スリザリンの談話室の窓から、湖の光が差し込んでいた。
夜のあいだに眠れたのかどうか、よく分からない。目を閉じるたび、前世の職場の蛍光灯と、マルフォイ家の屋敷の長い廊下が交互に浮かんだ。
会社では、上司の期待に応えなくてはならなかった。マルフォイ家では、家名にふさわしく振る舞わなくてはならない。
場所も時代も違うのに、胸の中にある重さは似ている。
朝食の席につくと、スリザリンの同級生たちは、昨夜の組分けの話で盛り上がっていた。誰がどの家の出身か。どの家が古いか。誰の親がどんな魔法使いか。話題の中心には、純血という言葉が何度も出てくる。
「マルフォイ家は、やっぱりスリザリンだよな」
隣の少年が、当然のことのように言った。
「そうね」
私は短く答え、目の前のパンをちぎった。
否定するつもりはない。私の記憶の中では、マルフォイ家は長く続いてきた魔法使いの家だ。誇りを持つこと自体は、悪くないと思う。
けれど、家柄だけで人を判断するのは違う――前世の自分なら、そう言うだろう。
その「前世の自分」は、もういない。過労で倒れた会社員。三十代になっても仕事を断れず、休むことに罪悪感を抱いていた人間。
その人間の記憶が、十一歳のマルフォイの中にある。
私はスプーンを握り直した。
今日から授業が始まる。魔法使いの学校で学ぶことに興味がないわけではない。ただ、身体の奥にはドラコ・マルフォイとしての記憶がある。先生に何を期待されているか、家名を背負うとはどういうことか、何となく分かってしまう。
そして、映画で見た場面の記憶もある。
曖昧で、頼りなくて、ところどころ抜け落ちた記憶だ。けれど、ハリーとロンが授業に遅れる場面を見た気がする。マクゴナガル先生の厳しい顔。あわてて教室に入る二人。
私は席を立った。
そのとき、食堂の向こうにハリーとロンの姿が見えた。二人は朝食を急いで済ませながら、手元の時間割を見比べている。ロンが何かを言い、ハリーが慌てたように立ち上がった。
「行かないの?」隣の少年が訊く。
「行くわ。授業に遅れるのは嫌だもの」
そう答えたものの、二人の後ろ姿を気にしながら、私は大広間を出た。
教室の場所は、廊下を二つ曲がった先だった。壁に掲げられた肖像画が、私たちをじっと見ている。階段は、さっき通ったときと向きが変わっているように見えた。
この城の廊下は、映画で見たよりずっと複雑だ。
教室に入ると、すでに生徒たちが集まっていた。前方の教卓には、一匹の猫が座っている。目の周りには、眼鏡をかけているような模様があった。
先生の姿は見当たらない。
生徒たちは席につき、教科書やノートを机に並べていた。斜め前には、ふわりと広がった茶色の髪の少女がいる。彼女はノートを開き、羽根ペンを手に、黒板に書かれた内容を一つずつ書き留めていた。
その姿を見て、私は映画の記憶を探った。
ハーマイオニー・グレンジャー。ハリーとロンの友人。勉強が得意で、二人を助けることが多い。
まだ本人と話したことはない。けれど、彼女の名前と顔は知っている。
私は教室を見回した。教卓にいる猫は、まばたきひとつせず、こちらを見ている。あの模様、あの座り方。頭の奥で、映画の一場面がぼんやり形をとった。
もしかして、あれは――。
その直後、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。扉が開き、ハリーとロンが息を切らして駆け込んでくる。
二人は教室を見渡し、先生の姿が見えないのを確認したようだった。張り詰めていた肩が、わずかに下がる。
「間に合った……のかな」
ロンが小声で言う。ハリーも、ほっとしたように息をついた。
教卓の猫が、するりと床に飛び降りる。
次の瞬間、猫の姿が人影へ変わった。黒いローブをまとったマクゴナガル先生が、二人の目の前に立っていた。
ハリーとロンの表情から、安堵が消える。
