一
六時ちょうどにガンドが飛んできた。
「うわあっ!?」
灯也は石畳の上を転がった。さっきまで立っていた場所にこぶしほどの穴があいた。石段のいちばん上に遠坂凛が立っていた。
けさは髪もボタンもちゃんとしていた。そのかわり、目の下にくっきりとくまができていた。
「おはよう、穂村くん」
凛はにっこりと笑った。目は少しも笑っていなかった。
「よく眠れた?」
「ね、熱が下がらなくて、あんまり……」
「わたしは一睡もしてないわ」
二発目のガンドが灯也の足もとをえぐった。
「怒りすぎてね!」
「三十二階よ!? 三十二階ぶんの階段を駆けおりたのよ!? それで、港に着いたら、ぜんぶ終わってて! 電気まで何ごともなかったみたいについてて!」
凛はひと息でまくしたてた。
「寝てなさいって言ったわよね!? なんでひとりで行くのよ!」
「ひとりじゃなかったよ。アルテラが——」
「そういう意味じゃない!」
凛の声がひっくり返った。それから、急に静かになった。
「……死んでたかもしれないのよ、あんた」
灯也は言葉に詰まった。凛はぷいと横を向いた。
「次からはちゃんと言いなさい。授業料を払い終わる前に死なれたら、大損なんだから」
「……ごめん」
「わかればいいのよ」
凛のうしろでアルジュナが、両手いっぱいに荷物を抱えていた。大きなスーツケースがふたつ。旅行かばんがひとつ。それから、鍵のかかった黒い革の小箱。
「……その荷物、なに?」
「今日からわたしもここに住むから」
「は?」
「勘違いしないでよね。セイバーのマスターを見張るためよ。目を離すと、何をしでかすかわからないんだから。……それに、あのホテルのエレベーターはもう信用しないことにしたの」
「宿泊費の節約にもなります」
アルジュナが穏やかに言い添えた。
「アーチャー!!」
「わーい!」
社務所の窓からアストルフォが顔を出した。
「仲間が増えたー!」
「仲間じゃない!」
灯也はちょっと考えてから言った。
「……ばあちゃんの部屋、空いてるから。使っていいよ」
凛は一瞬、言葉に詰まった。それから、小さな声で言った。
「……お邪魔します」
常夜灯の足もとに、水を張った湯のみが置いてあった。中に青い花が一本。きのうの昼からずっと閉じたままだった。
「アルテラが置いたの?」
「ここなら壊れない」
アルテラは湯のみの前にしゃがみこんでいた。
「この花はもう咲かないのか」
灯也は少し迷ってから、ほんとうのことを言った。
「……うん。その花はもう咲かない」
「そうか」
アルテラはしばらく花を見ていた。
「それでも、置いておく」
「授業その七」
凛がぱんと手をたたいた。
「まずはきのうのおさらい。巡れ、やってみて」
灯也は目を閉じた。熱の輪を体の中に描く。背骨をのぼって、肩をまわって、腕をくだって、胸に戻ってくる。
凛の手の中の水晶から光が消えた。五秒。八秒。十秒。十一秒目で水晶がぼうっと光った。
「……十秒。きのうの今日でずいぶん伸びたじゃない」
凛は少しだけ感心したように言った。それから、つま先で石畳の上にぐるりと円を描いた。
「じゃあ、次。守り火の三つめの言葉」
「守れ」
「そう。結界っていうのはね、線を引く魔術なの。内側と外側を分ける線。守りたいものを内側に入れて、それ以外を外に締めだす。灯れで火を起こして、巡れで輪にして、守れでその輪を壁にする」
凛は灯也をまっすぐに見た。
「だから、聞くわ。あんたの守りたいものって、何?」
「え……」
灯也は口ごもった。
「……みんな?」
「ぼやけてる」
凛はばっさりと言った。
「『みんな』なんて線は引けないの。どこまでが内側で、どこからが外側か自分でわかってないと、輪は壁にならない。……おばあさんの守り火は本殿を囲んでたでしょ。あの人は、自分が何を守ってるのかちゃんとわかってたのよ」
