Fate/Starfall Harbor   作:mecono

8 / 8
第七話 パンケーキと日輪

一

 じゅうと、フライパンが鳴った。

 

「……っ、くそ」

 

 カウレスは右手一本でフライ返しを握ったまま、顔をしかめた。左腕は白い三角巾で首から吊られている。鼻の上には黒い縁の眼鏡がのっていた。

 

 ゆうべ桟橋で飛んでいったのとは別のものだ。灯也の視線に気づいて、カウレスはぼそりと言った。

 

「予備の眼鏡だよ。……予備ってのもけっこう役に立つだろ」

 

 灯也は笑った。カウレスも口の端をほんの少しだけ上げた。

 

 穂村家の台所に甘い匂いが満ちていた。あれから三時間しか眠っていない。それでも、約束は約束だった。食卓にはもうみんなが顔をそろえていた。

 

 鼻にティッシュをつめたままのフラット。フォークとナイフを両手に握りしめて、今か今かと待ちかまえているアストルフォ。寝ぐせのついた髪をむりやりふたつに結んだ凛。

 

 縁側ではアビーとアルテラが並んでしゃがみこんでいた。ふたりのあいだには常夜灯の前から運んできた、ガラスの金魚鉢。

 

「この子がいちごさん?」

 

「そうだ」

 

「こんにちは、いちごさん。わたし、アビゲイル。アビーって呼んでね」

 

 赤い金魚がガラスの中でひらりと尾をひるがえした。

 

「……返事をした」

 

「ええ、したわ!」

 

 アルテラはまじめな顔でうなずいた。アビーはくすくすと笑った。

 

 フライパンの上で生地がぷつぷつと泡を立てはじめた。

 

「今だ……!」

 

 カウレスがフライ返しを差しこんだ。ひっくり返す。パンケーキは空中で半分に折れた。べちゃりとフライパンの縁に落ちる。焦げ目がまだらについていた。台所がしんとした。

 

「代わりましょうか」

 

 流しの前でアルジュナが静かに言った。白いシャツの袖を肘までまくっている。生地を混ぜたのはアルジュナだった。みんなが眠っているあいだに、だまひとつない、なめらかな生地を黙々と。

 

「いい。約束したのは俺だ」

 

 カウレスは折れたパンケーキを皿にすべらせた。縁側から飛んできたアビーの前にそれを置く。

 

「……悪い。失敗した」

 

 アビーは皿の上の、半月みたいにいびつなパンケーキをじっと見下ろした。それから、シロップの瓶をつかんで、どぼどぼとたっぷりかけた。

 

「いただきます!」

 

 大きなひと口。アビーの頬がぱんぱんにふくらんだ。

 

「……おいしい!」

 

「嘘つけ。焦げてるだろ」

 

「焦げてるところがおいしいの!」

 

 アビーはシロップでべたべたの口でにっこりと笑った。

 

「マスターのパンケーキが世界でいちばんよ」

 

 カウレスは何か言いかけてやめた。眼鏡を指で押しあげた。耳が赤かった。

 

 結局、残りはアルジュナが焼いた。泡が立ったちょうどその瞬間に、手首をひとひねり。生地は空中でくるりと一回転して、音もなくフライパンの真ん中に戻った。

 

 きつね色の、まんまるな面が上を向いていた。焦げ目ひとつない。縁まで同じ色。一枚。二枚。三枚。皿の上に寸分たがわぬ大きさの円が積みあがっていく。

 

「すっげえ……」

 

「ねえねえ、これコンパスで描いたの!?」

 

 アストルフォが身を乗りだした。アルテラがいちばん上の一枚をしげしげと見つめた。

 

「……太陽のようだ」

 

 フライ返しを持つアルジュナの手がほんの一瞬止まった。凛はそれを見ていた。

 

「恐れいります」

 

 アルジュナはいつもどおりに微笑んで、次の生地をフライパンに流した。

 

 アビーはアルジュナのパンケーキもひと口食べた。それから、首をかしげた。

 

「こっちもとってもおいしいわ。……でも、やっぱりマスターのがいちばん」

 

「ええ」

 

 アルジュナはうなずいた。

 

「そういうものなのでしょうね」

 

 その声がほんの少しだけうらやましそうに聞こえたのは、気のせいだったろうか。凛はシロップの瓶を握ったまま、アルジュナの横顔を見ていた。

 

 食後、カウレスがポケットから携帯ゲーム機を取りだした。左右のコントローラーを外して、片方をアルテラに放る。

 

「ほら。……ゆうべの礼」

 

「なんだ、これは」

 

「格闘ゲーム。こうやって、こう。このボタンで殴って、こっちで蹴る」

 

「殴る。蹴る」

 

 アルテラの紅い目がすっと細くなった。

 

「得意だ」

 

 十七連敗だった。

 

「……なぜだ」

 

 アルテラは、画面の中で大の字にのびている自分のキャラクターをにらみつけた。

 

「お前、ボタン連打しすぎなんだよ。動きがぜんぶ読める」

 

「もう一度だ」

 

 十八連敗。

 

「もう一度だ」

 

 十九連敗。アルテラの指がコントローラーをみしりと握りしめた。

 

「アルテラ! 壊すなよ! それ、カウレスのだから!」

 

「壊さない」

 

 アルテラはコントローラーをそうっと膝の上に置いた。それから、自分の胸に手を当てた。

 

「トウヤ。胸のこのあたりがむずむずする。熱いのに、怖いとはちがう。楽しいとも少しちがう」

 

「それはたぶん」

 

 灯也は少し考えてから、言った。

 

「くやしい、だよ」

 

「くやしい」

 

 アルテラはその言葉をいつものように口の中で転がした。

 

「負けたままではいたくない。……そういうことか」

 

「うん。そういうこと」

 

「そうか」

 

 アルテラはコントローラーを握りなおして、カウレスを見すえた。

 

「三日後にもう一度だ」

 

「なんで三日後なんだよ」

 

「そういうものだと聞いた」

 

 カウレスはぽかんとした。それから、こらえきれずに噴きだした。

 

 縁側で凛はアルジュナの隣に腰を下ろした。朝の境内にセミの声がわんわんと降っていた。崖の向こうの湾の上には暁浜大橋が白く、長くかかっている。

 

「……三日後ね」

 

「はい」

 

「あんた、大丈夫なの」

 

「ええ。何も問題はありません」

 

 アルジュナは微笑んだ。完璧な微笑みだった。さっきのパンケーキと同じくらい。凛はその指先を見た。

 