私は映画の記憶が当たったことに驚きながら、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「遅刻です」
先生の声は大きくなかった。むしろ静かだった。けれど、その一言で教室はしんと静まり返った。
ハリーが事情を説明しようとする。ロンも続けて口を開いたが、マクゴナガル先生は二人に席につくよう告げた。初めての教室に迷ったこと、時間に余裕を持つ必要があることを、落ち着いた口調で指摘していく。
それから、マクゴナガル先生は出席を取り始めた。
「ハーマイオニー・グレンジャー」
斜め前の少女が、はっきりと返事をした。
教室のあちこちで、小さな笑いが起きた。
スリザリン生のひとりが、私の方を見て口元をゆるめた。笑うことを期待されている。マルフォイ家の子どもなら、グリフィンドールの二人をからかうのが自然だとでもいうように。
けれど、笑い声を聞いたとき、別の光景が浮かんだ。
会議室の長机。上司の前に立たされ、書類の不備を順番に指摘される自分。周囲は誰も口を挟まない。間違えたのは自分だから、黙って聞くしかないと思っていた。
――次は気をつけろ。何度も言わせるな。
前世の記憶の声が、耳の奥によみがえった。
ハリーとロンの頬が赤くなっていた。ロンは机の上に視線を落とし、ハリーは先生の話を聞きながら、唇を結んでいる。
私は、笑わなかった。
授業が始まり、マクゴナガル先生は変身術について説明した。教卓の上の物が別の形に変わること。魔法を使うには集中が必要で、見た目だけをまねても本当の変身にはならないこと。先生の説明は簡潔で、黒板に書かれる図も整っていた。
私はノートを取りながら、ときどきハーマイオニーの手元を見た。彼女は先生の言葉を漏らさず書き留めている。前世で会議の議事録を取っていたころの自分より、ずっと熱心だ。
ハリーとロンは、どうやら途中から授業に追いつこうとしているらしい。ハーマイオニーは自分のノートを少し彼らの方へ向けた。二人が見られるようにしているのだろう。
授業が終わると、ハリーとロンは急いでノートを片づけた。ハリーが礼を言いかけたところへ、ハーマイオニーが振り返る。
「最初の説明を聞き逃してしまったでしょう。ここに書いておいたわ」
彼女はノートの一部を指さした。
「助かるよ」とハリーが言った。
「道に迷うなんて、最初に道を確認しておけば防げたのに」とハーマイオニーは付け足した。「次からは、余裕を持って出たほうがいいわ」
親切なのか、注意なのか。両方なのだろう。
ロンが少し困ったような顔をした。ハリーはノートを見て、素直に礼を言う。ハーマイオニーは満足したようにうなずき、教科書を抱えて先に出ていった。
私は三人のやりとりを見ていた。
彼女は、ハリーとロンのためにノートを取っていたのかもしれない。まじめで、少しおせっかいで、でも放っておけない性格。映画で見た印象と同じだった。
「マルフォイ、行こうぜ」
同級生に呼ばれ、私は立ち上がった。
次は地下の教室だった。魔法薬学。スネイプ先生の授業だ。
映画の場面が、記憶の底から浮かび上がる。黒いローブの先生。ハリーにいくつもの質問をする声。答えられないハリー。知っているはずなのに、どの質問だったかは思い出せない。
記憶は、予告のように断片的だった。続きが分かっている気がするのに、必要なところが抜けている。
地下の教室は、薬草や薬品の匂いがした。冷たい石壁に、瓶がいくつも並んでいる。ハリーとロンは後ろの方に座った。ハーマイオニーはその近くに座り、もう教科書を開いている。
私はスリザリン生たちと並んで前方に座った。
スネイプ先生が教室に入ると、ざわめきが消えた。彼は生徒たちを一瞥し、説明を始める。教科書の章を開くよう指示され、授業の目的と、魔法薬を扱うときに何を誤ると危険なのかを告げられた。
その声を聞いているうちに、私は背筋を伸ばしていた。
