Fate/Starfall Harbor   作:mecono

11 / 11
第十話 届ける火と、沈む石

一

 黒い石はあたたかかった。とくん、とくんと脈を打っている。

 

 地下室には窓がなかった。壁の燭台でろうそくが一本、心細く燃えているだけだった。朝が来たことは、階段の上の戸のすきまからもれる細い光でわかった。

 

 左の手のひらの石を、間桐桜はずっと見つめていた。虫はいつも冷たかった。

 

 間桐の家に来てから、体の中の虫はいつも冷たかった。腕の皮膚の下を這うときも、骨の奥をなめるときも。冷たい指で内側から体をなぞられているようだった。

 

 それが今はあたたかい。石から白い光が細い筋になって、手首へ、肘へと這いのぼっていく。その光が通ったところだけ、虫がぬくもっていた。ぬくい、と思った。

 

 思ってしまった。そのとたん、腕の内側を何かがかんだ。桜は袖口をくわえて声をころした。

 

 かまれるのはわかっていた。ゆうべ、山の上の灯芯を虫に消させなかった。そのぶんの罰だった。

 

 それでも、桜はあの夜のことを思いだしていた。三時ごろ、百八段をのぼりきったときだった。拝殿の鈴がちりんと一回だけ鳴った。

 

 風はなかった。誰もさわっていなかった。それなのに鈴は鳴った。誰かが来たと知らせるように。

 

 ——わたしが来たことを。

 

 着いたことを知らせてもらったのは、はじめてだった。あの山の神社には遠坂先輩がいる。それも知っていた。

 

 遠坂先輩、と桜は心の中で呼んでいた。いつからか、そう呼ぶことにしていた。姉さんと呼べば、返事がないことがわかってしまう。

 

 一度だけ、口からこぼれたことがある。屋敷の屋根の上から、遠い橋の上の小さな背中を見たときだった。黒い炎の中へまっすぐに走っていった背中を。

 

 夜風がそれをさらっていった。誰にも聞かれなかったはずだった。それでいいと思った。

 

「カカカ……ぬくかろう、桜」

 

 暗がりで乾いた笑い声がした。小柄な老人が杖をついて立っていた。いつからそこにいたのかわからなかった。いつもそうだった。

 

 間桐臓硯は桜の手の中の石をのぞきこんだ。落ちくぼんだ目が濡れたように光っていた。

 

「二百年前、わしはあの浜で聞いたのよ」

 

 老人の声はうっとりとしていた。

 

「夜ごと浜に出て、波打ちぎわに耳をつけてのう。とくん、とくんと鳴っておった。波と同じ速さでな。……斬られ、焼かれ、沈められて、それでも死なぬものの音じゃ」

 

 臓硯は自分の手を見下ろした。しみだらけの、枯れ枝のような手だった。

 

「腐らぬ命よ。腐りゆく体にこそ、ふさわしい」

 

 桜は黙っていた。黙っているのがいちばんいいと知っていた。

 

「誰にも渡すな、と穂村に言わせたのはわしらよ」

 

 臓硯はのどの奥で笑った。

 

「……わしは、わし以外の誰にも、と聞いたがのう」

 

 老人は燭台の火を見上げた。

 

「鍵は眠っておった。穂村の火のそばでな。ふたは三人がかりで結んである。冬木ではしくじった。……じゃが、虫は待つのが得意じゃ」

 

 しわだらけの指が石をつついた。

 

「それがどうじゃ。穂村の小僧が鍵を外へ出した。弓と槍がふたにひびを入れた。そのひびから白いのがのぼってきて、からっぽの型にたまりはじめた。沙条の娘は殻なぞに見向きもせなんだ。……ありがたいことよ」

 

「……型」

 

「型は中におったもののかたちを覚えておる。お前の虫にそのかたちを写させる。そうすれば、鍵がもうひとつできる」

 

 臓硯の目が細くなった。

 

「間桐の鍵がのう」

 

 桜は手のひらを見下ろした。虫が石のまわりに集まりはじめていた。ぞろぞろと白く光りながら。

 

「今夜の二時じゃ。底の者が寝がえりを打つ刻に、お前は海へ歩く。沙条の娘より先に炉を開ける。……わしは星を起こしはせん。眠らせたまま、その命を飲むだけよ」

 

「……はい」

 

「合鍵というのはな、桜。本物をそばに置いて削るものよ」

 

 臓硯はまた笑った。

 

「案ずるな。本物のほうから歩いてくる。ゆうべもひとりで歩いてきおったわ」

 

 それから、階段の上をちらりと見やった。

 

「あのやかましい女にも言うておけ。海のそばで剣なぞ振れば、炉が肥えるだけじゃとな」

 

 手のひらの虫がいっせいに動いた。石のまわりにすきまなく群がって、指輪の台座のように石を抱えこんでいく。白い光が肘までのぼった。そのとき、声が聞こえた。

 

 ——おいで。

 

 遠い、遠い、海の底からだった。

 

 ——おいで。

 

 知らない声だった。やさしい声だった。誰かに呼ばれたことなど一度もなかったのに。

 

「お前を呼んでおるのではない」

 

 臓硯は桜の顔を見もしなかった。

 

「お前の虫を呼んでおるのよ。……お前を呼ぶ者など、どこにもおらん。予備の炉に、予備の娘よ」

 

 階段の上で金属のこすれる音がした。戸口にアヴェンジャーが立っていた。黒い鎧に色の抜けたような髪。金色の目が老人の背中をにらみつけている。その手は剣の柄にかかっていた。

 

「斬るか、アヴェンジャー」

 

 臓硯は振りかえりもしなかった。

 

「わしを斬れば桜も死ぬぞ。……どこを斬ってもな」

 

 アヴェンジャーは舌打ちをした。柄から手は離さなかった。抜きもしなかった。

 

「……はい、お爺さま」

 

 桜は言った。何に返事をしたのか、自分でもわからなかった。わからないまま、いつも返事をしてきた。石がとくんと鳴った。

 

 ——おいで。

 

二

 土曜日だった。学校はない。灯也が起きたのは昼前だった。茶の間の神棚の下に紫の風呂敷がたたんで置いてあった。中身はない。夜明けに自分でたたんだのだった。

 

 卓袱台について冷めた味噌汁をすする。箸を持ちなおす。右手の小指はけさも何も感じなかった。箸がころんと畳に落ちた。

 

「拾う」

 

 向かいからアルテラが手をのばして箸を拾った。その手に白い軍手がはまっていた。社務所の物置にある、境内の草むしり用の軍手だった。

 

 九月に入ったばかりだった。外では蝉がまだ鳴いていた。

 

「……なんで軍手?」

 

「寒い」

 

 アルテラは答えた。灯也は箸を受けとった。アルテラはふだん、答える前に少しだけ黙る。言葉をひとつずつ確かめるように。それがけさはすぐだった。

 

「アルテラ。夜明けに常夜灯のとこで旧市街のほう見てたろ。何か聞こえたのか」

 

「聞こえない」

 

