ポンフリー先生に頬の傷を診てもらった頃には、医務室の窓の外はすっかり暗くなっていた。
「浅い傷です。跡には残らないでしょう。今日はもう、あまり触らないこと」
薬を塗られ、薄い包帯を貼られる。鏡をのぞくと、右の頬に白いものがちょこんと張りついていた。トロールの棍棒が砕いた個室の破片で切ったらしい。
「ハーマイオニーたちは?」
「もう大丈夫です。あなたも心配するより、自分の傷を気にしなさい」
ポンフリー先生にそう言われ、私は曖昧にうなずいた。
けれど、頭から離れないものは傷だけではなかった。
トロールの首筋にあった、煤のような黒い痕。リドル先生がそれを見たとき、杖先を止めたこと。あの反応は、ただの汚れを見つけた人のものではなかった。
先生は、あの痕について何か知っているのだろうか。
尋ねる間もなく、私たちは別々に医務室へ連れてこられた。今さら戻って聞きに行く気にはなれない。私は包帯の端に触れないよう気をつけながら、スリザリンの談話室へ向かった。
*
石壁の向こうにある談話室は、湖の底から差す緑色の光に満たされていた。
暖炉の前には何人かの生徒が集まり、トロール騒ぎの話をしている。扉が開く音に、彼らの視線が一斉にこちらへ向いた。
「マルフォイ、遅かったな」
昼間、決闘をけしかけてきた男子生徒が、暖炉のそばから声をかけた。
「医務室にいたの」
「ポッターたちと一緒に、女子トイレにいたんだって?」
談話室のざわめきが、少しだけ静かになる。
「ええ。ハーマイオニーが中にいたから」
「それで頬に傷か。ずいぶん親切なんだな」
笑い声がいくつか上がった。大きな声ではない。それでも、私にはよく聞こえた。
「グリフィンドールの味方にでもなったのか?」
彼の問いに、すぐ答えられなかった。
まただ。
周りが期待する答えを返せば、波風は立たない。マルフォイらしい態度を見せれば、ここで浮かずに済む。
そう思う自分が、まだ心の中にいる。
「味方とか、そういう話じゃないわ」
私は包帯に触れないよう、頬の横に手を添えた。
「そこにハーマイオニーがいたから、助けようとしたの。それだけよ」
男子生徒は鼻で笑った。
「ふうん。ずいぶん変わったな」
返す言葉はなかった。私が何を言っても、彼はきっと納得しない。談話室の生徒たちも、誰かが代わりに口を開くのを待っているようだった。
そのとき、暖炉から少し離れた椅子にいた女生徒が立ち上がった。彼女は私のところまで来ると、手にしていたカップを差し出した。
「紅茶。まだ温かいわ」
「ありがとう」
「エレノア・ロウルよ。同じ部屋なのに、こうして話すのは初めてね」
「ドラコ・マルフォイよ」
「知ってるわ」
エレノアは少し笑った。私も、つられて口元をゆるめる。
「傷、痛む?」
「少しだけ」
「そう。無理しないでね」
彼女はそれ以上、何も尋ねなかった。何があったのか、どうしてハーマイオニーを助けたのか。説明を求めることも、私の行動を褒めることもしない。ただ、温かい紅茶を手渡してくれた。
*
皆が寝静まったあとも、私はなかなか眠れなかった。
紅茶の温かさは、指先にまだ残っている。エレノア・ロウル。同じ部屋で過ごしていたのに、私はついさっきまで彼女の名前さえ知らなかった。物語のことばかり気にかけて、すぐそばにいるスリザリン寮の人たちを、まったく見ていなかったのかもしれない。そんなことを考えながら、天蓋の布を見つめる。
前世の会社にも、人はたくさんいた。
朝から晩まで誰かと話し、同じ机を囲み、同じ愚痴をこぼす。それでも、本当に助けてほしいときには何も言えなかった。仕事を押しつけられても断れず、疲れた顔を見せることさえためらった。
ここでも、私は人の輪の中にいる。
けれど、スリザリンの生徒たちが私に求めているのは、私自身ではなく「マルフォイらしさ」なのかもしれない。
純血の家の娘らしく振る舞うこと。周囲と同じ考えを口にすること。
会社では、役に立つ社員でいることを求められていた。ここでは、マルフォイ家の人間であることを求められている。
名前も場所も違うのに、息苦しさはよく似ていた。
私は布団の中で、頬の包帯にそっと触れた。痛みがかすかに走る。
怖かった。トロールを前にしたとき、呪文ひとつ唱えられなかった。それでも、ハーマイオニーを置いて逃げることはできなかった。
それだけは、周りに言われたからではない。私が、自分で選んだことだった。
*
翌朝、大広間はトロール騒ぎの話題で持ちきりだった。
スリザリンのテーブルでは、昨夜の男子生徒が何人かに囲まれて話している。私が席につくと、一瞬だけ会話が途切れた。それから、誰かが別の話を始める。
私は朝食の皿に視線を落とした。
向かいのテーブルでは、ハリーがロンと話していた。少し離れた席にいるハーマイオニーは、包帯に気づいたのか、私の頬を見た。
目が合う。
彼女は、迷うように一度まばたきをしてから、小さく会釈した。
私も会釈を返した。
それだけだった。言葉を交わしたわけでも、昨夜のことを話し合ったわけでもない。
けれど、彼女が私を見て、返事をくれた。
「マルフォイ、ジャムを取って」
エレノアに声をかけられ、私はテーブルの端にある瓶を手渡した。
ここに私の居場所があるのかは、まだ分からない。ハーマイオニーと友達になれるのかも分からない。
それでも、昨夜よりほんの少しだけ、自分の選んだことを信じてみようと思えた。