一
アルテラの背中に暗がりがぴったりと寄りそっていた。まわりはいつのまにか自分のかたちにくぼんでいた。膝をかかえて眠る子どものかたちに。あの石の中の型と同じだった。
眠れなかった。胸の奥がまだうるさかった。ずっと上のほうに白い点がひとつあった。
さっきまで橙色だった点だ。それが少し大きくなっていた。白いまま。灯也へつながる細い糸は冷たかった。切れてはいなかった。
点から目をそらすと、暗がりの奥に別の景色が浮かんだ。この大きな体が覚えている景色だった。
広い川のほとりに白い塔が並んでいた。日が沈むと、塔の窓にひとつずつ灯りがともった。
港には千の船が泊まっていた。帆柱の先で小さな火が揺れていた。丘の上の町では家々が油の皿に火を入れていた。名前は知らない。聞く前に焼いた。
塔の窓が暗くなった。帆柱の火が消えた。油の皿が冷えた。そのあとには何も灯らなかった。次の夜も。その次の夜も。
「……焼いた町の灯りは誰もつけなおさなかった」
まわりじゅうから声が返ってきた。
——白くなりなさい。
——名前なんか、いらないでしょう。
歌はもうやんでいた。声だけが耳もとに残っていた。子どもを寝かしつけるような声だった。
——大事なものがなければ、なくすこともないでしょう。
アルテラは答えなかった。もう一度上を見た。はるか上で大きなものがごろりと動いた。
目だった。橋よりも大きな、白いばかりの目。その上に自分のものではないまぶたがあった。その目が自分と同じほうを向いていた。試しに暗がりの左を見た。
頭の上の海が重たくうねった。白い目も左へ転がった。点を見上げた。白い目も山のほうへ戻っていった。そのまんなかにあの点が映っていた。
「私が見ているから、あれが見ている」
火から目を離せないのは自分のほうだった。だから、あの目も崖の上ばかり見ている。点がまた少し大きくなった。灯也が火を強くしている。この海の底からも見えるように。
よく見えるほど、あの目にもよく見える。橋の横では白い手が海から出ていた。開いた手のひらに夜風が当たっているのがわかった。何も握っていない手だった。
あの手がのびたら。崖の上の小さな火へ。自分が脱いできた軍手をはめて、手すりを握っている手へ。
アルテラは数えた。うるさいものをひとつずつ。露草が一本。数えたとたんに青い花びらが白くなった。
卵焼きがひと巻き。焦げ目の茶色が抜けて、黄色が抜けた。いちごの氷が一杯。器の底の赤い水が透きとおった。
ゲームが一勝。画面の中の赤い剣士が白くなった。手のひらにのせた金平糖と同じだった。見ているあいだに色がなくなっていく。
数えおわると、胸の奥が少し静かになっていた。眠れそうなくらいに。アルテラは膝をかかえる腕に力をこめた。
——目をつむれば。
あの目もつむる。白い目のまんなかから点が消える。海の底から崖の上を探すものはいなくなる。灯也の火は見つからずにすむ。
——お前の火を見ながら、あれを眠らせる。
崖の上でそう言ったのは自分だった。
「見張るのは目をつむってもできる」
胸の中でひとつ数えるより先に声が出ていた。間はなかった。アルテラは目をつむった。まぶたの裏に白い点が少しだけ残って、消えた。
くぼみが深くなった。膝をかかえた体がその底へ沈んでいく。眠っているあれのもっと奥へ。細い糸がまた冷たくなった。はるか上で大きなまぶたがゆっくりと下りはじめた。
自分のものではない手が指を折っていくのがわかった。眠る子どもが何かをつかむときのように。開いていた手のひらがこぶしになった。自分が沈むほど、あの手に力が戻っていく。
そのこぶしがもっと上へせりあがろうとした。手首のところで白い結び目がきしんだ。結び目は切れなかった。向こう側で誰かが握りしめているみたいに。
二
三時を過ぎていた。灯也は常夜灯の前に膝をついたままだった。右手は台座に。アルテラの軍手をはめた左手はうしろの手すりに。
借りた火は速くまわりつづけていた。赤く灼けた手すりが崖のふちに橙色の輪を描いている。焼ける熱は両肩までのぼっていた。灯也は肩ごしに海を見た。
橋の真ん中で白い目が山を見上げていた。そのまんなかに橙色の点がひとつ。まぶたが下りはじめた。目が細くなって、橙色の点をはさみこんでいく。
胸の奥の糸がすっと冷えた。橋の横では白い手が指を折りはじめていた。一本ずつ手のひらの内側へ。
母屋の戸が開いた。アビーが裸足で駆けてきた。目をつむったまま、銀の鍵を握った両手で油の缶を抱えて。そのあとをカウレスが追ってきた。
「おい、アビー!」
アビーは輪の内側で止まって、海のほうを向いた。
「セイバーさん、目をつむっちゃった」
眠ったんじゃない、と灯也は思った。アーケードで下ろした提灯が目に浮かんだ。たたまれて、来年の夏まで箱にしまわれていった。アルテラは自分をしまいこんだのだ。
頭の上で羽ばたきが鳴った。
「明るいとこ、見っけー!」
ヒポグリフが崖の上めがけて突っこんできた。どしゃんと。手水舎の屋根が吹き飛んだ。
「……また手水舎かよ」
瓦の山からフラットが頭を出した。
「ごめん、トウヤくん! 光ってるの、ここだけだったんだ!」
石段の下から足音がのぼってきた。凛と桜とジャンヌだった。帰ってきた、と灯也は思った。みんなこの火を目じるしにして。アルテラのほかは。
「アーチャーは橋に残ったわ。ランサーとにらみあってる。……あそこじゃ撃てないけど」
凛が肩で息をしながら言った。カレンは今ごろ連絡船の桟橋で教会を待たせているだろう。日の出までは。
白いこぶしがぐっと持ちあがりかけて、止まった。崖の下で赤い光がともった。坂の途中の市民病院の窓だった。赤はすぐに糸のように坂の下へ垂れはじめた。
それから、窓のまわりに小さな橙色の輪が閉じた。垂れかけた赤が輪の上で向きを変えて、窓へ戻っていく。
窓は白に近い黄金色になって、揺れずに光りつづけた。最初の晩、祖母の火の壁がこの色になった。
「……ばあちゃんの火だ」
赤が何だったのかはわからなかった。あの窓は灯也の輪のずっと外だ。それなのに、火はこぼれていなかった。
「閉じた輪なら誰の火でももつのよ」
凛が言った。アビーが目をつむったまま首をかしげた。
「海の底のあの子ね、さみしいの」
「さみしい?」
「さみしいって、会いたい人がいるってことよ」
アビーは缶ごと鍵を胸に押しあてた。
「ずっとセイバーさんに会いたかったの。やっと帰ってきたから、ぎゅってしてる」
「……アルテラは中から閉めるって言ったんだ」
「内側から閉められる鍵なんてないのよ。閉めるのは、こっちに残る子なの」
アビーは小さく付けくわえた。
「わたしもそうしたもの」
フラットが石畳にねそべって片耳を石につけていた。
「……セイバーちゃん、型にはまってる。丸くなって眠ってる子のかたちにぴったり。……出たくなっても、今は動けないよ」
凛の目が灯也の右手に落ちた。手の甲に令呪が三画残っていた。凛は何も言わなかった。聞かれていないのに、灯也は答えた。
「呼んだら、体だけ戻ってくる。……アルテラが自分で残るって決めなきゃ、鍵は閉まらない」
凛は唇をかんでうなずいた。
——文明を確認した。
胸の奥で聞いた平らな声を、灯也は思いだした。白い光を浴びたときのアルテラの声だった。海の底からはひとつきりの火も白く見えている。
——祭りの晩は町じゅうの灯りをいっぺんにつけて、うんと騒ぐんよ。
——火は引っぱれない。……だから、こっちをいちばん明るくしとく。
祖母の声と自分の声だった。町じゅうが灯れば、ぜんぶは白くならない。それに、あの目は崖の上の火ばかり見ていた。アルテラが目をつむったのは、たぶんそのせいだ。
灯りが千もあれば、どれがこの火かわからなくなる。そうなれば、アルテラはもう目をつむっていなくていい。
「祭りをやる。町じゅうで」
「町ぜんぶは無理って言ったでしょ。あんたの輪は——」
「手が届くとこまで、だろ。……手はつなげる」
凛はぽかんと灯也を見た。
「……屁理屈ね」
「自分が本気で信じられる屁理屈なら、術式になるんだろ」
凛の口の端が少しだけ上がった。指を一本立てる。
「授業その十三」
十三番目。今度こそ灯也の番だった。
「輪は大きくしないの。……つなぐのよ」
凛は宙に小さな輪をいくつも描いて、ふちを重ねていった。
「大きな輪はまわすほうが焼けて終わり。小さな輪をたくさん作って、手でつなぐの。火は常夜灯から借りる」
「盆踊りだ!」
フラットが跳ねおきた。
