昔、空から星が落ちてきて、暁浜の海は三日三晩燃えつづけたという。 海が鎮まったあと、浜に打ち上げられた黒い石を村の者たちは山の上に祀った。それが穂村神社のはじまりだと、灯也は祖母から聞かされて育った。 二百年前、遠い土地から三つの家の魔術師がやってきて、その星の眠る土地の底にひとつの杯を埋めていったことは——。 もうこの町で覚えている者はほとんどいない。
一
百八段ある石段の九十段目あたりで穂村灯也(ほむら とうや)は、段ボール箱を抱えなおした。 中身は夏祭り用の提灯が三十個。軽いが、かさばる。おかげで、前がまったく見えない。
「灯也くん、ええよええよ。わしらがあとで運ぶけえ」
下から町内会の長老たちの声がする。三人あわせて二百四十歳の、膝の悪い長老たちだ。
「いいって、いいって。これで最後の箱だから」
灯也は振り向かずに笑って、残りの十八段を一気に駆けあがった。 汗で張りついたTシャツの背中を、海からの風が冷やしていく。夏休みも残り十日。 ポケットの中でスマートフォンが震えた。クラスのグループチャットだ。
〈来週の穂村んちの祭り、今年も行くわ〉
〈焼きそば券よろしく〉
〈穂村、また石段で提灯運ばされてんの?〉
「運ばされてるんじゃなくて、運んでるんだよ」
誰にともなく言い返して、灯也は返信を打たずに画面を消した。
石段を登りきると、鳥居の向こうに小さな境内が広がっている。拝殿と、その奥の本殿。社務所を兼ねた古い母屋。樹齢五百年の楠。 それから、境内の端、海を見下ろす崖っぷちに立つ、背の高い石の灯籠。 常夜灯(じょうやとう)だ。 まだ灯台も電気もなかった時代この灯籠の火を目印にして、船は暁浜の港へ帰ってきたのだという。
灯也は箱を置いて、崖の手すりにもたれた。 夕陽が瀬戸内の海を金色に塗りつぶしていた。島々の影が墨を落としたように黒く浮かんでいる。 右手には本土と沖の島とを結ぶ暁浜大橋。左手の埋立地には新都心の高層ビルが並び、その窓がひとつ、またひとつと灯りはじめていた。向かいの丘のてっぺんでは閉鎖された旧天文台の白いドームが、夕陽を受けて薄紅色に光っている。 灯也はこの時間のこの景色が好きだった。 昼でも夜でもない、町が灯りをつけはじめる時間。
「灯也。ぼーっとしとらんで、はよ火ぃ入れんさい」
背後から声がした。祖母の千鶴(ちづる)が母屋の縁側から顔をのぞかせている。七十八歳。背丈は灯也の胸ほどしかないが、声だけはやたらとよく通る。
「わかってるって」
灯也は常夜灯の前に立った。石の火袋の中には、油を張った皿と灯芯がある。 右手の人さし指を灯芯に向ける。 目を閉じる。背骨の奥に細い線を一本だけ思い描く。その線にそっと熱を流しこむ。
「——灯(とも)れ」
指先にぽ、と小さな火がともった。 マッチ一本分。それが灯也の魔術のすべてだった。 火は灯芯に移って、ゆらゆらと揺れはじめた。
穂村の家はただの神社の家ではない。代々ほんの少しだけ魔術を受け継いできた家だ。 祖母が使うのは、火で結界を張る「守り火」の術。三つの言葉で社をぐるりと火の輪で囲む。 灯れ。巡(めぐ)れ。守(まも)れ。 灯也にできるのはそのうちの最初のひとつだけだった。
「相変わらずマッチ一本分じゃのう」
いつのまにか隣に来ていた祖母が、火袋をのぞきこんで言った。
「……わかってるよ」
「回路の数だけなら、わしよりよっぽど多いんじゃがのう。使い方がへたくそなんじゃ」
「わかってるってば」
灯也は口をとがらせて、火から目をそらした。 ——わかってる。こんな火じゃ何も守れない。