 夜明けの海岸通りでカルナに呼びだしを突きつけられたときも。今、太陽のようだと言われたときも。あの黒い炎は一度も揺れなかった。揺れていたほうがまだましだった。

 

「……そういう顔で言うから、心配なのよ」

 

 前にも同じことを言った気がした。アルジュナは何も答えなかった。

 

二

 夢を見た。

 

 見わたすかぎり戦場だった。土ぼこり。ほら貝の音。何千という戦車の車輪が大地を削っていく音。折れた旗。倒れた象。乾いた血の匂い。凛は戦車の上に立っていた。

 

 手には弓があった。自分の手ではなかった。大きくて、褐色で、指の先まで弓を引くための形をしていた。目の前に一台の戦車が止まっていた。車輪が泥にはまっていた。

 

 その男は武器を置いて、車輪に肩を当て、泥の中から持ちあげようとしていた。白い髪が土ぼこりにまみれていた。黄金の鎧はどこにもなかった。

 

「待ってくれ」

 

 男が言った。背中をこちらに向けたまま。

 

「——射よ」

 

 すぐ隣で誰かが言った。御者台に座った黒い肌の男だった。やさしく、静かで、けっして逆らえない声だった。

 

「射よ、アルジュナ。今だ」

 

 弦を引く指に力がこもる。凛は叫ぼうとした。声は出なかった。これは凛の手ではない。凛の夢でもない。矢が放たれた。まっすぐに。男の背中へ。

 

 男の体がゆっくりと泥の上に崩れおちた。倒れる前に、男は首だけでこちらを振りかえった。その目には憎しみも、怒りもなかった。ただ、まっすぐにこちらを見ていた。

 

 胸の奥で何かがぎしりと軋んだ。勝ったのだ。この戦でいちばん倒したかった男に。それなのに。

 

 ちっともうれしくなかった。かわりに、黒いものが胸の底からじわじわと湧きあがってきた。

 

 ——こんなふうに勝ちたかったのではない。

 

 凛は目を開けた。借りている部屋の天井だった。頬が濡れていた。

 

 縁側に出ると、夜風がひやりと首すじをなでた。常夜灯の前に白い背中があった。

 

 アルジュナは崖っぷちの手すりの前に立って、湾の向こうを見ていた。暗い海の上に暁浜大橋のライトアップが、光の弧を描いている。

 

 その指先で黒い炎がちろりと揺れていた。凛の足音に気づいて、アルジュナはその炎をもう片方の手で握りつぶした。

 

「……マスター。眠れませんか」

 

「見たわよ」

 

 凛はアルジュナの隣に並んだ。

 

「あんたの夢。……マスターとサーヴァントってね、ときどき夢でつながっちゃうの」

 

 アルジュナはしばらく黙っていた。

 

「……お見苦しいものをお見せしました」

 

「車輪、泥にはまってた」

 

「ええ」

 

「あいつ、待ってくれって言ってた」

 

「ええ」

 

「それで、あんた」

 

 凛は言葉を選んだ。

 

「ちっともうれしくなかったでしょ」

 

 アルジュナの肩がかすかに動いた。答えはなかった。常夜灯の火がふたりの足もとで小さく揺れていた。

 

「ねえ、アーチャー」

 

「はい」

 

「あんた、あいつに勝ちたいの?」

 

「勝たねばなりません」

 

 アルジュナはすぐに答えた。

 

「それが私の——」

 

「そうじゃなくて」

 

 凛はさえぎった。

 

「勝たなきゃいけないかじゃなくて。……勝ちたいのかって聞いてんの」

 

 アルジュナは口を開いた。それから、閉じた。遠い海の上で大橋の光の弧が、まばたきもせずに光っていた。

 

「……わかりません」

 

 ずいぶん長い沈黙のあとでアルジュナはそう言った。

 

「考えたことがありませんでした。私はいつも勝たねばならない者でしたから」

 

「そう」

 

 凛は手すりから身を離した。

 

「三日あるわ。答え、考えときなさい」

 

 母屋のほうへ歩きだす。途中で一度だけ振りかえった。アルジュナはまだ海を見ていた。

 

 その指先でまた黒い炎が揺れていた。今度は、アルジュナはそれを握りつぶさなかった。ただ、じっと見つめていた。

 

三

「お荷物でーす。遠坂凛さんあて、冬木からでーす」

 

 翌朝、境内にのんびりした声が響いた。母屋から凛がはだしで飛びだしてきた。

 

「来た……!」

 

 両手で抱えるほどの古い木の箱だった。

 

「代金引換で四千八百円になりまーす」

 

 凛が固まった。ゆっくりと灯也のほうを振りかえった。

 

「……穂村くん」

 

「え、俺?」

 

「授業料から引いといて!」

 

 箱の中には黒いビロードの布が何段にも重ねてあった。一枚めくる。朝の光の中に色とりどりの光がこぼれた。

 

 ルビー。サファイア。エメラルド。トパーズ。名前も知らない、紫や、桃色や、水のように透きとおった石。小指の先ほどの粒が、ビロードのくぼみにひとつずつ行儀よく収まっている。

 

「きれいだ」

 

 アルテラが箱をのぞきこんだ。

 

「あげないわよ!?」

 

 凛は箱をぎゅっと抱えこんだ。

 

「これはね、遠坂の家が父さんの代からこつこつ魔力をためこんできた宝石なの。ひと粒ひと粒が何年分もの貯金なのよ。……今のわたしの全財産」

 

 凛は箱に頬ずりせんばかりだった。

 

「やっと……やっと遠坂家の当主らしい暮らしに戻れる……!」

 

「よかったね、遠坂さん」

 

「ええ。もう、ひと粒だって無駄づかいしないんだから」

 

 その日の午後、灯也たちは暁浜大橋の上にいた。

 

 橋の歩道は海からの風が強かった。はるか下で瀬戸内の海が、真昼の光をきらきらと照りかえしている。すぐ横の車道をトラックがごうっと通りすぎていく。

 

 少しうしろではフラットとアストルフォが手すりから身を乗りだして、はしゃいでいた。散歩だと聞いて、勝手についてきたのだ。

 

「授業その十」

 

 凛が手すりに背中をあずけて、言った。

 

「記念すべき十回目よ。……あさっての夜、あいつらはここでやりあう」

 

 凛は橋の上をぐるりと見わたした。

 

