三つ頭の犬に遭遇した夜から、何日かが過ぎた。
七百十三番金庫から持ち出された包み。犬が守っていた何か。記憶をたどれば、答えは賢者の石のはずだった。
けれど、石を狙うのはターバンを巻いた先生ではなかったか。
「マルフォイ、聞いているか?」
闇の魔術に対する防衛術の教室で呼ばれ、私ははっと顔を上げた。
教壇に立つのは、黒い仮面で顔の上半分を覆ったリドル先生だ。仮面の下から見える肌は青白く、口元はひどく細い。そこからヴォルデモートを連想してしまう自分を、私は何度も戒めていた。
先生は長く教壇に立ってきたベテランだという。けれど、そんな経歴と、目の前にいる人物の不気味な姿が、どうしても結びつかなかった。
「すみません。聞いていませんでした」
教室のあちこちから、くすくすと笑い声が漏れる。
私は頬が熱くなるのを感じた。マルフォイなら、ここで気の利いた言い返しでもするのだろうか。けれど、何も思いつかなかった。
「正直に言えたな」
リドル先生は、私を責めなかった。
「では、今から集中しなさい。授業のあとに、質問があれば残ってもいい」
先生は教壇の上に、小さな真鍮の箱を置いた。蓋には細かな模様が刻まれている。
「今日は、正体の分からない魔法に遭遇したとき、何を優先すべきかを考える。箱に何か仕掛けがあるとして、君たちならどうする?」
すぐに何人かの手が上がった。
「杖で開けます」
「呪文を唱えて、魔法を解きます」
リドル先生は、一人ずつ答えを聞いた。私は、箱を見つめた。模様の一部がわずかに光っている。何らかの魔法がかかっているのは間違いない。
「マルフォイは?」
先生に促され、私は勢いよく答えた。
「魔法を見破って、解除します」
答えたあとで、自分の声が大きすぎたことに気づいた。ほかの生徒たちがこちらを見る。
「どうやって見破る?」
「それは……調べます」
リドル先生は箱を指した。
「では、近づいてみなさい」
私は席を立った。もっともらしく答えた手前、引き下がれない。箱の前まで進み、杖を構える。
「待ちなさい」
先生の声が飛んだ。
私は動きを止めた。
「まず、周囲を見なさい。箱だけを見て、ほかのものを見落としていないか?」
箱の下に、細い影が伸びている。床に刻まれた模様だ。箱を囲むように、淡い線が円を描いていた。
私は杖を構えたまま、教室を見回した。ほかにも何かあるだろうか。焦るほど、視界が狭くなる。
「グレンジャー、どう思う?」
リドル先生が尋ねた。
「箱に触れない方がいいと思います。床の模様が、箱を囲んでいるので。箱にかけられた魔法ではなく、近づいた人を対象にする罠かもしれません」
ハーマイオニーの答えに、何人かが箱を見直した。
私も、床の模様へ視線を落とす。言われてみれば、光っているのは箱ではなく、その周囲の線だった。
「その通りだ」
先生は杖を一振りした。真鍮の箱が、教卓の上から消える。代わりに、床の模様だけが淡く光った。
「魔法を解く前に、まず人を遠ざける。正体を知らないものへ手を伸ばさない。防衛術は、敵を打ち負かすためだけの技術ではない。危険を見極め、自分と周りの者を守るための知識でもある」
先生の声に、冗談めいた響きはなかった。
私は、杖を下ろした。正しい答えを言えなかったことよりも、答えを急いだ自分のほうが恥ずかしかった。マルフォイとして、間違いを認めるのが嫌だったのか。それとも、周りに見られているのが怖かったのか。どちらも、だったのかもしれない。
「マルフォイ」
リドル先生が私を見た。
「君は、魔法を解くことだけを考えていた。間違いではない。ただ、何を守るために魔法を使うのかを忘れないように」
「……はい」
先生はそれ以上、私を責めなかった。
授業の終わりを告げる鐘が鳴った。生徒たちが席を立ち、教室を出ていく。ハリーだけは教壇の近くに残っていた。
「リドル先生」
「何だ、ポッター」
「先生は、僕の父と母をご存じだったんですか?」
先生の指が、手元の本の端で止まった。
「ジェームズとリリーとは、共に戦ったことがあった。」
ハリーは、先生の返事をじっと待っていた。
「どんな人でしたか?」
先生は、すぐには答えなかった。
「ジェームズは、張り詰めた場でも仲間を笑わせるのがうまかった。リリーは、誰かが傷ついていると、立場に関係なく気づく人だったよ」
「先生は、二人と親しかったんですか?」
リドル先生の口元が、かすかに動く。笑ったようにも、何かをこらえたようにも見えた。
「親しかった、と簡単に言っていいかは分からない。私は二人より年上だったし、教師として戦いに加わっていた。彼らと同じ年月を過ごしたわけではない」
先生はそこで、言葉を切った。
「だが、勇敢な人たちだった。君が二人のことを知りたいのなら、また話そう」
「ありがとうございます」
ハリーは少しうつむき、それから小さく頭を下げた。
その横顔を見ていると、私の胸にも、答えの出ない問いが浮かんだ。
目の前のハリーにとっては、会ったことのない父と母だ。その二人を知る人が、今こうして教室にいる。
そして、その人はリドル先生だ。
私の記憶にあるターバンの先生とは違う。ヴォルデモートのように見える顔を仮面で隠しながら、ハリーの両親を悼むように話している。
「マルフォイも、何か聞きたいことがあるのか?」
リドル先生に声をかけられ、私は返事に詰まった。
聞きたいことは、いくつもあった。
どうして仮面をつけているのか。どうしてその顔が、ヴォルデモートを思い出させるのか。どうして、私の知っている物語とこの世界の歴史は違うのか。
けれど、どれも口にできなかった。
「……いいえ。授業のことなら、もう大丈夫です」
「そうか」
先生は、それ以上尋ねなかった。
教室を出ると、ハリーが少し先で待っていた。私が追いつくと、彼は歩きながら言った。
「リドル先生のこと、ずっと見てたね」
「そう見えた?」
「うん。先生のことが気になるの?」
「分からない。ただ、私の知っている話と違うことばかりだから」
「僕もだよ」
ハリーは、教室の方を振り返った。
「先生は父さんと母さんを知っている。なのに、僕は二人のことをほとんど知らないんだ」
返事を探しているうちに、ハリーは廊下の角を曲がっていった。
私はもう一度、教室の扉を振り返った。
中から、リドル先生が本を閉じる音が聞こえた。
あの先生は、何を知っているのだろう。ハリーの両親について。仮面の下にある顔について。そして、この世界で起きた、私の知らない出来事について。
映画の記憶は、あまりに頼りない。
それでも、あの先生をヴォルデモートと同じだと決めつけることはできなかった。今日の授業で、彼は危険を避ける方法を教え、生徒の答えを待ち、ハリーの両親を懐かしむように語った。
仮面の奥に、私の知る悪役とは違う何かがある。
そのことが、かえって不安だった。