一
気がつくと、手すりを握っていた。崖の上の、常夜灯のそばの古い鉄の手すりだった。右足が下の横棒にかかっていた。あと少しで乗りこえるところだった。アルテラは足を下ろした。
東の海が白みはじめていた。崖の下で町の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。朝が来たから消えるのだ。この町ではじめて迎えた朝にアルテラはそれを知った。
耳の奥の歌も細くなっていった。空が明るくなるのと同じ速さで。灯りが消えていくのと同じように。
——いつからここにいた。
思いだせなかった。夜半すぎに常夜灯の前で見張りをしていたのは覚えている。母屋の灯也の部屋の窓が暗くなったのも。そこから先がなかった。
空が白むまでの何時間かがどこにもなかった。アルテラは自分の腕を見下ろした。
紋様が光っていた。海の底の光と同じ、色のない白に。常夜灯を見た。小さな橙色の火が夜明けの風に揺れていた。
見つめているうちに紋様の光はゆっくりと引いていった。いつもの白い線に戻った。胸の奥が静かだった。冷たくて、静かだった。
手水舎の陰の草むらにけさも露草が咲いていた。アルテラは一本だけ摘んだ。親指と人さし指の先でそっと。
常夜灯の足もとの湯のみの水を替える。きのうの花は抜いて、草むらの根もとにそっと返した。閉じたままのフランの花は抜かずに、その隣に新しい花を挿した。
金魚鉢をのぞくと、いちごがくるりと回った。ひとつまみの餌を落とす。いちごは水面に浮いた粒をぱくりと食べた。いつもと同じ朝だった。アルテラはそう思うことにした。
「卵焼きを教えろ」
台所の戸口でアルテラが言うと、ガスの火の前でアルジュナが振りかえった。
朝ごはんの支度はこのところアルジュナの仕事になっていた。サーヴァントに家事をさせるなんて落ちつかないと凛は言う。言いながら、毎朝ご飯を二杯食べていく。
「卵焼き、ですか」
「トウヤの昼の弁当に入れる」
アルジュナは少しだけ目を細めた。それから、黙って卵のパックを差しだした。アルテラは卵をひとつ手に取った。
ぐしゃりと。殻ごとつぶれた。指のあいだから白身と黄身がぼとぼとと落ちていく。
「……壊すのは得意だ」
「割るのと壊すのはちがいます」
アルジュナはふきんを差しだしながら、穏やかに言った。
「角にこつんと当てて、ひびを入れて。あとは親指でそっと開いてやるのです」
ふたつめもつぶれた。三つめでようやく、殻の大半がボウルの外に残った。フライパンを温めながら、アルジュナがアルテラの手もとを見ていた。卵を持つ指先を。
アルテラも自分の指を見た。爪の先がいつもより白かった。夜明け前の紋様と同じ、色のない白が指先にだけ薄く残っていた。
アルテラは手を握った。菜箸で卵をかきまぜながら、アルジュナは前を向いたまま言った。
「セイバー」
じゅうと、卵がフライパンの上で鳴った。
「隠しごとは、隠しているほうが先に疲れるものです」
それきり、アルジュナは何も言わなかった。アルテラは知っていた。この弓兵の中にも黒い火がある。橋の上でそれを見た。だから、言いかえせなかった。
「アルテラ、ちょっと」
灯也が台所に顔を出した。両手で紫の風呂敷包みを抱えていた。
召喚の次の日、灯也は星石を風呂敷に包んで自分の部屋へ移した。今は茶の間の神棚に祀ってある。毎朝そこに水と米を供えるのが灯也の役目だった。
灯也は茶の間の卓袱台の上で風呂敷をほどいた。黒い石だった。手のひらにおさまるくらいの。
「あったかいんだ」
灯也は石に手のひらを当てた。
「召喚の夜からずっと冷たかったのに。……けささわったら、こうなってた」
とくんと。石の中で何かが脈を打っていた。ゆっくりと。崖の下に寄せる波と同じ速さで。アルテラはその速さを知っていた。あの夜、フランの槌が同じ速さで脈打っていた。
「さわってみる?」
アルテラは首を横に振った。両手を背中にまわした。白い指先が見えないように。
「……いい」
「そっか。帰りに病院でばあちゃんに聞いてみるよ。何か知ってるかもしれないし」
朝ごはんの席で凛が箸を置いた。
「授業その十一」
凛のポケットにはもう宝石がひと粒もない。それでも、授業の顔だけは前と同じだった。
「あんたの回路は水門をハンマーでぶち壊したようなもの。前にそう言ったわよね。ためておくのはへたくそ。そのかわり、通すのはうまい。……『送れ』で証明したでしょ。あんたが足した火はほんの少し。あとはフランの火の粉があんたを通って、主塔のてっぺんまでのぼっていっただけ」
「……うん」
「だから、ゼロから火をおこそうとしないこと。もう燃えてる火を借りなさい。常夜灯の火でも、ろうそく一本でもいい」
凛は箸の先で灯也を指した。
「あんたは炉じゃない。道よ」
「道」
「ただし」
凛の目が灯也の腕の包帯に落ちた。
「通るものが熱ければ、道だって焼けるの。それは忘れないで」
食器を洗っていると、灯也が布巾を持って隣に来た。
「アルテラ」
「なんだ」
「ゆうべ、何もなかったか」
灯也は皿をふきながら、何気なく聞いた。毎朝の、いつもの問いだった。
「なかった」
答えはすぐに出た。自分でも驚くほどすぐに。灯也はうなずいて、次の皿を取った。嘘は便利だな、と。はじめて町を歩いた日にアルテラはそう言ったことがある。
便利ではなかった。胸の奥が重かった。のみこんではいけないものをのみこんだように。
「今日も学校についていく」
「え、またかよ」
「護衛だ」
それも半分は嘘だった。山手の奥の学校までは海の歌が届きにくい。残りの半分はそれだった。
二
二時間目の数学のあいだじゅう、佐々木は灯也の腕の包帯を数えていた。
「右に三か所、左に四か所。……お前、ほんとに自転車なの?」
「自転車」
「どんな乗り方したらそうなんの」
