一
「授業その一」
凛が指先でルビーを弾いた。
「魔術師の戦いは先に撃ったほうが勝つ」
赤い宝石が灯也の足もとで砕けた。次の瞬間、石畳から炎の柱が噴きあがった。
「うわっ!?」
灯也は横っ飛びに転がった。さっきまで立っていた場所を、炎が舐めるように焼き払っていく。熱風が頬をたたき、焦げた空気が喉を焼いた。
「授業その二」
凛は次の宝石を指のあいだにはさんだまま、退屈そうに言った。
「避けてるだけじゃ、授業は終わらないわよ」
「くっ……灯れ!」
灯也は右手を突きだした。背中じゅうの回路がいっせいに熱くなる。開きっぱなしの何十本もの線から熱が、出口を求めて押しよせてくる。ごうっと。指先から炎が噴きだした。
マッチ一本分どころではない。人の背丈ほどもある火の塊が膨れあがりながら、凛のいるあたりめがけて——いや、凛のいるあたりのだいぶ右のほうへでたらめに飛んでいく。
凛は首を少し傾けただけだった。炎は凛の横を素通りして、境内の楠の枝先を焦がし、夜空へ消えた。
「あ、あっぶな! ご神木!」
「自分で撃っといて何言ってんのよ」
凛は呆れたように肩をすくめた。
「授業その三。魔術回路っていうのは、体の中にあるもうひとつの神経みたいなもの。命の力を魔力に変えるための、ね」
凛はゆっくりと灯也のまわりを歩きはじめた。指のあいだで残りの宝石が緑に光っている。
「ふつうの魔術師は使うときだけ回路を開いて、使い終わったら閉じる。スイッチみたいに。必要なときに必要なだけ。……あんたのはぜんぶが開きっぱなし。作った魔力を、作ったそばからこぼしてる。だから、狙いも定まらないし、加減もできない」
「……どうやって閉じるんだよ」
「それを自分で見つけるのが魔術師の最初の仕事よ」
凛が緑の宝石を放った。エメラルドが空中で砕け、そこから、目に見えるほど濃い風の刃が三つ、四つと飛んできた。
灯也は石畳に這いつくばってそれをやり過ごした。頭の上を風の刃が通りすぎ、背後の灯籠の笠をすっぱりと斬り落とした。
「ああもう……! エメラルドまで……!」
凛がなぜかものすごくくやしそうな声を出した。
「……なんで、撃つたびに泣きそうな顔してんの?」
「うるさい! 宝石って高いのよ! これひと粒であんたんちの近所のかき氷、何百杯食べられると思ってんの!?」
「知らないよ!」
「知らないでしょうね! だから、授業料は高いって言ったのよ!」
凛は半分やけになったように叫んだ。
「授業その四」
凛の人さし指がまっすぐ灯也に向けられた。指先に黒い光が凝り固まっていく。
「これはガンド。北欧の古い呪いでね、指さした相手を病気にする。本来はせいぜい風邪をひかせる程度のものだけど」
凛はにっこりと笑った。
「わたしのはちょっと特別製」
「——Gandr(ガンド)」
黒い弾丸が撃ちだされた。灯也はとっさに身をひねった。弾丸は肩をかすめ、背後の石畳をこぶしほどの大きさにえぐり取った。
かすっただけなのに、左の肩から先が急に重くなった。熱を出したときのような嫌なだるさが腕に広がっていく。
「ほらほら、どうしたの。降参するなら、今のうちよ」
凛の指先から黒い弾丸が次々と撃ちだされる。機関銃みたいだ、と灯也は思った。
右へ逃げる。左へ逃げる。石畳がえぐれ、灯籠が砕け、社務所の壁に穴があく。逃げても、逃げても、黒い弾丸は四方から迫ってくる。逃げ場がなくなった。
——ばあちゃんなら、どうする。
ふいにゆうべの光景がよみがえった。本殿のまわりをぐるりと囲んでいた橙色の火の輪。渦を巻くようにゆっくりと回りつづけていた祖母の守り火。灯れ。巡れ。守れ。
灯也は両手を広げた。開きっぱなしの回路からまた熱があふれだす。さっきはそれをただ前へ撃ちだそうとした。だから、火はでたらめに膨れて、でたらめに飛んでいった。