「おんなじ速さで歩く輪は、一回まわりだしたら勝手にまわるんだよ!」
「そういうこと。足並みがそろうまでは、あんたの回路で押すの」
凛は常夜灯を見た。
「それから、ここの輪。もうあんたじゃなくてもいいのよ」
灯也はカウレスを見た。カウレスは眼鏡を押しあげた。
「……俺かよ。巡れなんて知らねえぞ」
「トウヤくんのを写させて!」
「人の術式を勝手に——」
凛は言いかけて、そっぽを向いた。
「……今回だけよ」
フラットが灯也の焼けた腕を指でなぞって、同じ線をカウレスの腕に引いた。フラットの鼻から血がひとすじ垂れた。
カウレスはアビーの缶から火袋の皿に油を足した。灯也の右手の横に手のひらを置いて、もう片方の手で手すりを握る。
灯也は台座と手すりから手を離した。火が一度だけ揺れた。それから、まっすぐに起きあがった。
「あっつ……! 穂村、お前これ何時間やってんだよ」
「十一時から」
「……ばかじゃねえの」
カウレスは手を離さなかった。手のひらの皮がもう赤くふくれはじめていた。
アビーがその隣にちょこんと座った。フラットが鼻血をぬぐった。
「アビーちゃんはここにいてね。海に近づいたら、扉と炉がつながっちゃう」
「知ってるわ」
町はまだ眠ったままだ。灯也は瓦の山に声をかけた。
「アストルフォ。いちばんうるさいの、ある?」
「あるよー!」
アストルフォが腰の角笛を高くかかげた。
「ライダー、盆踊りの曲で吹いて!」
フラットが常夜灯の横から叫んだ。
「まかせて! ボクもあの輪っかで踊ったもん!」
アストルフォは本殿の屋根へひと跳びにのぼっていった。桜とジャンヌが社務所から段ボール箱を運んできた。中身は石段の提灯が三十個。灯也が九十段目で抱えなおしたあの箱だった。
桜が手燭を差しだした。灯也は常夜灯の火をろうそくに移した。小さな火は輪の内側ではまっすぐに立っていた。石段へ一歩出れば、海のほうへ傾く。
灯也は箱を肩にかついだ。左手にはアルテラの軍手をはめたままだった。もう片方の軍手と金平糖は台座に置いていく。坂の途中で病院の窓が静かに光っていた。
「ばあちゃん。今年の火入れは三回目だよ」
本殿の屋根の向こうに月が低くかかっていた。白い目はもうほとんど閉じていた。細いすきまに橙色の点がかすかに残っていた。灯也は石段を降りはじめた。うしろに凛たちの足音が続いた。
三
いちばん上の提灯に手燭の火を移したとき、本殿の屋根の上でアストルフォが角笛をかまえた。
「——『恐慌呼び起こせし魔笛(ラ・ブラック・ルナ)』」
角笛が鳴った。石段のわきの木がいっせいにざわめいた。耳の奥がびりびりとふるえた。その音が途中から節になった。
盆踊りの節だった。調子っぱずれで、ばかみたいに大きかった。アストルフォは海に背を向けて吹いていた。それでも、音は崖を越えて町じゅうに降っていった。
「音はこぼれないよ! 歌がやんだから、みんなふつうに寝てるだけ。うるさくすれば起きる!」
すぐうしろでフラットが叫んだ。
灯也は箱をかついで駆けおりた。石段の左のはしに提灯を置いて、火を移す。何段かおりて、またひとつ。
火の列はすぐに海のほうへ傾いた。炎の先が細くのびて、石段の下へ流れようとする。足すな、と自分に言った。足した火はこぼれる。だから、足さずに走る。
百八段の下に着いたとき、箱には最後のひとつしか残っていなかった。灯也はそれに火を移して右手に提げた。見上げると、常夜灯から石段の左側にだけ灯りの列が続いていた。
町のあちこちで窓の開く音がした。
「なんじゃ、祭りか?」
「祭りはこないだ済んだじゃろうが!」
灯りは山の上にしかなかった。商店街の入り口で男子がひとり自転車にまたがったまま眠っていた。ハンドルに額をのせて。佐々木だった。
「……自転車なのはお前だろ」
肩をゆすると、佐々木はびくっと顔を上げた。それから、灯也の腕を見た。包帯は焼けおちていた。肩までただれた皮膚を提灯の火が照らしていた。
「……お前、ほんとに自転車なの?」
「……ちがう」
佐々木は口を開けて、閉じた。それから、黙って自転車を降りた。
パジャマの女の子が駆けてきた。金魚の絵の子ども提灯を胸に抱えていた。
「とうやにいちゃん、火ちょうだい」
灯也はしゃがんで提灯を傾けた。ろうそくの火が子ども提灯にぽっと移った。
祭りの晩、アーケードの提灯は最初のひとつしか本物の火で灯さなかった。今夜はぜんぶ本物だ。商店街のスピーカーががりがりと鳴った。
『よっしゃあ、点灯ーっ!』
町内会長の声だった。続いて暁浜音頭が流れだした。電気は止まっていない。持っていかれたのは光だけだ。アーケードの奥から汐屋のおばあちゃんが段ボール箱を引きずってきた。
「来年の夏までしまっとくはずじゃったのにねえ」
箱の中はアーケードから下ろした提灯と仏壇のろうそくだった。火が手から手へ渡っていった。
広場の石畳には盆踊りの足ですりへった輪の跡があった。その真ん中を白い線が海のほうへ横切っていた。
「その跡を歩いて! みんな同じ速さで!」
灯也が叫ぶと、提灯を持った人たちが輪の跡を歩きはじめた。白い線をぐるりとかこんで。線のところではみんな大またでまたいだ。
灯也は輪の切れめに立った。右手には石段の最後の提灯。軍手の左手で佐々木の手をつかんだ。
「え、手?」
「——巡れ」
常夜灯の火が石段の列をくだってきた。毎年、火入れの火が降りていく石段だった。最後の提灯から右手へ。肩をまわって、左手から佐々木の手へ。
「あちっ……!」
それでも、佐々木は手をゆるめなかった。フラットが輪の内側を走りながら、つないだ手の上を指でなぞっていった。細い光の線が残った。
「線は僕が書くから、手だけつないでて!」
凛がアーケードを指さした。
「アーケードはアーケードでまわしなさい! 広場とは端でつなぐだけ!」
その指が海のほうへ動いた。
「海岸通りは二列よ。行きと帰りで輪になる。……でしょ、穂村くん」
桜がジャンヌの手を引いて海岸通りへ走りだした。
「いちばん海に近いところは、わたしたちが持ちます」
「……ったく。手、離すんじゃないわよ」
ジャンヌがそう言って、桜の手を握りかえした。角笛の音が頭の上をかすめた。ヒポグリフが広場すれすれに降りてきて、アストルフォがフラットの襟首をつかみあげた。
「上から書くねー!」
輪がひとつつながるたびに、熱が灯也の体を通った。アーケードの輪。海岸通りの行きの列。帰りの列。
焼ける熱が肩から背中へ広がった。皮膚が裂けていくのがわかった。口の中に鉄の味がした。佐々木の手を握る指先だけが冷たくなっていった。
海岸通りの二列が橋のたもとに届いたのは、四時を少しまわったころだった。新しく入った人が前の人の足を踏んだ。足並みが崩れた。提灯の火がいっせいに海のほうへ傾いた。
——こんな火じゃ——
灯也の腕に誰かの手がふれた。汐屋のおばあちゃんだった。
「あの晩、わしはあの船に乗っとったんよ」
十年前の、嵐の晩の連絡船だった。
「若い夫婦がの、わしと子どもらを最後のボートに降ろしてくれて……自分らは残ったんよ」
灯也の手の中で提灯の柄がきしんだ。
「真っ暗な海じゃった。波が高うて、町の灯りは波のかげに隠れてしもうて。……そしたら、山の上にひとつだけ灯りが見えての。ひと晩じゅうあれを目じるしに漕いだんよ。朝には港に着いとった」
助かった人がいたことは灯也も知っていた。何を目じるしに漕いだのかは知らなかった。誰がボートに乗せたのかも。
「千鶴さんに頼まれたんよ。言うたら、あの子も同じことをする子じゃけえ、言わんといてって」
おばあちゃんの目が灯也の肩にとまった。
「……もうしよるけえね」
六歳の冬の晩、灯也はこの石段に座りこんで、ひと晩じゅう真っ暗な海を見ていた。常夜灯の火がちゃんと沖まで届きますように。それだけを祈りながら。
両親は帰ってこなかった。だから、届かなかったのだと思っていた。届いていた。ボートを漕ぐ人たちのところへ。
誰も帰ってこない。十年間そう思って火を入れてきた。帰ってきた人はあの嵐の晩からちゃんといた。
「……届いてたんだ」
汐屋のおばあちゃんが提灯を握る灯也の手に自分の手を重ねた。薄くて乾いた手のひらだった。
「今度は、わしらが持っちゃる」
会長がスピーカーでがなった。
『わしらはまだここにおるぞー!』
広場のあちこちから声が返った。おるぞー。おるよー。どこかで誰かが太鼓をたたきはじめた。
輪の足並みがそろった。音頭にあわせて同じ速さで足が出る。提灯の火が起きあがった。輪がひとりでにまわりはじめた。
