Fate/Starfall Harbor   作:mecono

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第六話 分ける火と、閉じる鍵

一

「いないって……どういうことだよ」

 

 灯也は縁側から跳ね起きた。

 

『起きたら、隣の布団がからっぽで……クマだけ、枕のとこに置いてあって……』

 

 カウレスの声はところどころざらざらと割れていた。電波が悪いときの音とはちがった。雑音の向こうで誰かが小さく歌っているような音だった。

 

『パスが……あいつとのつながりが、海のほうに引っぱられてるんだ。どんどん遠くに……』

 

「今どこ」

 

『資料館の前』

 

「そこで待ってろ。すぐ行く」

 

『穂村、俺——』

 

 通話が切れた。かけなおしても、呼びだし音すら鳴らなかった。

 

 灯也は常夜灯の前へ走った。アルテラは崖っぷちの手すりの前に立って、湾を見下ろしていた。

 

「アルテラ」

 

「見ろ」

 

 灯也はその隣に並んだ。そして、息をのんだ。

 

 町の灯りが食べられていた。ほかに言いようがなかった。港に近い旧居留地のあたり。古い洋館の並ぶ坂の町の灯りがひとつ、またひとつと黒い何かに呑まれていく。消えるのではない。

 

 街灯も、窓の灯りもたしかにそこで点いているのに、その光がどこにも届いていないのだ。水に墨を一滴落としたように、黒いしみが町の上にじわじわと広がっていく。

 

 しみは海のほうへ。それから、こちらへ。灯也の背中がぞくりとした。祭りの晩、町の灯りは山の上から海のほうへ順番に灯っていった。

 

 今、町の灯りは海のほうから順番に呑まれてくる。祭りの夜をさかさまに巻きもどすみたいに。

 

「なによ、こんな夜中に……」

 

 母屋の戸が開いて、凛が出てきた。パジャマの上にカーディガンをひっかけている。髪はほどいたままだった。凛は崖の下を見た。眠そうだった目が一瞬ですっと冷えた。

 

「……停電じゃないわね」

 

「マスター」

 

 屋根の上からアルジュナが降りてきた。弓をもう手にしている。

 

「あれは闇ではありません。……穴です」

 

「穴?」

 

「光があの中へ落ちていくのです。底のない井戸に水が落ちていくように」

 

「扉が開いちゃったんだ」

 

 社務所の戸口にフラットが立っていた。甚平のまま、裸足で。めずらしく笑っていなかった。

 

「あの金髪の子の。……祭りのときはちゃんと閉まってたのに」

 

 そのうしろからアストルフォが、寝ぐせだらけの頭をひょこりとのぞかせた。

 

「なになに? 敵襲? ボクの出番?」

 

「カウレスから電話があった。アビーがいなくなったって」

 

 灯也が言うと、凛が眉をひそめた。

 

「フォーリナーのマスター? あんた、いつのまにそんな仲になってたのよ」

 

「祭りで連絡先交換した」

 

「敵のマスターと!?」

 

「なんかあったら連絡しろって言われたんだ。……だから、行く」

 

 凛は何か言いかけて、やめた。それから、深々とため息をついた。

 

「……あんたって、ほんとそういうとこよね」

 

 凛はカーディガンの袖をぐいとまくりあげた。

 

「アーチャー。行くわよ」

 

「承知しました」

 

「トウヤ」

 

 アルテラが金魚鉢の横から何かを取りあげた。小さな、丸い提灯だった。祭りの晩、長老に持たされたものだ。ろうそくは燃えつきて、紙の中はからっぽになっている。

 

「これを持っていく」

 

「提灯?」

 

「あの子が言っていた。暗いのは怖いと」

 

 アルテラは提灯の柄をきゅっと握った。

 

「金魚をふたりで見ていたときに」

 

 灯也は思いだした。祭りの夜、自分とカウレスが石垣に並んで話していたあいだ、少し離れたところでアルテラとアビーは金魚の袋をのぞきこんでいた。何を話しているのかは聞こえなかった。

 

「……うん。持っていこう」

 

「じゃあ、ボクたちは空から行くね!」

 

 アストルフォが指を口にくわえて、ぴいっと鋭く鳴らした。夜空の高いところで何かが羽ばたいた。強い風が境内の砂利を巻きあげた。

 

 鷲の頭。鷲の翼。そして、たくましい馬の胴体。星明かりを背に負って、巨大な幻獣が常夜灯の前に舞いおりてきた。金色の目がぎょろりと灯也を見下ろした。

 

「紹介するね! ボクのヒポグリフ!」

 

「ちょっと!!」

 

 凛が叫んだ。

 

「それ、目立つから出すなって言ったでしょ!?」

 

「えー。でも、今、夜中の二時だよ? みんな、寝てるよ?」

 

「……今夜だけよ!」

 

 フラットがアストルフォのうしろにひょいとまたがった。

 

「上から見てくる! あの扉がどこにつながってるのか!」

 

 ヒポグリフがひと声高く鳴いた。翼をひと打ちすると、もう夜空の小さな点になっていた。

 

 アルテラが灯也を抱えあげた。いつものようにひょいと。

 

「急ぐぞ」

 

 灯也はもう文句を言わなかった。崖の下の黒いしみは商店街の手前まで迫ってきていた。

 

二

 百八段の石段にはもう提灯はなかった。祭りが終わったあと、長老たちがひとつずつ吹き消して、片づけていったのだ。

 

 アルテラはその暗い石段を、灯也を抱えたまま、三段飛ばしに駆けおりた。凛を抱えたアルジュナが音もなくそのあとに続いた。

 

 石段の下の広場はまだ明るかった。櫓は組まれたままだった。アーケードの入り口には灯りの消えた提灯が、ずらりと吊るされている。踏まれた綿あめの袋。

 

 焼きそばのソースの匂い。数時間前の騒ぎがまだそこらじゅうに残っていた。そのアーケードを海のほうへ抜けた先で町が、ふっつりととぎれていた。

 

 黒い壁があるわけではなかった。坂を下っていく通りには街灯が、ずっと先まで並んで点いている。

 

 それなのに、ある一本を境にして、その先の光がどこにも届いていなかった。電球のまわりだけがぼんやりと白い。その白さがまわりに少しもにじんでいかない。

 

 黒い紙に白い点をぽつりぽつりと打っただけの絵のようだった。灯也はその境目の手前でアルテラの腕から降りた。

 

「……寒い」

 

 夏の夜なのに、息が白くなりそうだった。闇の奥から海の音がした。それから、歌が。

 

 誰かの鼻歌のような、ゆるやかな歌だった。灯也はその歌を知っていた。あの夜、鳥居の上で沙条愛歌がうたっていた歌だ。

 

 凛がスマートフォンのライトをつけて、闇の中へ向けた。白い光の筋は一メートルも進まないうちに、細く、薄くなって、ふっと消えた。画面の灯りまでみるみる暗くなっていく。

 

「……食べてるわね、光を」

 

 凛は、真っ暗になったスマートフォンをポケットにしまった。

 

「電気の光は食べられたら、それでおしまい。……穂村くん。灯れ、やってみて」

 

 灯也は右手を境目の向こうへ差しだした。

 

「灯れ」

 

 指先に火がともった。火はゆらりと揺れた。まわりの闇が、橙色の小さな火にいっせいに群がってくるのがわかった。炎の縁がじりじりと削られて、細っていく。

 

 灯也は背骨の奥の熱を指先へ送った。炎がまたふくらんだ。

 

「消えない……」

 

