一
夜が終わろうとしていた。市民病院の屋上の手すりの上にアルテラは立っていた。誰の目にも映らない姿のまま。眼下に町が広がっている。
ゆうべ、崖の上から見たときには、無数の灯りが町を埋めつくしていた。今、その灯りがひとつ、またひとつと消えていく。壊れたのではない。
東の海が白みはじめ、空が明るくなるにつれて、灯りは自分から消えていくのだ。役目を終えたように静かに。アルテラはそれを不思議なものを見る目で見ていた。
彼女の知っている灯りの消え方はひとつしかなかった。燃やされて消える。踏みにじられて消える。彼女の剣に焼かれて消える。朝が来たから消える、というのは知らなかった。
——トウヤ。
ゆうべ自分を呼んだ少年の名を、アルテラは胸の中で繰り返した。少年は今この建物の六階の廊下の長椅子で眠っている。少年の祖母の病室の前で膝を抱えたまま。
自分の中を流れる魔力が、その少年から来ていることをアルテラは知っている。荒々しく、加減を知らず、壊れた堰のようにあふれてくる、熱い魔力。
小さな火しか灯せないと、少年は言った。それなのに、少年から流れこんでくる魔力は少しも小さくなかった。水平線から太陽が顔を出した。暁浜の町に朝が来た。
二
「……ん」
肩を揺すられて、灯也は目を開けた。白い天井。消毒液の匂い。廊下の長椅子で膝を抱えたまま眠ってしまっていたらしい。背中が日焼けしたあとのようにひりひりと熱い。
「穂村さん。おばあさま、目を覚まされましたよ」
看護師さんがのぞきこんでいた。灯也ははじかれたように立ちあがった。
ゆうべのことは半分くらい夢のようだった。救急隊員が石段を駆けあがってきたとき、アルテラの姿はふっと消えていた。
どこへ行ったのかと思う暇もなく、灯也は救急車に乗せられ、市民病院へ運ばれ、それから処置室の前で長い長い時間を過ごした。
警察も来た。消防も来た。灯也は何ひとつ説明できなかった。白い髪の男が槍で、とか、女の子が光る剣で、とか言えるわけがない。
ところが、夜明け前に戻ってきた警察官はなぜかすっかり納得した顔でこう言ったのだ。
「落雷だね。よくあるんだよ、山の上の神社には」
雷なんて、一度も鳴っていなかったのに。
病室のベッドの上で祖母はひどく小さく見えた。
右腕は肩から指先まで包帯でぐるぐる巻きにされ、額にも大きなガーゼが貼られている。それでも、灯也の顔を見ると、祖母はいつものようにふんと鼻を鳴らした。
「なんちゅう顔しとるんね。あんたが死んだんかと思うたわ」
「それ、こっちのセリフだよ……」
灯也はベッドの横の丸椅子にへたりこんだ。医者の話では火傷は深いが、命に別状はないという。ひと月ほどの入院になる、とも言われた。
「……ごめん、ばあちゃん」
「なにがね」
「約束破った。部屋から出るなって言われたのに」
「ほうじゃのう」
祖母は天井を見上げた。
「じゃけど、あんたが出てこんかったら、わしは今ごろあの世じゃったかもしれん。……おあいこじゃ」
ふいに祖母が言った。
「おるんじゃろう。そこに」
「え?」
「出てきてもらえんかね。お礼を言いたいけえ」
灯也が振りむくより早く、病室の空気が揺れた。窓際に白い少女が立っていた。ゆうべと同じ、白いヴェールに、褐色の肌。幾何学模様の白い紋様。
簡素な戦装束から伸びた細い手足。朝の光の中で見ると、少女はゆうべよりもずっと小さく、ずっと現実離れして見えた。
「うわっ!」
灯也は丸椅子ごとひっくり返りそうになった。
「い、いたの!? ずっと!?」
「いた」
アルテラはこともなげに答えた。
「霊体になっていただけだ。サーヴァントはそうして姿を消せる。……知らなかったのか」
「知らないよ! きのうから何ひとつ知らないよ、俺!」
そのとき、病室の扉が開いた。
「穂村さーん、検温の時間で——」
看護師さんが窓際の白い少女を見て固まった。白いヴェール。むき出しの肩。肌に走る紋様。手に剣を持っていないのがせめてもの救いだった。
