一
黒い石はあたたかかった。とくん、とくんと脈を打っている。
地下室には窓がなかった。壁の燭台でろうそくが一本、心細く燃えているだけだった。朝が来たことは、階段の上の戸のすきまからもれる細い光でわかった。
左の手のひらの石を、間桐桜はずっと見つめていた。虫はいつも冷たかった。
間桐の家に来てから、体の中の虫はいつも冷たかった。腕の皮膚の下を這うときも、骨の奥をなめるときも。冷たい指で内側から体をなぞられているようだった。
それが今はあたたかい。石から白い光が細い筋になって、手首へ、肘へと這いのぼっていく。その光が通ったところだけ、虫がぬくもっていた。ぬくい、と思った。
思ってしまった。そのとたん、腕の内側を何かがかんだ。桜は袖口をくわえて声をころした。
かまれるのはわかっていた。ゆうべ、山の上の灯芯を虫に消させなかった。そのぶんの罰だった。
それでも、桜はあの夜のことを思いだしていた。三時ごろ、百八段をのぼりきったときだった。拝殿の鈴がちりんと一回だけ鳴った。
風はなかった。誰もさわっていなかった。それなのに鈴は鳴った。誰かが来たと知らせるように。
——わたしが来たことを。
着いたことを知らせてもらったのは、はじめてだった。あの山の神社には遠坂先輩がいる。それも知っていた。
遠坂先輩、と桜は心の中で呼んでいた。いつからか、そう呼ぶことにしていた。姉さんと呼べば、返事がないことがわかってしまう。
一度だけ、口からこぼれたことがある。屋敷の屋根の上から、遠い橋の上の小さな背中を見たときだった。黒い炎の中へまっすぐに走っていった背中を。
夜風がそれをさらっていった。誰にも聞かれなかったはずだった。それでいいと思った。
「カカカ……ぬくかろう、桜」
暗がりで乾いた笑い声がした。小柄な老人が杖をついて立っていた。いつからそこにいたのかわからなかった。いつもそうだった。
間桐臓硯は桜の手の中の石をのぞきこんだ。落ちくぼんだ目が濡れたように光っていた。
「二百年前、わしはあの浜で聞いたのよ」
老人の声はうっとりとしていた。
「夜ごと浜に出て、波打ちぎわに耳をつけてのう。とくん、とくんと鳴っておった。波と同じ速さでな。……斬られ、焼かれ、沈められて、それでも死なぬものの音じゃ」
臓硯は自分の手を見下ろした。しみだらけの、枯れ枝のような手だった。
「腐らぬ命よ。腐りゆく体にこそ、ふさわしい」
桜は黙っていた。黙っているのがいちばんいいと知っていた。
「誰にも渡すな、と穂村に言わせたのはわしらよ」
臓硯はのどの奥で笑った。
「……わしは、わし以外の誰にも、と聞いたがのう」
老人は燭台の火を見上げた。
「鍵は眠っておった。穂村の火のそばでな。ふたは三人がかりで結んである。冬木ではしくじった。……じゃが、虫は待つのが得意じゃ」
しわだらけの指が石をつついた。
「それがどうじゃ。穂村の小僧が鍵を外へ出した。弓と槍がふたにひびを入れた。そのひびから白いのがのぼってきて、からっぽの型にたまりはじめた。沙条の娘は殻なぞに見向きもせなんだ。……ありがたいことよ」
「……型」
「型は中におったもののかたちを覚えておる。お前の虫にそのかたちを写させる。そうすれば、鍵がもうひとつできる」
臓硯の目が細くなった。
「間桐の鍵がのう」
桜は手のひらを見下ろした。虫が石のまわりに集まりはじめていた。ぞろぞろと白く光りながら。
「今夜の二時じゃ。底の者が寝がえりを打つ刻に、お前は海へ歩く。沙条の娘より先に炉を開ける。……わしは星を起こしはせん。眠らせたまま、その命を飲むだけよ」
「……はい」
「合鍵というのはな、桜。本物をそばに置いて削るものよ」
臓硯はまた笑った。
「案ずるな。本物のほうから歩いてくる。ゆうべもひとりで歩いてきおったわ」
それから、階段の上をちらりと見やった。
「あのやかましい女にも言うておけ。海のそばで剣なぞ振れば、炉が肥えるだけじゃとな」
手のひらの虫がいっせいに動いた。石のまわりにすきまなく群がって、指輪の台座のように石を抱えこんでいく。白い光が肘までのぼった。そのとき、声が聞こえた。
——おいで。
遠い、遠い、海の底からだった。
——おいで。
知らない声だった。やさしい声だった。誰かに呼ばれたことなど一度もなかったのに。
「お前を呼んでおるのではない」
臓硯は桜の顔を見もしなかった。
「お前の虫を呼んでおるのよ。……お前を呼ぶ者など、どこにもおらん。予備の炉に、予備の娘よ」
階段の上で金属のこすれる音がした。戸口にアヴェンジャーが立っていた。黒い鎧に色の抜けたような髪。金色の目が老人の背中をにらみつけている。その手は剣の柄にかかっていた。
「斬るか、アヴェンジャー」
臓硯は振りかえりもしなかった。
「わしを斬れば桜も死ぬぞ。……どこを斬ってもな」
アヴェンジャーは舌打ちをした。柄から手は離さなかった。抜きもしなかった。
「……はい、お爺さま」
桜は言った。何に返事をしたのか、自分でもわからなかった。わからないまま、いつも返事をしてきた。石がとくんと鳴った。
——おいで。
二
土曜日だった。学校はない。灯也が起きたのは昼前だった。茶の間の神棚の下に紫の風呂敷がたたんで置いてあった。中身はない。夜明けに自分でたたんだのだった。
卓袱台について冷めた味噌汁をすする。箸を持ちなおす。右手の小指はけさも何も感じなかった。箸がころんと畳に落ちた。
「拾う」
向かいからアルテラが手をのばして箸を拾った。その手に白い軍手がはまっていた。社務所の物置にある、境内の草むしり用の軍手だった。
九月に入ったばかりだった。外では蝉がまだ鳴いていた。
「……なんで軍手?」
「寒い」
アルテラは答えた。灯也は箸を受けとった。アルテラはふだん、答える前に少しだけ黙る。言葉をひとつずつ確かめるように。それがけさはすぐだった。
「アルテラ。夜明けに常夜灯のとこで旧市街のほう見てたろ。何か聞こえたのか」
「聞こえない」
また、すぐだった。あのとき、アルテラは誰かに呼ばれたように顔を上げた。灯也はそれを見ていた。灯也は何も言わなかった。言わなかったことが、喉のどこかにひっかかった。