十年前、灯也が六歳の冬。両親の乗った島への連絡船が嵐の夜に沈んだ。 灯也はこの石段に座りこんで、ひと晩じゅう真っ暗な海を見ていた。常夜灯の火がちゃんと沖まで届きますように。それだけを祈りながら。 両親は帰ってこなかった。 暁浜大橋が架けられたのはその三年後だ。 あれからずっと常夜灯に火を入れるのは、灯也の役目になっている。帰ってくる船なんて、もうどこにもないのに。
「ほれ。手ぇ見せてみ」
「え?」
祖母が灯也の右手をつかんだ。 手の甲に赤い痣のようなものが浮いている。今朝起きたときにはもうあった。提灯の針金で引っかいたのだろうと思って、気にしていなかった。 三本の細い線が一点で交わっている。流れ星を三つ束ねたような形だった。 祖母の顔からすっと表情が消えた。
「……ばあちゃん?」
「いつからじゃ」
「今朝から。たぶんどっかで引っかいて——」
「灯也」
祖母は灯也の手を両手で包みこむように握った。皺だらけの手がかすかに震えていた。
「今夜は何があっても、朝まで部屋から出たらいけんよ。本殿にはぜったいに近づきなさんな」
「なんだよ、急に」
「ええから。約束しんさい」
有無を言わせない声だった。灯也はしぶしぶうなずいた。 祖母はそれきり何も言わなかった。ただ、常夜灯の小さな火と、その向こうに広がりはじめた町の灯りとを長いこと見つめていた。
二
その夜、灯也はなかなか寝つけなかった。 右手の痣がじくじくと熱い。窓を開けても、八月の夜気はぬるく、潮の匂いがした。 午後十一時を少し過ぎたころだった。 窓の外で町の灯りがいっせいに瞬いた。 停電ではない。新都心のビルも、大橋のライトアップも、港のクレーンの赤い灯も——すべての灯りがまるで一度だけ大きく息をしたように、ふっと暗くなって、また戻った。 同時に、足の下から低い唸りのようなものが伝わってきた。地震とはちがう。もっと深いところで何か巨大なものが、ゆっくりと寝返りを打ったような。 湾の真ん中で海が一瞬だけ内側から白く光った気がした。
「っ……!」
右手に、焼けた鉄を押しつけられたような痛みが走った。 見ると、痣がはっきりとした形を持っていた。三本の線は鮮やかな赤に染まり、手の甲の上でほのかな光を放っている。
ちりんと、鈴が鳴った。 風はない。拝殿の鈴がひとりでに鳴っている。ちりん、ちりん、ちりん。だんだん速く、激しく。 祖母の結界だ。誰かが境内に入ってきた。 灯也は部屋を飛びだした。祖母の部屋の襖が開いている。布団は空だった。
「ばあちゃん!」
約束のことなど、頭から消えていた。
三
境内が燃えていた。 いや、ちがう。本殿のまわりを、橙色の炎が輪になって囲んでいるのだ。火の輪は地面から腰の高さまで立ちのぼり、渦を巻くように、ゆっくりと回っている。熱いのに、草一本焦がしていない。 守り火。 祖母の魔術を、灯也はこれほどの規模で見たことがなかった。 本殿の前の石段に祖母が正座していた。両手を合わせ、目を閉じ、低い声で何かを唱えつづけている。 そして、火の輪のすぐ外にひとりの男が立っていた。
背の高い男だった。 雪のように白い髪と、血の気のない白い肌。痩せた体には黄金の鎧が、まるで皮膚そのもののように貼りついている。胸の中央には赤い宝石がひとつ、心臓のように埋めこまれていた。 手には男の背丈よりも長い、巨大な槍。 人間ではない、と灯也はひと目でわかった。立っているだけで、まわりの空気が陽炎のように揺らいでいる。夜なのに、男のまわりだけが真昼のように明るい。
「退いてくれ、老婆よ」
男が言った。静かで、抑揚のない声だった。
「オレはその奥にある石を取りに来ただけだ。お前を傷つけるつもりはない」
「ここは穂村の社じゃ」
祖母は目を閉じたまま答えた。
「お社のもんをどこの誰とも知れん異人さんに渡すわけにはいかん。帰りんさい」