灯也の体を通っていた熱がすうっと引いていった。消えたのではなかった。何十人もの手のひらに少しずつ分かれていた。
「なんか、ぬくいのう」
輪の中で誰かが言った。凛が灯也の肩を見ていた。焼けあとはもう広がっていなかった。凛は指を鳴らしかけて、何も言わずに手を下ろした。
長老たちが輪の火をもらって、石段の右側をのぼりはじめた。提灯を置きながら、膝の悪い足で一段ずつ。そのまわりを子どもたちが駆けあがっていく。常夜灯へ帰る列だった。
汐屋のおばあちゃんが灯也の手から最後の提灯を受けとった。もう片方の手で佐々木の手を握る。
「ほれ、行きんさい」
灯也は石段を駆けあがった。凛がすぐうしろをついてきた。途中で長老のひとりに手を貸しかけた。
「灯也くん、ええよええよ。わしらが運ぶけえ」
提灯の箱を運んだあの夕方、灯也は笑って断った。今夜は手を引っこめた。
のぼりきると、カウレスが常夜灯の前に膝をついていた。台座についた手のひらが水ぶくれだらけだった。隣でアビーが目をつむってしゃがんでいた。
「……代わる」
「おう。……な、予備でも役に立つだろ」
灯也はカウレスの手の横に右の手のひらをつけた。軍手の左手で手すりを握る。カウレスが手を離した。右側の列の最後の提灯が手すりの根もとに置かれた。
輪がつながった。町へ降りて、橋のたもとで折りかえして、崖の上へ戻ってくる輪だった。
石段の両側で提灯の火がいっせいにまっすぐ立った。焼けあとは鎖骨のあたりまで来ていた。それでも、体はさっきよりずっと軽かった。
四
空から見ると、暁浜は網だった。真っ暗な町のあちこちで小さな橙色の輪がまわっていた。広場の輪。アーケードの輪。どの輪もふちで隣の輪と結ばれていた。
結び目をたどっていくと、ぜんぶ同じところへ戻った。崖の上のひとつの点へ。
輪の継ぎ目の上に来るたびに、フラットはヒポグリフの背から身を乗りだした。つないだ手と手を指でなぞって、輪から輪へ線を書きこむ。
鼻の下の血を手の甲でぬぐって、また書いた。アストルフォはときどき角笛を吹いた。盆踊りの節はしょっちゅうはずれた。
橋のたもとで桜が提灯を高くかかげていた。隣でジャンヌが桜の手を握っていた。海のほうをにらんだまま。
フラットは手をのばして提灯を受けとった。前にこの橋で灯也が描いた火の輪を、空の上から見たことがある。いい形だと思った。
二本の手すりの根もとに指で線を書いた。行きの列から行きの手すりへ。帰りの手すりから帰りの列へ。帰る先が書いてあれば、火は自分で帰ってくる。
「トウヤくんの輪、借りるね」
アストルフォが行きの手すりにそって低く飛んだ。フラットは提灯の火を指先にすくって、手すりをなぞった。なぞったあとに橙色の線が残った。
本土側の主塔をくぐると、路面が塩になっていた。手すりはまだ鉄のままだった。その白の中にカルナが立っていた。
膝から下はまだ戻りきっていなかった。すねが透けて、向こうの塩が見えた。それでも、槍は橋の幅いっぱいに横たえていた。
「……空からでもだ」
ヒポグリフが鋭く鳴いて、宙で止まった。
「えー、またあ? さっき転ばせたのに!」
アルジュナはカルナと向きあっていた。弓は下げたままだった。その先の塩の上には愛歌の姿があった。
橋のすぐ横の海からは白いこぶしが突きでていた。その手首に雪のように白い糸が一本ぴんと張っていた。フラットにはカルナの体に巻きついたものが見えた。
赤い鎖だった。腕にも脚にも、槍を握る指にも。鎖には細かい字がびっしり書いてあった。胸のまんなかにだけ鎖は届いていなかった。令呪は魔術だ。前に自分でそう言った。
宙で指を動かしてみた。字はかたく締まっていて、指をかけるところがなかった。手の中で提灯の火が少しずつ細くなっていった。
本土の山の向こうに月が沈んだ。最後のふちが消えた。アストルフォが急に黙った。さっきまでわめいていたのに。
「マスター」
落ちついた声だった。ボクの理性もあそこ、と月を見上げてアストルフォは言っていた。
「月が沈んだね。……今だけ、ボクはちゃんとボクだよ、マスター」
アストルフォは腰の袋から古い革の本を取りだした。フラットも見たことのない本だった。どのページにも何かのほどき方が書いてあった。
「どこを狙えばいい?」
「鎖だけ。手すりの火も、海の白い糸もだめ。糸がほどけたら、あの手が上がってくる。……壊すんじゃなくて、ほどくの。ほどくだけなら炉は太らないよ」
フラットはカルナの右手を指さした。
「結び目は槍を握ってる指のとこ。ひとつだけ。……鎧は平気。神さまの光だから」
アストルフォはうなずいて、本を高くかかげた。
「——『破却宣言(キャッサー・デ・ロジェスティラ)』」
ページがいっせいにめくれあがった。ページから字が一本の糸になって抜けだした。光らない糸だった。糸はまっすぐにカルナの右手の指へ走った。
赤い鎖がゆるんだ。鎖の字がばらばらにほどけて、本のページへ吸いこまれていった。海へはひと粒も落ちなかった。
愛歌が右手を上げた。手の甲に最後の一画が残っていた。カルナが振りかえった。令呪は光らなかった。
フラットには見えた。赤い模様の上で魔力はひとすじも動いていなかった。愛歌が自分で止めていた。愛歌はその手をじっと見ていた。それから、下ろした。
「……好きにして」
愛歌はカルナから目をそらさずに言った。カルナはしばらく愛歌を見ていた。それから、槍を持ちあげた。
透けていたすねにもいつのまにか色が戻っていた。アストルフォの槍の効き目が切れたらしかった。カルナは自分の足で塩を踏んだ。
ヒポグリフがカルナの横を抜けた。フラットはまた手すりをなぞっていった。橋の真ん中が近づくと、手すりまで塩になっていた。
火をのせたとたん、橙色が白くなった。手すりといっしょにさらさらと崩れた。路面の割れ目の下で大きなまぶたが閉じていた。
「だめだ……塩じゃ火がのらない!」
アルテラが降りていったのはこの真下だ。帰り道はここで折りかえさないといけない。それなのに、火をのせるものがなかった。カルナが自分の槍を足もとに置いた。
「誰にも乞われていない。……だが、施そう」
カルナは胸の鎧に指をかけて、引きはがした。金色が肌から離れるたびに血がにじんだ。肩から。腕から。胸から。ひびの入った赤い石も鎧といっしょにはがれた。
カルナは顔色を変えなかった。はがした黄金を一枚ずつ塩の上に敷いていった。切れた行きの手すりから車道を渡って、切れた帰りの手すりまで。閉じた目の真上に。
黄金は塩に置かれると薄く広がって、隣の一枚とふちを重ねた。白いものが黄金のまわりで渦を巻いた。ふれては離れた。何も持っていけなかった。
フラットは黄金の上に火をのせた。火は消えなかった。橙色のまま金の上を渡りきって、帰りの手すりを本土のほうへ走りだした。カルナのからっぽの右手に光が集まった。
朝日を細く削ったような槍になった。カルナはそれを握ったまま、構えなかった。両側の手すりを火が流れていた。その内側にカルナが立っていた。
「少年の輪はまたオレを内側に入れるらしい」
アルジュナが黄金の上に足をのせた。
「手を貸します」
「要らん」
「……貸すだけです」
アルジュナはカルナの隣に並んだ。その口もとがかすかにゆるんでいた。海から風が吹きつけた。折りかえしの火が横に倒れかけた。
ふたりは同時に片膝をついて、空いている手で火をかこった。同じ手つきだった。指の開き方まで同じだった。火がまっすぐに起きあがった。
火が帰りの手すりを走りきって、橋のたもとの線に届いた。フラットの指先がびりっとしびれた。
輪がつながった。町じゅうがいっせいに息をとめたみたいだった。アストルフォが本を閉じた。
「ボクはこのままだよ。次に月がのぼるまではね」
それから、角笛を吹きはじめた。盆踊りの節はさっきと同じところでちゃんとはずれた。黄金の下で白い目は閉じたままだった。
五
遠いところで輪がつながった。橋まで行った火が海岸通りを戻ってきた。町を抜けて、石段の右の列をのぼって、手すりの鉄から軍手の左手へ。
その火に手ざわりがまじっていた。薄くて乾いた手のひら。汐屋のおばあちゃんの手だった。小さくてやわらかい手。火ちょうだいと言ったあの子だ。
汗でぬるぬるする手。佐々木だ。それから、いちばん遠い折りかえし。日なたの石みたいに熱い手のひらが火をかばっていた。
人の手の熱さではなかった。カルナだ、と灯也は思った。すぐ隣にも同じかたちの手がもうひとつあった。
