Fate/Starfall Harbor   作:mecono

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第三話 露草と雷

一

「三十八度二分」

 

 体温計の数字を読みあげて、灯也は布団の上にひっくり返った。

 

「……ほんとに出た」

 

 凛の予言どおりだった。ガンドのかすった左肩から先は、まだ鉛を詰めたように重い。そのうえ、全身がぼんやりと熱っぽい。

 

 熱っぽいのに、背中の回路だけは相変わらずじりじりと熱を外へこぼしつづけている。枕もとの目覚まし時計は五時五十分を指していた。

 

 境内に出ると、朝の光の中にアルテラが座っていた。崖っぷちの常夜灯の下。Tシャツ姿で膝を抱えて、ゆうべとまったく同じ格好のまま。灯籠の火は油が尽きて、もう消えていた。

 

「……ほんとに朝までいたんだ」

 

「いた」

 

 アルテラは灯也を見上げて、少しだけ眉を寄せた。

 

「お前の魔力がいつもより熱い」

 

「熱があるんだよ。ガンドのせいで」

 

「壊すか。あの女を」

 

「だめだって」

 

 六時を十五分過ぎた。石段の下から足音が聞こえてきた。ゆっくりと、ひどく重たげに、一段ずつ。石段の上に現れた凛を見て、灯也は一瞬、誰だかわからなかった。

 

 ふたつに結った黒髪は片方だけほどけかけている。目は半分しか開いていない。赤いブラウスのボタンがひとつずつずれていた。

 

「……おはよ」

 

 地の底から響くような声だった。

 

「……遅刻」

 

「………………」

 

 凛は半分しか開いていない目で灯也をにらんだ。

 

「……教える側はいいの」

 

「マスターを起こすのに、四十分かかりました」

 

 凛の背後に白い衣のアルジュナが実体化した。いつもどおりの穏やかな顔だった。

 

「目覚まし時計を三つ。それから、私が十回ほどお呼びして」

 

「アーチャー!!」

 

 凛の目が一瞬だけくわっと開いた。それから、また半分に戻った。

 

「……朝は苦手なのよ。悪い?」

 

 自分で六時って言ったくせに、と灯也は思ったが、口には出さなかった。ガンドが怖かった。

 

 凛の目が常夜灯の下のアルテラに向いた。アルテラは膝を抱えたまま、凛を見ている。いつでも立ちあがれる姿勢で。

 

「……あんた、ほんと変なサーヴァントね。ねえ、セイバー。ゆうべは聞きそびれたけど、あんた、いったいどこの英霊なのよ」

 

「フンヌの大王だ」

 

 アルテラはこともなげに答えた。凛が固まった。五秒くらい固まっていた。

 

「……フンヌの大王?」

 

「そうだ」

 

「……アッティラ!? 『神の鞭』!? ヨーロッパじゅうを震えあがらせた、あのアッティラ・ザ・フン!?」

 

「そう呼ばれていたこともある」

 

「しかも、女の子!?」

 

「女で、何か問題があるか」

 

「ないけど! ないけど!」

 

 凛は頭を抱えてしゃがみこんだ。今度こそ完全に目が覚めたらしかった。

 

「……なんなの、この主従。マスターもサーヴァントも、真名を晩ごはんの献立みたいに……」

 

「アッティラって?」

 

 灯也だけがきょとんとしていた。凛はしゃがんだまま、心の底からあわれむような目で灯也を見上げた。

 

「……あんた、世界史の授業、寝てたでしょ」

 

「……ちょっとだけ」

 

「授業その五。……きのうの続き。回路の閉じ方」

 

 凛は立ちあがって、こほんと咳払いをした。ポケットから取りだしたのは、小指の先ほどの透明な石だった。

 

「今日はルビーもサファイアもなし。ただの水晶よ。……きのうだけでいくら飛んだと思ってるの」

 

「……ごめん」

 

「あんたに謝られても、宝石は戻ってこないの!」

 

 凛は水晶を灯也の胸の前にかざした。透明な石がぼうっと光りはじめた。ろうそくの火くらいの淡い光だった。

 

「これはまわりの魔力を吸って光る石。あんたがこぼしてる魔力だけで、ほら、これだけ光る。……この光が消えたら、合格」

 

 凛はため息をついた。

 

「いい? 魔術師が呪文を唱えるとき話しかけてる相手は、世界じゃない。自分よ。言葉は自分の中のスイッチを入れるための合図。撃鉄を落とすとか、ナイフを刺すとか人によってイメージはちがうけど、みんな自分だけのスイッチを持ってる」

 

「遠坂さんのは?」

 

「秘密」

 

 即答だった。

 

「あんたの場合は、『灯れ』がそのスイッチ。……ただし、あんたのはスイッチじゃなくて、水門をハンマーでぶち壊したみたいになってる。開いたきり、閉まらない」

 

 灯也は背中に意識を向けた。開きっぱなしの何十本もの回路から熱が、じわじわと外へにじみ出ている。熱のせいでけさはいっそう、はっきりとわかった。

 

「きのうあの金髪の問題児が言ってたでしょ。閉じるための『形』がないって。……くやしいけど、わたしも同じ意見」

 

 凛は指先で宙に円を描いた。

 

「あんたの家の術は灯れ、巡れ、守れ。火を起こして、輪にして、その輪で守る。……輪っていうのはね、閉じた形なの。始まりと終わりがつながってる」

 

「……閉じた形」

 

「こぼれてる魔力を外に撃ちだすんじゃなくて、体の中でぐるっと一周させてみなさい。おばあさんの守り火をあんたの中に描くのよ」

 

 それから、凛はちらりとアルテラを見た。

 

「もうひとつ。あんたの魔力は、セイバーとつながってる道——パスにも流れてる。あんたがだだ漏れのままだと、そっちの流れもがたがたになるの。きのうセイバーがあんたの『揺れ』に気づいたのも、たぶんそのせいよ」

 

 アルテラは黙って灯也を見ていた。

 

 灯也は目を閉じた。背骨の奥のばらばらの熱を探す。それを輪にする。本殿のまわりを回っていた、祖母の火の輪のように。

 

「……巡れ」

 

 ぼんっ。背中から火の粉が噴きだした。

 

「あっつ!?」

 

 灯也は石畳の上を転げまわった。前髪がまたちょっと焦げた。

 

