Fate/Starfall Harbor   作:mecono

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第十一話 軍手と白い手

一

 湯のみの中で露草がしぼんでいた。ゆうべのままの花だった。青い花びらが内側へ巻きこんで、小さな結び目のようになっていた。

 

 夜明けに替えるのは自分の役目だった。替えなかった。アルテラは常夜灯の前にしゃがんで、その花を見ていた。

 

 日はもう水平線を離れていた。境内には誰もいない。凛も桜もジャンヌも母屋で眠っている。灯也は手当てのあとで縁側に倒れこんで、そのまま寝息を立てはじめた。

 

 軍手の指を開いて、閉じた。布の下で紋様が色のない光を放っていた。指先から肘の上まで。ゆうべより少しだけ高く。

 

 海の底の歌は朝になって細くなっていた。それでも、やみはしなかった。

 

 ——帰っておいで。

 

 アルテラは数えた。数えるのは得意だった。焼いた町の数も、国の数もぜんぶ覚えている。

 

 石がからっぽになったのは自分が出てきたからだ。殻だけおうちに帰った、とフラットは言った。残っているのは鍵だけだ。

 

 ふたはまだ割れていない、とカレンは言った。まだ、ですけれど。鍵は閉めるためにもある、とカウレスは言った。

 

 アビーは海の底の誰かに謝って、こちら側から鍵を回した。今は行ってあげられないの、と言って。かちりと。小さな音だった。それから、自分の声。

 

 ——私が見張る。

 

 ならべてみると、ひとつの答えになった。

 

 ——ふたが割れたら、鍵は私だ。

 

 中へ帰って内側から閉める。あれを眠らせる。この火のそばで眠っていたころのように。割れなければ、帰らなくていい。アルテラは軍手の手を膝の上に置いた。

 

 夜明けに手を取られたとき、灯也の指が冷たさに気づいたのがわかった。わかっていて、アルテラは海を見たままたずねた。どうした、と。なんでもない、と灯也は答えた。

 

 顔は見なかった。見れば、右の眉が上がっているのがわかったはずだ。灯也が電話で石のことを聞かれたときも、眉は上がっていた。いつもなら言う。上がっていた、と。

 

 言わなかった。自分も嘘をついていたからだ。隠しごとは隠しているほうが先に疲れる。アルジュナの言ったとおりだった。アルテラは立ちあがって、母屋へ歩いた。

 

 縁側で灯也が寝ていた。包帯の腕を胸の上で組んで、口を少し開けて。アルテラはその肩をつついた。

 

「起きろ」

 

「……ん……アルテラ? 何時……」

 

「来い」

 

 寝ぼけたままの灯也を手水舎の陰まで引っぱっていった。草むらにけさも露草が咲いていた。

 

「一本だけ摘め。指の先でそっと」

 

「え、俺が?」

 

「摘め」

 

 灯也は首をかしげながら一本摘んだ。茎がちぎれて、花が少しつぶれた。アルテラは直さなかった。

 

 常夜灯の前でしぼんだ花を抜かせた。草むらの根もとに返させた。湯のみの水を替えさせた。閉じたままのフランの花は抜かずに、その隣に新しい花を挿させた。

 

 金魚鉢をのぞくと、いちごがくるりと回った。アルテラは餌の缶を振った。ひとつまみ。いちごが水面に口を出した。

 

 ——この子には誰が餌をやる。

 

 缶のふたを閉めた。朝と晩。アビーなら知っている。

 

「覚えたか」

 

「……なんで俺が」

 

「覚えておけ」

 

 灯也は眠そうな目をこすった。それから、少しだけ黙ってアルテラを見た。アルテラは常夜灯の火を見ていた。

 

 ——火を守ってもろうたら、火で返すもんよ。

 

 受話器からもれる灯也の祖母の声は戸口のアルテラの耳にも届いていた。返せるものなら、ひとつだけあった。

 

「トウヤ」

 

「ん?」

 

「今日一日を私に寄こせ」

 

 灯也がぽかんと口を開けた。

 

「……誘っている」

 

 アルテラは付けくわえた。言う前に胸の中でひとつ数えていた。ちゃんと間があった。

 

「……どこ行くんだよ」

 

「どこでもいい」

 

 灯也は首のうしろをかいた。耳のふちが赤くなっていた。アルテラはそれも覚えておくことにした。

 

二

 台所に甘い匂いがしていた。アルテラが卵焼き器の前に立っていた。軍手のまま菜箸を握っている。そのうしろでアルジュナが腕を組んで見守っていた。

 

「手前に巻きます。……そう、ゆっくりと」

 

「わかっている」

 

 卵がくるりと巻かれた。少し焦げて、形もいびつだった。灯也は流しの横の殻を見た。どれもきれいにふたつに割れていた。

 

「殻、入ってない」

 

「割るのと壊すのはちがう」

 

 アルテラが言うと、アルジュナが目を細めた。切りわけた卵焼きを、灯也はひと切れつまんだ。じゃりっとしなかった。甘かった。

 

「うまい」

 

「……そうか」

 

 答える前に間があった。ここ何日か消えていた間だった。灯也はそれに気づいて、なぜだか少しほっとした。

 

 茶の間では凛がもう二杯目のご飯をよそっていた。桜がみそ汁を配った。ジャンヌは卵焼きの端をつまみ食いして、アルジュナに無言で見つめられていた。

 

 アルテラは卓袱台の端に座っていた。自分の皿には箸をつけなかった。みんなが食べるのを見ていた。ひとりずつ順番に。数えているみたいだ、と灯也は思った。

 

 日曜の市民病院は見舞いの人でにぎやかだった。窓際のコップに新しい露草が一本ふえていた。フランの挿した茎のあいだに。

 

「けさもイリヤちゃんが持ってきてくれたんよ。朝ごはんの前に」

 

 祖母はうれしそうに言った。

 

「あの子、ドロップを一日にひと粒しか食べんのんよ。減るのを数えよるみたいでのう。……じゃけえ、売店が開くまで待たせて、缶にいっぱい足しといた」

 

 窓の外を船が一艘ゆっくりと横切っていった。島のほうから本土の港へ。

 

「連絡船、きのうからまた増えとるんよ」

 

 灯也は船から目をそらした。祖母の目が灯也の腕に止まった。包帯は肘の上まで巻いてあった。

 

「……また料理かね」

 

「料理じゃない」

 

 灯也は丸椅子に座った。膝の上でこぶしを握った。右の眉には手をやらなかった。アルテラの言葉にはけさから間がある。嘘をつかないときの間だ。それなら、自分も。

 

「ばあちゃん。石がないんだ」

 

 祖母は黙って灯也を見た。

 

「盗まれて、取りかえして……それで、海に返した。俺が手を開いた」

 

 病室が静かになった。廊下の向こうでワゴンの車輪が鳴っていた。

 

「……ほうね」

 

 祖母はゆっくり言った。電話のときと同じ声だった。

 

「知っとったよ。あんたの声で」

 

「……ごめん」

 

「石は石じゃ」

 

 祖母は包帯の手に自分の手を重ねた。

 

「あんたが取られんかった。それでええ」

 