「……そうか」
男は一歩火の輪の中へ踏みこんだ。 炎が男の体を包む。だが、男は眉ひとつ動かさなかった。黄金の鎧の表面を、炎はただ撫でるように流れていくだけだ。 祖母の唱える声が強くなった。
「灯れ、巡れ——守れ!」
火の輪がごうと音を立てて燃えあがった。 橙色だった炎が白に近い黄金色に変わる。火は壁となって夜空へ伸び、男の前に立ちはだかった。 男は足を止めた。
「見事だ」
その声に皮肉の響きはなかった。
「この国の火はこうも静かに燃えるのか。誰かを焼くためではなく、何かを守るための火だ。……オレの父もきっと気に入っただろう」
「ランサー。おそいわ」
頭の上から、鈴を転がすような声が降ってきた。 灯也は顔を上げた。 鳥居の上に少女が座っていた。 灯也より二つ三つ年下に見える。青いワンピースに、白い襟。月の光を吸いこんだような長い髪が、夜風にふわりと揺れている。人形のように整った顔に楽しそうな笑みを浮かべて、少女は細い脚をぶらぶらと揺らしていた。 見上げるほどの高さの笠木の上でまるで公園のベンチにでも座っているみたいに。
「早くしてちょうだい。わたし、今夜はとっても忙しいの」
「……すまない、マスター」
男は槍の石突きをとんと軽く石畳についた。 それだけだった。 石畳から炎が噴きあがり、衝撃が境内を薙いだ。黄金の火の壁がガラス細工のように砕け散る。拝殿の屋根瓦が吹き飛び、本殿の格子戸がまとめてへし折れた。 祖母の小さな体が木の葉のように宙を舞った。
「ばあちゃん!!」
四
灯也は、石畳に倒れた祖母のもとへ駆け寄った。 祖母の右腕がひどい火傷で赤黒くただれていた。結界が砕けた反動だ。額からも血が流れている。それでも、祖母は薄く目を開けた。
「とう、や……。来たらいけん、言うたろうが……」
「しゃべんなよ、ばあちゃん……!」
足音がした。 白い髪の男が灯也と祖母の横を静かに通り過ぎていく。壊れた本殿の戸口の向こう、祭壇の上に祀られた黒い石に向かって。 星石(ほしいし)。 穂村の家が何百年も守ってきた星の欠片。
——また何もできないのか。 頭の奥で六歳の自分が真っ暗な海を見ていた。 気がつくと、灯也は立ちあがっていた。男と本殿のあいだに両腕を広げて。
「……行かせない」
声が震えた。膝も震えていた。 男が足を止め、灯也を見下ろした。淡い青の瞳が灯也の顔をまっすぐに見た。ただ見られているだけなのに、心の底まで透かされているような気がした。
「震えているな」
「うるさい!」
灯也は右手を男に突きだした。
「——灯れ!」
指先に火がともった。 マッチ一本分の、ちっぽけな火が。 男の全身から立ちのぼる陽炎にくらべれば、それは火の粉ひとつにも満たなかった。 鳥居の上で少女がくすくすと笑った。 だが、男は笑わなかった。
「……良い」
男はほんの少しだけ目を細めた。
「己の弱さを知り、怯えを知り、それでもなお立つ者をオレは侮らない。……だが、すまない。退いてもらう」
槍の柄が横薙ぎに動いた。 殴られた、と思う暇もなかった。灯也の体は宙に浮き、壊れた戸口を突き抜けて、本殿の中へ叩きこまれた。背中が祭壇にぶつかり、息が止まる。 とっさに後ろへ伸ばした右手が何か硬いものに触れた。 あたたかい。 石だった。
瞬間、右手の痣が燃えあがった。
「ぐ、あ——ッ!」
体の中に灼けた針金が何十本もいっせいに通された。 背骨から指の先まで、今まで一度も使ったことのない回路という回路にむりやり火が入れられていく。灯也の体を道にして、何かが流れこんでくる。足の下から。町の底から。あの、海を光らせた何かから。 星石の表面に細い光の筋が浮かびあがった。血管のように。星座のように。 赤。緑。青。 三つの光が石の中から溢れだし、撚りあわさり、混ざりあって——白になった。 一瞬、灯也は見た。 燃えあがる空。煮えたぎる海。そして、その空と海のすべてを覆いつくすほどに巨大な、白い何かを。 光が弾けた。