「……あの。ご面会の方は、その、ふつうの服で……」
「い、いとこです! 外国の! こういう民族衣装で!」
灯也は自分でも何を言っているのかわからなかった。
看護師さんが首をひねりながら出ていくと、祖母が、くっくっと肩を揺らして笑った。笑うと傷に響くらしく、途中で顔をしかめていたが、それでも笑っていた。
祖母は、包帯を巻いていないほうの手を布団の上にそろえた。それから、ベッドの上で深々と頭を下げた。
「穂村千鶴と申します。……うちの石から出てきなさった方ですね」
アルテラは少しだけ首をかしげた。
「なぜ頭を下げる」
「うちの社の御神体から出てきなさったんじゃけえ。わしらにとっては神さまみたいなもんです」
「私は神ではない」
アルテラは静かに言った。
「私はフンヌの戦士。そして、大王だ。……壊す者だ」
「フン……なに?」
灯也が聞きかえしたが、アルテラは答えなかった。祖母は少しも驚いた様子を見せなかった。
「そうですか。大王さまですか」
「……ああ」
「壊す方でもええんです。ゆうべこの子の前に立ってくださった。それだけでわしには十分です」
「立ってはいない。敵がいたから、壊そうとした。それだけだ」
「そうですか、そうですか」
祖母はにこにことうなずいた。アルテラの言葉をまるで信じていない顔だった。
それから、祖母は灯也のほうへ向きなおった。その顔から笑みが消えていた。
「灯也。蔵の長持の底にご先祖の日記がある。……あとで読んどきんさい。わしが知っとることはぜんぶそこに書いてある」
「日記?」
「二百年前のことじゃ」
祖母はゆっくりと話しはじめた。
「異国の魔術師が三人、この町に来なさった。トオサカ、マキリ、アインツベルン……そう名乗ったと、日記にはある。その方らはこの町の地の底に何やら大きな『杯』をこしらえて、それから、それを封じた。この土地は杯を置くには荒れすぎとる、いうてな」
杯。灯也の頭を、ゆうべの青いワンピースの少女の声がよぎった。
——ようこそ、聖杯戦争へ。
「その方らは穂村にひとつ言いつけていきなさった。『あの星の石は杯の鍵である。けっして誰にも渡すな。誰にも触れさせるな』……それから、こうも」
祖母は灯也の右手を見た。手の甲の三本の線を。
「『いつか杯が目を覚ましたら、手の甲に三つの紋を持つ者が七人、杯を奪いあう戦をはじめる。その杯は勝った者の願いを叶える』」
病室がしんと静まりかえった。
「日記の最後には一行だけこう書き足してあった。『されど、この地の杯は星を呼ぶ』」
「星を呼ぶ……?」
「意味はわしにもわからん」
祖母は首を振った。
祖母の手が灯也の手を握った。ゆうべと同じようにかすかに震えていた。
「灯也。……逃げえ」
「ばあちゃん」
「その紋を捨てる方法があるはずじゃ。わしにはわからんけど、きっとある。……わしはあんたの父さんも母さんも海に取られた。あんたまで杯なんぞに取られとうない」
灯也は何も言えなかった。祖母はしばらく灯也の顔を見つめていた。それから、ふうと長い息を吐いた。
「……言うても、聞かんのじゃろうね。あんたはそういう子じゃけえ」
祖母は窓際の少女を見た。
「大王さま。この子を頼みます」
「……命令か」
「命令じゃありません。お願いです」
「お願い」
アルテラはその言葉を、初めて聞く外国の単語のように繰り返した。
「この子は自分のことを後回しにする子です。人のためなら平気で石段を百往復もする。……じゃけえ、誰かがこの子の前に立ってやらんといけんのです」
アルテラは何も答えなかった。ただ、紅い瞳でじっと祖母を見ていた。
三
昼過ぎ、灯也はひとりで——正確には、見えないアルテラとふたりで——神社へ戻った。
石段の下には黄色いテープが張られていた。立入禁止。テープの前に町内会の長老たちが集まって、心配そうに山の上を見上げていた。