 灯也はうなずいた。うなずくことしかできなかった。

 

 包帯ごしに祖母の手のあたたかさがしみてきた。石を海に返した晩から胸の底に重たいものが沈んでいた。それが少しだけ浮いた気がした。祖母の目が灯也のうしろへ動いた。

 

「アルテラちゃん。あんたも石とはちがうけえね」

 

 アルテラは窓辺に立っていた。軍手の手を体の前で重ねていた。返事までにずいぶん間があった。

 

「……同じ石から出てきた」

 

 灯也は振りかえった。アルテラは祖母を見ていた。目をそらさなかった。灯也は息をつめた。ごまかすこともできたはずだった。アルテラはそうしなかった。

 

 祖母はしばらくアルテラを見ていた。それから、手招きをした。アルテラがベッドのそばへ来ると、祖母はその軍手の手の甲をぽんぽんと二度たたいた。何も聞かなかった。

 

「……ひとつ聞いていいか」

 

 アルテラが言った。

 

「火は引っぱるか」

 

 祖母は首を横に振った。

 

「引っぱりゃあせん。道を照らすだけじゃ。……どっちへ行くかは、行く者が決めるんよ」

 

 アルテラの肩から力が抜けた。ほっとした顔だった。灯也にはそう見えた。

 

 フランを空へ送った晩のことを、アルテラはずっと気にしていたのかもしれない。いつか自分もあの火に送られるんじゃないかと。

 

「お彼岸に帰ったら、卵焼き教えちゃる約束じゃったね。楽しみにしとるけえ」

 

 また間があった。さっきよりも長い間だった。

 

「……殻は入れなかった」

 

 アルテラは言った。祖母が笑った。灯也も笑いかけて、途中でやめた。答えになっていなかった。教わるとも待っているとも言わなかった。

 

 帰りのエレベーターでアルテラは光る数字を見上げていた。ひとつずつ減っていく数字を。灯也は何度か口を開きかけた。お彼岸のこと。卵焼きのこと。聞けなかった。

 

 聞いたら、また間が長くあく気がした。その間の中に何が入っているのか、知るのがこわかった。

 

三

 午後のアーケードに脚立がいくつも並んでいた。海側の提灯を下ろす日だった。商店街の人たちが脚立にのぼって提灯を外していく。下で受けとって、たたんで、段ボール箱に寝かせる。

 

 汐屋の前の脚立にのぼっていたのはカルナだった。

 

 頼まれたわけでもないらしかった。借りものの法被を肩にはおって、長い腕で高いところの提灯をひょいと外しては、下で待っている汐屋のおばあちゃんに手渡していた。

 

「すまんねえ、背の高い外国の人。助かるわあ」

 

「かまわない」

 

 アルジュナが無言で向かいの脚立にのぼった。カルナより一段高いところまで。

 

「……張りあってんの、あれ」

 

 凛があきれた声を出した。アルテラもアルジュナの隣の脚立にのぼった。祭りの何日か前に自分で跳びあがって吊るした提灯だった。

 

「……これを下ろせばいいのか」

 

「壊さないように持てばいいんだよ」

 

 灯也は脚立の下から言った。いつか同じことを言った気がした。アルテラは軍手の両手で提灯をそっと包んだ。口の中で何か低く歌っていた。あの節だった。海の底の。

 

 軍手に包まれた提灯の赤がすうっと薄くなった。桜色になって、それから、ほとんど白に。灯也は脚立の脚を握る手に力をこめた。

 

「アルテラ」

 

 歌がやんだ。アルテラは手の中の提灯を見下ろした。それから、黙って灯也に手渡した。灯也の手の中で提灯はゆっくりと赤に戻っていった。ふたりとも口をきかなかった。

 

 段ボール箱の前で凛が手を止めていた。二台の脚立を見上げていた。

 

 白い髪の男と黒い髪の男が、向かいあった脚立の上で同じ手つきで提灯を外していた。首のかしげ方まで同じだった。凛が小さく息をのんだ。

 

「……アーチャー。もうひとりのお兄さんって」

 

 アルジュナの手が止まった。

 

「……はい」

 

 それだけだった。凛はそれ以上聞かなかった。たたんだ提灯を箱に寝かせて、ふたを閉めた。

 

 カルナは聞こえなかったように最後の提灯を外した。汐屋のおばあちゃんに手渡して、脚立を降りる。法被をていねいにたたんで返した。すれちがいざまにカルナが言った。

 

「少年。今夜、オレは橋に立つ」

 

 誰もたずねていないのに。カルナはそのまま人ごみの中へ消えた。アーケードの出口の向こうで海が光っていた。脚立の上でアルテラがその海を見ていた。

 

「……宣戦布告?」

 

 凛が眉をひそめた。

 

「ちがうと思う」

 

 灯也は言った。

 

「たぶん知らせてくれたんだ」

 

 汐屋の店先に「氷」の旗が出ていた。

 

「来年の夏までしまっとくって……」

 

「一時間だけよ。アルテラちゃん、来るじゃろう思うて」

 

 汐屋のおばあちゃんはにっこりした。

 

「三色かね」

 

「……いちご」

 

 アルテラが言った。赤い氷が縁台に運ばれてきた。おばあちゃんの目がアルテラの手に止まった。

 

「なんね、軍手して」

 

 アルテラは匙を持ったまま、すぐには答えなかった。

 

「……隠している」

 

「ほうね。日焼けかね。若い子は大変じゃ」

 

 おばあちゃんはうなずきながら店の奥へ戻っていった。灯也は匙を落としそうになった。アルテラは平気な顔で氷を崩していた。ひとさじずつゆっくりと。

 

「トウヤ」

 

「ん」

 

「このあいだの氷。まちがえたと言ったのは嘘だ」

 

 アルテラは器の中を見ていた。

 

「……白かった」

 

 灯也は自分の器を見下ろした。何も言えなかった。それから、アルテラの器をのぞいた。

 

「今日は?」

 

 アルテラは器を見つめた。長いこと。

 

「赤い」

 

 灯也は息を吐いた。赤かった。溶けかけたいちごのシロップがきれいな赤だった。アルテラは最後のひとさじまで残さず食べた。器の底の赤い水も飲みほした。

 

 夕方になって、ふたりで石段の下の広場を抜けた。

 

 きのうまで半分立っていた櫓はすっかり片づけられていた。石畳の上に大きな輪の跡だけが残っていた。何十年も盆踊りの足に踏まれて、そこだけ石がすりへっていた。

 

 そのまま石段をのぼった。昼でも夜でもない、町が灯りをつけはじめる時間だった。崖の下で家々の窓がひとつずつ灯っていく。

 

 常夜灯の前にアビーがしゃがんで、金魚鉢をのぞいていた。アルテラは餌の缶をアビーに差しだした。

 

「明日の朝はお前がやれ」

 

「知ってるわ。いちごさんは朝と晩」

 

 アビーは缶を受けとった。受けとってから、アルテラの顔を見上げた。何か言いかけて、やめた。缶を胸に抱えて、カウレスのほうへ駆けていった。

 

 手すりの前にふたりで並んだ。灯也は先に言った。今言わなければ、また言えなくなる気がした。

 

