Fate/Starfall Harbor   作:mecono

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第五話 金魚と花火

一

 三日はあっというまに過ぎた。朝六時のガンドは毎朝きっちり飛んできた。授業はその八、その九と進んだ。

 

 あの夜の炎の壁は凛に言わせれば「火事場のばか力」で、練習では腰の高さまで立てるのがやっとだった。それも三秒で崩れた。

 

 両腕の火傷は、凛が塗ってくれる軟膏のおかげでずいぶん痛まなくなった。包帯はまだ取れない。アルジュナはあれからほとんど口をきかなかった。凛も何も聞かなかった。

 

 フラットとアストルフォは手水舎の屋根を直すたびに、もう少しだけ壊した。ランサーのマスターは来なかった。

 

 アルテラは、毎朝いちばんに常夜灯の下の湯のみをのぞきこんだ。露草は閉じたままだった。それでも、アルテラは毎朝、湯のみの水を替えた。そして、祭りの朝が来た。

 

「なんね、その腕は」

 

 病室に入るなり、祖母の目が灯也の両腕に吸いついた。

 

「……料理してて、ちょっと」

 

「あんたが嘘をつくときに右の眉が上がるんは、ちっちゃいころから変わらんのう」

 

 灯也は思わず右の眉を押さえた。うしろでアルテラが言った。

 

「上がっていた」

 

「言わなくていいから」

 

 灯也は観念して、ベッドの脇の丸椅子に腰を下ろした。

 

「……守り火、使ったんだ」

 

 祖母の目がまるくなった。

 

「灯れ、巡れ、守れ。三つとも最後まで言えた。ばあちゃんのよりずっと小さくて、でこぼこだったけど。それでも、ちゃんと壁になった」

 

 祖母はすぐには何も言わなかった。祖母の、包帯を巻いていないほうの手が布団の上から伸びてきて、灯也の腕の包帯にそっと重なった。

 

「……熱かったじゃろう」

 

「うん」

 

「痛かったじゃろう」

 

「……うん」

 

「何を入れたんね。輪の内側に」

 

 灯也は少し考えてから答えた。

 

「常夜灯と、露草と……アルテラ」

 

 祖母は灯也のうしろに立っているアルテラを見た。それから、また灯也を見た。

 

「ほうか」

 

 皺だらけの手が、包帯の上から灯也の腕をゆっくりと撫でた。

 

「……ようやった」

 

 それだけだった。けれど、祖母の手はしばらく灯也の腕から離れなかった。

 

「源さんがのう、きのう見舞いに来てくれたんよ」

 

 祖母は窓のほうを見て笑った。

 

「でっかい鯛をもう一匹抱えて。看護師さんにえらい怒られとったわ」

 

「……聞いた?」

 

「聞いたよ。霧の上にうちの火が見えた、言うて」

 

 祖母は目を細めた。

 

「あの人が泣くのを、わしは五十年で初めて見たわ」

 

「今夜じゃね、祭り」

 

「うん。屋根はブルーシートのままだけど。長老たちが意地でもやるって」

 

「ほうか、ほうか」

 

 祖母はうれしそうに何度もうなずいた。それから、ふいに真顔になった。

 

「ほんなら、今年の火入れはあんたがやるんよ」

 

「……俺が?」

 

「ほかに誰がおるんね」

 

 火入れ。祭りの晩、常夜灯の火を手燭に分けて、石段の提灯にひとつずつ灯していく役目だ。毎年、祖母がやってきた。灯也は、去年までそのうしろで提灯を持って歩いていただけだった。

 

「穂村の火はもうあんたの火じゃろう」

 

 ——お前の火だ。

 

 このあいだの夜、カルナが言った言葉を灯也は思いだした。

 

「アルテラちゃん」

 

 祖母がアルテラを手招きした。

 

「この祭りがなんで始まったか、知っとるかね」

 

「知らない」

 

「昔、空から星が落ちてきてのう。暁浜の海が三日三晩燃えたんじゃと」

 

 アルテラの肩がほんの少しだけ動いた。

 

「火がおさまったあと、生き残った者らは山の上に火を焚いた。海で死んだ者らが迷わんように。……それから、空に向かって言うてやるためにの」

 

「何を、だ」

 

「わしらはまだここにおるぞ、いうて」

 

 祖母は窓の外の青い空を見上げた。

 

「それが常夜灯のはじまりで、祭りのはじまりじゃ。じゃけえ、祭りの晩は町じゅうの灯りをいっぺんにつけて、うんと騒ぐんよ。生きとる者が楽しそうにしとるのを見せるんが、いちばんの供養じゃけえね」

 

 灯也は黙って聞いていた。燃える空。煮えたぎる海。このあいだの夜、アルテラの中に見た景色が一瞬だけまぶたの裏をよぎった。

 

 なぜだか背中がすうっと冷たくなった。アルテラは窓の外を見ていた。

 

「……燃えた海、か」

 

 ひとりごとのような声だった。

 

「アルテラちゃん。今夜はうんと楽しんできんさい」

 

 祖母はアルテラの手を取った。

 

「これはわしからのお願いじゃ」

 

「お願い」

 

 アルテラは自分の手を包む皺だらけの手を見下ろした。

 

「楽しむ。……どうやる」

 

「どうやる、て」

 

「手順を教えろ。努力する」

 

 祖母はきょとんとした。それから、声をあげて笑いだした。笑いすぎて火傷に響いたらしく、「いたた」と顔をしかめて、それでもまだ笑っていた。

 

「そりゃあ、わしにもわからんわ。手順なんか、ありゃあせん」

 

「では、どうすればいい」

 

「気がついたら、楽しんどる。そういうもんじゃ」

 

 アルテラは眉を寄せた。わからない、という顔だった。

 

「ほれ、灯也。箪笥の二段目に、わしの若い時分の浴衣が入っとる。アルテラちゃんに着せちゃりんさい」

 

「お、俺が着せるの!?」

 

「誰があんたに着せえ言うたね。凛ちゃんに頼みんさい」

 

 凛のことは、おとといの見舞いのときにひととおり話してあった。遠坂の家の子がばあちゃんの部屋を借りている。そう聞いた祖母はしばらく黙ってから、「ほうね」とだけ言ったのだった。

 

「凛ちゃんにも一枚出しちゃりんさいよ。若い娘さんを二人も家に置いとるんじゃけえ」

 

「そういう言い方しないでよ……」

 

「にぎやかになったのう、うちも」

 

 祖母はうれしそうに笑った。

 

二

「動かないで」

 

「動いていない」

 

「息も止めて」

 

「……なぜだ」

 

「帯がずれるからよ!」

 

 祖母の部屋の障子の向こうから、凛とアルテラの声がさっきから途切れずに聞こえていた。灯也は縁側で膝を抱えていた。

 

「遠坂さんって、着付けできるんだ」

 

「当たり前でしょ。遠坂の娘が浴衣のひとつも着せられなくて、どうするのよ。……ほら、腕上げて」

 

「上げた」

 