境内に出ると、フラットが石畳の上にうつぶせになっていた。片方の耳を石にぴったりとつけている。その背中の横にしゃがみこんで、アストルフォが金色の髪をつついていた。
「マスター、生きてる?」
「生きてる生きてる。……しーっ」
フラットは目をつぶったまま言った。
「吸ってる。ストローみたいに。ふたのひびから、ちゅうって」
「何が」
「あの石が。海の底の白いのを」
社務所の階段に座っていた凛が顔を上げた。
「糸は?」
「海のほうから、ずっとのびてる。……ねじれてて、しつこい字だ」
凛の肩がこわばった。フラットが起きあがった。額に石畳の跡がついていた。いつもの笑顔はなかった。
「型ってさ、中に入ってたもののかたちになるでしょ。お菓子の型に流しこめば、型のとおりのお菓子になる」
フラットは指で宙に小さな丸を描いた。
「白いのがいっぱいになったら、あの石の中でかたちになる。中で眠ってた子のかたちに。……今夜にはいっぱいになると思う」
灯也は思わずアルテラを見た。アルテラは手水舎の前に立っていた。軍手をはめた両手をうしろで組んでいた。
社務所の黒電話が鳴った。祖母だった。
『灯也か。なんね、寝起きの声して』
「ばあちゃん。……どうしたの」
『どうもせん。石はどうしよる』
灯也は受話器を握りなおした。
「……ちゃんとあるよ。神棚に」
電話の向こうが少し黙った。
『……ほうね』
灯也は右の眉を押さえかけて、やめた。社務所の戸口にアルテラが立っていた。灯也の顔を見ていた。いつもなら「上がっていた」と言うはずだった。アルテラは何も言わなかった。
「それと、ばあちゃん。ゆうべ、常夜灯が消されかけたんだ。……知らない子が守ってくれた。虫に、消さないでくださいって言って」
『ほう』
祖母の声が少しやわらいだ。
『火を守ってもろうたら、火で返すもんよ』
「火で?」
『ほうよ。穂村は昔からそうしてきた。……それとな、灯也』
祖母は少し間を置いた。
『石は石じゃ。……人を取られなさんなよ』
灯也は返事ができなかった。お彼岸のころには帰れるけえ、と言って祖母は電話を切った。
昼すぎに灯也たちは旧市街のはずれまで歩いた。坂道の途中でふと気づいた。海が見える角を曲がるたびに、アルテラが灯也の左側へ回りこんでくる。海の側へ。
守ってくれているのだと思った。はじめは。三つめの角で気づいた。アルテラの目はずっと海のほうを向いていた。
坂の上に蔦に覆われた古い洋館が建っていた。鉄の門は錆びて閉ざされていた。窓という窓に厚いカーテンが引かれている。門の前で凛が足を止めた。
「結界がある」
門の手前の空気がかすかにゆがんでいた。夏の陽炎のように。凛はポケットに手を入れて、出した。何も握っていなかった。宝石はもうひとつもない。
「アーチャー」
「力ずくで開ければ、屋敷ごと崩れます」
アルジュナが静かに言った。
「中の方も」
凛は唇をかんだ。二階の窓のカーテンが少しだけ動いた。紫がかった髪の少女が窓辺に立っていた。季節はずれの長袖を着て、左の袖口を右手で押さえている。少女は凛を見た。
それから、灯也の隣のアルテラを見た。凛の右手が上がりかけた。胸の高さで止まった。カーテンが閉じた。
「……近い」
アルテラがつぶやいた。
「なに?」
「なんでもない」
また、間がなかった。凛は門を見たまま言った。
「間桐の後始末は遠坂の仕事よ。……穂村くんたちは」
そこで言葉が止まった。凛は長いあいだ黙っていた。
「……妹よ。あの子」
蝉の声がいっせいに大きくなった気がした。
「小さいころに間桐へやられたの。……それきり、家では誰もあの子の話をしなかった。わたしも」
灯也はカウレスの話を思いだしていた。三時に石段をのぼってきた、紫っぽい髪の女の子。虫に向かって、その火は消さないでください、と言った子。
「ゆうべ、常夜灯を守ってくれたの……」
「たぶん、あの子よ」
凛は門の向こうの窓を見上げた。
「昔から火を見てるのが好きな子だった。仏壇のろうそくの前にいつまでも座ってるような」
フラットが門の下の地面にしゃがみこんでいた。
「糸が海のほうへ下りてる。坂の下へ、ずうっと」
「夜まで見張ってるよ。空の上から」
アストルフォがヒポグリフの首をなでた。門の向こうの洋館は静まりかえっていた。蔦の葉だけが風に揺れていた。
三
日が沈むと、埋立地の新都心に灯りがともりはじめた。母屋の屋根の上から凛はそれを見ていた。
高層ビルの窓がひとつずつ灯っていく。そのどれかが、ついこのあいだまで凛が泊まっていたホテルだった。三十二階の窓から毎晩、この山の上の小さな灯りを見下ろしていた。
今は逆だった。小さな手のことを覚えていた。凛の袖をつかんで離さなかった手。どこへ行くにもうしろをついてきた、紫がかった髪の妹。ある日、その手がいなくなった。
よその家の車が迎えにきた朝だった。凛は自分の髪のリボンをほどいて、妹の髪に結んだ。それしかできなかった。泣かなかった。泣くのは遠坂の娘のすることではないと思っていた。
父は何も言わなかった。母も何も言わなかった。だから凛も何も聞かなかった。聞かないのが遠坂の娘の行儀だと思っていた。
冬木の学校では一学年下に間桐桜という名前があった。廊下ですれちがうたびに、あの子は小さく頭を下げた。遠坂先輩、と。凛もうなずき返すだけだった。
それで何年もやってこられた。やってこられたと思っていた。
蔵の帳面に書かれた『マキリ』の名。祭りの晩、人ごみの向こうに立っていた藤色の浴衣。ゆうべのアーケードで間桐の虫を見たとたんに動かなくなった自分の指。
うすうすは知っていたのだ。あの家の中がどうなっているのか。知っていて、聞かなかった。うしろで瓦がかたりと鳴った。アルジュナが屋根の上に立っていた。
「マスター」
「なによ」
「橋の上でうかがったことの、お返事をまだいただいておりません」
凛は新都心の灯りを見たまま黙っていた。あの夜、橋の上で聞かれたことだった。
——あなたにもご自分のためになさりたいことが、あるのではありませんか。
あのときは答えなかった。
「……あるわよ」