「英霊同士が本気でぶつかったら、こんな橋ひとたまりもないわ。橋が落ちたら、ガス漏れじゃ済まない。島の人たちは帰る道がなくなる」

 

 灯也は手すりの向こうを見た。海の先に沖の島がこんもりと緑色に盛りあがっていた。

 

「だから、あんたにこの橋を守ってもらう」

 

「……俺が?」

 

「あんたの守れで」

 

「無理だよ。練習じゃ腰の高さで三秒だよ」

 

「知ってる」

 

 凛はあっさりと言った。

 

「それに、もうひとつ問題があるの。……結界は線を引く魔術だって教えたわよね。内側と外側を分ける線。そのいちばん簡単な形が輪。始まりと終わりがつながってる形」

 

 凛は、指先で橋を本土の側から島の側までまっすぐになぞった。

 

「でも、橋は輪じゃない。一本のまっすぐな線よ。始まりと終わりがつながってない。……線のままじゃ、壁は立たないわ」

 

 灯也は橋を見わたした。本土のつけ根から沖の島のつけ根まで。二本の主塔のあいだを、白い車道がまっすぐに貫いている。まっすぐな一本の線。

 

 灯也は手すりの白い塗装に手のひらを当てた。日に焼けて、熱かった。

 

「……この橋が開通したの、俺が九歳のときなんだ」

 

「開通したのは知ってるわよ。セイバーのTシャツにでかでかと書いてあるもの」

 

 アルテラが自分の胸を見下ろした。「祝・暁浜大橋開通」の文字を。

 

「この橋か」

 

「その橋」

 

 灯也は笑った。それから、ぽつりと続けた。

 

「開通式の日ばあちゃんと来たんだ。テープカットのあと、この歩道を島のほうまで歩いた。……ばあちゃん、ずっと黙ってて。真ん中あたりで急に言ったんだ。これでもう誰も船を待たんでええって」

 

 凛は何も言わなかった。アルテラも何も言わなかった。ただ、灯也の横顔を見ていた。

 

「島から本土に通ってる人も、本土から島に帰る人も毎日ここを通る。朝ここを渡って、夜ここを渡って帰ってくる」

 

 灯也は橋の上を見わたした。上りの車線と、下りの車線。こちら側の歩道と、向こう側の歩道。

 

「……行く道と、帰る道だ」

 

「え?」

 

「橋って、一本の線に見えるけど。ほんとは行って帰ってくるための道だろ。行きはこっち側の手すり。帰りは向こう側の手すり。島のつけ根で折りかえして、こっちのつけ根でつながる」

 

 灯也は指で空中に細長い輪を描いた。

 

「行きと帰りで輪になる」

 

 凛はしばらくぽかんと灯也を見ていた。それから、ふんと鼻を鳴らした。

 

「……屁理屈ね」

 

「だめ?」

 

「だめなんて言ってないでしょ」

 

 凛は腕を組んだ。口の端が少しだけ上がっていた。

 

「魔術ってのはね、だいたい屁理屈でできてるの。自分が本気で信じられる屁理屈なら、それはちゃんと術式になる。……で、内側は?」

 

「帰り道」

 

 灯也は迷わなかった。

 

「この橋の上のぜんぶ。帰り道を守る」

 

「合格」

 

 凛はぱちんと指を鳴らした。

 

「残る問題は三秒ね」

 

 凛は指を三本立てた。

 

「あんたの守れは三秒しかもたない。……なら、三秒でいい」

 

「え?」

 

「ずっと守ろうとしなくていいの。いちばん危ない三秒にぴったり合わせなさい。宝具と宝具がぶつかるその瞬間に」

 

 それから、凛はポケットから赤い粒をひとつ取りだした。けさ届いたばかりのルビーだった。それを灯也の手のひらにぽとりと落とす。

 

「燃料は、わたしが出すわ。……貸すだけよ。あとでちゃんと返してもらうから」

 

「ひと粒だって無駄づかいしないんじゃなかったの?」

 

「無駄づかいじゃないもの」

 

 凛はぷいと海のほうを向いた。

 

「ねえ、遠坂さん」

 

 手すりからほとんど落ちそうなくらいに身を乗りだして、フラットが言った。アストルフォがその腰のベルトを片手でつかんでいる。

 

「このへんの真下ってさ、炉のいちばん浅いとこなんだよね」

 

「……は?」

 

「このあいだ海に手を突っこんだとき、わかったんだ。炉の殻、この橋の真ん中の下あたりがいちばん海の上に近いの。……あ、だからどうってわけじゃないんだけど」

 

「ふうん」

 

 凛は足もとを見た。それから、二本の主塔を順番に見上げた。頭の隅に何かが小さくひっかかった。けれど、それが何なのか、そのときの凛にはまだわからなかった。

 

 アルテラは、少し離れた手すりの前でじっと海を見下ろしていた。

 

「アルテラ?」

 

「……なんでもない」

 

 アルテラは首を振った。

 

「ただ、少し近いと思っただけだ」

 

 何がとは言わなかった。

 

 その夜、凛のスマートフォンが鳴った。

 

『監督役として申しあげます』

 

 カレンの声だった。

 

『あさっての夜、暁浜大橋は全面通行止めになります。理由はケーブルの緊急点検ということに』

 

「あんた、そういう手回しだけは早いわね」

 

『ええ。決闘の後始末より、前始末のほうがずっと楽ですので』

 

 電話の向こうでカレンがくすりと笑った気がした。

 

『それから、穂村さんにお伝えください。軟膏はまだたっぷりございますと』

 

 縁側でそれを聞いていた灯也は、包帯だらけの両腕をそっと背中に隠した。

 

四

 夏休みが終わった。二学期の始業式は旧居留地のガス漏れと、謎の集団夢遊病の話でもちきりだった。

 

「穂村、お前、また包帯増えてない?」

 

 佐々木が灯也の腕をのぞきこんだ。

 

「……自転車で転んだ」

 

「夏休みのあいだに何回転んでんの、お前」

 

 佐々木は、自分がパジャマのまま海岸通りで寝ていたことをまだ誰にも話していないらしかった。

 

 その夕方。

 

「三日後だ」

 

 縁側でアルテラがコントローラーを握りしめた。カウレスはあきれた顔でゲーム機を起動した。今夜は、カウレスとアビーが神社の留守番を引きうけてくれることになっていた。

 

「一回だけだぞ。お前ら、このあと出かけんだろ」

 

「一回でいい」

 

 負けた。それでも、いつもよりずっと長く粘った。画面の中でアルテラのキャラクターは、最後の最後まで立っていた。

 