「上げすぎ!」

 

 障子の向こうで何かがばたばたと暴れる気配がした。

 

 しばらくして、障子がすっと開いた。

 

「はい、できた。……穂村くん。なんか言うことあるでしょ」

 

 灯也は口を開けたまま、固まった。白地に青い露草の柄の浴衣だった。

 

 細い紺の帯が背中できゅっと結ばれている。白い髪は凛の手でうなじの上にまとめられていた。いつもの白いヴェールも、「祝・暁浜大橋開通」の文字もどこにもない。

 

 アルテラは自分の袖を持ちあげて、ふしぎそうに眺めていた。

 

「露草だ」

 

「……う、うん」

 

「常夜灯の下の露草はもう咲かない」

 

 アルテラは袖の青い花を指でそっとなぞった。

 

「だが、これは咲いている。……ずっと咲いているのだな」

 

 灯也は何か言おうとした。言葉がひとつも出てこなかった。

 

「……穂村くん?」

 

 凛の声が一段低くなった。

 

「き、きれいだと思います」

 

「なんで敬語なのよ」

 

「きれい」

 

 アルテラが首をかしげた。

 

「私が、か」

 

「……うん」

 

「そうか。……わからない」

 

 それでも、アルテラはしばらく袖から手を離さなかった。

 

 凛も祖母の浴衣を借りていた。紺地に白い撫子が散っている。

 

「……で?」

 

 凛は腕を組んで灯也を見下ろした。

 

「わたしにはなんにもないわけ?」

 

「と、遠坂さんもきれいです」

 

「だから、なんで敬語なのよ!」

 

「じゃーん!」

 

 社務所の戸が勢いよく開いた。アストルフォだった。桃色の地に白い桜の花びらが散った浴衣。三つ編みには赤いとんぼ玉のかんざし。

 

 商店街の呉服屋でフラットに買ってもらったのだという。くるりと回ると、帯の結び目が蝶みたいにふわりと揺れた。

 

「どう? どう? かわいい?」

 

「う、うん。かわいい」

 

 灯也は正直に言った。ほんとうにかわいかった。

 

「やったー!」

 

 アストルフォはぴょんと跳ねた。

 

「ボク、男の子だけどね!」

 

 縁側がしんとなった。

 

「……え?」

 

「え?」

 

「「えええええええっ!?」」

 

 灯也と凛の声が山じゅうに響きわたった。

 

「う、うそでしょ!? 時計塔の資料にはそんなこと一言も……!」

 

「シャルルマーニュ伝説において騎士アストルフォは、男性として記されていますが」

 

 屋根の上からアルジュナが穏やかに言った。

 

「早く言いなさいよ!!」

 

「僕は知ってたよ!」

 

 甚平姿のフラットが社務所から顔を出した。

 

「あんたは黙ってて!」

 

 アルテラだけが表情ひとつ変えずに、アストルフォを見ていた。

 

「知っていた」

 

「知ってたの!?」

 

「骨格でわかる」

 

「そういうことは早く言ってよ……!」

 

 灯也は縁側に突っ伏した。

 

「いい? 今夜の予算はひとり千円よ」

 

 凛は、がま口の財布を胸の前で握りしめて、高らかに宣言した。

 

「宝石の補充が来週まで届かないの。今のわたしは遠坂家の歴史上もっとも貧しい当主なのよ……!」

 

「……大変だね」

 

「同情しないで。みじめになるから」

 

 それから、凛は少しだけ声を落とした。

 

「それと、ランサーのマスター。……今夜たぶん来るわよ」

 

 灯也の背中がこわばった。

 

「人ごみの中で仕掛けてくるってこと?」

 

「わからない。でも、あの子、あんたに興味が出ちゃったみたいだし。来るとしたら、たぶん見物ね」

 

 凛は屋根の上を見上げた。

 

「アーチャー。あんたも来るのよ」

 

「私はここから警戒を——」

 

「屋根の上で見張ってるだけじゃ、祭りに来たことにならないでしょ。……マスター命令よ」

 

 アルジュナは少しだけ黙った。

 

「……承知しました」

 

三

 日が海に沈んだ。境内に人が集まりはじめていた。町内会の長老たち。法被を着た商店街の人たち。まだ火の入っていない子ども提灯を手にした近所の子どもたち。

 

 膝の悪い長老たちもこの晩ばかりは百八段を登ってくる。ブルーシートのかかった拝殿の前で長老のひとりが、太鼓をどんと打った。灯也は常夜灯の前に立っていた。

 

 白衣に、浅葱色の袴。いつか灯也が着る日のためにと、祖母がずっと前から仕立てておいてくれた装束だった。袖を通したのは今日が初めてだ。両腕の包帯は白い袖の中に隠れている。

 

 手燭のろうそくを常夜灯の灯芯の火に近づけた。小さいころから祖母に読まされてきた短い祝詞を唱える。声が少しだけふるえた。

 

 ろうそくの芯に常夜灯の火が移った。長老たちがいっせいに手を合わせた。

 

 灯也は石段を降りはじめた。石段の両脇には三段おきに提灯が吊るしてある。一週間前のあの夕方、灯也が段ボール箱で運びあげた三十個の提灯だ。

 

 ひとつずつ火を入れていく。ひとつ灯すたびに、石段がひとつ明るくなる。

 

 灯也のすぐうしろを、アルテラがついてきた。露草の浴衣の裾を慣れない下駄で、それでも器用にさばきながら。その手にも長老に持たされた小さな提灯がひとつ、揺れていた。

 

 途中で振りかえると、山の上の常夜灯から灯也の背中まで、灯りの列がまっすぐにつながっていた。

 

 百八段を降りきると、石段の下の広場で子どもたちが待ちかまえていた。

 

「とうやにいちゃん、はやくー!」

 

 灯也はいちばん前の子の提灯に手燭の火を分けた。その子が隣の子の提灯に火を分けた。隣の子がまた隣へ。

 

 火が子どもたちの手から手へ渡っていく。小さな女の子が、アルテラの浴衣の袖をくいくいと引っぱった。

 

「おねえちゃん。火ちょうだい」

 

 アルテラは女の子を見下ろした。それから、灯也を見た。灯也はうなずいた。アルテラは少しだけためらってから、自分の提灯を傾けた。ろうそくの火が女の子の提灯にぽっと移った。

 

「ありがとう!」

 

 女の子は提灯を高くかかげて走っていった。アルテラは自分の提灯を見下ろしていた。

 

「……減っていない」

 

「え?」

 

「火を与えた。それなのに、私の火は少しも減っていない」

 

「うん。火は分けても減らないんだよ」

 

 アルテラはしばらく黙って手の中の小さな火を見ていた。

 

「……奪う火しか知らなかった」

 

 広場の向こう、アーケードの入り口では法被姿の町内会長が最初の提灯の前で待ちかまえていた。灯也がその提灯に火を入れる。町内会長が振りかえって、大きく手を振った。

 

「よっしゃあ、点灯ーっ!」

 