前じゃない。まわりだ。自分のまわりをぐるりと。
「——巡(めぐ)れ!」
灯也のまわりで炎が輪を描いた。でこぼこで、太さもばらばらで、今にも崩れそうな、不格好な火の輪。けれど、それはたしかに灯也を中心にして、ぐるりと回っていた。
ガンドの弾丸が火の輪にぶつかった。じゅっと音がして、黒い弾丸が炎の中に溶けて消えた。ひとつ。ふたつ。みっつ。
「……え」
凛の指が止まった。
「今の、結界? 詠唱は? 術式は?」
「わ、わかんない! ばあちゃんのをまねしただけ!」
灯也自身がいちばん驚いていた。火の輪は数秒でぼろぼろと崩れて消えた。それでも、たしかに一度、灯也の火が何かを守ったのだ。
凛はしばらく黙って灯也を見ていた。それから、ふうんと小さく鼻を鳴らした。
「……土着の結界術ね。日本の古いお社にはときどき、ああいうのが残ってる。面白いじゃない」
凛の唇の端がほんの少しだけ持ちあがった。
「やるじゃない、穂村くん。——でも」
二
暁浜市立天文台は十二年前に閉館した。山手の丘のてっぺんにある白いドームは、町のどこからでもよく見えた。子どもたちはあそこには幽霊が出ると噂しあっていた。
今夜、そのドームの上に立っているのは幽霊ではなかった。白い衣をまとった、褐色の肌の青年。
その手には一張りの弓。星明かりを受けて、弓そのものが淡く光を放っているように見えた。青年——アルジュナは弦を引いた。
指のあいだに矢はない。それでも、弦を引きしぼると、青白い炎が集まって一本の矢のかたちになった。放つ。炎の矢が夜を裂いた。その先に白いヴェールの少女がいた。
アルテラは跳んだ勢いのまま、丘の斜面を駆けあがっていた。正面から飛んでくる矢を光の剣で弾く。弾かれた矢が斜面の木々をなぎ倒して爆ぜる。次の矢。また弾く。
次の矢は空中で三本に分かれ、左右と頭上から同時に襲いかかってきた。アルテラは剣を振った。三色の光が鞭のようにしなって伸び、三本の矢をまとめて薙ぎはらう。
そのまま光の鞭はドームの屋根へ——。アルジュナが跳んだ。一瞬前まで彼が立っていた場所を、光の鞭が通りすぎる。白いドームの屋根に一直線の亀裂が走った。
ごとりと重い音がして、ドームがふたつに割れた。割れ目から星明かりが天文台の中へ流れこんだ。
その光の中に古い望遠鏡が浮かびあがった。もう何年も誰にものぞかれないまま、それでもまだ夜空のどこかを見上げつづけていた大きな筒。
アルジュナは天文台の前庭に降りたった。アルテラもその正面に降りる。
ふたりのあいだの距離は十歩ほど。弓兵にとっては近すぎる間合いだった。それでも、アルジュナは少しも慌てていなかった。
「見事な剣です、セイバー」
穏やかな、よく通る声だった。
「剣を交える前に、ひとつお尋ねしてもよろしいですか」
「なんだ」
「ゆうべ、あなたが剣を交えた槍兵。黄金の炎をまとったあの男について」
アルテラは少しだけ首をかしげた。
「ランサーか」
「ええ。……あの男はどんな顔をしていましたか」
奇妙な問いだった。アルテラはゆうべの敵を思いだした。
「白い髪。白い肌。胸に赤い石。……静かな目をしていた」
それから、ほんの少しだけ間を置いて、付けくわえた。
「お前に少し似ていた」
アルジュナの顔から表情が消えた。
弓を握る手に力がこもる。青白かった炎がふっと色を変えた。青から黒へ。夜よりも暗い、墨を流したような炎がアルジュナの全身からゆらりと立ちのぼる。
「……そうですか」
声は穏やかなままだった。それがかえって不気味だった。
「やはりあの男か」
矢が放たれた。一本ではない。十、二十、三十——黒い炎の矢が雨のように前庭いっぱいに降りそそぐ。
アルテラは剣を振るった。光の鞭が頭上で渦を巻き、矢の雨を片端から焼き払う。それでも、払いきれなかった一本がアルテラの肩をかすめた。褐色の肌に赤い線が走る。