灯也は肩ごしに湾を見た。暁浜が光っていた。提灯の赤。子ども提灯の青や緑。ろうそくの橙。
島にも埋立地にも灯りはひとつもなかった。月ももう沈んでいた。橋の横では白いこぶしが海から突きでたままだった。湾でいちばん明るいのはこの町だった。
それなのに、白い目は開かなかった。胸の奥の糸が冷えた。今夜いちばんの冷たさだった。
「……もっと遠くなっちゃった」
アビーが目をつむったまま言った。カウレスがその肩に手を置いた。水ぶくれだらけの手だった。灯也の腕がまたちりちりと痛みだした。
輪が橋の真ん中までのびて、この崖の上を通る火がまたふえた。焼けたところがもう一度焼けた。
——こんな火じゃ。
いつもの声が胸の底から浮いてきた。灯也はその声を押しもどした。十年前の嵐の晩、この火は沖のボートまで届いた。汐屋のおばあちゃんが乗っていたボートまで。
こんな火じゃない。この火だ。けれど、つむった目に灯りは届かない。音なら届く。町だってうるさい角笛で目をさました。灯也は声に出して言った。胸の奥の糸の先へ。
「アルテラ。……見ろよ。白くない。茶色だろ」
かすれた声だった。灯也は崖の下の灯りを見なおした。
「……ちがう、橙だ」
湾の真ん中で白いまぶたがぴくりと動いた。細く開いた。
すきまに小さな色の点がいくつも浮かんでいた。赤。青。緑。橙。崖の上のひとつきりではなかった。町じゅうの灯りがあの目のまんなかに映っていた。糸の先で何かが動いた。
——……見えている。
小さな声だった。平らな声ではなかった。灯也は息をのんだ。軍手の中で左手の指がふるえた。
——……体が動かない。
「セイバーさんを離したくないのよ、あの子。……さみしいんだもの」
アビーが小さく言った。灯也は台座の上の右手を見た。手の甲に三画の令呪があった。流れ星を三つ束ねたような痣だった。
帰ってこいと命じたら引っぱるのと同じだ。火は引っぱらない。道を照らすだけだ。
おとといの夜明け、アルテラは令呪で命じろと言った。命令なら私がいなくても残る、と。灯也は断った。令呪で動くのは体だけだからだ。今はそれでいい。
アルテラを動けなくしているのは型だ。型から体をほどくだけなら令呪でできる。選べと命じれば、体は選べるところまで動く。道はもう町じゅうでつけてある。どっちへ行くかは言わない。
来たいと思ったら、来てほしい。前に凛にそう言った。今も同じだった。凛が灯也の手の甲を見ていた。今度は目をそらさなかった。
「令呪をもって命じる。アルテラ——」
台座についた右手の甲が赤く光った。
「——自分で選べ」
三本の線のひとつが燃えあがった。燃えた線は手の甲を離れて、赤い光の粒になった。粒は糸をたどるように崖の上から暗い湾へ飛んだ。尾を引いて、斜めに夜を横切っていく。
白い目のまんなかへ落ちた。凛が小さく息を吐いた。石段の下の広場から声がのぼってきた。
「おお、流れ星じゃ」
糸の先でまた声がした。
——……命令か。
ゆびきりをした夜明け前にも同じことを聞かれた。あのときはちがうと答えた。
「命令だ。一回だけな」
——……厳しい命令だ。
灯也は小さく笑った。糸がふっとあたたかくなった。一度だけ。それから、静かになった。冷たくはなかった。黙っているだけだった。手の甲の令呪は二画になっていた。
湾の真ん中で白い目は大きく開いていた。町じゅうの色をまんなかに浮かべたまま、もう閉じなかった。輪はまわりつづけていた。
六
音が先に届いた。ずっと上のほうで角笛が鳴っていた。盆踊りの節を吹いているのに、半分もあっていない。
太鼓。暁浜音頭。おるぞー、おるよー、と叫ぶ人の声。音は白くならなかった。水の天井を抜けて、暗がりの底まで降ってきた。
学校の教室と同じだった。うるさくて、よいものだった。それから、声が届いた。細い糸をつたって、胸の奥にじかに。
——アルテラ。……見ろよ。
灯也の声だった。かすれていた。
——白くない。茶色だろ。
汐屋の氷を思いだした。器の底で三つの色が混ざった、濁った水を。
——……ちがう、橙だ。
アルテラは目を開けた。
はるか上で自分のものではないまぶたもいっしょに持ちあがった。細く。そのすきまから光が入ってきた。点はひとつではなかった。
アルテラは数えようとした。数えるのは得意だった。数えきれなかった。点にはそれぞれ色があった。どの点も小さく揺れて、隣の点と混ざらずにいた。
茶色にはなっていなかった。白にもなっていなかった。アルテラは場所ごとに数えなおした。広場。すりへった輪の跡を灯りがまわっていた。アーケード。汐屋の前だ。
海岸通り。橋へのびる二本の列。坂の途中の病院。灯也の祖母がいる。窓がひとつだけ白に近い黄金色で光っていた。揺れない光だった。
それから、百八段の両側をのぼっていく二本の列。そのいちばん上に橙色の点があった。もう数えきれない点のひとつだった。あの目にはどれが灯也の火か見分けられない。
焼いた町の灯りは誰もつけなおさなかった。この町は自分で火をつけなおしていた。アルテラは手をのばそうとした。動かなかった。
体は膝をかかえた形のまま型にはまっていた。暗がりもうしろから腕をまわしていた。眠る子どもが人形を抱くように。
「……見えている。……体が動かない」
糸の向こうからアビーの小さな声もまじってきた。
——……さみしいんだもの。
前にもあの子は言った。海の底で誰かがさみしいと泣いている、と。あれは泣いていたのではなかった。今ならわかる。離したくなかったのだ。会いたかったものがやっと帰ってきたから。
——帰ってきた。
——帰ってきた。
自分の中にも同じものがあった。目をつむっていても、冷たい糸の先ばかり探していた。あの火のそばの顔が見たかった。
怖い。楽しい。くやしい。かなしい。なつかしい。ひとつずつ名前を覚えてきた。
「……さみしい、だ」
自分の分とあれの分。同じ名前だった。
——令呪をもって命じる。
糸の向こうで灯也の声が変わった。
——アルテラ——自分で選べ。
水の天井の向こうから赤い光がひとつ落ちてきた。流れ星のようだった。暗がりをまっすぐに裂いて、胸のまんなかまで。まわりの型がほどけた。
膝をかかえていた腕が開いた。指が動いた。うしろの腕はまだ離れなかった。それでも、体は動いた。どっちへ行けとも言われなかった。来いとも。帰ってこいとも。
「……命令か」
——命令だ。一回だけな。
「……厳しい命令だ」
糸の向こうで灯也が小さく笑う息がした。
まわりじゅうから声がした。
——白くなりなさい。
——名前なんか、いらないでしょう。
ずっと昔から知っている声だった。アルテラは型の外へ足を下ろした。胸の中でひとつ数えた。
「名前はいる。呼ぶ者がいる。……私はアルテラだ」
それから、暗がりのいちばん奥へ向きなおった。
——今は行ってあげられないの。
桟橋でアビーが海の底へ言った言葉だった。
「すまない。今はいっしょに眠れない」
うしろの腕がぎゅっと締まった。
「……明日の朝は露草を替える。お彼岸には卵焼きを習う」
アルテラはその腕に自分の手を重ねた。病院で灯也の祖母がしていたように。
「毎晩、崖の上に火がつく。それを見て眠れ」
答えはなかった。腕もゆるまなかった。アルテラは立ちあがった。背中から腕がすべり落ちた。白い階段が上へのびていた。降りてきた階段だった。一。二。三。
見上げると、水の天井の向こうで町の灯りが揺れていた。十。二十。三十。段をのぼるたびに靴に色が戻ってきた。四十。五十。
胸の「祝・暁浜大橋開通」の文字も少しずつ濃くなった。五十をすぎたあたりで頭が水の上に出た。音がいっぺんに大きくなった。八十。九十。百。百八。
最後の段は欄干の外にあった。塩になった欄干に手をかけると、さらさらと崩れた。アルテラはそこをまたいだ。足の下が金色だった。
金の板が塩の路面に並べてあった。片方の手すりから来た橙色の火がその上で折りかえして、もう片方の手すりを戻っていく。火はアルテラの足を焼かなかった。
火のそばにカルナが立っていた。あの黄金の鎧がなかった。はだかの胸に血がにじんでいた。右手に光の槍を握っていた。構えてはいなかった。
足もとの金が何だったのか、アルテラはそれでわかった。カルナの隣にはアルジュナがいた。
「お前は敵か」
カルナは少しだけ考えるような間をおいた。
「……もうちがうな」
塩の上に青いワンピースの少女が立っていた。愛歌はアルテラを頭から足の先まで眺めた。
「なあんだ。変な形になっちゃったのね、わたしの鍵」
「卵焼きの形だ」
