汽車が止まったとき、窓の外はすっかり暗くなっていた。
遠くにそびえる城の窓には、無数の明かりが灯っている。映画で見たときより、ずっと大きく、ずっと本物らしい。尖塔の影が夜空に伸び、湖の水面には、城の光が揺れていた。
「ここがホグワーツか……」
誰かが感嘆の声をもらした。
私は、胸の奥が落ち着かないまま列に続いた。ローブの袖を握っている、前世の会社では、出勤前になると、いつも胃のあたりが固くなった、今日は何を頼まれるのか、何を間違えるのか、誰に機嫌を損ねられるのか。
その感覚が、今も少しだけ残っている。
違うのは、これから入る場所が会社ではなく魔法学校だということ。
そして、私の名前がドラコ・マルフォイだということだった。
湖を渡る小舟に、ハリーとロンの姿が見えた。
二人は隣同士に座り、城を見上げている。
ハリーは、初めて見るものに驚きながらも、どこか懐かしいものを見つけたような顔をしていた。
声をかけたい。
そう思った自分に、私は驚いた。
汽車の中で交わした短い会話だけで、二人と仲良くなれるわけではない。
そもそも、私はマルフォイだ。家族の記憶が、そう告げている。
マルフォイ家は古い魔法使いの家系。純血の誇りを守り、家名を汚さず、ふさわしい相手と付き合う。それは教えというより、呼吸の仕方に似ていた。子どものころから繰り返し聞かされ、気づけば自分の考えのように体に染み込んでいる。
会社員だった私も、似たようなものに縛られていた。
上司の指示に従う。会社の都合を優先する。
多少つらくても、周りがやっているのだから自分も耐える。
そうしているうちに、「自分は本当はどうしたいのか」を考える余裕がなくなっていった。
家名と会社。形は違っても、どちらも人を縛る糸になりうる。
「マルフォイさん、こちらへ」
先生の声に、私ははっとした。
大広間には、空に見える天井と、宙に浮かぶ無数のろうそくがあった。長いテーブルには生徒たちが座り、四つの寮の色が壁の装飾に映えている。
映画で見た光景だ。何度か観たはずなのに、記憶は大雑把で、細部は曖昧だった。それでも、天井に夜空が広がっていること、中央に組分け帽子が置かれていることは覚えている。
新入生が順番に名前を呼ばれ、古びた帽子をかぶっていく。帽子は一人ひとりに何かを告げ、寮の名前を大広間に響かせた。
やがて、先生が名簿を見た。
「ドラコ・マルフォイ」
大広間のざわめきが、ひと呼吸ぶん小さくなった気がした。
私は椅子に座り、帽子をかぶせられた。視界が布に覆われる。
そのとき、頭の中に、誰かの声が響いた。
『さて、マルフォイ。自信があるように見せている。けれど、心の中はずいぶん騒がしいね』
私は息を呑んだ。
『家の期待がある。優れた者であれ、誇り高くあれと。自分自身の望みは、その下に押し込まれている』
帽子は、私の考えを読んでいる。前世の記憶まで見えているのだろうか。
『人に認められたい気持ちも強い。期待を裏切ることを恐れている。だが、君には、違う道を選びたいという意志もあるようだ』
頭に浮かんだのは、会社のデスクだった。終わらない仕事。深夜の蛍光灯。引き受けるたびに増えていく役割。上司に「君ならできる」と言われて、断れずに頷いた自分。
それから、汽車のコンパートメントで、ハリーに謝ったときのこと。
『どこに行けばいい?』
私は、帽子に問いかけた。
『寮は、君の未来を決めるものではないよ。君が何を大切にするのか、自分で決める助けになる場所さ』
答えになっているようで、なっていない。
家の期待に従うなら、スリザリン。マルフォイ家の者として、当然そこに入るべきだ。だが、もしハリーと友情を育みたいなら、別の寮のほうがいいのだろうか。そもそも、友達になりたいという気持ちは、そんな簡単に寮を選び直す理由になるのか。
『君が選ぶ道は、君のものだ。だが、君の中には、すでに答えがある』
帽子は、少しの沈黙のあと、寮の名を告げた。
「スリザリン!」
緑と銀のテーブルから拍手が起きた。私は帽子を脱ぎ、席を立つ。
家の記憶が、当然だと言う。周囲の視線も、期待どおりだと告げている。
それなのに、胸の奥に、何かが小さく沈んでいた。
ハリーは、まだ組分けを待っている。彼がどこへ行くのかは、映画で観た。確か、グリフィンドールだったはずだ。けれど私は、物語の筋書きに頼りすぎないほうがいい。覚えているのは映画の断片だけで、今見ている現実は、その記憶どおりに進む保証がない。
ハリーの名前が呼ばれた。
彼が帽子をかぶる。周囲の生徒たちが身を乗り出す。帽子はしばらく考え込んでいるようだった。
「グリフィンドール!」
赤と金のテーブルから大歓声があがった。ロンが大きく手を叩いている。ハリーは少し驚いた顔で、そちらへ向かった。
私は拍手をした。手のひらは動いたのに、気持ちはうまく追いつかなかった。
スリザリンの席で、隣に座った少年が小声で言った。
「ポッターはグリフィンドールか。」
「そうね」
「汽車で話したんだろう? どんな感じだった?」
その問いには、探る響きがあった。私がハリーをどう評価しているか。マルフォイ家の子どもとして、どちら側に立つのか。そんな答えを求められている気がした。
「普通の子だったわ」
「普通?」
「初めて学校に来た子よ。私たちと同じ」