灯也は答えずに窓の外を見た。学校は山手の高台の、さらに奥にある。教室の窓から海は見えない。見えるのは裏山の緑と送電線の鉄塔だけだ。
——ここはうるさいな。
頭の中で声がした。窓の外の、誰にも見えないところにいるアルテラの声だった。
たしかに教室はうるさかった。うしろの席で誰かが購買のパンの話をしていて、誰かが机をたたいて笑っていた。
「ごめん。静かなとこなくて」
灯也が小声で返すと、少し間があった。
——いや。
——よいことだ。
灯也はちょっと首をかしげた。アルテラがうるさいのを喜ぶなんてめずらしい。チョークの音がして、灯也は黒板に目を戻した。
昼休みの屋上でアルテラが実体化した。「祝・暁浜大橋開通」のTシャツの裾が風にはためいた。ちょうど階段をのぼってきた佐々木たち三人がぴたりと止まった。
「あ、外国の……」
「いとこの……」
アルテラは三人をちらりと見た。三人はそろって直立不動になり、深々と頭を下げた。それから、回れ右をして階段を駆けおりていった。
「……なんで毎回ああなるんだろ」
「知らない」
灯也は弁当のふたを開けた。ご飯と梅干しと、きのうの残りの煮物。真ん中に黄色い卵焼きが三切れ並んでいた。ところどころ焦げて、形もいびつだった。
アルテラが灯也の手もとをじっと見ていた。灯也はひと切れ口に入れた。じゃりっと。歯の下で何かが鳴った。殻だった。灯也は噛んで、噛んで、のみこんだ。
「……うまい」
アルテラの目がすっと灯也の顔へ動いた。眉のあたりへ。右の眉を見ているのだと灯也は気づいた。祭りの朝の病室でばあちゃんがばらしたのだ。灯也は嘘をつくと右の眉が上がる、と。
「……上がっていない」
「だろ」
灯也は二切れめを口に入れた。また、じゃりっと鳴った。アルテラはしばらく灯也が食べるのを見ていた。それから、屋上の手すりに背中をあずけて座った。海に背を向けて。
灯也は少しだけひっかかった。どこにいても、アルテラはいつも海のほうを向いて座るのに。
放課後のアーケードは脚立と段ボール箱だらけだった。祭りの提灯を下ろしているのだ。作業着姿の町内会長が脚立の上から手を振った。
「おう、灯也くん! 山側は今日で終いじゃ。海側は日曜にぜんぶ下ろすけえ」
見上げると、アーケードの山側の半分はもう針金だけになっていた。海側の半分にはまだ提灯がずらりと並んでいる。灯りの入っていない、しぼんだような提灯が。
下ろされた提灯はひとつずつたたまれて、段ボール箱の中に寝かされていく。アルテラは足を止めて、しばらくそれを見ていた。
汐屋の前では小さなおばあちゃんが「氷」の旗をたたんでいた。
「今日でかき氷はおしまいなんよ。食べていきんさい」
アルテラはいつもの三色を頼んだ。いちごと、メロンと、ブルーハワイ。縁台に並んで座る。アルテラはいつもよりゆっくり食べた。ひとさじずつ、山を崩さないように。
それでも、氷は溶けていった。器の底で三つの色が混ざりあって、濁った茶色の水になった。アルテラはその水を見下ろしていた。
「……白いな」
「え?」
灯也は器をのぞきこんだ。どう見ても茶色だった。
「茶色だろ」
アルテラは少しのあいだ黙っていた。
「……まちがえた」
それだけ言って、器の底の水を飲みほした。
「旗はどこへ行く」
アルテラが聞いた。おばあちゃんはたたんだ旗を胸に抱えて、にっこりした。
「来年の夏までしまっとくんよ」
「ここのみぞれ、おいしいのね」
隣の縁台から鈴を転がすような声がした。青いワンピースの少女が、蜜だけをかけた白いかき氷をひとさじずつ口に運んでいた。
沙条愛歌だった。アルテラの手が腰へ動いた。灯也は思わずその手首を押さえた。
「迎えに来たんじゃないわ」
愛歌はスプーンをくわえたまま言った。
「かき氷を食べに来たの。今日で最後なんでしょう?」
愛歌のうしろに白い髪の青年が立っていた。カルナは灯也を見ていなかった。アルテラを見ていた。淡い青の瞳でまっすぐに。
「少年」
聞かれもしないのに、カルナは言った。
「セイバーの中の白は日ごとに濃くなっている」
愛歌がむうと頬をふくらませた。
「もう、ランサー。ないしょにしてたのに」
カルナは何も答えなかった。灯也はアルテラを見た。アルテラは灯也を見なかった。
愛歌は最後のひとさじを食べおえると、立ちあがった。灯也の前を通りすぎるとき、ふと足を止める。
「宿題よ、灯也くん」
愛歌はにっこりと笑った。
「……あの石、どうしてずっとあったかかったと思う? 星はあの夜、あなたを道にしたのよ」
白い靴音がアーケードの海のほうへ遠ざかっていった。道。けさ凛に言われたのと同じ言葉だった。
三
市民病院の六階の窓から湾が見わたせた。白い船が一艘、本土の港から島へ向かってゆっくりと海を渡っていく。
「臨時の連絡船じゃと」
祖母がベッドの上から言った。
「橋が通行止めになってから出しとるんよ。……また船を待つようになったのう、この町も」
灯也は黙って船を見ていた。十年前のあの冬から、灯也は一度も船に乗っていない。船のうしろに白い航跡が細くのびて、すぐに消えた。灯也は船から目をそらした。
祖母はそれを見ていた。それきり、船の話はしなかった。窓際のコップではフランの挿した茎のあいだに新しい露草が一本ふえていた。青い花びらはもう閉じていた。
「けさ早うに、イリヤちゃんが持ってきてくれたんよ。日がのぼる前に。看護師さんがびっくりしとったわ。朝はきれいに咲いとったんよ」
祖母は目を細めた。
「明日も来る、言うとった」
傷の具合は悪くないらしい。お彼岸のころには帰れるじゃろう、と先生に言われたという。灯也はほっとして、それから、言わなければならないことを思いだした。
「ばあちゃん。……石があったかいんだ」