「灯也くん! 千鶴さんは!?」
「大丈夫。ひと月くらい入院だって」
「そうかい、そうかい……。いやあ、雷とはのう。罰当たりなこっちゃ」
「祭りはどうするかのう。今年はやめにするかね」
長老のひとりが言いにくそうに言った。灯也は少し考えてから、首を横に振った。
「やるよ。ばあちゃん、毎年いちばん楽しみにしてるし。社殿はブルーシートかけてでも、なんとかする」
長老たちは顔を見合わせ、それから、しわだらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。
「さすが千鶴さんとこの孫じゃ」
「ほうじゃ、ほうじゃ」
それから、ひとりが思いだしたように付けくわえた。
「そういや、ゆうべ遅うにけったいな外人さんの二人組が来とったで。石段の下で『えーっ、もう終わっちゃったの!?』いうて、ふたりして地団駄踏んどった。ピンクの髪の子と、ひょろっとした兄ちゃんじゃ」
「……誰それ」
「さあのう。祭りの下見じゃろうか」
テープをくぐって石段を登ると、境内はゆうべのままだった。
拝殿の屋根は半分瓦がはがれ、本殿の格子戸は折れ、石畳には黒く焼け焦げた溝が一直線に走っている。社務所の窓ガラスはほとんどが割れていた。ひどいありさまだった。
でも、鳥居は無事だった。朱塗りの柱の、指一本手前で止まった光の剣を思いだして、灯也は少しだけほっとした。
壊れた本殿に入ると、祭壇の上に星石はあった。灯也はそっと手を伸ばした。冷たい。
夏の昼間なのに、ひんやりと冷たい。物心ついたころからいつさわってもほのかにあたたかかった石が、まるでただの石みたいだった。
いつのまにかアルテラが隣に実体化していた。アルテラは石を見下ろした。その顔を、ほんのわずかに何かがよぎった気がした。
「……からっぽだ」
「え?」
「中にあったものはもうない」
「中にあったものって?」
「わからない」
アルテラは石から目をそらした。
「だが、そう感じる」
灯也は石を風呂敷で包んで、母屋の自分の部屋へ移すことにした。また誰かが取りに来ないとも限らない。
風呂敷包みを抱えて本殿を出たところで、声がした。
「ずいぶん派手に壊しましたね」
境内の真ん中にシスターが立っていた。
黒い修道服。銀色の髪に、金色の瞳。小柄で、灯也より年下にも見える。この炎天下に汗ひとつかいていない。袖口からのぞく手首には白い包帯が、幾重にも巻かれていた。
「あの、ここ、立入禁止で……」
「ええ、存じています。私が禁止にさせましたから」
シスターは焼け焦げた溝をつま先でちょんとつついた。
「雷が落ちたことにしておきました。山の上の神社に雷。よくある話でしょう?」
灯也はぽかんと口を開けた。
——落雷だね。よくあるんだよ、山の上の神社には。
けさの警察官の妙に納得した顔を思いだした。
「……あんたがやったのか」
「後始末を、ですね。壊したのはそちらでしょう」
シスターはにっこりと微笑んだ。
「はじめまして、穂村灯也さん。聖堂教会より派遣されました、カレン・オルテンシアと申します。このたびの暁浜の聖杯戦争の——監督役です」
カレンの説明は簡潔で、容赦がなかった。聖杯戦争。七人の魔術師が七騎のサーヴァントを従えて殺しあい、最後に残った一組が、願いを叶える聖杯を手にする。
サーヴァントとは、過去の英雄が聖杯の力で現代に呼びだされたもの。
「つまり、アルテラは……昔の英雄?」
「ええ。ずいぶんと物騒な英雄のようですけれど」
カレンの口もとが、なぜかほんの少しだけ楽しそうにゆがんだ。その意味を灯也が知るのはもう少しあとのことだった。カレンは灯也の右手を指さした。
「その紋は令呪。サーヴァントに対する、三回かぎりの絶対命令権です。どんな命令にも、サーヴァントは逆らえません。逆に言えば、三回とも使い切ってしまえば、あなたとサーヴァントを縛るものは何もなくなります。そのあとどうなるかは……サーヴァント次第ですね」