 また、すぐだった。あのとき、アルテラは誰かに呼ばれたように顔を上げた。灯也はそれを見ていた。灯也は何も言わなかった。言わなかったことが、喉のどこかにひっかかった。

 

 境内に出ると、フラットが石畳の上にうつぶせになっていた。片方の耳を石にぴったりとつけている。その背中の横にしゃがみこんで、アストルフォが金色の髪をつついていた。

 

「マスター、生きてる?」

 

「生きてる生きてる。……しーっ」

 

 フラットは目をつぶったまま言った。

 

「吸ってる。ストローみたいに。ふたのひびから、ちゅうって」

 

「何が」

 

「あの石が。海の底の白いのを」

 

 社務所の階段に座っていた凛が顔を上げた。

 

「糸は?」

 

「海のほうから、ずっとのびてる。……ねじれてて、しつこい字だ」

 

 凛の肩がこわばった。フラットが起きあがった。額に石畳の跡がついていた。いつもの笑顔はなかった。

 

「型ってさ、中に入ってたもののかたちになるでしょ。お菓子の型に流しこめば、型のとおりのお菓子になる」

 

 フラットは指で宙に小さな丸を描いた。

 

「白いのがいっぱいになったら、あの石の中でかたちになる。中で眠ってた子のかたちに。……今夜にはいっぱいになると思う」

 

 灯也は思わずアルテラを見た。アルテラは手水舎の前に立っていた。軍手をはめた両手をうしろで組んでいた。

 

 社務所の黒電話が鳴った。祖母だった。

 

『灯也か。なんね、寝起きの声して』

 

「ばあちゃん。……どうしたの」

 

『どうもせん。石はどうしよる』

 

 灯也は受話器を握りなおした。

 

「……ちゃんとあるよ。神棚に」

 

 電話の向こうが少し黙った。

 

『……ほうね』

 

 灯也は右の眉を押さえかけて、やめた。社務所の戸口にアルテラが立っていた。灯也の顔を見ていた。いつもなら「上がっていた」と言うはずだった。アルテラは何も言わなかった。

 

「それと、ばあちゃん。ゆうべ、常夜灯が消されかけたんだ。……知らない子が守ってくれた。虫に、消さないでくださいって言って」

 

『ほう』

 

 祖母の声が少しやわらいだ。

 

『火を守ってもろうたら、火で返すもんよ』

 

「火で?」

 

『ほうよ。穂村は昔からそうしてきた。……それとな、灯也』

 

 祖母は少し間を置いた。

 

『石は石じゃ。……人を取られなさんなよ』

 

 灯也は返事ができなかった。お彼岸のころには帰れるけえ、と言って祖母は電話を切った。

 

 昼すぎに灯也たちは旧市街のはずれまで歩いた。坂道の途中でふと気づいた。海が見える角を曲がるたびに、アルテラが灯也の左側へ回りこんでくる。海の側へ。

 

 守ってくれているのだと思った。はじめは。三つめの角で気づいた。アルテラの目はずっと海のほうを向いていた。

 

 坂の上に蔦に覆われた古い洋館が建っていた。鉄の門は錆びて閉ざされていた。窓という窓に厚いカーテンが引かれている。門の前で凛が足を止めた。

 

「結界がある」

 

 門の手前の空気がかすかにゆがんでいた。夏の陽炎のように。凛はポケットに手を入れて、出した。何も握っていなかった。宝石はもうひとつもない。

 

「アーチャー」

 

「力ずくで開ければ、屋敷ごと崩れます」

 

 アルジュナが静かに言った。

 

「中の方も」

 

 凛は唇をかんだ。二階の窓のカーテンが少しだけ動いた。紫がかった髪の少女が窓辺に立っていた。季節はずれの長袖を着て、左の袖口を右手で押さえている。少女は凛を見た。

 

 それから、灯也の隣のアルテラを見た。凛の右手が上がりかけた。胸の高さで止まった。カーテンが閉じた。

 

「……近い」

 

 アルテラがつぶやいた。

 

「なに?」

 

「なんでもない」

 

 また、間がなかった。凛は門を見たまま言った。

 

「間桐の後始末は遠坂の仕事よ。……穂村くんたちは」

 

 そこで言葉が止まった。凛は長いあいだ黙っていた。

 

「……妹よ。あの子」

 

 蝉の声がいっせいに大きくなった気がした。

 

「小さいころに間桐へやられたの。……それきり、家では誰もあの子の話をしなかった。わたしも」

 

 灯也はカウレスの話を思いだしていた。三時に石段をのぼってきた、紫っぽい髪の女の子。虫に向かって、その火は消さないでください、と言った子。

 

「ゆうべ、常夜灯を守ってくれたの……」

 

「たぶん、あの子よ」

 

 凛は門の向こうの窓を見上げた。

 

「昔から火を見てるのが好きな子だった。仏壇のろうそくの前にいつまでも座ってるような」

 

 フラットが門の下の地面にしゃがみこんでいた。

 

「糸が海のほうへ下りてる。坂の下へ、ずうっと」

 

「夜まで見張ってるよ。空の上から」

 

 アストルフォがヒポグリフの首をなでた。門の向こうの洋館は静まりかえっていた。蔦の葉だけが風に揺れていた。

 

三

 日が沈むと、埋立地の新都心に灯りがともりはじめた。母屋の屋根の上から凛はそれを見ていた。

 

 高層ビルの窓がひとつずつ灯っていく。そのどれかが、ついこのあいだまで凛が泊まっていたホテルだった。三十二階の窓から毎晩、この山の上の小さな灯りを見下ろしていた。

 

 今は逆だった。小さな手のことを覚えていた。凛の袖をつかんで離さなかった手。どこへ行くにもうしろをついてきた、紫がかった髪の妹。ある日、その手がいなくなった。

 

 よその家の車が迎えにきた朝だった。凛は自分の髪のリボンをほどいて、妹の髪に結んだ。それしかできなかった。泣かなかった。泣くのは遠坂の娘のすることではないと思っていた。

 

 父は何も言わなかった。母も何も言わなかった。だから凛も何も聞かなかった。聞かないのが遠坂の娘の行儀だと思っていた。

 

 冬木の学校では一学年下に間桐桜という名前があった。廊下ですれちがうたびに、あの子は小さく頭を下げた。遠坂先輩、と。凛もうなずき返すだけだった。

 

 それで何年もやってこられた。やってこられたと思っていた。

 

 蔵の帳面に書かれた『マキリ』の名。祭りの晩、人ごみの向こうに立っていた藤色の浴衣。ゆうべのアーケードで間桐の虫を見たとたんに動かなくなった自分の指。

 

 うすうすは知っていたのだ。あの家の中がどうなっているのか。知っていて、聞かなかった。うしろで瓦がかたりと鳴った。アルジュナが屋根の上に立っていた。

 

「マスター」

 

「なによ」

 

「橋の上でうかがったことの、お返事をまだいただいておりません」

 

 凛は新都心の灯りを見たまま黙っていた。あの夜、橋の上で聞かれたことだった。

 