「けさの『なんでもない』、嘘だ。手、冷たかった」

 

「上がっていた。……見なくてもわかる」

 

 アルテラが言った。

 

「……知ってたのかよ」

 

「知っていた。私も嘘をついていた」

 

 アルテラは軍手の手を見下ろした。

 

「寒い、も。聞こえない、も。大丈夫だ、も」

 

「……ぜんぶかよ」

 

「ぜんぶだ」

 

「……なんで今日は」

 

「今日は返す日だ」

 

 アルテラは崖の下の灯りを見ていた。その横顔から灯也は目を離せなかった。

 

 嘘をつかれていたときより、今のほうがこわかった。ほんとうのことをひとつ言うたびに、アルテラの中で何かが片づいていくような気がした。

 

 昼間の提灯を思いだした。ひとつずつたたまれて、段ボール箱に寝かされて、ふたを閉められていった。灯也は手すりを握った。手のひらが汗ばんでいた。

 

四

 日が沈むと、主塔のてっぺんには風の音しかなくなった。

 

 カルナは島側の主塔の上に立っていた。はるか下で暁浜大橋がまっすぐに本土へのびている。海の色はその真ん中のあたりだけわずかにちがった。

 

 ひびの真上だった。愛歌は塔の縁に腰かけて、白い靴の先をぶらぶらさせていた。

 

「わたし、なんでも知ってるの」

 

 愛歌は町の灯りを見下ろして言った。

 

「八百屋のおじさんがへそくりを長靴から米びつに移したこと。きのうの連絡船に教会の人たちが乗ってたこと。……鍵が茶色の氷を白いって言ったこと」

 

 指を一本ずつ折っていく。

 

「ぜんぶ知ってるわ。……知らないのはあの火だけ」

 

 湾の向こうの山の上に橙色の点がひとつあった。町のどの灯りより小さかった。それでも、愛歌の目はさっきからそこばかりを見ていた。

 

「ゆうべは間桐の娘が自分の口で断った。オレはけさ見事だと言った」

 

 カルナは言った。

 

「お前は答えなかった」

 

 愛歌は首をかしげた。

 

「断れるのは何か言われたことのある子だけよ」

 

 それきりだった。カルナもその話は続けなかった。何でも先に知ってしまう娘に、何かを言いつける者はいない。だから、この娘は断ることを知らない。

 

「ひとつ聞きたい」

 

 カルナは言った。

 

「最初の晩に町の灯りが一度だけ息をした。……あれはお前か」

 

 愛歌はくすくすと笑った。

 

「ええ。起こしたのはわたしよ」

 

 風が鳴った。

 

「ちょっと歌ってあげたの。寝てる子の耳もとで。そしたら、寝がえりを打ったわ」

 

 白い靴がぶらぶらと揺れた。

 

「それから、鍵を出してあげなきゃいけなかったの。あの石の中から。……灯也くんを石まで弾いてくれたのはランサーね」

 

 カルナは胸に手を当てた。鎧の胸の赤い石に髪の毛ほどのひびが走っていた。石突きひとつで老婆の火の壁を砕いた、あの晩の手ごたえを覚えていた。

 

 老婆の小さな体が宙を舞った。力の加減はした。それでも、軽い傷ではなかった。オレがつけた傷だ、とマスターに言った。

 

 ——あれもオレがつけた傷だ。

 

 老婆の腕の火傷だけではなかった。柄で払った少年の背中も。石の中から出てきた娘が今かかえているものも。

 

「あの子ね、自分のせいだと思ってるの」

 

 愛歌は楽しそうに言った。

 

「石がからっぽになったのも、白いのがたまったのもぜんぶ自分が出てきたからだって。……そう思ってるうちは自分の足で帰ってくるわ」

 

「迎えには行かないのか」

 

「行かないわ。わたしが行ったら、灯也くんの火が邪魔するもの」

 

 愛歌は山の上の点を見た。

 

「灯也くんが言ってたでしょう? 自分で戻ってこなきゃだめだって」

 

 にっこりと笑った。

 

「鍵もそうなの」

 

 愛歌は右手を夜空にかざした。手の甲で赤い模様が光った。二画。この塔の上で一画使った残りだった。

 

「ランサー、昼間に灯也くんに言っちゃったでしょう。今夜は橋に立つって」

 

 カルナは答えなかった。

 

「令呪をもって命じるわ」

 

 澄んだ、楽しそうな声だった。

 

「ランサー。今夜は橋を誰にも渡らせないで。……鍵のほかは」

 

 赤い光がひとつ消えた。見えない鎖がカルナの体に巻きついた。腕にも脚にも、槍を握る指にも。胸の奥までは届かなかった。令呪は体を縛る。心までは縛れない。

 

「オレが信じられないか」

 

「信じてるわ。あなた、やさしいもの」

 

 愛歌は言った。

 

「だから、縛ったの」

 

 カルナは目を閉じた。それから、開いた。

 

「体は従おう。だが、誰も貫かずに止める」

 

「好きにして」

 

 愛歌はもう町のほうを見ていた。しばらくして、カルナは聞いた。

 

「あの火がほんとうの暗闇の中でも燃えたら、どうする」

 

 ぶらぶらと揺れていた白い靴の先が塔の縁でぴたりと止まった。

 

「……わからない」

 

 小さな声だった。何でも知っている娘がその言葉を言うのを、カルナははじめて聞いた。

 

「消えたら、またぜんぶわかっちゃうの」

 

 愛歌は町を見下ろしたまま言った。

 

「たこ焼きのたこも、へそくりも、明日の天気も。……ぜんぶつまらないの」

 

 白い靴の先が小さく一度だけ揺れた。

 

「だから、消したいの。でも、消えてほしくないの。……どっちなのかしら」

 

 カルナは答えなかった。この娘が自分でもわからないことを口にするのは、今夜これで二度目だった。愛歌はすぐにいつもの顔に戻った。塔の縁に立ちあがって、両手を広げる。

 

「見たいの。ほんとうの暗闇の中であの火が燃えるのかどうか」

 

 それを見るためにも、この娘は町じゅうの灯りを海の底へ差しだすのだった。愛歌は歌いはじめた。

 

 鼻歌ではなかった。はっきりと声に出していた。言葉のない、ゆったりとした節を。

 

 鳥居の上で歌っていたのと同じ歌だった。海の底から聞こえてくるのと同じ歌だった。午後十一時。湾をかこむ町ですべての灯りが大きく息を吸った。

 

五

 茶の間のテレビの前でアルテラが赤いほうのキャラクターを選んだ。

 

「おっ。やっと自分の色がわかったか」

 

 カウレスがコントローラーを握りなおした。三本勝負だった。一本目はカウレス。二本目はアルテラ。三本目、画面の中で赤い剣士が青い剣士を壁ぎわまで押しこんでいった。勝者の文字が出た。

 

「……勝った」

 

 アルテラが言った。

 

「はじめて三本勝負に勝った」

 

「ちっ。次は負けねえからな」

 

「次も勝つ」

 

 間がなかった。灯也は湯のみを持つ手を止めた。アルテラの言葉には今日ずっと間があった。この一回だけがなかった。

 