 ぱっと。アーケードの提灯が、手前から順にいっせいに灯りはじめた。魚屋の前。八百屋の前。汐屋の前。光の列がアーケードを駆けぬけて、その先の海のほうへ。あちこちで歓声があがった。

 

「……電気だ」

 

 アルテラが言った。

 

「うん、電気」

 

 灯也はちょっと笑った。

 

「最初のひとつだけ本物の火で灯すのが決まりなんだ。あとはまあ、気持ちの問題」

 

「気持ちの問題」

 

 アルテラはまじめな顔で繰りかえした。それから、光の列を目で追った。

 

 山の上の常夜灯から石段の提灯へ。石段の提灯から子どもたちの手の中へ。そこからアーケードを抜けて、海のほうまで。

 

 ひとすじの、灯りの川だった。このあいだ、アルテラが跳びあがって吊るした提灯にも灯りが入っていた。

 

「おーい、穂村ー!」

 

 人ごみの向こうから聞きなれた声がした。浴衣姿のクラスの男子が三人、こちらに手を振っている。

 

「焼きそば券よろしく……って、え?」

 

 三人の目が灯也の隣でぴたりと止まった。

 

「だ、誰、その子」

 

「外国の……いとこ」

 

「いとこ!? 外国の!? お前んち、そんな国際的だったっけ!?」

 

「つーか、その格好なに!? 神主!?」

 

「なんで浴衣!? なんでそんな美人!?」

 

「最後のは関係ないだろ!」

 

 アルテラは三人をじっと見た。三人はぴたりと黙った。

 

「トウヤの友か」

 

「……と、友です」

 

「そうか」

 

 アルテラは小さくうなずいた。

 

「トウヤをよろしく頼む」

 

 三人はなぜかそろって直立不動になり、深々と頭を下げた。

 

 焼きそば券を握りしめて逃げていく三人を見送ってから、アルテラが言った。

 

「トウヤ」

 

「ん?」

 

「前に、お前は私を祭りに誘った」

 

 灯也はアルテラを見た。あの晩、石段のいちばん上で町の灯りを見下ろしながら。命令かと聞かれて、誘ってるの、と答えた。

 

「……うん」

 

「来たぞ」

 

 アルテラは提灯の灯りの川を見たまま、そう言った。灯也は少しだけ笑った。

 

「うん。……いらっしゃい」

 

四

「屋台は四十二軒だ」

 

 アーケードの入り口でアルテラが言った。

 

「……数えたの?」

 

「数えた。端から順に制圧する」

 

「制圧はしなくていいから」

 

 焼きそば。アルテラは紙皿の焼きそばを三口で片づけた。

 

「塩が多い。……わからない」

 

 たこ焼き。ひとつまるごと口に放りこんで、アルテラは固まった。

 

「……熱い」

 

「あ、それ、中がすごく熱いから——」

 

「この国の食べ物は危険なものが多いな」

 

 りんご飴。アルテラは竹串の先の赤い玉を提灯の灯りにかざして、しばらく眺めていた。

 

「赤い。硬い。甘い。……わからない」

 

 綿あめ。ひと口かじって、アルテラは眉を寄せた。

 

「消えた」

 

「綿あめって、そういうものだから」

 

「雲を食べている。……わからない」

 

 ひとつ食べるたびに、わからない。ひとつ見るたびに、わからない。屋台を十二軒まわったところで、灯也はだんだん不安になってきた。

 

 ——今夜はうんと楽しんできんさい。

 

 祖母のお願いを、アルテラはまじめに果たそうとしている。まじめすぎるくらいに。

 

「はい」

 

 目の前に紙のカップが突きだされた。かき氷だった。いちごのシロップが提灯の灯りに赤く透けている。汐屋のおばあちゃんが店先に出した屋台のものだ。

 

「授業料。……くずし字の」

 

 凛はそっぽを向いていた。

 

「覚えてたんだ」

 

「遠坂は借りは必ず返すの。千円のうちの三百円よ。ありがたく食べなさい。……これで貸し借りなしだからね」

 

 灯也は思わず噴きだした。

 

「それイリヤにも言われた」

 

「はあ? なんでわたしが、あの子と同じこと言わなきゃいけないのよ」

 

「いや、今、遠坂さんが言ったんだけど」

 

「うるさい!」

 

 しゃくしゃくと氷を崩しながら、灯也は少し先を歩くアルテラの背中を見た。

 

「……アルテラ、楽しくないのかな」

 

「あれは楽しんでるんじゃなくて、攻略してるのよ」

 

 凛はあっさりと言った。

 

「楽しいって、目標にしたとたんに、逃げていくものなの。……わたしも人のこと言えないけど」

 

 最後のひと言だけ、小さかった。

 

 そのとき、アルテラがぴたりと足を止めた。金魚すくいの屋台だった。水色の浅い水槽の中を、赤い金魚と黒い出目金がひらひらと泳いでいる。水面で提灯の灯りが揺れていた。

 

「これはなんだ」

 

「金魚すくい。この、紙を張った網で金魚をすくうんだ。紙が破れたら、おしまい」

 

「すくって、どうする」

 

「持って帰って、飼う」

 

「……生きたまま、か」

 

「うん。生きたまま」

 

 アルテラは水槽の前にしゃがみこんだ。屋台のおじさんからポイを受けとる。そして、目にもとまらぬ速さで水面を薙いだ。ポイの紙がぱりっと破れた。

 

「……破れた」

 

「速すぎるんだよ!」

 

「もう一度だ」

 

 二枚目。破れた。三枚目。破れた。まわりに子どもたちが集まってきた。

 

「おねえちゃん、へたくそー!」

 

「金魚、逃げとるでー!」

 

 アルテラは子どもたちをちらりと見た。それから、水槽に向きなおった。

 

「……もう一度だ」

 

 四枚目。五枚目。灯也の財布がどんどん軽くなっていく。

 

「予算! 予算!」

 

 凛がうしろで悲鳴をあげた。

 

 六枚目のポイを持ったとき、アルテラの手が止まった。アルテラは水槽の中をじっと見ていた。

 

 剣を振るうときの目ではなかった。何かを壊すときの目でもなかった。灯也がまだ一度も見たことのない目だった。

 

「……速すぎる。強すぎる」

 

 アルテラはひとりごとのように言った。

 

「そっと、だ」

 

 ポイがゆっくりと水に沈んだ。小さな赤い金魚が一匹、その上にすいっと泳いできた。アルテラは息を止めた。ポイをそうっと持ちあげる。紙が金魚の重さでたわむ。

 

 水面を離れる。椀の上まであと少し——。紙が破れた。破れた穴から小さな赤い体がぽちゃんと落ちた。椀の中に。

 

「……あ」

 

 一瞬しんとしてから、子どもたちがわっと沸いた。

 

「すくったー!」

 

「おねえちゃん、すげえ!」

 

 屋台のおじさんが金魚をビニール袋に移して、口を赤い紐で結んでくれた。

 

「ほい。大事にしちゃってな」

 