 ——あなたにもご自分のためになさりたいことが、あるのではありませんか。

 

 あのときは答えなかった。

 

「……あるわよ」

 

 凛は言った。

 

「妹を迎えに行きたいの」

 

 アルジュナはしばらく何も言わなかった。それから、新都心の灯りのほうへ目をやった。

 

「私にはもうひとり兄がおりました」

 

 凛は顔を上げた。

 

「兄だと知ったのは、兄が死んだあとでした。……私がこの手で射たあとで」

 

 アルジュナの声は静かだった。

 

「迎えに行けるうちに、迎えに行かれるべきです。マスター」

 

 凛は答えなかった。答えるかわりに、膝の上でこぶしを握った。それから、袖の上から左腕の刻印をなぞった。

 

 遠坂の家が代々重ねてきた魔術刻印だった。宝石がもうない今、凛が持っているのはこれだけだった。あの白い火は人の手が作ったものを消す。刻印も人の手が作ったものだ。

 

 凛は膝の上の小箱に目を落とした。鍵のかかった黒い革の小箱。この町に来てから一度も開けていない。手のひらにのせて、しばらく重さをはかった。

 

「……まだよ」

 

 小箱をポケットにしまった。

 

「サーヴァントの相手はサーヴァント」

 

 凛は立ちあがった。

 

「……妹の相手はわたしがするの」

 

「では、道は私が」

 

 アルジュナはそれだけ言った。宝石がなくてもいいのか、とは聞かなかった。勝てるのか、とも聞かなかった。

 

「遠坂として行くわ」

 

 凛はスカートのほこりを払った。

 

「……それと、姉として」

 

 屋根の縁から茶の間の窓が見えた。テレビの前でカウレスとアルテラが並んで、ゲームのコントローラーを握っていた。画面の中で同じキャラクターが二人、向かいあっている。服の色だけがちがう。

 

 アルテラのほうのキャラクターが、また自分から相手の技に飛びこんでいった。

 

「おい、そっちはお前じゃねえよ。赤いほうがお前だ」

 

「……わかっている」

 

 アルテラはまた負けた。

 

「お前、今日ぜんぜんだめだな。……いつもの『次は勝つ』は?」

 

 アルテラは答えなかった。負けたほうのキャラクターが画面の中で起きあがるのを見ていた。クマのぬいぐるみを抱えたアビーが、アルテラの肩に鼻をよせた。くんくんとかぐ。

 

「セイバーさん、こわいのね」

 

「こわくない」

 

「……うそ」

 

 アルテラはコントローラーを握ったまま、何も言わなかった。その両手に白い軍手がはまっていた。

 

 凛は昼間の窓辺の少女を思いだした。季節はずれの長袖。袖口を押さえていた右手。

 

 軍手の下に何があるのか、聞くべきだと思った。聞かなかった。聞かないのは行儀ではなかった。遠坂の娘の、悪い癖だった。

 

四

 零時半。灯也は崖の手すりの前で湾を見ていた。うしろで常夜灯の火が揺れていた。その足もとでアビーが油の缶を抱えて、こくりこくりと舟をこいでいる。夜空からヒポグリフが舞いおりてきた。

 

「トウヤくん! あの子、出かけた!」

 

 アストルフォが鞍の上から叫んだ。

 

「地下から、虫のトンネルで。追いかけたけど、途中で見えなくなっちゃった。……黒い鎧の人はいっしょじゃなかったよ」

 

 そのとき、湾の左手で灯りの色が変わった。埋立地の新都心の、海に近いほうの街灯の列だった。

 

 消えたのではなかった。ついたまま白くなっていた。橙色のナトリウム灯から、色だけがすうっと抜けていく。

 

 停電の晩、港の灯りは遠いほうから順に消えていった。アビーの扉が開いた晩は、灯りはついたまま光がどこにも届かなかった。今夜はそのどちらともちがった。

 

 光は届いている。届いたまま、色だけがなくなっていく。街灯の柱がぐにゃりと傾いた。砂の城が波に崩れるように、ゆっくりと。

 

「……塩だ」

 

 フラットが手すりから身を乗りだした。

 

「あそこ、埋立地だよね。人が作った土地だ。……地面までぜんぶ作ったものなんだ」

 

 アビーが目をさました。小さな丸い提灯を両手で差しだしていた。祭りの晩にアルテラが持っていて、そのあとカウレスにあずけた提灯だった。

 

「火を持っていくんでしょう?」

 

 灯也は提灯を受けとった。常夜灯の火を手燭のろうそくに移して、提灯の中に立てる。紙の中で橙色の火が揺れた。

 

「セイバーさんのこと、見ててね」

 

 アビーは小さな声で言った。アルテラは手すりの前に立っていた。軍手をはめた手を手すりにかけて、白くなっていく街灯の列を見ていた。

 

「アルテラ。……海、近いぞ。大丈夫か」

 

「大丈夫だ」

 

 すぐだった。灯也は心の中で指を折った。なかった、白いな、寒い、聞こえない、なんでもない、大丈夫だ。

 

 ひとつひとつはなんでもない言葉だった。並べると、なんでもなくなかった。

 

 命令はしないと言った。アルテラは自分で決めると言った。それでも、ひとりにはしない。あの歌の前にひとりでは立たせない。

 

「行こう。……いっしょに」

 

 アルテラが灯也を見た。少しだけ黙って、それからうなずいた。今夜はじめての、いつもの間だった。

 

 カウレスとアビーが常夜灯に残った。

 

「穂村」

 

 カウレスが眼鏡を押しあげた。

 

「火は消さねえ。……だから、ちゃんと持って帰ってこいよ。その火も、セイバーも」

 

 灯也はうなずいた。フラットといっしょにヒポグリフの背にまたがる。アルジュナが凛を抱えて夜空へ跳んだ。アルテラは屋根から屋根へと走った。

 

 ヒポグリフの背の上から、灯也はその白い髪を目で追った。提灯を上着の内側にかばう。風が強かった。紙の中で火が低く伏せて、それでも消えなかった。

 

 眼下を旧市街の瓦屋根が流れていく。坂の上のあの洋館が見えた。窓はみんな暗かった。

 

 ヒポグリフが大通りに降りた。真夜中の新都心に人影はなかった。それでも、町は壊れはじめていた。

 

 ビルの一階のガラスが乳白色に濁って、さらさらと崩れおちていく。高層ビルの窓の灯りも下の階から順に白く抜けていく。

 

 交差点の信号が赤も青も黄色も同じ白でまたたいていた。ビルの壁の広告で笑っている女の人が、のっぺりとした白い顔になっていく。

 

 大通りの先の、埋立地のいちばん端の護岸。そこを中心に白い半円が陸のほうへ広がっていた。

 

 アスファルトが塩に変わっていた。月の光を浴びて、一面がきらきらと光っている。護岸の向こうの水面だけが黒いままだった。その円のふちを黒いものがびっしりと囲んでいた。

 