「当たり前よ。あんたの火は電気じゃなくて、魔力でできてるんだから」

 

 凛は指を一本立てた。授業のときの顔だった。

 

「食べられた分だけ足せばいいの。燃料が切れないかぎり、魔力の火は消えない。あんたの回路の数なら、ひと晩くらいはもつはずよ。……ただし」

 

「ただし?」

 

「足した分だけ腕が焼けるわよ」

 

 包帯の下で火傷がじくりとうずいた。

 

「……いつものことだよ」

 

 凛はふんと鼻を鳴らした。

 

「わたしの宝石があれば、照明弾くらい、いくらでも撃ちあげてやるのに……! 来週まで届かないのよ、来週まで!」

 

「今それ言う?」

 

「言わせなさいよ!」

 

 四人は闇の中へ踏みこんだ。音が遠くなった。自分の足音さえ厚い布ごしに聞いているようだった。そのくせ、海の音と、あの歌だけは耳のすぐそばで鳴っているみたいに、はっきりと聞こえる。

 

 見上げると、月がなかった。星もなかった。坂を下りかけたところで、アルテラが灯也の前に腕を出した。

 

「止まれ」

 

 横の路地から誰かが出てきた。パジャマ姿の中年の男の人だった。裸足だった。そのうしろに寝間着のおばあさん。そのまたうしろにTシャツと半ズボンの、小さな男の子。

 

 ひとり、またひとり。坂の途中の家々の戸口から人が出てきて、ゆっくりと坂を下っていく。みんな、目を開けていた。そして、みんな同じ歌を口ずさんでいた。

 

 灯也はそのうちのひとりの顔を見て、凍りついた。

 

「……佐々木?」

 

 祭りで焼きそば券を握りしめて逃げていった、クラスの男子のひとりだった。パジャマの裾を引きずって、灯也の横をすうっと通りすぎていく。

 

「おい、佐々木! 佐々木ってば!」

 

 肩をつかんだ。佐々木は止まらなかった。灯也の手を肩に乗せたまま、前へ、前へと歩きつづける。その目は灯也を見ていなかった。どこも見ていなかった。

 

 唇だけが動いていた。あの歌をうたっていた。

 

「……夢を見てるのよ」

 

 凛が低い声で言った。

 

「みんな、同じ夢を」

 

 杖もつかずに、小さな背中が灯也たちの横を通りすぎていった。汐屋のおばあちゃんだった。アルテラがその背中をじっと見ていた。

 

「マスター」

 

 アルジュナが坂の下を指さした。

 

「この方々はみな同じほうへ向かっています」

 

 坂の下には海があった。

 

 凛は唇をかんだ。

 

「……穂村くん。あんたたちは、フォーリナーのマスターのところへ行きなさい」

 

「遠坂さんは」

 

「こっちを止める。海に入られたら、おしまいでしょ」

 

 凛はカーディガンを脱いで、腰にきつく巻きつけた。

 

「あの歌、海の底から来てる。……予備炉の仕業なら、遠坂の後始末よ。わたしの町でこんなこと許すもんですか」

 

 灯也はうなずいた。アルテラがまた灯也を抱えあげた。

 

「トウヤ。火を消すな」

 

「うん」

 

 灯也は指先の小さな火に熱を送った。それから、ふたりは闇の坂を旧居留地のほうへ駆けおりていった。

 

三

 旧居留地は港を見下ろす石畳の坂の町だ。

 

 百五十年前、外国の商人や宣教師たちが住んでいた洋館が今も坂の両側に並んでいる。白い板壁。とんがり屋根。緑色の鎧戸。昼間は、観光客が写真を撮って歩く通りだった。

 

 郷土資料館はその坂の中ほどにあった。

 

 玄関の扉が開けはなしになっていた。奥の宿直室の窓に電灯が白い点のようにぽつんと見えた。その灯りは窓の外へ少しも漏れてこなかった。カウレスはいなかった。

 

「待ってろって言ったのに……!」

 

 アルテラが坂の下へ顔を向けた。

 

「カウレスの匂いは下だ。……あの子の匂いももっと下」

 

 坂を駆けおりる。灯也の指先の火が坂の両側の白い板壁を照らしだす。そのはずだった。

 

「……え?」

 

 火の中に浮かびあがった壁は白くなかった。黒ずんだ、ささくれだった板の壁だった。とんがり屋根も、緑の鎧戸もどこにもない。急な傾きの屋根。小さな窓。石を積んだ煙突。

 

 灯也は振りかえった。坂の両側に並んでいたはずの洋館が、ぜんぶ知らない家に変わっていた。古い、木の家。絵本の挿し絵でしか見たことのないような、遠い国の、遠い昔の村の家だった。

 

 足もとの石畳はぬかるんだ土の道になっていた。

 

「アルテラ、これ……」

 

「幻ではない」

 

 アルテラは剣を抜いていた。三色の光が闇の中で心細く揺れている。

 

「だが、ここでもない。どこか遠い場所がこの町の上に重なっている」

 

 窓という窓に人影が立っていた。黒い服。白い襟。顔は影になって見えない。その人影たちがいっせいに腕を上げた。灯也たちを指さした。

 

 ——魔女だ。

 

 ささやき声が闇の中からわきあがった。

 

 ——魔女だ。魔女だ。魔女だ。

 

 何十もの声が重なりあって、ふくれあがっていく。灯也の背中に冷たい汗が噴きだした。坂の上を振りかえる。

 

 郷土資料館があったはずの場所に一本の大きな木が立っていた。太い枝から何本もの縄が垂れさがって、風もないのに、ゆらゆらと揺れていた。

 

「来んな! 来んなって!!」

 

 坂の下で叫び声があがった。カウレスの声だった。

 

 ぬかるんだ道の真ん中でカウレスが尻もちをついていた。眼鏡がずれて、片腕にはクマのぬいぐるみを抱えている。そのまわりに、いくつもの銀色の光が浮かんでいた。

 

 鍵穴だった。地面に。家々の戸に。水たまりの水面に。アビーの額に浮かんでいたのと同じ形の鍵穴が、闇のあちこちにぽっかりと開いていた。

 

 その穴の奥で何かがまばたきをした。小さな、たくさんの目のようなものが。

 

 鍵穴から黒いものがぬるりと伸びだした。濡れたように光る、長い、腕とも蔓ともつかないもの。それが何本も、何本もカウレスに向かって——。

 

 三色の光が走った。アルテラの剣が、黒い触手を根もとからまとめて斬りはらった。

 

 斬られた触手は地面に落ちる前に、煙のようにほどけて消えた。鍵穴がまた、まばたきをした。新しい触手が伸びてきた。今度は倍の数だった。

 

「トウヤ、そいつを連れて下がれ」

 

 アルテラが跳んだ。剣が闇を裂いた。赤と、緑と、青の光の弧がいくつもいくつも重なって、カウレスのまわりに光の檻を描く。触手が斬られては伸び、伸びては斬られる。

 

 土の道に光の残像が花火の燃えかすのように散った。灯也はカウレスの腕をつかんで引きずり起こした。

 

「待ってろって言っただろ!」

 

「待てるかよ!!」

 

 カウレスは叫んだ。眼鏡の奥の目が真っ赤だった。

 

「あいつ、ひとりで暗いとこにいるんだぞ! 今夜は電気つけて寝ようって約束したのに……!」

 

 灯也は言いかえせなかった。かわりに、カウレスの腕を自分の肩に回させた。カウレスの膝がまだ笑っていた。

 

「……走れるか」

 

「走る」

 

