夜が深まるにつれ、胸の奥の重さは増していった。
真夜中にトロフィー室で決闘。自分で言い出した約束なのに、私はベッドの中で何度も寝返りを打っていた。
杖を向け合うハリーの姿が浮かぶ。
あのとき、彼は断ることもできた。それでも、私の挑発を受け入れた。ネビルの思い出し玉を取り戻すために空を飛んだ彼なら、今夜も逃げずに来るだろう。
だからこそ、行かなければならない。
謝るにしても、約束を破るにしても、本人に伝えなくては。
私はベッドから起き上がり、ローブを羽織った。同室の生徒たちを起こさないよう、音を立てずに談話室を抜ける。
石段を上がった先の廊下で、壁にもたれて待つ人影があった。昼間、決闘をけしかけてきた男子生徒だ。
「本当に来たんだな」
「来たわ。でも、決闘はしない」
彼の笑顔が消えた。
「何を言ってる?」
「ポッターと戦う気はないの。約束を取り消す」
「ここまで大勢の前で言っておいて?」
彼は声をひそめたが、その目は笑っていなかった。
「おまえはマルフォイだろう。決闘を前にして、尻込みするつもりか?」
私は一度、深く息を吸った。
「私は……あなたの期待に応えるために来たんじゃない」
声が震えた。
男子生徒の顔を見ることができず、私は足元を見つめた。それでも、言葉を取り消すつもりはなかった。
「お前、本当にマルフォイ家の人間か?」
男子生徒は鼻を鳴らした。
「ふんっ。好きにしろよ」
彼は踵を返し、暗い廊下へ消えていった。
トロフィー室の扉を開くと、磨かれた金銀の杯が月明かりを受けて光っていた。ハリーとロンが部屋の奥に立っている。少し離れたところには、ハーマイオニーもいた。
「あなたたち、何を考えているの? 真夜中に決闘なんて、先生に見つかったらどうなるか分かってるの?」
「ハーマイオニーが止めるって言うから、ロンも来たんだ」
ハリーは肩をすくめた。
「僕だけで来るより、みんなで話した方がいいと思って」
「決闘をするつもりはないわ」
私はハリーを見た。
「ごめんなさい。昼間は、周りに煽られて……あなたと戦いたいわけじゃないの」
ロンが目を見開いた。
「じゃあ、どうして決闘を申し込んだんだよ?」
答えようとして、言葉に詰まった。
怖かったからだ。仲間の期待を裏切るのが。マルフォイらしくないと思われるのが。
それを説明して、分かってもらえるだろうか。
「自分でも、うまく説明できない。でも、あなたと戦いたいわけじゃなかった」
ロンがハリーの方を向いた。
「ハリー、本当にマルフォイを信用するのか?」
ハリーはすぐには答えなかった。少し考えてから、私に視線を戻す。
「まだ分からない。でも、決闘をやめるって言ったのは聞いた」
そう言って、ハリーは握っていた杖を少し下げた。彼が何を考えているのか、表情からは読み取れなかった。
そのとき、廊下の向こうから重い足音が響いた。
「誰かいるのか?」
フィルチの声だ。
ハーマイオニーの顔色が変わる。
「見回りよ。早く隠れて!」
私たちはトロフィー室を飛び出した。廊下を走り、角を曲がる。フィルチの足音が近づいてくるたび、ハーマイオニーが小声で道を選んだ。
やがて、見覚えのない廊下に行き当たった。壁の奥に、大きな扉がひとつある。
「ここに入ろう」
ロンが扉を押した。鍵はかかっていなかった。
中は暗く、ほこりっぽい。私たちは息をひそめ、外の足音が遠ざかるのを待った。
そのとき、部屋の奥から低い唸り声が聞こえた。
ひとつではない。
私はハリーを見た。彼も、何かに気づいたように顔をこわばらせている。
暗がりの中で、巨大な影が動いた。廊下から差し込む光が、三つの頭をかすかに照らす。
「……出よう」
ハリーがかすれた声で言った。
今度は、誰も反対しなかった。
唸り声に押されるように、私たちは扉の方へ後ずさった。
三つの頭を持つ犬は、部屋の中央から動かない。けれど、三組の目は私たちを逃がすまいと見据えていた。首輪から伸びた鎖が床をこすり、金属音を立てる。
「急いで」
ハーマイオニーが囁いた。
ロンが扉に手をかけたとき、犬の中央の頭が大きく吠えた。空気が震え、ロンは飛び上がって扉に肩をぶつける。
「ロン、早く!」
ハリーが彼のローブを引っ張った。私も扉の隙間から廊下へ滑り出る。最後に出たハーマイオニーが、音を立てないよう扉を閉めた。
犬の唸り声が、扉の向こうにこもっている。
全員が壁に寄り、しばらく息を整えた。その場には、フィルチのランプの光も足音もなかった。
「今の、何なの……?」
ハーマイオニーが声を震わせる。
「三つ頭の犬だよ」
「見れば分かるわよ!」
ロンが言い返しかけ、すぐに口を閉じた。まだ扉の向こうから、低い唸り声が聞こえている。
私は、さっき犬が立っていた場所を思い返した。あの巨体は、部屋の中央にある何かを覆い隠すように動かなかった。
「犬は、何かを守っているんだと思う」
「何かって?」
ハリーが尋ねる。
「分からない。でも、あの犬は部屋の真ん中から動かなかった。床に何かあったのかもしれない」
ハリーは扉を見つめた。ロンも、さっきまでの恐怖を忘れたように眉を寄せる。
「確かめに戻るのはなしよ」
ハーマイオニーがきっぱり言った。
「もちろんだ」
ロンは答えたものの、扉から目を離さなかった。
私たちは来た道を引き返した。途中でフィルチに見つからないよう、曲がり角のたびに足を止めて耳を澄ます。やがて廊下の先に、ランプの光が揺れた。フィルチがまだ近くにいる。
私たちは柱の陰に身を寄せ、彼が通り過ぎるのを待った。フィルチはぶつぶつと文句を言いながら、反対側の廊下へ歩いていく。足音が遠ざかってから、ようやく動き出した。
寮へ続く廊下に着くと、ハリーが私を見た。
「君って、よく分からないな」
彼は困ったように笑った。
「汽車では親切だったし、ネビルの思い出し玉も返してくれた。でも、今度は決闘だろ?」
「……そうよね。自分でも、そう思う」
「別に怒ってないよ。でも、嫌なら最初から決闘なんて申し込まなきゃよかったのに」
私は返事に迷った。
誰かにこうしろと言われると、断れない。前世の会社でも、周りの期待に逆らうのが怖くて、自分の気持ちを後回しにしていた。
「うん。今度は、自分で考えて決める」
「それならいいよ」
ハリーは少しだけ笑った。
「戻ろう。ここで見つかったら、今度こそ大目玉だ」
「そうね」
私たちは、それぞれの寮へ向かって歩き出した。ハリーとの距離が急に縮まったわけではない。それでも、彼に自分のことを少し分かってもらえた気がした。
寮に戻っても、私はなかなか眠れなかった。
七百十三番金庫。
ハグリッドが持ち出した小さな包み。
そして、三つ頭の犬。
私は布団の中で目を見開いた。
あの犬が守っていたのは、確か……。
「賢者の石……?」
思わず声が漏れた。
その名前を思い出した瞬間、別の記憶までよみがえった。
黒いローブ。暗い森。そして、ハリーの額に刻まれた傷。
物語の筋書き通りなら、石を狙っているのは――。
その先を考えるのが怖くなり、私は布団を頭まで引き上げた。