さっきまでとは矢の重さがちがった。アルテラは正面のアルジュナを見た。アルジュナはアルテラを見ていなかった。その目は、アルテラの向こう——ここにはいない誰かを見ていた。
「お前の矢は私を見ていない」
アルテラは言った。
「お前は誰と戦っている」
アルジュナの指が弦の上で止まった。黒い炎がすうっと引いていく。アルジュナは、はっとしたように自分の手を見下ろした。
「……失礼を」
その声にはかすかな動揺がにじんでいた。
「あなたの言うとおりです、セイバー。私は今あなたを見ていなかった。……戦士として恥ずべきことです」
アルテラは答えようとした。そのとき胸の奥で何かが揺れた。自分の中に流れこんでいるあの熱い魔力。荒々しく、加減を知らず、絶えず押しよせてくる、少年の魔力。
それが揺れていた。大きく膨れあがり、それから、急に細くなる。また膨れあがる。また細くなる。嵐の中の灯火のように。アルテラは振りかえった。
谷の向こうに山の上の神社が見えた。崖っぷちに小さな灯りがひとつ。常夜灯の火だ。その火が揺れていた。
——誰かがこの子の前に立ってやらんといけんのです。
病室で皺だらけの手を布団の上にそろえていた老婆の声が、耳の奥によみがえった。
——消えても構わないなんて言うやつをほんとに消させるわけにいかないだろ。
自分を怒鳴りつけた少年の声が。アルテラは正面の敵を見た。敵は目の前にいる。壊すべきものは目の前にある。
それなのに。アルテラは剣を下ろした。そして、生まれてはじめて——敵に背を向けた。
アルジュナは弦を引いたまま、動けなかった。白いヴェールの背中が目の前にある。無防備な、まっすぐな背中。今、指を離せば、矢は確実にその背を貫く。
けれど、指は動かなかった。背を向けた者を射る。かつて一度だけ、彼はそれをした。泥にはまった戦車の車輪を持ちあげようとしていた男を。待ってくれ、と言った男を。
——射よ、と言われたから。
気がついたときには、白いヴェールの少女はもう丘の斜面を駆けおりていた。三色の光の尾を引いて、谷の向こうの小さな灯りをめがけて。
アルジュナはゆっくりと弓を下ろした。割れたドームの中で古い望遠鏡が、黙って夜空を見上げていた。
三
「——でも、それじゃ足りない」
凛がスカートのポケットからひときわ大きな宝石を取りだした。深い青。夜の海の底の色をしたサファイア。
「これはね、わたしが十年かけて魔力をためこんできた宝石。……正直あんたなんかに使うのはものすごく、ものすごーくもったいないんだけど」
凛の声には本気のくやしさがにじんでいた。
「でも、もう面倒になったから。あんたを氷漬けにして、教会まで運んであげる。死にはしないわよ。たぶんね」
「たぶん!?」
灯也はもう一度両手を広げた。
「巡れ……!」
火が灯也のまわりに集まりかけて——ぱっと散った。回路が悲鳴をあげていた。さっきの火の輪で何かを使い果たしてしまったらしい。
背中は焼けるように熱いのに、指先は氷のように冷たい。ガンドのかすった左腕は鉛を詰められたみたいに重い。膝ががくがくと笑っている。
「無理しないの。あんたの回路、もう限界よ」
凛はサファイアを掲げたまま言った。
「……ねえ、穂村くん。最後にひとつだけ教えてあげる」
「……なに」
「令呪よ。それを使えば、セイバーを一瞬でここへ呼び戻せる。空間を飛び越えて、あんたの目の前に。……令呪っていうのはそういう奇跡を起こせるものなの」
灯也は右手の甲を見た。三本の線が赤く光っている。
「使わないの? それとも、使い方も知らない?」
「……知ってる。カレンさんに聞いた」
「じゃあ、使えば?」
灯也は右手を握りしめた。
——アルテラはどうしたい?