「アルテラ!」

 

「行け。道は開ける」

 

 アルテラの剣が坂の下へ向かって大きく弧を描いた。三色の光が触手の群れをまっぷたつに割った。ふたりはその裂け目を転がるように駆けぬけた。

 

 坂を下りきったところで、ようやく触手は追ってこなくなった。灯也とカウレスは肩で息をした。アルテラが音もなくその前に降りたった。

 

 振りかえると、坂の上の古い村は闇の中にぼんやりと沈んでいた。窓の人影たちはまだこちらを指さしていた。

 

「……セイレムだ」

 

 カウレスがかすれた声で言った。

 

「セイレム?」

 

「アメリカの古い村。三百年ちょっと前に、魔女裁判があったとこ。……あいつの生まれた村だよ」

 

 カウレスはクマのぬいぐるみをぎゅっと抱えなおした。

 

「資料館の本で読んだんだ。あの村でたくさんの人が魔女だって言われて、吊るされた。……最初に魔女がいるって言いだした女の子たちのひとりが、アビゲイル・ウィリアムズ」

 

 灯也は何も言えなかった。

 

「あいつ、昔のことはなんにも言わないんだ。……でも、夜になると、暗いとこをじっと見てる。たぶんずっとあれを見てたんだ」

 

 カウレスは坂の上の、縄の垂れさがった木を見上げた。

 

「ずっとひとりで」

 

四

 旧居留地の坂の下に古い桟橋があった。

 

 百五十年前、外国の船が着いた石造りの桟橋だ。今は遊歩道になっていて、暗い海へ向かってまっすぐ二百メートルほど伸びている。その先端に古いガス灯が一本、立っていた。

 

 ガス灯は点いていた。その光もどこにも届いていなかった。そして、その先。桟橋の先の真っ暗な海の上にアビーがいた。

 

 海面から少しだけ浮かんでいた。

 

 黒い帽子はなかった。金色の髪がほどけて、風もないのに、夜の中へ長く流れていた。肌は月の光よりも白かった。小さな手には自分の背丈ほどもある銀色の鍵が握られていた。

 

 額の鍵穴が大きく開いていた。その鍵穴から黒い光の柱が一直線に空へ伸びていた。灯也は柱を目で追って空を見上げた。そして、言葉を失った。

 

 空に根が張っていた。アビーの額から伸びた黒い柱は空の高いところで何十本にも、何百本にも枝分かれして、湾の上の夜空いっぱいに広がっていた。

 

 ガラスに走るひびのように。土の中を這う木の根のように。星もその黒い根の網の向こうに呑みこまれていた。空にさかさまに根を張った、巨大な、虚ろな樹だった。

 

 その根の何本かが空から垂れさがっていた。湾の真ん中へ向かって。ゆっくりと、ゆっくりと。海面へ下りていこうとしている。根と根の結び目ごとに青白い光が実っていた。

 

 卵のような、殻のようなまるい光。何百も、何千も。それが、垂れさがる根にそってゆらゆらと揺れていた。提灯みたいだ、と灯也は思った。

 

 祭りの晩、アーケードを埋めつくしていた提灯の、ひどい真似ごとのようだった。光の殻のひとつひとつに小さな銀色の鍵穴が開いていた。

 

 アビーは歌っていた。海の底から聞こえてくる歌に声を重ねるようにして。

 

「アビー!」

 

 カウレスが桟橋を走りだした。アビーの歌が止まった。アビーがこちらを振りむいた。青い瞳がカウレスを見た。

 

 見たのに、見ていなかった。焦点の合わない、底のない、ガラス玉のような目だった。

 

「……まあ、マスター」

 

 アビーはにっこりと笑った。その声にもうひとつ別の声が重なっていた。高いのか低いのか、男なのか女なのかもわからない、ずっと遠いところから響いてくるような声が。

 

「来てくれたのね。うれしいわ」

 

 カウレスは桟橋の半ばで足を止めた。

 

「……帰るぞ、アビー」

 

「いいえ。まだよ」

 

 アビーは海のほうへ首をかしげた。

 

「聞こえるでしょう? 海の底で誰かが歌ってるの。ずっと、ずっとひとりぼっちで。……さみしい、さみしいって泣いてるの」

 

 銀色の鍵をいとおしそうに抱きしめる。

 

「だから、わたし扉を開けてあげるの。あの子のところまで。……わたしの扉はどこへだってつながるのよ」

 

 頭の上で垂れさがる黒い根がまた少し海へ近づいた。

 

「マスターもいっしょに来る?」

 

 アビーはカウレスに手を差しのべた。

 

「扉の向こうはとっても静かよ。誰も誰かを魔女だなんて言わないの。誰も誰かの予備なんかじゃないの」

 

 カウレスの肩がびくりとふるえた。差しのべられた白い手を、カウレスは見つめていた。

 

「……行かねえよ」

 

 声がかすれていた。

 

 アビーの目がカウレスの肩ごしにアルテラへ向いた。

 

「セイバーさんも。……あなたもとっても遠いところから来たんでしょう?」

 

 アビーはうれしそうに微笑んだ。

 

「海の底の子はね、あなたとおんなじ匂いがするの。お星さまの匂い」

 

 アルテラの体が止まった。灯也は横を見た。アルテラの紅い瞳の奥で何かがちらりと白くまたたいた。あの夜と同じ、色のない白が。

 

「……この歌は」

 

 アルテラの唇がかすかに動いた。

 

「知っている。……ずっと昔に——」

 

「アルテラ!」

 

 灯也はアルテラの手をつかんだ。剣を握っていないほうの左手を。包帯だらけの手で力いっぱい。

 

 ——アルテラが迷子になったら、何回でもこの火のとこまで連れて帰ってくる。

 

「約束したろ」

 

 アルテラがまばたきをした。白いまたたきが消えた。紅い瞳が灯也を見た。

 

「……ああ」

 

 アルテラは灯也の手を握りかえした。少しだけ強すぎるくらいに。

 

「私は行かない」

 

 それから、アルテラはアビーを見すえた。

 

「お前は怖がっている」

 

 アビーの笑顔がほんの一瞬こわばった。

 

「……いいえ。わたし、怖くなんかないわ。だって、ここはわたしの暗闇だもの」

 

「嘘だ」

 

 アルテラは言った。

 

「私は知っている。……それは、怖い、だ」

 

 アビーの唇がふるえた。重なっていた遠い声が一瞬だけとぎれた。

 

「……セイ、バー、さん」

 

 小さな、細い、ただの女の子の声だった。

 

 海がうねった。桟橋の両側の海面から何十本もの黒い触手が、いっせいに伸びあがった。波のように桟橋の上へなだれ落ちてくる。

 

「下がれ!」

 

 アルテラが灯也とカウレスの前に飛びだした。三色の光が闇の中で扇のように広がる。斬る。斬る。斬る。それでも、触手は海の底から際限なく湧いてくる。

 

 じりじりと押しもどされる。桟橋の先のアビーの姿が、黒い触手の向こうに遠ざかっていく。

 

「アビー!」

 

 カウレスの叫びは波の音に呑まれた。桟橋のつけ根まで押しもどされたとき、闇の奥から海の底の歌がまた聞こえはじめた。アビーの声がまたそれに重なった。

 

五

「ですから、申しあげたでしょう」

 

 背後の闇の中から涼しい声がした。

 

「灯りを絶やさないことです、と」

 

 灯也の指先の火が照らす小さな輪の中へ黒い修道服が、すっと歩みでてきた。カレンだった。灯りは何も持っていなかった。この闇の中をひとりで歩いてきたらしい。

 