愛歌はぱちりとまばたきをした。
「おかえりなさいって言ったのに」
「その言葉は言う者が決まっている」
「……まあ」
愛歌は黄金のふちへ来て、流れる火の上に右手をかざした。前にこの橋で見たとき、火は愛歌の白い靴をよけて揺れていた。今はよけなかった。小さな手のひらの下でまっすぐに燃えていた。
「……あったかい」
誰に聞かせるのでもない声だった。
海が鳴った。橋の横で白いこぶしがぐらりと揺れた。鍵が外へ出たのを知ったらしかった。こぶしが主塔より高いところから傾いて、橋の上へ落ちてきた。自分の欠片を追って。
カルナが光の槍を横にして突きあげた。アルジュナも弓を両手で頭の上にかかげた。どんと。こぶしが槍の柄と弓の上に落ちた。
戻ったばかりのカルナの脚が折れかけた。片膝がつくと、塩の路面がひび割れた。はだかの胸から血が流れた。
槍は何も貫かなかった。弓には矢がなかった。槍も弓も白くはならなかった。
「渡らせはしない」
カルナが言った。
「……落としもしません」
アルジュナが言った。同じ高さに腕を上げて、同じように奥歯をかんで。こぶしはまだ押してきた。足の下で黄金がきしんだ。
それから、ふいに押す力が止まった。こぶしの手首で白い糸がぴんと張っていた。陸のほうで誰かがまだ握っていた。
「行け、セイバー」
カルナが前を向いたまま言った。ここでは閉めない、とアルテラは思った。桟橋の晩、アビーはカウレスのそばで鍵を回した。鍵は残る者が残る場所で回すものだ。
——私が残るのはこの橋の上ではない。
アルテラは走った。塩の路面を抜けた。火の流れる手すりにそって、主塔をくぐって、本土のほうへ。
橋のたもとで提灯の列が待っていた。行きの列と帰りの列。そのあいだを走った。列の中で桜とジャンヌが手をつないでいた。
海岸通りに出ても列は続いていた。提灯をさげた人たちが振りかえった。どの手にも火があった。
背中で海がもう一度鳴った。アルテラは振りかえらなかった。今度は火が前にあった。
七
病室の窓ガラスが白に近い黄金色に光っていた。イリヤは丸椅子に座って、左のこぶしを握りしめていた。指はもう三時間開いていなかった。
こぶしの中から細い糸がのびていた。窓を抜けて坂を下り、海に立つ白い手の手首まで。
イリヤのこぶしを老婆の両手が包んでいた。包帯を巻いた手と巻いていない手で。三つの手のあいだを小さな橙色の火がまわっていた。
一度目はまだ西の空に月があったころだった。糸の向こうで白い手が指を折った。こぶしになって、海の上へせりあがろうとした。結び目がきしんだ。イリヤの指が開きかけた。
命じる相手はもういなかった。イリヤは令呪の一画を命令にせず、ただの魔力として燃やした。
赤い光が結び目に流れこんだ。あふれた赤は窓へ這って、坂の下へ垂れていった。老婆がベッドの上で身を起こした。両手でイリヤのこぶしをはさんだ。
「わしの火だけじゃ足らん。……ふたりならまわる」
老婆は目を閉じて唱えた。
「灯れ。……巡れ」
老婆の右手に小さな火がともった。火はイリヤのこぶしを渡って老婆の左手へ抜け、肩をまわって右手へ帰ってきた。
坂へ垂れかけた赤が向きを変えて、窓へ引きかえした。橙色の火といっしょに輪をまわりはじめた。
二度目が来た。糸がぐいと引かれた。上へではなかった。橋のほうへ。何かを追いかけるように。
——おいで。
海の底の声が糸をつたってのぼってきた。丸椅子の脚が床をこすった。体が窓のほうへ引きずられた。
細い腕から首すじにかけて赤い紋様が浮かびあがった。鼻の奥から血が垂れた。最後の一画だった。それも燃やした。
今度の赤は一滴もこぼれなかった。輪をひとまわりして、結び目へ流れこんだ。窓がひときわ明るくなった。
「……あげない。これはわたしの手よ」
作られた手だった。二百年前に海の底へふたをした女の人と、同じかたちの。それでも、その人の手ではない。おじいさまのものでもない。
フランのかわりに露草を摘んできた手だ。老婆の手のひらにドロップをのせた手だ。しわだらけの両手がそのこぶしの上で固く閉じた。
「離しなさんな。わしも握っとる」
老婆の指はふるえていた。ふるえながら、ゆるまなかった。糸を引く力がぴたりと止まった。結び目はほどけなかった。
腕の紋様が暗くなった。もう一画も残っていなかった。イリヤのこぶしは閉じたままだった。
橋のたもとで桜は右手に新しい提灯をかかげていた。左手はジャンヌの手を握っていた。橋の真ん中に白いこぶしが振りおろされた。
金色に光る路面の上でふたつの人影がそれを受けとめた。どんという音が遅れて届いた。ジャンヌの肩がびくりと跳ねた。
「……また呼んでる」
ジャンヌの右足が海のほうへ一歩出た。つないだ手が強く引かれて、桜の体が列の外へ傾いた。この手が離れたら、ここで輪が切れる。
列の提灯の火がいっせいに海のほうへ倒れかけた。ジャンヌは歯をくいしばって桜を見た。
「縛りなさいよ。……あんたの声で」
桜は息をのんだ。あの地下室の夜、口は勝手に動いた。しわがれた声をなぞって、この屋敷から出ないでくださいと言った。右手の甲にはまだ二画残っていた。
今度の言葉は自分でさがした。提灯を握る指先で黒い火花がちりっと鳴った。わたしの声だ、と桜は思った。
「令呪をもって命じます。アヴェンジャーさん」
提灯を握る右手の甲が赤く光った。
「……わたしの手を離さないでください」
一画が燃えて消えた。踏みだした右足がゆっくりと陸のほうへ戻った。
「……命令されなくたって、離さないわよ」
令呪は体を縛る。腹の中までは縛れない。今夜は体も腹の中も同じほうを向いていた。列の火が起きあがった。
二本の列のあいだをアルテラが駆けぬけていった。桜の目の前を山のほうへ。桜は声をかけなかった。ジャンヌの手を握りなおした。強く握りかえされた。
連絡船の桟橋でカレンは二時間あまり話しつづけていた。相手は教会から来た黒い服の男が三人だった。
「ここは監督役の管轄です。戦争はまだ終わっておりません。日の出までお待ちください」
同じことを同じ顔で何度でも言った。海のほうへ歩きだす者にはこうも言った。
「壊せば肥えます。そういう炉です」
五時を少しまわったころ、白いこぶしが橋へ落ちた。いちばん年かさの男が海へ向きなおって、早口で唱えだした。足もとのコンクリートに青白い円が広がりはじめた。
「日の出より早くはできない、と申しあげたはずですが」
カレンは袖口から赤い布を引きだした。布はひとりでに宙を走った。男の肩から足首までをぐるぐると巻きあげた。
男は口を開けたまま桟橋にごろりと転がった。唱える声が切れて、青白い円がふっと消えた。
「マグダラの聖骸布です。殿方にはよく効きますので」
残りのふたりが一歩さがった。カレンは自分の腕を見下ろした。袖口の包帯は白いままだった。血のしみはひとつもなかった。カレンは東を見た。空のふちがほんの少し薄くなっていた。
八
灯也は肩ごしに町を見下ろしていた。海岸通りの二本の列のあいだを白いものがひとつ走っていた。白い髪だった。
海から上がってきたあの白とはちがった。提灯の火を受けて、ちゃんと橙色に光っていた。白い頭がアーケードの屋根の下に消えた。
胸の奥の糸はまだ黙っていた。それでも、少しずつあたたかくなっていった。灯也は台座の手に力をこめて待った。
広場の端にその頭があらわれた。輪になって歩いていた人たちがいっせいに振りかえった。声が石段をのぼってきた。
「アルテラちゃん!」
汐屋のおばあちゃんの声だった。輪の中から小さな提灯がひとつ突きだされた。
「おねえちゃん、火!」
火ちょうだいと言ったあの子だった。祭りの晩はアルテラが火を分けてやった。今夜はあの子のほうが差しだしていた。アルテラが足を止めて、提灯を受けとった。
軍手の左手に輪の手ざわりが届いた。小さな手が提灯の柄を離して、隣のしわだらけの手を握りなおした。輪は切れなかった。
アルテラが石段をのぼりはじめた。左右の提灯の列にはさまれて、段の真ん中を。子ども提灯の火は海のほうへ傾かなかった。輪の内側だった。カウレスがちらりと灯也を見た。
「……迎えに行かねえのかよ。代わってやるぞ」
「行かない」
灯也は台座から手を離さなかった。
——戻ってくるなら、自分で戻ってこなきゃだめなんだ。
アルテラの目が白くなった晩に自分で言ったことだった。子ども提灯の火がゆっくりと石段をのぼってきた。跳べばひと息なのに、アルテラは一段ずつ足を運んでいた。