凛は言った。
「妹を迎えに行きたいの」
アルジュナはしばらく何も言わなかった。それから、新都心の灯りのほうへ目をやった。
「私にはもうひとり兄がおりました」
凛は顔を上げた。
「兄だと知ったのは、兄が死んだあとでした。……私がこの手で射たあとで」
アルジュナの声は静かだった。
「迎えに行けるうちに、迎えに行かれるべきです。マスター」
凛は答えなかった。答えるかわりに、膝の上でこぶしを握った。それから、袖の上から左腕の刻印をなぞった。
遠坂の家が代々重ねてきた魔術刻印だった。宝石がもうない今、凛が持っているのはこれだけだった。あの白い火は人の手が作ったものを消す。刻印も人の手が作ったものだ。
凛は膝の上の小箱に目を落とした。鍵のかかった黒い革の小箱。この町に来てから一度も開けていない。手のひらにのせて、しばらく重さをはかった。
「……まだよ」
小箱をポケットにしまった。
「サーヴァントの相手はサーヴァント」
凛は立ちあがった。
「……妹の相手はわたしがするの」
「では、道は私が」
アルジュナはそれだけ言った。宝石がなくてもいいのか、とは聞かなかった。勝てるのか、とも聞かなかった。
「遠坂として行くわ」
凛はスカートのほこりを払った。
「……それと、姉として」
屋根の縁から茶の間の窓が見えた。テレビの前でカウレスとアルテラが並んで、ゲームのコントローラーを握っていた。画面の中で同じキャラクターが二人、向かいあっている。服の色だけがちがう。
アルテラのほうのキャラクターが、また自分から相手の技に飛びこんでいった。
「おい、そっちはお前じゃねえよ。赤いほうがお前だ」
「……わかっている」
アルテラはまた負けた。
「お前、今日ぜんぜんだめだな。……いつもの『次は勝つ』は?」
アルテラは答えなかった。負けたほうのキャラクターが画面の中で起きあがるのを見ていた。クマのぬいぐるみを抱えたアビーが、アルテラの肩に鼻をよせた。くんくんとかぐ。
「セイバーさん、こわいのね」
「こわくない」
「……うそ」
アルテラはコントローラーを握ったまま、何も言わなかった。その両手に白い軍手がはまっていた。
凛は昼間の窓辺の少女を思いだした。季節はずれの長袖。袖口を押さえていた右手。
軍手の下に何があるのか、聞くべきだと思った。聞かなかった。聞かないのは行儀ではなかった。遠坂の娘の、悪い癖だった。
四
零時半。灯也は崖の手すりの前で湾を見ていた。うしろで常夜灯の火が揺れていた。その足もとでアビーが油の缶を抱えて、こくりこくりと舟をこいでいる。夜空からヒポグリフが舞いおりてきた。
「トウヤくん! あの子、出かけた!」
アストルフォが鞍の上から叫んだ。
「地下から、虫のトンネルで。追いかけたけど、途中で見えなくなっちゃった。……黒い鎧の人はいっしょじゃなかったよ」
そのとき、湾の左手で灯りの色が変わった。埋立地の新都心の、海に近いほうの街灯の列だった。
消えたのではなかった。ついたまま白くなっていた。橙色のナトリウム灯から、色だけがすうっと抜けていく。
停電の晩、港の灯りは遠いほうから順に消えていった。アビーの扉が開いた晩は、灯りはついたまま光がどこにも届かなかった。今夜はそのどちらともちがった。
光は届いている。届いたまま、色だけがなくなっていく。街灯の柱がぐにゃりと傾いた。砂の城が波に崩れるように、ゆっくりと。
「……塩だ」
フラットが手すりから身を乗りだした。
「あそこ、埋立地だよね。人が作った土地だ。……地面までぜんぶ作ったものなんだ」
アビーが目をさました。小さな丸い提灯を両手で差しだしていた。祭りの晩にアルテラが持っていて、そのあとカウレスにあずけた提灯だった。
「火を持っていくんでしょう?」
灯也は提灯を受けとった。常夜灯の火を手燭のろうそくに移して、提灯の中に立てる。紙の中で橙色の火が揺れた。
「セイバーさんのこと、見ててね」
アビーは小さな声で言った。アルテラは手すりの前に立っていた。軍手をはめた手を手すりにかけて、白くなっていく街灯の列を見ていた。
「アルテラ。……海、近いぞ。大丈夫か」
「大丈夫だ」
すぐだった。灯也は心の中で指を折った。なかった、白いな、寒い、聞こえない、なんでもない、大丈夫だ。
ひとつひとつはなんでもない言葉だった。並べると、なんでもなくなかった。
命令はしないと言った。アルテラは自分で決めると言った。それでも、ひとりにはしない。あの歌の前にひとりでは立たせない。
「行こう。……いっしょに」
アルテラが灯也を見た。少しだけ黙って、それからうなずいた。今夜はじめての、いつもの間だった。
カウレスとアビーが常夜灯に残った。
「穂村」
カウレスが眼鏡を押しあげた。
「火は消さねえ。……だから、ちゃんと持って帰ってこいよ。その火も、セイバーも」
灯也はうなずいた。フラットといっしょにヒポグリフの背にまたがる。アルジュナが凛を抱えて夜空へ跳んだ。アルテラは屋根から屋根へと走った。
ヒポグリフの背の上から、灯也はその白い髪を目で追った。提灯を上着の内側にかばう。風が強かった。紙の中で火が低く伏せて、それでも消えなかった。
眼下を旧市街の瓦屋根が流れていく。坂の上のあの洋館が見えた。窓はみんな暗かった。
ヒポグリフが大通りに降りた。真夜中の新都心に人影はなかった。それでも、町は壊れはじめていた。
ビルの一階のガラスが乳白色に濁って、さらさらと崩れおちていく。高層ビルの窓の灯りも下の階から順に白く抜けていく。
交差点の信号が赤も青も黄色も同じ白でまたたいていた。ビルの壁の広告で笑っている女の人が、のっぺりとした白い顔になっていく。
大通りの先の、埋立地のいちばん端の護岸。そこを中心に白い半円が陸のほうへ広がっていた。
アスファルトが塩に変わっていた。月の光を浴びて、一面がきらきらと光っている。護岸の向こうの水面だけが黒いままだった。その円のふちを黒いものがびっしりと囲んでいた。
虫だった。町じゅうの排水溝から湧きだした虫が、黒い川になって円のまわりを流れていた。その中心の護岸の手すりの前に少女がひとり立っていた。間桐桜だった。