灯也は両手を広げた。
「灯れ。巡れ。……守れ」
火の輪は膝の高さまで立ちのぼって、ふらふらと揺れて、崩れた。
「ほらね」
凛は肩をすくめた。
「答えが見つかるまで、守れは使えないわよ」
二
昼過ぎ、商店街のアーケードでは夏祭りの準備がはじまっていた。
脚立の上で八百屋のおじさんが提灯を吊るしている。魚屋のおばさんが紅白の幕を広げている。子どもたちが紙の飾りをあちこちに貼ってまわっている。
「おう、灯也くん。神社の屋根は祭りに間に合いそうかいの」
「……ブルーシートでなんとか」
「千鶴さんが見たら、腰抜かすのう」
長老たちはからからと笑った。
アルテラはTシャツ姿で提灯の箱を抱えていた。
「これを上に吊るせばいいのか」
「うん。あの、高いところの紐に——」
灯也が脚立を取りに行くより早く、アルテラはとんと床を蹴った。アーケードの天井近くまで軽々と跳びあがる。紐に提灯をひっかけて、ふわりと着地した。商店街がしんと静まりかえった。
「……外国の子は、よう跳ぶのう」
八百屋のおじさんが感心したように言った。それで、みんな納得した。この町の人はだいたいそういう人たちだった。子どもたちがわっとアルテラを取りかこんだ。
「おねえちゃん、すげえ!」
「あれも! あっちも吊るして!」
アルテラは子どもたちを見下ろした。それから、灯也を見た。
「……命令か」
「お願いだって」
「お願い」
アルテラは少しだけ考えて、次の提灯を手に取った。
魚屋の店先では日焼けした老人が網をつくろっていた。魚屋のおばさんのご亭主、源さんだ。この商店街でいちばん無口で、いちばん腕のいい漁師だった。
「穂村んとこの坊主か」
源さんは網から目を上げずに言った。
「千鶴さんはどうじゃ」
「元気だよ。口だけは」
「ほうか」
源さんの口もとがほんの少しだけゆるんだ。
「今夜は夜釣りに出るけえ。ええ潮じゃ」
それから、源さんは山のほうを見上げた。神社のある山の上を。
「あの常夜灯な。わしがガキのころは沖に出たら、あれを見て帰ってきよった。どんな晩でもあれだけはついとったけえ」
「今は?」
「今はGPSがあるけえのう。見んようになった」
源さんはまた網に目を落とした。
「じゃけど、ついとるのは知っとる。……十年前の晩もついとったのう」
灯也は何も言えなかった。十年前の嵐の晩。島への連絡船が沈んだ晩。灯也が石段に座りこんで、ひと晩じゅう常夜灯の下で真っ暗な海を見ていた晩。この人はそれを覚えているのだ。
アーケードの提灯の紐に銀色の小さな鳥がとまった。針金細工の鳥。病院の窓の外にいたのと同じ鳥だった。
鳥は灯也の肩に舞いおりて、くちばしにくわえていた紙切れをぽとりと落とした。広げると、まるっこい字でこう書いてあった。
『今夜、星が鳴くわ。ランサーのマスターがなにかするつもり。 イリヤ』
その下に小さく。
『飴のお礼。これで貸し借りなしだからね』
鳥はひと声も鳴かずに、夏空へ飛んでいった。
三
その夕方。借りたばかりの部屋で荷ほどきをしていた凛は、手を止めた。
「ねえ、アーチャー」
窓辺のアルジュナが振りむいた。
「イリヤスフィールの手紙がほんとうなら、今夜ランサーが来る。……その前に聞いておきたいの。あの白い髪のランサー。あんた、知ってるのよね」
アルジュナはしばらく黙っていた。夕陽がその横顔を赤く染めていた。
「……カルナ。かつて私が討った男です」
穏やかな声だった。
「戦車の車輪が泥にはまっていました。彼は武器を置いて、それを持ちあげようとしていた。待ってくれ、と彼は言った。……私は射ました。背中から。射よと命じられたので」
凛は何も言わなかった。
「英雄として恥ずべき勝利です。……それでも、私はあの男に勝たねばならなかった」
アルジュナの指先でほんの一瞬、黒いものが揺らいだ気がした。