 アルテラは袋を受けとって、提灯の灯りにかざした。小さな赤い金魚が水の中でくるりと回った。

 

「……生きている」

 

「うん」

 

「小さいな」

 

 アルテラは袋を両手でそっと包んだ。壊れものを持つみたいに。

 

「これは私のものか」

 

「そうだよ。アルテラのだ」

 

「……大事にする」

 

 子どものひとりがアルテラの袖を引いた。

 

「おねえちゃん、その子の名前、なんにするん?」

 

「名前」

 

 アルテラは少し考えた。

 

「……いちご」

 

「いちご?」

 

 灯也が聞きかえすと、アルテラは袋の中の金魚を見たまま言った。

 

「赤い。……それに、あれは甘かった」

 

 汐屋の、いちごだけのかき氷のことだと灯也が気づくまで、少しかかった。あの日、アルテラはわからないと言ったのだ。それでも、最後のひと匙までゆっくりと食べていた。

 

 凛が灯也の袖をちょいちょいと引いた。

 

「……ねえ。気づいてる?」

 

「なにが」

 

「あの子、金魚すくいを始めてから、一回もわからないって言ってないわよ」

 

 灯也はアルテラを見た。アルテラはまだ袋の中の金魚を見つめていた。提灯の灯りの中で子どもたちに囲まれて。本人はまるで気づいていないようだった。

 

五

「取りかえすのよ、予算を」

 

 そう言い残して、凛はアルジュナの袖を引っぱり、射的の屋台のほうへ消えていった。

 

 ベビーカステラの屋台の前で小さな女の子が、背伸びをしていた。黒い帽子。金色の髪。腕の中にはクマのぬいぐるみ。

 

 鉄板の上でまるい小さなカステラが、ころころと焼きあがっていく。女の子はそれを宝石でも見るような目で見つめていた。

 

「パンケーキの……赤ちゃん……!」

 

「アビー、勝手に走るなって——」

 

 人ごみをかきわけて、眼鏡の少年が追いついてきた。灯也と同じくらいか、少し年上だろうか。くたびれたTシャツに、首からさげた小銭入れ。

 

 少年の目が灯也の右手の甲で止まった。それから、灯也の隣のアルテラで。少年の顔からさあっと血の気が引いた。

 

「ま、待て待て待て!」

 

 少年は両手を顔の前でぶんぶんと振った。

 

「戦う気はない! ぜんぜんない! 今日はこいつが祭りに行きたいってずっと言ってたから……!」

 

「お、俺も今日は戦う気ないよ」

 

 灯也もあわてて両手を上げた。ふたりは両手を上げたまま、しばらく見つめあった。ベビーカステラ屋のおばさんが、ふしぎそうな顔でふたりを見ていた。

 

 女の子がくるりと振りかえった。青い瞳がアルテラを見上げた。その額に一瞬、銀色の何かが浮かんで消えた。鍵穴の形をしていた。

 

「……まあ」

 

 女の子はぱちぱちとまばたきをした。

 

「あなたもとっても遠いところから来たのね」

 

 金魚の袋を持つアルテラの指がぴくりと動いた。

 

「お星さまの匂いがするわ」

 

「……カウレス。カウレス・フォルヴェッジ・ユグドミレニア」

 

 少年は観念したように名乗った。

 

「こいつは俺の……フォーリナー」

 

「アビゲイル・ウィリアムズよ。アビーって呼んでね」

 

 女の子が帽子をちょこんと持ちあげて、お辞儀をした。

 

「真名! お前、真名!」

 

「あら。いけなかったかしら」

 

 どこか遠くで凛が「この町のマスターは……!」と頭を抱えている姿が、なぜかありありと灯也の目に浮かんだ。

 

 アビーはアルテラの手の中の袋に気づいて、目を輝かせた。

 

「まあ、金魚! かわいい! お名前は?」

 

「いちごだ」

 

「すてき!」

 

 アビーはベビーカステラの紙袋をアルテラに差しだした。

 

「セイバーさんもおひとついかが?」

 

 アルテラは少し迷ってから、ひとつつまんで口に入れた。

 

「……甘い」

 

「でしょう?」

 

 アビーはうれしそうに笑った。

 

 屋台の裏の石垣に灯也とカウレスは並んで腰を下ろした。少し離れたところでアルテラとアビーが、金魚の袋をのぞきこんでいる。

 

「……一族の命令で偵察に来ただけだったんだ」

 

 カウレスはラムネの瓶をもてあそびながら言った。

 

「郷土資料館に古い銀の鍵があってさ。旧居留地にいた宣教師の遺品で、もとはアメリカの魔女裁判の証拠品だったとかいう、いわくつきのやつ。……それを調べてたら、手に令呪が出て、あいつが出てきた」

 

「事故みたいなもん?」

 

「事故だよ。完全に」

 

 カウレスは乾いた声で笑った。

 

「ほんとうなら、ここに来るのは姉ちゃんのはずだったんだ。姉ちゃんはちゃんとした魔術師だから。俺は……その、予備」

 

「予備?」

 

「姉ちゃんに何かあったときのための予備。うちの一族じゃ昔からそういうことになってる」

 

 灯也は少し黙ってから言った。

 

「俺もちゃんとした魔術師じゃないよ。ちょっと前までマッチ一本分の火しかつけられなかった」

 

「……マジで? それで、セイバーのマスターやってんの?」

 

「やってる」

 

「なんだよ、それ……」

 

 カウレスはあきれたように笑った。さっきより少しだけちゃんとした笑い方だった。

 

「あいつさ」

 

 カウレスはアビーのほうを見た。

 

「夜になると、ときどきへんなんだ。暗いところばっかりじっと見てる。……暗いと、鍵穴の向こうがよく見えるんだって」

 

 灯也は返す言葉を探して、見つけられなかった。

 

「でも、昼間はふつうの子なんだぜ。パンケーキが好きで、怖がりで、ひとりじゃ寝られなくて。俺がゲームの話をしてやると、わかんないくせに、ずっと聞いてて」

 

 カウレスはラムネの瓶の中のビー玉をからんと鳴らした。

 

「……だから、今日くらいは明るいとこに連れてきてやりたかったんだよ」

 

「あら」

 

 背後から涼しい声がした。

 

「穂村さん。ずいぶんと、にぎやかなお友だちが増えましたね」

 

 カレンだった。黒い修道服のまま、片手にりんご飴を持っている。

 

「カ、カレンさん? なんでここに」

 

「監督役の視察です」

 

 カレンはりんご飴を上品にひとかじりした。

 

「それに、甘いものは嫌いではありませんので」

 

 金色の瞳が、アルテラと並んで笑っているアビーの上で止まった。修道服の袖口から包帯がのぞいている。その白い布にじわりと、赤いものがにじんだ。

 

「……まあ。かわいらしいお客さま」

 

 カレンは何ごともなかったように、袖を引きおろした。それから、灯也にだけ聞こえる声で言った。

 

「今夜は灯りを絶やさないことです、穂村さん。……暗いところがお好きなお客さまが、いらっしゃるようですから」

 