祖母の顔からすっと表情が消えた。あの日、灯也の手の甲の痣を見たときと同じ顔だった。
「……いつからね」
「けさ。召喚の夜からずっと冷たかったのに」
祖母は長いこと黙っていた。窓の外では臨時の連絡船が島に着こうとしていた。
「わしが知っとることは日記にぜんぶ書いてある。前にそう言うたね」
「うん」
「あれは嘘じゃない。知っとることはぜんぶ書いてある。……じゃけど、ばあさまから聞いただけの話は書いとらんのよ」
祖母がまだ小さかったころの話だった。祖母の祖母が本殿で星石をなでながら、ひとりごとのように聞かせてくれたのだという。
「石の中には娘さんがおる。ひとりで泣かんように、火を見せてやれ」
祖母は灯也を見た。
「……わしは昔話じゃと思うとった」
「娘さん……」
「ばあさまはこうも言うとった。石が冷えて、それからまたぬくうなったら、跡取りにこの話をせえ。それまではただの昔話にしとけ、とな」
祖母の目が窓際のアルテラに動いた。アルテラは窓の外の海を見ていた。何も言わなかった。
召喚の次の日、本殿で冷えた石を見下ろして、アルテラは言った。からっぽだ、と。窓ガラスに映ったその横顔は、海の光にまぎれてよく見えなかった。
「それからな。蔵の長持、底がもう一枚あるんよ。板を外したら、桐の箱が入っとる。わしもこまい時分に一度見たきりじゃ。……これも石がまたぬくうなるまでは言うな、いうてばあさまに言われとったんよ」
灯也は息をのんだ。凛と蔵をひっくり返した日、長持の底で見つけたのは社務日記だけだった。その下にまだ底があったなんて、思いもしなかった。
「遠坂のお嬢さんがうちにおる、いうて聞いたときな」
祖母は少しだけ笑った。
「わし、ほうね、としか言えんかった」
「……うん。覚えてる」
「遠坂さんは約束しんさったんよ。杯が目を覚ましたら必ず戻るいうて。ばあさまからそう聞いとった。……二百年も前の約束じゃ。ほんまに来るとは思わんかった」
凛はこの約束を知っているんだろうか、と灯也は思った。
それから、祖母は枕もとの引き出しを開けた。小さな袋を取りだす。色とりどりの、とげとげした粒が入っていた。
「アルテラちゃん。手ぇ出しんさい」
アルテラが手のひらを出すと、祖母はそこに三粒落とした。白と、桃色と、黄色。
「星のかたちのお菓子じゃ。こまい星は甘いんよ」
アルテラは手のひらの粒をじっと見つめた。
「……星は甘いのか」
「こまいのはね」
アルテラはひと粒を口に入れた。かりっと小さく鳴った。しばらく黙っていた。
「……甘い」
「ほうじゃろ」
アルテラは残りのふた粒をすぐには食べなかった。手のひらにのせたまま、窓の光にかざしていた。
祖母はうれしそうにうなずいた。
「灯也の弁当、今日は誰がこさえたんね」
「私だ」
「ほう。卵焼きは入れたかね」
「入れた」
「殻入ってたけどね」
灯也が言うと、アルテラがじろりと灯也をにらんだ。
「うまいと言った」
「うまかったよ。殻も入ってたけど」
祖母が声をあげて笑った。笑うと傷に響くらしく、途中で顔をしかめながら。
「退院したら、わしが教えちゃろうか」
「作りかたなら知って——」
アルテラはそう言いかけて、口を閉じた。それから、ベッドの前で背すじをのばした。
「……退院したら、教えてくれ。お願いだ」
祖母は目を細めた。
「はいはい。お願いされました」
しばらくして、祖母が灯也に財布を押しつけた。
「灯也。下の売店でお茶買うてきてくれんか。あったかいのを」
「え、そこに水あるじゃん」
「ええから」
灯也は病室を追いだされた。一階の売店であたたかいお茶を三本買って戻ると、祖母とアルテラは何ごともなかったように窓の外を見ていた。
何を話していたのかは、どちらも言わなかった。アルテラは受けとったお茶を両手で包んで、長いこと離さなかった。
帰りぎわ、戸口で祖母が呼びとめた。
「……灯也」
祖母はアルテラの背中を見ていた。
「アルテラちゃんを海にやりなさんなよ」
四
その夜、母屋の茶の間はまた人でいっぱいになった。石を見てもらうなら、フラットしかいない。
凛がそう言って社務所の戸をたたくと、フラットはアストルフォを連れてすぐに飛んできた。カウレスとアビーはもともと今夜も常夜灯の番に来てくれることになっていた。
テレビの前でアルテラのキャラクターが吹き飛ばされた。画面に大きく「K.O.」の文字が出た。
「……くやしい」
「お前、今日ぜんぜん集中してなかっただろ」
カウレスが眼鏡を押しあげた。アルテラは答えなかった。コントローラーを握ったまま、卓袱台のほうを見ていた。
卓袱台の真ん中で紫の風呂敷がほどかれていた。フラットが星石の上に両手をかざしていた。いつものへらへらした顔ではなかった。指先が石の表面すれすれをゆっくりとなぞっていく。
誰も口をきかなかった。柱時計の音だけがしていた。フラットの鼻から赤いものがたらりと垂れた。
「マスター、また!」
アストルフォがティッシュの箱ごと差しだした。
「へいき、へいき」
フラットは鼻にティッシュを押しあてたまま、石から目を離さなかった。
「……読めない。読めないとこまで海の底のとおんなじ。この石、あそこで寝てるのと同じものでできてるよ。かけらなんだ」
茶の間がしんとした。
「それとね。召喚のあとが残ってる」
フラットは石の上で指を二本立てた。
「英霊はふつう、『座』っていうところから来るんだ。そっちからの道すじはちゃんとある。でも、半分だけ。……もう半分はこの石の中から出てきてる」
「中から?」
灯也が聞きかえすと、フラットはうなずいた。
「中は空洞なんだ。丸くなって眠ってる子どもをかたどった、型みたいな。……からっぽなのに、何か白いのが少しずつたまってるんだ。地脈をのぼってきてる。たぶん、ふたのひびから」
フラットは首をかしげた。