 嘘をつくときのアルテラと同じだった。アルテラはもう画面のほうを向いていた。

 

 縁側では凛とアルジュナが何か話していた。桜とジャンヌは社務所の軒下に並んで、ジャンヌの膝の皿から煎餅をつまんでいた。

 

 フラットは石畳にねそべって片耳を石につけ、アストルフォは本殿の屋根の上で月を眺めていた。

 

 午後十一時だった。町じゅうの灯りがいっせいに息を吸った。ふっと暗くなった。そして、吐かなかった。

 

 テレビの電源は切れていなかった。ゲームの音楽はちゃんと鳴りつづけていた。それなのに、画面が暗くなっていった。

 

 光が画面の下のふちからこぼれていた。水のように。こぼれた光が畳の上を這って、縁側のほうへ逃げていく。縁側から庭へ。庭から石畳へ。坂の下へ。

 

 蛍光灯の光も同じだった。天井から垂れて、柱をつたって、床をすべっていった。

 

「なに、これ……」

 

 桜の声がした。灯也は縁側から飛びだした。崖の下の町から光がこぼれおちていた。街灯の光が柱をつたって道路に落ちていく。窓の光が壁をつたって側溝に落ちていく。

 

 側溝から川へ。川から海へ。坂の多い町じゅうの光が雨水みたいに低いほうへ、低いほうへと流れていく。

 

 暁浜大橋のライトアップが両端から真ん中へ寄っていった。橋の真ん中で光が細い滝になって、海へ落ちた。

 

 ごくりと。海の底で何かが喉を鳴らした。月の光さえ屋根の瓦をすべって、軒から落ちていった。

 

 崖の上から見下ろすと、坂という坂が光の川になっていた。何十本もの細い川が網の目のように寄りあつまって、橋の真ん中のひとところへ注ぎこんでいく。

 

 それだけの光をのみこんで、海は少しも明るくならなかった。消えたのではなかった。色が抜けたのでもなかった。今夜は光そのものが持っていかれていた。

 

 祭りの晩には山の上の火が人の手から人の手へ渡って、海のほうまで運ばれていった。今夜の光はどこへも帰らなかった。ただ低いほうへ落ちて、海の底へのみこまれていった。

 

 町の音も消えていった。車のエンジン。どこかの家のテレビの笑い声。犬の鳴き声。ひとつずつ眠るように静かになった。

 

 耳の奥で歌が鳴っていた。海の底の歌に別の声が重なっていた。くすくす笑いのまじった、楽しそうな声。

 

 ——おやすみ。

 

 灯也のまぶたが重くなった。頭を振った。背中の回路がかっと熱くなって、眠気が引いた。

 

「魔術師は起きていられるみたいだね」

 

 石畳にねそべったまま、フラットが言った。片耳を石にぴったりつけていた。

 

「町の人はみんな寝ちゃった。……立ったまま寝てる人もいるよ、きっと」

 

 社務所の軒下でジャンヌが立ちあがっていた。皿が落ちて、煎餅が石畳に散らばった。

 

「……おいで、って言ってる」

 

 ジャンヌの声がかすれていた。

 

「私にも聞こえるわ。……ゆうべまでは聞こえなかったのに。作りものなら誰でもいいってわけ」

 

 桜がジャンヌの腕をつかんだ。両手で。

 

「行かせません」

 

 ジャンヌは桜を見下ろした。それから、ふんと鼻を鳴らした。

 

「行かないわよ。燃えのこりにだって行き先くらい選ばせなさいよ」

 

 ジャンヌが指を鳴らした。手のひらに黒い炎がともった。灯りのかわりに。アルジュナも指先に青い炎をともしていた。

 

 炎の光がすぐにこぼれはじめた。指のあいだから石畳へ。石畳から坂の下へ。細い細い糸になって、海のほうへ。

 

「だめ、消して!」

 

 フラットが跳ねおきた。

 

「それ、ごはんになってる! 出しっぱなしの光はぜんぶ下に吸われてくんだ。手でともした火も同じ。……戻ってくる道のない光はみんな海に落ちてく!」

 

 ジャンヌは舌打ちをして手を握った。黒い炎が消えた。アルジュナも黙って炎を消した。境内が暗くなった。残っているのは崖の上の常夜灯だけだった。

 

 十年前から灯也が毎晩火を入れてきた灯籠だった。その火が横に倒れかけていた。炎の先が海のほうへ引っぱられていた。

 

 灯也は走った。

 

「——灯れ」

 

 手のひらに火をともした。ともしたそばから火がこぼれていった。指のあいだから糸になって、崖の下へ。

 

 作った火はこぼれる。回路が開きっぱなしだったころの、あの朝の水晶と同じだった。

 

 ——あんたは炉じゃない。道よ。

 

 ——ゼロから火をおこそうとしないこと。もう燃えてる火を借りなさい。

 

 灯也は右の手のひらを常夜灯の台座にぴたりとつけた。左手で崖の手すりをつかんだ。行きと帰りで輪になる。橋の上で凛に話したことだった。

 

「——巡れ」

 

 常夜灯の火が灯也の右手に入ってきた。

 

 腕をのぼる。肩をまわる。胸を通って、左腕をくだって、手すりへ抜ける。手すりの鉄をつたって崖のふちをぐるりとまわり、台座の根もとから常夜灯へ帰っていく。

 

 ひとまわり。ふたまわり。崖の下へこぼれかけた光が輪の上で向きを変えた。ぐるりとまわって、また常夜灯へ戻ってきた。

 

 常夜灯の火が起きあがった。まっすぐに。橙色に。境内がうっすらと明るくなった。輪の内側だけが。

 

 腕の包帯の下で焼けた皮膚がぷつりと裂けた。灯也は奥歯をかんだ。手を離せば輪がほどける。一歩も動けなかった。

 

 守れと唱えれば歌ごと閉めだせる。アーケードの夜はそうした。けれど、あの晩は提灯の列がぜんぶ灯っていた。今夜あるのは常夜灯の火ひとつだ。まわすだけでせいいっぱいだった。

 

「穂村くん!」

 

 凛が駆けよってきた。輪の灯りを見まわして、唇をかんだ。

 

「……町ぜんぶは無理よ。あんたの輪はあんたの手が届くとこまで」

 

「わかってる」

 

 わかっていた。崖の下は真っ暗だった。暁浜の町に灯りはひとつも残っていなかった。ここだけだった。

 

 いつのまにかアルテラが隣に立っていた。手すりの前で海のほうを向いていた。軍手の手が手すりの上で小さくふるえていた。

 

 灯也は崖の下の闇に目をこらした。町じゅうの灯りが一度に大きく息をする。前にも見たことがあった。

 

 ——あの晩だ。

 

 八月の、あの晩。寝つけなくて開けた窓の外で町じゅうの灯りがいっせいにまたたいた。停電じゃないと思った。足の下で何かが寝がえりを打った気がした。

 

 湾の真ん中で海が一瞬だけ内側から白く光った。そのあとで白い髪の槍の男が来た。その槍に弾かれて、本殿の中へたたきこまれた。うしろへ伸ばした右手があたたかい石にふれた。