「今夜あいつが来たら……あんた、大丈夫なの?」
「ご安心を、マスター。私は完璧なサーヴァントですから」
アルジュナはいつもどおりに微笑んだ。凛はその笑顔をじっと見つめた。
「……そういう顔で言うから、心配なのよ」
四
夜の十一時を少し過ぎたころだった。ちりんと、鈴が鳴った。
風はない。拝殿の鈴がひとりでに鳴っている。ちりん、ちりん、ちりん。祖母の張った結界はあの夜に砕けてしまった。それでも、鈴だけはまだ生きていた。
常夜灯の前で灯也は顔を上げた。鳥居の上に少女が座っていた。青いワンピース。白い襟。月の光を吸いこんだような、長い髪。あの夜と同じだった。
「こんばんは、灯也くん」
沙条愛歌は、見上げるほどの高さの笠木の上で細い脚をぶらぶらと揺らしていた。
「お迎えに来たの」
境内の真ん中に炎が降りてきた。黄金の鎧。白い髪。胸の赤い石。身の丈を超える、巨大な槍。ランサー——カルナが石畳の上に音もなく立っていた。
社務所の戸が開いて、フラットとアストルフォが飛びだしてきた。母屋の縁側には凛と、弓を構えたアルジュナ。
アルテラが灯也の前に出た。Tシャツ姿が光とともに白いヴェールの戦装束に変わり、三色の光の剣が夜の中に生まれた。
「まあ」
愛歌が楽しそうに境内を見まわした。
「ずいぶんにぎやかになったのね。でも、いいの。わたしが用があるのはひとりだけだから」
愛歌の目がアルテラに止まった。
「迎えに来たわ、わたしの鍵」
「……アルテラは鍵なんかじゃない」
灯也は言った。声は思ったよりふるえなかった。
「ふふ。灯也くんは何も知らないのね」
愛歌はくすくすと笑った。
「ランサー。誰にも邪魔させないで」
「……了解した」
カルナが動いた。炎の尾を引いた穂先がアルテラに迫る。アルテラの剣がそれを受ける。黄金と三色が境内の真ん中で噛みあった。
衝撃が夜を揺らした。楠の葉がいっせいに鳴り、社務所に一枚だけ割れ残っていた窓ガラスがぱりんと砕けた。
「ああっ、最後の一枚……!」
灯也の悲鳴は誰にも聞いてもらえなかった。
剣と槍が打ちあう。一合。二合。三合。
あの夜は目で追うこともできなかった。今はほんの少しだけ見える。体の中を回る熱の輪から一本の道を通って、魔力がまっすぐにアルテラへ流れこんでいくのがわかる。カルナがわずかに目を細めた。
「……あの夜とは剣の形がちがうな」
「形?」
「あの夜のお前の剣は、何かを守るための形をしていなかった」
カルナは槍を引いてアルテラを見た。
「今はしている」
アルテラの剣先がほんの一瞬揺れた。
「……そうか」
ひゅうと。青白い炎の矢が夜を裂いて、カルナの背に突きささった——いや、突きささらなかった。黄金の鎧の上で矢はただの火の粉になって砕け散った。
カルナがゆっくりと振りかえった。母屋の屋根の上に白い衣の弓兵が立っていた。
「……アルジュナか」
カルナの声は静かだった。
「久しいな」
アルジュナは答えなかった。弓を握る手は白くなるほど力がこもっていた。青白い炎がふっと色を変えた。青から黒へ。
「アーチャー! 待っ——」
凛の声は届かなかった。黒い炎の矢が雨のように降りそそいだ。旧天文台でアルテラに向けたものよりもずっと暗く、重い矢が。カルナは避けなかった。
黒い矢の雨を黄金の鎧で正面から受けとめた。爆炎がカルナの姿を包みこみ、境内が真昼のように明るくなる。
煙が晴れたとき、カルナは同じ場所に立っていた。鎧には傷ひとつなかった。
「……その炎はお前らしくないな、アルジュナ」
「黙れ……!」
アルジュナの声がひび割れていた。凛が息をのんだ。あんなアルジュナの声はマスターの凛も聞いたことがないのだろう。
「ボクもいっくよー!」
アストルフォが金色の槍を構えて、カルナの足もとへ飛びこんだ。