——私はサーヴァントだ。お前が戦えと言えば、戦う。
あの子は命令されれば、何でもする。来いと言えば、来る。消えろと言えば、消える。それが当たり前だと思っている。だから。
「……使わない」
「はあ!?」
「命令で呼びつけるのはなんかちがう気がするんだ」
灯也はふらつく足で、それでも凛をまっすぐに見た。
「アルテラには……来たいと思ったら、来てほしい」
凛はぽかんと口を開けた。それから、心底あきれた顔になった。
「……あんた、ほんっとうにばかなのね」
「よく言われる」
「褒めてないわよ!」
凛はサファイアを振りかぶった。
「いいわ。じゃあ、そのばかな頭、ちょっと冷やしてきなさい! ——Anfang(セット)!」
サファイアが砕けた。青い光が爆ぜ、そこから凍てつく奔流が噴きだした。
氷だ。夏の夜の空気が一瞬で凍りつく。石畳に霜が走り、白い冷気が津波のように灯也めがけて押しよせてくる。
灯也は目を閉じなかった。閉じるもんか、と思った。その目の前に。三色の光が降ってきた。
白いヴェールが灯也の視界をさえぎった。小さな背中が灯也と氷の奔流のあいだに立っていた。光の剣が一閃した。
氷の津波がまっぷたつに割れた。割れた氷はさらに細かく砕け、砕けて、砕けて——数えきれないほどの小さな氷の粒になって、夜空へ舞いあがった。
常夜灯の火がその粒のひとつひとつを照らした。境内いっぱいに光の粉が降っていた。夏の夜なのに、まるで星が降っているみたいだった。
灯也はその背中を見上げていた。
「……アルテラ」
アルテラは振りかえらなかった。凛から目を離さないまま、言った。
「下がっていろ、トウヤ」
ゆうべも同じ言葉を聞いた。あのときはマスター、と呼ばれた。今は名前だった。
「……どうして」
灯也の声はかすれていた。
「どうして戻ってきたんだ。俺、呼んでない」
「わからない」
アルテラは短く答えた。
「向こうの丘からお前の火が見えた。揺れていた」
それから、ほんの少しだけ間があった。
「……それが嫌だった」
凛はサファイアを握っていた手をゆっくりと下ろした。その手の中にはもう何も残っていなかった。十年分の魔力はきらきら光る粉になって、夜空に散ってしまった。
「……うそ」
凛はつぶやいた。
「令呪なしで戻ってきた……? 自分の意思で? 守るって発想のなかったあのセイバーが?」
ひゅうと風を切る音がして、凛の隣に白い衣の青年が降りたった。
「アーチャー! なんで戻って——」
「セイバーが戻りましたので」
アルジュナは短く答えた。その顔はいつもの穏やかな顔に戻っていた。ただ、凛は気づいた。アルジュナの横顔に、何かを無理やり押しこめたような硬い影が残っていることに。
——今はそれどころじゃないけれど。
境内の真ん中で四人が向かいあった。剣を構えるアルテラ。弓を引きしぼるアルジュナ。そのうしろにぼろぼろの灯也と、宝石を使い果たした凛。誰も動かなかった。常夜灯の火がぱちりと爆ぜた。
——そのとき。
「ヒヒーン!!」
夜空から馬のいななきが降ってきた。
四
全員がいっせいに空を見上げた。星空を背に、何かがものすごい勢いで急降下してくる。鷲の頭。鷲の翼。けれど、その下半身は馬だった。
鷲と馬をつなぎあわせたような、ありえない生き物。その背中にふたつの人影がしがみついている。
「とうちゃーく!! 今度こそ間に合ったよー!!」
「ライダー、ブレーキ! ブレーキー!」
「ブレーキってなにー!?」