本殿の中に風が吹き荒れた。 白い光の中からひとつの背中が現れた。 小柄な少女だった。 短い白い髪。頭から背中へ長い白のヴェールが流れ落ちている。褐色の肌の上には幾何学模様のような白い紋様が走っていた。身にまとっているのは鎧とも衣ともつかない、ひどく簡素な戦装束。 そして、その手には一振りの剣があった。 いや、剣というより光そのものだった。赤と緑と青、三色の光が刃のかたちに束ねられている。 その光の刃と男の槍とが本殿の戸口で噛みあっていた。 ぎりぎりと、光と黄金がせめぎあう。火花が三つの色に散った。 灯也の右手の下で星石が冷えていくのがわかった。物心ついてからずっと、いつさわってもほのかにあたたかかった石が。まるで中にあった熱が、そっくりどこかへ移ってしまったみたいに。
「下がっていろ、マスター」
少女が振り返らずに言った。抑揚のない、静かな声だった。
「……マス、ター?」
灯也の右手で三本の線が熱く脈打っていた。
男がわずかに飛びのいて間合いを取った。
「剣の英霊。……セイバーか」
「お前は敵か」
少女が問う。男は少しだけ考えるような間を置いてから、うなずいた。
「そうなるな」
「では、壊す」
五
少女の姿が消えた。 次の瞬間にはもう男の懐にいた。 光の剣が閃く。男の槍がそれを弾く。弾かれた光が境内の石畳に一直線の溝を刻んだ。斬ったのではない。焼き切ったのだ。溝の縁が赤く溶けて泡立っている。 男の全身から炎が噴きあがった。 黄金の火をまとった槍が唸りをあげて少女を薙ぐ。少女はそれを光の刃で真っ向から受けた。衝撃で、石段沿いに吊るした提灯が端から順に吹き飛んでいく。 崖の常夜灯の火もふっと消えた。 境内が闇に沈む。 その闇の中でふたつの光だけがぶつかりあっていた。 三色の光と、黄金の炎。 一合ごとに夜が昼に変わる。剣と槍が打ちあうたびに、楠の葉が震え、社務所の窓ガラスが割れ、空気そのものが悲鳴をあげた。 灯也は本殿の戸口にしがみついて、ただ見ていることしかできなかった。目で追えない。何が起きているのか、半分もわからない。 ただ、ひとつだけわかった。 あの少女は強い。
少女が跳んだ。男が追う。 ふたりは崖を越え、そのまま夜空へ駆けあがった。灯也は転がるように崖の手すりまで走った。 石段の上空で光と炎が交差していた。 少女の剣が伸びる。三色の光が鞭のようにしなりながら、何十メートルも夜空を走って男を追う。男はそれを炎の翼のように広がる魔力で弾き、宙を蹴って間合いを詰める。空中で槍と剣がかちあい、そのたびに真昼のような閃光が暁浜の町を照らしだした。 石段の下、商店街のアーケードから人がばらばらと出てくるのが見えた。
「なんじゃ、花火か?」
「祭りは来週じゃろう。試し打ちかいの?」
ちがう。あれは花火なんかじゃない。
空中で男が少女の剣を受け止めながら言った。灯也の耳になぜかその声ははっきりと届いた。
「見事な剣だ。だが、その剣は……何かを守るための形をしていないな」
「当然だ」
少女は表情ひとつ変えずに答えた。
「私の剣は壊すためにある」
三色の光がひときわ強く輝いた。
がくんと、灯也の膝が折れた。 体の中から何かがごっそりと引き抜かれていく。さっきむりやり開かれた回路を通って、熱が、力があの光の剣へと流れこんでいく。目の前が暗くなる。指先が冷たい。 これがあの子を動かしている力なのだ、と灯也はぼんやり思った。 ——俺の魔力?
