Fate/Starfall Harbor   作:mecono

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第八話 送る火と、咲く花

一

 夢を見ていた。暗い部屋だった。窓の外で雷が鳴っていた。かたい台の上に寝かされていた。腕にも、脚にも、首にも縫い目があった。胸の奥で何かがはじめてどくんと動いた。

 

 目を開けると、男の人がこちらを見下ろしていた。その顔がゆがんだ。こわいものを見る顔だった。

 

 男の人はあとずさって、背中を向けて、部屋から逃げていった。扉の閉まる音がした。それきり、誰も来なかった。寒かった。

 

 イリヤは目を開けた。古い別荘の寝室はまだ青い薄闇の中に沈んでいた。頬が濡れていた。

 

 マスターとサーヴァントはときどき夢でつながる。だから、これがフランの夢だということもわかった。イリヤはまた目を閉じて、動かなかった。

 

 ベッドの脇で椅子がきしんだ。フランは毎晩その椅子に座っている。眠らずに、朝まで。

 

 衣ずれの音がした。窓辺に立てかけた鉄の槌を持ちあげる、かすかな音。扉がそっと開いて、閉まる音。イリヤは寝たふりをつづけた。どこへ行くのかは知っていた。

 

 あの病室から帰った次の朝から、一日も欠かさずに。フランは夜明け前に出かけていって、坂の下の川の土手で露草を摘んでくる。窓の外がゆっくりと白んでいった。

 

 やがて、扉がまたそっと開いた。濡れた草の匂いがした。枕もとのコップにかさりと花が挿される音。椅子がもう一度きしむ。イリヤはいま起きたふりをして、目を開けた。

 

「……おはよう、フラン」

 

「ウ」

 

 花嫁衣装の裾が朝露でぐっしょりと濡れていた。枕もとのコップで露草が青く開いていた。イリヤは何も言わずに、花の数を数えた。五本。きのうより一本多かった。

 

 朝の光が窓から差しこんだ。その光の中でイリヤは見てしまった。

 

 フランの頬のひびが伸びていた。ゆうべは頬までだった。けさはもう前髪の下、目のすぐ下まで届いている。細い線の奥で白い光がちかちかとまたたいていた。

 

 フランはイリヤの目に気づいて、首のスカーフを鼻の上まで引きあげた。祭りの前の日にイリヤが町で買ってきたスカーフだった。ひびを隠すために。

 

 窓辺には鉄の槌が立てかけてあった。イリヤはベッドから降りて、その先の丸いところにそっと手のひらを当てた。とくん、とくんと。

 

 鉄の中で何かが脈を打っていた。フランの胸の音と同じ速さで。窓の向こうの、遠い海の底でまたたいている光とも同じ速さで。

 

 窓辺に銀色の小さな鳥が舞いおりたのは、朝ごはんのあとだった。

 

 針金細工の鳥。三日前にイリヤが雪の城へ飛ばした使い魔だった。くちばしに小さく丸めた紙をくわえている。イリヤは紙を広げた。見なれた、細くて固い字だった。

 

『バーサーカーの損耗は承知した。壊れる前に、予備炉の力を限界まで吸わせよ。その数値を持ち帰れ』

 

 署名はなかった。いつもそうだった。イリヤは紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。壊れる前に。

 

 使いきれとは書いていない。それでも、そういう意味だった。おじいさまはいつもそういう言い方しかしない。

 

「……いやよ」

 

 イリヤは紙を細かく、細かく破いた。バルコニーに出て、谷へ向かって手を開く。紙切れは朝の風に乗って、雪のように散っていった。フランがふしぎそうにイリヤを見ていた。

 

「なんでもない。おじいさまから。……どうでもいいお手紙」

 

 イリヤは寝室に戻った。枕もとのコップで露草が青く開いていた。昼にはしぼむ。

 

 イリヤは知っていた。きれいなものほど、すぐに壊れてしまう。作られたものはみんなそうだ。長くはもたない。フランも。……わたしも。

 

「フラン」

 

 イリヤは顔を上げた。

 

「今日は行きたいところに行くわ。……日傘、出して」

 

「ウ」

 

「まずは病院。おばあさまに言わなきゃいけないことがあるの」

 

 イリヤはつんと顎を上げた。

 

「お兄さんが言ったのよ。自分で言いに来ればって」

 

二

 市民病院の白い廊下を、イリヤはまっすぐに歩いていった。

 