「え……」

 

 カレンは灯也の手に小さな缶を押しつけた。

 

「教会の軟膏です。火傷によく効きますよ」

 

 にっこりと微笑む。

 

「とてもしみますけれど」

 

 そして、人ごみの中へすっと消えていった。カウレスがぽかんとして、その背中を見送った。

 

「……今の、監督役? なんでお前にだけあんなに親切なの」

 

「親切……だったのかな、今の」

 

 それから、灯也とカウレスはなんとなくスマートフォンの連絡先を交換した。

 

「なんかあったら、連絡しろよ。……いや、敵同士なんだけどさ」

 

 カウレスは自分で言って、自分で首をかしげた。

 

「なんかもうよくわかんねえな、この戦争」

 

 灯也はアルテラの手の中の袋を見た。

 

「いちごの入れもの取ってくるよ。蔵にばあちゃんの金魚鉢があったはずだから」

 

「私も行く」

 

「すぐ戻るから。アビーたちとここにいて」

 

 アルテラは少しだけ黙ってから、うなずいた。

 

「……すぐだぞ」

 

六

「アーチャー。あれ」

 

 凛は射的の屋台のいちばん上の段を指さした。最新型のゲーム機の箱がでんと鎮座していた。

 

「あれ、売れば、宝石ひとつぶんくらいにはなるわ」

 

「……マスター」

 

「なによ。予算を取りかえすの。千円の三百円を」

 

 アルジュナは小さく息をついて、店主からコルク銃を受けとった。構える。その瞬間、屋台の前の空気が変わった。射的の店主が思わず一歩下がった。ぽんと、軽い音がした。

 

 コルクの弾がゲーム機の箱の右上の角に当たった。箱はぐらりと傾いて——落ちた。店主の顔から血の気が引いた。

 

「なっ……! あれは中に重りを……いや、なんでもない」

 

「重り?」

 

「なんでもない!」

 

 まわりの客からおおっ、と歓声があがった。

 

「店主」

 

 静かな声がした。

 

「オレにも一丁貸してもらえるか」

 

 凛は振りかえった。白い髪。淡い青の瞳。紺の浴衣の胸もとから赤い石がのぞいている。カルナだった。

 

「……あんた」

 

「今夜は戦いに来たのではない。マスターに祭りを見せに来た」

 

 カルナは店主に硬貨を渡して、コルク銃を手に取った。

 

「そのマスターは少しひとりで歩きたいそうだ」

 

 凛の隣でコルク銃を握るアルジュナの指が白くなった。

 

 ぽん。アルジュナの弾がキャラメルの箱を落とした。ぽん。カルナの弾がその隣のけん玉を落とした。ぽん。ぽん。ぽん。ぽん。

 

 ふたりはひと言も口をきかなかった。目も合わせなかった。ただ、交互に、正確に引き金を引きつづけた。棚の上の景品がひとつ、またひとつと消えていく。

 

 いつのまにか屋台のまわりに黒山の人だかりができていた。

 

「なんじゃ、あの兄ちゃんら……」

 

「一発も外さんで……」

 

「白い髪のにいちゃん、がんばれー!」

 

「白い服のにいちゃんもー!」

 

 子どもたちがどちらにも同じように声援を送っていた。店主は泣きそうな顔で、からっぽになっていく棚を見つめていた。

 

 最後に残ったのはいちばん上の段の金色の招き猫だった。ふたつの銃口が同時にそこを向いた。ぽんと。ふたつの音がひとつに重なった。

 

 二発のコルクが空中で真正面からぶつかりあった。そして、ぽとりと。招き猫の手前に並んで落ちた。

 

 招き猫は棚の上で何ごともなかったように、片手をあげつづけていた。一瞬の静けさのあと、人だかりがどっと沸いた。

 

 凛はアルジュナの手を見た。コルク銃を握る指先に黒いものがちろりと揺れていた。凛は黙って、アルジュナの白いシャツの袖をつかんだ。

 

「今日は祭りよ」

 

 アルジュナの肩からふっと力が抜けた。黒いものが消えた。カルナが銃を台に置いた。

 

「……ああ。今日は祭りだ」

 

 カルナは自分の取った景品の山を両腕に抱えた。そして、まわりの子どもたちにひとつずつ配りはじめた。キャラメル。けん玉。水鉄砲。ひとりにひとつ、ていねいに、手渡しで。

 

「にいちゃん、ありがとう!」

 

「くれるん!?」

 

「ああ。オレには使い道がない」

 

 最後のひとつを渡し終えると、カルナはアルジュナを見た。

 

「良い腕だ。……あの日と変わらないな」

 

 アルジュナの顔がこわばった。

 

「……その話をするな」

 

「そうか」

 

 カルナはそれ以上は何も言わなかった。人ごみの中へ静かに去っていった。

 

 アルジュナはしばらくその背中を見ていた。それから、自分の取った景品の山を見下ろした。そして、子どもたちのほうへ向きなおった。

 

「……皆さん。こちらもどうぞ」

 

「ちょっ……!」

 

 凛の手が空をつかんだ。

 

「アーチャー!! それ、わたしの宝石代!!」

 

 最新型のゲーム機の箱が、いちばん小さな男の子の腕の中にすっぽりと収まった。男の子は口をぱくぱくさせていた。

 

「……申し訳ありません、マスター。なぜか負けたくなかったのです」

 

「施しで張りあって、どうすんのよ!!」

 

 凛の叫びは子どもたちの歓声にかき消された。それから、凛ははっとした。

 

 ——そのマスターは少しひとりで歩きたいそうだ。

 

 凛は人ごみを見まわした。灯也の姿はどこにもなかった。

 

 同じころ、灯也はひとりで山の上の境内にいた。蔵の奥の古い木箱から、祖母が昔使っていたガラスの金魚鉢を見つけだしたときには、祭りの音はずいぶん遠くなっていた。

 

 金魚鉢を抱えて、蔵を出る。常夜灯の前に誰かがいた。白い浴衣。水色の帯。月の光を吸いこんだような、長い髪。

 

 沙条愛歌が常夜灯の台座に腰かけて、頭の上の火をじっと見上げていた。嫌いなものの形を確かめるような目で。

 

「こんばんは、灯也くん」

 

 愛歌は振りかえらずに言った。

 

 灯也は金魚鉢を抱えたまま、動けなかった。

 

「そんな顔しないで。今夜は遊びに来ただけ」

 

 愛歌は手にしたりんご飴をちろりとなめた。

 

「ランサーがね、お祭りを見に行かないかって言ったの。めずらしいでしょう? あの人が自分から何かしたいって言うなんて」

 

 愛歌はくすくすと笑った。

 

「でも、つまらなかったわ。ぜんぶ知ってるんだもの」

 

「……知ってる?」

 

「ええ。どの屋台のたこ焼きにたこが入っていないか。射的のゲーム機の箱に重りが入っていること。八百屋のおじさんが、奥さんに内緒でへそくりを長靴の中に隠していること。……それから、今、ランサーが射的で引き分けたことも」