 

 順番がちがう。灯りが息をして、海の底が寝がえりを打った。槍の男が来たのはそのあとだ。石にさわったのは最後だった。今夜と同じ息だった。

 

「アルテラ」

 

「……なんだ」

 

「あの晩、町の灯りが息したんだ。俺が石にさわる前に」

 

 アルテラは海を見たままだった。

 

「……アルテラが出てくる前なんだ」

 

 灯也はもう一度ゆっくり言った。

 

「出てきたのだって、槍で弾かれた俺が石にさわったからだ。アルテラが決めたんじゃない」

 

 アルテラがゆっくりと灯也を見た。長いあいだ目をそらさなかった。

 

「……そうか」

 

 アルテラはまた海のほうを向いた。

 

 常夜灯の火がぐらりと横に倒れた。輪をめぐっていた光がいっぺんに崖のほうへ引かれた。灯也の腕の中で回路がきしんだ。

 

「ほら」

 

 すぐ耳もとで声がした。愛歌の声だった。振りかえっても誰もいなかった。

 

 灯也は台座に手を押しつけて、手すりを握りしめた。火を押しもどすのではなかった。ただ、まわしつづけた。こぼれた光が輪をひとまわりして、また戻ってくる。

 

 火が起きあがった。二度目はもっと強く倒れた。炎の先が台座のふちまで傾いて、ほとんど石をなめた。鼻の奥で血の味がした。それでも、まわした。火が起きあがった。

 

「……本気だったのに」

 

 耳もとの声が言った。楽しそうではなかった。

 

「どうして消えないの」

 

 灯也は答えなかった。答える余裕がなかった。輪の内側でアビーが目をつむっていた。両手で銀色の鍵を握りしめて。カウレスがそのアビーを膝の上に抱えこんでいた。

 

 本殿の屋根の上でアストルフォが空を見上げていた。月の光も流れていた。けれど、月そのものはまだ空にあった。

 

「月にはね、なくしたものがぜんぶあるんだって」

 

 アストルフォは誰にともなく言った。

 

「ボクの理性も……あそこ」

 

六

 銀の針金の小鳥が帰ってきたのは夕方だった。郊外の山あいの古い別荘のバルコニー。イリヤは小鳥の足から紙をほどいた。見なれた、細くて固い字だった。

 

『「きれい」は数値ではない。白き結び目はユスティーツァの手による。同じ型の手はお前の手だけだ。ふたが割れたら、ほどけ。満ちた炉の数値を持ち帰れ』

 

 署名はなかった。イリヤは自分の手のひらを見た。小さな手だった。作られた手だった。二百年前に海の底へふたをした女の人と、同じかたちの。ほどけ。

 

 ほどいたらどうなるのか、おじいさまは書いていなかった。いつもそうだった。数値を持ち帰れ。フランのときと同じ書き方だった。

 

 イリヤは紙を破らなかった。小さくたたんで、首のスカーフの内側にしまった。フランのスカーフだった。

 

 午後十一時。別荘の灯りが流れだした。電気スタンドの光がテーブルのふちからこぼれて、床を這って、バルコニーから谷へ落ちていった。歌が聞こえた。

 

 ——おいで。

 

 イリヤの足が勝手に動いた。階段を降りる。玄関を出る。坂を下る。海のほうへ。

 

 歩きながら、イリヤはドロップの缶を握りしめた。けさ老婆がいっぱいにしてくれた缶だった。重かった。

 

 坂の途中に大きな建物があった。窓はどれも真っ暗だった。市民病院だった。門の前でイリヤは足を止めた。止めるのに全身の力がいった。

 

 ——ここまで。

 

 自分で決めた。病院の廊下で看護師さんが立ったまま眠っていた。カルテを胸に抱えて、壁にもたれて。非常口の灯りだけが最後のしずくのように階段の下へ垂れていった。

 

 病室は真っ暗だった。枕もとの機械が小さな音を立てていた。ぴっ、ぴっと。画面の数字はもう光っていなかった。それでも、音は鳴りつづけていた。老婆はベッドの上で起きていた。

 

「……イリヤちゃんかね」

 

「起きてたの、おばあさま」

 

「眠れんのよ。年寄りじゃけえ」

 

 町の人はみんな眠っているのに。イリヤは思いだした。この老婆も火をあつかう魔術師だった。老婆は窓のほうを向いていた。

 

 真っ暗な窓だった。町には灯りがひとつもなかった。いや。ひとつだけあった。遠い山の上に針の先ほどの橙色の点が。

 

「灯也の火じゃ」

 

「……うん」

 

 イリヤはベッドのそばの丸椅子に座った。缶のふたを開けて、ひと粒取りだす。差しだされた手のひらにのせた。

 

「……あまい」

 

「いちごじゃけえね」

 

 イリヤは老婆の口まねで言った。暗がりの中で老婆が笑ったのがわかった。それから、ふたりとも長いこと黙っていた。

 

「昼間、アルテラちゃんに聞かれたんよ。火は引っぱるかいうて」

 

「……うん」

 

「引っぱらん、と言うた。どっちへ行くかは行く者が決めるんよ、とも」

 

 老婆は山の上の点から目を離さなかった。

 

「……言わにゃよかったかのう」

 

 イリヤは答えられなかった。かわりに老婆の手を握った。しわだらけのあたたかい手だった。

 

 午前二時。イリヤの左の手のひらに冷たい線が走った。焼けるような冷たさだった。手のひらのまんなかを細い糸で縛られたような。

 

 ——ほどけ。

 

 海の底で何かが手を探していた。二百年前にそれを結んだ手と、同じかたちの手を。ここをほどけば、ふたは開く。イリヤはこぶしを握った。ほどかなかった。握りしめた。

 

 ひびだらけの手を思いだした。雷をまとった、不器用な手。いつもイリヤの頭をぽんと撫でてくれた手。最後の晩もあの手はそうしてから空へのぼっていった。

 

 だから、この手は放さない。鼻の奥から血が垂れて、唇がぬるりとあたたかくなった。老婆の手がイリヤの背中をさすっていた。何も聞かずに。

 

 イリヤはスカーフの内側から紙を取りだした。膝の上に広げる。右手で握ったペンの先がふるえた。手紙の裏に一行だけ書いた。

 

『いや。以上』

 

七

 午前二時。海の底で何かが割れた。音ではなかった。足の裏から骨に伝わってくる、ひびの入るような感触だった。灯也の腕の中で輪がびくりと跳ねた。

 

「割れた……!」

 

 フラットが石畳に耳を押しつけたまま叫んだ。顔が真っ青だった。

 

「いっぱいになったとこで、寝がえり打ったんだ。町じゅうの光をのみこんで、あふれた!」

 

 フラットが輪の内側へ転がりこんだ。指が宙に光の糸を描いた。輪の中でだけ糸はこぼれなかった。三つの結び目。

 

「ねじれたのから切れてく。……結んだ人がゆうべいなくなっちゃったから」

 

 ねじれた糸がぷつりと切れた。まっすぐできれいな糸がきしみながらほどけていった。

 

「……遠坂の」

 