「力みすぎ。輪にしろって言ってるのに、また外に押しだしてどうすんの」

 

「熱で頭がぼーっとするんだよ……」

 

「言い訳しない。もう一回」

 

 二回目もだめだった。三回目も。四回目の前に石段の下の公園からラジオ体操の音楽が聞こえてきた。子どもたちの声に混じって、ひときわ元気な声がする。

 

「いっち、にっ、さん、しっ! ねえねえ、これ、ハンコもらえるのー!?」

 

 アストルフォだった。いつのまに抜けだしたのか、町内の子どもたちに混じって、両手を振りまわしているらしい。

 

「……あいつ、何やってんの」

 

「ラジオ体操……」

 

「見ればわかるわよ!」

 

 灯也はくすっと笑った。笑ったら、肩の力が少しだけ抜けた。

 

 もう一度、目を閉じる。今度は押しださない。ただ、思い描く。祖母の火の輪が回っていた、あの速さを。急がず、止まらず、ぐるり、ぐるりと。

 

 背中からこぼれていく熱をそっとすくいあげて、輪の流れに乗せる。背骨をのぼって、肩をまわって、腕をくだって、胸に戻ってくる。

 

「……巡れ」

 

 ささやくように言った。ふっと。背中が静かになった。

 

 ずっと鳴りつづけていた耳ざわりな音が、急に止まったみたいだった。こぼれていた熱が外へ出ていかずに、体の中をゆっくりと回っている。

 

「……あ」

 

 凛の手の中で水晶の光がすうっと消えていた。凛の目が見ひらかれた。

 

「今……止まった」

 

 一秒。二秒。三秒。四秒目で輪がほどけた。熱がどっとあふれだして、水晶がまたぼうっと光った。灯也は膝から崩れて、石畳に仰向けにひっくり返った。朝の空がまぶしかった。

 

「……できた? 今の、できてた?」

 

「……三秒だけね」

 

 凛は腕を組んで、そっぽを向いた。でも、その口もとはほんの少しだけゆるんでいた。

 

「すごいすごい!」

 

 社務所の割れた窓からフラットが身を乗りだしていた。寝ぐせだらけの頭で目をきらきらさせている。

 

「今の、すっごくきれいだった! 回路がちゃんと輪っかになってたよ! ねえ、あとでじっくり見せて! 写させて!」

 

「人の術式を勝手に写すんじゃない!」

 

 凛がすかさず怒鳴った。灯也は仰向けのまま首だけ動かした。常夜灯の下でアルテラが灯也を見ていた。

 

「トウヤ。今お前の魔力が静かになった」

 

 アルテラは少しだけ首をかしげた。

 

「いつもはうるさい」

 

「……うるさいって」

 

二

 蔵の中はひんやりとして、ほこりと古い紙の匂いがした。

 

 灯也はいちばん奥の長持のふたを開けた。古い祭具や、色あせた幟や、虫に食われた装束をひとつずつ取りだしていく。凛がうしろからそわそわとのぞきこんでいた。

 

 アルテラは蔵の戸口に立って、外を見ていた。中には入ってこない。見張りのつもりらしかった。

 

 長持の底に油紙に包まれた紐綴じの帳面が、何冊も重ねてあった。表紙には墨で『社務日記』とある。

 

 凛がひったくるように一冊を手に取って、ぱらりとめくった。それから、固まった。

 

「……読めない」

 

 中は、ミミズがのたくったようなくずし字でびっしりと埋まっていた。

 

「ラテン語なら読めるのに……ドイツ語も、ギリシャ語も読めるのに……!」

 

「貸して。俺、たぶん読める」

 

「は?」

 

「ばあちゃんに小さいころから読まされてたんだ。神社の古い記録とか、祝詞とか」

 

 灯也は帳面を受けとって、指で行をたどった。

 

「日付は……だいたい二百年前だな。『異国の術を修めし三家の方々、来たる』」

 

 凛がぽかんと口を開けた。

 

「……意外な特技ね」

 

「授業料はかき氷一杯でいいよ」

 

「…………覚えときなさいよ」

 

「『遠坂永人殿。西洋の術を修めし、冬木の御仁なり』」

 

「……永人」

 

 凛が小さくつぶやいた。

 

「遠坂の初代よ。……こんなところに名前が残ってたなんて」

 

 その声は少しだけふるえていた。

 

「ばあちゃん、異国の魔術師が三人って言ってたけど」

 

「遠坂は異国じゃないわよ。失礼しちゃう」

 

 凛はぷいと横を向いた。それでも、目は帳面の上の名前から離れなかった。

 

「『マキリ・ゾォルケン殿。北の国より来たる。眼光するどく、物言いすくなし』」

 

「マキリは今は間桐って名乗ってる家よ」

 

 凛はそれだけ言った。その顔を一瞬何かがよぎったように見えたが、灯也がそれを確かめる前に、凛は「次」と短くうながした。

 

 そのページには絵が描かれていた。墨一色の細い線。長い髪の女の人がこちらを向いて静かに立っている。目もとにだけ紅でほんの少し色がさしてあった。

 

「『ユスティーツァ殿。アインツベルンと申す家の女人なり。その御姿、雪のごとく白く、眼は紅玉のごとし。この世のものとも思われず。あまりに美しきゆえ、ここに写し置く』」

 

「……ご先祖、何やってんの」

 

「見とれてたんだろうな……」

 

 ふたりはしばらく黙ってその絵を見ていた。

 

「アインツベルンの魔術師は、みんなこういう顔をしてるって聞いたことがある」

 

 凛がぽつりと言った。

 

「雪みたいな髪に、赤い目。……この戦争にもきっと来てるはずよ。アインツベルンが、自分たちの作ったものを放っておくわけないもの」

 

 凛は灯也の顔を見た。

 

「白い髪の子を見かけたら、気をつけなさい」

 

「『杯は星の落ちたる海の底に据えらる』」

 

 灯也が読みあげると、凛が息をのんだ。

 

「海の底……湾の底ってこと?」

 

 灯也はあの夜を思いだした。町じゅうの灯りがいっせいにまたたいた夜。湾の真ん中で海が一瞬だけ内側から白く光った。

 

「なあ、遠坂さん。杯って、結局なんなんだ」

 

 凛は少し迷うような顔をしてから、帳面の上に指を置いた。

 