「……くやしい」

 

 アルテラはコントローラーをそうっと置いた。

 

「だが、三日前より長く立っていた」

 

「お前、うまくなってるよ」

 

 カウレスがぼそりと言った。

 

「……ちょっとだけな」

 

 アルテラはカウレスを見た。それから、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「次は勝つ」

 

「言ってろ」

 

 アルテラは崖の向こうを見た。夕焼けの海の上に大橋が黒い影になってかかっていた。

 

「トウヤ。……あの弓兵もくやしいのか」

 

「たぶんね」

 

 灯也は言った。

 

「何千年分の」

 

 アルテラはしばらく黙っていた。

 

「……それは重いな」

 

 鳥居の下でアビーがぶんぶんと手を振った。

 

「いってらっしゃい! 電気つけて待ってるわ!」

 

 その隣でカウレスは片手をポケットに突っこんだまま、ぶっきらぼうに言った。

 

「……死ぬなよ」

 

 夕焼けの空の高いところでヒポグリフがひと声鳴いた。フラットとアストルフォは、空から町のほうを見張る係だった。

 

 夜の十一時。暁浜大橋の入り口には黄色いバリケードが並んでいた。「緊急点検のため 全面通行止め」の看板の横で黒い修道服のカレンが、懐中電灯を手に立っていた。

 

「ごきげんよう。今夜の点検はずいぶん大がかりになりそうですね」

 

「止めないの?」

 

「監督役は見届けるのが仕事ですので」

 

 カレンはにっこりと微笑んだ。その両腕の包帯は真っ白なままだった。

 

 ライトアップの消えた橋は暗かった。車の一台も通らない車道を、四人はまっすぐに歩いていった。

 

 本土側の主塔をくぐり、橋の真ん中へ。足もとのはるか下で夜の海がざあっと鳴っていた。

 

 車道の真ん中、中央線の上にカルナが立っていた。黄金の鎧が月の光を受けて、淡く光っている。

 

 見上げると、島側の主塔のてっぺんに小さな人影があった。塔の縁に腰かけて、細い脚をぶらぶらと揺らしている。青いワンピースの裾が夜風にはためいていた。

 

「来たか」

 

 カルナが言った。

 

「来ないとお思いでしたか」

 

 アルジュナが答えた。

 

「いや。お前は来る。そういう男だ」

 

 カルナの淡い青の瞳が灯也に向いた。

 

「少年も来たのか」

 

「橋を守りに来た」

 

 灯也は言った。

 

「あんたたちの邪魔はしない。でも、この橋は明日の朝もみんなが通るんだ」

 

 カルナは少しのあいだ灯也を見ていた。

 

「……そうか。それは良いことだ」

 

 それから、槍の石突きでとんと、車道を突いた。

 

「火を入れるがいい。待とう」

 

 アルテラが灯也を抱えあげた。

 

「行くぞ、トウヤ」

 

「うん」

 

 灯也は凛から借りたルビーを左手に握りしめた。右手の人さし指をまっすぐに伸ばす。

 

「——灯れ」

 

 指先に火がともった。アルテラが跳んだ。本土側のつけ根までひと息に戻る。そこから歩道の手すりの上を風のように駆けはじめた。

 

 灯也はその腕の中から右手を伸ばした。指先が白い手すりをなぞっていく。なぞったあとに、火が残った。細い、橙色の、一本の線。

 

 手すりの上を火の線が走っていく。本土側の主塔をくぐり、橋の真ん中を越え、島側の主塔をくぐって島のつけ根まで。島のつけ根でアルテラはくるりと向きを変えた。

 

 車道を跳びこえて、向こう側の手すりへ。帰り道だ。島のつけ根から本土のつけ根へ。もう一本の火の線が、暗い橋の向こう側をまっすぐに走っていく。

 

 本土のつけ根で灯也は、いちばん最初にともした火に指先を重ねた。始まりと、終わりがつながる。

 

「——巡れ」

 

 火の線がぐるりと回りはじめた。行きの手すりから帰りの手すりへ。帰りの手すりから行きの手すりへ。橋をまるごと囲んだ細長い橙色の輪が、灯也の体の中を回る熱の輪と同じ速さで回っている。

 

 左手の中でルビーがほんのりと熱を持った。ライトアップの消えた橋の上に橙色のふちどりが、くっきりと浮かびあがった。

 

「きれい」

 

 すぐ耳もとで声がした。灯也はぎくりと振りかえった。誰もいない。はるか上の島側の主塔のてっぺんで愛歌が、ぱちぱちと手をたたいていた。

 

 橋の真ん中に戻ると、アルジュナとカルナは二十メートルほどの距離をおいて、向かいあっていた。

 

 凛は少し離れた歩道に立って、腕を組んでいた。足もとにはあの木の箱。指のあいだには宝石を何粒もはさんでいる。

 

「……待たせました」

 

 アルジュナが言った。

 

「いや」

 

 カルナは槍を構えた。

 

「待つのは慣れている」

 

 アルジュナが弓を構えた。矢の先に青白い炎がともった。風が止んだ。

 

五

 最初の一矢は音よりも速かった。青白い炎の矢が夜を裂いて、カルナの眉間へ。カルナの槍がそれを穂先で弾いた。弾かれた矢は火の粉になって、橋の外の闇へ散った。

 

 次の瞬間、カルナの姿が消えていた。黄金の炎の尾だけが車道の上に一直線に残っていた。

 

 アルジュナが跳んだ。一瞬前まで立っていたアスファルトを、カルナの槍が深々とえぐった。

 

 宙で身をひるがえしながら、アルジュナは弓を引いた。一本。二本。三本。四本。放たれた矢は空中でそれぞれ十に分かれた。四十本の青白い炎が雨になって、カルナの上へ降りそそぐ。

 

 カルナは槍を頭上で回した。黄金の炎が渦を巻いて、傘のように広がった。四十本の矢がその渦に呑まれて、ことごとく燃えつきた。

 

 カルナが走った。車道の上ではなかった。橋を吊る太いケーブルの上を。主塔のてっぺんへ向かって斜めに伸びる鋼の綱を、黄金の炎の尾を引きながら、一気に駆けあがっていく。

 

 アルジュナも跳んだ。反対側のケーブルへ。二本のケーブルの上を、ふたりは並んで駆けのぼっていった。走りながら、矢が放たれ、槍が振るわれる。

 