 凛が小さく言った。フラットがうなずいた。

 

「ねじれたのと編みあわせてあったんだ、まっすぐのは。片っぽが切れたら、もたない」

 

 雪のように白い糸だけが残った。ぴんと張って、ふるえて、それでも切れなかった。

 

「白いのだけもってる。……なんで? 誰かが握ってるみたい」

 

 暁浜大橋の真ん中から白いものが湧きあがった。見えた。けれど、何も照らさなかった。真っ暗な海の上に光らない白がぼうっと立っていた。

 

 フランを空へ送った晩とはちがった。白は海の上へ広がっていかなかった。橋脚をのぼっていった。橋の上へ這いあがって、路面を塩に変えていく。

 

 それから、細い線になって陸へのびてきた。光が流れくだっていった道を、一本残らず逆にのぼってくる。側溝を。坂を。路地を。百八段のいちばん下で白い線が止まった。

 

 火入れの火が毎年降りていく石段だった。白はその一段目をのぼらなかった。歌が大きくなった。

 

 海の底の歌と愛歌の歌がひとつになって、山の上まで押しよせてきた。アルテラの体がぐらりと揺れた。

 

 軍手の両手が手すりをつかんだ。布の織り目から色のない光があふれた。肘より上まで。肩まで。その手が手すりからずるりとすべった。体が海のほうへ傾いた。

 

「アルテラ!」

 

 灯也は手すりから左手を離した。輪の片側が口をあけた。前に橋の上でつくった輪は手すりの上をまわっていた。今夜の輪は半分が灯也の体だった。

 

 左手でアルテラの手をつかんだ。軍手ごしに。氷のような手だった。つかんだとたん、常夜灯の火が細くなった。

 

 輪をめぐっていた光が灯也の左手からアルテラの手へ流れこんでいった。アルテラの体を通って、崖の下へ。海のほうへ。開いたところから光がこぼれていた。

 

 輪が閉じていれば、火は輪をまわる。口があけば、いちばん低いほうへ逃げる。この崖の上で海の底へいちばん近い道はアルテラの体だった。

 

 アルテラが自分の手を見下ろした。灯也につかまれた、自分の手を。その手を通って、灯也の火が海へ落ちていくのを。

 

 石段の下から足音がのぼってきた。ゆっくりと一段ずつ。真っ暗な百八段を灯りも持たずに。カレンだった。山の上の火だけを目じるしにのぼってきたらしかった。

 

 最後の段をのぼりきって、カレンは自分の両腕を見下ろした。袖口からのぞく白い包帯に血のしみはひとつもなかった。

 

「……やはり悪魔ですらない何か」

 

 カレンは顔を上げた。輪の灯りの中でその顔はいつもと同じように静かだった。

 

「申しあげたとおりです。次に同じことが起きたら、教会はあの炉を壊します。……町ごと、になるかもしれませんが」

 

 誰も口をきかなかった。

 

「教会の方々はきのうの連絡船でお着きです。日の出より早くはできない、と申しあげておきました」

 

 カレンは東の空を見た。まだ真っ暗だった。

 

「私にできたのはそれだけです」

 

 アルテラが崖の下を見ていた。真っ暗な町を。アーケードのあたりを。病院のある坂のあたりを。町ごと、とカレンは言った。

 

 凛がアルテラの前に回りこんだ。

 

「行く気でしょ」

 

 アルテラは答えなかった。

 

「欠片が帰ったら巨人が起きるのよ!」

 

「起こさない」

 

 アルテラは言った。

 

「私が見張る。……中から」

 

 桜が凛のうしろから一歩出た。ジャンヌの手を握ったまま。

 

「それ、誰かに言われたんですか」

 

 アルテラは桜を見た。

 

「いいや」

 

 少し間があった。

 

「私が決めた」

 

 桜は何も言えなくなった。輪の内側でアビーが目をつむったまま言った。

 

「セイバーさん、こわいのね」

 

 アルテラはすぐには答えなかった。

 

「……こわい」

 

 このあいだは、こわくない、と言った。アビーの肩がふるえた。カウレスがその頭を胸に押しつけた。フラットが宙の糸を見上げたまま、ぼそりと言った。

 

「鍵って……内側から回せたっけ」

 

 誰も聞いていなかった。

 

 灯也はアルテラの手を握っていた。放せなかった。

 

「……行くな」

 

 声が出た。命令ではなかった。誘ったのでもなかった。頼むしかなかった。はじめてアルテラに頼んだのは、港のコンテナヤードだった。あのときアルテラはきいてくれた。

 

「お願い、か」

 

 アルテラは言った。

 

「……悪くない。だが、きけない」

 

 灯也の右手の甲には令呪が三画残っていた。令呪で動くのは体だけだ。自分でそう言ったのだった。

 

 体だけここに縛っても、アルテラが決めたことは消えない。それに、つないだ手からは今も火が海へ落ちていた。凛が灯也の手の甲を見た。唇を結んだまま、目をそらした。

 

「トウヤ」

 

 アルテラが言った。

 

「私のせいではなかった。お前が教えてくれた」

 

 灯也は首を振った。声にならなかった。

 

 ——そんなつもりで言ったんじゃない。

 

「だから、これは私が決める。帰って、内側から閉める。お前の火を見ながら、あれを眠らせる」

 

 灯也はけさの露草を思いだした。

 

 ——覚えたか。

 

 アビーに渡した餌の缶。お彼岸の卵焼きにうなずかなかったこと。今日一日を私に寄こせ、と言ったこと。

 

 ぜんぶこのためだった。今日一日かけて、アルテラは自分のいない明日を片づけていたのだ。

 

「アルテラ」

 

「私は迷子ではない。自分で行く」

 

 アルテラは軍手の小指を見た。

 

 ——アルテラが迷子になったら、何回でもこの火のとこまで連れて帰ってくる。

 

 ゆびきりをした夜明け前に灯也はそう言った。嘘ついたら針千本。

 

「……だから、お前は針を飲まなくていい」

 

 するりと。灯也の手の中で軍手が軽くなった。アルテラの手が抜けていた。灯也の左手にはからっぽの軍手だけがあった。まだ少しだけ冷たかった。

 

 アルテラの素手が輪の灯りの中に出ていた。褐色の腕の上で紋様が肩まで色のない光を放っていた。アルテラはもう片方の軍手を歯でくわえて、引き抜いた。

 

 ポケットから小さな粒をふたつ取りだして、素手の手のひらにのせる。とげとげの、星のかたちの。病院で祖母にもらったお菓子だった。金平糖だった。

 

 桃色と黄色の粒は、見ているあいだに手のひらの上で色をなくしていった。アルテラはそれを常夜灯の台座にそっと置いた。脱いだ軍手の隣に。

 

 輪はまだ口をあけたままだった。常夜灯の火が横に倒れて、崖の下へこぼれはじめていた。境内の灯りも、桜やアビーの足もとの灯りも細くなっていく。

 

 手を伸ばせば、まだアルテラに届く。そのかわり、この火は消える。

 

 ——アルテラちゃんを海にやりなさんなよ。

 

 祖母の声だった。左手が勝手に浮いた。からっぽの軍手を握ったまま、アルテラのほうへ。

 