「……」
「それから、魔術は秘匿すること。一般の方を巻きこまないこと。後始末をするのは私ですから、なるべく手間をかけさせないでくださいね」
「それで」
カレンは小首をかしげた。
「穂村さん。あなた、魔術師としてはどの程度のことができますか」
「……火をつけられる」
「どのくらいの」
「……マッチ一本分」
カレンはしばらく黙っていた。それから、ほんの少しだけ気の毒そうな顔をした。演技なのか本気なのか、灯也には見分けがつかなかった。
「では、監督役としてひとつご提案を。……令呪を放棄して、教会の保護下に入りなさい。そうすれば、この戦争が終わるまで、あなたの身の安全は保証します」
「放棄したら、アルテラは?」
「新しいマスターが見つからなければ、消えます」
カレンはこともなげに言った。
「サーヴァントはマスターからの魔力がなければ、この世にとどまれませんから」
灯也は隣のアルテラを見た。アルテラは表情ひとつ変えていなかった。
「アルテラはどうしたい?」
「私はサーヴァントだ。お前が戦えと言えば、戦う。降りろと言えば、消える。それだけだ」
「それだけって……消えるんだぞ!?」
「構わない」
アルテラは淡々と言った。
「私は壊すための——」
「そういうこと言うなよ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。アルテラが紅い瞳を少しだけ見ひらいた。
灯也はこぶしを握った。構わない、なんて。自分が消えることをまるで部屋の電気を消すみたいに言うなんて。
ゆうべ、この子は常夜灯の小さな火を長いこと黙って見つめていた。消えていない、と言った。その子が自分は消えても構わないと言う。
「……降りません」
灯也はカレンに向きなおった。
「令呪は放棄しない。ゆうべの女の子は俺の名前を知ってた。ばあちゃんをあんな目にあわせて、何かをしようとしてる。それを放っておけない。……それに」
灯也はアルテラのほうを見なかった。見たら、何かがこぼれてしまいそうだった。
「消えても構わないなんて言うやつをほんとに消させるわけにいかないだろ」
カレンはしばらく灯也を見つめていた。やがて心底おかしそうにくすくすと笑った。
「まあ。まあ、まあ」
「……なんだよ」
「いいえ。素敵な理由だと思いますよ。きっと、きれいなお葬式になります」
「縁起でもないこと言うなよ!」
カレンはくるりと背を向けた。石段を降りかけて、ふと足を止める。
「ああ、そうそう。個人的な忠告をふたつ差しあげます」
「……個人的?」
「ひとつ。ゆうべのあれは、町じゅうの魔術師に『セイバーのマスターはここです』と宣伝したようなものです。今夜あたりさっそくお客さまがいらっしゃるでしょうね」
カレンは振りかえらずに続けた。
「ふたつ。ゆうべのランサーのマスターには二度と近づかないことです」
「あの子のこと知ってるのか」
「監督役は特定の陣営についてお話しできません。……ただ」
カレンは包帯を巻いた自分の手首をそっと撫でた。
「私の体は、悪魔に近いものの前では勝手に傷が開くんです。そういう体質でして。……あの方が参加の届け出に教会へいらしたとき、私の傷はひとつも開きませんでした」
「……じゃあ、悪い子じゃないってこと?」
「逆ですよ、穂村さん」
カレンはようやく振りかえった。金色の瞳が静かに灯也を見上げた。
「悪魔ですらない何か。……ということです」
夏の陽射しの中で灯也の背中を、冷たいものが伝い落ちた。
四
夕方。灯也はアルテラを連れて商店街を歩いていた。アルテラは灯也のTシャツと短パンを着ていた。胸に大きく「祝・暁浜大橋開通」と書かれたTシャツだ。
九歳のとき開通記念の式典でもらった大人用だ。当時はワンピースのようにぶかぶかだったそれが、アルテラにはちょうどよかった。