その左腕が肩から指先まで白く光っていた。昼間、窓辺で袖口を押さえていた腕だった。
少女は海を見ていた。ふらりと手すりのほうへ一歩。アルジュナの腕の中で凛が身をよじった。
「桜!」
少女は振りむかなかった。
「カカカ……」
虫がいっせいに笑った。何万という小さな口が同じしわがれ声で。
「二時じゃ。底の者が寝がえりを打つ刻に、この鍵は海へ歩く」
アルテラが灯也の隣に降りたった。とくん。桜の手の中で石が鳴った。とくん。
同じ音がアルテラの胸の奥でもした。灯也にはそう聞こえた気がした。白い半円の光がぎらりと強くなった。
「よう来た、本物」
虫の声が笑った。
「……懐かしいのう。ここはわしの浜じゃった。二百年前、わしはここで星の音を聞いたのよ」
「型がセイバーちゃんをなぞってる!」
フラットが叫んだ。
「本物がそばにいると、合鍵が早くできちゃう! 近づいちゃだめ!」
アルテラの手が剣の柄にかかった。腕の紋様が光っていた。色のない光だった。灯也は息をのんだ。
アルテラは柄から手を離した。自分で離した。一歩うしろへさがる。また一歩。白い半円のふちから、町のほうへ。
「アルテラ!」
「ここにいる」
アルテラは海のほうを向いたまま言った。
「見えている。……トウヤの火が見えている」
灯也は自分の手の中の提灯を見た。アルテラと海とのあいだにその小さな火があった。
五
「ふたは割れてない」
フラットが白い半円のふちにしゃがみこんで、塩になった地面に指先をつけた。
「あの石がストローになって、底から白いのを吸いあげてるだけ。……でも、撃っちゃだめ。海のそばで何かを壊したら、その力はぜんぶ下に落ちて炉のごはんになる」
「ガンドは?」
凛が聞いた。
「ガンドはいいよ。呪いはあの白いのを病気にするから」
背後で靴音がした。黒い修道服の少女が街灯の下に立っていた。カレンの両腕の袖が赤くにじんでいた。左も右も。にじみは見ているあいだにも広がっていく。
「こんばんは。……今夜はずいぶん、お客さまが多いのですね」
カレンは虫の川を見下ろした。円のふちで黒い虫が白い光にふれた。
虫が白くなった。白くなった虫はぴたりと動きを止めて、ぱらぱらと塩になって崩れた。カレンの袖のにじみがひとつ、すうっと引いた。またひとつ。
「傷が閉じていきます」
カレンは自分の袖を見下ろした。
「……よい知らせではありませんね。悪魔ですらない何かに変わっていくということですから」
にじみはどんどん引いていった。左の手首のひとつだけが残った。
円のふちを一台のタクシーが走ってきた。虫の川に乗りあげて、ハンドルをとられて、白い光の中へ突っこんだ。
車体から色が抜けた。黄色が白に。それから、ボンネットが砂糖菓子のように崩れはじめた。運転手が悲鳴をあげた。
「ライダー!」
「まかせて!」
ヒポグリフが急降下した。アストルフォが運転席の窓から運転手の襟首をつかんで、ひょいと引っこぬいた。
タクシーはそのまま、まっ白な塩の山になった。運転手はアストルフォの腕の中で目を回していた。けがはなかった。
「車は消えても、おじさんは消えないんだね。……虫が消えるのは、魔術で作られた虫だからだよ」
フラットがつぶやいた。虫が円の外へあふれてきた。アストルフォの足もとへ、黒い波になって。
「よーし、こんどこそボクの出番! 触れれば転倒(トラップ・オブ・アルガリア)!」
金色の槍が虫の群れをなぎはらった。虫は一匹も転ばなかった。
「……あれれ?」
「ゆうべも転ばなかったでしょ! 虫は足がないの!」
フラットが叫んだ。アストルフォは槍を見て、虫を見て、また槍を見た。
「……忘れてた!」
アルジュナが弓を取った。
「マスター。道をおつくりします」
矢が夜空へ放たれた。空の高みで矢は百あまりに分かれた。とん、とん、とんと護岸までの道の両側に一本ずつ突きたっていく。石段をのぼる足音のように。
突きたったそばから一本一本が青白く燃えあがった。青い炎の並木が白い半円を一直線に貫いた。白い光が炎の列の外へ押しのけられた。虫の川も押しのけられた。
何も壊さなかった。ただ押しのけただけだった。あいだに一本の細い道ができた。少女の立つ護岸の手すりの、十歩手前まで。
「百八本」
アルジュナが言った。
「穂村の石段と同じ数です」
アルジュナの手が凛の手首の下にあった。ゆうべのアーケードと同じように、そっと下から支えていた。その手が離れた。
「見てなさいよ」
「ええ。ぜんぶ見ております」
凛が走りだした。青い炎の並木のあいだをまっすぐに。炎の列を飛びこえて虫が襲いかかってくる。凛は走りながら人さし指を向けた。
「——Gandr(ガンド)!」
黒い弾丸が虫を撃ちおとした。左腕の刻印が赤く燃えていた。一発。二発。三発。宝石のない魔術師の、腕一本ぶんの弾丸だった。最後の矢を過ぎた。
炎の列の外から白い光が流れこんで、凛の髪にふれた。髪を結んでいた二本の黒いリボンが白くなった。ほろりと塩になって崩れた。長い黒髪がほどけて夜風に広がった。
服から色が抜けていく。靴の底がさくさくと崩れていく。凛は靴を脱ぎすてた。はだしで塩の上を走った。
手すりの前で桜が振りかえった。左腕の皮膚の下で白い虫がうごめいていた。手のひらには黒い石が埋まっていた。
「……こんばんは、遠坂先輩」
ていねいな声だった。姉ではなく、ただの先輩に向ける声だった。凛は手をのばした。桜の腕から白い虫が噴きだして、凛の指に群がった。凛は手を引いた。一度だけ。
「間桐の娘になんの用じゃ、遠坂の」
虫がいっせいにしゃべった。
「……捨てたのは遠坂じゃろう」
「知ってるわよ」
凛は言った。
「だから来たの。……十年遅れでも、遠坂は戻ってくるのよ」
黒い虫の群れが凛の左腕に食らいついた。刻印の赤い光が虫に吸われていく。ひと筋、またひと筋と消えていく。凛はうめいた。それでも腕を引かなかった。桜の顔が変わった。
ずっと何も映していなかった目に何かがともった。右手の指先で小さな黒い火花が散った。ぱちっと。凛はもう一度手をのばした。白い虫ごと、石を握った桜の手をつかんだ。