 青白い矢が黄金の槍に弾かれて、闇へ消える。黄金の炎が青白い炎に断ち切られて、夜空に散る。鋼のケーブルがふたりの足もとでびいんと、弓の弦のように鳴った。

 

 灯也は息をするのも忘れていた。速すぎて、ほとんど見えなかった。ただ、青白い光と、黄金の光が橋の上を縦横に走りまわっているのがわかるだけだ。

 

 ケーブルから主塔の壁へ。主塔の壁から車道へ。車道から、またケーブルへ。光と光がぶつかるたびに、橋全体がずしんと揺れた。

 

 手すりの上の火の輪が揺れに合わせてふるえる。灯也はルビーを握りしめて、熱を送りつづけた。

 

 ——巡れ。巡れ。輪を切らすな。

 

「ランサーのあれは魔力放出よ」

 

 凛が宝石を握りしめたまま、早口で言った。授業のときの顔だった。

 

「体の中の魔力を炎にして、噴きだしてるの。その勢いで走って、跳んで、槍を振るってる。……あんな量、人間がやったら、一秒で干からびるわ」

 

「アーチャーのは?」

 

「もっと、たちが悪いわ。神さまから授かった弓に、神さまから授かった技。ぜんぶ、天からの贈り物よ」

 

 凛は唇をかんだ。

 

「授かりの英雄なんて呼ばれてるの。何もかも持って生まれて、何もかも与えられて。……だから、あいつ、自分で何かを欲しがったことがないのよ。きっと」

 

「……楽しそうだ」

 

 隣でアルテラがつぶやいた。

 

「楽しそう?」

 

「あの槍兵は笑っている」

 

 灯也は目をこらした。主塔の壁を蹴って宙を舞うカルナの横顔が、一瞬だけ月の光に浮かんだ。たしかに笑っていた。ほんのかすかに。アルジュナは笑っていなかった。

 

 カルナが主塔の中ほどの高さで止まった。足もとから炎を噴いて、宙に浮かんだまま、橋の上のアルジュナを見下ろす。その淡い青の瞳がふいにまばゆく光った。

 

「——『梵天よ、地を覆え(ブラフマーストラ)』」

 

 カルナの目から光が放たれた。まっすぐな灼熱の光線だった。夜を白く焼きながら、アルジュナへと降ってくる。

 

「マスター、お下がりください」

 

 アルジュナは静かに言った。弓を引きしぼる。弦がきりきりと鳴った。矢の先の青白い炎がふくれあがる。ふくれあがって渦を巻き、一本の矢が、燃えさかる大樹の幹のように太くなっていく。

 

「——『炎神の咆哮(アグニ・ガーンディーヴァ)』」

 

 放たれた炎の矢が獣のような咆哮をあげた。光線と、炎の矢が橋の真上でぶつかりあった。夜が真昼になった。

 

 爆風が橋の上をなぎはらった。灯也はアルテラの背中にかばわれて、手すりにしがみついた。耳がきいんと鳴る。はるか下の海面が爆風に押されて、まるくへこんだ。

 

 光が晴れた。カルナは同じ高さに浮かんでいた。アルジュナは同じ場所に立っていた。その足もとのアスファルトだけが蜘蛛の巣のようにひび割れて、黒く焦げていた。

 

「……さすがだ」

 

 カルナは車道の上に音もなく降りたった。

 

「だが、アルジュナ」

 

 槍の穂先をまっすぐにアルジュナへ向ける。

 

「お前はまだオレを見ていない」

 

 アルジュナの指がぴくりと動いた。

 

「お前が見ているのはあの日の泥だ。……オレではない」

 

「……黙れ」

 

 低い声だった。弓を握るアルジュナの手から黒いものが立ちのぼった。矢の先の青白い炎がふっと色を変える。青から黒へ。

 

「アーチャー!」

 

 凛が叫んだ。黒い炎の矢が雨のようにカルナへ降りそそいだ。さっきの青白い矢よりもずっと暗く、重く、速い矢が。

 

 カルナはそれを黄金の鎧で正面から受けとめた。爆炎がいくつもいくつもカルナの体の上で弾ける。

 

 カルナは一歩も退かなかった。黒い矢の雨の中でまっすぐにアルジュナだけを見ていた。

 

六

「そろそろいいかしら」

 

 また、すぐ耳もとで声がした。島側の主塔のてっぺんで愛歌が、右手を夜空にかざしていた。その手の甲で赤い模様が光っていた。

 

「令呪をもって命じるわ」

 

 鈴を転がすような楽しそうな声だった。

 

「ランサー。……動かないで」

 

 カルナの体が止まった。黒い矢の雨のただ中で。槍をだらりと下ろしたまま。最後の一本がその胸の鎧に当たって砕けた。カルナは身じろぎひとつしなかった。できなかった。

 

「ほら、アーチャー」

 

 愛歌の声が夜の中にやさしく響いた。

 

「あの日とおんなじにしてあげたわ。車輪は泥にはまってないけど。……そのかわり、もう指一本動かせないの」

 

 凛の背中を、冷たいものが駆けおりた。夢の中の泥。車輪。武器を置いた白い髪の男。

 

「撃って?」

 

 愛歌は首をかしげた。

 

「見たいの。あなたがもう一度撃つところ」

 

 アルジュナの体から黒い炎が噴きあがった。腕を伝い、肩を這いのぼり、白い衣を裾から黒く染めていく。弓が黒く燃えあがった。矢をつがえる。狙いは二十メートル先に立つ動かない男の胸。

 

「アルジュナ」

 

 カルナが言った。動かない体のまま。声だけで。

 

「撃つなら、撃て」

 

 淡い青の瞳がまっすぐにアルジュナを見ていた。

 

「……今度は待てとは言わん」

 

 アルジュナの指がふるえた。

 

 ——射よ。

 

 凛にもわかった。アルジュナの中で声がしている。やさしく、静かで、けっして逆らえない声が。

 

 ——射よ、アルジュナ。今なら勝てる。

 

 ——あの日のように。

 

 弦がきりきりと引きしぼられていく。黒い炎が矢の先でふくれあがる。

 

「アーチャー!」

 

 凛は走った。黒い炎の中へまっすぐに。

 

「遠坂さん!」

 

 灯也の叫びを背中で聞いた。熱かった。肌という肌が焼けるようだった。それでも、凛は止まらなかった。

 

 アルジュナの袖をつかんだ。黒い炎が凛の手のひらをじゅっと焼いた。凛は離さなかった。

 

「あんた、撃ちたいの?」

 