「授業その六。……遠坂の家の古い記録に一行だけあるの。『瀬戸内ニ予備ノ炉ヲ置ク。地脈荒ク、之ヲ封ズ』」

 

「予備の炉?」

 

「予備炉(よびろ)。二百年前、三つの家は願いを叶える大きな仕掛けを作ろうとした。本命は冬木っていう町に作られた。……でも、その前にここでもうひとつ試しに作ってたのよ。地脈が荒れすぎてて使えないって封印された試作品。それが今、目を覚ましてる」

 

「それが……聖杯?」

 

「そう。この戦争の景品」

 

 凛は湾のほうを見るように、蔵の壁を見た。

 

「記録には場所なんてどこにも書いてなかった。まさか湾の底だなんて」

 

「まだ続きがある」

 

 灯也は次の行を指でたどって、それから、声を落とした。

 

「『マキリ殿、夜ごと浜に出で、海の底に耳を寄するがごとくして笑いたまう。曰く——この星はまだ生きておる』」

 

 蔵の中がしんとした。外で蝉が鳴きはじめた。

 

「……生きてる? 星が?」

 

 凛の声がかすれていた。灯也は答えられなかった。召喚の夜に見たものがまぶたの裏をよぎった。燃えあがる空。煮えたぎる海。その空と海のすべてを覆いつくすほどに巨大な、白い何か。

 

 戸口のアルテラがこちらを振りかえっていた。紅い瞳が帳面をじっと見ていた。

 

「『されど、この地の杯は星を呼ぶ』」

 

 最後の一行を、灯也はほとんど声に出さずに読んだ。

 

 凛はしばらく何も言わなかった。それから、帳面を灯也に返して、立ちあがった。

 

「わたしはランサーのマスターを調べに行く。それから、湾も。……穂村くん、あんたは寝てなさい。熱があるんでしょ」

 

「授業は休ませないって言ってたのに?」

 

「明日の朝ちゃんと起きられるように寝てなさいって言ってるの!」

 

 凛は蔵を出ていきかけて、戸口で一度だけ振りかえった。

 

「それと。白い髪の子のこと忘れないでよ」

 

 寝ていなさいと言われたけれど、昼前には灯也は病院へ向かっていた。祖母に着替えを届ける約束をしていたのだ。

 

 境内ではフラットとアストルフォが手水舎の屋根を直すと言って、何かを組み立てていた。直しているのか、もっと壊しているのか灯也にはよくわからなかった。

 

三

 市民病院の白い廊下でアルテラのTシャツの「祝・暁浜大橋開通」の文字は、いやに目立っていた。

 

 祖母の病室の前まで来たとき、中から笑い声が聞こえた。祖母の声と、もうひとつ。鈴を転がすような、女の子の声。灯也は扉を開けた。

 

 ベッドの脇の丸椅子に小さな女の子が座っていた。白いワンピース。膝の上にはつばの広い麦わら帽子。腰まで届く長い銀色の髪。床に届かない足をぶらぶらと揺らしている。

 

 女の子が振りかえった。紅い瞳だった。灯也の足が止まった。

 

 ——雪のごとく白く、眼は紅玉のごとし。

 

 けさ、蔵で見た絵の女の人がそのまま小さくなって、そこに座っていた。

 

 窓際にはもうひとりいた。背の高い少女だった。真っ白な花嫁衣装を着ている。長いヴェールが背中に流れ、前髪が目もとをすっかり隠していた。

 

 その額から一本、金属の角のようなものが突きだしている。花嫁衣装の少女は、窓際のコップに青い小さな花を一本ずつていねいに挿していた。

 

 気がつくと、アルテラが灯也の前に立っていた。灯也と、銀色の髪の女の子とのあいだに。何も言わずにすっと。

 

 ——きのうの昼までのアルテラなら、きっとしなかったことだった。

 

「おお、灯也。ちょうどええとこに来た」

 

 祖母が包帯を巻いていないほうの手を振った。

 

「あんたのお友だちじゃいうて、このお嬢さんらがお見舞いに来てくれたんよ。お花まで持って」

 

「……友だち?」

 

「こんにちは、セイバーのお兄さん」

 

 銀色の髪の女の子はにっこりと笑った。それから、ぴょんと椅子から降りると、ワンピースの裾をちょこんとつまんでお辞儀をした。お姫さまみたいな、きれいなお辞儀だった。

 

「はじめまして。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンよ。イリヤって呼んでいいわ」

 

 アインツベルン。

 

 ——白い髪の子を見かけたら、気をつけなさい。

 

「それから、この子はフラン。……わたしのお友だち」

 

 窓際の花嫁衣装の少女がこちらを向いて、こくりと頭を下げた。

 

「ウ」

 

「ランサーのせいでおばあさまが怪我したんでしょ?」

 

 イリヤはこともなげに言った。祖母の前で平気で。

 

「フランがね、お見舞いに行きたいって言うから、来てあげたの。お花も、フランが摘んだのよ。来る途中の川の土手で」

 

 窓際でフランがもじもじと指をからめていた。灯也は言葉が出なかった。

 

 この子はぜんぶ知っている。祖母が誰に怪我をさせられたのかも、灯也がセイバーのマスターだということも、この病室の場所も。

 

 窓の外の木の枝に銀色の小さな鳥がとまっていた。針金細工のような、ふしぎな鳥だった。鳥は首をかしげて、病室の中をのぞきこんでいた。

 

 灯也は祖母を見た。祖母はにこにこしていた。何もわかっていないような顔で。……いや。この祖母が何もわかっていないはずがない。

 

「ほれ、イリヤちゃん。飴ちゃん食べるかね」

 

 祖母が枕もとの缶をかしゃかしゃと振った。昔からある、四角いドロップの缶だった。イリヤがきょとんとした。

 

「……くれるの?」

 

「ほうよ」

 

 祖母は、缶から赤い飴をひとつイリヤの手のひらに落とした。

 

 イリヤは、手のひらの上の小さな赤い粒をしばらく見つめていた。生まれてはじめて見るものみたいに。それから、そっと口に入れた。

 

「……あまい」

 

「いちごじゃけえね」

 

 祖母が笑った。イリヤは頬をふくらませたまま、何も言わなかった。ただ、その紅い瞳が少しだけまるくなっていた。

 

「ねえ、お兄さん。わたしのこと小学生だと思ってるでしょ」

 

「え……ちがうの?」

 