灯也は提灯をかかげて、炎の並木のあいだを走った。最後の矢を過ぎた。
提灯の紙が白くなった。ほろほろと崩れて塩になった。中のろうそくもやわらかく崩れはじめる。芯が白くなる。火が小さくなる。
——人の手が作ったものは消える。
——人の体は消えない。
灯也は火に手をのばした。
「——灯れ」
火が灯也の手のひらに移った。ろうそくが塩になって、指のあいだからこぼれおちた。火は消えなかった。灯也の手のひらの上で橙色に揺れていた。
握りしめはしなかった。右手から左手へ。左手から右手へ。ためこまずにただ通していく。
——あんたは炉じゃない。道よ。
腕が焼けるように熱かった。鼻の奥で血の味がした。灯也はちらりと振りかえった。
炎の並木のずっと向こう、白い半円のふちにアルテラが立っていた。軍手の両手を体の横にたらして、こちらを見ていた。
この火が見えている、とアルテラは言った。だったら、消すわけにはいかなかった。
そのとき、背後の空が割れた。振りかえると、旧市街の丘の上に黒い火の柱が立っていた。夜空を突きさすように、まっすぐ上へ。
六
零時だった。地下室で桜が泣いていた。声は出していなかった。泣きながら、口だけが勝手に動いていた。暗がりのしわがれた声をなぞるように。
「令呪をもって命じます」
桜の右手の甲が赤く光った。
「……アヴェンジャーさん。この屋敷から出ないでください」
一画が燃えて消えた。見えない壁が戸口をふさいだ。アヴェンジャーは歯をくいしばった。戸口の向こうへは一歩も出られなかった。
桜は泣いたまま、虫に手を引かれて地下道の闇へ消えていった。カカカと笑う声だけが残った。それから一時間あまり、アヴェンジャーは戸口で見えない壁を押しつづけた。
令呪は体を縛る。腹の中までは縛れない。それでも、体が動かなければ同じことだった。
一時四十分。アヴェンジャーは地下室にひとりで立っていた。手のひらに黒い炎をともした。照らす顔はなかった。
この屋敷に来てから、炎をともすのはいつもあの子の顔を見るためだった。暗い部屋の隅であの子はいつも窓の外を見ていた。山の上の小さな灯り。祭りの晩の提灯の列。
ちっぽけだからです、とあの子は言った。だから花火の晩、防波堤の先まで連れだした。楽しいわけ、と聞いた。よくわかりません、とあの子は答えた。
それでも、あの子は最後まで空を見ていた。壁ぎわの棚に干からびた老人の体がいくつも並んでいた。虫を詰めた予備の体だった。それを見ても炎は大きくならなかった。
足りなかった。この体はいつだって怒りで燃えている。それなのに、今夜はうまく燃えなかった。腹の底がからっぽだった。
——あの子がいないからだ。
アヴェンジャーは鼻で笑った。くっだらない。サーヴァントはマスターの魔力で動く。あの子から流れてくるのは、いつだって冷たいものだけだった。あきらめと、我慢と、はいという声。
そのとき、つながりの向こうから何かが流れてきた。熱かった。桜からだった。黒い火花のように、ちりちりと。
——怒ってる。
誰かのために。あの子が自分から。アヴェンジャーの手の中で黒い炎がごうと燃えあがった。
「……やっと怒ったわね、桜」
戸口の先にはまだ見えない壁があった。この屋敷から出るな。アヴェンジャーは天井を見上げた。口の端がつりあがった。
「出るな? いいわよ。出ないわ」
剣を抜いた。
「……屋敷のほうをなくしてあげる」
海のそばで剣を振れば炉が肥える。あのジジイはそう言っていた。ここは丘の上だった。海からは遠かった。炎の行き先は上だ。海へではなく、空へ。
炎の向こうに見えるものがあった。どこかの広場。積みあげられた薪。柱に縛られた女。足もとから這いあがってくる火。
知っている光景だった。それでいて、ずっと他人の夢のような気がしていた。誰かの燃えのこり。
——ちがう。
あれは私だ。
「ジャンヌ・ダルク」
名を口にした。
「焼かれた女の燃えのこりよ。……燃やすのは、得意なの」
ジャンヌは剣を床に突きたてた。
「海には一滴もやらないわよ。燃えるのはジジイの巣だけ」
足もとから黒い炎が噴きあがった。
「これは憎悪によって磨かれた我が魂の咆哮——」
地下室の空気がびりびりとふるえた。
「——吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)!」
黒い炎の槍が床から突きあがった。地下室の天井を突きやぶる。一階の床を。二階の床を。屋根を。壁の蔦を。
突きあがる炎はどれも杭のかたちをしていた。あの広場で女を縛った柱と同じかたちを。
二百年かけて肥えた虫の巣がいっせいに燃えあがった。棚の予備の体が悲鳴をあげて灰になった。壁の奥の虫も、天井裏の虫も黒い炎の中でのたうって消えていく。
燃える壁の奥で何千というしわがれ声がわめいた。
「アヴェンジャー、きさま……!」
「聞こえないわね、ジジイ」
ジャンヌは剣の柄をさらに押しこんだ。黒い炎がもう一段高く噴きあがった。黒い火の柱が旧市街の丘の上に立った。海から遠く、まっすぐ空へ。
旧市街の家々の窓にひとつ、またひとつと灯りがついた。寝ぼけた顔が雨戸のすきまから空を見上げる。誰かが消防に電話をかける声がした。
柱はそれを見下ろして燃えていた。燃やしたのは虫と虫の巣だけだった。炎の中でジャンヌはつながりの向こうへ言葉を投げた。届くかどうかはわからなかった。それでも投げた。
「怒っていいのよ」
ずっと言いかけてきた言葉だった。最後まで言えたことはなかった。
言ったところで、あの子は「はい」と答えるに決まっていた。怒れと命じられて、はいと怒るような子だった。そんな怒りなら、いらなかった。今なら届く。あの子は自分で怒ったのだから。
「憎んでいいの、あんたは。……あのジジイも、遠坂も、私のことだって」
炎が消えた。屋敷はなかった。黒く焦げた土台と灰の山だけが丘の上に残っていた。夜風が灰を巻きあげた。ジャンヌは灰の中に立っていた。
鎧にひびが入っていた。体の輪郭が少し薄くなっていた。戸口のあった場所を見る。見えない壁はもうなかった。
「……で?」