 アルジュナは凛を見なかった。黒い炎の向こうでその目はカルナだけを見すえていた。

 

「……撃たねばなりません。今なら勝てる。あの男に勝たねば——」

 

「そんなこと聞いてない!」

 

 凛は叫んだ。

 

「撃たなきゃいけないかなんて聞いてない。……あんたが撃ちたいのかって聞いてんのよ!」

 

 アルジュナの唇がふるえた。

 

「私は……私は完璧な英雄でなければ……」

 

「知らないわよ、そんなの!」

 

 凛は焼ける手で袖をぐいと引いた。

 

「あんたが完璧じゃないことくらいとっくに知ってるわよ! 人の宝石代で子どもに施しはするし、パンケーキが太陽みたいって言われただけで手は止まるし、あいつの前じゃすぐ真っ黒になるし!」

 

 黒い炎が凛の腕を這いのぼってくる。凛はかまわなかった。

 

「その黒いのもぜんぶあんたでしょ。醜いかどうかは、わたしが決めるって言ったでしょ。……わたしはぜんぶ見てる。ぜんぶ見て、それでも、あんたのマスターよ」

 

 アルジュナがはじめて凛を見た。

 

「だから」

 

 凛はその目をまっすぐに見かえした。

 

「くやしいなら、くやしいって言いなさいよ。勝ちたいなら、勝ちたいって言いなさいよ。誰かに射よって言われたからじゃなくて。完璧な英雄だからでもなくて」

 

 息を吸う。

 

「……あんたはあんたのために戦っていいのよ。アルジュナ」

 

 弦を引く指が止まった。はじめてだった。マスターにその名で呼ばれたのは。アルジュナは凛を見ていた。それから、二十メートル先の動かない男を見た。

 

 泥ではなかった。車輪でもなかった。背中でもなかった。白い髪の男がまっすぐにこちらを見ていた。

 

「……祭りの晩」

 

 アルジュナの声がかすれた。

 

「射的の屋台で子どもたちが、あの男と私に同じように声をあげていました。……あれがたまらなくうれしかったのです」

 

 凛は黙って聞いていた。

 

「ずっと、ああしてあの男と並びたかった。生まれも、車輪も、誰の命令も関係なく。……ただ、まっすぐにあの男と戦ってみたかった」

 

 黒い炎が揺れた。

 

「誰のためでもなく。……私がそうしたかったのです」

 

 黒い炎は消えなかった。けれど、もうアルジュナを呑みこもうとはしていなかった。弓を握る手の中で黒い炎は静かに、まっすぐに燃えていた。

 

 アルジュナは弓を下ろした。島側の主塔のてっぺんを見上げる。

 

「沙条愛歌。……私は撃ちません。動けない者を射るのはもうたくさんです」

 

 それから、カルナを見た。

 

「カルナ。私はあなたに勝ちたい。……あの日のようにではなく。正面から」

 

 カルナの唇がかすかに動いた。

 

「……やっとオレを見たな」

 

 凛は袖をつかんだまま、その場にへたりこみそうになった。アルジュナが凛の手をそっと自分の袖から外した。焼けただれた手のひらを両手で包みこむ。

 

「……マスター。申し訳ありません」

 

「謝んないでよ」

 

 凛は鼻をすすった。

 

「謝るくらいなら、勝ちなさいよ。……正面から」

 

「はい」

 

 主塔の上で愛歌が頬杖をついた。

 

「……なあんだ」

 

 つまらなそうな声だった。

 

「撃たないのね。知ってたけど」

 

 それから、くすりと笑った。

 

「でも、見られたからいいわ。知ってるのと、見るのとはちがうもの。……黒いのに、まっすぐ燃える火。きれいね」

 

 愛歌は右手をひらひらと振った。

 

「いいわ、ランサー。動いて。……そのかわり」

 

 愛歌の目がすうっと細くなった。

 

「とびきり大きいのを見せてちょうだい。ふたりとも」

 

 カルナの体に力が戻った。ゆっくりと槍を構えなおす。

 

「……承知した」

 

 カルナはアルジュナを見た。

 

「オレもそれを望む」

 

七

 カルナが空へ昇っていった。背中から黄金の炎を噴きあげて。主塔のてっぺんよりも高く。夜空のさらに高みへ。月の隣でカルナの体が燃えあがった。太陽だった。

 

 真夜中の空にもうひとつの日輪が昇っていた。その光が橋を、海を、町を真昼のように照らしだした。

 

 アルジュナは橋の真ん中に立って、弓を真上に向けた。黒い炎と青白い炎が弓の上でより合わさっていく。一本の縄のように。

 

「——神性領域、拡大」

 

 アルジュナの声が夜に響いた。橋の上の空気がびりびりとふるえた。

 

 そのとき頭の上から甲高い鳴き声が降ってきた。ヒポグリフだった。アストルフォのうしろでフラットが、身を乗りだして叫んでいた。

 

「遠坂さん! トウヤくん! だめ、海! 海の下!」

 

 フラットの顔は真っ青だった。

 

「炉が口を開けてる! この真下でずっと待ってたんだ!」

 

 凛の頭の中で何かがかちりと音を立てた。

 

 ——このへんの真下ってさ、炉のいちばん浅いとこなんだよね。

 

 橋の真ん中。英霊ふたりのとびきり大きな宝具。

 

「……っ、あの女……!」

 

 凛は島側の主塔をにらみあげた。塔のてっぺんで愛歌がにっこりと手を振っていた。もう遅かった。

 

 空の日輪から声が降ってきた。

 

「受けよ、アルジュナ」

 

 カルナの槍が黄金の炎をまとって白熱していく。

 

「——『梵天よ、我を呪え(ブラフマーストラ・クンダーラ)』」

 

 槍が放たれた。太陽が落ちてきた。

 

「……シヴァの怒りをもって」

 

 アルジュナの指が弦を離した。

 

「——『破壊神の手翳(パーシュパタ)』」

 

 黒と青の光が一本の矢になって天へ昇っていった。昇りながら、ほどけて、ひろがって、夜空いっぱいの巨大な手のひらのかたちになる。落ちてくる太陽を、天を覆う手が受けとめにいく。

 

「穂村くん、今!!」

 

「——守れ!」

 

 灯也は叫んだ。手すりの上の火の輪が燃えあがった。橋の両側から橙色の炎が壁になって夜空へ伸びた。伸びて、伸びて、橋の真上で左右から寄りあっていく。

 