白いヴェールは外していた。短い白い髪と褐色の肌、それに腕や首筋に走る白い紋様は隠しようがなかったが、商店街の人たちは思ったほど気にしなかった。
「灯也くん、その子は?」
「ばあちゃんの知り合いの、外国の親戚の子。しばらくうちにいるんだ」
「ほう、えらいべっぴんさんじゃのう! それ、タトゥーかね。今どきの子はおしゃれじゃのう」
八百屋のおじさんはそれで納得した。魚屋のおばさんも、薬局のおじいさんもだいたい同じだった。この町の人はだいたいそういう人たちだった。
「……なぜ嘘をつく」
人波が途切れたところで、アルテラが小声で言った。
「ほんとのこと言ったら、もっと大変なことになるだろ」
「そうか」
アルテラはしばらく考えるように黙ってから、言った。
「嘘は便利だな」
「いや、それはあんまり覚えなくていいから」
商店街のアーケードには来週の夏祭りに向けて提灯が、ずらりと吊るされはじめていた。アルテラがふと足を止めてそれを見上げた。
「これはゆうべお前が運んでいたものと同じか」
「うん。来週うちの神社で夏祭りがあるんだ。そのときに、ぜんぶに灯りを入れる」
「祭り」
アルテラはその言葉を口の中で転がした。
「知っている。聖杯から知識は与えられている。……人が集まり、騒ぐことだ」
「まあ、そうなんだけど。そう言うと身も蓋もないな……」
アルテラはしばらく提灯の列を見上げていた。それから、何も言わずに歩きだした。
商店街のいちばん奥に「甘味処 汐屋」という古い店がある。灯也が小さいころから、夏になると必ず通っていた店だ。店先で「氷」と染め抜いた旗がぬるい風に揺れている。
「ここ。ここのかき氷、うまいんだよ」
「かき氷」
「食べたことない……よね、そりゃ」
「ない。知識としては知っている。氷を削り、甘い汁をかけたものだ」
「うん、まあ、そうなんだけど……。アルテラが言うと、なんでもぜんぶ取扱説明書みたいになるな」
店の中では古い扇風機がからからと首を振っていた。壁に貼られたシロップの見本を、アルテラはじっと見つめた。いちご。メロン。ブルーハワイ。レモン。
「どれにする?」
「これと、これと、これだ」
アルテラが指さしたのは、いちごと、メロンと、ブルーハワイ。赤と、緑と、青。ゆうべアルテラの剣を形づくっていた三つの光の色だった。
「……三つぜんぶ?」
「ぜんぶだ」
店のおばあちゃんが、面白がって三色を氷の山の三方からかけてくれた。真っ白な山が赤と緑と青に染め分けられる。
それが溶けるにつれて、まんなかで混ざりあって——なんとも言えない、濁った茶色になった。アルテラは匙を持ったまま、それを見つめていた。
「……白にならない」
「え?」
「私の剣は三つの光を合わせると、白になる。これは、ならない」
「ああ……」
灯也はちょっと考えてから答えた。
「光と、色はちがうんだよ。光は混ぜるとどんどん明るくなって、最後は白になる。でも、絵の具とかシロップの色は混ぜるとどんどん暗くなるんだ。理科で習った」
「……そうか」
アルテラは茶色くなった氷の山を見下ろした。
「私の剣は光だから、白になるのか」
「たぶんね」
「……そうか」
アルテラはもう一度だけそう言って、匙で氷をすくい、口に入れた。
ひと口。ふた口。三口。アルテラの匙がものすごい速さで動きはじめた。表情は一切変わらない。ただ匙だけが黙々と氷の山を削っていく。そして、半分ほど食べたところで、ぴたりと止まった。
「…………」
「アルテラ?」
「……頭が痛い」
アルテラは眉間にほんのわずかに皺を寄せていた。
「攻撃か。どこからだ」
「ちがう、ちがう!」
灯也はあわてて手を振った。
「かき氷を急いで食べると、そうなるの! 頭がキーンってなるの! 誰も攻撃してない!」
「……そうか。この食べ物は危険だな」
そのときカウンターのほうで、
