思うんだ。休暇明けに顔を出すって約束していたから」
「私も行っていい?」
ハーマイオニーが本を閉じた。
「もちろん。マルフォイも来る?」
少し迷った。ハグリッドは私がマルフォイ家の娘だと知っている。歓迎されないかもしれない。
「私が行ってもいいの?」
「トロールの夜にハーマイオニーを助けたって、ハグリッドも聞いてるよ」
ハリーにそう言われ、ハーマイオニーもうなずいた。
「一緒に来てくれたら、私もうれしいわ」
私は本を閉じ、三人について図書室を出た。
ハグリッドの小屋は、森のそばに建っていた。扉を叩くと、中から大きな足音が近づいてくる。
「誰だ?」
「ハグリッド、僕だよ。ハリー」
扉が開いた。ハグリッドはハリーたちを見て笑い、それから私に気づくと少しだけ驚いた顔をした。
「マルフォイも一緒か」
「来ない方がよかった?」
「いや、そういう意味じゃねえよ。寒いから、早く入れ」
小屋の中は暖かかった。ハグリッドが紅茶を用意してくれているあいだ、私たちはテーブルを囲んだ。
そのとき、部屋の隅から、こつん、と音がした。
ハグリッドが、びくりと肩を揺らす。
「今の音は何?」
ハーマイオニーが尋ねた。
「何でもねえ」
その直後、もう一度、こつんと鳴った。
ロンが音のした方へ目を向ける。毛布のかかった大きな籠が、壁際に置かれていた。ハグリッドは困ったように髭を撫でると、とうとう毛布をめくった。
中には、黒くて大きな卵があった。表面には赤い筋が走っている。
「ドラゴンの卵だ」
ハグリッドの言葉に、ロンが目を丸くした。
「もうすぐ孵るんだ」
ハグリッドは、卵を見つめながら目を細めた。
「どこで手に入れたの?」
「酒場で勝ったんだ。賭けでな」
「ドラゴンを飼うのは、簡単ではないはずよ」
ハーマイオニーの声は慎重だった。
「分かってる。だが、卵を捨てるわけにもいかねえだろ」
ハグリッドは籠のそばにしゃがみ込んだ。卵を見つめる顔には、心配と喜びが入り混じっていた。
「私も、無事に生まれてほしいと思う。でも……ここで育てて、本当に大丈夫なの?」
そう尋ねると、ハグリッドはすぐには答えなかった。
「ちゃんと考えなきゃならねえのは分かってる。生まれたら、どうするか相談するよ」
籠の中で、卵がかすかに揺れた。全員が息を止める。殻に細い亀裂が一本走っていた。
「本当に、もうすぐなのね」
ハーマイオニーが籠に近づきかけたが、ハグリッドに止められた。
「まだ触っちゃいかん。驚かせるとよくねえ」
ハーマイオニーは素直に一歩下がった。
「孵った後のことは、一緒に考えましょう。」
「そうだな。頼むよ」
ハグリッドの声から、少しだけ張り詰めたものが抜けた。
紅茶を飲み終える頃、ハリーがふと口を開いた。
「前にグリンゴッツから運んだ包みは、誰のものだったの?」
ハグリッドの手が止まる。
「ダンブルドアの頼みで、金庫から受け取っただけだ。中身は知らねえよ」
「持ち主も?」
「ダンブルドアの友人だ。たしか……ニコラス・フラメルとかいう――」
ハグリッドは、そこで口を閉じた。
「今の名前、もう一度言って」
ハーマイオニーの表情が変わった。
「ニコラス・フラメルだ。だが、わしはそれ以上知らねえ。中身についても、誰にも話すなと言われてる」
ニコラス・フラメル。たしか、賢者の石に関係する人物だったはずだ。
思い出したのはそこまでだった。それでも、あの夢の男が「賢者の石を手に入れろ」と言ったことが、急に重みを増した。
ハーマイオニーも、その名前を頭の中で確かめるように繰り返した。
「帰ったら調べてみるわ。どんな人なのか分かるかもしれない」
「勝手に危ねえことを調べるんじゃねえぞ」
ハグリッドの声は心配そうだった。ハーマイオニーは「分かってる」と答えたが、目はもう考え込んでいる。
小屋を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
「ニコラス・フラメルって、どこかで名前を聞いた気がするの。でも、何をした人かまでは……」
自分でも不自然に聞こえないよう、言葉を選んだ。
「私も知らないわ。調べてみる」
ハーマイオニーは、もう図書室へ向かうつもりのようだった。
私は夢の男について話すべきか迷った。賢者の石の名前が出た今なら、言えるかもしれない。
「あのね、私……」
三人が足を止めた。
「休暇中に、少し変な夢を見たの」
「どんな夢?」
ハーマイオニーが尋ねた。
喉の奥が詰まる。夢の中の男が、こちらを見ていた。黒い扉。賢者の石。私に何かをさせようとしていた、顔の見えない男。
どこまで話しても、信じてもらえるのだろう。
「ごめん。まだ、うまく話せない」
ハーマイオニーは少し考えてから、静かにうなずいた。
「話せるようになったら聞くわ」
「ありがとう」
ハリーは何も急かさず、先へ歩き出した。私は三人の後を追う。
ニコラス・フラメルの名前は、賢者の石につながっている。けれど、それを知っているのは私だけではない。夢の男も知っていた。
いつか、話さなくてはいけない。
そう思いながら、私はまだ、その先の言葉を口にできずにいた。