 両手で水をすくうときのように。指先と指先が橋の真上でひとつに結びあう。橋がまるごと火の手のひらに包まれた。その真上で太陽と、神の手がぶつかった。

 

 音はなかった。ただ、白かった。世界じゅうの光を一か所に集めたような白さが、火の手のひらにたたきつけられた。

 

 衝撃が灯也の両腕を、肩を、背骨を突き抜けた。左手の中でルビーがぱりんと砕けた。一秒。火の屋根がぎしりとたわんだ。二秒。

 

 腕の包帯の下で火傷がはじけた。鼻の奥から熱いものがあふれた。三秒。炎の壁がぐらりと揺らいだ。

 

 ——ここまでだ。

 

 灯也の膝が折れかけた。

 

「持ってけ、泥棒っ!!」

 

 凛が木の箱をひっくり返した。ビロードの布ごとありったけの宝石を火の壁へ投げこむ。ルビーが、サファイアが、エメラルドが、トパーズが空中でいっせいに光になった。

 

 何十年分もの魔力が橙色の炎の中へ溶けこんでいく。炎の壁がぐんと太くなった。四秒。五秒。

 

「トウヤ」

 

 アルテラが灯也の背中に手のひらを当てた。

 

「お前は輪を守れ。……こぼれたものは、私が斬る」

 

 アルテラは跳んだ。火の屋根を突き抜けて外へ。灯也の火はアルテラを焼かなかった。

 

 衝撃のふちから白い光のかけらが、いくつもいくつもはじけ飛んでいた。島の家々の灯りへ。本土の港の灯りへ。

 

 三色の剣が閃いた。赤が、緑が、青が光のかけらをひとつ残らず空へ打ちかえしていく。六秒。七秒。八秒。

 

 白い光が火の手のひらの上をすべり落ちはじめた。左右へ。橋の外へ。夜の海へ。九秒。十秒。光が消えた。

 

 火の手のひらがゆっくりとほどけていった。橋の両側の手すりの上の細い火の輪に戻っていく。橋はそこにあった。

 

 ケーブルも、主塔も、車道も。ひびだらけで、焦げだらけで、それでも、ちゃんとそこにあった。灯也は手すりにすがって、橋の外を見下ろした。海が光っていた。

 

 橋の下の暗い海の底から白い光が、ぼうっとにじみだしていた。さっきの光が海の中へ沈んでいく。沈んで、沈んで、海の底のもっと底へと吸いこまれていく。

 

 ごくりと。何かが喉を鳴らすような音が、海の底から聞こえた気がした。

 

 アルテラが灯也の隣に降りたった。その紅い瞳の奥で白いものがちらりとまたたいた。

 

 海の底から歌が聞こえていた。さっきまでよりずっと大きく。アルテラが一歩、手すりのほうへ踏みだした。

 

「アルテラ——」

 

 灯也が手を伸ばすより早く。アルテラは自分で足を止めた。手すりの上を細い橙色の火がまだぐるりと回っていた。行きの道と、帰りの道。灯也の火が暗い橋をふちどっていた。

 

「……見えている」

 

 アルテラは言った。

 

「トウヤの火が見えている。だから、大丈夫だ」

 

 紅い瞳から白いまたたきが消えた。

 

八

 カルナが空から降りてきた。橋の真ん中に片膝をついて着地する。黄金の鎧はあちこちが黒く焦げていた。胸の赤い石に髪の毛ほどの細いひびが、ひとすじ走っていた。

 

 アルジュナも立っていた。弓の弦が切れていた。白い衣はところどころ焼け焦げていた。肩で息をしている。ふたりは向かいあった。長いこと、どちらも何も言わなかった。

 

「……決着はまたつかなかったな」

 

 やがて、カルナが言った。

 

「ええ」

 

 アルジュナは切れた弦を指でなぞった。

 

「ですが、次は私が勝ちます」

 

「そうか」

 

 カルナは立ちあがった。

 

「ならば、次はオレもすべてを賭けよう」

 

 そう言って、カルナは自分の胸の鎧にそっと手を当てた。それから、ほんの少しだけ笑った。

 

「楽しみにしている」

 

 アルジュナも笑った。完璧な微笑みではなかった。少しゆがんでいて、くやしそうで、それでも、どこか晴れやかな笑い方だった。凛はそんな顔をはじめて見た。

 

「ごちそうさま」

 

 愛歌の声がした。いつのまにか、愛歌は橋の手すりの上に立っていた。灯也の火の輪のちょうど真上に。火は愛歌の白い靴のまわりだけよけるように揺れていた。

 

 暗い海を見下ろして、満足そうに目を細めている。海の底の白い光はもうほとんど見えなくなっていた。

 

「……最初から、これが目的だったのか」

 

 灯也は言った。声がかすれていた。

 

「半分はね」

 

 愛歌はくるりと振りかえった。

 

「もう半分は、ほんとうに見たかったの。黒い火も、太陽も。……それから、灯也くんの火も」

 

 愛歌は足もとの橙色の輪を見下ろした。

 

「きれいだったわ、灯也くんの輪。橋を守ってくれて、ありがとう。……おかげで、こぼれた光はぜんぶ海に落ちたわ」

 

 灯也の胸がずきりと痛んだ。橋を守ったから。だから、光は海へ流れた。

 

「……それでも」

 

 灯也は言った。

 

「橋が落ちるよりはずっとましだ」

 

「そうよ」

 

 凛が焼けた手を胸に抱えたまま、灯也の隣に並んだ。

 

「橋が落ちてたら、明日の朝、何千人が困ったと思ってんの。……後悔なんかしてやるもんですか」

 

 愛歌はふたりを見た。

 

「そうね。灯也くんはそう言うと思ったわ」

 

 それから、首をかしげた。

 

「……思っただけだけど」

 

 カルナが愛歌のそばに歩いてきた。

 

「マスター」

 

「なあに」

 

「今夜は退屈だったか」

 

 愛歌は目をまばたかせた。しばらく黙っていた。

 

「……いいえ」

 

 小さな声だった。

 

「そうか」

 

 カルナは愛歌を抱きあげた。

 

「それなら、いい」

 

 それから、カルナは灯也を見た。

 

「少年。お前の輪はオレまで内側に入れていたな」

 

 灯也はきょとんとした。

 

「だって、橋の上にいたじゃん」

 

 カルナは少しのあいだ灯也を見ていた。

 

「……そうか」

 

 炎の尾を引いて、ふたつの影は夜空の向こうへ消えていった。

 