「失礼ね。わたし、お兄さんより年上なんだから」

 

「うそだろ!?」

 

「ほんとよ。……でも、『お兄さん』って呼ぶの。そのほうがかわいいでしょ?」

 

 イリヤはくすくすと笑った。

 

 窓際でフランが小さく声をもらした。

 

「ウ……」

 

 コップの中の青い花がしぼみかけていた。ついさっきまでぴんと開いていたはずの花びらが、くしゃりと縮んで閉じようとしている。

 

「あーあ。もうしぼんじゃった」

 

 イリヤが帽子をくるくる回しながら言った。

 

「露草(つゆくさ)はね、朝しか咲かないのよ。お昼にはもうおしまい」

 

 紅い瞳が、しぼんでいく花を見ていた。

 

「……きれいなものほど、すぐに壊れちゃうの」

 

 その声だけ、さっきまでとは少しちがって聞こえた。祖母がベッドの上でふうんと鼻を鳴らした。

 

「ほうじゃのう。露草は一日きりの花じゃ」

 

 祖母はコップの花を見た。

 

「じゃけど、明日の朝になったら、また別の花が咲くんよ。毎朝、毎朝。一日きりの花を毎日毎日、咲かせよる。……わしはそれが好きでのう」

 

 イリヤが祖母を見た。

 

「……それ、同じ花じゃないじゃない」

 

「ほうよ。同じ花じゃない」

 

 祖母はうなずいた。

 

「じゃけど、咲いとるじゃろう?」

 

 イリヤは何か言いかけて、口を閉じた。口の中で飴がからりと鳴った。

 

 フランが、コップからまだ少しだけ開いている一本を抜きとった。すたすたと歩いてきて、アルテラの前で止まる。そして、花を差しだした。アルテラはその青い花を見下ろした。

 

「……なんだ、これは」

 

「ウ」

 

 フランが花をぐいと突きだした。

 

「くれるって」

 

 灯也が小声で言った。

 

「……私にか」

 

「うん。もらっていいんだよ」

 

 アルテラはしばらく動かなかった。それから、親指と人さし指の先だけでものすごくゆっくりと花の茎をつまんだ。剣を握るときとはまるでちがう手つきだった。

 

「……小さい。壊れそうだ」

 

「壊さないように持てばいいんだよ」

 

「……難しいことを言う」

 

 アルテラは真剣な顔で花を見つめていた。息をするのも、ためらっているみたいだった。フランが、前髪の奥でほんの少しだけ笑ったような気がした。

 

 帰りぎわ、イリヤは祖母のベッドの前でもう一度お辞儀をした。

 

「ばいばい、おばあさま。飴ありがとう」

 

「またおいでね」

 

 祖母が手を振ると、イリヤは一瞬だけ困ったような顔をした。それから、戸口で灯也とすれちがった。すれちがいざまに背伸びをして、灯也の耳もとでささやいた。

 

「今夜、港の倉庫のところで待ってるわ。セイバーも、ちゃんと連れてきてね」

 

「……来なかったら?」

 

 イリヤはにっこりと笑った。天使みたいな顔だった。

 

「来なかったら——さみしいから、またおばあさまに会いに来ちゃうかも」

 

 灯也の背中を、冷たいものが伝い落ちた。白いワンピースと花嫁衣装の背中が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。

 

「トウヤ」

 

 アルテラが指先に花をつまんだまま言った。

 

「あの娘も、あのサーヴァントも作られたものだ」

 

「作られた……?」

 

「人の手で。何かのために」

 

 アルテラは閉じかけた露草を見下ろした。

 

「私と同じ匂いがする」

 

「灯也」

 

 祖母が呼んだ。さっきまでのにこにこ顔はどこにもなかった。

 

「あの子……さみしい子じゃのう」

 

「……ばあちゃん、わかってたの」

 

「わしをなんじゃと思うとるんね」

 

 祖母はふんと鼻を鳴らした。

 

「あの子の手は冷とうて、子どもの手じゃなかった。ずうっとひとりで何かを我慢しとる手じゃった」

 

 祖母はドロップの缶を振って、もうひとつ赤い飴を取りだした。

 

「これ持っていきんさい。あの子に」

 

「え?」

 

「あの子、缶ばっかり見よったけえ」

 

 灯也は手のひらの上の赤い飴を見つめた。それから、それをポケットにしまった。

 

四

 昼下がりの川の土手を、イリヤはゆっくりと歩いていた。

 

 フランが黒い日傘をイリヤの頭の上にさしかけている。花嫁衣装に、日傘。すれちがう人がみんな振りかえった。口の中の飴はもう半分くらいに小さくなっていた。

 

「……ねえ、フラン。おじいさまはね、言ったの。『星の鍵から出たサーヴァントを確かめよ。使えるものなら、奪ってこい』って」

 

 イリヤは空を見上げた。

 

「おじいさまはいつもそういう言い方しかしないの。確かめろ。奪ってこい。壊してこい。……アインツベルンの最高傑作なんだから、できて当たり前でしょうって」

 

 土手の草むらに露草が群れていた。どの花ももうくしゃりとしぼんで閉じていた。フランが足を止めて、それを見下ろした。

 

「ウ……」

 

「……明日の朝また咲くんだって」

 

 口にしてから、イリヤは少しびっくりした。どうしてそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。

 

「……ばかみたい。同じ花じゃないのに」

 

 イリヤはぷいと前を向いた。

 

「フラン。今夜は本気でやるのよ」

 

 フランは日傘をさしかけたまま、しばらくイリヤの横顔を見ていた。

 

「……ウ」

 

「わたしにはそんなに時間がないんだから」

 

 その声は川風にまぎれて、フランにしか聞こえなかった。

 

 夜。出かける前に、灯也は常夜灯に火を入れた。いつもより少しだけ油を多めに足して。

 

「灯れ」

 

 今度は松明みたいにはならなかった。少し大きいけれど、火はちゃんと灯芯の上でおとなしく燃えている。

 

 凛には言わなかった。言ったら、きっとガンドが飛んでくる。かわりに、社務所の戸をたたいた。

 

「フラット、アストルフォ。……頼みがあるんだ」

 

 事情を話すと、フラットは二つ返事でうなずいた。

 

「いいよ! おばあちゃんの病院を見張ってればいいんだね!」

 