「けほっ!」
と、誰かが盛大にむせた。
見ると、カウンターの端の席でひとりの少女が、あんみつの器を前に咳きこんでいた。長い黒髪をふたつに結っている。赤いブラウスに、黒いスカート。
灯也と同い年くらいだろうか。この辺りでは見かけない顔だった。観光客かもしれない。それにしても——びっくりするくらい、きれいな子だった。
「だ、大丈夫ですか?」
灯也が思わず水のコップを差しだすと、少女はきっ、とこちらをにらんだ。
「だ、大丈夫よ! ちょっと寒天が気管に入っただけ!」
少女は、灯也の手からコップをひったくって一気に飲み干した。耳まで赤かった。なぜか灯也は怒られている気がした。
アルテラは残りのかき氷を今度はゆっくりと食べた。最後のひと匙までぜんぶ。
「うまかった?」
灯也が聞くと、アルテラはからっぽになった器を見下ろした。
「わからない」
それでも、アルテラはその器からなかなか目を離さなかった。店のおばあちゃんがくすくす笑いながら、今度はいちごだけのかき氷をもうひとつ運んできた。
「サービスじゃ。べっぴんさんに」
アルテラはそれもぜんぶ食べた。今度はゆっくりと。頭が痛くならないように。
店を出るとき、さっきの黒髪の少女がちょうど同時に席を立った。狭い戸口で少女の肩が灯也の右腕に軽くぶつかった。
「あ、ごめん」
「……こちらこそ」
すれちがいざま、少女の指先が灯也の右手の甲をほんの一瞬かすめた。そして、灯也にだけ聞こえる声で少女はささやいた。
「——あんた、早死にするわよ」
「え?」
振りむいたときには、もう少女のうしろ姿は夕方の人ごみの中に消えていた。
灯也はしばらくぽかんと突っ立っていた。
「……なんだったんだ、今の」
「トウヤ」
アルテラが少女の消えたほうを見ていた。紅い瞳がすっと細くなっていた。
「今の女のそばに何かいた」
「え?」
「見えないものだ。……弓の匂いがした」
「弓の匂いって何!?」
「壊すか?」
「だめだって!」
五
商店街から一本はずれた路地で遠坂凛は壁に背中をあずけて、深々とため息をついた。
「……信じらんない」
「何がでしょう、マスター」
誰もいない空間から穏やかな声が返ってきた。霊体のままのアーチャーだ。
「ぜんぶよ、ぜんぶ!」
凛は指を折って数えはじめた。
「令呪、隠してない。包帯すら巻いてない。魔力、全身からだだ漏れ。蛇口の壊れた水道みたいにずーっと垂れ流し。サーヴァントは実体化させっぱなしで商店街を連れ歩いて、しかも、かき氷を食べさせてる!」
「三色がけでしたね」
「そこはどうでもいいのよ!」
凛は頭を抱えた。さっき、すれちがいざまに触れた手の甲。あの一瞬でわかったことがある。あの少年の魔術回路は、ほとんどぜんぶがむりやりこじ開けられたままになっている。
本数は多い。それも、かなり。けれど、開け閉めのしかたをまるで知らない。あれでは魔力を作るそばから、垂れ流しているようなものだ。素人。正真正銘のど素人だ。
「……あいつ、ゆうべランサーとやりあって生きてたのよ。どんな悪運よ、まったく」
ランサーという言葉が出たとき、霊体のアーチャーの気配がほんのわずかに揺れた。凛はそれに気づかなかった。
「それに、あのセイバー」
凛は目を細めた。
「アーチャー、気づいた? あの子、マスターの隣を歩きながら、一度も周りを警戒してなかった。店に入るときも、出るときも。わたしがすぐ横に座ってても、マスターをかばう位置に一度も立たなかった」
「ええ。……守るという発想を持っていないように見えました」
「でしょう? あれはたぶん敵を見つけたら、マスターなんか放りだして、まっすぐ斬りに行くタイプよ」
凛は壁から背中を離した。
「今夜行くわよ。アーチャーは向かいの丘の旧天文台から撃って。セイバーをマスターから引きはがすの」
「その間に、マスターがあの少年を押さえる、と」
「そういうこと」