 うしろからフランがついてくる。閉じた黒い日傘を胸に抱えて、ヴェールの裾を引きずって。すれちがう看護師さんがみんな振りかえった。病室の前でイリヤは立ちどまった。

 

 中からテレビの音が聞こえる。ゆうべ湾の上空に落ちた、大きな流れ星のニュースだった。イリヤは一度だけ深呼吸をした。それから、扉を開けた。

 

「おや」

 

 窓際のベッドで老婆が顔を上げた。

 

「イリヤちゃん」

 

「……こんにちは、おばあさま」

 

 イリヤはベッドの前まで歩いていった。ワンピースの裾をつまんで、お辞儀をする。お姫さまのような、きれいなお辞儀。それから、顔を上げないまま言った。

 

「飴、おいしかった」

 

 病室がしんとした。イリヤは顔を上げられなかった。耳が熱かった。ふふっと、老婆が笑う声がした。

 

「わざわざそれを言いに来てくれたんかね」

 

「……お兄さんが、自分で言いに来ればって言ったから」

 

「ほうか、ほうか」

 

 老婆はうれしそうに何度もうなずいた。それから、枕もとの缶を取りあげた。四角いドロップの缶だった。

 

「ほれ」

 

 缶ごとイリヤの手にのせる。

 

「持っていきんさい」

 

「……ぜんぶ?」

 

「ぜんぶ。わしはもう、ようけ食べたけえ」

 

 イリヤは手の中の缶を見下ろした。ふると、中でからからと音がした。

 

「……ありがとう」

 

 小さな声になった。

 

 窓際のコップにはしおれた露草が挿さったままになっていた。あの日にフランが摘んできた花だった。老婆は捨てずにとっておいたらしかった。

 

 フランがそれをそっと抜いて、けさ摘んだ露草を一本ずつ挿していく。朝には青く開いていた花も、もうみんなくしゃりと閉じていた。老婆が身を乗りだして、コップをのぞきこんだ。

 

「おや、つぼみがついとる」

 

 けさの花の根もとの、緑色の小さな包みのような葉。その中にまだ開いていないつぼみがいくつも眠っていた。

 

「露草はの、ひとつの茎から毎朝ひとつずつ咲くんよ。明日の朝はこの子が咲く。あさってはこの子じゃ」

 

「……同じ茎から?」

 

「ほうよ」

 

 老婆は目を細めた。

 

「毎朝摘んできよるんかね、この子は」

 

「フランが勝手にね」

 

 老婆がフランを手まねきした。フランはおずおずとベッドの脇に来た。老婆は包帯を巻いていないほうの手でフランの手を取った。ひびの走った、白い手を。

 

 ひびの奥で白い光がちかちかとまたたいていた。老婆はそれをじっと見ていた。何も聞かなかった。

 

「ええ手じゃのう」

 

 老婆は言った。

 

「花を摘む手じゃ」

 

 前髪の奥で何かがふるえた。

 

「ウ……」

 

 イリヤはドロップの缶を胸に抱えていた。缶の角が手のひらに食いこんでいた。

 

「ねえ、おばあさま」

 

「なんね」

 

「人は死んだら、どこに行くの」

 

 老婆がイリヤを見た。それから、フランを見た。ごまかすような顔はしなかった。

 

「この町じゃね、海で死んだ者は海の向こうへ行く、言うんよ」

 

「海の向こう」

 

「ほいで、お盆になったら、火をたよりに帰ってくる。迎え火じゃね。お盆が終わったら、また火をたよりに向こうへ帰っていく。それが送り火じゃ」

 

 老婆は窓の外を見た。午後の光の中で瀬戸内の海が凪いでいた。

 

「迎えるのも火。送るのも火。……迷わんようにの」

 

「……サーヴァントも?」

 

 イリヤの声が少しかすれた。

 

「サーヴァントも迷わずに帰れるの?」

 

 ほんとうは知っていた。サーヴァントは消えたら、聖杯に注がれる。アインツベルンの城でそう教わった。そして、この町の聖杯は海の底にある。

 

 イリヤが聞きたいのは、そういう答えではなかった。老婆は首を横に振った。

 

「さあのう。そりゃあ、わしにもわからんわ」

 

 それから、しわだらけの手でフランの手をぽんぽんとたたいた。

 

「じゃけど、火があったら、迷わんじゃろう」

 

 老婆は少し考えてから、つけたした。

 