 

 愛歌はつまらなそうに肩をすくめた。

 

「わたし、なんでも知ってるの。生まれたときからずっと。だから、なにを見ても、なにも楽しくないの」

 

 それから、愛歌はようやく灯也のほうを向いた。

 

「ねえ、灯也くん。楽しいって、なあに?」

 

「……わからないよ、そんなの」

 

「あなたも知らないのね」

 

 愛歌は少しだけがっかりしたような顔をした。それから、またにっこりと笑った。

 

「でもね。あなたのことだけはわからないの。あの夜、あなたの火がどうして消えなかったのか。どうしてわたしの鍵が、あなたのところへ帰っていったのか。……それが知りたくて、来たの」

 

 愛歌は常夜灯の台座からぴょんと降りた。

 

「だから、かわりにひとつ教えてあげる」

 

「……なにを」

 

「十年前。あなたのお父さんとお母さんの乗った船が、どうして沈んだのか」

 

 灯也の息が止まった。

 

「ただの嵐よ」

 

 愛歌はあっさりと言った。

 

「誰のせいでもないの。誰かの悪だくみでも、神さまの罰でもない。あの晩、たまたまあの海にあの風が吹いた。それだけ。ただの偶然」

 

 愛歌は首をかしげた。

 

「ね。つまらないでしょう?」

 

 灯也は何も言えなかった。

 

「世界って、ぜんぶそういうふうにできてるの。ぜんぶただの偶然で、ぜんぶ意味なんてないの。……だから、わたしは退屈なの」

 

 祭りの音が山の下から遠く聞こえていた。灯也は金魚鉢を抱えた腕に力をこめた。包帯の下の火傷がずきりと痛んだ。ただの嵐。誰のせいでもない。

 

 十年間ずっと知りたかったことだった。誰かのせいなら、その誰かを恨めた。神さまのせいなら、神さまに怒れた。でも、誰のせいでもなかった。それなら——。

 

「……つまらなくなんかない」

 

 声がかすれた。

 

「あの晩から俺は毎晩火をつけてきた。誰も帰ってこないってわかってても。……そしたら、この前、源さんが帰ってきた」

 

 灯也は顔を上げた。

 

「誰のせいでもないことが起きて、そのあと何をするか。それは俺たちが決めていいんだ。……ずっと昔、海が燃えたあとでこの火をつけた人たちだって、きっとそうしたんだ」

 

 灯也は愛歌をまっすぐに見た。

 

「つまらないわけ、ないだろ」

 

 愛歌は長いこと灯也を見ていた。ショーウィンドウの人形を眺める目ではなかった。あの夜と同じ、知らない言葉を初めて聞いた子どものような目だった。

 

「……やっぱりわからない」

 

 ぽつりと愛歌は言った。それから、ふいに常夜灯に顔を近づけて、ふうっと火に息を吹きかけた。

 

 炎が地面につきそうなほど低くなびいた。灯也の心臓が跳ねた。炎は一瞬消えかけて——またまっすぐに立ちあがった。

 

「ほらね」

 

 愛歌はころころと笑った。

 

「わたしが本気で消そうと思ったら、こんな火いつでも消せるの。……でも、まだ消さない。だって、まだわからないんだもの」

 

 愛歌は灯也の脇をすりぬけて、石段のほうへ歩いていった。鳥居の下で一度だけ振りかえる。

 

「そうそう。お祭りが終わって、灯りが消えたら、暗い夜が来るわね」

 

 長い髪が夜風に揺れた。

 

「暗いのが好きな子もいるのよ。……またね、灯也くん」

 

 白い浴衣が石段の闇の中へ溶けるように消えていった。常夜灯の台座の上にりんご飴の竹串が、一本だけ残されていた。

 

 山のふもと、参道をはずれた暗い路地でカルナが待っていた。いつのまにかその隣に白い浴衣の主が立っていた。

 

「話はできたか」

 

「ええ」

 

 愛歌はカルナの隣に並んで歩きだした。

 

「やっぱりへんな子だったわ」

 

 カルナは主の横顔を見下ろした。

 

「マスター。今笑っていたな」

 

「あら。わたしはいつも笑ってるわ」

 

「……いつもとはちがう顔だった」

 

 愛歌は答えなかった。

 

 ほとんど入れちがいに石段を駆けあがってくる足音が、山の上の灯也の耳に届いた。

 

「トウヤ!」

 

 アルテラだった。浴衣の裾をからげて、下駄を片手に、裸足のまま。もう片方の手には金魚の袋をしっかりと握っている。

 

「あの女の匂いがした」

 

「うん。……今、帰ったよ」

 

 アルテラは灯也の顔をじっと見た。

 

「何かされたか」

 

「……何も。話しただけ」

 

 灯也は金魚鉢を持ちあげて、笑ってみせた。

 

「ほら、あったよ。いちごの家」

 

 アルテラはしばらく灯也の顔を見ていた。それから、言った。

 

「すぐ、と言った」

 

「……ごめん」

 

「遅い」

 

 アルテラは灯也の手から金魚鉢を取りあげた。手水舎で水を張り、袋の口をほどいて、いちごをそっと鉢に移す。

 

 それから、すたすたと石段を降りはじめた。灯也は常夜灯を振りかえった。炎はいつもと同じようにまっすぐに燃えていた。

 

七

「穂村くん!」

 

 石段の下で凛が息を切らして待っていた。

 

「ランサーのマスターがひとりで——」

 

「うん。会った」

 

「会ったの!?」

 

「話しただけ。……もう帰ったよ」

 

 凛は灯也の顔をじっと見た。それから、金魚鉢を抱えたアルテラを見た。

 

「……あとでちゃんと聞かせなさいよ」

 

「うん」

 

 広場の真ん中に組まれた櫓の上で太鼓が鳴っていた。櫓のまわりを浴衣の人たちが輪になって踊っている。手をたたいて、足を踏みだして、くるりと回る。

 

「セイバーちゃん、トウヤくん、こっちこっちー!」

 

 輪の中でアストルフォが両手をぶんぶん振っていた。その隣でアビーが見よう見まねで手をたたいている。カウレスは輪の外で居心地悪そうに腕を組んでいた。

 

「アビー、もうちょっと小さく……」

 

「マスターも踊りましょう!」

 

「俺はいいって……うわっ」

 

 アビーに手を引かれて、カウレスも輪の中に吸いこまれていった。

 

 アルテラは金魚鉢を灯也にあずけて、輪の外から踊りの手順をじっと見ていた。十秒ほどで輪に入った。手をたたく。足を踏みだす。くるりと回る。前の人の動きと寸分たがわない。

 

「おねえちゃん、うまっ!」

 

「今来たばっかりじゃろ!?」

 

 まわりのおばあちゃんたちが目を丸くした。そのうしろでアストルフォが右と左をまちがえて、思いきりアルテラにぶつかった。

 

「わあっ、ごめーん!」

 