 虫だった。町じゅうの排水溝から湧きだした虫が、黒い川になって円のまわりを流れていた。その中心の護岸の手すりの前に少女がひとり立っていた。間桐桜だった。

 

 その左腕が肩から指先まで白く光っていた。昼間、窓辺で袖口を押さえていた腕だった。

 

 少女は海を見ていた。ふらりと手すりのほうへ一歩。アルジュナの腕の中で凛が身をよじった。

 

「桜!」

 

 少女は振りむかなかった。

 

「カカカ……」

 

 虫がいっせいに笑った。何万という小さな口が同じしわがれ声で。

 

「二時じゃ。底の者が寝がえりを打つ刻に、この鍵は海へ歩く」

 

 アルテラが灯也の隣に降りたった。とくん。桜の手の中で石が鳴った。とくん。

 

 同じ音がアルテラの胸の奥でもした。灯也にはそう聞こえた気がした。白い半円の光がぎらりと強くなった。

 

「よう来た、本物」

 

 虫の声が笑った。

 

「……懐かしいのう。ここはわしの浜じゃった。二百年前、わしはここで星の音を聞いたのよ」

 

「型がセイバーちゃんをなぞってる!」

 

 フラットが叫んだ。

 

「本物がそばにいると、合鍵が早くできちゃう! 近づいちゃだめ!」

 

 アルテラの手が剣の柄にかかった。腕の紋様が光っていた。色のない光だった。灯也は息をのんだ。

 

 アルテラは柄から手を離した。自分で離した。一歩うしろへさがる。また一歩。白い半円のふちから、町のほうへ。

 

「アルテラ!」

 

「ここにいる」

 

 アルテラは海のほうを向いたまま言った。

 

「見えている。……トウヤの火が見えている」

 

 灯也は自分の手の中の提灯を見た。アルテラと海とのあいだにその小さな火があった。

 

五

「ふたは割れてない」

 

 フラットが白い半円のふちにしゃがみこんで、塩になった地面に指先をつけた。

 

「あの石がストローになって、底から白いのを吸いあげてるだけ。……でも、撃っちゃだめ。海のそばで何かを壊したら、その力はぜんぶ下に落ちて炉のごはんになる」

 

「ガンドは?」

 

 凛が聞いた。

 

「ガンドはいいよ。呪いはあの白いのを病気にするから」

 

 背後で靴音がした。黒い修道服の少女が街灯の下に立っていた。カレンの両腕の袖が赤くにじんでいた。左も右も。にじみは見ているあいだにも広がっていく。

 

「こんばんは。……今夜はずいぶん、お客さまが多いのですね」

 

 カレンは虫の川を見下ろした。円のふちで黒い虫が白い光にふれた。

 

 虫が白くなった。白くなった虫はぴたりと動きを止めて、ぱらぱらと塩になって崩れた。カレンの袖のにじみがひとつ、すうっと引いた。またひとつ。

 

「傷が閉じていきます」

 

 カレンは自分の袖を見下ろした。

 

「……よい知らせではありませんね。悪魔ですらない何かに変わっていくということですから」

 

 にじみはどんどん引いていった。左の手首のひとつだけが残った。

 

 円のふちを一台のタクシーが走ってきた。虫の川に乗りあげて、ハンドルをとられて、白い光の中へ突っこんだ。

 

 車体から色が抜けた。黄色が白に。それから、ボンネットが砂糖菓子のように崩れはじめた。運転手が悲鳴をあげた。

 

「ライダー!」

 

「まかせて!」

 

 ヒポグリフが急降下した。アストルフォが運転席の窓から運転手の襟首をつかんで、ひょいと引っこぬいた。

 

 タクシーはそのまま、まっ白な塩の山になった。運転手はアストルフォの腕の中で目を回していた。けがはなかった。

 

「車は消えても、おじさんは消えないんだね。……虫が消えるのは、魔術で作られた虫だからだよ」

 

 フラットがつぶやいた。虫が円の外へあふれてきた。アストルフォの足もとへ、黒い波になって。

 

「よーし、こんどこそボクの出番! 触れれば転倒(トラップ・オブ・アルガリア)!」

 

 金色の槍が虫の群れをなぎはらった。虫は一匹も転ばなかった。

 

「……あれれ?」

 

「ゆうべも転ばなかったでしょ! 虫は足がないの!」

 

 フラットが叫んだ。アストルフォは槍を見て、虫を見て、また槍を見た。

 

「……忘れてた!」

 

 アルジュナが弓を取った。

 

「マスター。道をおつくりします」

 

 矢が夜空へ放たれた。空の高みで矢は百あまりに分かれた。とん、とん、とんと護岸までの道の両側に一本ずつ突きたっていく。石段をのぼる足音のように。

 

 突きたったそばから一本一本が青白く燃えあがった。青い炎の並木が白い半円を一直線に貫いた。白い光が炎の列の外へ押しのけられた。虫の川も押しのけられた。

 

 何も壊さなかった。ただ押しのけただけだった。あいだに一本の細い道ができた。少女の立つ護岸の手すりの、十歩手前まで。

 

「百八本」

 

 アルジュナが言った。

 

「穂村の石段と同じ数です」

 

 アルジュナの手が凛の手首の下にあった。ゆうべのアーケードと同じように、そっと下から支えていた。その手が離れた。

 

「見てなさいよ」

 

「ええ。ぜんぶ見ております」

 

 凛が走りだした。青い炎の並木のあいだをまっすぐに。炎の列を飛びこえて虫が襲いかかってくる。凛は走りながら人さし指を向けた。

 

「——Gandr(ガンド)!」

 

 黒い弾丸が虫を撃ちおとした。左腕の刻印が赤く燃えていた。一発。二発。三発。宝石のない魔術師の、腕一本ぶんの弾丸だった。最後の矢を過ぎた。

 

 炎の列の外から白い光が流れこんで、凛の髪にふれた。髪を結んでいた二本の黒いリボンが白くなった。ほろりと塩になって崩れた。長い黒髪がほどけて夜風に広がった。

 

 服から色が抜けていく。靴の底がさくさくと崩れていく。凛は靴を脱ぎすてた。はだしで塩の上を走った。

 

 手すりの前で桜が振りかえった。左腕の皮膚の下で白い虫がうごめいていた。手のひらには黒い石が埋まっていた。

 

「……こんばんは、遠坂先輩」

 

 ていねいな声だった。姉ではなく、ただの先輩に向ける声だった。凛は手をのばした。桜の腕から白い虫が噴きだして、凛の指に群がった。凛は手を引いた。一度だけ。

 

「間桐の娘になんの用じゃ、遠坂の」

 

 虫がいっせいにしゃべった。

 

「……捨てたのは遠坂じゃろう」

 

「知ってるわよ」

 

 凛は言った。

 

「だから来たの。……十年遅れでも、遠坂は戻ってくるのよ」

 

 黒い虫の群れが凛の左腕に食らいついた。刻印の赤い光が虫に吸われていく。ひと筋、またひと筋と消えていく。凛はうめいた。それでも腕を引かなかった。桜の顔が変わった。

 