どっかーんと。幻の馬は境内のど真ん中に盛大に墜落した。石畳がめくれあがり、手水舎の屋根が吹き飛んだ。ちょうど真ん中にいた四人は慌てて四方へ飛びのいた。
「て、手水舎がーっ!!」
灯也の悲鳴は誰にも聞いてもらえなかった。石段の下から「今度はなんじゃ、仕掛け花火か!?」という声がかすかに聞こえた。
もうもうと立ちこめる土煙の中からふたつの影が、げほげほと咳きこみながら這いだしてきた。
「いったたた……。ライダー、着地へたすぎ……」
「えへへ、ごめんねマスター! でも、間に合ったでしょ?」
ひとりは桃色の長い髪を三つ編みにした小柄な騎士。白と黒の衣装にマントをひるがえして、ぴょんと跳ねるように立ちあがる。
もうひとりはひょろりと背の高い金髪の青年だった。ぼさぼさの頭に、好奇心のかたまりみたいな大きな目。灯也より少し年上だろうか。
青年は土煙の向こうの面々を見わたすと、ぱあっと顔を輝かせた。
「うわあ! セイバーだ! アーチャーだ! それに、マスターがふたり! すごいすごい、本物の聖杯戦争だ!」
青年は満面の笑みで灯也に右手を差しだした。
「はじめまして! フラット・エスカルドスです! 握手してください!」
「え……あ、はい」
灯也は思わず握手した。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
凛が土煙を手で払いながら叫んだ。
「フラット・エスカルドス!? まさかエルメロイ教室のあの問題児!?」
「わあ、僕のこと知ってるの!? うれしいなあ!」
「褒めてないわよ! 時計塔じゃ有名なのよ、あんた! 他人の魔術式をのぞき見して勝手に書きかええたとか、講義中に結界を三つ壊したとか……!」
「四つだよ!」
「訂正するとこそこ!?」
桃色の髪の騎士がぴょこんと前に出た。
「それでね、それでね、こっちがボク!」
「僕のライダー! アストルフォ! シャルルマーニュ十二勇士の!」
フラットが誇らしげに紹介した。しんと境内が静まりかえった。
「……真名を言うなああああっ!!」
凛の絶叫が夜の山に響きわたった。
「え、言っちゃだめなの?」
「だめに決まってるでしょ! なんなの、この町のマスターは!? ばかしかいないの!?」
凛は頭を抱えてしゃがみこんだ。灯也はちょっとだけ凛に同情した。
アストルフォはくるりと振りかえると、剣を構えたままのアルテラを見つけて、目を輝かせた。
「わあ、セイバーちゃんだ! その剣、きれいだねえ! 虹色!」
「……三色だ」
「かわいー!」
アストルフォはためらいもなくアルテラに抱きついた。アルテラが固まった。
「離れろ」
「やだー」
「壊すぞ」
「こわーい! でも、かわいい!」
アルテラの剣の光がちかちかと明滅した。どうしていいのかわからないらしかった。灯也はそんなアルテラをはじめて見た。
ふと見ると、アルジュナも弓を引いたまま、どこに狙いを定めればいいのかわからない顔をしていた。
「……マスター。この状況はどう判断すればよろしいでしょうか」
「わたしに聞かないでよ!」
「ねえねえ、みんなで仲良くしようよ!」
フラットが両手を広げて言った。
「聖杯戦争って、全員と殺しあわなきゃいけないって決まりはないんでしょ? みんなで協力して、最後はじゃんけんで決めればいいじゃない!」
「いいわけないでしょ!」
「あ、それ、いいかも」
「あんたまで乗らないで!」
凛は灯也をにらみつけた。
五
凛は深々と、深々とため息をついた。
「……アーチャー、弓を下ろして。今夜はもうおしまい」