「おばあちゃんは、ボクとヒポグリフが守るよ! まっかせて!」

 

「……ヒポグリフは目立つから、なるべく出さないで」

 

「えー」

 

 アストルフォは唇をとがらせて、それから、ふいに真面目な顔になった。

 

「トウヤくんはひとりで行くの?」

 

「ひとりじゃないよ」

 

 灯也は隣を見た。アルテラがそこに立っていた。

 

 石段を降りる前に、アルテラが灯也の前に手を差しだした。指先にあの露草がつままれていた。病院からずっとアルテラはそれを持ちつづけていたのだ。花はもうすっかり閉じていた。

 

「持っていろ」

 

「え?」

 

「私が持つと、壊れる。……戦えば、必ず」

 

 灯也は花を受けとって、シャツの胸ポケットにそっと入れた。

 

「わかった。預かっとく」

 

 暁浜港のコンテナヤード。夜の十時を少し過ぎていた。赤、青、緑、黄色。色とりどりのコンテナが、巨大な積み木のように何段も積みあげられている。

 

 そのあいだを、迷路のような通路が縫っていた。岸壁にはキリンの首みたいなガントリークレーンが何台も並んで、赤い航空灯を瞬かせている。橙色の街灯が岸壁に沿って点々と続いていた。

 

 暗い海の向こうでは暁浜大橋のライトアップが、光の弧を描いている。灯也は振りかえった。背後の山の上に小さな橙色の灯りがひとつ。

 

 常夜灯だった。まだ灯台も電気もなかった時代、あの火を目印にして、船はこの港へ帰ってきたのだという。

 

「こんばんは、お兄さん」

 

 頭の上から声が降ってきた。五段に積みあげられたコンテナのてっぺんにイリヤが座っていた。昼間と同じ白いワンピース。夜風に銀色の髪がなびいている。

 

「ちゃんと来てくれたのね。うれしいな」

 

「……ばあちゃんには手を出すな」

 

「それはお兄さん次第よ」

 

 イリヤはくすっと笑った。コンテナの下の暗がりからフランがゆっくりと歩みでた。昼間とはまるでちがっていた。

 

 手にはひと抱えもある無骨な鉄の槌。その先端から避雷針のような細い枝が、何本も突きだしている。枝の先でちり、ちりと、緑がかった白い火花が爆ぜていた。前髪の奥で何かが光っていた。

 

 イリヤが立ちあがった。ワンピースの裾が夜風にひるがえる。

 

「アインツベルンのマスターとしてセイバーを確かめさせてもらうわ。星の鍵から出てきたサーヴァントがどれくらいのものか」

 

 紅い瞳がすうっと細くなった。昼間、飴をなめていた女の子はもうどこにもいなかった。

 

「——やっちゃえ、フラン!」

 

五

 フランが地面を蹴った。速い。あの細い体のどこにそんな力があるのか。踏みこんだ足もとのアスファルトが、蜘蛛の巣のようにひび割れる。

 

 振りかぶられた鉄の槌が、唸りをあげてアルテラにたたきつけられた。光が走った。Tシャツ姿の少女が、一瞬で白いヴェールの戦装束に変わる。三色の光の剣が槌を受けとめた。轟音。

 

 衝撃が波のように広がった。アルテラの足がアスファルトを削りながら、何メートルもうしろへ押し戻される。背後に積まれていたコンテナの列が、端から順にドミノのように倒れていった。

 

「重い」

 

 アルテラが短く言った。

 

「当然よ」

 

 コンテナの上でイリヤが胸をはった。

 

「フランはバーサーカーだもの。力比べで負けるわけないわ」

 

 フランが鉄の槌を高々と掲げた。ぶうんと。港じゅうの空気が低く唸った。

 

 岸壁のガントリークレーンの赤い航空灯がふっと消えた。一台、また一台。橙色の街灯が遠いほうから順番に消えていく。誰かが端からろうそくを吹き消していくみたいに。

 

 消えた灯りの光が、すべてフランの槌へと吸いこまれていくのが見えた。

 

「フランの『乙女の貞節(ブライダル・チェスト)』はね、まわりの力をぜんぶ吸いこんじゃうの」

 

 イリヤが歌うように言った。

 

「電気も、魔力もぜんぶ。……この港の電気ぜんぶもらっちゃった」

 

 闇が港から町へと広がっていった。倉庫街が消えた。商店街のアーケードが消えた。新都心の高層ビルの窓が、上から下へざあっと黒く塗りつぶされていく。

 

 海の上で光の弧を描いていた暁浜大橋のライトアップが、消えた。暁浜の町が闇に沈んだ。

 

 残っているのは、フランの槌の先で爆ぜる緑がかった白い雷。アルテラの剣の、赤と緑と青の光。それから。

 

 背後の山の上の小さな橙色の灯り。常夜灯だけが消えずに燃えていた。あれは電気じゃない。油と灯芯と、灯也の火だ。

 

 フランが槌を振りおろした。雷が走った。

 

 まっすぐではなかった。コンテナの鉄の壁を伝って、ジグザグに蛇のようにのたうちながら。鉄から鉄へ。積みあげられたコンテナの迷路が、一瞬で雷の通り道に変わった。

 

 アルテラが跳んだ。コンテナの屋根から屋根へ雷の蛇をかわしながら駆ける。光の剣が、追いすがる雷を片端から斬りはらう。

 

 斬っても斬っても、雷は鉄を伝って、どこからでも湧いてくる。そのうちのひと筋が向きを変えた。灯也のほうへ。

 

「っ……!?」

 

 灯也は横っ飛びに転がった。さっきまで背を預けていたコンテナの壁を、雷がばちばちと駆けぬけていく。焦げた鉄の匂いがした。

 

 またひと筋。またひと筋。雷はまるで灯也を探しているみたいに、次々とこちらへ曲がってくる。

 

「トウヤ!」

 

 アルテラが雷のあいだを縫って飛びこんできた。灯也の襟首をつかんで、コンテナの上へ跳ぶ。その足もとを、雷が通りすぎた。

 

「な……なんで俺ばっかり……!」

 

「お兄さんの魔力、だだ漏れなんだもの」

 

 闇の向こうからイリヤの楽しそうな声がした。

 

「言ったでしょ。フランの槌はまわりの力を吸いこむの。お兄さんみたいに魔力をざあざあこぼしてる人はね、フランにとっていいごはんなのよ」

 