「海の底のは冷たいのに、ここにたまるとあったかくなるんだ。……型に入ると、中にいたもののかたちを思いだすのかな」
アビーがクマのぬいぐるみを抱えたまま、卓袱台に身を乗りだした。石に鼻を近づけて、くんくんとかぐ。
「お星さまの匂いがするわ」
それから、テレビの前を振りかえった。
「セイバーさんとおんなじ」
アルテラはコントローラーを握ったまま動かなかった。
蔵の長持の底板は思ったよりあっけなく外れた。板の下に細長い桐の箱が収まっていた。灯也が箱を持ちあげると、うしろで凛が小さく息をついた。
「……ばあちゃんが言ってた。昔の遠坂の人が約束したんだって。杯が目を覚ましたら必ず戻るって」
凛は懐中電灯を持ったまま、しばらく動かなかった。
「……二百年も待たせて、遠坂は何やってたのよ」
怒ったような声だった。凛のうしろでアルジュナが静かに言った。
「二百年遅れでも、遠坂は戻ってきました」
凛が振りかえった。アルジュナはまっすぐに凛を見て、言葉を足した。
「……あなたが」
凛は何か言いかえそうとして、やめた。懐中電灯の光が少しだけ揺れた。
桐の箱には巻物が一巻入っていた。表に墨で『穂村社縁起』。
巻物を広げられる場所は拝殿の板の間しかなかった。ブルーシートの屋根の下でろうそくを何本も灯して、灯也は巻物をそろそろと開いていった。
古い紙と墨の匂いがした。ろうそくの火が揺れるたびに、絵の中の波も揺れて見えた。絵巻だった。
夜空から大きな星が落ちてくる。海が燃えていた。赤と金の絵の具で塗られた波の上を巨人が歩いていた。
ほかの絵はみな色がついているのに、巨人だけは塗られていなかった。下地の胡粉の白だけで描かれていた。その手に三つの色の光が握られていた。赤と、緑と、青。
灯也はこの白を知っていた。召喚の夜、光の中で一瞬だけ見た。空と海を覆いつくすほどの、白い何か。誰も何も言わなかった。灯也は巻物をさらに開いていった。
三日三晩燃える海。崖の上で火を焚く人々。そして、崖の下の浜に打ちあげられた、ひとつの黒い石。石の絵の横にくずし字が三行書きつけてあった。
『この石ぬくし。童の眠るがごとし。夜ごと泣かば、崖の上に火を焚け。石、泣きやむ』
灯也は読みあげて、それから、もう一度心の中で読んだ。
「……泣いてたのは、海じゃなかったんだ」
灯也はつぶやいた。
「石のほうだったんだ」
桟橋の朝、アルテラは言った。海の底のあれは泣いていたのではない、と。崖の上に火を焚け。
灯也は拝殿の外の暗がりを振りかえった。崖の上では今夜も常夜灯の火が燃えているはずだった。
凛が巻物の前にしゃがみこんだ。ろうそくの火に照らされた顔が青白かった。
「……わたしのガンド、あの白い火に効いたのよ。呪いは生きてるものにしか効かないのに。マキリは二百年前、この星はまだ生きておるって笑った。遠坂の記録には『地脈荒ク』って」
凛は胡粉の巨人を指さした。
「地脈が荒れてたんじゃない。……底で寝てるのが寝がえりを打ってただけよ。授業その六はまちがってた」
凛は指を巨人から石へ動かした。
「炉の底にいるのは、この巨人の体。この石はゆりかご。……杯は星を呼ぶって、そういう意味よ。体が、はなればなれになったかけらを呼んでるの。……かけらが体に戻ったら、底で寝てるのは目を覚ますわ」
「じゃあ、石の中で寝てたのは」
言いかけて、灯也は口をつぐんだ。拝殿の戸口に誰かが立っていた。蔵の戸口に立っていたあの日と同じように。中へは入らずに、敷居の外で。アルテラだった。
紅い瞳が巻物の白い巨人を見ていた。巨人の手の中の、三つの色の光を。その指先が白く光って見えたのは、ろうそくのせいかもしれなかった。
みんなが振りかえった。アルテラは何も言わなかった。くるりと背を向けて、暗い境内へ出ていった。
五
アルテラは常夜灯の前に座っていた。崖の手すりのほうではなく、火のほうを向いて。灯也は少しはなれたところで立ちどまった。それから、黙って隣に腰を下ろした。
足もとで湯のみの露草が二本、夜風に揺れていた。閉じた花と、けさの花と。どちらも長いこと口をきかなかった。
「名前はなかった」
アルテラが言った。火を見たまま。
「私が焼いた者たちは私をセファールと呼んだ。……人の手が作ったものを、作られる前に戻す。そういうものだった」
灯也は黙って聞いていた。
「町を焼いた。国を焼いた。星の上の文明というものを端から順に。……やがて、この星が自分で光の剣を掲げた。その剣が私を断った」
アルテラは自分の手のひらを見下ろした。
「私は燃えながら落ちた。この海に」
崖の下で暗い海が凪いでいた。
「体のかけらがひとつ、浜に流れついた。黒い石だ。……ものを覚えておくための私はその中で眠っていた。崖の上に小さな火があった。人の声がしていた。まだここにおるぞ、と」
祭りの起こりの話だった。生き残った人たちが崖の上で火を焚いた。海で死んだ者が迷わないように。空に向かって、わしらはまだここにおるぞと叫ぶために。
「なぜだかわからない。その火のそばにいたかった」
「……うん」
「石の中は暗かった。だが、寒くはなかった。小さな火だけが見えていた」
アルテラは常夜灯の火を見上げた。
「小さい手がときどきさわった。あたたかかった。……あれはお前か」
灯也は自分の手のひらを見た。物心ついたころから、本殿に入るたびに石にさわっていた。いつさわってもほのかにあたたかかったから。冬はとくに。
「……うん。たぶん、俺だ。ばあちゃんも。その前の人たちも」
アルテラは胸に手を当てた。
「思いだすと、ここがおかしくなる。痛くはない。だが、少し苦しくて、あたたかい」
「それ、なつかしいっていうんだよ」
「なつかしい」
アルテラはその言葉を口の中でそっと転がした。怖い。楽しい。くやしい。かなしい。ひとつずつ名前を覚えてきた、そのいちばん新しいひとつを。