「よろしいのですか」
「よろしくないわよ。でも、宝石は使い果たしたし、ライダーまで来ちゃったし。それに——」
凛はちらりとアルジュナの横顔を見た。
「……あんたも今夜は本調子じゃないみたいだし」
アルジュナは何も答えなかった。凛はその沈黙をじっと見つめた。それから、ふいと目をそらした。今は聞かない、と決めたように。
「穂村くん」
凛は灯也の前に立った。腕を組み、ぷいと横を向いたまま。
「取引しましょう」
「取引?」
「わたしがあんたに魔術の基礎を教えてあげる。回路の開け閉め。魔力の扱い。最低限、自分の魔力で自滅しない程度にはね」
灯也は目を丸くした。
「……なんで?」
「勘違いしないでよね。あんたみたいなのが魔力をだだ漏れにして町をうろうろしてたら、迷惑なのよ。目立つし、狙われるし、巻きこまれる一般人だって出る。この町で好き勝手されるのは遠坂として見過ごせないの」
凛は早口でまくしたてた。
「そのかわり、条件がふたつ。ひとつ、あんたのご先祖の日記をわたしに読ませること。ふたつ、ランサーのマスターについて知ってることをぜんぶ話すこと」
「……それだけ?」
「それだけで十分よ。……それから、これはあくまで休戦。ランサーの件が片づいたら、そのときはあらためて正々堂々とたたきのめしてあげるから。覚悟しときなさい」
灯也はゆうべのことを話した。鳥居の上に座っていた青いワンピースの少女のこと。自分より年下に見えたこと。
灯也の名前をなぜか知っていたこと。白い髪の槍兵が彼女をマスターと呼んでいたこと。そして、カレンが言っていたこと。
——悪魔ですらない何か。
凛は黙って聞いていた。話が終わると、凛は細い指を顎にあてて、しばらく考えこんだ。
「……わかったわ。そいつのことは、わたしも調べてみる」
その声はさっきまでよりずっと低かった。凛の隣でアルジュナがほんのわずかに目を伏せた。白い髪の槍兵、という言葉が出たときに。
凛は今度はそれを見逃さなかった。けれど、何も言わなかった。
「それで、授業のことだけど」
凛はぱんと手をたたいて、空気を切り替えた。
「明日から毎朝六時。この境内に集合。遅刻したらガンドね」
「夏休みなのに!?」
「聖杯戦争に夏休みなんてないの! ……ああ、それと。あんた、ガンドが一発かすってるから、明日はたぶん熱が出るわよ」
「えっ」
「授業は休ませないけど」
「鬼だ……」
「はいはいはい! 僕も! 僕も授業受けたい!」
フラットが元気よく手を挙げた。
「あんたは受ける側じゃなくて、どう考えても教える側の人間でしょうが! ……っていうか、そもそもなんで参戦してるのよ」
「楽しそうだったから!」
「…………」
凛はもう何も言わなかった。フラットは気にした様子もなく、灯也の顔をのぞきこんだ。それから、灯也の背中のあたりをじいっと見つめた。
「わあ……。きみの回路、すごいね。ほとんどぜんぶ、開きっぱなしだ」
「わ、わかるの?」
「うん、見ればわかるよ。……ふうん。閉じ方がわからないんじゃなくて、閉じるための『形』がまだないんだね。さっきの火の輪、きれいだったなあ。あれ、きみの家の魔術の形でしょ? あの形に合わせて回路を組みなおせば、きっと閉じられるようになるよ」
灯也はぽかんとした。凛がものすごく嫌そうな顔をした。
「……くやしいけど、たぶんそいつの言うとおりよ」
「でしょ?」
「得意げにしないで!」
「それでね、相談なんだけど」
フラットは灯也に向きなおって、えへへと頭をかいた。