五十段をすぎたあたりで遅くなった。七十段で一度止まった。肩が大きく上下していた。提灯を持っていないほうの手を膝についていた。海の底でずいぶん力を持っていかれたらしかった。
この石段ではいつも灯也が先に息を切らした。アルテラは汗ひとつかかずに上で待っていた。今夜は逆だった。アルテラはまた一段のぼった。もう一段。
いちばん上の段でアルテラは足を止めた。つま先は灯也の火から指一本ぶん手前にあった。崖のふちを走る橙色の輪だった。
アルテラは金魚の絵の子ども提灯をさげて灯也を見下ろした。息がまだ荒かった。灯也は膝をついたまま見上げた。
「トウヤ。……なぜ火をつける」
「帰ってくる人が迷わないように」
「誰が帰ってくる」
はじめて会った晩は海を見て答えた。誰も、と。今夜は海を見なかった。
「アルテラ」
アルテラの目が灯也の顔の上で一度だけ動いた。右の眉へ。それから、目に戻った。
眉は上がっていなかったらしい。アルテラは長いこと黙っていた。子ども提灯の火が小さく揺れた。
「……ただいま」
白い剣が額の手前で止まった晩、灯也はおかえりと言った。その返事がやっと来た。
「……おかえり」
声がかすれた。アルテラは火の輪をまたいだ。灯也の火はアルテラを焼かなかった。ちりんと、拝殿の鈴が鳴った。
風はなかった。祖母の結界の鈴だった。槍の男が来た晩には鳴りやまなかった。今夜は一度だけ鳴って、やんだ。
「……遅えよ」
カウレスがアビーの肩を抱いたまま言った。アビーが目を開けた。ゆうべからずっとつむっていた目だった。凛はそっぽを向いて、鼻をすすった。何か言いかけて、口を閉じた。
アルテラは灯也の横を抜けて、手すりの前に立った。灯也が振りかえると、アルテラの肩の向こうで白い目がこちらを見上げていた。
橋の上から白いこぶしが持ちあがった。ゆっくりとほどけていく。指が一本ずつ開いて、手のひらが空を向いた。何も握っていない手だった。
返してほしい、と言っているみたいだった。アルテラは子ども提灯を左手に持ちかえた。右手を手すりの上へ差しだした。海のほうへ。手のひらを上に向けて。
褐色の小さな手のひらだった。湾の上の白い手と同じかたちをしていた。石を海へ返した晩の灯也の手とも。
「アビー。どっちへ回す」
アビーは銀の鍵を胸に抱いたまま答えた。
「反対のほうよ」
「……今度は私が閉める」
閉めるのはこっちに残る子だ、とアビーは言っていた。台座についた灯也の指に力が入った。アルテラは手首を返した。手のひらが下を向いた。かちり。
勝手口の鍵と同じ音だった。祖母が毎晩寝る前にかける鍵だ。その音は崖をくだって、目をさました町を抜けて、湾の底まで沈んでいった。
白い線が引いていった。坂から。路地から。側溝から。広場を横切っていた白も、百八段の下で止まっていた白も。のぼってきた道を一本残らず逆にたどって、海へ帰っていく。
橋の欄干の向こうで白い階段がたたまれていった。上の段から順に海の中へ。石畳についた膝から骨に何かが伝わってきた。海の底が割れたときとは逆の、閉じる感触だった。
それから、暁浜が息を吐いた。十一時に吸いこんだきりの息だった。窓という窓がいっぺんに灯った。
街灯。信号。アーケードの蛍光灯。港のクレーンの赤い灯。山手も海べりも同時だった。
暁浜大橋のライトアップが端から端までついた。島の家々にも、新都心のビルにも灯りが戻った。崖の下から歓声がのぼってきた。
頭の上で羽ばたきが鳴った。ヒポグリフが境内に下りてきた。今度は手水舎の手前でちゃんと止まった。
フラットが背中から転がりおりた。湾のほうを振りかえって、ぽかんと口を開けた。
「……やっぱり、鍵は外から回すものだったんだ」
アストルフォが黙ってその肩に手を置いた。フラットは湾を指さした。
「戸は閉まったよ。でも、あの手と目はもう外に出てた。……閉めだされちゃったんだ」
湾の上には白い手と目が残っていた。町じゅうの灯りを浴びても、その白だけは光らなかった。アルテラは子ども提灯をさげたまま、その白を見下ろしていた。
九
アルテラは手すりの前に立っていた。崖の下は灯りでいっぱいだった。
家々の窓も坂の街灯もついていた。そのあいだを提灯の輪がまだまわっていた。どの灯りも海へこぼれていかなかった。
「——文明を確認した」
今度の声はあたたかかった。胸の中でひとつ数えた。
「……いい文明だ」
台座に手をついたまま、灯也が肩ごしに笑った。
「……だろ」
白い手と目はまだ湾の上にあった。沈もうとしなかった。目はまっすぐ崖の上を見ていた。あれが探しているのは自分だった。海が鳴った。
手がせりあがった。手首の上まで。腕のなかばまで。手首に張っていた白い糸はついてこなかった。糸だけが海の中に残った。
「結び目は戸の内側なんだ! 外に出た手はもう止められないよ! ……でも、もう海の底からは何ももらえない。今ある白で終わりだよ!」
フラットが叫んだ。白い手が岸のほうへ傾いた。指の先から白いものがこぼれた。
引いていったばかりの白がもう一度坂をのぼってきた。白にふれた街灯がひとつずつ消えた。提灯の紙から赤が抜けた。
提灯を持つ人の手は白くならなかった。白は人の足もとを素通りして、まっすぐ崖のほうへ向かってきた。灯也が膝を立てた。
「……行かせない」
輪の火がぐっと強くなった。
「内側は明日の朝だ!」
明日の朝。露草を替える朝だ。暗がりの底でそう約束した。守る輪には内側と外側がいる。灯也は内側に朝を入れた。
「外はあの白だ!」
灯也が息を吸った。
「——守れ」
町じゅうの輪が立ちあがった。広場の輪が。アーケードの輪が。海岸通りの二本の列が。通りという通りで提灯の火が橙色の壁になった。
白は壁の前で止まった。その先へは一歩ものぼってこなかった。白い手が海岸通りの壁を押した。壁はたわんだ。破れはしなかった。
「鍵はもうかかってるのよ。今なら何を斬ったって、炉は肥えない」
凛が言った。それから、叫んだ。
「撃ちなさい、アルテラ!」
はじめてだった。凛にその名で呼ばれたのは。呼ぶ者がまたひとり増えた。凛はもう海をにらんでいた。
アルテラは子ども提灯を台座に置いた。軍手と金平糖の隣に。右手を開いた。三色の光が集まって剣になった。
「トウヤ。火を貸せ」
「……俺のじゃない。町の火だ。持ってけ」
アルテラは左手で手すりを握った。灯也の左手が手すりを離れた。軍手の手がアルテラの右手を柄ごと包んだ。自分の軍手だった。その中に灯也の手があった。熱かった。
輪の道が変わった。手すりから自分へ。自分から灯也へ。灯也から台座へ。剣はその輪のまんなかにあった。
通りの壁が一枚ずつ低くなった。そのぶんの火が輪をつたって、百八段の列を駆けあがってくる。
汐屋の前の火。広場の輪の火。橋の真ん中で金の上を折りかえしてきた火。灯也の体がふるえた。鼻から血が垂れた。それでも、軍手の手はゆるまなかった。
剣の中で赤も緑も青も混ざらずに揺れていた。それを橙色の火が包んでいた。剣の先があたたかい白になった。
海から来た白は色を飲んだ白だ。剣の白は町じゅうの色を重ねた白だった。壁が低くなるにつれて、止まっていた白がまたじわりとのぼりはじめた。
「命は壊さない。その文明を——」
「——守る」
灯也が言った。粉砕する、ではなかった。
「——『軍神の剣(フォトン・レイ)』」
アルテラは切っ先を湾へ向けた。あの手が海から出ているところへ。光が走った。町の屋根の上を渡っていった。瓦一枚焦がさなかった。
光が白い手にふれた。アルテラは剣を振りあげた。灯也の手ごと。海ぎわから手首へ。手首から手のひらへ。手のひらから五本の指へ。指の先から空へ。
ずっと昔、この星が光の剣をかかげた。その剣に断たれて、自分はこの海に落ちた。今夜は町が光の剣をかかげていた。握っているのは自分と灯也の手だった。
光の先は湾を越えて、空のずっと遠くまでのびていた。崖の上の火が沖まで届いていた。
光の通ったところで白が色になった。
白い手が海ぎわから指の先までほどけた。赤に。緑に。青に。橙に。その色が小さな光の粒になって、湾いっぱいに舞った。夜の終わりに星が降っているみたいだった。
手がなくなると、坂をのぼっていた白もひと筋ずつ薄れていった。消えた街灯がまたついた。提灯の紙に赤が戻った。広場から声があがった。
「たーまやー!」
湾の真ん中で白い目はまだ開いていた。降ってくる色の粒を映していた。アルテラはそれを見下ろして、低く鼻歌を歌った。言葉のない、ゆったりとした節だった。