「私はフンヌの大王だ。座から来た」
アルテラは言った。
「……石の中から来たのも、私だ」
「どっちが本物とかじゃなくて?」
「どちらも私だ」
アルテラは迷わなかった。それから、はじめて崖の下の海を見た。
「あの歌はおいで、ではなかった」
小さな声だった。
「……帰っておいで、だ」
灯也は息をのんだ。橋の上でアルテラは言った。あれは作られたものを呼ぶ歌だ、と。フランにも、イリヤにも聞こえていた歌。
「お前が呼んだのではない」
アルテラは海を見たまま言った。
「杯が呼んだ。体がかけらを呼んだのだ。お前はその道に使われただけだ」
——星はあの夜、あなたを道にしたのよ。
昼間の愛歌の声が耳の奥によみがえった。灯也は首を横に振った。
「呼んだのが杯でも」
アルテラが灯也を見た。
「……名前を聞いたのは俺だ」
アルテラは何も言わなかった。灯也はうつむいた。膝の上で包帯だらけの手を握る。
「……でも、召喚の夜に俺がさわったから、石が開いたんだよな」
声が少しかすれた。
「誰にも渡すなって。それだけがうちの決まりだったのに。……中にいたのを外に出したのは俺だ」
アルテラはしばらく灯也の横顔を見ていた。
「開けたのがお前でなければ、私はかき氷を知らなかった」
灯也は顔を上げた。アルテラはもう海を見ていなかった。灯也を見ていた。灯也は泣きそうになって、それから少しだけ笑った。かき氷かよ、と思った。
「アルテラ」
「なんだ」
「俺、見たことがあるんだ」
ずっと言えずにいたことだった。
「燃えてる町。……焼け野原の真ん中にずっとひとりで立ってる、小さい白い背中」
アルテラの肩がかすかにふるえた。
「アルテラが白くなった夜。剣と火がつながったとき、見えたんだ」
「……知らなかった」
「言ってなかったから」
灯也は自分の右手の小指を見た。
「見たあとでゆびきりしたんだよ。俺」
アルテラは長いこと黙っていた。常夜灯の火がぱちりと小さくはぜた。
「トウヤ」
アルテラが言った。
「私には帰る場所がふたつある」
灯也は答えなかった。海にはもう誰もやらない。フランの最後の火の粉を受けとめたとき、灯也はそう言った。あれはアルテラのことでもあった。今ならわかる。
——火は引っぱりゃあせん。道を照らすだけじゃ。
病室でイリヤにそう話していたばあちゃんの声を、灯也は戸口で聞いていた。
「火は引っぱれない」
灯也は言った。
「……だから、こっちをいちばん明るくしとく」
アルテラは何も言わなかった。かわりに、灯也の手を取った。握りつぶさないように、そっと。離さないように、強く。
その手は少しだけ冷たかった。灯也は握る手に力をこめた。自分の熱が少しでも向こうへ移ればいいと思った。
夜がふけていった。崖の下で町の灯りがひとつ、またひとつと減っていく。常夜灯の火だけが変わらずに燃えていた。灯也のまぶたが重くなってきた。
「眠れ」
アルテラが言った。
「私が見張る」
灯也は常夜灯の台座に背中をあずけた。握った手は離さなかった。目を閉じる前に最後に見たのは、火を見つめるアルテラの横顔だった。
六
眠れなかった。郊外の山あいの古い別荘のバルコニー。イリヤは毛布にくるまって手すりにもたれていた。首には白いスカーフ。手には四角いドロップの缶。午前二時だった。
寝室のベッドの脇の椅子はもうきしまない。毎晩そこに座って朝を待っていた背中は、どこにもなかった。部屋が静かすぎて、イリヤは毛布ごとバルコニーに出てきたのだった。
早く眠らなければいけなかった。夜明け前に起きて、坂の下の土手で露草を摘む。病院の老婆に届ける。けさから、そう決めたのだ。フランが毎朝していたことだった。
ここから海は遠い。山あいの闇の先に港の灯りが砂粒ほどに見えるだけだ。それなのに、耳の奥でかすかに歌が聞こえていた。
ゆるやかな、子守唄のような歌。作られたものを呼ぶ歌。イリヤは缶をからからと振った。缶の音は老婆にもらった日より少しだけ軽くなっていた。一日にひと粒と決めている。
「……行かないわよ」
誰もいない夜に向かって言った。
「来年の花火、見るんだから」
昼間、イリヤは針金の小鳥をもう一羽こしらえた。雪の城へ手紙を運ぶのと同じ、アインツベルンの使い魔だ。それを神社の楠のいちばん高い枝にとまらせてある。
ここからでは針の先ほどにしか見えない火を、すぐそばで見ていられるように。小鳥の目を借りるくらいなら、ここからでもできた。
イリヤは目を閉じた。まぶたの裏に小鳥の見ている夜がにじんだ。少し銀色がかった、音の遠い夜だった。
常夜灯の火が見えた。その台座にもたれて、灯也が眠っていた。右手が石畳の上に開いていた。何も握っていない手だった。
湯のみが倒れていた。こぼれた水の中で露草が二本、横たわっていた。イリヤは小鳥の首をめぐらせた。石段のほうで白いものが動いていた。アルテラだった。
暗い百八段を一段ずつ降りていく。手すりにもつかまらずに、まっすぐ前を見たまま。肌の紋様が光っていた。海の底の光と同じ、色のない白に。
イリヤは知っていた。あの振りかえらない背中を。橋の上でフランもあんなふうにまっすぐ行ってしまった。白い中央線の上を、白い海のほうへ。
耳の奥の歌がほんの少し大きくなった。毛布の下でイリヤは缶を握りしめた。角が手のひらに食いこんだ。
石段の下の町で何かがうごめいていた。側溝のふたのすきまから。排水溝の格子から。黒くて細いものがずるずると流れだしていた。何百も、何千も。商店街のアーケードのほうへ。
虫だった。それから、もうひとつ。黒い糸のような細い列が一本だけ、別のほうへのびていた。石段の脇の草むらを這いあがって、境内へ。母屋の縁の下へ。