 灯也は息をのんだ。けさの、凛の水晶と同じだ。

 

 自分の背中から熱がこぼれていく。こぼれた熱が闇の中を細い糸のように流れて、フランの槌へ吸いこまれていく。吸いこまれたぶんだけ、フランの雷が太くなる。

 

 そして、アルテラへ流れていくはずの魔力が細く、弱くなる。アルテラの剣の光がちかちかと揺らいでいた。

 

「……くそっ」

 

 膝が震えた。熱で頭がぼうっとする。底の抜けた桶から水が漏れるみたいに、体じゅうの力が抜けていく。

 

 灯也は顔を上げた。闇の中にひとつだけ灯りが見えた。山の上の常夜灯。俺がつけた火だ、と灯也は思った。

 

 町じゅうの灯りが消えても、あの火は消えていない。マッチ一本分からちっとも大きくならなかった、俺の火が。

 

 ——あれが消えとったら、帰り道がわからんようになる。

 

 祖母の声がした。灯也は目を閉じた。押しださない。急がない。ただ、思い描く。祖母の火の輪が回っていたあの速さを。

 

 背中からこぼれていく熱をすくいあげる。背骨をのぼって、肩をまわって、腕をくだって胸に戻ってくる。ぐるりと。

 

「——巡れ」

 

 背中が静かになった。闇の中に流れだしていた細い糸がぷつりと切れた。こぼれていた熱が外へ出ていかずに、灯也の体の中をゆっくりと回りはじめる。一秒。二秒。三秒。四秒。五秒。

 

 けさより長い。回っている熱の輪から一本だけまっすぐな道が、のびているのがわかった。その道の先にアルテラがいる。灯也は輪の中の熱をその一本の道へそっと流しこんだ。

 

 アルテラが目を見ひらいた。道の先でアルテラの胸へ熱が流れこんでいくのが、灯也にもわかった。

 

 けれど、さっきまでとはちがう。荒れ狂う嵐のようだった流れが今は一本の川のように、まっすぐで、静かで、深い。

 

「……トウヤの魔力がまっすぐ来る」

 

 光の剣が輝きを増した。赤と、緑と、青。三つの光がふくれあがるように強くなり、闇に沈んだ港を真昼のように照らしだす。

 

「うそ……」

 

 コンテナの上でイリヤが身を乗りだした。

 

「閉じた……? さっきまであんなにだだ漏れだったのに……!」

 

 アルテラが跳んだ。雷の蛇を一太刀で斬りはらう。斬られた雷はもう湧いてこなかった。灯也の魔力という「ごはん」を失って、フランの雷は細くなっていた。光の鞭がしなった。

 

 三色の光がコンテナの迷路をまっすぐに貫いて、フランを打つ。フランは槌でそれを受け、受けきれずに吹き飛ばされた。コンテナの山にたたきつけられて、鉄の壁がフランのかたちにへこむ。

 

「フラン!」

 

 フランが起きあがる。アルテラの剣がまた閃く。受ける。吹き飛ばされる。起きあがる。

 

 花嫁衣装の裾は焼け焦げて、ぼろぼろになっていた。それでも、フランは何度でも起きあがって、槌を構えた。前髪の奥の光は少しも弱くならなかった。

 

 イリヤの手が、ワンピースの胸もとをぎゅっと握りしめていた。

 

「……どうして」

 

 イリヤの声がふるえていた。

 

「どうして負けるの。フランは、わたしが選んだのよ。おじいさまが用意したヘラクレスじゃなくて、わたしが自分で選んだの。……だから、負けちゃだめなの!」

 

 イリヤは叫んだ。

 

「フラン! 宝具を! 『磔刑の——』」

 

 そこで、イリヤの声が止まった。イリヤは両手で自分の口をふさいでいた。紅い瞳が大きく見ひらかれている。たった今、自分が何を言おうとしたのか、ようやく気づいたみたいに。

 

 けれど、フランにはもう聞こえていた。

 

六

 フランが槌を天に掲げた。

 

「ウ……ゥゥ……」

 

 港じゅうに残っていた雷が、いっせいに槌の先へ集まっていく。この町から吸いあげた、何十万もの灯りの力が。フランの体が内側から光りはじめた。

 

 花嫁衣装の下の縫い目のひとつひとつから。腕から。首筋から。前髪の奥から。緑がかった白い光がひびのようにあふれだしてくる。

 

 槌の先から雷が空へ向かって伸びあがった。枝分かれしながら。また枝分かれしながら。夜空いっぱいに光の枝を広げていく。

 

 巨大な、雷の木だった。闇に沈んだ港の上に何百メートルもの高さの光る大樹が、立ちあがっていた。

 

「だめ……」

 

 イリヤがコンテナの上で膝をついた。

 

「だめ、フラン、やめて! 今のなし! なしだってば!」

 

 フランは止まらなかった。前髪の奥の光はちゃんとイリヤを見ていた。それでも、フランは槌を掲げたまま動かなかった。イリヤが勝ちたいと言ったから。

 

「あれはなんだ」

 

 アルテラが灯也の隣に降りたって、低く言った。

 

「あの雷はあのサーヴァントの命を燃やしている。あのまま撃てば、あれは自分ごと燃えつきる」

 

「令呪をもって命じるわ!」

 

 イリヤが叫んだ。その細い腕から首筋にかけて赤い紋様が浮かびあがった。灯也の手の甲のものとは比べものにならない、体じゅうを這うような、複雑な紋様だった。

 

「フラン、止まって!!」

 

 紋様の一画が燃えるように光って、消えた。フランの体がびくんと跳ねた。槌を掲げていた腕が止まり、光のあふれていた体がぴたりと動きを止める。けれど。空の上の雷の木は消えなかった。

 

 もう集まってしまっていたのだ。町じゅうの灯りの力が。行き場をなくした雷が枝の先でばちばちと唸りをあげてふくれあがり、根もとのフランの体へ逆流しはじめていた。

 

「どうして……どうして止まらないの……!?」

 

 イリヤがコンテナから転げ落ちるように飛びおりて、フランのもとへ走った。

 

 フランは言葉を持っていない。だから、近づいてくるイリヤに向かって、雷を浴びながら片手を突きだした。来るな、と言うように。

 

 灯也はアルテラを見た。アルテラも灯也を見ていた。命令すればいい。令呪を使えば、アルテラは何でもする。でも、灯也は右手を握りしめたまま、言った。

 