「火は引っぱりゃあせん。道を照らすだけじゃ。……どっちへ行くかは、行く者が決めるんよ」

 

 戸口に人の気配がした。いつのまにか灯也が立っていた。制服の袖から包帯だらけの手首がのぞいている。そのうしろには「祝・暁浜大橋開通」のTシャツのアルテラ。

 

 どこから聞いていたのか、イリヤにはわからなかった。灯也の目が一瞬だけ窓の外の海のほうへ動いた。

 

「……イリヤ。来てたんだ」

 

「来ちゃ悪い?」

 

「次に会ったら敵同士、じゃなかったっけ」

 

「たぶんって言ったでしょ」

 

 灯也は笑った。アルテラはまっすぐにフランを見ていた。

 

「ひびが増えている」

 

 イリヤはアルテラをにらんだ。フランがスカーフを引きあげた。アルテラはそれ以上何も言わなかった。ただ、紅い目でじっとフランを見ていた。

 

「あのさ」

 

 灯也が言った。

 

「今夜、うちで花火するんだけど。……アストルフォがスーパーで売れ残りの花火セットを袋ごとぜんぶ買ってきちゃって」

 

「夏物処分。半額だ」

 

 アルテラが言った。

 

「三十袋ある」

 

「……三十」

 

「よかったら、イリヤとフランも来ない?」

 

 イリヤはすぐには答えなかった。五日前の夜。別荘のバルコニーから見た、遠い花火。

 

 ——来年も見られたらいいのにね。

 

 自分で言った言葉だった。フランしか聞いていない言葉だった。

 

「……行ってあげてもいいけど」

 

 イリヤはつんと横を向いた。

 

「行っておいで、行っておいで」

 

 老婆がベッドの上で手をたたいた。

 

「花火は大勢でするもんじゃ」

 

 フランがイリヤのワンピースの裾をくいくいと引いた。前髪の奥でフランの目がきらきらしているのが、見なくてもわかった。

 

三

 手持ち花火というものを、イリヤははじめて見た。

 

「見て見て、マスター! ボク、太陽!」

 

 アストルフォが両手に何本もの花火を握って、境内の真ん中でくるくると回っていた。金色の火花が輪になって飛びちる。夜の境内にまぶしい円が描かれる。

 

「振りまわさないの! 危ないでしょ!」

 

 凛が怒鳴った。包帯だらけの手では花火も満足に持てないらしい。隣のアルジュナが凛の手首を下からそっと支えていた。

 

「子どもじゃないんだから……」

 

「存じております」

 

 アルジュナは穏やかに微笑んだまま、手を離さなかった。

 

 縁側の前で灯也が花火の先に指を当てていた。

 

「灯れ」

 

 包帯の巻かれた指先に小さな火がともる。紙の先が燃えて、しゅうっと緑色の火花が噴きだした。

 

「……魔術の無駄づかいね」

 

 凛があきれた顔をした。

 

「マッチ代の節約だよ」

 

「……それならいいわ」

 

 フラットは地面にしゃがみこんで、燃えかすをしげしげと眺めていた。

 

「すごいなあ。赤いのがストロンチウムで、緑がバリウムで……ねえ、これほとんど術式だよね!」

 

 誰も聞いていなかった。フラットは気にせずに顔を上げた。それから、ふっと笑うのをやめた。

 

 その目が石段に立てかけた鉄の槌を見ていた。それから、スカーフの上からのぞくフランの頬を。しばらくのあいだ、フラットは何も言わなかった。

 

 フランは一本の花火を両手で大事そうに握っていた。先から噴きだす火花を前髪の奥からじっと見つめている。

 

「ウ……!」

 

「きれいだってさ」

 

 石段に腰かけたカウレスがぼそりと言った。片腕はまだ三角巾で吊られている。イリヤは振りかえった。

 

「……どうしてわかるの」

 

「さあ」

 

 カウレスは自分でもふしぎそうに首をかしげた。

 

「なんとなく。……こいつの『ウ』、なんか聞きおぼえがあるんだよな」

 

 フランがカウレスを見た。それから、こくりとうなずいた。その足もとをねずみ花火がしゅるしゅると走りまわった。アビーがきゃあっと飛びあがって、カウレスの背中にしがみつく。

 

「いてえって、肩……!」

 

 最後に残ったのは線香花火だった。みんなで常夜灯の前に輪になってしゃがみこんだ。灯也が一本ずつ火をつけてまわる。

 