イリヤは一瞬だけ迷った。小鳥は一羽しかいない。白い背中はもう石段を降りきろうとしていた。縁の下の細い列のことを考える時間はなかった。
あの夜、イリヤは見ていることしかできなかった。手をのばしても、光の粒は指のあいだからこぼれていった。
——もう、見ているだけはいや。
イリヤは手すりを握りしめた。使い魔に魔力を送りこむと、こめかみがずきりと痛んだ。楠の枝から小鳥が飛びたった。
まっすぐに常夜灯の前へ。眠っている灯也の頬を銀のくちばしで思いきりつついた。灯也が小さくうめいた。まだ目を開けない。もう一度つつく。
「起きなさいよ、お兄さん」
イリヤの声が小鳥のくちばしからもれた。
「……迎えに行くのはお兄さんの仕事でしょ」
七
頬が痛かった。目を開けると、銀の小鳥が胸の上で羽をばたつかせていた。右手が冷たかった。握っていたはずの手がなかった。灯也ははね起きた。
常夜灯の火は燃えていた。足もとで湯のみが倒れていた。灯也は湯のみを起こして、こぼれた露草を二本とも挿しなおした。指がふるえて、うまく挿さらなかった。
それから、母屋に駆けこんだ。祭りのときの手燭をつかんで戻り、常夜灯の火をろうそくに移す。
縁側にカウレスが出てきていた。眼鏡をかけなおしながら。そのうしろにクマを抱いたアビー。
「どうした」
「アルテラが降りてった。……火、頼む」
「わかった」
カウレスは理由を聞かなかった。アビーがクマをぎゅっと抱きしめた。
「扉は閉めておくわ。ぜったい。……ひとりで行かないって、マスターとゆびきりしたもの」
社務所の戸が開いて、フラットとアストルフォが飛びだしてきた。母屋の奥から凛の声がした。灯也はもう石段を駆けおりていた。
百八段の灯りは途中の外灯ひとつきりだった。左手の手燭の小さな火が足もとを照らしていた。
石段の下の広場では櫓が半分ほどばらされていた。アーケードの入り口から奥をのぞく。山側の半分は暗かった。提灯を下ろしたあとの針金だけが天井から垂れさがっている。
その先、海側の半分にはまだ提灯が並んでいた。灯りはひとつも入っていない。その下を白いものが歩いていた。
アルテラはアーケードの真ん中をまっすぐに歩いていた。海のほうへ。足もとに黒いものがからみついていた。虫だった。
排水溝の格子から。閉じたシャッターのすきまから。指ほどの太さの虫が次から次へと這いだしてくる。アルテラの足をのぼり、腰をのぼり、腕にからみつく。
虫がふれたところから紋様の白い光が吸いとられていく。
「アルテラ!」
灯也は走った。追いついて、右手でその手首をつかんだ。冷たかった。氷をつかんだようだった。小指の先がびりっと痛んで、それから何も感じなくなった。
アルテラは振りむかなかった。灯也を引きずったまま、一歩、また一歩と海のほうへ歩いていく。どこからか乾いた笑い声がした。足もとの虫がいっせいにしゃべっていた。
「カカカ……鍵がひとりで歩いてきおったわ」
黒い波が灯也に向かってきた。足をすくわれた。指が手首からはがれた。灯也は石畳の上を転がった。手燭だけはとっさに胸に抱えこんだ。顔を上げると、すぐ上に提灯があった。
海側の半分の、いちばん山寄りの提灯だった。祭りの夜、アーケードの最初の提灯に火を入れたのは灯也だった。気持ちの問題、とアルテラはまじめな顔で繰りかえしていた。
灯也は手燭をかかげて立ちあがった。手燭からろうそくを抜いて、提灯の口から中に立てる。紙の中の電球の横で本物の火が小さく揺れた。
「最初のひとつだけ本物の火」
灯也は息を吸った。
「……あとは気持ちの問題だ」
自分で火をおこす必要はなかった。火はもう燃えていた。山の上の常夜灯から移した火が。灯也は提灯の紙にそっと手のひらを当てた。
「——灯れ」
紙ごしの火が手のひらから入ってきた。腕をのぼって、肩を越えて、もう片方の腕を降りていく。灯也の中を通りぬけて、提灯の列へ。ぱっと。
隣の提灯に灯りが入った。その隣にも。そのまた隣にも。電球の光だった。それなのに、紙の中でその光は橙色の火のように揺れていた。
光の列がアーケードの片側を海のほうへ駆けぬけていく。海側の端では提灯をつないだ綱がアーケードを横切っていた。光はそこで向かいの列へ渡って、こちらへ戻ってくる。
灯也の頭の上にも作業用の綱が一本、向かいの列まで張りわたしてあった。両側の列がつながった。
「——巡れ」
輪が回りはじめた。アーケードの両側を橙色の光がぐるぐると流れていく。提灯の列にふれた虫がじゅっと音を立てて焼けた。
腕の包帯の下が熱くなった。借りた火でも、通るものが熱ければ道は焼ける。
「……電気代は商店街もち、ってわけ」
輪の外から凛の声がした。凛はアルジュナの腕から飛びおりて、輪の内側に駆けこんできた。指先をかまえる。虫を見て、その指が止まった。
「……間桐の、虫」
凛の顔から血の気が引いていた。灯也にはその理由がわからなかった。ただ、凛の手がふるえているのが見えた。アルジュナの手が凛の手首をそっと下から支えた。
「マスター」
凛は唇をかんだ。
「——わかってる!」
黒い光が指先から飛んだ。ガンドだった。宝石はなくても、凛の腕の魔術刻印が淡く光っていた。
アルジュナが弓を引いた。放たれた矢は輪の内側にだけ落ちた。一本も輪の外へは出なかった。
「よーし、ボクの出番!」
アストルフォが金色の槍で虫の群れを突いた。ふれた者の足をすくう槍だ。虫はびくともしなかった。
「あれれ? 転ばない!」
アストルフォは目を丸くした。
「足がないじゃん!」
がらがらと音がした。汐屋のシャッターが半分だけ上がっていた。寝間着のおばあちゃんが目をこすりながら顔を出していた。
「なんね、こんな夜中に……」
虫の群れがそちらへ向きを変えた。
「ヒポグリフ!」
