医務室の扉を開けると、薬草の匂いが鼻をついた。
白いベッドの上で、ネビルが右腕をかばうように横になっている。ポンフリー先生が、その腕の手当てをしていた。
「あの……ロングボトム」
私が声をかけると、ネビルがこちらを向いた。
「マルフォイ? どうしたの?」
「これ、あなたの思い出し玉、ハリーから預かったの」
差し出すと、ネビルは驚いたように目を丸くした。それから、両手で大切そうに受け取る。
「ありがとう、落としたことにも気づかなかったよ」
「怪我は大丈夫?」
「うん。腕をひねったみたいだけど、ポンフリー先生が治してくれるって」
ポンフリー先生は、包帯を巻いた腕を確かめながらうなずいた。
「しばらく安静にしていれば治ります。今日はもう、授業には戻らないこと」
ネビルは小さくうなずいた。思い出し玉を握る手に、少し力がこもっている。
「ポッターは?」
彼は、私の後ろを気にするように尋ねた。
「ホーチ先生が、マクゴナガル先生のところへ連れていったわ」
「怒られるかな……。僕のせいで飛んだのに」
「あなたのせいじゃないわ。あの玉を投げたのは、別の人よ」
そう答えてから、私は言葉を探した。ハリーが怒られるのかどうか、私には分からない。映画で見た場面の先を、きちんと思い出せなかった。
「でも、ハリーは自分で飛ぶと決めたのよ」
ネビルはうつむいた。赤い煙が、透明な球の中でゆっくり揺れている。
「僕、いつも誰かに助けてもらってばかりだ」
「そんなことないわ。誰だって、困ったときは誰かに助けてもらうものよ」
言ってから、自分の声が思ったより強く響いたことに気づいた。
ネビルが顔を上げ、私を見た。
その言葉は、前世の私が誰かに言ってほしかったものに似ていた。
困っている人を見ても、余計な仕事を増やしたくなくて知らないふりをした。誰かが責められていても、自分まで巻き込まれたくなくて黙っていた。そんな後悔を、今度こそ少しずつ変えられるだろうか。
「……うん。ありがとう」
「どういたしまして」
ネビルは、ぎこちなく笑った。
ネビルに別れを告げ、私は医務室を出た。ハリーがどうなったのか気になったけれど、マクゴナガル先生のところへ押しかけるわけにもいかない。
廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから生徒たちの声が聞こえた。
「ポッターがシーカーに選ばれたって!」
「一年生なのに?」
「ホーチ先生の報告を聞いたマクゴナガル先生が、シーカーに選んだらしいよ」
思わず足が止まった。
記憶が、断片的によみがえる。ハリーが箒で空を飛び、ボールをつかむ姿。グリフィンドールのチームに加わり、試合に出る姿。
私はその輪の外から、彼を見ていた。
夕食の席でも、ハリーのシーカー就任の噂は広がっていた。グリフィンドールのテーブルでは、ロンが身を乗り出して何かを話している。ハーマイオニーは呆れたような顔をしながらも、どこか嬉しそうだった。
ハリーは照れくさそうに笑っていた。
おめでとう、と言えばいい。
たったそれだけのことなのに、私はスリザリンのテーブルから立ち上がれなかった。
「マルフォイ」
隣に座っていた男子生徒が、私の視線を追って笑った。
「ずいぶんポッターが気になるみたいだな」
「別に」
「今日もロングボトムをかばっていたし。おまえ、いつからグリフィンドールの味方になったんだ?」
周囲の何人かが、面白がるようにこちらを見た。
喉の奥が、きゅっと縮む。
前世の会社でもそうだった。空気に逆らうな。余計なことを言うな。波風を立てれば、面倒な仕事が増える。
ここでも同じだ。
マルフォイなら、彼らの期待に応えなければならない。純血の家に生まれた娘として、スリザリン生として、ポッターを見下してみせなければ。
でも、それは本当に私の望みなのだろうか。
「ポッターに、思い知らせてやればいい」
男子生徒が言った。
「箒に乗れたくらいで、いい気になっているんだろう。マルフォイから決闘を申し込めば、少しは黙るさ」
「決闘?」
「魔法使い同士の決闘だよ。怖いのか?」
周囲から、くすくすと笑い声が上がる。
怖いに決まっている。
杖を持って呪文を撃ち合うなんて、前世の私には想像もできなかった。けれど、ここで断れば、また笑われる。マルフォイらしくないと、何度も言われる。
私は椅子を引いた。
「分かったわ」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
男子生徒の笑みが深くなる。
「今夜、ポッターに申し込むのか?」
「ええ」
口にした瞬間、胸の奥が冷たくなった。
夕食のあと、廊下でハリーたちの姿を見つけた。ロンとハーマイオニーが一緒にいる。二人は何かを言い合っていて、ハリーはその間に立って困ったように笑っていた。
私が近づくと、会話が止まった。
「マルフォイ、何か用?」
ハリーが尋ねる。
おめでとう、と言いたかった。
さっきの飛行訓練、すごかったわ。そう言えたら、どれだけよかっただろう。
けれど、背後にはスリザリンの生徒たちがいる。彼らの視線を感じる。ここで弱気になれば、明日から何を言われるか分からない。
「ポッター。あなたに話があるの」
「なに? どうしたの?」
私は息を吸った。
「今夜、真夜中に決闘よ。場所はトロフィー室」
ロンが眉をひそめた。ハーマイオニーの顔から、驚きが消えていく。
ハリーは、私をじっと見つめた。
「決闘?」
「そうよ。受けるの?」
胸が痛む。これは本当に、私が望んだことなのだろうか。
ハリーは少しだけ黙ったあと、うなずいた。
「分かった。行くよ」
その言葉に、スリザリンの男子生徒が満足そうに笑った。
私は笑い返せなかった。
真夜中になったら、どうするつもりなのだろう。ハリーと杖を向け合うのか。それとも、何とかして本当のことを話すのか。
彼と友達になりたい。
その気持ちを、決闘の約束で覆い隠してしまった。
夜の訪れが、急に怖くなった。