 アルテラの手順が崩れた。アビーがくすくすと笑いだした。アストルフォもけらけらと笑った。カウレスまでこらえきれずに噴きだした。

 

 アルテラは崩れた足のまま、少しのあいだみんなを見ていた。

 

「セイバーさん、いま笑った?」

 

 アビーがアルテラの顔をのぞきこんだ。

 

「笑っていない」

 

「笑ったわ」

 

「笑っていない」

 

 アルテラはくるりと回った。今度は少しだけ手順がずれていた。

 

 輪の外で甚平姿のフラットが櫓を見上げていた。

 

「ねえ、トウヤくん」

 

「ん?」

 

「この踊り、すごいね。……輪になってる」

 

 フラットは指で宙にぐるりと大きな円を描いた。

 

「みんな、ばらばらの人なのに、おんなじ速さでぐるぐる回ってる。魔術でもなんでもないのに。……トウヤくんの、巡れみたいだ」

 

 灯也は踊りの輪を見た。提灯の灯りの下でたくさんの人が、ひとつの輪になって回っていた。八百屋のおじさん。

 

 汐屋のおばあちゃん。クラスの男子たち。アストルフォ。アビーとカウレス。そして、アルテラ。

 

「……ほんとだ」

 

「あとね」

 

 フラットは急に声を落とした。

 

「あの金髪の子のおでこの。……あれ、魔術じゃないよ。術式がひとつもないんだ」

 

「え?」

 

「あれは扉。どこか、すごく、すごく遠いところへの」

 

 フラットはめずらしく笑っていなかった。

 

「今はちゃんと閉まってるけどね」

 

 輪の向こう側で凛が足を止めていた。その目は踊りの輪のさらに向こうを見ていた。

 

 広場のはずれの、提灯の灯りがとぎれるあたり。淡い藤色の浴衣を着た少女がひとり立っていた。隣には黒い浴衣の、背の高い女。色の抜けたような髪と、金色の目。

 

「……桜?」

 

 凛の唇が小さく動いた。少女がこちらを見た。目が合った。少女はほんの少しだけ頭を下げた。

 

 踊りの輪が回って、人の影がふたりのあいだを横切った。影が過ぎたとき、少女はもういなかった。

 

「マスター?」

 

 アルジュナが凛の顔をのぞきこんだ。

 

「……なんでもない」

 

 凛は浴衣の帯をぎゅっと握っていた。

 

 どんと。海のほうで、腹の底に響く音がした。夜空に大きな光の花が開いた。

 

「花火だー!」

 

 広場じゅうから歓声があがった。踊りの輪がほどけて、みんながいっせいに海のほうを見上げる。

 

「トウヤ」

 

 アルテラが灯也の袖を引いた。

 

「どこから見るのがいちばんいい」

 

 灯也は山の上を指さした。

 

「うちの常夜灯の前。……でも、今から百八段登ってたら、半分終わっちゃうかな」

 

「そうか」

 

 アルテラは灯也を金魚鉢ごとひょいと抱えあげた。

 

「えっ」

 

「急ぐぞ」

 

「ちょ、ちょっと待っ——」

 

 とんと、石畳を蹴る音がした。次の瞬間、灯也の体は提灯の灯る石段の上を飛ぶように駆けあがっていた。三段ごとの提灯がものすごい速さでうしろへ流れていく。

 

「いちご! いちごがこぼれる!」

 

「こぼさない」

 

 金魚鉢の中でいちごがぐるぐると回っていた。

 

八

 常夜灯の前の崖っぷちの手すり。そこからは湾のぜんぶが見えた。

 

 海の上に次々と光の花が咲いていた。赤。緑。青。金色。ひらいて、垂れて、消えて、またひらく。少し遅れて、どん、どんと、音が胸をたたく。

 

 アルテラは手すりに両手をかけて、それを見上げていた。すぐそばで常夜灯の火が燃えていた。その足もとには湯のみの露草と、金魚鉢のいちごが並んでいた。

 

「……火薬だ」

 

 アルテラがぽつりと言った。

 

「うん、火薬」

 

「火薬は城壁を崩すためのものだ。人を殺すためのものだ」

 

 アルテラは空を見上げたまま言った。

 

「それが空で花になっている」

 

 どんと。金色の大きな花が、しだれるようにゆっくりと夜空を流れおちていった。

 

「何も壊さない。何も奪わない。何も手に入らない。一瞬で消える」

 

 アルテラは灯也を見た。

 

「なぜこんなことをする」

 

 灯也は少し考えた。

 

「……きれいだからかな」

 

 それから、崖の下の町を見下ろした。

 

「みんなで見上げて、きれいだねって言うため」

 

 崖の下では町じゅうの人が空を見上げていた。花火が開くたびに、たくさんの顔が赤や緑に照らされて、ぱっと浮かびあがる。アルテラはその顔をひとつひとつ見ていた。

 

 石段の中ほど。提灯の灯りの下に凛とアルジュナが、並んで腰かけていた。

 

「マスター」

 

 花火の音の合間にアルジュナが言った。

 

「お話しすると約束しました。……あの男のことを」

 

 凛は黙ってうなずいた。

 

「初めてあの男を見たのも祭りの日でした。王子たちが、師から授かった武芸を民の前で披露する日です」

 

 どんと、花火が鳴った。

 

「私が見せた弓の技を、あの男はひとつ残らずやってのけました。……そして、誰もあの男の腕を見なかった。皆が見たのはあの男の生まれだけでした。御者の子が王子と並ぼうとは何ごとか、と」

 

 アルジュナの指先が膝の上でかすかにふるえていた。

 

「私は何も言いませんでした。言えなかったのか、言わなかったのか。……今でもわからないのです」

 

「……今夜の子どもたちは」

 

「ええ。あの男の腕を見ていました。私の腕と同じように」

 

 アルジュナは夜空を見上げた。

 

「それがなぜかたまらなく——」

 

 その先は花火の音にかき消された。しばらくしてから、アルジュナはもう一度口を開いた。

 

「あの男の前に立つと、私の中の黒いものが目を覚ますのです。完璧な英雄であるべき私が、ただあの男を討ちたいと願う。……それが私のいちばん醜いところです」

 

「醜いかどうかは、わたしが決めるわ」

 

 凛は夜空を見たまま言った。

 

「あんたのマスターなんだから」

 

 アルジュナが凛を見た。凛はそれ以上何も言わなかった。

 

 郊外の山あいに建つ古い別荘のバルコニー。遠い海の上で小さな光の花が音もなく咲いていた。少し遅れて、かすかな音が届く。

 

 フランが手すりから身を乗りだして、夜空に手を伸ばしていた。花を摘もうとするように。

 

「ウ……ゥ……!」

 

「花火っていうのよ、フラン。火の花」

 

 イリヤはフランの隣で手すりに頬杖をついていた。

 

「すぐ消えちゃうけどね」

 

 フランがイリヤを振りかえった。首に巻いた白いスカーフの下から細いひびのような線が、ちらりとのぞいた。

 

「……でも」

 

 イリヤはあの病室の老婆の声を思いだしていた。

 

 ——じゃけど、咲いとるじゃろう?