幻馬が輪の上をかすめた。おばあちゃんの小さな体をひょいと背中にすくいあげて、アーケードの外へ、向かいの家の屋根の上へ運んでいく。
フラットが輪の縁にしゃがみこんで、虫を一匹つまみあげていた。
「糸がついてる。……一匹ずつ、ぜんぶ旧市街の洋館のほうへ」
フラットの目がふと横にそれた。
「……あれ?」
一本だけ、ほかとは逆のほうへのびている糸があった。アーケードを出て、広場を横切って、石段のほうへ。山の上へ。
「もう一本ある。山のほう……!」
追いかける間はなかった。輪の中に閉じこめられた虫が、行き場をなくして一か所に集まりはじめた。
灯也の真上に。積みかさなって、ふくれあがって、黒い波になった。アーケードの天井に届くほどの。
灯也は輪を回しつづけていた。逃げれば、輪がほどける。鼻の奥で鉄の味がした。黒い波が落ちてきた。
八
歌が聞こえていた。
——白くなりなさい。
——名前なんか、いらないでしょう。
——帰っておいで。
足が勝手に前へ出ていた。海のほうへ。体のあちこちを冷たいものが這っていた。何かが光を吸っている。かまわなかった。どうせ白くなるのだから。帰っておいで。
帰っておいで。まわりで橙色の火が燃えていた。アーケードの両側の提灯。紙の中でひとつひとつ揺れている火。それがぐるりと輪になって回っていた。
見えている。歌の白の向こうにちゃんと見えている。アルテラは足を止めた。自分で止めた。
——石の娘さんが外に出て、かき氷を食べよる。
病室で灯也がお茶を買いに出ていたあいだに、灯也の祖母が言った言葉だった。しわだらけの手がアルテラの手を包んでいた。熱いくらいにあたたかい手だった。
——わしはそれがうれしゅうてならん。
冷たい指先に気づかないはずはなかった。それでも、灯也の祖母は何も聞かなかった。どこへ行けとも、行くなとも言わなかった。かわりに、アルテラの手の甲をぽんぽんと二度たたいた。
振りかえった。黒い波が灯也の上にあった。灯也は両手を広げたまま、動かなかった。輪を回しつづけていた。鼻から血が垂れていた。
アルテラは剣の柄に手をかけた。抜けば、海の白が応える。わかっていた。橋の上で抜けなかったのはそのせいだ。
——それでも。
アルテラは剣を抜いた。自分で。
刃が白くなった。赤も、緑も、青も。三つの光がみるみる色を失っていく。喉の奥から声がせりあがってきた。抑揚のない、平らな声が。
「——文明を」
アルテラは奥歯をかみしめた。その先をかみ切った。
白い刃が手の中でふるえていた。振れば、きっと白いまま走る。虫だけではすまない。提灯もシャッターも看板も、この通りで作られたものはぜんぶ消してしまう。
「アルテラ!」
黒い波の下から灯也の声がした。
「内側は来年の夏だ!」
意味はすぐにわかった。箱にしまわれていく提灯。たたまれた「氷」の旗。来年の夏までしまっとくんよ。……来年の花火を見ようと小指をからめた、あの小さな手。
この輪の中にあるのは、ぜんぶ来年の夏を待っているものだった。
「外はあの歌だ!」
灯也が息を吸うのが聞こえた。
「——守れ」
提灯の輪が壁になった。歌がとぎれた。ぷつんと。一。静かだった。それから、うるさくなった。胸の奥が。あたたかくて、うるさい。
提灯の紙がかさかさと鳴っている。灯也の荒い息。屋根の上で汐屋のおばあちゃんが何か叫んでいる。学校の教室と同じだった。うるさくて、よいものだった。
刃に色が戻ってきた。赤。緑。青。三つの光がひとつに混ざらずに、それぞれの色のまま、提灯の橙色の光の中で揺れていた。二。
アルテラは踏みこんだ。剣を振りぬいた。海に背を向けて、山のほうへ。黒い波だけを狙って。三つの色の光が走った。黒い波が燃えた。光は輪の外へひと筋も出なかった。三。
灰が降ってきた。雪のようにふわふわと提灯の灯りの中を舞いおりてくる。焼けた虫の、黒い灰だった。
振りぬいた剣の先は、汐屋のシャッターの指一本手前で止まっていた。シャッターの向こうにはたたんだ「氷」の旗がしまってある。来年の夏まで。
歌が戻ってきた。刃の色がまた抜けはじめた。アルテラは剣を納めた。灯也の輪がなければ、まだ白い刃しか抜けない。わかっていた。
燃えのこった虫が排水溝の中へずるずると引いていった。最後の一匹が格子のすきまで止まった。
「鍵は持ちだせなんだが……」
しわがれた声が笑った。
「型はもろうたわ」
虫は闇の中に消えた。
灯也が石畳の上に座りこんでいた。アルテラはそのそばに膝をついた。灯也の右手の小指が白くなっていた。霜をかぶったように。
アルテラの手首をつかんだ指だった。ゆびきりをした指だった。歌の中でも覚えていた。手首をつかんだ熱い指を。灯也が顔を上げた。鼻の下に血のあとがこびりついていた。
灯也は何か言おうとして、やめた。かわりに、少しだけ笑った。アルテラはどんな顔をすればいいのかわからなかった。
「こんばんは。……いえ、もうおはようございます、でしょうか」
アーケードの入り口に黒い修道服が立っていた。カレンは赤くにじんだ左の袖を見下ろした。
「虫の前ではちゃんと開くのですね。このあいだの晩、岸からあの白い火を見ておりました。傷はひとつも開きませんでしたのに」
カレンは少しだけ首をかしげた。
「あれも悪魔ですらない何か、なのでしょう」
それから、灯也とアルテラを順に見た。
「穂村さん。サーヴァントは消えれば、杯に注がれます。この町の杯は海の底です」
灯也は答えなかった。カレンの目がアルテラの上で止まった。
「穂村さんのセイバーさんは、この町でいちばん死んではいけない方です。そして、いちばん海に近い方です」
カレンはポケットから軟膏の缶を取りだした。灯也の白くなった小指にたっぷりと塗る。
「とてもしみますけれど」
灯也は顔をしかめなかった。カレンの手が止まった。
「……しみませんか」
「……なんにも」