カルナが槍の柄でそれを払う。払われた勢いのままくるりと回って、アストルフォはカルナのすねを金色の穂先でこつんと小突いた。次の瞬間。カルナが転んだ。
膝から下がふっと消えたように力を失って、黄金の鎧の英雄が石畳の上に仰向けにひっくり返った。境内がしんとした。
「やったー! 転んだー!」
アストルフォがぴょんぴょん跳ねた。
「触れたら転んじゃう、ボクの槍だよ! すごいでしょ!」
「……だから、手の内をしゃべるなって言ってるでしょうが……!」
凛が頭を抱えた。カルナは仰向けのまま夜空を見上げていた。それから、ゆっくりと起きあがった。
「……見事だ」
その声には皮肉のかけらもなかった。
剣が、矢が、槍が黄金の炎に襲いかかる。カルナはそのすべてをひとりで受けとめていた。
アルテラの剣を槍で弾き、アルジュナの黒い矢を鎧で受け、アストルフォを炎の風で吹き飛ばす。三騎を相手にして、一歩も退かない。
「……あいつ」
凛がつぶやいた。
「マスターには一度も手を出してない」
縁側の柱の陰でフラットが、じいっとカルナを見つめていた。
「すごい……。あの鎧、神さまの光で編んである。僕じゃほどけないや」
その目が鳥居の上の愛歌へと移った。フラットの顔からすうっと、いつもの笑みが消えた。
「……ねえ、遠坂さん。あの子」
「なによ」
「魔術、使ってない。術式がひとつも見えないんだ。……なのに、あの子のまわりだけ世界のほうがあの子に合わせてる」
五
鳥居の上で愛歌が立ちあがった。
「そろそろいいかしら」
愛歌は境内に背を向けた。海のほうへ。湾の真ん中のほうへ。そして、鼻歌をうたいはじめた。あの夜、大橋の塔の上でうたっていたのと同じ歌だった。
湾の真ん中で海が光った。内側から白く。あの夜と同じように——いや、あの夜よりもずっと強く。
足の下から低い唸りが伝わってきた。地震とはちがう。もっと深いところで何か巨大なものが、ゆっくりと目を開けたような。
白い光が海から空へ一本の柱になって立ちのぼった。海の上に白い霧が這いはじめた。湾を埋め、港を呑みこみ、岸壁の灯りをひとつ、またひとつと白くぼかしていく。
光の柱から細い光の帯がほどけるように伸びてきた。海を渡り、霧の上をすべり、山の斜面を駆けあがって——。アルテラの胸に吸いこまれた。
アルテラの動きが止まった。カルナの槍と打ちあっていた剣が宙でぴたりと止まる。カルナもまた、槍を引いた。その淡い青の瞳が鋭く主を振りかえった。
「マスター。何をした」
愛歌は答えなかった。鼻歌をうたいつづけていた。アルテラの肌の白い紋様が光りはじめていた。腕の、首筋の、頬の幾何学模様のひとつひとつが海の光と同じ、色のない白に輝いていく。
「……アルテラ?」
灯也が呼んだ。アルテラがゆっくりとこちらを向いた。紅い瞳がなかった。そこにあったのは白だった。海の底の光と同じ、何も映さない白。
「——文明を確認した」
アルテラの声だった。けれど、アルテラの声ではなかった。抑揚も、間も、ためらいもない。機械が文字を読みあげるような、平らな声だった。三色の光の剣から色が抜けていった。
赤が消え、緑が消え、青が消える。残ったのは白だった。ゆうべ、港で見た、三つの光が混ざりあった白ではない。はじめから色というものを持たない、冷たい白だった。
愛歌が鼻歌をやめた。鳥居の上からアルテラを見下ろして、にっこりと笑った。
「おかえりなさい、わたしの鍵」
それから、細い指で崖っぷちを指さした。
「さあ、最初のお仕事よ。……あの火を消して」
白い瞳が常夜灯を見た。
——同じころ。
暁浜の沖で一艘の小さな漁船が、白い霧の中をさまよっていた。
「なんじゃ……なんじゃ、こりゃあ……」
源さんは舵を握りしめていた。エンジンが止まっていた。GPSの画面も無線も真っ黒だった。さっき海の底が白く光った瞬間に、何もかもがいっせいに死んでしまったのだ。