「そこまで」
鳥居の上で青いワンピースの少女がぱんと手を叩いた。
「ランサー、もういいわ。帰りましょう」
男はそれだけで槍を引いた。空中で身をひるがえし、炎の尾を引いて、鳥居の上の少女の隣に降り立つ。 ヴェールの少女がそれを追った。 石畳に降り立つなり、一直線に鳥居へ。光の剣が振りかぶられる。鳥居の柱ごとその上のふたりを両断しようとして——。
「やめろ!!」
灯也は叫んだ。 喉が裂けるかと思うほどの声だった。 光の剣が朱塗りの柱のほんの指一本手前で止まった。 ヴェールの少女がゆっくりと灯也を振り返った。紅い瞳が不思議そうに灯也を見ていた。
「なぜ止める。敵はまだ壊れていない」
「ばあちゃんが……! ばあちゃんが怪我してるんだ! そんなのよりばあちゃんを……!」
少女は石畳に倒れた祖母を見た。それから、灯也を見た。 ほんの少しの間があった。
「……わかった」
光の剣がふっと消えた。
鳥居の上で青いワンピースの少女がころころと笑った。
「まあ。いい子ね」
少女はヴェールの少女を見下ろした。ずっと欲しかった人形をショーウィンドウ越しに眺めるような目で。
「はじめまして、セイバー。ずっと会いたかったわ。……それから」
その目が灯也に向いた。
「あなたも、はじめまして。灯也くん」
灯也の背筋が冷たくなった。
「……なんで俺の名前」
「ようこそ、聖杯戦争へ」
少女は答えなかった。ただ、にっこりと微笑んだ。 次の瞬間、白い髪の男が少女を抱きあげ、炎の尾を引いて夜空へ跳んだ。ふたつの影は、あっという間に町の灯りの向こうへ消えていった。
六
灯也は震える指で119番を押した。 自分の声がひどく遠くに聞こえた。住所。けが人の年齢。やけど。頭から血。意識はある。 電話を切ると、膝の上の祖母がうっすらと目を開けた。
「……とうや」
「ばあちゃん、救急車、すぐ来るから」
「常夜灯が……消えとる」
祖母の目が崖っぷちの灯籠を見ていた。火の消えた灯籠は、闇の中でただの黒い石の塊にしか見えなかった。
「つけておいで。……あれが消えとったら、帰り道がわからんようになる。……あの子らが帰ってこれんようになる」
灯也は息をのんだ。 あの子ら。 祖母が誰のことを言っているのか、聞かなくてもわかった。
「灯也」
祖母は焼けただれていないほうの手で灯也の手を握った。
「つけておいで」
灯也は常夜灯の前に立った。 火袋の中の灯芯に右手の指を向ける。 指が震えていた。
「……灯れ」
何も起きなかった。 回路がからっぽだった。さっきあの剣に根こそぎ吸いだされたせいだ。体のどこを探しても、熱が残っていない。
「灯れ」
火花がひとつだけ散って、消えた。 視界がにじんだ。どうしてこんなことすらできないんだろう。ばあちゃんの火みたいに誰かを守ることはできなくても。せめて灯りくらい。 背後に気配があった。 振り向かなくても、わかった。あのヴェールの少女だ。少女は何も言わず、ただ灯也の後ろに立って、灯也の指先を見ていた。 灯也は目をつぶった。 背骨の奥に細い線を一本だけ思い描く。からっぽの線の、そのいちばん底にまだひとかけらだけ残っている熱を探す。
「——灯れ」
ぽ、と。 小さな火がともった。 火は灯芯に移り、頼りなく揺れて、それからちゃんと燃えはじめた。 崖っぷちの闇の中にひとつだけ橙色の灯りが戻った。
「なぜ火をつける」
少女が言った。 灯也は袖で目をこすってから答えた。
「……帰ってくる人が迷わないように」
「誰が帰ってくる」
灯也は海を見た。 十年前と同じ、真っ暗な海を。
「……誰も。でも、ずっとつけてるんだ」
少女は何も言わなかった。 ただ、常夜灯の小さな火をじっと見つめていた。長いことまばたきもせずに。
「小さい火だな」
「うん。俺の魔術、これくらいしかできないんだ」
「…………」
少女はもう一度火を見た。
「だが、消えていない」
灯也は思わず少女の顔を見た。 少女の表情は何も変わっていなかった。慰めたのではない。ただ、見たままを言っただけなのだと、灯也にはわかった。 それでも、なぜか喉の奥が熱くなった。