隣の少年は、少し眉を寄せた。
「マルフォイ家らしくないな」
その言葉は、鋭くはなかった。むしろ軽い冗談のようだった。それなのに、胸の奥に小さな棘が刺さる。
――マルフォイ家らしく。
前世で何度聞いただろう。「会社員ならこれくらいできて当然」「若いんだから頑張れ」「みんなやっている」。ひとつひとつは短い言葉なのに、積もると人を動けなくする。
「らしいって、どういう意味かしら」
「純血の者として、ふさわしく振る舞うってことさ」
彼の言い方に、悪意はない。彼もきっと、同じように教えられてきたのだ。家の価値観を疑うきっかけがなく、そのまま受け取っている。
私は、何と答えればいいか分からなかった。
純血主義を否定すれば、家族を否定するような気がする。肯定すれば、自分の意思を押し殺すことになる。ひとつの言葉で解決できるほど、簡単な問題ではない。
食事が並び始めた。金色の皿に、ローストチキンや焼き野菜、パンが次々に現れる。けれど、目の前の料理を見ても、空腹はあまり感じなかった。
ハリーは、グリフィンドールのテーブルでロンや知らない人たちに話しかけられている。彼は時折、居心地が悪そうに視線を泳がせていた。
大広間の中央では、校長が歓迎の言葉を述べていた。聞き覚えのある言葉もあったような気がするが、正確には思い出せない。前世の私が映画を観たのは何年も前で、見返すほどの時間もなかった。
私の記憶は、未来を変えるための便利な地図ではない。むしろ、肝心な曲がり角が抜けた地図だ。
それでも、ハリーが困っているときに、もし気づけたら。彼に声をかけたいと思うのは、ただ物語を知っているからだろうか。それとも、汽車の中で見た彼の表情が、少しだけ気になったからだろうか。
自分でも、まだ分からない。
分からないなら、分からないままでいい。答えを急いで決めなくてもいい。
会社では、いつだって早く返事をするよう求められた。できます。やります。問題ありません。そう言ってから、自分の限界に気づくことも多かった。
ここでは、急いで誰かの望む答えを出さなくていいはずだ。
食事のあと、新入生たちは寮へ案内された。スリザリンの談話室は、湖の底にあるらしい。石造りの壁の向こうに、水の影がゆらゆらと映っている。緑がかった光が、家具や顔を淡く染めていた。
「ここが私たちの居場所だ」
先輩の説明を聞きながら、私は窓の向こうを見た。湖の暗がりを、大きな影が横切る。水面が揺れ、緑の光も揺れた。
居場所。
そう呼ばれる場所に、私は安心するべきなのだろうか。マルフォイ家の子として、スリザリン生として、ここで過ごすのが自然なことなのだろうか。
それとも、安心できない自分を責めるべきなのだろうか。
前世の会社では、職場が居場所だと何度も言われた。家族のようなものだ、とも。けれど、私が弱っていたとき、会社は私の代わりに働く人を探すだけだった。組織はそういうものだと頭では分かっている。だからといって、寂しくなかったわけではない。
家も寮も、誰かが決めた場所にいるだけでは、本当の居場所にならないのかもしれない。
私はベッドに腰を下ろし、指先を見た。十一歳の手。銀の髪。女の子の身体。マルフォイ家の記憶。そして、前世の疲れた大人の記憶。
その全部が、今の私だった。
「ドラコ、どうしたの? まだ具合が悪い?」
同室の子が声をかけてくる。
「少し考えごとをしていただけ。大丈夫」
「ならいいけど。明日から授業だしね」
授業。魔法。呪文。箒。私が映画で見たものが、明日から日常になる。
不安は消えない。けれど、会社にいたころのように、限界まで黙って耐える必要はない。そう自分に言い聞かせる。
ベッドのカーテンを引く前に、私はもう一度、湖の窓を見た。
ハリーとは別の寮になった。家の考え方も違う。周囲から期待される役割もある。友情を育むには、簡単ではない条件ばかりだ。
それでも、汽車の中でハリーに感じた親しみは、なかったことにしたくない。
私はまだ、彼の友達になれるか分からない。マルフォイ家のしきたりをすぐに捨てられるとも思えない。自分の中に残る純血主義の考えを、明日からきれいに消すこともできない。
でも、誰かを家柄だけで決めつけることに、違和感を覚えた。
その違和感を大切にしてみようと思った。
「明日、ハリーに会ったら……」
カーテンの内側で、私は小さくつぶやく。
何を言うかは決めていない。謝ることがあるかもしれない。普通に挨拶するだけかもしれない。相手が話したくなさそうなら、無理に近づくのはやめよう。
それでいい。
前世の私は、周囲の期待に応えるため、自分の気持ちを後回しにし続けた。今の私は、家の期待に応えるため、自分の考えを押し込めようとしている。
その鎖を、一度に断ち切ることはできない。
なら、まずは一本ずつ、ほどいていけばいい。
「……友達になれたらいいな」
言葉にすると、胸の奥が少し温かくなった。
そのとき、談話室の外から、誰かの笑い声が聞こえた。私は毛布を引き上げ、目を閉じる。
ホグワーツでの最初の夜。スリザリンの緑の光の中で、マルフォイ家の娘は、まだ誰にも知られていない小さな願いを抱いていた。
明日、ハリーに会ったら、ちゃんと自分の言葉で話してみよう。
それがマルフォイ家らしくなくても、会社員らしくなくても。
今度は、自分で選んでみたい。