呪文学の教室に、羽根が浮かぶたび歓声とため息が交じった。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサよ。最後の音を少し伸ばすの」
ハーマイオニーがロンに説明する。ロンはもう一度杖を振ったが、羽根は机の上でぴくりともしなかった。
「分かったよ。君は何でも知ってるんだな」
ロンは苛立った声で言った。
「聞いているだけで疲れるよ」
その声は、教室を出ようとしていたハーマイオニーにも届いた。彼女は足を止めたが、振り向かずに廊下へ出ていった。
ロンはすぐに友人たちの輪へ戻った。誰も、彼女を追いかけようとはしない。
私は鞄を持ち直した。声をかけるべきだろうか。ハーマイオニーとは、まだ親しいわけではない。マルフォイ家の娘が、マグルを慰めに行くなんて、スリザリンの仲間に見られたら何を言われるか分からない。
それでも、あんな言葉を聞いたまま、知らない顔をしていたくなかった。
女子トイレの扉を押すと、奥の個室から小さなすすり泣きが聞こえた。
「ハーマイオニー?」
返事はなかった。
「入ってもいい?」
「……どうして、笑いに来たの?」
個室の向こうから、警戒した声が返ってきた。
「さっきのことが聞こえたの。気になって」
少し間があったあと、個室の扉が開いた。ハーマイオニーは赤くなった目を伏せている。
「ロンは、悪気があって言ったわけじゃないと思う」
「そうかもしれないね」
私は、彼女の隣の洗面台に腰を預けた。
「でも、悪気がなければ傷つかない、ということでもないでしょう?」
ハーマイオニーは答えなかった。涙を拭う手が、少しだけ止まる。
「私、ここで一人で食事をすることになっても平気よ」
「そう」
「本当に平気なの」
強がりだと、すぐに分かった。けれど、私はその言葉を否定しなかった。
「食堂に戻るね。ここにいたいなら、無理に連れ出したりしないから」
扉へ向かうと、背後でハーマイオニーが小さく言った。
「……ありがとう」
振り返ると、彼女はまだ私を見ていなかった。
「どういたしまして」
それ以上は何も言わず、私は大広間へ戻った。
*
ハロウィーンの宴は、天井に浮かぶ蝙蝠と、燭台の代わりに飾られたカボチャで賑やかに彩られていた。食卓には料理が並び、生徒たちの笑い声が響く。
けれど、私の向かいの席は空いたままだった。ハーマイオニーは戻ってきていない。
宴が始まってしばらくした頃、大広間の扉が勢いよく開いた。
リドル先生が入ってきた。黒い仮面の下からのぞく青白い肌に、蝋燭の光が淡く映る。先生は息を整えると、広間を見渡した。
「地下室にトロールが侵入した。慌てず、各寮の監督生の指示に従って寮へ戻りなさい。教師たちは捜索に向かう」
ざわめきが広がった。リドル先生は杖を掲げ、声を張る。
「走らないこと。友人を押したり、列を離れたりしないように」
その声には、動揺を抑えようとする力強さがあった。マクゴナガル先生とスネイプ先生が、リドル先生の後ろから大広間を出ていく。
生徒たちは監督生に促され、寮ごとに列を作った。私はスリザリンの列に加わったが、グリフィンドール生の方で小さな声が聞こえた。
「ハーマイオニーがいない」
ハリーの声だった。
「探さないと、ハーマイオニーが危ない!」
ロンも慌てている。
二人は監督生の目を盗み、列から抜け出した。
ハーマイオニーは、まだあのトイレにいる。
私は一歩を踏み出しかけた。スリザリンの生徒たちは、すでに廊下の向こうへ進んでいる。列を外れれば、叱られるかもしれない。けれど、ハリーたちが向かった先は、トロールのいる地下室ではない。彼女のいる女子トイレだ。
誰かが止める前に、私は二人の後を追った。
*
女子トイレの入口から、何かが砕ける音が響いた。
「ハーマイオニー!」
ハリーが叫んだ。
中では、巨大なトロールが棍棒を振り回していた。洗面台が砕け、陶器の破片が床を跳ねる。ハーマイオニーは個室の陰で身を縮めていた。