 ——どっちへ行くかは、行く者が決めるんよ。

 

 同じ祖母の声だった。左手が宙で止まった。

 

 ——この火が消えたら、アルテラは何を見てあれを眠らせるんだ。

 

 灯也はからっぽの軍手に左手を通した。中にはまだアルテラの冷たさが残っていた。その手で手すりを握った。

 

 輪が閉じた。常夜灯の火がまっすぐに起きあがった。橙色に。アルテラがその火を見た。

 

「小さい火だな」

 

「……うん」

 

「だが、消えていない」

 

 アルテラは輪をまたいだ。崖のふちを走る火の輪を。灯也の火はアルテラを焼かなかった。石段の上でアルテラは一度だけ立ちどまった。行ってくるとは言わなかった。

 

 灯也もいってらっしゃいとは言わなかった。フランはいってらっしゃいで送られて、帰ってこなかった。アルテラは石段を降りはじめた。

 

 真っ暗な百八段を降りていく白い髪の背中を、常夜灯の火が崖の上から見送っていた。送り火だ、と灯也は思った。

 

 ——迎えるのも火。送るのも火。……迷わんようにの。

 

 喉まで出かかった言葉を、灯也はのみこんだ。帰ってこいとは言えなかった。火は引っぱらない。道を照らすだけだ。かわりに叫んだ。

 

「ずっとつけてるからな!」

 

 その背中は振りかえらなかった。軍手の中で灯也の指がふるえていた。それでも、手すりから手は離さなかった。

 

 凛が石段へ駆けだした。

 

「アーチャー!」

 

「はい」

 

 アルジュナが凛を追った。桜がジャンヌの手を引いて走った。ジャンヌは舌打ちしながらついていった。フラットがアストルフォのヒポグリフに飛び乗った。

 

「僕たちは空から!」

 

 カウレスがアビーを抱えあげて、母屋の中へ入っていった。カレンは静かに一礼して、反対側の坂道を降りていった。教会の人たちのほうへ。凛が石段の上で一度だけ振りかえった。

 

「穂村くん。あんたはそこにいなさい」

 

 凛は言った。

 

「その十一はまだ合格してないんだからね」

 

 凛の姿が石段の闇に消えた。

 

八

 石段の下でアルテラは振りかえりかけて、やめた。背中に火があった。山の上の小さな橙色の火。見なくても、そこにあるのがわかった。

 

 戻らないつもりで火に背を向けて歩くのは、はじめてだった。火は引っぱらない。灯也の祖母はそう言った。だから、あの火は自分を連れもどさない。中からでも見ていられる。

 

 広場の石畳のすりへった輪の跡を、足の裏で踏んだ。灯也とふたりで夕方に通った跡だった。その真ん中を白い線が一本、海のほうへのびていた。

 

 光らない白だった。足もとを照らしもしなかった。それでも、アルテラには見えた。帰り道だった。

 

 アルテラはその上を歩いていった。胸に「祝・暁浜大橋開通」の文字をつけて。白い線を踏むたびに靴から色が抜けた。胸の文字も少しずつ薄くなっていった。

 

 町は眠っていた。商店街の入り口のほうで誰かの寝息が聞こえた。自転車にまたがったまま眠っているらしかった。

 

 コンビニの前では立ったまま眠る誰かのレジ袋がかさりと鳴った。誰の手の中にも灯りはなかった。

 

 アーケードを抜けた。提灯のなくなった軒が暗く続いていた。汐屋の前を通った。二階でおばあちゃんが眠っているはずだった。

 

 ——一時間だけよ。アルテラちゃん、来るじゃろう思うて。

 

 アルテラは歩きつづけた。ずっとうしろの暗がりで、誰かが段を踏みはずす音がした。頭の上を羽ばたきが一度、見当ちがいの方角へ遠ざかっていった。

 

 灯りをともせば海へこぼれる。この町で足もとが見えているのは、白い線の上を行く自分だけだった。歩きながら数えた。

 

 露草が一本。卵焼きがひと巻き。殻はゼロ。赤に戻った提灯がひとつ。いちごの氷が一杯。ゲームが一勝。嘘がひとつ。次も勝つ。焼いた町の数なら覚えている。国の数も。

 

 今日の数はそれよりずっと少なかった。それなのに、いくら数えてもおわらなかった。海岸通りへ出た。暁浜大橋のたもとへ。

 

 橋の上は白かった。路面のアスファルトがところどころ塩になって、崩れかけていた。その上に白い髪の男が立っていた。

 

「……来たか」

 

 カルナだった。黄金の鎧のまわりで白いものが渦を巻いていた。触れては離れ、触れては離れて、鎧に何も残せずにいた。人の手が作ったものではない鎧だった。カルナは道をあけた。

 

「オレは誰も渡らせるなと命じられている。……鍵のほかは」

 

「そうか」

 

「最初の晩、町の灯りに息をさせたのはオレの主だ。お前ではない」

 

「知っている」

 

 アルテラは言った。

 

「トウヤが教えてくれた」

 

 カルナはアルテラを見た。それから、山の上を見た。

 

「お前の主の火はまだ見えるか」

 

「見えている」

 

「ならば、なぜ行く」

 

「見えているからだ」

 

 見えなくなってからでは遅い。あの火が見えているうちなら、あれを眠らせる自分のままで降りていける。アルテラはカルナの横を通りすぎた。

 

 うしろで足音が橋の上に駆けあがってきた。

 

「セイバー!」

 

 凛の声だった。アルテラは振りかえらなかった。音だけで何が起きているのかわかった。槍の柄が橋の幅いっぱいに横たえられる音。

 

「すまない。通すなと命じられている」

 

「……どきなさいよ!」

 

「渡らせはしない」

 

 カルナは言った。

 

「……落としもしない」

 

 うしろの空で羽ばたきが鳴った。

 

「いっくよー!」

 

 アストルフォの声。金色の短い槍が風を切る音。どさりと重いものが路面に倒れた。

 

「やった! こんどは足がある!」

 

「……見事だ」

 

 カルナの声だった。倒れたまま言ったらしかった。一拍おいて、アストルフォの照れたような笑い声がした。

 

 羽ばたきの音が橋の真ん中へ向きを変えた。それから、急に乱れた。馬のいななき。

 

「……空からでもだ」

 

 弓の弦がきしむ音がした。それから、ゆるむ音。

 

「……ここで射れば炉が肥えます。今夜ではありませんね」

 

「ああ。今夜ではない」

 

 路面の崩れる音がした。凛の短い悲鳴。アルテラは足を止めて、一度だけ振りかえった。

 

 カルナの膝から下はまだ戻りきっていなかった。片腕で身を起こして、欄干の外へ傾いた凛の手首をつかんでいた。ひょいと引きあげて、橋の上に下ろす。

 

 その脇をすり抜けようとした桜の襟首を、もう片方の手でつまんでうしろへ戻した。ジャンヌは剣を構えたまま、振りおろさなかった。

 

「……あんた、どっちの味方なのよ」

 

 ジャンヌが吐きすてた。

 

「命じられたことをしている。それ以上のことはしていない」

 