「アルテラ。……お願いだ」

 

 声がふるえた。

 

「あの雷の木だけ——壊せるか」

 

 紅い瞳がほんの少しだけ見ひらかれた。お願い。病室で灯也の祖母が言った言葉。命令ではなく、お願い。アルテラは空にそびえる雷の木を見上げた。

 

「……壊すのは」

 

 光の剣を構えなおす。

 

「得意だ」

 

 アルテラが跳んだ。ガントリークレーンの腕を駆けあがり、そのてっぺんから夜空へ。灯也は両手を握りしめた。巡れ。巡れ。巡れ。

 

 体の中で熱が輪になって回る。こぼさない。一滴もこぼさない。ぜんぶ、あの一本の道へ。アルテラのもとへ。

 

 アルテラの剣の三つの光が撚りあわさっていく。赤と、緑と、青が混ざりあって——。白になった。

 

 ——光は混ぜると、どんどん明るくなって、最後は白になる。

 

 かき氷の店で自分が言った言葉を、灯也は思いだしていた。真っ白な光の刃が雷の木の根もとを薙いだ。フランの槌と、空の大樹とをつないでいた光の幹を。

 

 一閃。幹が断たれた。根を失った雷の木が夜空でゆっくりと傾いた。そして、はじけた。

 

 何百本もの光の枝がいっせいに何千、何万もの火の粉になって砕け散った。緑、白、青、金。光の粒が真っ暗な港に、真っ暗な町に雨のように降りそそいだ。

 

 空いっぱいの花火みたいだった。闇に沈んだ商店街のほうから、かすかに歓声が聞こえた。

 

「おお、花火じゃ!」

 

「停電の晩に花火とは、気が利いとるのう!」

 

 光の雨の中でフランがゆっくりと膝をついた。体の内側からあふれていた光がすうっと引いていく。縫い目の光がひとつずつ消えていく。槌が手から離れて、アスファルトに転がった。

 

 前に傾いたフランの体を、小さな腕が受けとめた。

 

「フラン……!」

 

 自分よりずっと背の高いフランを、イリヤは両腕でかかえこんだ。重さに耐えきれずに、ふたりいっしょにアスファルトの上にへたりこむ。

 

「ばか……ばかフラン……! 誰がほんとにやれって言ったのよ……! わたし言ってない、言ってないもん……!」

 

 それから、イリヤは首を横に振った。

 

「……ちがう。言ったの。わたしが言ったの。わたしが……」

 

 あとは言葉にならなかった。フランが焼け焦げた手をゆっくりと持ちあげた。そして、イリヤの頬をぎこちなく撫でた。

 

「ウ……」

 

 それだけだった。それだけで十分だった。

 

 灯也が近づいていくと、イリヤが顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、紅い瞳で灯也をにらみつけた。

 

「……どうして止めたの。わたし、お兄さんの敵よ。おばあさまのことだって脅したのに」

 

 灯也は少し考えた。ちゃんとした理由を言えたらよかった。でも、浮かんでこなかった。

 

「……イリヤが泣きそうな顔してたから」

 

 イリヤがぽかんと口を開けた。

 

「それに、その子が消えたら、イリヤひとりになっちゃうだろ」

 

 ひとりになるのがどういうことか、灯也は知っていた。十年前の冬、石段に座りこんで、ひと晩じゅう真っ暗な海を見ていたから。灯也はポケットに手を入れた。

 

「これ。ばあちゃんから。イリヤに、だって」

 

 手のひらの上の赤い飴を、イリヤは見つめた。昼間、病室でドロップの缶を見ていたのと同じ目で。

 

「……あのおばあさま、わたしが何しに来たかわかってたの?」

 

「たぶん、ぜんぶ」

 

「……それなのに」

 

 イリヤは飴を受けとった。握りしめた手が小さくふるえていた。

 

 イリヤはもらった飴を口に入れて、フランの肩に頭をあずけた。しばらく何も言わなかった。それから、ふいに遠くを見た。

 

「……ねえ。あれ、お兄さんの火?」

 

 山の上の小さな橙色の灯り。真っ暗な町の上でひとつだけ燃えている。

 

「うん。常夜灯。電気じゃないから、停電しても消えないんだ」

 

「みんな消えちゃったのに、あれだけ消えてないのね」

 

「昔は船があれを目印にして、この港に帰ってきたんだって」

 

「……今は?」

 

「今は帰ってくる船なんて、ないけど」

 

 灯也は少しだけ笑った。

 

「でも、毎晩つけてる」

 

「……明日の夜も?」

 

「つけるよ。毎晩」

 

 イリヤは何も言わなかった。口の中で新しい飴がからりと鳴った。

 

 アルテラがイリヤを見下ろしていた。

 

「お前は作られたものだな」

 

 イリヤの肩がぴくりと動いた。

 

「……それがなに」

 

「私もだ。壊すために作られた。……そう思っていた」

 

 イリヤが顔を上げた。

 

「思っていた?」

 

「今はわからない」

 

 アルテラは真っ暗な町を見た。

 

「わからないことが増えた」

 

 イリヤはふらつきながら立ちあがった。フランも槌を杖がわりにして、どうにか立ちあがる。それから、フランはからっぽの手をイリヤの頭の上にかざした。

 

 昼間、日傘をさしかけていたのと同じように。夜なのに。イリヤがちょっとだけ笑った。

 

「……今夜は引き分けにしてあげる」

 

 イリヤは灯也に背を向けた。

 

「おばあさまに言っといて。飴、おいしかったって」

 

「自分で言いに来ればいいよ。またおいでって言ってたし」

 

 イリヤの足が一瞬だけ止まった。振りかえらずに、イリヤは言った。

 

「……ばいばい、お兄さん」

 

 白いワンピースと、焼け焦げた花嫁衣装とが寄りそうようにして、闇の中へ消えていった。

 

 ふたりの姿が見えなくなると、灯也の膝からすとんと力が抜けた。アスファルトの上に座りこむ。熱はまだ下がっていなかった。

 

 ちかっと。岸壁の街灯がひとつまたたいた。それから、またひとつ。またひとつ。橙色の灯りが岸壁沿いに順番に戻ってくる。クレーンの赤い航空灯がぽつ、ぽつと灯る。

 