「……あのさ。名前、聞いてもいいかな」
「アルテラ」
少女は短く答えた。
「アルテラ。……俺は灯也。穂村灯也」
「トウヤ」
少女——アルテラはその名前を確かめるように、一度だけ繰り返した。
「さっきは助けてくれて、ありがとう」
「助けてはいない」
アルテラは首を横に振った。
「敵がいた。だから、壊そうとした。それだけだ。私は壊すために在る」
紅い瞳が灯也から外れて、崖の下に広がる景色へと向いた。 新都心のビルの窓。商店街のアーケード。大橋のライトアップ。港のクレーンの赤い灯。家々の窓。何万もの、町の灯り。
「敵も。……文明も」
坂の下から救急車のサイレンが近づいてきた。 灯也は何も言えなかった。 ただ、自分のつけた小さな火と、その向こうの無数の灯りと、そのあいだに立つ白い少女とを見ていることしかできなかった。
七
暁浜大橋の主塔のてっぺんは、海面から百五十メートルの高さにある。 吹きつける海風の中、沙条愛歌(さじょう まなか)は塔の縁に腰かけて鼻歌をうたっていた。眼下には暁浜の夜景が、宝石箱をひっくり返したように広がっている。 その隣にランサーのサーヴァント——施しの英雄カルナが、槍を携えて立っていた。
「マスター」
「なあに、ランサー」
「お前はあの石を奪えとオレに命じた」
「ええ」
「だが、お前は初めから石を手に入れるつもりなどなかったな」
愛歌は鼻歌をやめた。 くるりと振り返ってカルナを見上げる。その顔は褒められた子どものようにうれしそうだった。
「どうしてそう思うの?」
「お前は、オレが石に手を伸ばす前にあの少年が来ることを知っていた。あの少年がオレの前に立つことも。オレに弾かれて、石に触れることも」
「ええ。知っていたわ」
「なぜだ。なぜわざわざ敵を増やす」
「敵?」
愛歌は小さく首をかしげた。
「ちがうわ、ランサー。石だけあっても、意味がないの。中にいる子に出てきてもらわなくちゃ。……あの子はね、鍵なの。わたしのとっても大事な鍵」
愛歌はまた夜景のほうへ向きなおった。 その視線は町の灯りを越えて、その先の真っ暗な湾の真ん中に注がれていた。
「もうすぐよ」
誰に言ったのか、カルナにはわからなかった。
「……あの老婆は死んではいない」
しばらくして、カルナは言った。
「力の加減はした。だが、それでも軽い傷ではない。オレがつけた傷だ」
「そう」
愛歌は夜景を見たまま答えた。
「どっちでもよかったのに」
カルナは黙って主の横顔を見た。 カルナの目は人の本質を見抜く。嘘も、虚勢も、その奥に隠された悪意もこの目の前では意味をなさない。 だから、わかった。 この娘の心には悪意がない。 あの老婆が死のうと生きようと、本当にどちらでもよかったのだ。憎んでいるのでも、蔑んでいるのでもない。ただ、関心がない。この娘にとって世界のほとんどすべては、そういうものなのだろう。 すべてを知り、望めばすべてを手に入れられる少女。 だからこそ、何ひとつ心から欲しいと思ったことのない少女。 ——それでも、オレはこの娘の槍だ。 この娘がオレを呼び、オレはそれに応えた。ならば、最後まで応える。それがカルナという英霊のありようだった。 ただ、とカルナは思う。 施しの英雄と呼ばれたこの身にも、この娘に何を施せばいいのかはまだわからなかった。 海風が黄金の鎧を鳴らして吹き抜けていった。
八
同じ夜。
新都心のホテルの最上階で遠坂凛は、窓ガラスに額を押しつけていた。 山手の丘の上で明滅していた三色の光はもう消えている。
「……剣の光。最後の一騎はセイバーね」
凛は深々とため息をついた。
「わかってたけど。わかってたけどね。……あー、もう! どこの誰よ、わたしのセイバー持ってったの!」
「私ではご不満でしたか。マスター」
背後から穏やかな声がした。白い衣をまとった褐色の青年——アーチャーが、礼儀正しく首をかしげている。
「そ、そういう意味じゃないってば!」
凛は真っ赤になって振り返った。それから、こほんと咳払いをひとつ。