会社の上司の声と似ているわけではない。だが、部屋にいる全員が、次に誰が指名されるかを恐れている空気はよく知っていた。
会議で資料のミスを見つけられると、上司は担当者の名前を呼ぶ。その人が説明している間、周りは自分が次に呼ばれないよう、目の前の紙を見つめる。助け舟を出す者はいない。間違えた人をかばうより、自分が無難にやり過ごすことが優先だった。
ハリーの名前が呼ばれると、教室中の目が彼に集まった。
スネイプ先生は、教科書の内容について質問した。薬草の名前と、ある材料の働き。知識を確かめるというより、ハリーが答えられるかどうかを試すような問い方だった。
ハリーは黙った。
ハーマイオニーの手が勢いよく上がった。彼女は答えを知っているらしい。けれど、スネイプ先生は彼女を当てず、ハリーに答えるよう促し続けた。
彼の表情が硬くなっていく。
私は、その場面を見たことがある気がした。映画の中で、ハリーが追い詰められていく場面。先生の問いに答えられず、周囲から見られ、何も知らない生徒のように扱われる。
知っているはずなのに、次に何を言われるかは思い出せない。
答えられないハリーを見て、スリザリンの席から小さな笑い声が起きた。隣の生徒が、私の方を向く。
ここで笑えば、マルフォイ家の子らしく見える。先生にも、同級生にも、期待された役割を果たしたことになる。
笑わなければ、変わった子だと思われるかもしれない。
それでも、私は口を開けなかった。
スネイプ先生がハリーを厳しい口調で責める。ハリーの耳が赤くなった。ロンは机の下で手を握りしめている。ハーマイオニーは挙げた手を下ろさないまま、納得できない顔で前を見ていた。
私は、膝の上で指を握った。
前世の会議室で、上司が同僚を責めていたときも、私は何も言えなかった。違うと思っていても、口を挟めば自分まで標的になる。そんな事を考えて、何度も黙っていた。
ここで声を出しても、ハリーを救えるとは限らない。スネイプ先生に目をつけられるかもしれない。マルフォイ家の娘として、スリザリンの同級生にも不審がられるかもしれない。
いや。
それは、前世の私が「自分が困るから」と黙っていたときの理屈と、よく似ている。
授業は、何事もなかったように続いた。
スネイプ先生が生徒たちに薬品の扱いを説明し、作業に取りかかるよう指示する。私は、魔法薬の作り方を知らない。けれどマルフォイとしての記憶の奥から、父が屋敷で話していた材料の名や、母が薬草を扱っていた場面が浮かんだ。
知識は断片的だが、まったくの白紙ではない。銀の匙で粉をすくい、指示された分量を量る。周囲を見ながら、慎重に手を動かした。
ハリーは自分の鍋を見つめ、手順を確認している。ロンは材料を取り違えかけて、ハーマイオニーに小声で注意されていた。
私は、思わず二人の作業を見た。
ハーマイオニーは手際がよかった。間違いに気づくとすぐ直し、教科書の記述を確かめてから、ロンに必要な箇所を伝えている。彼女は自分だけ正しくできればいい、という顔をしていなかった。
そういう人もいるのだ。
前世の会社では、誰かの仕事が遅れているとき、手伝うよりも「自分の担当ではない」と線を引く人が多かった。それが悪いとは言い切れない。みんな余裕がなかったのだから。
けれど、ハーマイオニーは自分の作業をしながら、ロンの間違いまで気にしている。
純血かどうかなんて、彼女は気にしていないように見えた。
授業の終わりを告げられると、ハリーは道具を片づけ、何も言わずに教室を出ていこうとした。ロンもそのあとに続いた。
「ポッター」
呼びかけようとして、私はやめた。
何を言うつもりだったのだろう。「気にすることないわ」? 「先生の言い方はひどかった」? どれも、今の私には自然に言えそうになかった。
「マルフォイ、君の調合は悪くなかった」
スネイプ先生が、私の鍋を見て言った。
「ありがとうございます」