「お疲れさまでした」

 

 懐中電灯の灯りが車道の上を近づいてきた。カレンだった。

 

「宝具を撃ちあって橋が落ちなかったのは、聖杯戦争の記録でもめずらしいことでしょうね。……遠坂さん、お手を」

 

 凛は言われるまま、焼けた両手を差しだした。カレンはポケットから例の軟膏の缶を取りだした。

 

「ちょっ、待っ、それ——」

 

「いっ……たああああああ!!」

 

 凛の悲鳴が夜の海に響きわたった。

 

「とてもしみますと申しあげる前でしたね」

 

「わざとでしょ!? 今の、ぜったいわざとでしょ!?」

 

 カレンは答えずに、包帯を巻きはじめた。

 

「今夜は一度も私の傷が開きませんでした」

 

 ぽつりとカレンが言った。その目がアルジュナを見た。

 

「あの黒い炎は悪魔のものではなかったようですね」

 

 アルジュナは少しだけ目を見ひらいて、それから、静かに頭を下げた。

 

「町のほうは、湾の上空に大きな流れ星が落ちた、ということにいたしましょう」

 

 カレンは包帯の端をきゅっと結んだ。

 

「この町の方々は、星が落ちるお話には慣れていらっしゃるでしょうから」

 

 凛は包帯だらけの手でからっぽの木箱を抱えていた。ビロードの布の上に宝石はひと粒も残っていなかった。

 

「……ぜんぶ」

 

 ふるえる声だった。

 

「ぜんぶ使っちゃった……」

 

「遠坂さん……」

 

「何十年分よ!? 父さんの代からの!! おとといの朝届いたばっかりなのに!」

 

 凛はその場にしゃがみこんだ。

 

「来週……また来週……ううん、来年……」

 

 アルジュナが凛の前に膝をついた。

 

「マスター」

 

「……なによ」

 

「ありがとうございました」

 

 アルジュナは深々と頭を下げた。

 

「あなたは私のためにすべてを使ってくださった」

 

「あんたのためじゃないわよ! 橋のためよ!」

 

「はい」

 

 アルジュナは顔を上げて微笑んだ。

 

「では、橋のかわりにお礼を申しあげます」

 

「……ばか」

 

 凛はそっぽを向いた。耳まで赤かった。アルジュナは少しのあいだ黙っていた。

 

「マスター。ひとつうかがってもよろしいですか」

 

「なによ」

 

「あなたにもご自分のためになさりたいことが、あるのではありませんか」

 

 凛の肩がぴくりと動いた。

 

「祭りの晩。……あなたは人ごみの向こうを見たまま、何もおっしゃいませんでした」

 

 凛は答えなかった。夜の海の向こうに暁浜の町の灯りが、ちらちらと揺れていた。

 

「……今はあんたの話でしょ」

 

 ようやく、凛はそれだけ言った。

 

「はい」

 

 アルジュナはそれ以上何も聞かなかった。

 

九

 灯也は手すりにもたれて座りこんでいた。両腕の包帯が血と、すすでまだらになっていた。アルテラがその隣に腰を下ろした。

 

「トウヤ」

 

「ん」

 

「あの弓兵の黒いものは、くやしい、だった」

 

「……うん」

 

「くやしいは悪いものではないのだな。あれがあるから、もう一度、と言える」

 

 灯也はアルテラを見た。アルテラは暗い海を見ていた。

 

「トウヤ。……私の中にもあれに似たものがある」

 

「黒いの?」

 

「いや」

 

 アルテラは首を横に振った。

 

「白いものだ。さっき海の底から聞こえた歌と同じ色の」

 

 夜風が橋の上を吹きぬけた。

 

「あれに呑まれたら、私はたぶん壊すものに戻る」

 

 灯也は少しのあいだ黙っていた。それから、言った。

 

「知ってるよ」

 

 アルテラが灯也を見た。

 

「それもアルテラだろ。遠坂さんが言ってた。黒いのもぜんぶあんただって」

 

 灯也は手すりの上の細い火の輪を見上げた。まだ消えずに、橋をふちどって、回りつづけている。

 

「白いのが出てきても、俺はここにいる。……迷子になったら、連れて帰るって言っただろ」

 

 アルテラは長いこと灯也を見ていた。

 

「……ああ」

 

 それだけ言って、アルテラは灯也の肩にこつんと頭をあずけた。手すりの上で灯也の火が静かに回りつづけていた。行きの道と、帰りの道をひとつにして。

 

 旧市街のはずれの古い洋館の屋根の上。間桐桜は膝を抱えて、遠い海の上を見ていた。

 

 真夜中の空に太陽が昇って、落ちて、消えた。橋の上にはまだ細い橙色の輪がほのかに光っていた。

 

「……くっだらない」

 

 隣でアヴェンジャーが鼻を鳴らした。黒い外套の裾が夜風にはためいている。

 

「英雄さまの、お行儀のいい決闘ごっこ。……でも、まあ」

 

 アヴェンジャーは口の端をつりあげた。

 

「あの弓兵、いい顔になったじゃない。ためこんでた黒いのを、最後に自分の火にしてみせた」

 

 ちらりと横目で桜を見る。

 

「ためこむから、ああなるのよ。怒りたいなら、さっさと怒ればいいの。……誰かさんも、ね」

 

 桜は答えなかった。橋の上の小さな人影をじっと見ていた。黒い炎の中へまっすぐに走りこんでいったあの背中を。

 

「……姉さん」

 

 小さな、小さな声だった。夜風がそれをどこかへさらっていった。アヴェンジャーは聞こえなかったふりをした。

 

 郊外の山あいの古い別荘。イリヤはベッドの上で目をさました。部屋の中がほの白く光っていた。

 

 バルコニーの手すりの前にフランが立っていた。遠い海のほうをじっと見ている。その手の中で鉄の槌の先の細い枝が、白く脈を打つように光っていた。遠い海の底の光と同じ速さで。

 

「……フラン?」

 

 フランが振りかえった。白いスカーフがずれていた。首すじのひびが頬まで伸びていた。ひびの奥で白い光がちかちかとまたたいていた。

 

 フランはスカーフをそっと引きあげて、ひびを隠した。それから、イリヤのそばに来て、その銀色の頭をぽんと撫でた。

 

「ウ」

 

 いつもと同じ声だった。イリヤは何も言えなかった。ただ、フランのスカートの裾をぎゅっとつかんだ。

 

 遠い海の底で何かがゆっくりと寝がえりを打った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。