「……殺さずに、ですか」
凛は一瞬だけ口ごもった。
「……殺さずに、よ。令呪を放棄させて、教会に放りこむ。それで、あいつは助かる。この戦争から降りれば、命までは取られない」
「マスターはおやさしい」
「や、やさしくなんかないわよ!」
凛の声が裏返った。
「素人を殺したって、遠坂の名に傷がつくだけ! それだけよ! ……それに、ど素人がうろちょろしてたら、こっちの計算が狂うの。邪魔なの。だから、退場してもらうの!」
「なるほど」
アーチャーの声はどこか笑いを含んでいるようだった。凛はふんとそっぽを向いて、路地を歩きだした。
——あんた、早死にするわよ。
どうしてあんなことを口走ったのか、自分でもよくわからなかった。あの少年が、かき氷を食べるサーヴァントをなんだかやけに楽しそうに見ていたせいかもしれない。
凛のうしろを見えない姿のまま歩きながら、アーチャー——アルジュナはゆうべの空を思いだしていた。山の上で明滅していた三色の光。
そして、それと打ちあっていた黄金の炎。凛はあれを「ランサー」と呼んだ。アルジュナはあの炎を知っていた。忘れられるはずがなかった。
六
夜。灯也は常夜灯の前に立った。ゆうべと同じように右手の指を灯芯に向ける。目を閉じて、背骨の奥に細い線を一本だけ思い描こうとして——。線が一本じゃなかった。
何十本もの線が背中じゅうでぼんやりと熱を持っている。ゆうべむりやり開かれた回路が閉じないまま、ずっと開きっぱなしになっているのだ。
「……灯れ」
ごうっ!マッチ一本分のはずの火が、松明のような勢いで噴きだした。
「うわあっ!?」
灯也は尻もちをついた。火は灯芯に燃え移り、火袋の中でいつもの何倍もの大きさで燃えさかっている。焦げくさい匂いがした。前髪がちょっと焦げていた。
「大きくなったな」
うしろで見ていたアルテラが感想を述べた。
「……なんか、ぜんぜんうまくいってる気がしない」
「火はついた」
「そうだけどさ……」
ふたりは石段のいちばん上に並んで座った。眼下に町の灯りが広がっている。ゆうべと同じように。
アルテラはTシャツの膝を抱えて、それを見下ろしていた。ヴェールのない白い髪が夜風にそよいでいる。昼間の商店街で見たときよりも、なぜかずっと小さく見えた。
「……なあ、アルテラ」
「なんだ」
「来週の夏祭り、いっしょに行こうよ」
アルテラが灯也を見た。
「命令か」
「ちがうよ。誘ってるの」
「誘う」
「行かない?って聞いてるんだ。行きたくなかったら、行かなくていい。そういうやつ」
アルテラは少しだけ黙った。
「……祭りは何のためにする」
「何のためって……」
灯也はちょっと考えた。
「屋台が出て、みんなで焼きそばとか食べて、盆踊りして、最後に花火を見る。……何のためってことはないかな。楽しいから、やるんだよ」
「楽しい」
アルテラはその言葉をまた口の中で転がした。
「わからない」
「だから、来てみればいいよ。わかるかもしれないし」
アルテラは答えなかった。ただ、町の灯りを見下ろしたまま、小さく——ほんとうに小さくうなずいたように見えた。
いや、気のせいかもしれない。灯也がそれを確かめようとしたとき、石段の下から足音が聞こえてきた。
こつ、こつと。百八段の石段を、誰かがゆっくりと登ってくる。アルテラがすっと立ちあがった。
石段の途中の外灯の下に人影が現れた。長い黒髪をふたつに結った少女。赤いブラウスに、黒いスカート。
「こんばんは。いい夜ね」
昼間、甘味処でむせていた少女だった。
「昼間はどうも。かき氷、おいしかった?」
「……あんた」
灯也は立ちあがった。
「何者なんだ」
「遠坂凛」
少女は石段の上の灯也を見上げて名乗った。
「この戦争のマスターのひとりよ」
「とおさか……」
けさ、祖母の口から聞いたばかりの名前だった。
「二百年前の……トオサカ?」
凛の眉がぴくりと動いた。