まわりは白い霧だった。港の灯りも、大橋の灯りも何ひとつ見えない。どっちが港で、どっちが沖なのかわからなかった。
凪いでいたはずの海が、急に沸きたつように荒れはじめていた。船が大きく傾いた。四十年この海で漁をしてきた。それでも、こんな海は知らなかった。
六
アルテラが歩きだした。まっすぐに崖っぷちの常夜灯へ。灯也は走った。アルテラを追い越して、常夜灯の前に立った。両腕を広げて。あの夜、本殿の前でそうしたように。
「アルテラ!」
アルテラは止まらなかった。
「セイバーを止めて!」
凛が叫んだ。アルジュナが弓を引き、アストルフォが走りだす。その前に黄金の炎が立ちはだかった。
「すまない。通すなと命じられている」
カルナだった。
「穂村くん! 令呪を使いなさい!」
凛の声が悲鳴に近くなった。
「今すぐ! 『止まれ』って言えば、止まるのよ!!」
「そうね。使えば?」
鳥居の上で愛歌が首をかしげた。
「止まれって命令すれば、止まるわ。だって、その子はあなたのお人形だもの。……今はわたしのお人形だけど」
灯也は右手の甲を見た。三本の線が赤く光っている。使えば、きっと止まる。でも、止まったアルテラの目は白いままだ。命令されたから止まった。それだけだ。
そうしたら、アルテラはまた、命令されれば何でもする道具に戻ってしまう。壊せと言われれば壊し、消えろと言われれば消える、あの夜のアルテラに。灯也は右手を握りしめた。
「……使わない」
「穂村くん!!」
「アルテラは人形じゃない」
灯也は白い瞳をまっすぐに見た。
「戻ってくるなら、自分で戻ってこなきゃだめなんだ」
そのとき石段のほうから雷が走った。緑がかった白い雷が闇を裂いて境内に飛びこんでくる。焼け焦げた花嫁衣装。ひと抱えもある鉄の槌。その腕に銀色の髪の少女を抱えて。
「イリヤ……!?」
「べつにお兄さんを助けに来たんじゃないから」
フランの腕から飛びおりて、イリヤはつんと顎を上げた。
「あの火が消えたら、困るのよ。……明日の夜もつけるって言ったでしょ」
イリヤの紅い瞳が海から伸びる光の帯を見上げた。
「やっぱり。あれ、予備炉の光ね。あれがセイバーに流れこんでるんだわ」
イリヤはフランを振りかえった。
「フラン。あれ吸える?」
フランは光の帯を見上げて、それから、イリヤを見た。
「……ウ」
「無理しちゃだめよ。きのうの今日なんだから。少しでいいの。少しだけ」
フランが走った。カルナの前を——黄金の炎の前をまっすぐに。カルナの槍が動いた。
その穂先はフランの肩から指一本ぶんだけ外れた空を切り裂いた。フランは止まらずに駆けぬけた。
「……外した?」
アルジュナがつぶやいた。
「あの男が……外した?」
カルナは何も言わなかった。槍を構えなおして、もう次の相手を見ていた。
フランが崖っぷちの岩の上に跳びあがって、鉄の槌を空へ突きあげた。
海から伸びる光の帯がぐにゃりと曲がった。槌の先の枝に白い光が吸いこまれていく。焼け焦げた花嫁衣装の下で縫い目のひとつひとつが、白く光りはじめる。
「ウ……ゥゥ……!」
「フラン!」
イリヤが胸の前で両手を握りしめた。光の帯が細くなった。アルテラの足がほんの少しだけ遅くなった。それでも、止まらなかった。
アルテラが灯也の目の前で剣を振りあげた。色のない、白い剣を。灯也は目を閉じなかった。閉じるもんか、と思った。
「——灯れ」
指先に火がともった。マッチ一本分の火ではなかった。松明みたいに暴れる火でもなかった。灯也の火だった。
「——巡れ」
火が輪を描いた。灯也と、背中の常夜灯と、足もとの湯のみの露草とをぐるりと囲む、橙色の輪。体の中を回る熱の輪と、外を回る火の輪とがひとつの速さで回っている。
——あんたの守りたいものって、何?