 その両腕は肘から先まで真っ赤に濡れていた。包帯という包帯から血がぽたり、ぽたりと石畳に落ちている。顔は紙のように白かった。

 

「カレンさん!? その腕……」

 

「お気になさらず。暗いところは慣れていますので」

 

 カレンはにっこりと微笑んだ。

 

「それに、この傷のおかげで迷わずに来られました。近づくほど、よく開くんです。……便利でしょう?」

 

「便利じゃないよ!」

 

 カレンは桟橋の先を見た。海の上のアビーと、夜空に根を張るさかさまの樹を。金色の瞳がすっと細くなった。

 

「……監督役として申しあげます」

 

 カレンはカウレスに向きなおった。

 

「マスター、カウレス・フォルヴェッジ・ユグドミレニア。令呪をもってフォーリナーに自害を命じなさい」

 

 カウレスの顔から表情が消えた。

 

「……は?」

 

「あれは扉です。この世の外へつながる扉。……その扉が今、湾の底へ向かって根を下ろそうとしています」

 

 カレンは、垂れさがってくる黒い根を血に濡れた指でさし示した。

 

「あの根が海の底に届いたとき、扉の向こうと、海の底の炉がつながります。そうなったら、何が起きるか。……私にもわかりません。わからないということが、いちばんいけないのです」

 

「だからって……!」

 

「鍵が座に還れば、扉は閉じます。確実に」

 

 カレンの声は少しも揺れなかった。

 

「あなたが彼女を説得できる保証はどこにもありません。令呪なら、確実です。……三画もあるのですから、一画くらいよろしいでしょう?」

 

「ふざけんな!!」

 

 カウレスが叫んだ。カレンは眉ひとつ動かさなかった。

 

「ふざけてなどいません。この町では三十万の方が眠っていらっしゃいます」

 

 灯也は言いかえそうとして口を開いた。言葉が出てこなかった。三十万。坂を下っていった佐々木のうつろな目。汐屋のおばあちゃんの、杖のない背中。

 

「……待ってください」

 

 ようやくそれだけ言った。

 

「フラットが今、空からあの扉を調べてる。もしかしたら何か——」

 

「そうですか」

 

 カレンは空の根を見上げた。

 

「では、あの根が海に届くまでは、待ちましょう」

 

 暁浜湾の上空。ヒポグリフは、垂れさがる黒い根のあいだを縫うように飛んでいた。

 

「わあ……!」

 

 アストルフォの背中にしがみついたまま、フラットは目をまんまるにしていた。

 

「見て、ライダー! すごいよ、これ!」

 

 フラットの目には見えていた。海の底から町へ向かって何百本もの細い光の糸が伸びていた。

 

 地面の下を網の目のように走る、古い、古い、魔力の通り道。地脈。その一本一本を伝って、あの歌が町じゅうへ流れていく。

 

「歌が地脈を通って町じゅうに流れてるんだ。海の底の炉が拡声器みたいになってる。……だから、町じゅうの人がおんなじ夢を見ちゃうんだ。闇の近くにいる人なんか夢の中で歌のほうへ歩いていっちゃう」

 

「よくわかんないけど、それ止められる?」

 

「わかんない! さわってみないと!」

 

「じゃあ、さわりに行こう!」

 

 アストルフォが手綱を引いた。ヒポグリフが、湾の真ん中へ向かってまっさかさまに降下した。あの夜、白い光の柱が立ちのぼった場所へ。

 

 黒い根が行く手をふさいだ。根の結び目の光の殻がぐるりとこちらを向いた。殻の鍵穴の奥で無数の目がまばたきをした。根の先から黒い触手が鞭のように襲いかかってくる。

 

「ヒポグリフ!」

 

 次の瞬間、ヒポグリフの姿がふっと消えた。触手が何もない空を薙いだ。

 

 一瞬おくれて、ヒポグリフは触手の向こう側にまた現れていた。まるで世界のページを一枚めくって、その裏側を飛びこえてきたみたいに。

 

「あっはは! 残念でしたー!」

 

 アストルフォが笑いながら、手綱を引いた。消える。現れる。消える。現れる。触手の嵐のあいだを桃色の騎士と幻馬が、ジグザグに駆けぬけていく。

 

「ライダー、今の、もう一回! 次元の継ぎ目が見えた! すっごくきれい!」

 

「マスター、楽しんでる場合じゃないってばー!」

 

「ライダーだって笑ってるじゃない!」

 

 黒い海面が目の前に迫った。ヒポグリフが波頭をかすめるように水平に飛んだ。

 

 フラットは片腕をアストルフォの腰に回したまま、思いきり身を乗りだした。もう片方の手を黒い海に突っこんだ。

 

「……つかまえた」

 

 フラットの目が遠くを見るようにすうっと細くなった。指先から流れこんできた。二百年前の術式だった。海の底の炉を包む、何重もの古い魔術の殻。

 

「三人分の字が混ざってる……」

 

 フラットはつぶやいた。

 

「まっすぐで、几帳面な字。ねじれてて、しつこい字。それから、雪みたいに白くて、きれいな字。……ああ、これが御三家なんだ」

 

 そのいちばん外側の殻に、地脈へつながる小さな結び目があった。歌を町じゅうへ流している、拡声器のつまみのようなところ。

 

「ここだ」

 

 フラットはその結び目にそっと指をかけた。他人の術式を勝手に書きかええる。時計塔ではそれで何度も怒られた。

 

「ごめんね。ちょっとだけ静かにしてて」

 

 くるりと。つまみをゼロまでひねった。

 

 ぷつんと。町じゅうで歌がとぎれた。

 

 フラットの鼻から赤いものがたらりと垂れた。

 

「マスター!」

 

「へいき、へいき。……でも」

 

 フラットは海に手を浸したまま、動かなかった。

 

「奥のほうはぜんぜん読めないや。二百年分の術式が、ぐちゃぐちゃに重なってて……そのいちばん奥に」

 

 声が小さくなった。

 

「何かすっごく古いのが寝てる」

 

 海の底で何かが身じろぎをした。フラットはそれを指先で感じた。

 

「……寝てるのかな。今こっち見たような——」

 

「マスター、逃げるよー!」

 

 アストルフォが、フラットの襟首をつかんで海から引っこ抜いた。ヒポグリフが消えた。一瞬前まで彼らのいた海面を、黒い根がたたきつぶした。

 

 旧居留地の海岸通り。岸壁の縁にそって青白い炎の柵が一列に燃えていた。石畳に突きたった何百本もの矢だった。

 

 眠ったまま海へ向かう人たちがその柵にぶつかっては押しもどされ、またふらふらと前へ出ようとする。

 

「アーチャー、右! 三本、消えかけてる!」

 

「承知」

 

 アルジュナが弓を引いた。放たれた一本の矢が空中で十に分かれた。十本の矢が、消えかけた柵のすきまに正確に突きたつ。青白い炎が闇に食われながら、それでも燃えあがる。

 

 何度そうしたかわからなかった。食われては足し、食われては足し。凛は、柵の手前で汐屋のおばあちゃんを両腕で抱きとめていた。

 

 小さな、軽い体だった。それが驚くほどの強さで海のほうへ、海のほうへと進もうとする。

 

「おばあちゃん、しっかりして! そっちは海よ!」

 

 おばあちゃんは凛の腕の中で目を開けたまま、歌っていた。

 

「……ほんと、なんなのよ、この歌」

 