「……へえ。どこで聞いたの、それ」
「うちのご先祖の日記に」
「日記、ね」
凛は少しだけ考えるような顔をした。
「土地の人間にも記録が残ってたってわけ。……それはあとでゆっくり見せてもらうとして」
凛は残りの石段を登りきった。灯也と同じ高さに立つ。
「単刀直入に言うわ、穂村くん。令呪を放棄して、教会に行きなさい。案内してあげるから」
「……昼間も似たようなこと言ってたよな。早死にするって」
「事実だもの」
凛は腕を組んだ。
「あんた、自分の魔力が全身から垂れ流しになってるの、気づいてる? 蛇口の壊れた水道みたいに。そんなの、町じゅうの魔術師に『ここにいます、狙ってください』って看板背負って歩いてるようなものよ。ゆうべランサーとやりあって生き残ったのは、ただの運。次はない」
「……」
「降りなさい。今ならまだ間に合う」
その声は思っていたよりもずっと真剣だった。この子は本気で俺を心配しているのかもしれない——と灯也は思った。思ったうえで、首を横に振った。
「悪いけど、降りない」
「……どうして」
「降りたら、アルテラは消えるんだろ。……それに、ばあちゃんをあんな目にあわせたやつがまだこの町にいる」
凛はしばらく黙って灯也を見ていた。それから、ふと何かに気づいたように眉をひそめた。
「……ちょっと待って。あんた今、さらっとサーヴァントの名前、言ったわね」
「え? 言ったけど」
「それ、真名よ。ほんとうの名前! 英霊の真名が知られたら、どこの誰で、どんな伝説を持ってて、何が弱点かぜんぶ敵に筒抜けになるの! ……それを敵のマスターの前でそんな、晩ごはんの献立みたいに……」
凛はこめかみを押さえた。
「……ばっかじゃないの」
ぽつりと凛は言った。
「ほんと、ばか。……いいわ」
凛が右手を上げた。その指のあいだで赤い宝石がきらりと光った。
「じゃあ、力ずくで降ろしてあげる。——アーチャー!」
向かいの丘の上で何かが光った。旧天文台の白いドームの上。そこからひと筋の青白い炎が夜空を一直線に裂いて、こちらへ飛んでくる。矢だ。
灯也がそう理解したときには、アルテラはもう動いていた。光が走る。Tシャツ姿の少女が、一瞬で白いヴェールの戦装束に変わる。その手に三色の光の剣が生まれる。
剣が矢を斬った。青白い炎が弾け、夜空いっぱいに火の粉が散った。境内が真昼のように照らしだされる。石段の下の商店街からまた声が聞こえた。
「おい、また花火じゃ!」
「今年の祭りはずいぶん気合いが入っとるのう!」
二の矢。三の矢。四の矢。青白い炎が次々と夜空を裂いて飛んでくる。アルテラの剣がそれをことごとくたたき落とす。そのたびに、火の粉が雨のように境内へ降りそそぐ。アルテラが向かいの丘を見た。
「……あそこか」
「アルテラ、待っ——」
灯也が言い終わるより早く、アルテラは崖を蹴っていた。
白いヴェールが夜空に流れる。三色の光の尾を引いて、アルテラはまっすぐに向かいの丘へ——弓兵のいる場所へと跳んでいった。振りかえりもせずに。
境内に灯也と凛だけが残された。常夜灯の火がぱちぱちと音を立てて燃えている。
「やっぱりね」
凛が小さく笑った。
「あの子、守るって発想がないのよ。昼間見てて、わかったわ。敵を見つけたら、マスターなんか放りだして、まっすぐ斬りに行く。……計算どおり」
「……最初から、それが狙いだったのか」
「当然でしょ。サーヴァントの相手は、サーヴァントがする」
凛は指のあいだに赤と緑の宝石をひと粒ずつはさんだ。宝石が夜の中でゆっくりと光を帯びていく。
「だから——マスターの相手は、マスターがするの」
凛の黒髪がふわりと浮いた。足もとから目に見えない風が吹きあがっていた。灯也は右手を握りしめた。背中じゅうの回路がどくんと熱く脈打った。
「授業をはじめましょうか、穂村くん」
遠坂凛は楽しそうに言った。
「授業料は——高いわよ」