凛の声がした。灯也は思いうかべた。崖の下に広がる、霧に呑まれかけた町の灯り。その向こうの真っ暗な海。今夜、夜釣りに出ると言っていた、源さんの船。
ぜんぶはこの輪に入らない。でも、あの海から誰かを連れて帰ってくるのは背中のこの火だ。
だから、常夜灯は内側だ。足もとのもう咲かない露草も内側だ。それから、目の前の、白い目をした女の子。アルテラも内側だ。
外側は——海から伸びてくる、あの白い光だ。橙色の輪がぐんと広がった。アルテラの足もとを越えて、その背中の向こうまで。
「——守れ!」
火の輪が燃えあがった。橙色の炎が壁になって夜空へ伸びる。祖母の守り火より小さくて、でこぼこで、それでも、たしかに灯也の火の壁が。
灯也と、常夜灯と、露草と、そして目の前のアルテラをひとつの輪の中に包みこんで。海から伸びる白い光の帯が炎の壁に断ち切られた。
壁の外で行き場をなくした光が、ばちばちと白い火花を散らした。押しよせる光を、橙色の壁が押しかえしている。
衝撃が灯也の両腕を、肩を、背骨を突き抜けた。腕の皮膚がじりじりと焼ける。鼻の奥から熱いものがあふれた。回路という回路が悲鳴をあげている。それでも。炎は砕けなかった。
輪の内側で白い剣が振りおろされた。灯也は動かなかった。よけなかった。目もそらさなかった。
炎の壁から橙色の火の粉がいっせいに舞いあがった。白い刃に吸いよせられるようにまとわりついていく。
刃の白が炎の色に染まっていく。炎が刃の光を呑みこんでいく。——いや、混ざりあっていく。
海の光はもうこの輪の内側には届かない。今あの剣を燃やしているのは灯也の魔力だけだ。そして、灯也の火も灯也の魔力でできている。
同じ火だ、と灯也は思った。だから、ぶつかりあうんじゃない。つながるんだ。
火の粉と光の触れあったところから灯也の中に流れこんできた。燃えあがる空。煮えたぎる海。どこまでも続く町並みが白い光に焼かれて崩れていく。人も、家も、灯りもひとつ残らず。
その真ん中に誰かが立っていた。白いヴェールの小さな背中だった。壊して、壊して、壊して。振りかえる者もいない焼け野原にずっとひとりで。
——ああ。
灯也は思った。この子はずっとこんなところにひとりで立ってたのか。
同じときアルテラの中にも流れこんでいた。石段に座りこんで、真っ暗な海を見ている、小さな男の子。マッチ一本分の小さな火。赤と緑と青に染めわけられた、かき氷の山。
病室で頭を下げる、皺だらけの手。命令じゃありません。お願いです。朝しか咲かない、青い花。一度消えて、また灯った、町の灯り。
——下がっていろ、トウヤ。
自分の声が聞こえた。
——お前の火が見えた。揺れていた。
——それが嫌だった。
今、目の前でその火が揺れていた。腕を焼かれ、鼻から血を流した少年の中で。それでも、消えずに。
剣は灯也の額のほんの指一本手前で止まっていた。あの夜、鳥居の柱の手前で止まったのと同じように。
けれど、今夜、灯也は「やめろ」とは叫ばなかった。白い瞳の奥に何かがともった。赤い光だった。
白い剣の中に色が戻ってくる。赤が。緑が。青が。三つの光が炎の橙と混ざりあって、あたたかい白になっていく。アルテラの唇が動いた。
「……トウ、ヤ」
剣がほどけた。光の粒になって、炎の中に散っていく。前に傾いたアルテラの体を、灯也は焼けた腕で受けとめた。こんなに強いのに、あきれるほど軽かった。
「……おかえり」
灯也は言った。紅い瞳が灯也を見上げた。
「……私は何をしていた」
「ちょっと迷子になってただけだよ」
壁の外で散っていた白い火花がふいにやんだ。海から伸びていた光の帯が、糸が切れたようにほどけて消えていく。
炎の壁が静かに低くなっていった。輪に戻り、それから、ふっと消えた。
灯也の背中で常夜灯の火は、いつもと同じように燃えていた。足もとの湯のみの中で閉じた露草がかすかに揺れていた。
——白い霧の上に灯りが見えた。
源さんは目をこすった。霧の海のずっと上。山の上の崖っぷちにぽつんとひとつだけ。小さな、橙色の灯りが。
「……穂村の常夜灯じゃ」