カレンは黙って缶のふたを閉めた。
「凍傷です。治りますよ。……しばらくは何もお感じにならないでしょうけれど」
それから、何ごともなかったように天井の提灯を見上げた。
「町の方々には提灯の漏電、ということにいたしましょう」
アルテラは灯也の小指を見ていた。何も感じないのだ。自分の手首にふれたせいで。
九
東の空が白みはじめていた。百八段をアルテラは自分の足でのぼっていった。灯也はその二段うしろをのぼった。手は貸さなかった。令呪も使わなかった。使おうとも思わなかった。
石段のなかほどでアルテラは一度だけ足を止めた。振りかえって、明るくなりかけた海を見下ろす。灯也は何も言わなかった。言ってはいけない気がした。
アルテラはまた前を向いて、次の段に足をかけた。右手の小指は何も感じないままだった。
山の上で常夜灯が燃えていた。台座にもたれてカウレスが座っていた。その肩にアビーの頭がのっている。アビーは油の缶を抱えたまま、すうすうと眠っていた。
「……消えてねえよ」
カウレスが言った。目の下にくまができていた。
「三時ごろ、拝殿の鈴が一回だけ鳴った。……そしたら、女の子が石段をのぼってきた。紫っぽい髪の。たぶん俺たちと同じくらいの歳」
灯也のうしろで凛が足を止めた。
「虫も来た。石段の下から、ざわざわって。灯芯めがけて。……そしたら、その子が虫に言ったんだ」
カウレスはそのときの声をまねるように、少しだけ声を落とした。
「その火は消さないでください、って」
「……虫に?」
「虫に。そしたら、隣にいた黒い鎧の女がぜんぶ燃やした。黒い炎で。それで、ふたりともいなくなった」
カウレスは肩の上のアビーを見下ろした。
「こいつ、匂いで気づいてた。虫の匂いがするって。……でも、扉は開けなかった。ずっと俺の袖つかんでた」
アビーの手はまだカウレスのパジャマの袖を握っていた。アビーが眠ったまま小さくつぶやいた。
「……お星さまの匂い、遠くなっちゃった」
母屋の茶の間でフラットが立ちつくしていた。神棚の下に紫の風呂敷が落ちていた。中身はなかった。畳の上にぬらりと光る筋が一本。縁側の板のすきまから、縁の下へ続いていた。
「持ってかれた」
フラットの声が低かった。
「型ごと。……中にたまってた白いのもいっしょに」
灯也は風呂敷を拾いあげた。紫の布にまだかすかにぬくもりが残っていた。
凛は何も言わなかった。顔が真っ白だった。
「……桜」
小さな、かすれた声だった。
石段のほうで小さな足音がした。黒い日傘をさした銀色の髪の少女だった。首に白いスカーフを巻いて、手に露草を一本持っていた。イリヤは境内を見まわした。それから、つんと顎を上げた。
「おばあさまのとこに持っていく途中よ。ついでに寄っただけ」
「イリヤ」
灯也は頬に手を当てた。まだ少しひりひりしていた。
「……ありがとな。鳥」
「なんのこと」
イリヤはそっぽを向いた。それから、アルテラの前で立ちどまった。日傘の下からアルテラを見上げる。紅い瞳の奥を。
「フランは白くならなかったわ」
イリヤは言った。
「……あなたもならないでよね」
アルテラはイリヤを見下ろした。
「覚えておく」
イリヤの目が常夜灯の足もとに落ちた。湯のみの中で露草が二本並んでいた。一本はフランがアルテラにくれた花だった。
イリヤは何も言わなかった。スカーフに顎をうずめて、石段を降りていった。
水平線から日がのぼった。崖の下で町の灯りがひとつずつ消えていく。アルテラが灯也の前に立った。
「トウヤ。令呪で命じろ」
「……え」
「私が白くなったら、海ではなく空へ行けと」
アルテラの声は静かだった。
「約束はふたりでするものだ。……命令なら、私がいなくても残る」
灯也は自分の右手の甲を見た。三画の令呪。その下で白くなった小指。橋の上でイリヤは令呪で命じなかった。命じるかわりに、いってらっしゃいと言った。
「命令はしない」
「なぜだ」
「令呪で動くのは体だけだ。体が空へ行っても、アルテラが自分で選んでなきゃ、光は海に落ちる。……『送れ』は、自分で行くって決めたやつの道しか照らせないんだ」
灯也はアルテラを見た。
「アルテラがわかんなくなっても、俺が覚えてる」
アルテラは長いこと灯也を見ていた。朝の風が白い髪を揺らしていた。
「……では、私は自分で決める」
朝の光がまぶしくて、アルテラの紋様が光っているのかどうか、灯也にはわからなかった。
アルテラは灯也の右手を取った。白くなった小指を両手で包みこむ。その手も冷たかった。あたためられるほどの熱はアルテラの手にもなかった。それでも、アルテラは手を離さなかった。
暁浜大橋の島側の主塔のてっぺん。沙条愛歌は塔の縁に腰かけて、頬をふくらませていた。
「わたしの鍵に虫がさわったわ」
白い靴の先がぶらぶらと揺れた。
「でも、この前の晩よりずっと近くまで来たわ。……あとちょっと」
隣でカルナが胸のひび割れた石に手を当てていた。淡い青の瞳は山の上を見ていた。
「あの少年の手を見たか、マスター」
「見たわよ。凍っちゃってたわね」
「あれは施しだ」
愛歌は少しだけ首をかしげた。何も言わずに、朝の海に目を戻した。
旧市街のはずれの古い洋館。その地下の、朝の光の届かない部屋。二百年前この町でマキリと名乗った老人、間桐臓硯は黒い石を桜の手のひらにのせた。
石はとくん、とくんと脈を打っていた。桜の左腕の皮膚の下で何かがうごめいた。虫の影の下を白い光がゆっくりと這いのぼっていく。
「……あたたかい」
桜が小さくつぶやいた。階段の上の戸口でアヴェンジャーが剣の柄に手をかけていた。
「虫が多いわね、この家は」
臓硯はただ笑っていた。石がひとつだけ鳴った。低く長い、歌の最初のひと声のような音だった。
山の上の常夜灯の前でアルテラが顔を上げた。旧市街のほうへ。