 ずっと何も映していなかった目に何かがともった。右手の指先で小さな黒い火花が散った。ぱちっと。凛はもう一度手をのばした。白い虫ごと、石を握った桜の手をつかんだ。

 

 灯也は提灯をかかげて、炎の並木のあいだを走った。最後の矢を過ぎた。

 

 提灯の紙が白くなった。ほろほろと崩れて塩になった。中のろうそくもやわらかく崩れはじめる。芯が白くなる。火が小さくなる。

 

 ——人の手が作ったものは消える。

 

 ——人の体は消えない。

 

 灯也は火に手をのばした。

 

「——灯れ」

 

 火が灯也の手のひらに移った。ろうそくが塩になって、指のあいだからこぼれおちた。火は消えなかった。灯也の手のひらの上で橙色に揺れていた。

 

 握りしめはしなかった。右手から左手へ。左手から右手へ。ためこまずにただ通していく。

 

 ——あんたは炉じゃない。道よ。

 

 腕が焼けるように熱かった。鼻の奥で血の味がした。灯也はちらりと振りかえった。

 

 炎の並木のずっと向こう、白い半円のふちにアルテラが立っていた。軍手の両手を体の横にたらして、こちらを見ていた。

 

 この火が見えている、とアルテラは言った。だったら、消すわけにはいかなかった。

 

 そのとき、背後の空が割れた。振りかえると、旧市街の丘の上に黒い火の柱が立っていた。夜空を突きさすように、まっすぐ上へ。

 

六

 零時だった。地下室で桜が泣いていた。声は出していなかった。泣きながら、口だけが勝手に動いていた。暗がりのしわがれた声をなぞるように。

 

「令呪をもって命じます」

 

 桜の右手の甲が赤く光った。

 

「……アヴェンジャーさん。この屋敷から出ないでください」

 

 一画が燃えて消えた。見えない壁が戸口をふさいだ。アヴェンジャーは歯をくいしばった。戸口の向こうへは一歩も出られなかった。

 

 桜は泣いたまま、虫に手を引かれて地下道の闇へ消えていった。カカカと笑う声だけが残った。それから一時間あまり、アヴェンジャーは戸口で見えない壁を押しつづけた。

 

 令呪は体を縛る。腹の中までは縛れない。それでも、体が動かなければ同じことだった。

 

 一時四十分。アヴェンジャーは地下室にひとりで立っていた。手のひらに黒い炎をともした。照らす顔はなかった。

 

 この屋敷に来てから、炎をともすのはいつもあの子の顔を見るためだった。暗い部屋の隅であの子はいつも窓の外を見ていた。山の上の小さな灯り。祭りの晩の提灯の列。

 

 ちっぽけだからです、とあの子は言った。だから花火の晩、防波堤の先まで連れだした。楽しいわけ、と聞いた。よくわかりません、とあの子は答えた。

 

 それでも、あの子は最後まで空を見ていた。壁ぎわの棚に干からびた老人の体がいくつも並んでいた。虫を詰めた予備の体だった。それを見ても炎は大きくならなかった。

 

 足りなかった。この体はいつだって怒りで燃えている。それなのに、今夜はうまく燃えなかった。腹の底がからっぽだった。

 

 ——あの子がいないからだ。

 

 アヴェンジャーは鼻で笑った。くっだらない。サーヴァントはマスターの魔力で動く。あの子から流れてくるのは、いつだって冷たいものだけだった。あきらめと、我慢と、はいという声。

 

 そのとき、つながりの向こうから何かが流れてきた。熱かった。桜からだった。黒い火花のように、ちりちりと。

 

 ——怒ってる。

 

 誰かのために。あの子が自分から。アヴェンジャーの手の中で黒い炎がごうと燃えあがった。

 

「……やっと怒ったわね、桜」

 

 戸口の先にはまだ見えない壁があった。この屋敷から出るな。アヴェンジャーは天井を見上げた。口の端がつりあがった。

 

「出るな? いいわよ。出ないわ」

 

 剣を抜いた。

 

「……屋敷のほうをなくしてあげる」

 

 海のそばで剣を振れば炉が肥える。あのジジイはそう言っていた。ここは丘の上だった。海からは遠かった。炎の行き先は上だ。海へではなく、空へ。

 

 炎の向こうに見えるものがあった。どこかの広場。積みあげられた薪。柱に縛られた女。足もとから這いあがってくる火。

 

 知っている光景だった。それでいて、ずっと他人の夢のような気がしていた。誰かの燃えのこり。

 

 ——ちがう。

 

 あれは私だ。

 

「ジャンヌ・ダルク」

 

 名を口にした。

 

「焼かれた女の燃えのこりよ。……燃やすのは、得意なの」

 

 ジャンヌは剣を床に突きたてた。

 

「海には一滴もやらないわよ。燃えるのはジジイの巣だけ」

 

 足もとから黒い炎が噴きあがった。

 

「これは憎悪によって磨かれた我が魂の咆哮——」

 

 地下室の空気がびりびりとふるえた。

 

「——吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)!」

 

 黒い炎の槍が床から突きあがった。地下室の天井を突きやぶる。一階の床を。二階の床を。屋根を。壁の蔦を。

 

 突きあがる炎はどれも杭のかたちをしていた。あの広場で女を縛った柱と同じかたちを。

 

 二百年かけて肥えた虫の巣がいっせいに燃えあがった。棚の予備の体が悲鳴をあげて灰になった。壁の奥の虫も、天井裏の虫も黒い炎の中でのたうって消えていく。

 

 燃える壁の奥で何千というしわがれ声がわめいた。

 

「アヴェンジャー、きさま……!」

 

「聞こえないわね、ジジイ」

 

 ジャンヌは剣の柄をさらに押しこんだ。黒い炎がもう一段高く噴きあがった。黒い火の柱が旧市街の丘の上に立った。海から遠く、まっすぐ空へ。

 

 旧市街の家々の窓にひとつ、またひとつと灯りがついた。寝ぼけた顔が雨戸のすきまから空を見上げる。誰かが消防に電話をかける声がした。

 

 柱はそれを見下ろして燃えていた。燃やしたのは虫と虫の巣だけだった。炎の中でジャンヌはつながりの向こうへ言葉を投げた。届くかどうかはわからなかった。それでも投げた。

 

「怒っていいのよ」

 

 ずっと言いかけてきた言葉だった。最後まで言えたことはなかった。

 

 言ったところで、あの子は「はい」と答えるに決まっていた。怒れと命じられて、はいと怒るような子だった。そんな怒りなら、いらなかった。今なら届く。あの子は自分で怒ったのだから。

 

「憎んでいいの、あんたは。……あのジジイも、遠坂も、私のことだって」

 

 炎が消えた。屋敷はなかった。黒く焦げた土台と灰の山だけが丘の上に残っていた。夜風が灰を巻きあげた。ジャンヌは灰の中に立っていた。

 