 凛は歯を食いしばった。そのとき、歌がとぎれた。ぷつんと。糸が切れたように。腕の中の体からふっと力が抜けた。

 

 柵の前で何十人もの人がいっせいにその場に崩れおちた。石畳の上に横たわって、すうすうと寝息をたてはじめる。まるでふつうの夏の夜の、ふつうの眠りのように。

 

「……止まった」

 

 凛はおばあちゃんをそっと石畳に横たえた。真っ暗な空を見上げる。何も見えなかった。それでも、誰がやったのかはわかった。

 

「……あの問題児、やるじゃない」

 

六

 暁浜大橋の主塔のてっぺん。沙条愛歌は塔の縁に腰かけて、足をぶらぶらと揺らしていた。

 

「あら」

 

 海の底からの歌が町じゅうでぷつりととぎれた。

 

「止められちゃった。……時計塔の子、なかなかね」

 

 愛歌はくすくすと笑って、眼下の橋を見下ろした。

 

「それで? ランサー。いつまでその子を抱っこしてるの?」

 

 橋の歩道の上にカルナが立っていた。その腕の中でパジャマ姿の小さな女の子が、すうすうと眠っていた。

 

 ついさっき、この子は眠ったまま、歌いながら橋の欄干をよじのぼったのだ。そして、暗い海へ向かって身を投げた。

 

 カルナは主塔のてっぺんから一直線に落ちて、その小さな体を空中で抱きとめた。

 

「わたし、そんなこと命令してないわよ」

 

「命令されていない」

 

 カルナは女の子を抱いたまま、答えた。

 

「だから、オレがそうした」

 

「ふうん」

 

 愛歌は頬杖をついた。

 

「ランサーはやさしいのね」

 

 それから、湾の向こうの黒く沈んだ旧居留地を見た。

 

「でも、町の歌が止まっても、あの子にはまだ聞こえてるわ。扉の向こうからね」

 

 空のさかさまの根は、まだじりじりと海へ下りつづけていた。

 

「見たいの。ほんとうの暗闇の中であの火が燃えるのかどうか」

 

 カルナは答えなかった。その淡い青の瞳は、暗い海岸通りにそって一列に燃える、青白い炎を見ていた。炎の柵。矢の柵。

 

「……あの男の矢だ」

 

 海風が黄金の鎧を鳴らした。

 

 郊外の山あいの古い別荘。バルコニーの手すりからフランが身を乗りだしていた。遠い港のあたりが墨を流したように黒く沈んでいる。

 

「ウ……ゥゥ……」

 

 鉄の槌を握りしめた手がふるえていた。今にも手すりを越えて飛びだしていきそうだった。

 

「だめよ」

 

 イリヤがフランの白いスカーフの端をきゅっとつかんだ。

 

「あれはフランが吸っていいものじゃないわ。雷とも、光ともちがう。……もっとずっと遠くて、悪いもの」

 

 フランがイリヤを振りかえった。スカーフの下で首すじのひびが、花火を見ていたときより少しだけ長くなっていた。

 

「わたしたちには関係ないもの」

 

 イリヤはスカーフをつかんだまま、離さなかった。

 

「……行かせない」

 

 桟橋のつけ根にヒポグリフがずしんと降りたった。

 

「トウヤくん!」

 

 フラットが鼻血を手の甲でぬぐいながら、転がりおりてきた。

 

「町の歌は止めたよ! 拡声器のつまみ、ゼロにしてきた!」

 

「ほんとか! じゃあ、アビーは——」

 

 灯也は桟橋の先を見た。アビーはまだ海の上にいた。歌っていた。

 

 町の歌が止まり、しんとした闇の中でアビーの細い声だけが海の底の何かとひとつに重なって響いていた。空から垂れさがる根は止まっていなかった。

 

「……止まってない」

 

 フラットの顔から笑みが消えた。

 

「そっか。……あの子には扉の向こうからじかに聞こえてるんだ。あれは魔術じゃないから、僕にはさわれない」

 

 フラットは桟橋の先のアビーを見つめた。

 

「それに、あの子、自分で扉を開けてる。呼ばれて、操られてるんじゃないよ。……あの子が行ってあげたいんだ。ひとりぼっちの誰かのところへ」

 

「ご覧のとおりです」

 

 カレンが静かに言った。

 

「根が海に届くまで、もういくらもありません」

 

「穂村くん!」

 

 凛とアルジュナが海岸通りから駆けてきた。凛は桟橋の先と、空の根と、カレンの血だらけの腕とを順番に見た。それだけで、だいたいのことはわかったらしかった。

 

「……令呪ね」

 

「ええ」

 

 カレンがうなずいた。

 

「自害を、と申しあげました」

 

 凛は唇をかんだ。何か言いかえそうとして、言わなかった。

 

「止まれって命令するのは?」

 

 灯也が言った。

 

「自害じゃなくて、止まれって。それなら——」

 

「だめだよ」

 

 フラットが首を振った。

 

「令呪は魔術だもん。令呪で止められるのは、扉のこっち側にいるあの子の体だけ。……無理やり止めたら、扉だけが開きっぱなしで残っちゃう。鍵を持つ人のいない、開きっぱなしの扉が」

 

「……そうなったら?」

 

「わかんない。でも、たぶん今よりずっとひどいことになる」

 

 カレンがうなずいた。

 

「ですから、自害です。鍵ごと座に還っていただく。……でなければ」

 

 カレンはカウレスを見た。

 

「彼女が自分の手で扉を閉めるか。そのどちらかです」

 

 カウレスは自分の右手を見下ろした。手の甲で三画の令呪が赤くかすかに光っていた。

 

 事故でついた令呪だった。偵察に来ただけだった。ほんとうなら、カウレスの姉の手にあるはずの令呪だった。

 

「……穂村」

 

 カウレスは顔を上げずに言った。

 

「お前なら、どうする」

 

 灯也はカウレスを見た。それから、桟橋の先の海の上のアビーを見た。自分なら。あそこにいるのがアルテラだったら。答えはもう知っていた。でも、それは灯也の答えだった。

 

「……カウレスが決めろ」

 

 灯也は言った。

 

「アビーのマスターはお前だろ。お前が決めたほうを、俺は手伝う。ぜったい」

 

 カウレスが灯也を見た。眼鏡の奥の目が揺れていた。

 

 アルテラが一歩前に出た。その手にあの小さな提灯を持っていた。

 

「カウレス」

 

 アルテラは提灯をカウレスの前に差しだした。

 

「あの子は暗いのは怖い、と言っていた」

 

「……え」

 

「金魚をふたりで見ていたときだ。暗いのは怖い。でも、マスターがそばにいると、少しだけ怖くない。……そう言っていた」

 

 カウレスの肩がふるえた。

 

「トウヤ」

 

 アルテラが灯也を見た。灯也はうなずいた。提灯のからっぽの紙の中に指先を差しいれる。

 

「……灯れ」

 

 小さな火がともった。丸い紙の中に橙色の、やわらかな光がふわりと満ちた。闇がその光に群がってくる。紙の縁が少しだけ暗くなる。それでも、火は消えなかった。

 

 アルテラは、灯也の火の入った提灯をカウレスの手にそっと持たせた。

 

「火は分けても、減らない」

 

 アルテラは言った。

 

「……トウヤがそう教えた」

 

 カウレスは提灯を見下ろしていた。長いこと。それから、右手をぎゅっと握った。令呪の光が指のあいだに隠れた。

 

「……使わない」

 

 かすれた声だった。

 