胸の中に、ほっとする気持ちが生まれた。先生に認められた。父に伝えれば、きっと褒められる。マルフォイ家の娘として、期待に応えられた。
同時に、別の感情も湧いた。
どうして、ハリーには同じように言わないのだろう。
認められたことが嬉しいのに、それを素直に喜べない。私の中に、マルフォイの記憶と会社員の記憶が並んで立っていた。前者は評価を得たことを誇らしく思い、後者は、誰かが不当に責められているのを見過ごしたことに胸を痛めている。
廊下に出ると、ハリーとロンは少し先を歩いていた。ハーマイオニーが二人に追いつき、何かを話している。二人はどちらも、うんざりしたような顔をしていたが、彼女の言葉を聞いていた。
私は三人に近づきかけた。けれど、後ろからスリザリンの同級生が肩を並べる。
「ポッターは初日から先生に目をつけられたな」
「そうみたいね」
「マルフォイもそう思うだろ?」
返事を求められて、私は言葉に詰まった。
そのとき、ハリーが振り返った。彼と目が合う。汽車の中で席を譲ったときと同じ、何を考えているのか測りかねている目だった。
私は、「さあ、どうかしら」と一言呟いた。
ハリーは驚いたように目を瞬かせ、それから前を向いた。
何かを伝えたわけではない。謝罪でも、励ましでもない。けれど、笑わなかった。彼をからかう言葉にも、同調しなかった。
それだけのことで、心臓が妙に速くなった。
次の授業の教室へ向かう途中、ハーマイオニーがこちらを見た。彼女は、さっきから私の視線に気づいていたらしい。
「あなた、ドラコ・マルフォイよね?」
「そうだけど」
「私はハーマイオニー・グレンジャー。今朝は遅刻しなかったわ」
自己紹介のあとにその一言を付け足すあたり、少しだけ扱いにくそうな子だ。
「そう。よかったわね」
「あなた、ハリーたちのことを見ていたでしょう」
「見ていただけよ」
「そう。なら、いいけど」
彼女はそれ以上追及せず、ハリーたちのあとを追っていった。
私は、その背中を見送った。
彼女はハリーを助けた。私は助けられなかった。それでも、教室で笑わず、廊下でも同調しなかった。ただ、それだけの小さなことだ。何かを変えたと言えるほどではない。
だが、会社員だったころの私は、小さな選択さえ他人の顔色をうかがっていた。マルフォイとしての私は、家の名にふさわしい選択をするよう教えられている。
ならば、今日の小さな沈黙は、昨日までとは違う沈黙だったのかもしれない。
ただ怖くて黙ったのではなく、何を言うかを考えて、言葉を選び直した沈黙。
それが一歩になるのか、ただの自己満足なのかは分からない。
「授業、次はどこだっけ」
私が時間割を見ていると、ハーマイオニーが少し離れた場所から答えた。
「魔法史よ。階段を上がって、廊下を右。迷わないように気をつけてね」
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は少し意外そうな顔をしたが、すぐにまた前を向いた。
魔法の知識も、友情の作り方も、未来の出来事も、まだ何もかもが曖昧だ。映画の記憶はところどころ欠けているし、マルフォイとしての記憶は、私の考えを勝手に導こうとする。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
今度の私は、誰かに決められた役を、何も考えず演じる必要はない。
ハリーに近づきたいと思うなら、その気持ちをすぐに打ち消さなくていい。マルフォイ家の娘であることも、前世で疲れ果てた会社員だったことも、どちらかを捨てなければならないわけではない。
まだ、どう生きればいいのかは分からない。
分からないから、少しずつ選んでいく。
階段を上がると、ハリーたちの姿が見えた。ロンはハーマイオニーの説明に何か言い返し、ハリーは二人を交互に見て笑っている。
その輪の中に入るには、まだ勇気が足りなかった。
でも、いつか。
私はそう思いながら、三人の少し後ろを歩いた。