海の底でずっと聞かされてきた歌だった。それを一度だけ返した。子守歌にして。
前に脚立の上でこの節を歌ったときは、手の中の提灯から赤が抜けた。台座に置いた子ども提灯の金魚は赤いままだった。
「眠れ。……私が見張る」
今度は目をつむらなかった。白いまぶたがゆっくりと下りた。目が海の中へ沈んでいった。波がひとつ立って、消えた。湾が静かになった。
「……ねむったわ」
アビーが小さな声で言った。カウレスの水ぶくれだらけの手を握って。凪いだ海に町の灯りが映っていた。窓も、街灯も、提灯の輪も。海は町と同じだけ明るかった。
剣がほどけた。光の粒になって、ふたりの手のあいだから散っていった。アルテラは灯也の左手を手すりに戻して、その上に自分の手を重ねた。
灯也の体がぐらりと揺れた。倒れはしなかった。台座にもたれて、やっと体を起こしていた。鎖骨の焼けあとが新しく赤くなっていた。東の空がいつのまにか白くなっていた。
「……白いな」
声に出していた。
「……うん。白だ」
灯也が隣で言った。茶色だろ、と言う声はしなかった。しなくてよかった。夜が明ける白だった。
十
白かったものが色になって降っていた。橋の真ん中でカルナはそれを見上げていた。赤や緑や青の粒は海にふれる前にひとつずつ消えた。足もとの黄金の下で白い目はもう沈んでいた。
「……見事だ」
海へ降りていくアルテラの背中には言わなかった言葉だった。はだかの胸から血が垂れていた。隣でアルジュナが弓を下ろした。
「アルジュナ。場所を変えよう。ここは少年の町に近すぎる」
橋のたもとにはまだ提灯をさげた人たちが並んでいた。山手の丘のてっぺんに旧天文台のドームが見えた。ふたつに割れたままだった。
「……では、あの丘で」
アルジュナが崖の上へ目をやった。しばらくして、そこからヒポグリフが飛びたった。背中で提灯の火がひとつ光っていた。
アルジュナは欄干を蹴って、屋根から屋根へ跳んでいった。塩の上に愛歌が立っていた。
「……わたしも行く」
命じる声ではなかった。楽しそうな声でもなかった。カルナは愛歌を抱きあげた。軽かった。
炎の尾を引いて丘へ渡った。割れたドームのふちに下ろすと、愛歌はそこに腰かけて白い靴の先をぶらぶらさせた。下の前庭では凛が提灯をさげて、アルジュナの隣に立っていた。
「マスター。お前は何がほしい」
愛歌はまばたきをした。
「……そんなこと、聞かれたのはじめて」
首をかしげた。答えは出てこなかった。この娘に何を施せばいいのか、最初の晩からずっとわからなかった。今はわかった。
「遠坂の娘が少年の火を持っていった。アルジュナの矢にはあの火がまじる」
愛歌の目が前庭の小さな灯りへ動いた。
「お前はあの火だけを知らない。……お前に、お前の知らない結末を見せる」
白い靴の先が止まった。
「……負けたら、いや」
自分が何を言ったのか、愛歌は気づいていないようだった。
水平線から日がのぞいた。
「……朝です」
前庭からアルジュナが言った。
「ああ。もう今夜ではない」
カルナは愛歌をドームの内側へ下ろした。それから、ドームのふちを蹴った。足もとから炎を噴いて、高く。日を背にして宙に止まった。
はるか下の橋で黄金が一枚ずつ浮きあがった。太陽の神である父が生まれたばかりの子に着せた鎧だった。黄金は朝日の中を飛んできて、カルナの手の槍へ吸いこまれていった。
鎧を手放した者だけが握れる槍だった。最後の一枚が溶けこむと、槍が燃えあがった。前庭でアルジュナが弓を引いた。矢の先に黒い炎が集まっていく。
あの日、泥にはまった車輪を押すカルナの背中にアルジュナは矢を向けた。射よ、と誰かに耳もとで言われて。アルジュナの唇が動いた。誰かに答えるように。
「言われずとも射ます。……私が勝ちたいのです」
凛が首から細い紐を引きだした。先についた小さな鍵を黒い革の小箱にさしこんだ。
「——今よ」
ふたが開いた。赤い宝石のペンダントが朝日を受けて光った。
「父さんの形見よ。数に入れたら使っちゃうから、ずっと数えてなかったの。……わたしがあんたを勝たせたいの。わたしのために」
「次は私が勝つと申しあげました」
凛はペンダントを一度だけ握りしめた。それから、鎖を指にかけて矢の先の炎へ下ろした。赤い石が溶けて、黒い炎の中へ流れこんだ。
「……これでほんとにゼロよ」
凛は提灯をかかげた。矢の先がその火にふれた。黒い炎の芯に赤い筋と細い橙色の糸が通った。炎は揺れずにまっすぐ燃えていた。
「マスター、お下がりください」
凛がドームの陰まで下がった。カルナはそこまで待っていた。
「神々の王の慈悲を知れ。インドラよ、刮目しろ。絶滅とは是、この一刺。焼き尽くせ——」
「——『日輪よ、死に随え(ヴァサヴィ・シャクティ)』」
「——『炎神の咆哮(アグニ・ガーンディーヴァ)』」
槍が手を離れた。矢が弦を離れた。光の槍と黒い矢が丘の上の空でぶつかった。山の木々が一本残らず金色に光った。
槍の光が矢を押しもどした。押しもどされた熱が炎の道をさかのぼって、弓を握るアルジュナの腕を袖ごと焼いた。アルジュナは弓を下ろさなかった。
矢の芯の橙色の糸だけはゆずらなかった。ひと晩じゅう海に引かれても消えなかった火だった。
槍の中にはあの黄金がまじっていた。朝まで少年の火を渡してきた黄金だった。火の通った道がまだそこに残っていた。アルジュナの矢はそこだけを狙っていた。
糸が光の中へ食いこんだ。そこから槍の光がふたつに裂けた。裂けた光は空へはじかれて、火の粉になって山の向こうへ散った。丘にも町にも海にもひと粒も落ちなかった。
黒い矢がのぼってきた。胸を通りぬけた。ひびの入った赤い石があったところだった。今は鎧も石もない、はだかの胸だった。熱くはなかった。まぶしいだけだった。
足もとの炎が消えた。体が落ちはじめた。泥の中ではなかった。車輪もなかった。背中から射られたのでもなかった。
落ちていく体を焼けただれた腕が受けとめた。アルジュナはカルナを抱えたまま、割れたドームの中に降りた。
「……良い腕だ。あの日とはちがうな」
アルジュナの顔がゆがんだ。
「私も祭りの日から見ておりました。……あなたの腕を」
指の先から体がほどけはじめていた。光の粒になって。粒は海のほうへは降りなかった。戸は閉まっている。愛歌がそばに膝をついて、右手を上げた。
「令呪をもって命じるわ。ランサー。……消えないで」
最後の一画が赤く燃えた。ほどけかけた体がそこで止まった。
「マスター。それが、ほしい、ということだ」
愛歌が目を見ひらいた。
「……頼みがある。明日の夜もあの火を見てくれ」
「……いや。言われたからじゃないわ。わたしが見たいから見るの」
断れるのは何か言われたことのある子だけだと、この娘は言っていた。その娘がはじめて断った。
「それなら、いい」
赤い光が消えた。止まっていた体がまたほどけはじめた。
「……兄上」
生きているうちには一度も聞かなかった呼び方だった。カルナは答えようとした。もう声にはならなかった。朝日がまぶしかった。父の光だった。目は閉じなかった。
光の粒が朝日のほうへのぼっていった。古い望遠鏡が割れた屋根のすきまからそれを見上げていた。
アルジュナがからになった両手を下ろして、黙って前庭へ出ていった。ドームの中に愛歌はひとりで残った。手の甲にはもう何もなかった。
愛歌は八百屋のへそくりのありかも、明日の天気も知っていた。さっきの結末だけは知らなかった。崖の上で常夜灯の火が燃えていた。朝の光の中でもまだ見えた。
「……帰りましょう」
いつもならランサーと呼びかけるところだった。けさは呼ばなかった。
連絡船の桟橋に朝日がさした。聖骸布に巻かれた男が桟橋の上で身をよじった。
「……監督役。判断を」
「人の手に負えております。……人の手と火で」
カレンは布をほどいた。始発の連絡船が汽笛を鳴らした。男たちは黙って乗りこんだ。カレンは手帳を開いた。
「大停電と、季節はずれの盆踊りと、霧笛の故障と、花火大会。……四つ同時ははじめてです」
連絡船が桟橋を離れた。
「——以上、炉の封印をもって暁浜における聖杯戦争の終結をここに宣言します」
誰もいなくなった桟橋でうやうやしく一礼した。
「……ご加護は要りませんでしたね」
十一
日がのぼっていた。向かいの丘の上の光はもう消えていた。橋の真ん中に敷かれていた金色もなかった。広場で誰かが提灯をふっと吹き消した。
またひとり。またひとり。誰が言いだしたのでもなかった。アーケードでも海岸通りでも火がひとつずつ消えていった。