 鎧にひびが入っていた。体の輪郭が少し薄くなっていた。戸口のあった場所を見る。見えない壁はもうなかった。

 

「……で?」

 

 ジャンヌはあたりを見まわした。

 

「屋敷って、どこ?」

 

 それから、海のほうへ駆けだした。

 

七

 石が泣いていた。手のひらの中でずっと、おいで、おいでと。胸の奥では別の声がしていた。心臓のすぐそばに丸まっている、古い古い虫の声。はいと言え。はいと言え。

 

 旧市街の丘で黒い火の柱が立ったとき、まわりの虫がいっせいに悲鳴をあげた。それから、潮が引くように動きがにぶくなった。それでも、胸の奥の声だけはやまなかった。

 

 外には手があった。熱い手だった。虫にかまれて血のにじんだ手。刻印の光がほとんど消えて、それでも離れない手。

 

 遠坂先輩の手だった。誰かが桜の前にしゃがみこんだ。金色の髪の少年だった。鼻の頭に塩がついていた。

 

「僕、フラット。……さわってもいい?」

 

 桜は少年を見た。さわっていいかと聞かれたのは、はじめてだった。虫は一度も聞かなかった。お爺さまも聞かなかった。桜はうなずいた。誰にも動かされていなかった。

 

 フラットの指先が桜の手首にふれた。宙に光の糸が浮かびあがった。結び目だった。何重にもからまりあった、固い結び目。

 

「白い糸が、石の型の糸。……これはねじれてて、しつこい字。あのおじいさんのだ」

 

 フラットは指で一本ずつなぞっていった。

 

「それから、これ」

 

 いちばん奥に細い糸が一本あった。ふるえるような、たよりない線だった。

 

「この最後のひと巻き、きみの字なんだ」

 

 桜は息をのんだ。

 

「はい、はいって。何年もかけて、きみが自分で巻いてきた。……三本とも、きみの心臓のところの虫に結んである」

 

 桜は自分の字だという糸を見た。はい、お爺さま。虫を入れられた最初の夜も、痛いかと一度も聞かれなかった夜も、桜はそう言った。言えば、少しだけ早く終わった。

 

 その一回一回がこうして巻きついていた。フラットの鼻から血がひとすじ垂れた。

 

「僕が書きかえたら、きみはまた誰かに書きかえられたことになっちゃう」

 

 フラットは首を振った。

 

「……これはきみにしか切れないよ」

 

 桜には返事ができなかった。石の泣き声が大きすぎた。おいで。おいで。おいで。もうひとり、誰かが桜の前に膝をついた。

 

 両手のあいだに火が揺れていた。右手から左手へ。左手から右手へ。腕は赤くただれて、鼻の下に血がこびりついていた。穂村の跡取りの少年だった。

 

「穂村灯也。……これ、うちの常夜灯の火」

 

 灯也は言った。

 

「……間桐さんが消さないでくれたやつ。返しにきた」

 

 桜は火を見た。きのうの夜明け前、山の上で見た火だった。ちっぽけな火。

 

「——灯れ」

 

 火が灯也の手を離れて、桜の手のひらへ流れてきた。熱くはなかった。あたたかかった。桜はそれを通した。止めなかった。手のひらの石のほうへ。

 

 石の中の白いものがふっとゆるんだ気がした。型は中にいたもののかたちを覚えている。中にいた子は火のそばで眠っていた。

 

 ——火を見ると、泣きやむ子。

 

 石が静かになった。泣き声がやんだ。灯也が小さく声をもらした。右手の小指を見ていた。ふしぎそうに何度も曲げたりのばしたりしている。

 

 それから、その目が桜の胸のあたりで止まった。火を通して見えたのだろう。心臓のそばの、ねじれた糸が。

 

 灯也の手がかすかに動いた。燃やせば届く。そう思った顔だった。灯也は手を開いたまま、何もしなかった。

 

 静かになった。静かになったから、聞こえた。胸の奥の細いつながりの向こうから、かすれた声がした。

 

 ——怒っていいのよ。憎んでいいの、あんたは。

 

 ずっと言いかけてはやめていた声だった。

 

「……桜」

 

 すぐそばで遠坂先輩が呼んだ。

 

「桜。はい、と言え」

 

 遠坂先輩ではなかった。胸の奥でしわがれた声がした。手をつかむ力が強くなった。

 

「授業その十二」

 

 遠坂先輩は痛みをこらえた声で言った。

 

「呪文は世界に言うんじゃない。自分に言うの。言葉は自分の中のスイッチを入れる合図」

 

 目の前で灯也がはっと顔を上げた。その言葉を知っているみたいだった。遠坂先輩は桜の目をまっすぐに見ていた。

 

「……あんたのスイッチはあんたの口の中にあるのよ」

 

 しわがれた声が遠坂先輩の声にかぶさった。

 

「はい、と言え。桜」

 

 桜は口を開いた。何年も、何百回もこの口はそう言ってきた。はい、お爺さま。はい。はい。胸の奥で虫が心臓をしめつけた。

 

 息がつまった。口がいつものかたちになりかけた。つかまれた手が熱かった。指先で黒い火花がちりっと鳴った。

 

 ——わたしの、口。

 

「……いいえ」

 

 小さな声だった。自分の声だと、すぐにはわからなかった。かちりと。体の中で何かが閉じた。回路だった。開いたまま閉じたことのなかった扉が、自分の手で閉まった。

 

 いちばん奥の細い糸がほどけた。ねじれた糸がつかまる先をなくして、ゆらゆらと揺れた。

 

 左腕の白い虫がいっせいに動きを止めた。合鍵になるはずだった虫だった。お爺さまの糸がほどけたとたん、外の虫と同じように塩になって、袖の中からこぼれおちていく。

 

 体が静かだった。虫の這う感じがしなかった。小さかったころから、ずっとしていたのに。右手の指先にはまだ黒い火花が残っていた。ちりちりと小さく。それは消えなかった。

 

 わたしのだ、と桜は思った。手を見下ろした。桜の手の下に遠坂先輩の手があった。ほどけた黒髪がその手の上にかかっていた。

 

 遠坂の家を出た朝、この人の髪は片方だけほどけていた。自分のリボンをほどいて、桜の髪に結んでくれたから。

 

「……姉さん」

 

 声に出していた。姉は顔を上げなかった。重ねた手を見たまま言った。

 

「……なに」

 

 朝、台所で呼ばれたときのような声だった。十年前と同じ声だった。重ねた手の甲に上からぽたりと熱いものが落ちた。背後でどすんと音がした。

 

 黒い鎧が塩の上に降りたっていた。ひびだらけで、体じゅうから煙が上がっていた。ジャンヌは桜を見下ろした。桜の中からつながりの向こうへあたたかいものが流れていった。

 

「……あったかいじゃない」

 

 桜はジャンヌを見上げた。この人が屋敷ごと燃やしてきたことは、つながりに残った火の熱でわかった。

 

 桜は何か言おうとした。はい、ではない言葉を。見つからなかった。かわりに少しだけ笑った。自分が笑ったことに、桜はおどろいた。

 