「……いいわ。明日から調べるわよ、アーチャー。あの丘の上の神社。セイバーのマスターがどんな素人か」
「素人と決まったわけでは」
「決まってるわよ。あんな派手な召喚、まともな魔術師がやるもんですか」
港のフェリー乗り場のベンチではコンビニのソフトクリームを持ったふたり組が、ぽかんと口を開けていた。
「見た!? 見たよねライダー、今の!」
「見た見た! すっごいきれいな花火!」
「花火じゃないよ! あれ、ぜんぶ魔力の光! ってことは、花火よりすごいってことだよ!」
「えっ、花火よりすごいの!? すっごーい!」
桃色の髪を三つ編みにした騎士と、時計塔きっての問題児は顔を見合わせ、同時に叫んだ。
「「見に行こう!」」
ソフトクリームがふたつ、同時にベンチに落ちた。
郊外の山あいに建つ古い別荘のバルコニー。 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、白い髪を夜風になびかせていた。 その隣で花嫁衣装の少女が、消えていった光の方角を指さしている。
「ウ……ゥ……」
「うん。きれいだったわね、フラン」
イリヤは花嫁衣装の少女の手をそっと握った。
「でもね、フラン。覚えておいて。きれいなものほど、すぐに壊れちゃうのよ」
フランはよくわからないというように首をかしげて、それからイリヤの手を握り返した。 イリヤはそれ以上は何も言わなかった。
郷土資料館の、明かりの消えた展示室。 ガラスケースの陰にしゃがみこんで、カウレス・フォルヴェッジ・ユグドミレニアは頭を抱えていた。
「なんなんだよ、もう……。偵察だけって話だったろ、姉ちゃん……」
その袖を、小さな手がくいくいと引いた。
「マスター。見て。窓の外、とってもきれいな光」
黒い帽子をかぶった金髪の少女——フォーリナーのサーヴァントがクマのぬいぐるみを抱いて、窓の外を見上げていた。
「……でも、どうしてかしら」
少女は小さく首をかしげた。
「あの光を見ていたら、鍵穴の向こうがざわざわするの」
カウレスは少女の額にほんの一瞬、銀色の鍵穴のような紋様が浮かんで消えたのを——見なかったことにした。
旧市街のはずれ、蔦に覆われた古い洋館。 二百年前、ある魔術師がこの町に建てさせたというその屋敷のバルコニーで、黒い鎧の女が手すりに腰かけて鼻を鳴らした。
「へえ。最後の一騎、ずいぶん派手にやるじゃない」
部屋の奥で間桐桜は左腕を押さえてうずくまっていた。 体の中で何かが蠢いている。あの光が空を走ったときからずっと。
「……桜?」
黒い鎧の女——アヴェンジャーが眉をひそめて振り返った。 そのとき、部屋の暗がりから乾いた笑い声が響いた。
「カカカ……。七騎、揃うたか」
小柄な老人の影が闇の中に浮かんでいた。
「懐かしいのう、この土地は。二百年ぶりじゃ。……のう、桜。明日から忙しゅうなるぞ」
「……はい、お爺さま」
桜はうつむいたまま答えた。 アヴェンジャーは、老人の影を心底汚いものを見る目でにらみつけた。
「……ちっ。気色の悪いジジイ」
老人はただ笑っていた。
そして、旧居留地の小さな教会。 誰もいない礼拝堂でカレン・オルテンシアは、祭壇の前に立っていた。 その左腕に巻かれた包帯にじわりと赤い染みが広がっていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。まるでこの町に何かが降りてくるたびに、傷がひとつずつ増えていくように。 カレンは痛みに眉ひとつ動かさず、包帯の上から傷を撫でた。
「ずいぶん、たちの悪いお客さまが多いこと」
ステンドグラスの向こうで雲が月を隠した。
「——以上、七騎七名の召喚をもって暁浜における聖杯戦争の開始をここに宣言します」
カレンは、誰もいない会衆席に向かってうやうやしく一礼した。
「皆さまに主のご加護がありますように。……もっとも、ご加護が要るようなら、はじめから来なければよかったのですけれど」
暁浜の夜明けはまだ遠かった。