「俺はずっと決められてきたんだ。お前は予備だ、って。姉ちゃんに何かあったときのための予備だって。……誰も俺がどうしたいかなんて聞かなかった」

 

 カウレスは顔を上げた。

 

「あいつにまでそれをやりたくない。……あいつが自分で決めて、自分で帰ってくるって信じる」

 

 カレンがカウレスを見つめた。金色の瞳には何の色も浮かんでいなかった。

 

「……そうですか」

 

 それだけだった。

 

七

 空の根がざわめいた。垂れさがっていた何本もの根が、海に向かってぐうっと伸びた。

 

 根の結び目の光の殻がふくらんでいく。卵が孵る前のように。殻の鍵穴の奥で無数の目がいっせいに見ひらかれた。

 

 海の上でアビーが銀の鍵を高くかかげた。重なりあったふたつの声が闇の中に朗々と響きわたった。

 

「……イグナ……イグナ……」

 

 人の言葉ではなかった。喉の奥と、海の底と、星のない空の果てとで同時に鳴っているような音だった。

 

「——我が手に、銀の鍵あり」

 

 鍵の先が宙の何もないところに差しこまれた。

 

「……いざ、窮極の門へと——」

 

 かちりと。何かが回る音がした。

 

「——『光殻湛えし虚樹(クリフォー・ライゾォム)』」

 

 光の殻がいっせいに割れた。何千もの殻の中から何千もの何かがこぼれだした。黒い、ぬれた、名前のないもの。触手。目。口とも、穴ともつかないもの。

 

 それが根を伝って、雨のように海へ、桟橋へ降りそそいでくる。闇がぐっと濃くなった。

 

 灯也の指先の火が豆粒ほどに縮んだ。カウレスの手の中で提灯の灯りがかすれた。海岸通りの矢の柵がひとつ、またひとつと呑まれていく。

 

「アーチャー! 通りの人たちを!」

 

「射ます」

 

 アルジュナの矢がたてつづけに放たれた。海岸通りに眠る人たちの上へ降ってくるものを空中で片端から射ぬいていく。

 

 アストルフォが、ヒポグリフで桟橋の上を薙ぐように飛んだ。金色の槍が触手を払いのける。

 

 それでも、数が多すぎた。桟橋の先はもう見えなかった。アビーの姿はうごめく黒い壁の向こうに呑まれていた。

 

「トウヤ」

 

 アルテラが灯也の隣に立った。

 

「火を貸せ」

 

 灯也はアルテラを見た。アルテラは桟橋の先を見ていた。三色の光の剣が闇に食われて、細く、心細く揺れていた。

 

「この闇は私の光を食べる。……だが、お前の火は食べきれない。足せば、燃えるのだろう」

 

「……うん」

 

「ならば、貸せ」

 

 灯也は笑った。

 

「ぜんぶ持ってけ」

 

 灯也はアルテラの剣の柄に自分の手を重ねた。包帯だらけの手でアルテラの手ごと包みこむように。

 

「——灯れ」

 

 背骨の奥の熱が腕を駆けおりた。手のひらからアルテラの手へ。アルテラの手から剣へ。赤と、緑と、青の光の刃を橙色の火がふわりと包んだ。

 

 三つの色は消えなかった。混ざりあって白くなることもなかった。赤も、緑も、青もそのままに、橙色の火の中でゆらゆらと透けて見えていた。提灯だ、と灯也は思った。

 

 剣がまるごとひとつの提灯になったみたいだった。紙の中でろうそくの火が揺れるように、火の中で三つの光が揺れていた。闇がその光に群がってきた。

 

 食いつこうとして、食いきれずに、じゅっと焼けて退いた。食われた分だけ、灯也は足した。何度でも。

 

「行くぞ」

 

 アルテラが剣を低く構えた。灯也は柄から手を離さなかった。ふたりで踏みこんだ。火をまとった刃が、桟橋の先へ向かってまっすぐに振りぬかれた。光が走った。

 

 桟橋のつけ根から先端のガス灯まで。うごめく黒い壁がまんなかから裂けて、左右へ押しのけられていく。刃の通ったあとに火の粉がこぼれおちた。

 

 ぽっ、ぽっ、ぽっと。桟橋の両側に小さな火がともっていく。一列に。等間隔に。つけ根から先端まで。

 

 祭りの晩の、石段の提灯のように。その火の道のいちばん奥。裂けた黒い壁の向こうに海の上の小さな背中が見えた。

 

 灯也は桟橋のつけ根に膝をついた。両手を古い石の上に押しあてる。

 

 桟橋の両側の火が闇に食われて、じりじりと細っていく。その一つひとつに、灯也は熱を送りこんだ。手のひらから石を伝って、火の道の端から端まで。

 

 ひとつ細ったら、足す。また細ったら、また足す。両腕の包帯の下で火傷が、ぱちぱちとはじけるように痛んだ。

 

 ——火入れだ、と灯也は思った。

 

 ——ばあちゃん。今年の火入れは二回目だよ。

 

「カウレス!」

 

 灯也は叫んだ。

 

「行け! 火は、俺がもたせる!」

 

 アルテラが灯也の背中に立った。剣を構えて。灯也に近づくものは、何ひとつ通さないというように。

 

 カウレスは走りだした。片腕にクマのぬいぐるみ。もう片方の手に灯也の火の入った提灯。火の道をまっすぐに。

 

 道の半ばで闇が動いた。火と火のすきまから。黒い触手が一本、鞭のようにカウレスの肩を打ちすえた。

 

「がっ……!」

 

 Tシャツが裂けた。肩から赤いものがしぶいた。カウレスの体が石の上にたたきつけられた。眼鏡が飛んだ。提灯が手から離れた。

 

 ころころと桟橋の縁のほうへ転がっていく。その先は真っ暗な海だった。カウレスは這った。

 

 肩から血を流したまま、石の上を這って、腕を伸ばして——落ちる寸前の提灯の柄をつかんだ。胸に抱えこむ。

 

 背中を丸めて、提灯を自分の体でかばう。その背中に二本目の触手が振りおろされた。鈍い音がした。

 

「カウレス!!」

 

 凛の声が闇を裂いた。

 

「令呪を使いなさい! 死ぬわよ!!」

 

「……今ならまだ間に合います」

 

 カレンの声は静かだった。

 

 カウレスの右手がふるえながら、持ちあがった。手の甲で三画の令呪が赤く燃えるように輝いた。

 

 桟橋のつけ根でアルジュナが弓を引きしぼった。その矢の先はカウレスにも、触手にも向いていなかった。そのはるか向こう。海の上の小さな背中に向いていた。

 

「……マスター」

 

 アルジュナが静かに言った。ひと言、命じられれば、射る。そういう声だった。凛はこぶしを握りしめた。唇がふるえた。

 

「……撃たないで」

 

 カウレスの右手は令呪の光を放ったまま、宙で止まっていた。一秒。二秒。それから、その手は。

 

 ゆっくりとこぶしを握って、下りていった。石の上にこつんとついた。令呪の光が消えた。

 

「……使わねえよ」

 

 カウレスはつぶやいた。

 

「使うもんか」

 

 そして、立ちあがった。血の流れる肩をおさえもせず、提灯を胸に抱えたまま。眼鏡のない目で桟橋の先をまっすぐに見て。歩きだした。

 

 三本目の触手がカウレスの足首に巻きついた。そして。止まった。ぴたりと。

 

 触手は足首に巻きついたまま、ふるえていた。迷うように。ためらうように。海の上で小さな背中がゆっくりと振りかえった。

 