 

「消えても、また次のが上がるのよね」

 

 遠くで新しい花が夜空に咲いた。フランがうれしそうに手をたたいた。イリヤはその横顔を見ていた。

 

「……来年も見られたらいいのにね」

 

 小さな声だった。フランは花火を見上げたまま、イリヤの手をきゅっと握った。

 

「ウ」

 

 港の防波堤のいちばん先。黒い浴衣の女がコンクリートの上にあぐらをかいていた。

 

「……で?」

 

 女は隣の少女を横目で見た。

 

「楽しいわけ?」

 

「……よくわかりません」

 

 藤色の浴衣の少女——間桐桜は膝を抱えて、夜空を見上げていた。

 

「あっそ」

 

 アヴェンジャーは鼻を鳴らした。

 

「わかんなくていいのよ。あんた、あのジジイの屋敷の窓から提灯ばっかり見てたでしょ。……だから、連れてきた。それだけ」

 

「……ありがとうございます」

 

「礼なんか言うな。むずがゆい」

 

 どんと。赤い花が開いた。

 

「……遠坂先輩がいました」

 

「知り合い?」

 

 桜は少しだけ黙った。

 

「……いいえ」

 

 アヴェンジャーは何か言いかけてやめた。かわりに、振りむきもせずに、背後の暗がりへ指を弾いた。

 

 黒い炎がぼっと燃えあがった。防波堤の陰で何か小さなものが、きいっと鳴いて灰になった。

 

「……ちっ。虫が多いわね、この町は」

 

 桜は何も言わなかった。ただ、膝を抱える腕に少しだけ力をこめた。

 

 花火は終わりに近づいていた。海の上いっぱいに光の花が次から次へと咲きみだれる。赤も、緑も、青も、金もいっぺんに。夜空が昼間のように明るくなった。

 

 どん、どん、どんと、音が休みなく胸をたたく。灯也はふと隣を見た。そして、息をのんだ。アルテラが笑っていた。

 

 口もとがほんの少しだけゆるんでいる。それだけだった。けれど、それはまちがいなく笑顔だった。花火の光がその横顔を赤に、緑に、青に染めかえていた。アルテラが自分の頬に指でふれた。

 

「……トウヤ」

 

「うん」

 

「私の顔は今どうなっている」

 

「……笑ってる」

 

「そうか」

 

 アルテラはもう一度夜空を見上げた。

 

「胸の奥がうるさい。あたたかくて、うるさい」

 

 どんと、また花が開いた。

 

「……終わってほしくないと思う」

 

 手すりを握る指に力がこもった。

 

「これはなんだ」

 

 灯也は笑った。あの夜明け前に、怖いという言葉を教えたときのことを思いだしていた。

 

「それが、楽しい、だよ」

 

「楽しい」

 

 アルテラはその言葉を口の中でゆっくりと転がした。

 

「……楽しい」

 

 それから、長いこと黙っていた。

 

「かき氷のときもこうだった」

 

「え?」

 

「露草のときも。金魚のときも。……お前の火を見ているときも」

 

 アルテラは灯也を見た。

 

「私はとっくに楽しかったのか」

 

 灯也は胸がいっぱいで、すぐには返事ができなかった。

 

「わからない、とずっと言っていたのに」

 

 アルテラは少しだけ眉を寄せた。

 

「……不覚だ」

 

 灯也は噴きだした。

 

「笑うな」

 

「ごめ……っ、だって……」

 

「笑うなと言っている」

 

 そう言ったアルテラの口からふっと、小さな息がもれた。それはほんとうに小さな笑い声だった。灯也が初めて聞く声だった。

 

 最後の花火が夜空いっぱいに広がって、ゆっくりと消えていった。灯也はスマートフォンを取りだした。祖母は二回目の呼びだし音で出た。

 

『見えたよ、見えた。病室の窓からぜんぶ見えたわ』

 

 祖母の声ははずんでいた。

 

『どうじゃった。アルテラちゃんは』

 

 灯也は何も言わずに、スマートフォンをアルテラに差しだした。アルテラは少しためらってから、それを耳に当てた。

 

「……千鶴」

 

『はいはい』

 

「お願いは果たした」

 

 アルテラは、花火の煙がうっすらと残る夜空をまっすぐに見ていた。

 

「楽しい」

 

 電話の向こうがしばらく静かになった。それから、鼻をすする音がした。

 

『……ほうか』

 

 祖母の声が少しだけふるえていた。

 

『ほうか、ほうか』

 

九

 祭りが終わった。アーケードの提灯が店じまいの順に消えていく。石段の提灯は、降りていく長老たちがひとつずつ吹き消していった。町の灯りがいつもの夜の数に戻っていく。

 

 常夜灯の足もとに湯のみと、金魚鉢が並んだ。ガラスの鉢の中でいちごがくるりと回った。常夜灯の火を映して、小さな赤い体がきらりと光る。

 

 アルテラはその前にしゃがみこんで、いつまでもそれを見ていた。灯也は母屋の縁側の柱にもたれて、そのうしろ姿を見ているうちに、いつのまにかうとうとしていた。

 

 午前二時。郷土資料館の宿直室。カウレスは電気をつけたまま、携帯ゲーム機を握って眠りこんでいた。祭りから帰る道でアビーと約束したのだ。今夜は電気をつけて寝ような、と。

 

 隣の布団でアビーが目を開けた。部屋は明るかった。それなのに、アビーには聞こえていた。海の底から。誰かの鼻歌のような、ゆるやかな歌が。

 

「……だあれ?」

 

 アビーは布団の上に起きあがった。額の鍵穴がぼんやりと銀色に光りはじめた。

 

 明るい部屋の中でアビーの影だけが黒く、深く伸びていった。影の奥で何かがゆっくりとまばたきをした。小さな、たくさんの目のようなものが。

 

「……わたしを呼んでいるの?」

 

 アビーはクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。それから、そっとそれを枕もとに置いた。眠っているカウレスの顔を少しだけ見つめる。

 

「マスター。……すぐ戻るわ」

 

 鍵穴が開いた。

 

 旧居留地の教会でカレン・オルテンシアは、祭壇の前に膝をついた。両腕の包帯がいっせいに真っ赤に染まっていた。

 

「……あら」

 

 カレンは血に濡れた指先を見下ろして、かすかに眉を寄せた。

 

「これは……いけませんね」

 

 山の上の境内で常夜灯の火がゆらりと揺れた。風はなかった。金魚鉢の前でアルテラが顔を上げた。紅い瞳が暗い湾を見ていた。

 

「……海が鳴っている」

 

 縁側で灯也ははっと目を覚ました。ポケットの中でスマートフォンが震えていた。画面に、さっき登録したばかりの名前が光っている。

 

『……穂村か』

 

 カウレスの声だった。息が切れていた。

 

『アビーが……アビーがいないんだ』

 

 夏祭りの夜はまだ終わっていなかった。

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