魔法史の授業は、長く感じた。
ビンズ先生の声は、暖炉の前で聞く子守歌に似ていた。
黒板に書かれる年号をノートに写しながら、私は何度もまぶたが重くなるのをこらえた。
前世の会社で、眠気と戦いながら会議の議事録を取っていたときのことを思い出す。
また、同じようなことをしている。
ただし、今回は空を飛ぶ幽霊の先生がいる。
授業が終わると、私はハーマイオニーに教えてもらった道順を確かめながら、大広間へ向かった。昼食の席では、朝よりも少しだけ落ち着いて周囲を見渡せ、スリザリンのテーブルからは、グリフィンドールの席がよく見える。
ハリーとロンは、何かを話しながら食事をしていた。ハーマイオニーは二人の向かいで、食べる合間にも本を開いている。
そのとき、大広間の窓からフクロウたちが一斉に飛び込んできた。
羽ばたきと歓声が広がる。手紙や包みが次々と生徒たちの前に落ちた。ロンの前にも、丸めた新聞が届いた。彼はそれを皿の横に置いた。
少し離れた席では、ネビル・ロングボトムが小さな包みを開けていた。
「それ、何?」
近くの生徒に尋ねられ、ネビルは手のひらに載せた球を見せた。透明なガラスの中には、赤い煙が閉じ込められている。
「思い出し玉だよ。忘れ物をすると煙の色が変わるんだ。おばあちゃんが送ってくれたんだ」
ネビルは嬉しそうに、それを光にかざした。
きっと、映画で見た場面だ。
ネビルの思い出し玉。飛行訓練。そして、空に舞うハリー。
映画の記憶は、いつも肝心なところで途切れてしまう。それでも、この先に起きることは、ぼんやり分かる気がした。
「ハリー、これ見てみろよ」
ロンが新聞を広げた。ハリーは身を乗り出し、記事に目を走らせる。やがて、その顔から昼食の楽しげな表情が消えた。
「グリンゴッツの金庫に、何者かが侵入したらしい」
ハリーの声に、私はフォークを止めた。
「でも、何も盗まれなかったって。金庫はその日のうちに空になっていた……」
冷たい石の通路と、重々しい金属の扉が頭に浮かぶ。ハグリッドと一緒に行った金庫。ハリーが初めて魔法界を訪れた日、銀行の奥深くで立ち止まった場所だ。
「七百十三番……」
ハリーが記事にあった数字を読み上げた。
指先に力が入る。
あの金庫からハグリッドが持ち出したのは、小さな包みだったはずだ。中身が何だったかは、すぐには思い出せない。ただ、物語の先につながる大切なものだったことだけは分かる。
映画で見た。けれど、ここで起きていることは映画ではない。
目の前のハリーは、新聞を読んで記事の意味を考えている。私は彼の未来を知っているつもりで、肝心なところを覚えていない。知っていることを伝えるべきなのか。それとも、余計なことを言わずにいるべきなのか。
「ハグリッドと行った金庫だ」
ハリーがロンに話す。
その名前を聞いて、胸の奥がざわついた。私は「やっぱり……」と、ほとんど息のような声で呟いていた。
それ以上に、ハリーが誰かと秘密を共有している様子がまぶしく見えた。
私もいつか、あの輪の中に入れるだろうか。
ネビルは思い出し玉をローブのポケットにしまった。何度もポケットの位置を確かめている。落とさないか、心配なのだろう。
午後、私たちは屋外の広場に集められた。
ホーチ先生が箒を一列に並べ、まずは地面から浮かせる練習をすると説明した。私は箒の柄を見つめる。
「上がれ」
唱えると、箒は少し震えたあと、私の手のひらへ飛び込んできた。
隣では、ハリーの箒もすぐに応じている。ロンは何度か失敗し、ハーマイオニーは成功すると小さくうなずいた。ネビルの箒は、なかなか動かなかった。
やがて、全員が箒にまたがる。合図があったら少し浮き、静かに着地する。それだけの練習のはずだった。
ところが、ホーチ先生が笛を吹く前に、ネビルの箒が急に跳ね上がった。
「ネビル!」
彼の身体が浮き上がり、箒は制御を失ったように高く昇っていく。ホーチ先生の声が広場に響いた。生徒たちは立ち尽くし、誰も近づけない。
ネビルは空中で揺れたあと、箒から手を滑らせた。
地面に落ちた彼は、苦痛に顔をゆがめて腕を抱えた。ホーチ先生が駆け寄り、怪我の具合を確かめる。
「みんな、箒から降りて。その場で待っていなさい。誰も飛んではいけません」
先生はネビルの肩を支え、医務室へ連れて行った。
ホーチ先生の姿が見えなくなると、広場には落ち着かない沈黙が残った。芝生の上に、思い出し玉が転がっている。
私はそれを拾い上げた。透明な球の中で、赤い煙がゆっくり渦巻いている。しばらくぼんやり眺めていて、はっと我に返った。
「ネビルに返さないと」
そう呟いたとき、近くにいたスリザリンの男子生徒が笑った。
「この思い出し玉さえあれば、しりもちの付き方くらい思い出せただろうに」
私は彼をにらんだ。
「やめなさい。ネビルは怪我をしたのよ」
「ずいぶん肩を持つんだな、マルフォイ」
彼はそう言って、私の手から思い出し玉を取り上げた。
「返して」
手を伸ばしたが、彼は応じず、赤い球を高く放り投げた。
思い出し玉が、青空へ向かって弧を描く。
ハリーが反射的に箒へまたがり、地面を蹴った。
そのとき、ネビルを医務室へ送り届けたホーチ先生が広場に戻ってきた。
「ポッター! すぐに降りなさい!」
先生の声が響く。それでもハリーは空中で箒を操り、落ちてくる思い出し玉へ手を伸ばした。危なっかしい軌道のあと、彼は球をしっかりつかんだ。
地面に降りたハリーは、ホーチ先生の前で足を止めた。
「飛んではいけないと言ったはずです」
「ロングボトムの思い出し玉が投げられたので、取り戻そうとしました」
ハリーは思い出し玉を握ったまま、私の方へ向き直る。
「ネビルに返しておいてくれる?」
私はうなずき、差し出された球を受け取った。ハリーの指先が一瞬だけ触れる。思い出し玉のガラスは、ひんやりしていた。
「ポッター、あなたは私と一緒に来なさい。マクゴナガル先生に報告します」
ホーチ先生はハリーを連れて、城へ向かった。
彼は、怒られるかもしれないと分かっていても、ネビルのために飛んだ。
私はその背中を見送った。前世の私なら、無謀だと片づけたかもしれない。余計なことをすれば自分が困る。目立てば面倒になる。そう言い聞かせて、誰かの困りごとから目をそらしたことが何度もあった。
でも、ハリーは飛んだ。
思い出し玉を握る手に、少し力がこもる。
さっき私が「返して」と言ったのを、彼は聞いていたのだろうか。分からない。それでも、玉を私に預けてくれた。そのことが、ほんの少し嬉しかった。
ハグリッドが持ち出した包みのことも、七百十三番の金庫のことも、頭の片隅に残っている。何かが始まっている。映画の筋書きに似ているのに、少しずつ違う。
そして、その違いを作るのは、私の小さな選択なのかもしれない。
私はネビルに思い出し玉を返すため、医務室へ向かって歩き出した。