霧は海の上を這っていた。港の灯りも、町の灯りもみんな霧の底に沈んでいる。けれど、高い崖の上のあの灯りだけは霧の上にぽっかりと浮かんでいた。
ガキのころとおんなじじゃ、と源さんは思った。源さんは灯りに舳先を向けた。そのとき、死んでいたエンジンが咳きこむように息を吹きかえした。
七
鳥居の上で愛歌が首をかしげていた。
「……あれ?」
はじめて聞く声だった。何もかもを知っているような、あの楽しそうな声ではなかった。
「おかしいわね。……わたし、こんなの知らない」
愛歌は灯也を見た。ショーウィンドウの人形を眺める目ではなかった。もっとまっすぐな、知らない言葉を生まれてはじめて聞いた子どものような目だった。それから、愛歌はにっこりと笑った。
「灯也くん。わたし、あなたのこともっと知りたくなっちゃった」
灯也の背中を、冷たいものが伝い落ちた。白い剣の前に立ったときよりもずっと。
「帰りましょう、ランサー。今夜はもういいわ」
「……了解した」
カルナは槍を下ろした。そして、灯也を見た。
「少年。あの夜の老婆と同じ火だな」
それから、少しだけ首を横に振った。
「いや。お前の火だ」
カルナの目が屋根の上のアルジュナへ向いた。アルジュナはまだ黒い炎をまとっていた。
「アルジュナ。決着はいずれつけよう。……そのときはオレを見ろ」
カルナは鳥居の上の主を抱きあげた。炎の尾を引いて、ふたつの影は夜空の向こうへ消えていった。
境内に静けさが戻った。海の光の柱はいつのまにか消えていた。湾を埋めていた白い霧が、ゆっくりと沖のほうへ引いていく。崖っぷちの岩の上でフランが膝をついていた。
「フラン!」
イリヤが駆けよった。フランの腕に、首筋に細いひびのような線がいくつも走っていた。白い光の名残がその線の中でちかちかとまたたいている。
「ばか……だから、少しでいいって言ったのに……」
イリヤの声がふるえていた。フランはひびの走った手でイリヤの頭をぽんと撫でた。
「ウ」
イリヤはフランを支えながら、灯也を振りかえった。
「……火、消えなかったわね」
「うん。ありがとう、イリヤ。フランも」
「お礼なんか、いらない。飴のぶんはこれでほんとに貸し借りなしだから」
イリヤはぷいと顔をそむけた。
「次に会ったら、敵同士よ。……たぶんね」
母屋の屋根の上でアルジュナが膝をついていた。黒い炎はもう消えていた。白い衣の背中がひどく小さく見えた。
「……申し訳ありません、マスター。私は……」
「あとで」
凛が屋根を見上げて言った。
「あとでちゃんと話してもらうから。今はいい」
その声は怒っていなかった。
「ねえねえ、見た!? ボク、ランサーを転ばせたんだよ!」
アストルフォが灯也のまわりを跳ねまわった。
「見た見た。すごかった」
「でしょー!」
フラットだけが、もう誰もいない鳥居の笠木を見上げていた。
「……あの子、最後に笑ってたね」
ぽつりと、フラットは言った。
「なんだかすごくうれしそうだった」
夜明け前。灯也は常夜灯の下の石畳に仰向けに寝転がっていた。
両腕には凛が巻いてくれた包帯。「宝石で治してあげたいけど、使える宝石がもう一個もないの!」と半泣きで怒鳴りながら巻いてくれた包帯だった。
隣にアルテラが座っていた。膝を抱えて。いつもと同じ格好で。けれど、膝を抱えた手が小さくふるえていた。
「……アルテラ?」
「わからない」
アルテラは自分の手を見下ろした。
「手が止まらない。胸の奥が冷たい。……あの火を斬るところだった。お前を斬るところだった。思いだすと、こうなる」
灯也はしばらく黙っていた。それから、言った。
「それ、怖いっていうんだよ」
「……怖い」
アルテラはその言葉を、初めて聞く外国の単語のように繰り返した。
「戦いで怖いと思ったことはない。一度もない」
「うん。……たぶん、なくしたくないものができたからだよ」
アルテラは湯のみの中の露草を見た。それから、灯也の、包帯を巻いた腕を見た。
「また、ああなるかもしれない。あの光に呼ばれたら、私はまた——」
「そしたら、また止める」
灯也は言った。
「何回でも。アルテラが迷子になったら、何回でもこの火のとこまで連れて帰ってくる」