「僕たち、今夜から泊まるところがなくて。ホテル代、初日で使いきっちゃったんだ」
「初日で!?」
「ライダーがホテルのルームサービス、メニューの上から下までぜんぶ頼んじゃって」
「だって、おいしそうだったんだもん!」
「……計画性ゼロか」
凛が地の底から響くような声で言った。灯也は境内を見まわした。瓦のはがれた拝殿。格子戸の折れた本殿。窓ガラスの割れた社務所。
灯籠の笠はいくつも落ち、石畳には焼け焦げた溝と、えぐれた穴と、霜の跡。それから、たった今、屋根が吹き飛んだ手水舎。
「……社務所、窓ガラスぜんぶ割れてるけど。それでもいいなら」
「いいの!?」
叫んだのはフラットではなく、凛だった。
「やったー!」
「わーい! 風通しよさそう!」
フラットとアストルフォが手を取りあって跳ねまわった。
「ちょっと穂村くん! あいつら、敵のマスターとサーヴァントなのよ!? 寝首をかかれたらどうするの!」
「でも、寝るとこないって言ってるし……」
「お人好しにもほどがあるでしょ!」
凛の抗議は夜風に吹かれて、むなしく消えていった。
六
夜更け。社務所からはフラットとアストルフォの底抜けに楽しそうな話し声が、まだ聞こえていた。凛とアルジュナは「明日の朝六時よ!
一秒でも遅れたらガンドだからね!」と言い残して、石段を降りていった。灯也は常夜灯の前に座りこんでいた。
回路はまだ熱かった。指先はまだ冷たかった。体じゅうがひどい筋肉痛みたいに痛む。左腕はまだ重い。隣にアルテラが座った。しばらくふたりとも黙っていた。
「……トウヤ」
「ん?」
「なぜ令呪を使わなかった」
灯也は少しおどろいて、アルテラを見た。
「聞こえてたの?」
「聞こえてはいない。だが、あの女が言っていた。令呪なしで戻ってきた、と」
アルテラは紅い瞳で灯也を見た。
「使えば、私はすぐに戻った。お前は傷つかずにすんだ」
「うん。……でも、命令したくなかったんだ」
灯也は常夜灯の火を見上げた。
「アルテラが来たいと思ったら、来てほしかった。来たくなかったら……まあ、そのときはそのときで」
「来たいと思ったのかはわからない」
アルテラは正直に言った。
「でも、来てくれた」
「……ああ」
アルテラは少しだけ黙った。
「お前の火が揺れているのを見て、嫌だと思った。……私は壊すものを前にして、背を向けたことがない。一度もない。今夜がはじめてだ」
アルテラは自分の手のひらを見下ろした。そこに何かが載っているかのように。
「これが何なのか、私にはわからない」
灯也は何も言わなかった。何か言ったら、それが壊れてしまいそうな気がした。かわりに、灯也は言った。
「……ありがと、アルテラ」
「礼はいらない」
アルテラはいつもと同じように答えた。それでも、その夜、アルテラは夜が明けるまで常夜灯の小さな火のそばを離れなかった。
同じころ。谷を挟んだ別の丘の上で銀色の髪の少女が、山の上の神社の灯りを眺めていた。
「セイバーに、アーチャーに、ライダー」
少女——イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、細い指を折って数えた。
「ふうん。にぎやかね、フラン」
「ウ……」
隣で花嫁衣装の少女がこくりとうなずいた。イリヤはくすりと笑った。星明かりの中でその赤い瞳が楽しそうに細められた。
「ねえ、フラン。明日、会いに行ってみよっか」
「……ウ?」
「あのセイバーのお兄さんに。……ちゃんとごあいさつしなくちゃね」