台座についた右手から熱が引いていった。輪の手ざわりがひとつずつほどけていく。汐屋のおばあちゃんの乾いた手。あの子の小さな手。佐々木の汗ばんだ手。
いちばん遠い折りかえしにあった日なたの石みたいな手のひらは、もうなかった。どの手もゆっくりと離れていった。
手すりの上ではまだアルテラの手が重なっていた。その手がそっとどいた。灯也は台座から右手を離した。軍手の左手も手すりから離した。
もう何も握っていなくてよかった。ゆうべの十一時に台座へ手をついてから、七時間近くたっていた。立ちあがろうとして、膝が抜けた。
前に傾いた体をアルテラが受けとめた。褐色の細い腕だった。それなのに、少しも揺れなかった。アルテラは灯也を台座にもたれさせて、隣にしゃがんだ。
灯也は左手の軍手を引き抜いた。焼けた指に布が少しはりついていた。台座からもう片方の軍手と金平糖をふたつ取って、まとめて差しだした。
「忘れもん」
アルテラは軍手を受けとって、ポケットにしまった。素手の指の紋様はもう光っていなかった。手のひらに桃色と黄色の粒が残った。
黄色を口に入れた。かりっと小さな音がした。それから、桃色を灯也の手のひらにのせた。
「お前の分だ」
灯也は桃色の粒を口に入れた。甘かった。
「……針は飲まずにすんだな」
灯也は金平糖のとげを舌で転がして、うなずいた。アルテラはしばらく黙っていた。
「……ありがとう、トウヤ」
灯也はアルテラを見た。そう言われたのははじめてだった。朝の光がアルテラの横顔にあたっていた。頬が濡れていた。
「私の顔は今どうなっている」
「泣いてる。……笑ってる」
アルテラは頬に指でふれた。濡れた指先をじっと見た。
「……うれしくても、泣くのだな」
霧の晴れた朝、灯也がこの崖の上で言ったことだった。
「……うれしい、だ」
アルテラは台座から金魚の絵の子ども提灯を持ちあげた。ろうそくの火をそっと吹き消した。崖の下で街灯が消えていった。窓の灯りも、橋のライトアップも。
「朝が来たから、消えるのだな」
「うん。今夜また灯る」
アルテラは長いこと崖の下を見ていた。町の灯りのことはまだわからない。あの朝、アルテラはそう言っていた。
「……好きだ。町の灯りが」
灯也は何か言おうとして、やめた。かわりに鼻をすすった。ずっと聞けずにいたことがあった。灯也は向かいの丘を見た。さっきあそこで光がひとつ空へのぼって、消えた。
「アルテラは消えないんだよな」
アルテラはすぐには答えなかった。
「……鍵はこちら側にいる者にしか閉められない。私がいなくなれば、また開く」
アルテラは自分の胸に手を当てた。
「それに、私の半分は座から来たのではない。この土地の石から出てきた」
それから、灯也の焼けた腕を見た。
「お前の魔力もまだ止まらない。壊れた堰のようにあふれてくる」
灯也は笑った。笑うと鎖骨の焼けあとがひりひりした。
「……だが、どれも私があとから数えた理由だ」
アルテラは灯也の目を見た。
「選べと言ったのはお前だ。……ここを選んだ」
アルテラは立ちあがって、屋根の吹き飛んだ手水舎の陰へ歩いていった。草むらに露草が咲いていた。指の先でそっと一本摘んで、戻ってきた。
湯のみのしぼんだ花を抜いて、新しい花を挿した。閉じたままのフランの花の隣に。
花を替えるのはアルテラの役目だった。きのうの朝はそれを灯也にやらせた。けさは自分の手で替えた。
六時になるころ、ヒポグリフが境内に下りてきた。アストルフォは何も叫ばなかった。凛が背中から降りた。ふたの開いた黒い革の小箱を持っていた。中はからっぽだった。
袖からのぞく左腕の刻印はふた筋だけ赤くともっていた。アルジュナが続いた。弓を持つ腕に包帯が巻いてあった。
常夜灯の横ではフラットが丸くなって寝息を立てていた。アストルフォはそのそばにしゃがんで、境内をぐるりと見まわした。
「よく見とこ。今夜には忘れちゃうから」
凛が灯也の前にしゃがんだ。腕から肩へ、肩から鎖骨へと焼けあとを目でたどった。それから、指を鳴らした。ぱちんと。広場で鳴らしかけてやめた指だった。
「その十一、合格」
「……焼けてるけど」
凛は崖の下の広場を見た。提灯を消した人たちがあくびをしながら家へ帰っていくところだった。
「道ってのはね、みんなが通るもんなの」
それから、少しだけ声を落とした。
「……早死にするって言ったの、半分だけ取り消してあげる」
凛は灯也の額を指でつついた。
「授業その十三、追加。……寝なさい。以上」
台座の横でカウレスが大きくのびをした。水ぶくれだらけの手をひらひらさせた。
「おい、セイバー。起きたらゲームな。……次は負けねえからな」
「……次も勝つ」
今度は間があった。アビーが餌の缶を振った。金魚鉢の中でいちごがくるりと回った。
「いちごさんは朝と晩。……晩はセイバーさんよ」
暁浜の町に朝が来た。
お彼岸の朝、母屋の台所に甘い匂いがしていた。アルテラが卵焼き器の前に立っていた。素手で菜箸を握っている。その隣で退院したばかりの祖母が手もとをのぞきこんでいた。
「油はうすうにの。……ほれ、今じゃ。手前に巻きんさい」
卵がくるりと巻かれた。焦げ目はひとつもなかった。
「殻はゼロだ」
アルテラが言った。灯也はひと切れつまんだ。じゃりっとしなかった。祖母のと同じ甘さだった。祖母の目が灯也の襟もとに止まった。鎖骨の焼けあとがのぞいていた。
「……聞いたかね」
汐屋のおばあちゃんのことだとわかった。
「うん」
「……ほうね。ひとりで持ちなさんなよ」
それから、祖母はアルテラを見た。アルテラが菜箸を置いた。
「……火は引っぱらなかった。だから、自分で帰ってきた」
祖母はアルテラの手の甲をぽんぽんと二度たたいた。何も言わなかった。目じりのしわが深くなった。
昼前、灯也は十年ぶりに連絡船に乗った。アルテラもいっしょだった。
あの嵐の晩に船が沈んだあたりを、連絡船はゆっくりと通りすぎた。灯也は甲板の手すりから海を見下ろして、両親のことを話した。
「父さんと母さんは帰ってこなかった。……でも、ふたりが乗せた人は帰ってきたんだ」
アルテラは黙って聞いていた。それから、朝摘んだ露草を灯也の手のひらにのせた。青い花びらはもう閉じかけていた。アルテラはその手の下に自分の手をそえた。
ふたりで手を傾けた。露草が白い航跡の上に落ちて、遠ざかっていった。灯也は目をそらさなかった。振りかえると、崖の上に常夜灯が小さく見えた。
夕方、イリヤがドロップの缶を持って石段をのぼってきた。首にはフランのスカーフを巻いていた。
「お兄さん。おじいさまへの手紙よ」
広げた紙には一行だけ書いてあった。
『満ちた炉の数値:きれい。以上』
「数値を持ち帰れって書いてあったから」
イリヤはすました顔で言った。病院の窓の赤はイリヤの令呪だったと、灯也は祖母から聞いていた。
「……窓、ありがとな」
「おばあさまの火よ。わたしは握ってただけ」
帰りぎわ、イリヤは石段の上で振りかえった。
「お兄さん。来年の花火、わたしも見るから」
「うん。見よう」
縁側に軟膏の缶がひとつ置いてあった。ふたに紙がはさんであった。
『穂村さんへ。軟膏はまだたっぷりございます。とてもよくしみます』
灯也は襟もとをそっと合わせた。縁側の奥では桜とジャンヌが洗濯物をたたんでいた。帰る日の話はまだ誰もしていなかった。
聖杯は誰のものにもならなかった。最後はじゃんけんで決めればいい、と押しかけてきた晩にフラットは言っていた。じゃんけんは一度もしなかった。
日が傾いた。昼でも夜でもない、町が灯りをつけはじめる時間だった。灯也は石段の上から広場を見下ろした。
青いワンピースが立っていた。愛歌だった。すりへった輪の跡のそばからこちらを見上げていた。一段目には足をかけていなかった。
「灯也くん。……今夜もつくのね」
すぐ耳もとで声がした。
「つけるよ。毎晩」
灯也は声に出して答えた。
「じゃあ、明日も見に来なくちゃ」
愛歌はくるりと背を向けて、広場を出ていった。うしろでアルテラが言った。
「トウヤ。火を入れろ」
縁側で祖母が吹きだすのが聞こえた。
「わかってるって」
灯也は常夜灯の前に立った。右手の人さし指を灯芯に向けた。手の甲には令呪が二画残っていた。
「——灯れ」
指先に小さな火がともった。マッチ一本分の火だった。火は灯芯に移って、ゆらりと立ちあがった。
崖の下で町の灯りがひとつ、またひとつとつきはじめた。アルテラは灯也の隣でそれを見ていた。もう数えてはいなかった。