八

 アビーは見ていた。闇の中を自分のほうへ歩いてくる、小さな、橙色の灯りを。

 

 さっき、たしかに感じたのだ。マスターとつながっている細い糸の向こうであの赤い光が、燃えあがるのを。命令が来る。そう思った。来なかった。

 

 赤い光は消えた。命令はとうとう来なかった。そのかわりに、灯りが近づいてくる。ゆっくりと。ふらふらと。それでも、まっすぐに。

 

「……マス、ター?」

 

 重なっていた遠い声がほどけるように薄れた。

 

 カウレスは桟橋の先端のガス灯の下にたどりついた。海の上のアビーまであと二メートル。

 

 足首の触手はいつのまにかほどけていた。まわりの黒いものたちもふたりを遠巻きにしたまま、動かなかった。カウレスは息を切らしながら、提灯をかかげた。

 

「……ほら」

 

 橙色の灯りがアビーの白い頬を照らした。

 

「灯り持ってきた」

 

 アビーの青い瞳に小さな火が映った。ガラス玉のようだった目に少しずつ焦点が戻ってくる。

 

「……あかり」

 

 小さな唇がふるえた。

 

「わたし……すぐ戻るつもりだったの」

 

「知らねえよ。俺、寝てたし」

 

 カウレスは笑おうとした。うまく笑えなかった。

 

「遅えよ。……迎えに来た」

 

 アビーの顔がくしゃりとゆがんだ。

 

「どうして……来たの。ここ、とっても暗いのに」

 

「お前がいるからだろ」

 

「マスター、血が……」

 

「平気だよ。ちょっと痛えけど」

 

 アビーは首をぶんぶんと横に振った。

 

「だめ。わたし、帰れないの。海の底であの子が泣いてるんだもの。ひとりぼっちで、ずっと、ずっと」

 

 銀の鍵を抱きしめる。

 

「わたし、知ってるの。ひとりぼっちがどんなに怖いか。……だから、行ってあげなきゃ」

 

「……そいつのことはわかんねえよ」

 

 カウレスは言った。

 

「わかんねえけど。……お前が行っちまったら、今度は俺がひとりぼっちだろ」

 

 アビーが目を見ひらいた。

 

「マスターが?」

 

「そうだよ」

 

 カウレスは鼻をすすった。

 

「俺、ひとりじゃ眠れねえんだよ。電気つけて寝ようって約束したろ」

 

「……それはわたしのほうよ」

 

「どっちでもいいよ」

 

 カウレスはクマのぬいぐるみを差しだした。

 

「忘れもん」

 

 アビーはクマを見た。白い手がおそるおそる伸びてきた。クマの耳に指先がふれた。

 

「……俺さ。予備なんだ」

 

 カウレスは言った。

 

「姉ちゃんの予備。ずっとそう言われてきた。俺もそうなんだと思ってた。……でも、お前を呼んだのは俺だ。姉ちゃんじゃない」

 

 提灯の灯りがふたりのあいだで揺れていた。

 

「お前のマスターは誰かの予備なんかじゃない。……カウレス・フォルヴェッジ・ユグドミレニアだ」

 

 祭りの夜に観念したように名乗った名前を、カウレスは今度は胸を張って言った。

 

「だから、令呪は使わない。命令なんかしない」

 

 カウレスはアビーの目を見た。

 

「お前が自分でその扉を閉めて、自分で帰ってくるって。……信じてる」

 

 アビーの目から涙がぽろりとこぼれた。

 

「……でも、わたし、閉め方がわからないの」

 

 ふるえる声だった。

 

「わたし、開けることしか知らないの。ずっとそうだったの。……扉を開けて、よくないものを呼んでしまうことしか」

 

「鍵持ってんだろ」

 

 カウレスはアビーの手の中の銀色の鍵を指さした。

 

「鍵ってのはさ、開けるためだけのもんじゃないだろ。……閉めるためにもあるんだよ」

 

 アビーは自分の手の中を見た。自分の背丈ほどもある、銀色の鍵を。

 

「……閉めるため」

 

「それに」

 

 カウレスは少しだけ笑った。今度はちゃんと笑えた。

 

「明日の朝パンケーキ焼いてやるからさ。でっかいやつ。……帰ってこいよ」

 

 アビーはくしゃくしゃの顔でカウレスを見た。

 

「……ほんとう?」

 

「ほんとう」

 

「シロップ、たっぷり?」

 

「たっぷり」

 

 アビーは鼻をすすった。それから、クマのぬいぐるみを片腕でぎゅっと抱きしめて、くるりと海のほうへ向きなおった。

 

 海の底ではまだあの歌が鳴っていた。アビーは銀の鍵を両手で胸の前にかまえた。

 

「ごめんなさい。海の底のあなた」

 

 小さな、はっきりとした声だった。重なる声はもうなかった。

 

「わたし、今は行ってあげられないの。……マスターがひとりじゃ眠れないんですって」

 

 それから、少しだけ照れたように付けくわえた。

 

「それにね。明日の朝パンケーキを食べる約束があるのよ」

 

 アビーは鍵を宙の何もないところに差しこんだ。さっきとは反対のほうへ回す。かちり。小さな音だった。それなのに、その音は夜の底まで響いた。

 

 湾の真ん中で垂れさがった根の先が止まっていた。黒い海面の、ほんの指一本ぶん上で。空の根がふるえた。それから、引いていった。

 

 海へ伸びていた根がするすると空へ巻きもどっていく。逆まわしの映像のように。空いっぱいに広がっていた黒い網が端のほうからほどけて、縮んで、一本の柱へとたぐりよせられていく。

 

 根の結び目の光の殻がひとつ、またひとつと閉じていった。殻の鍵穴の奥で目がひとつずつまぶたを下ろしていく。おやすみなさい、と言うように。

 

 桟橋の上の黒いものたちも、海から伸びていた触手もするすると闇の奥へ引きあげていった。

 

 最後に、黒い柱がアビーの額の鍵穴の中へ吸いこまれた。鍵穴が閉じた。小さな銀色の光がひとつまたたいて消えた。

 

 闇が晴れていく。墨を流した水がゆっくりと澄んでいくように。灯也は桟橋のつけ根に膝をついたまま、顔を上げた。

 

 ガス灯の光が届いていた。桟橋の石畳をちゃんと照らしていた。見上げた空に星があった。そして、東の山の端がうっすらと白みはじめていた。夜明けだった。

 

 海の上からアビーの体が、ふわりと桟橋のほうへ流れてきた。カウレスは提灯を足もとに置いて、その小さな体を抱きとめた。

 

 ほどけていた金色の髪が肩の上に静かにおさまった。どこからともなく黒い帽子がひらりと舞いおりてきて、その頭の上にちょこんと乗った。

 

 アビーはカウレスの胸に顔をうずめていた。クマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめたまま。

 

「……ごめんなさい……ごめんなさい、マスター……」

 

「いいって」

 

 カウレスはアビーの帽子の上にぽんと手を置いた。

 

「おかえり」

 

 ふたりの足もとで提灯の小さな火がまだ燃えていた。

 

九

 夜が明けていった。旧居留地の坂の上に白い板壁と、とんがり屋根と、緑の鎧戸が戻っていた。縄の垂れさがった木はどこにもなかった。

 

 郷土資料館の宿直室の窓でつけっぱなしの電気が、ほの白く光っていた。海岸通りの石畳の上で眠っていた人たちがひとり、またひとりと目をさましはじめていた。

 

「……なんでわし、こんなとこで寝とるんじゃ」

 

「パジャマのまんまじゃ……」

 