アルテラが灯也を見た。
「……命令か」
「ちがうよ」
灯也は少し考えた。命令じゃない。お願いとも少しちがう。
「約束」
「約束」
アルテラはその言葉を口の中でそっと転がした。
「命令とも、お願いともちがうのか」
「うん。どっちかが一方的にするんじゃなくて、ふたりでするやつ」
アルテラはしばらく黙っていた。それから、ふるえの止まりかけた手を灯也のほうへ少しだけ差しだした。
「……どうやってする」
灯也は笑って、包帯だらけの手の小指を立てた。
「こうやって」
ふたりの小指がからまった。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本のーます。……ゆびきった」
アルテラはほどけた小指をじっと見つめた。
「……針を千本飲むのか」
「たとえだよ、たとえ」
「そうか」
アルテラはもう一度自分の小指を見た。
「厳しい約束だ」
手のふるえはいつのまにか止まっていた。
八
朝。百八段の石段を、誰かがゆっくりと登ってきた。息を切らしながら、発泡スチロールの箱を両腕に抱えて。
「源さん……?」
ぼろぼろの境内で灯也は目を丸くした。源さんは鳥居の下で息を整えると、境内を見まわして、目をむいた。
「なんじゃ、こりゃ。また雷か」
「……まあ、そんなとこ」
源さんは箱を石畳の上に置いた。中には氷と、まだぴちぴちと跳ねる鯛が入っていた。
「ゆうべ迷うた」
源さんはぽつりと言った。
「沖で急に機械がみんな死んでのう。霧で何も見えん。波は高うなる。四十年漁師をしとって、どっちが港かわからんかったのは初めてじゃ」
源さんは崖っぷちの常夜灯を見た。
「そしたら、霧の上にあれが見えた」
灯也は息をのんだ。
「ガキのころとおんなじじゃった。あの灯りの下に港がある。……あれを見て、帰ってきた」
源さんは灯也に向きなおって、深々と頭を下げた。
「ありがとうのう、坊主。毎晩つけてくれて」
灯也は何も言えなかった。十年。帰ってくる人なんてもうどこにもいないと思いながら、毎晩つけてきた火だった。
その火を目印にして帰ってきた人が目の前にいた。気がつくと、頬が濡れていた。ぬぐっても、ぬぐっても止まらなかった。
源さんは何も言わずに、ごつい手で灯也の肩を二度たたいた。それから、「千鶴さんによろしゅう」とだけ言って、石段を降りていった。
「トウヤ。なぜ泣く」
隣にアルテラが立っていた。
「……わかんない」
灯也は泣きながら笑った。
「うれしくても、泣くんだよ。人間って」
アルテラは少し考えるような顔をした。灯也は崖の手すりにもたれて、朝の町を見下ろした。霧はすっかり晴れていた。新都心のビル。商店街のアーケード。港のクレーン。
大橋。夜のあいだ灯っていた灯りが朝の光の中でひとつ、またひとつと消えていく。役目を終えたように、静かに。今夜になったら、また灯る。
「アルテラ。……俺、わかった」
「何がだ」
「俺の願い」
灯也は町を見たまま言った。
「この町の灯りを守りたい」
ゆうべ守り火の輪の内側に入れたもの。常夜灯。露草。隣にいるこの子。輪には入りきらなかった、町の灯りと、海と、帰ってくる船。ぜんぶ。
「聖杯なんか、いらない。毎晩ちゃんと灯りがついて、帰ってくる人がちゃんと帰ってこられる。そういう町のままでいてほしい。……それだけ」
アルテラは灯也の横顔を見ていた。それから、同じように町を見下ろした。
「文明の灯りか」
「うん」
「私はそれを壊すために来た」
「知ってる」
「……それでも、か」
「それでも」
アルテラは長いこと黙っていた。朝の風が白い髪を揺らしていた。
「町の灯りのことはまだわからない」
アルテラは自分の小指を見下ろした。ゆうべ、からめた小指を。
「……でも、お前の火は私が守る」
その夕方。灯也はいつものように常夜灯の前に立った。包帯の巻かれた指を灯芯に向ける。
「灯れ」
小さな火がともった。隣でアルテラがそれを見ていた。その足もとで湯のみの露草が夕風に揺れていた。
崖の下では町の灯りがひとつ、またひとつと灯りはじめていた。夏祭りまであと三日だった。