ジャンヌはあたりを見まわした。
「屋敷って、どこ?」
それから、海のほうへ駆けだした。
七
石が泣いていた。手のひらの中でずっと、おいで、おいでと。胸の奥では別の声がしていた。心臓のすぐそばに丸まっている、古い古い虫の声。はいと言え。はいと言え。
旧市街の丘で黒い火の柱が立ったとき、まわりの虫がいっせいに悲鳴をあげた。それから、潮が引くように動きがにぶくなった。それでも、胸の奥の声だけはやまなかった。
外には手があった。熱い手だった。虫にかまれて血のにじんだ手。刻印の光がほとんど消えて、それでも離れない手。
遠坂先輩の手だった。誰かが桜の前にしゃがみこんだ。金色の髪の少年だった。鼻の頭に塩がついていた。
「僕、フラット。……さわってもいい?」
桜は少年を見た。さわっていいかと聞かれたのは、はじめてだった。虫は一度も聞かなかった。お爺さまも聞かなかった。桜はうなずいた。誰にも動かされていなかった。
フラットの指先が桜の手首にふれた。宙に光の糸が浮かびあがった。結び目だった。何重にもからまりあった、固い結び目。
「白い糸が、石の型の糸。……これはねじれてて、しつこい字。あのおじいさんのだ」
フラットは指で一本ずつなぞっていった。
「それから、これ」
いちばん奥に細い糸が一本あった。ふるえるような、たよりない線だった。
「この最後のひと巻き、きみの字なんだ」
桜は息をのんだ。
「はい、はいって。何年もかけて、きみが自分で巻いてきた。……三本とも、きみの心臓のところの虫に結んである」
桜は自分の字だという糸を見た。はい、お爺さま。虫を入れられた最初の夜も、痛いかと一度も聞かれなかった夜も、桜はそう言った。言えば、少しだけ早く終わった。
その一回一回がこうして巻きついていた。フラットの鼻から血がひとすじ垂れた。
「僕が書きかえたら、きみはまた誰かに書きかえられたことになっちゃう」
フラットは首を振った。
「……これはきみにしか切れないよ」
桜には返事ができなかった。石の泣き声が大きすぎた。おいで。おいで。おいで。もうひとり、誰かが桜の前に膝をついた。
両手のあいだに火が揺れていた。右手から左手へ。左手から右手へ。腕は赤くただれて、鼻の下に血がこびりついていた。穂村の跡取りの少年だった。
「穂村灯也。……これ、うちの常夜灯の火」
灯也は言った。
「……間桐さんが消さないでくれたやつ。返しにきた」
桜は火を見た。きのうの夜明け前、山の上で見た火だった。ちっぽけな火。
「——灯れ」
火が灯也の手を離れて、桜の手のひらへ流れてきた。熱くはなかった。あたたかかった。桜はそれを通した。止めなかった。手のひらの石のほうへ。
石の中の白いものがふっとゆるんだ気がした。型は中にいたもののかたちを覚えている。中にいた子は火のそばで眠っていた。
——火を見ると、泣きやむ子。
石が静かになった。泣き声がやんだ。灯也が小さく声をもらした。右手の小指を見ていた。ふしぎそうに何度も曲げたりのばしたりしている。
それから、その目が桜の胸のあたりで止まった。火を通して見えたのだろう。心臓のそばの、ねじれた糸が。
灯也の手がかすかに動いた。燃やせば届く。そう思った顔だった。灯也は手を開いたまま、何もしなかった。
静かになった。静かになったから、聞こえた。胸の奥の細いつながりの向こうから、かすれた声がした。
——怒っていいのよ。憎んでいいの、あんたは。
ずっと言いかけてはやめていた声だった。
「……桜」
すぐそばで遠坂先輩が呼んだ。
「桜。はい、と言え」
遠坂先輩ではなかった。胸の奥でしわがれた声がした。手をつかむ力が強くなった。
「授業その十二」
遠坂先輩は痛みをこらえた声で言った。
「呪文は世界に言うんじゃない。自分に言うの。言葉は自分の中のスイッチを入れる合図」
目の前で灯也がはっと顔を上げた。その言葉を知っているみたいだった。遠坂先輩は桜の目をまっすぐに見ていた。
「……あんたのスイッチはあんたの口の中にあるのよ」
しわがれた声が遠坂先輩の声にかぶさった。
「はい、と言え。桜」
桜は口を開いた。何年も、何百回もこの口はそう言ってきた。はい、お爺さま。はい。はい。胸の奥で虫が心臓をしめつけた。
息がつまった。口がいつものかたちになりかけた。つかまれた手が熱かった。指先で黒い火花がちりっと鳴った。
——わたしの、口。
「……いいえ」
小さな声だった。自分の声だと、すぐにはわからなかった。かちりと。体の中で何かが閉じた。回路だった。開いたまま閉じたことのなかった扉が、自分の手で閉まった。
いちばん奥の細い糸がほどけた。ねじれた糸がつかまる先をなくして、ゆらゆらと揺れた。
左腕の白い虫がいっせいに動きを止めた。合鍵になるはずだった虫だった。お爺さまの糸がほどけたとたん、外の虫と同じように塩になって、袖の中からこぼれおちていく。
体が静かだった。虫の這う感じがしなかった。小さかったころから、ずっとしていたのに。右手の指先にはまだ黒い火花が残っていた。ちりちりと小さく。それは消えなかった。
わたしのだ、と桜は思った。手を見下ろした。桜の手の下に遠坂先輩の手があった。ほどけた黒髪がその手の上にかかっていた。
遠坂の家を出た朝、この人の髪は片方だけほどけていた。自分のリボンをほどいて、桜の髪に結んでくれたから。
「……姉さん」
声に出していた。姉は顔を上げなかった。重ねた手を見たまま言った。
「……なに」
朝、台所で呼ばれたときのような声だった。十年前と同じ声だった。重ねた手の甲に上からぽたりと熱いものが落ちた。背後でどすんと音がした。
黒い鎧が塩の上に降りたっていた。ひびだらけで、体じゅうから煙が上がっていた。ジャンヌは桜を見下ろした。桜の中からつながりの向こうへあたたかいものが流れていった。
「……あったかいじゃない」
桜はジャンヌを見上げた。この人が屋敷ごと燃やしてきたことは、つながりに残った火の熱でわかった。
桜は何か言おうとした。はい、ではない言葉を。見つからなかった。かわりに少しだけ笑った。自分が笑ったことに、桜はおどろいた。
八