 誰も傷ついていなかった。アルテラは前を向いた。

 

 橋の真ん中に愛歌が立っていた。白い路面の上に青いワンピースの少女がひとり。

 

「おかえりなさい、わたしの鍵」

 

 愛歌は両手を広げた。

 

「お前の鍵ではない」

 

 アルテラは言った。

 

「閉めに来た」

 

 愛歌はしばらくアルテラを見ていた。

 

「まあ」

 

 それだけだった。愛歌は道をあけた。すれちがうとき、愛歌が小さく笑った。何がおかしいのか、アルテラにはわからなかった。

 

 ひびの真上だった。欄干の向こうから白い階段が海の中へのびていた。下へ、下へ。数えなくてもわかった。百八段だった。崖の上の神社の石段をさかさまにしたような。

 

 フランは空へのぼっていった。自分は海へ降りていく。アルテラは欄干を越えて、最初の段に足を下ろした。一段ずつ降りた。百八。百七。百六。

 

 神社の石段なら毎日のぼった。いつも灯也が先に息を切らした。九十。八十。段を踏むたびに足もとの白がさらさらと崩れた。塩の音だった。

 

 五十をすぎたあたりで海が頭の上で閉じた。見上げると、水の天井の向こうで橋の白い線がゆらいでいた。三。二。一。歌がやんだ。まわりじゅうから声がした。

 

 ——帰ってきた。

 

 ——帰ってきた。

 

 アルテラは答えなかった。

 

 中は暗かった。だが、寒くはなかった。石の中と同じだった。アルテラは石の中でそうしていたように膝をかかえて、目を閉じた。眠れなかった。

 

 胸の奥がうるさかった。提灯の紙の鳴る音。卵の焼ける音。ゲームの音楽。汐屋のおばあちゃんの声。いちごが水面をたたく音。知ってしまったからだ。

 

 石の中で眠れたのは、火があたたかいことしか知らなかったからだ。アルテラは手さぐりでまわりの壁にふれた。鍵穴を探した。内側から閉めるための。

 

 ——内側に鍵穴はなかった。

 

 ずっと上のほうに小さな橙色の点が見えていた。山の上の火だった。見えている、と思った。まだ見えている。その点から色が抜けていった。橙色から薄い黄色へ。それから、白へ。

 

「……白いな」

 

 声に出していた。茶色だろ、と言う声はしなかった。まちがえた、と言いかえそうとした。そのあとにのぼってくる言葉をかみ切ろうとした。かみ切れなかった。

 

「——文明を確認した」

 

九

 アルテラが石段の闇に消えてから、灯也は一度も海のほうを見なかった。

 

 手すりを背にして、常夜灯の前に膝をついていた。右手を台座に。うしろへまわした左手を手すりに。からっぽの軍手をはめたまま。背中で風をさえぎって、火を守っていた。

 

 見たら、手を離してしまいそうだった。背中のうしろは静かだった。凛の声も、羽ばたきもここまでは届かなかった。歌だけが鳴っていた。

 

 歌が鳴っているあいだは、アルテラはまだ歩いている。なぜだかそう思った。腕が焼けていた。包帯の下で皮膚が裂けては焼け、裂けては焼けた。

 

 台座の上には色のない金平糖がふたつ並んでいた。灯也はそれを見ないようにした。どれくらいたったのかわからなかった。ふいに歌がやんだ。灯也は振りかえった。

 

 崖の下の町に灯りは戻っていなかった。ふたの割れた海は、歌がなくても光をのみこみつづけていた。

 

 暁浜大橋のすぐ横に白い手が立っていた。海から手首まで。それより上へは出てこなかった。白いのだけもってる、とフラットは言っていた。

 

 主塔より高かった。五本の指をゆるく開いて、手のひらを空に向けていた。何も握っていない手だった。石を海へ返したときの自分の手と同じだった。

 

 手首から海水が滝のように流れおちていた。そのしぶきさえ少しも光らなかった。その向こうで橋の真ん中の海が盛りあがった。海面がまるくふくらんで、まぶたのように裂けた。

 

 目が開いた。橋よりも大きな目だった。黒目はなかった。目のぜんぶがただ白かった。何も照らさない白。そのまんなかに点がひとつあった。橙色の点が。灯也の火だった。

 

 目はまっすぐ山のほうを向いていた。崖の上のたったひとつの灯りのほうを。胸の奥で声がした。平らな、何の色もない声だった。

 

 ——文明を確認した。

 

 アルテラの声だった。

 

 ——見えてるか、アルテラ。

 

 灯也の背中を冷たいものが駆けおりた。それでも、手は離さなかった。右手の甲を見た。令呪は三画とも赤かった。それだけなら、フランをなくしたイリヤにも残っている。

 

 けれど、胸の奥にはまだ細い糸がつながっていた。氷のように冷たい糸。切れてはいなかった。サーヴァントは消えれば杯に注がれる。カレンはそう言った。

 

 アルテラは消えていない。まだあそこにいる。日がのぼれば、教会があの炉を壊しに来る。あそこにいるアルテラごと。台座の上で金平糖がふたつ、常夜灯の灯りを浴びていた。

 

 色が戻っていた。桃色と黄色に。灯也は左手を見た。アルテラの軍手の中で自分の指だけがあたたかかった。

 

 さっきまでこの中にあった手は冷たかった。冷たくても、離したくなかった。目の奥が熱くなった。涙なのかどうか、火の熱でわからなかった。

 

 灯也は息を吸った。迎えるのも火。送るのも火。さっきこの火はアルテラを送った。

 

 火は引っぱらない。道を照らすだけだ。どっちへ行くかは、行く者が決める。それなら、帰り道を照らしたっていいはずだった。

 

 ——帰るかどうかはアルテラが決めればいい。道だけは俺がつけとく。

 

「……送りっぱなしにはしない」

 

 灯也は言った。台座の手に力をこめた。手すりを握りしめた。回路の底の底に残っていた熱をぜんぶ使って、借りた火を押しまわした。

 

 足した火はこぼれる。だから、足さずに速く。借りた火でも、速く通れば道は焼ける。

 

 輪がまわった。速く。強く。常夜灯の火が伸びあがった。灯芯の上でひとつの大きな橙色の炎になった。

 

 手すりの鉄が赤く灼けて、崖のふちに橙色の線がくっきりと浮かびあがった。真っ暗な暁浜でそこだけが輪のかたちに燃えていた。海から見えるように。

 

 あの白い目のまんなかにもっとはっきり映るように。包帯が焦げた。焼ける熱が肘を越えて、肩までのぼってきた。

 

 ——アルテラがわかんなくなっても、俺が覚えてる。

 

 灯也は歯を食いしばった。これは迎え火だ。

 

 ——お盆になったら、火をたよりに帰ってくる。迎え火じゃね。

 

 誰が帰ってくる、と。はじめて会った晩にアルテラはそう聞いた。誰も、とあの晩は答えた。今はもうその答えは使えなかった。新しい答えを、灯也はまだ口にしなかった。

 

 崖っぷちの闇の中にひとつだけ橙色の灯りが燃えていた。暁浜の夜明けはまだ遠かった。

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