ハリーはためらわず、トロールへ走り出した。
「こっちだ!」
棍棒が彼の頭上を通り過ぎる。ハリーは床を転がり、トロールの注意を引きつけた。
私は杖を握った。
正体の分からない危険に出会ったら、まず人を遠ざける。リドル先生の授業で聞いた言葉がよみがえる。けれど、何の呪文を唱えればいいのか分からなかった。頭の中が真っ白になり、杖先は震えるばかりだった。
トロールが、個室の陰にいるハーマイオニーへ向き直る。
「こっちへ!」
私は駆け寄り、彼女の腕をつかんで洗面台の陰へ引いた。直後、棍棒が個室の仕切りを叩き壊す。木片と陶器の破片が飛び散り、頬に鋭い痛みが走った。
「マルフォイ、血が……」
「これくらい平気。あなたは?」
「大丈夫」
ハーマイオニーは震えながらも、杖を握り直した。ロンは少し離れた場所で、杖を手に立ち尽くしている。
「ロン、呪文よ!」
ハーマイオニーが叫んだ。
ロンは息をのんで杖を振り上げる。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
トロールの棍棒が、その手から抜けて宙に浮いた。
「そのまま!」
ハーマイオニーの声に、ロンは歯を食いしばって杖を支えた。棍棒がゆっくり傾き、トロールの頭へ落ちる。
鈍い音が響いた。トロールはよろめき、床に崩れ落ちた。
私はようやく息を吐いた。杖を握る手は、まだ震えている。何もできなかったわけではない。けれど、先生のように冷静に危険を見極め、魔法で誰かを守ることはできなかった。
廊下から、急いだ足音が近づいてきた。
「下がりなさい!」
リドル先生がトイレへ駆け込んだ。先生は一瞬で私たちの位置と倒れたトロールを確かめると、迷いなく子どもたちの前に立った。トロールがかすかに身じろぎする。先生の杖先から光が走り、見えない縄がトロールの手足を締め上げた。
「全員、そこを動くな。怪我をした者はいるか?」
先生はトロールから目を離さないまま、私たち一人ひとりを確かめた。私は頬の傷を押さえた。
「少し切っただけです」
「あとでポンフリー先生に診てもらいなさい」
先生はトロールの拘束を確かめるため、ゆっくり近づいた。そのとき、トロールの首筋に、煤をこすりつけたような黒い痕があるのが見えた。皮膚の上に付いた汚れとは違う。細い線が輪を描きかけ、途中で途切れている。
リドル先生の杖先が、わずかに止まった。
「先生、それは……?」
「今は近づかないように」
先生は答えず、杖をかざした。黒い痕が一瞬だけ淡く光り、すぐに消える。仮面の奥の表情は見えなかったが、先生の口元から、先ほどまでの穏やかさが消えていた。
続いてマクゴナガル先生が入ってきた。彼女は倒れたトロールと、私たち四人を見比べる。
「いったい、何があったのです?」
ハーマイオニーは一度、ロンを見た。それから、自分がここにいたこと、一人になりたかったことを話した。ハリーたちが助けに来て、私も彼女をかばったことも。
ロンはうつむいた。
「僕が余計なことを言ったんだ。ごめん」
ハーマイオニーはすぐには答えなかった。それでも、彼を責める言葉は口にしなかった。
マクゴナガル先生から、避難の指示に従わず列を離れたことをあとで話し合うと言われた。リドル先生はその間もトロールのそばを離れず、私たちが安全な場所へ移るまで、杖を構えていた。
あの人は、危険を前にしても迷わず生徒を守れる。
私は、さっき震えていた自分の手を見た。怖かった。それでも、ハーマイオニーを置いて逃げることはできなかった。
仮面の下からのぞく青白い肌と、細い口元。前世の記憶にあるヴォルデモートを思わせる顔。
けれど、リドル先生は私たちを守り、トロールの異変にも気づいていた。
私の知っている「例のあの人」とは、違うのかもしれない。
そう思った自分に、私は少し戸惑った。