 あちこちで、首をかしげる声がする。その中に佐々木もいた。パジャマ姿できょろきょろとあたりを見まわして、桟橋のつけ根の灯也を見つけると、目を丸くした。

 

「……穂村? お前、なんでそんなボロボロなん?」

 

「そっちこそ、なんでパジャマなんだよ」

 

「知らんわ!」

 

 カレンが海岸通りの人たちを見わたして、小さくうなずいた。

 

「港の古いガス管からガスが漏れた。それを吸った近所の方々が集団で夢遊病に。……そういうことにしておきましょう。よくある話でしょう?」

 

「ないよ!」

 

「いっ……てえええええええ!!」

 

 カウレスの絶叫が朝の海に響きわたった。カレンの軟膏だった。

 

「とてもしみますと申しあげたはずですが」

 

「俺は聞いてねえよ!!」

 

「穂村さんには申しあげました」

 

 その隣で同じ軟膏を両腕に塗られた灯也が、声も出せずに石畳の上で悶絶していた。

 

「宝石があれば、こんな傷、一瞬で治してあげられるのに……!」

 

 凛が半泣きで包帯を巻いていた。

 

「来週よ、来週! なんでいつも宝石がないときに限って……!」

 

 カウレスの肩の傷は深かった。それでも、カレンの手当てで血は止まっていた。あとは教会できちんと診ます、とカレンは言った。

 

 アビーはその隣にぴたりとくっついて座っていた。カウレスのTシャツの裾を片手でぎゅっとつかんだまま。

 

 反対側からはアストルフォが、カウレスの頭をわしゃわしゃと撫でまわしていた。

 

「カウレスくん、かっこよかったよー! ボク、感動しちゃった!」

 

「……なでんな」

 

 そう言いながら、カウレスは手を払いのけなかった。

 

 カレンが立ちあがろうとして、ふらりとよろめいた。灯也はとっさにその腕を支えた。

 

「……触らないでください。血がつきますよ」

 

「もうついてるよ」

 

 カレンは少しだけ黙った。

 

「……では、少しだけ肩をお借りします」

 

 カレンの両腕の傷はもうほとんど閉じていた。包帯に残った赤い染みだけがひと晩の名残だった。カレンは灯也の肩につかまったまま、カウレスを見た。

 

「令呪を使わなかったのは愚かな選択でした」

 

 カウレスが顔をしかめた。

 

「ええ。ほんとうに。とても愚かでした」

 

 カレンはほんの少しだけ口もとをゆるめた。

 

「……嫌いではありません」

 

 フラットは桟橋の縁に腰かけて、鼻に丸めたティッシュをつめたまま、海を見ていた。

 

「すごいなあ」

 

「何が?」

 

 灯也が聞くと、フラットはうれしそうに笑った。

 

「令呪なしで扉を閉めさせちゃった。……そんな術式、どこにも書いてないや。魔術じゃないのに、今夜いちばんの、すごい魔術だった」

 

 それから、ふっと海の底を見るような目になった。

 

「……ねえ、トウヤくん。海の底のあれ」

 

「うん」

 

「寝てると思ってたんだけどなあ」

 

 フラットはそれ以上何も言わなかった。

 

 柵のあった海岸通りでアルジュナは、石畳に残った矢の焦げあとを見下ろしていた。

 

「マスター」

 

「なによ」

 

「あのとき、私は射るつもりでした。……あなたが撃てと言えば」

 

「言わなかったでしょ」

 

「はい」

 

 アルジュナは、桟橋の先でアビーの帽子をなおしてやっているカウレスを見た。

 

「信じる、とは」

 

 小さな声だった。

 

「これほど恐ろしいものなのですね」

 

 凛は何も言わなかった。ただ、アルジュナの白い袖を指先でちょいとつまんだ。

 

 アビーがアルテラの前にとことこと歩いてきた。カウレスのTシャツの裾を離さないまま。だから、カウレスもいっしょに引っぱられてきた。

 

「いてて……おい、アビー……」

 

「セイバーさん。……ちょうちん、ありがとう」

 

「火はトウヤのだ」

 

「でも、持ってきてくれたのはセイバーさんでしょう?」

 

 アルテラは少しだけ黙った。それから、言った。

 

「いちごを見に来るといい」

 

「……いちご?」

 

「金魚だ。山の上にいる。……祭りは終わったが、いちごはまだいる」

 

 アビーの目がまるくなった。

 

「いいの?」

 

「誘っている」

 

 アルテラはまじめな顔で言った。

 

「来たくなかったら、来なくていい。そういうやつだ」

 

 灯也は思わずアルテラを見た。いつか石段のいちばん上で自分が言ったのと、ほとんど同じ言葉だった。

 

「……行くわ!」

 

 アビーはぴょんと跳ねた。

 

「ぜったい行く! パンケーキを食べてから!」

 

「パンケーキって……俺、フライパン持ってねえぞ」

 

 カウレスがぼそりと言った。

 

「うちで焼けば? 台所、あるし」

 

 灯也が言うと、アビーがカウレスのTシャツをぐいぐいと引っぱった。

 

「マスター! セイバーさんのおうちでパンケーキ!」

 

「わかった、わかったから、引っぱんな……!」

 

 みんながぞろぞろと桟橋をあとにしはじめた。アルテラだけが桟橋の先に立ったまま、海を見ていた。

 

「アルテラ?」

 

「トウヤ」

 

 アルテラは振りかえらずに言った。

 

「あの子は海の底の誰かが泣いていると言った」

 

「……うん」

 

「あれは泣いていたのではない」

 

 灯也はアルテラの横顔を見た。

 

「じゃあ、なんだったんだ」

 

「わからない」

 

 アルテラは首を振った。

 

「わからない。……だが、私はあの歌を知っている気がする。ずっとずっと昔から」

 

 朝の海は何ごともなかったように凪いでいた。アルテラはしばらくそれを見ていた。それから、ぽつりと言った。

 

「カウレスが言っていた。鍵は閉めるためにもある、と」

 

「うん」

 

「覚えておく」

 

 アルテラはくるりと海に背を向けた。

 

「帰るぞ。いちごに餌をやる時間だ」

 

 海岸通りを誰かが歩いてきた。朝の光の中をゆるぎない足どりで。白い髪。黄金の鎧。その腕の中でパジャマ姿の小さな女の子が、すうすうと眠っていた。

 

 凛が身構えた。アルテラが剣の柄に手をかけた。カルナは誰のことも見ずに、カレンの前まで歩いてきた。

 

「監督役。この子を頼む。橋の上で眠っていた」

 

 カレンは目をまばたかせた。

 

「……ランサー。あなた、ずいぶんと変わったサーヴァントですね」

 

「よく言われる」

 

 カルナは、眠っている女の子をカレンの腕にそっとあずけた。それから、アルジュナのほうを振りむいた。朝の海風がふたりのあいだを吹きぬけていった。

 

「アルジュナ」

 

 アルジュナは答えなかった。

 

「マスターからの言伝だ。三日後の夜、暁浜大橋で待つ。……お前の中の黒いものが見てみたいそうだ」

 

 凛が息をのんだ。

 

「それから」

 

 カルナは淡い青の瞳でアルジュナを見た。

 

「これはオレの望みでもある」

 

 それだけ言うと、カルナは背を向けた。来たときと同じように、朝の光の中をまっすぐに去っていった。

 

 アルジュナはその白い背中をじっと見ていた。弓を握る指先に黒い炎は揺れていなかった。ただ、静かだった。凛にはそれがいちばん怖かった。

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