八

 桜の手がゆっくりと開いた。その下に凛の手があった。

 

 桜の手のひらに黒い石がころんと残っていた。もう虫の台座はなかった。白い光は火に眠らされたように石の奥に沈んでいた。とくん、とくんとまだかすかに鳴っていた。

 

 桜の左の袖が波打った。何かが袖の中を這いおりてくる。胸のあたりから肘へ、肘から手首へ。

 

 桜が胸を押さえて、声にならない声をあげた。凛がその体を抱きとめた。ジャンヌの剣が半分抜けて、そこで止まった。斬れる場所がどこにもなかった。

 

 桜の指のあいだから、白くぶよぶよとした虫が一匹、頭を出した。親指ほどの年老いた虫だった。しわだらけの頭に落ちくぼんだ小さな目がふたつ。灯也にはわかった。

 

 あれがマキリ・ゾォルケンだった。社務日記に名を残した魔術師の、なれの果てだった。

 

 心臓のそばに巣くっていた本体。巣は灰になり、糸は切られた。もうどこにも行く場所がない。虫は石にしがみついた。石が桜の指先からこぼれた。灯也の手が勝手に動いた。

 

 つかんでいた。御神体だった。穂村が代々守ってきた星石だった。けっして誰にも渡すな。体が覚えていた。手の中で石が鳴った。とくん。

 

 石にしがみついていた虫が、灯也の手首へ這いあがってきた。冷たかった。ぬるりとしていた。小指がそれを感じた。さっきまで何も感じなかった指が。

 

「開きっぱなしの回路か」

 

 虫がしゃべった。灯也の手首の上で、しわがれた声で。

 

「……ほう、よい器じゃ」

 

 虫の頭が灯也の腕の内側をさぐった。皮膚の下へもぐりこむ場所をさがすように。

 

 ——石は石じゃ。

 

 祖母の声がした。

 

 ——人を取られなさんなよ。

 

 灯也は腕をのばした。護岸の手すりの向こう、黒い海の上へ。石を握った右手を海の上にかざした。

 

 石はあたたかかった。小さいころから本殿でさわるたびに、いつもあたたかかった石だった。中で眠っていた子はもう外にいる。

 

「……ごめん、ばあちゃん」

 

 手を開いた。何百年も穂村が守ってきたものだった。ばあちゃんも、ばあちゃんのばあちゃんも、その前の誰かも。二百年前からは誰にも渡すなと言われて守ってきた。

 

 それを自分の手で放した。石が落ちた。虫は迷わなかった。灯也の手首を蹴るようにして、落ちていく石に飛びついた。若い器よりも、腐らない命のほうを。二百年待ったもののほうを。

 

 灯也の手を離れたとたん、石の奥で眠っていた白い光が目をさました。白い光が虫を包んだ。虫が白くなった。

 

「……なんじゃ、これは」

 

 しわがれ声がはじめて裏返った。

 

「わしは……わしは人じゃ……」

 

 人の手が作ったものを、作られる前に戻す火。何百年もかけて自分の体を虫で作りなおしてきた老人は、もう人ではなかった。作られたものだった。虫の声がした。消えいりそうな声だった。

 

「……聞こえる。……二百年前と、同じじゃ……」

 

 それから。

 

「……雪の、ごとく……」

 

 虫の小さな目はもう灯也を見ていなかった。海も見ていなかった。どこか遠いところを見ていた。ずっと昔、この町で見た誰かを。

 

 蔵で見た絵が灯也の頭に浮かんだ。墨一色の細い線。長い髪の女の人。その御姿、雪のごとく白く。虫は塩になってほどけた。白い粉がさらさらと黒い海に散った。

 

 凛は桜を抱きかかえたまま、それを見ていた。何も言わなかった。桜は見なかった。凛の肩に顔をうずめていた。石が海に沈んだ。

 

 水面は黒いままだった。白い火はひとつも上がらなかった。ただ、水の中を青白い筋がひとすじ走っていった。湾の奥へ。暁浜大橋のまんなかの、その下へ。午前二時。

 

 ごくりと。海の底で何かが喉を鳴らした。大橋の灯りがいっせいにまたたいた。一度だけ。海の底の歌が少しだけ大きくなった。

 

 灯也はすぐには振りかえれなかった。白い半円のふちでアルテラがどちらを向いているのか、確かめるのがこわかった。

 

 足もとで白い半円の広がりが止まった。青い炎の並木だけが、塩の原の上で静かに燃えつづけていた。

 

 フラットが護岸から身を乗りだして、海に手をつけた。しばらく目を閉じていた。

 

「ひび、広がった」

 

 フラットは言った。

 

「……でも、あふれてない。寝たまま帰ったんだ。殻だけ、おうちに」

 

 円のふちでカレンが自分の手首を見下ろしていた。最後のにじみがすうっと引いていった。

 

「……最後のひとつが閉じました」

 

 カレンは言った。

 

「どなたか、いなくなりましたね」

 

 灯也は答えなかった。カレンは海を見た。

 

「ふたはまだ割れておりません。ですから、教会もまだ何もいたしません。……まだ、ですけれど」

 

 それから、丘の上でくすぶっている黒い煙のほうを見やった。

 

「洋館は失火。埋立地は地盤の液状化。……ふたつ同時は初めてです。言いわけを考えるのも楽ではありませんね」

 

 カレンはポケットから軟膏の缶を取りだした。凛の左腕の、虫にかまれた傷にたっぷりと塗る。

 

「とてもしみますけれど」

 

「いったああああ!」

 

 凛が叫んだ。はだしの足で塩をばたばたと蹴った。カレンは少しだけ満足そうだった。

 

 青い炎の並木がひとつずつ消えていった。アルジュナが塩の原を歩いてきて、凛の前に膝をついた。

 

「お見事でした、マスター」

 

「……見てたでしょ」

 

「ええ。ぜんぶ」

 

 ヒポグリフが舞いおりてきた。鞍の上でタクシーの運転手がまだ目を回していた。

 

「このおじさん、どこに置いてこう?」

 

 アストルフォが首をかしげた。誰も答えられなかった。灯也は自分の右手を見下ろした。小指の先がじんじんと痛んでいた。痛かった。それがうれしかった。

 

九

 石が海へ沈んでいくのを、アルテラは白い半円のふちで見ていた。自分の揺りかごだった。

 

 気の遠くなるほど長いあいだ、あの石の中で眠っていた。崖の上の火を見ながら。それが自分を置いて帰っていった。

 

 ——私が出てきたからだ。

 

 石がからっぽにならなければ、白いものがたまることもなかった。あの老人が盗むことも、あの娘が虫に食われることもなかった。海の底の歌が大きくなっていた。

 

 ——帰っておいで。

 

 ——帰っておいで。

 

 軍手の下の紋様が、指先から肘まで色のない光を放っていた。灯也が護岸の手すりの前に立っていた。右手を海の上にかざしたまま。何も握っていない手だった。

 