桜の手がゆっくりと開いた。その下に凛の手があった。
桜の手のひらに黒い石がころんと残っていた。もう虫の台座はなかった。白い光は火に眠らされたように石の奥に沈んでいた。とくん、とくんとまだかすかに鳴っていた。
桜の左の袖が波打った。何かが袖の中を這いおりてくる。胸のあたりから肘へ、肘から手首へ。
桜が胸を押さえて、声にならない声をあげた。凛がその体を抱きとめた。ジャンヌの剣が半分抜けて、そこで止まった。斬れる場所がどこにもなかった。
桜の指のあいだから、白くぶよぶよとした虫が一匹、頭を出した。親指ほどの年老いた虫だった。しわだらけの頭に落ちくぼんだ小さな目がふたつ。灯也にはわかった。
あれがマキリ・ゾォルケンだった。社務日記に名を残した魔術師の、なれの果てだった。
心臓のそばに巣くっていた本体。巣は灰になり、糸は切られた。もうどこにも行く場所がない。虫は石にしがみついた。石が桜の指先からこぼれた。灯也の手が勝手に動いた。
つかんでいた。御神体だった。穂村が代々守ってきた星石だった。けっして誰にも渡すな。体が覚えていた。手の中で石が鳴った。とくん。
石にしがみついていた虫が、灯也の手首へ這いあがってきた。冷たかった。ぬるりとしていた。小指がそれを感じた。さっきまで何も感じなかった指が。
「開きっぱなしの回路か」
虫がしゃべった。灯也の手首の上で、しわがれた声で。
「……ほう、よい器じゃ」
虫の頭が灯也の腕の内側をさぐった。皮膚の下へもぐりこむ場所をさがすように。
——石は石じゃ。
祖母の声がした。
——人を取られなさんなよ。
灯也は腕をのばした。護岸の手すりの向こう、黒い海の上へ。石を握った右手を海の上にかざした。
石はあたたかかった。小さいころから本殿でさわるたびに、いつもあたたかかった石だった。中で眠っていた子はもう外にいる。
「……ごめん、ばあちゃん」
手を開いた。何百年も穂村が守ってきたものだった。ばあちゃんも、ばあちゃんのばあちゃんも、その前の誰かも。二百年前からは誰にも渡すなと言われて守ってきた。
それを自分の手で放した。石が落ちた。虫は迷わなかった。灯也の手首を蹴るようにして、落ちていく石に飛びついた。若い器よりも、腐らない命のほうを。二百年待ったもののほうを。
灯也の手を離れたとたん、石の奥で眠っていた白い光が目をさました。白い光が虫を包んだ。虫が白くなった。
「……なんじゃ、これは」
しわがれ声がはじめて裏返った。
「わしは……わしは人じゃ……」
人の手が作ったものを、作られる前に戻す火。何百年もかけて自分の体を虫で作りなおしてきた老人は、もう人ではなかった。作られたものだった。虫の声がした。消えいりそうな声だった。
「……聞こえる。……二百年前と、同じじゃ……」
それから。
「……雪の、ごとく……」
虫の小さな目はもう灯也を見ていなかった。海も見ていなかった。どこか遠いところを見ていた。ずっと昔、この町で見た誰かを。
蔵で見た絵が灯也の頭に浮かんだ。墨一色の細い線。長い髪の女の人。その御姿、雪のごとく白く。虫は塩になってほどけた。白い粉がさらさらと黒い海に散った。
凛は桜を抱きかかえたまま、それを見ていた。何も言わなかった。桜は見なかった。凛の肩に顔をうずめていた。石が海に沈んだ。
水面は黒いままだった。白い火はひとつも上がらなかった。ただ、水の中を青白い筋がひとすじ走っていった。湾の奥へ。暁浜大橋のまんなかの、その下へ。午前二時。
ごくりと。海の底で何かが喉を鳴らした。大橋の灯りがいっせいにまたたいた。一度だけ。海の底の歌が少しだけ大きくなった。
灯也はすぐには振りかえれなかった。白い半円のふちでアルテラがどちらを向いているのか、確かめるのがこわかった。
足もとで白い半円の広がりが止まった。青い炎の並木だけが、塩の原の上で静かに燃えつづけていた。
フラットが護岸から身を乗りだして、海に手をつけた。しばらく目を閉じていた。
「ひび、広がった」
フラットは言った。
「……でも、あふれてない。寝たまま帰ったんだ。殻だけ、おうちに」
円のふちでカレンが自分の手首を見下ろしていた。最後のにじみがすうっと引いていった。
「……最後のひとつが閉じました」
カレンは言った。
「どなたか、いなくなりましたね」
灯也は答えなかった。カレンは海を見た。
「ふたはまだ割れておりません。ですから、教会もまだ何もいたしません。……まだ、ですけれど」
それから、丘の上でくすぶっている黒い煙のほうを見やった。
「洋館は失火。埋立地は地盤の液状化。……ふたつ同時は初めてです。言いわけを考えるのも楽ではありませんね」
カレンはポケットから軟膏の缶を取りだした。凛の左腕の、虫にかまれた傷にたっぷりと塗る。
「とてもしみますけれど」
「いったああああ!」
凛が叫んだ。はだしの足で塩をばたばたと蹴った。カレンは少しだけ満足そうだった。
青い炎の並木がひとつずつ消えていった。アルジュナが塩の原を歩いてきて、凛の前に膝をついた。
「お見事でした、マスター」
「……見てたでしょ」
「ええ。ぜんぶ」
ヒポグリフが舞いおりてきた。鞍の上でタクシーの運転手がまだ目を回していた。
「このおじさん、どこに置いてこう?」
アストルフォが首をかしげた。誰も答えられなかった。灯也は自分の右手を見下ろした。小指の先がじんじんと痛んでいた。痛かった。それがうれしかった。
九
石が海へ沈んでいくのを、アルテラは白い半円のふちで見ていた。自分の揺りかごだった。
気の遠くなるほど長いあいだ、あの石の中で眠っていた。崖の上の火を見ながら。それが自分を置いて帰っていった。
——私が出てきたからだ。
石がからっぽにならなければ、白いものがたまることもなかった。あの老人が盗むことも、あの娘が虫に食われることもなかった。海の底の歌が大きくなっていた。
——帰っておいで。
——帰っておいで。
軍手の下の紋様が、指先から肘まで色のない光を放っていた。灯也が護岸の手すりの前に立っていた。右手を海の上にかざしたまま。何も握っていない手だった。