 倉庫街に、商店街に灯りが戻っていく。新都心のビルの窓が、下から上へざあっと光で埋まっていく。

 

 最後に、海の上に光の弧が戻った。暁浜大橋のライトアップだった。アルテラはそれをじっと見ていた。

 

「……戻ってきた。一度消えたのに」

 

「誰かが直してくれたんだよ。電気会社の人とか」

 

 アルテラはしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。

 

「露草と同じだな」

 

 灯也はアルテラの横顔を見た。

 

「一度しぼんでも、次の朝にはまた別の花が咲く。一度消えても、また灯る」

 

 アルテラは町の灯りを見つめたまま言った。

 

「私の知っている灯りは消えたら、それきりだった」

 

「……うん」

 

 戻ってこないものもあることを、灯也は知っていた。それでも、うなずいた。それから、シャツの胸ポケットにそっと手を入れた。

 

 露草は閉じたまま、そこにあった。くしゃりと縮んではいたけれど、ちぎれても、つぶれてもいなかった。

 

「はい。返す」

 

 アルテラは、灯也の手のひらの上の小さな青い花を見つめた。

 

「……壊れていない」

 

「うん。守った」

 

 灯也は笑った。アルテラは親指と人さし指の先だけで、ものすごくゆっくりと花をつまみあげた。それから、言った。

 

「……お願い、というのは」

 

 少しだけ間があった。

 

「悪くない」

 

七

 暁浜の町が闇に沈んでいたのは、四十七分間のことだった。翌朝のニュースはそれをこう伝えた。港湾地区の変電設備に落雷。今度ばかりはほんとうに雷だった。

 

 その四十七分のあいだに。

 

 新都心のホテルの最上階で遠坂凛は、動かなくなったエレベーターのボタンを連打していた。

 

「うそでしょ……三十二階よ、ここ……」

 

 一日じゅう歩き回って、わかったことはひとつだけだった。カレンの目を盗んで教会の名簿から写しとった、沙条愛歌の住所。そこには草ぼうぼうの空き地しかなかった。

 

 窓の外の闇の向こう、港の上に巨大な雷の木が立ちあがるのが見えた。凛の顔から血の気が引いた。

 

「あのばか……! ひとりで行ったわね……!」

 

「お運びしましょうか、マスター」

 

「……いい。歩く」

 

 凛は非常階段の扉を蹴りあけた。三十二階ぶんの階段を駆けおりた凛が港に着いたのは、すべてが終わったあとだった。

 

 市民病院の屋上ではアストルフォとフラットが、手すりにもたれて並んでいた。病院だけは非常用の電源で明るいままだった。

 

「わあ、町がぜんぶ消えちゃった。でも、見て、マスター! 星がすっごくよく見えるよ!」

 

 アストルフォは空を指さして、それから山のほうを指さした。

 

「あと、あそこ。ひとつだけ点いてる」

 

 フラットは山の上の小さな灯りを見て、目を細めた。

 

「トウヤくんの火だ。……いい形だなあ」

 

 港の上で雷の木が砕け散った。アストルフォが手すりから身を乗りだして叫んだ。

 

「たーまやー!」

 

「……それ、なに?」

 

「わかんない! さっき下でおじいちゃんたちが言ってた!」

 

 郷土資料館の真っ暗な展示室。カウレスはスマートフォンのライトをつけた。

 

「停電か……。アビー、大丈夫か?」

 

 返事がなかった。ライトの光の輪の中に小さな背中があった。黒い帽子の少女がクマのぬいぐるみを抱きしめたまま、窓の外の闇を見つめている。

 

「……ねえ、マスター」

 

 少女は振りかえらなかった。

 

「暗いと、鍵穴の向こうがよく見えるの」

 

 その額で銀色の鍵穴がぼんやりと光っていた。カウレスはライトを向けたまま、動けなかった。

 

 旧居留地の教会では礼拝堂のろうそくだけが燃えていた。カレン・オルテンシアは左腕の包帯を見下ろした。白い布にじわりと新しい赤い染みが広がっていく。

 

「あら」

 

 カレンはろうそくの火の向こうの闇を見つめた。

 

「暗いところがお好きなお客さまが、いらっしゃるようですね」

 

 旧市街のはずれの洋館でアヴェンジャーが、手のひらに黒い炎をともした。

 

「暗いのは嫌いじゃないけど。あんたの顔が見えないのは困るのよ」

 

 ぶっきらぼうな声だった。その灯りの中で間桐桜は窓の外を見ていた。

 

「……アヴェンジャーさん。あれ」

 

 山の上に小さな灯りがひとつ。

 

「は? あんなちっぽけな火がどうしたのよ」

 

「……ちっぽけだからです」

 

 桜はそれ以上は言わなかった。アヴェンジャーは何か言いかえそうとして、やめた。屋敷の奥の暗がりで、乾いた笑い声がかすかに響いた。

 

 そして。暁浜大橋の主塔のてっぺん。消えたライトアップの上で沙条愛歌は塔の縁に腰かけて、真っ暗な町を見下ろしていた。

 

「消えちゃった」

 

 楽しそうな声だった。

 

「ぜんぶ、ぜんぶ消えちゃった。暗い町ってすてきね、ランサー。何もかもまっさらで」

 

 隣に立つカルナは答えなかった。その淡い青の瞳は町の向こうの山の上を見ていた。

 

「……あの火は消えていないな」

 

「ええ」

 

 愛歌の声から楽しさがすうっと消えた。

 

「あれだけ、消えていないわ」

 

 愛歌はその灯りを見つめた。ショーウィンドウの人形を眺めるときとはちがう目で。

 

「わたし、あの火きらい」

 

 カルナが主の横顔を見た。

 

「あの火のそばにいると、わたしの鍵がどんどん変な形になっていくの。かき氷とか、お花とか、お願いとか。……鍵にはそんなもの、いらないのに」

 

 港の上で雷の木が砕け散った。光の雨が闇の町に降りそそぐ。その光の中で愛歌はにっこりと笑った。

 

「そろそろ迎えに行かなくちゃ。ね、ランサー」

 

 海風が黄金の鎧を鳴らして吹き抜けた。カルナは何も言わなかった。ただ、山の上の小さな火をもう一度だけ見た。

 

 ——この国の火はこうも静かに燃えるのか。

 

 あの夜、老婆の守り火の前で自分が口にした言葉だった。

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