 火は引っぱらない。道を照らすだけ。あの手は石を引きとめなかった。アルテラは歩きだした。一歩ごとに歌が背中を引いた。足もとの塩がさくりと鳴った。

 

 行き先は海ではなかった。灯也だった。手すりの一歩手前でアルテラは足を止めた。灯也が振りかえった。鼻の下に血がこびりついていた。両腕が赤くただれていた。

 

 それでも、灯也はアルテラを見て少しだけ笑った。アルテラは何も言わなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。

 

 空が白みはじめるころ、百八段の下にたどりついた。凛は桜を背負っていた。はだしだった。足の裏が塩と血で汚れていた。髪はほどけたままだった。

 

 袖からのぞく左腕の刻印は暗かった。ひと筋だけが思いだしたように赤くまたたいていた。

 

「代わるよ、遠坂さん」

 

 灯也が言った。

 

「いい」

 

 凛は前を見たまま言った。

 

「じゃあ、アーチャーに」

 

「いいって言ってるでしょ」

 

 アルジュナは何も言わずに一段うしろをついていった。石段の半分あたりで凛が足を止めた。肩で息をしている。

 

「……遅くなって、ごめん」

 

 息の切れた声だった。背中の桜は何も言わなかった。ただ、凛の肩にそっと額をあずけた。

 

 石段の上でジャンヌが腕組みをして待っていた。鎧のひびは少しだけふさがっていた。

 

「で? 私はどこで寝ればいいわけ。帰る屋敷はもうないんだけど」

 

「部屋なら……」

 

 灯也が言いかけた。

 

「わたしの部屋に入れるわよ」

 

 凛が即答した。灯也は口を開けて、閉じた。凛の部屋は祖母の部屋だった。祖母はお彼岸のころには帰ってくる。

 

 ——ばあちゃん、なんて言うかな。

 

 ほうね、と言う気がした。ジャンヌは境内を見まわした。それから、崖の上の常夜灯に目を止めた。

 

「……ちっぽけな火ね」

 

 鼻を鳴らした。

 

「まあ、悪くないけど」

 

 常夜灯の前でカウレスが顔を上げた。アビーはその膝で眠っていた。

 

「穂村。火、ちゃんと持って帰ってきたか」

 

 灯也は自分の両手を見た。何も持っていなかった。

 

「……あげてきた」

 

 カウレスはしばらく灯也を見ていた。それから、凛の背中で目を閉じている桜を見た。

 

「……そっか」

 

 カウレスの目が灯也のうしろへ動いた。

 

「……セイバーは」

 

「大丈夫だ」

 

 アルテラが答えた。すぐだった。凛の背中で桜が顔を上げた。

 

 凛が石段の上で振りかえった。

 

「穂村くん。手当てが済んだら寝なさい。あんた、ひどい顔よ」

 

「遠坂さんもな」

 

 言ってから、灯也は埋立地での凛の声を思いだした。

 

 ——呪文は世界に言うんじゃない。自分に言うの。

 

 前にも言われたことがあった。石段の下の公園からラジオ体操の音楽が流れてきた朝。凛は灯也の胸の前に水晶をかざして、同じことを言った。あんたの場合は『灯れ』がそのスイッチ、と。

 

 あれが授業その五だった。開きっぱなしの回路を閉じるための授業だった。

 

 凛の授業にはいつも番号がついていた。朝ごはんの席の「あんたは炉じゃない。道よ」がその十一。十一個の番号はどれも灯也のものだった。十二番目は桜に渡った。

 

「……なあ、授業その十二って半分はその五だろ」

 

 すねた子どもみたいな声になった。

 

「次は俺の番じゃなかったのか」

 

「あんたはその十一の途中でしょ」

 

 凛の目が灯也の腕に落ちた。

 

「通るものが熱ければ道だって焼けるって言ったわよね。……思いっきり焼いてきたじゃない。合格はまだ先よ」

 

 肘の内側まで赤くただれた腕を、灯也は見下ろした。返す言葉がなかった。凛はつんと横を向いた。

 

「……それに、あれは姉の授業よ」

 

「姉の?」

 

「遠坂の家に生まれたら、最初に習うことなの」

 

 凛は石段の下を見ていた。旧市街のはずれの丘からまだ細い煙がのぼっていた。

 

「この子は教わる前によその家へやられたの」

 

 背中の桜が身じろぎした。凛は顔を向けずに背負いなおした。

 

「その五のあの話も父さんの受け売りよ。……十二はもともとこの子がもらうはずだった分」

 

 灯也は胸に手をやった。あの朝、水晶をかざされたあたりだった。

 

「……じゃあ、授業料は? 高いんだろ」

 

「もうもらったわよ」

 

 凛は短く言って、母屋のほうへ歩いていった。授業料が何だったのか、灯也にはわかった。背負われた桜の耳が赤くなっていた。

 

 母屋の縁側に桜が座っていた。毛布を肩にかけていた。灯也が湯のみを置くと、桜は小さく頭を下げた。

 

「……ありがとうございました。火を」

 

「こっちこそ。常夜灯のこと」

 

 桜は少し黙った。それから、境内の向こうを見た。崖の手すりの前に立っている、白い髪の背中を。

 

「……あの人の『大丈夫』は」

 

 桜は言った。

 

「わたしの『はい』と同じ声でした」

 

 灯也は湯のみを持つ手を止めた。

 

「……知ってる」

 

 東の空が赤くなっていた。灯也はアルテラの隣に立った。

 

 常夜灯の足もとの湯のみで露草がしぼんでいた。ゆうべのままだった。いつもなら、夜明けにアルテラが新しいのに替えておくはずだった。灯也はアルテラの手を取った。

 

 軍手ごしにそっと握った。小指が冷たさを感じた。木綿の布ごしに氷のような冷たさを。布の織り目のすきまから、色のない光がにじんでいた。灯也は手を離さなかった。

 

「どうした、トウヤ」

 

「……なんでもない」

 

 右の眉が上がったのが、自分でもわかった。アルテラは灯也の顔を見なかった。海を見ていた。

 

 暁浜大橋の島側の主塔のてっぺん。沙条愛歌は青いワンピースの膝を抱えて、ひと晩じゅう鼻歌を歌っていた。水平線から日がのぼった。鼻歌はやまなかった。

 

「殻はおうちに帰ったわ」

 

 愛歌はうれしそうに言った。

 

「……あとは鍵だけ」

 

 隣でカルナが旧市街の丘を見ていた。黒い煙はもう細くなっていた。

 

「あの娘は自分の口で断った」

 

 カルナは言った。

 

「……見事だ」

 

 愛歌は返事をしなかった。また鼻歌を歌いはじめた。

 

 山の上の常夜灯の前で灯也はふと顔を上げた。隣で小さな声がしていた。アルテラが鼻歌を歌っていた。口をほとんど動かさずに低く、ゆっくりと。

 

 海の底から聞こえてくるのと同じ節だった。アルテラは自分が歌っていることに気づいていないようだった。灯也は名前を呼びかけて、やめた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。