火は引っぱらない。道を照らすだけ。あの手は石を引きとめなかった。アルテラは歩きだした。一歩ごとに歌が背中を引いた。足もとの塩がさくりと鳴った。
行き先は海ではなかった。灯也だった。手すりの一歩手前でアルテラは足を止めた。灯也が振りかえった。鼻の下に血がこびりついていた。両腕が赤くただれていた。
それでも、灯也はアルテラを見て少しだけ笑った。アルテラは何も言わなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。
空が白みはじめるころ、百八段の下にたどりついた。凛は桜を背負っていた。はだしだった。足の裏が塩と血で汚れていた。髪はほどけたままだった。
袖からのぞく左腕の刻印は暗かった。ひと筋だけが思いだしたように赤くまたたいていた。
「代わるよ、遠坂さん」
灯也が言った。
「いい」
凛は前を見たまま言った。
「じゃあ、アーチャーに」
「いいって言ってるでしょ」
アルジュナは何も言わずに一段うしろをついていった。石段の半分あたりで凛が足を止めた。肩で息をしている。
「……遅くなって、ごめん」
息の切れた声だった。背中の桜は何も言わなかった。ただ、凛の肩にそっと額をあずけた。
石段の上でジャンヌが腕組みをして待っていた。鎧のひびは少しだけふさがっていた。
「で? 私はどこで寝ればいいわけ。帰る屋敷はもうないんだけど」
「部屋なら……」
灯也が言いかけた。
「わたしの部屋に入れるわよ」
凛が即答した。灯也は口を開けて、閉じた。凛の部屋は祖母の部屋だった。祖母はお彼岸のころには帰ってくる。
——ばあちゃん、なんて言うかな。
ほうね、と言う気がした。ジャンヌは境内を見まわした。それから、崖の上の常夜灯に目を止めた。
「……ちっぽけな火ね」
鼻を鳴らした。
「まあ、悪くないけど」
常夜灯の前でカウレスが顔を上げた。アビーはその膝で眠っていた。
「穂村。火、ちゃんと持って帰ってきたか」
灯也は自分の両手を見た。何も持っていなかった。
「……あげてきた」
カウレスはしばらく灯也を見ていた。それから、凛の背中で目を閉じている桜を見た。
「……そっか」
カウレスの目が灯也のうしろへ動いた。
「……セイバーは」
「大丈夫だ」
アルテラが答えた。すぐだった。凛の背中で桜が顔を上げた。
凛が石段の上で振りかえった。
「穂村くん。手当てが済んだら寝なさい。あんた、ひどい顔よ」
「遠坂さんもな」
言ってから、灯也は埋立地での凛の声を思いだした。
——呪文は世界に言うんじゃない。自分に言うの。
前にも言われたことがあった。石段の下の公園からラジオ体操の音楽が流れてきた朝。凛は灯也の胸の前に水晶をかざして、同じことを言った。あんたの場合は『灯れ』がそのスイッチ、と。
あれが授業その五だった。開きっぱなしの回路を閉じるための授業だった。
凛の授業にはいつも番号がついていた。朝ごはんの席の「あんたは炉じゃない。道よ」がその十一。十一個の番号はどれも灯也のものだった。十二番目は桜に渡った。
「……なあ、授業その十二って半分はその五だろ」
すねた子どもみたいな声になった。
「次は俺の番じゃなかったのか」
「あんたはその十一の途中でしょ」
凛の目が灯也の腕に落ちた。
「通るものが熱ければ道だって焼けるって言ったわよね。……思いっきり焼いてきたじゃない。合格はまだ先よ」
肘の内側まで赤くただれた腕を、灯也は見下ろした。返す言葉がなかった。凛はつんと横を向いた。
「……それに、あれは姉の授業よ」
「姉の?」
「遠坂の家に生まれたら、最初に習うことなの」
凛は石段の下を見ていた。旧市街のはずれの丘からまだ細い煙がのぼっていた。
「この子は教わる前によその家へやられたの」
背中の桜が身じろぎした。凛は顔を向けずに背負いなおした。
「その五のあの話も父さんの受け売りよ。……十二はもともとこの子がもらうはずだった分」
灯也は胸に手をやった。あの朝、水晶をかざされたあたりだった。
「……じゃあ、授業料は? 高いんだろ」
「もうもらったわよ」
凛は短く言って、母屋のほうへ歩いていった。授業料が何だったのか、灯也にはわかった。背負われた桜の耳が赤くなっていた。
母屋の縁側に桜が座っていた。毛布を肩にかけていた。灯也が湯のみを置くと、桜は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございました。火を」
「こっちこそ。常夜灯のこと」
桜は少し黙った。それから、境内の向こうを見た。崖の手すりの前に立っている、白い髪の背中を。
「……あの人の『大丈夫』は」
桜は言った。
「わたしの『はい』と同じ声でした」
灯也は湯のみを持つ手を止めた。
「……知ってる」
東の空が赤くなっていた。灯也はアルテラの隣に立った。
常夜灯の足もとの湯のみで露草がしぼんでいた。ゆうべのままだった。いつもなら、夜明けにアルテラが新しいのに替えておくはずだった。灯也はアルテラの手を取った。
軍手ごしにそっと握った。小指が冷たさを感じた。木綿の布ごしに氷のような冷たさを。布の織り目のすきまから、色のない光がにじんでいた。灯也は手を離さなかった。
「どうした、トウヤ」
「……なんでもない」
右の眉が上がったのが、自分でもわかった。アルテラは灯也の顔を見なかった。海を見ていた。
暁浜大橋の島側の主塔のてっぺん。沙条愛歌は青いワンピースの膝を抱えて、ひと晩じゅう鼻歌を歌っていた。水平線から日がのぼった。鼻歌はやまなかった。
「殻はおうちに帰ったわ」
愛歌はうれしそうに言った。
「……あとは鍵だけ」
隣でカルナが旧市街の丘を見ていた。黒い煙はもう細くなっていた。
「あの娘は自分の口で断った」
カルナは言った。
「……見事だ」
愛歌は返事をしなかった。また鼻歌を歌いはじめた。
山の上の常夜灯の前で灯也はふと顔を上げた。隣で小さな声がしていた。アルテラが鼻歌を歌っていた。口をほとんど動かさずに低く、ゆっくりと。
海の底から聞こえてくるのと同じ節だった。アルテラは自分が歌っていることに気づいていないようだった。灯也は名前を呼びかけて、やめた。