 ちりちりと。小さな火の玉から、細い火花が枝のように散りはじめた。

 

「線香花火ってさ、燃えかたに名前があるんだ」

 

 灯也が言った。

 

「最初が牡丹。次が松葉。それから柳。最後が散り菊」

 

「勝負だ」

 

 アルテラがカウレスを見すえた。

 

「先に落ちたほうが負けだ」

 

「……お前、それ、ぜったい勝てないやつだぞ」

 

 カウレスの言ったとおりだった。アルテラは息を止めて、こよりの端をつまんでいた。動かすまいとするほど、指先がふるえた。ぽとりと。いちばん最初にアルテラの火の玉が落ちた。

 

「……くやしい」

 

「力入れすぎなんだよ」

 

 ひとつ、またひとつと火の玉が落ちていった。アビーの。カウレスの。凛の。灯也の。フランのだけがまだ燃えていた。

 

 フランはまったく動かなかった。石のように。息もしていないように。こよりの先の小さな火をただ見つめていた。

 

 柳のように垂れていた火花が細くなっていく。ちり、ちりと。菊の花びらが一枚ずつ散るように。散り菊だった。イリヤは息をのんで、その小さな火を見ていた。

 

 まだ落ちないで、と思った。もう少しだけ。火の玉がふるりとふるえた。イリヤは身がまえた。落ちる、と思った。落ちなかった。

 

 最後の火花がちりっと散って、それきりだった。火の玉はこよりの先にくっついたまま、静かに暗くなっていった。

 

「……最後まで咲いた」

 

 イリヤの口から声がこぼれた。フランがイリヤを見た。それから、箱の中から新しい線香花火を一本取りだした。イリヤの手にそれを握らせる。

 

「ウ」

 

 もう一本、という顔だった。イリヤは手の中の細いこよりを見下ろした。

 

 ——消えても、また次のが上がるのよね。

 

 五日前の夜、バルコニーで自分が言った言葉だった。

 

「……次の、ね」

 

 灯也が黙って、新しい火をつけてくれた。

 

 アビーがカウレスの前に小指を突きだしていた。

 

「マスター、ゆびきりして」

 

「なんの」

 

「もしまた海の歌が聞こえても、わたし、ひとりで行かない。ぜったいにマスターを起こす。……そういう約束」

 

 カウレスは少しのあいだアビーを見ていた。それから、黙って小指をからめた。

 

「ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼんのーます。……ゆびきった」

 

 アビーの声はいつもより小さくて、まじめだった。

 

 フランがそれをじっと見ていた。自分の手を持ちあげて、小指を一本だけ立ててみる。首をかしげる。

 

「約束だ」

 

 アルテラが重々しく言った。

 

「ふたりでするものだ。……厳しい約束だ。破ると、針を千本飲む」

 

「ウ……!?」

 

 フランはぴんと立てていた小指をあわてて引っこめた。イリヤは思わず噴きだした。自分でもびっくりするくらい大きな声で笑っていた。

 

 燃えかすをバケツに集めているとき、フランがアルテラの袖を引いた。

 

「なんだ」

 

 フランはアルテラの手を取って、境内の隅へ引っぱっていった。石段のいちばん上、手水舎の陰の草むらへ。イリヤもなんとなく、そのあとをついていった。

 

 草むらに花はひとつもなかった。昼にしぼんだ花のあとが、葉のあいだにくしゃりと残っているだけだった。

 

 フランはその葉のあいだを指さした。それから、両手をつぼめて、ぱっと開いてみせた。

 

「……朝になれば、ここに咲くのか」

 

「ウ」

 

 アルテラは草むらを見下ろした。それから、崖っぷちの常夜灯を振りかえった。足もとの湯のみにはもう咲かない露草が一本、あの日から挿さったままだった。

 

「あの花はお前がくれた花だ」

 

 アルテラは言った。

 

「もう咲かないと、トウヤに聞いた。……それでも、私は毎朝水を替えていた」

 

 アルテラはもう一度草むらを見た。

 

「こんなに近くで毎朝咲いていたのか」

 

「ウ」

 

「明日の朝、見に来る」

 

 フランがうなずいた。アルテラは少し黙ってから、言った。

 

「ありがとう」

 

 イリヤは少し離れたところでそれを聞いていた。アルテラがありがとうと言うのをはじめて聞いた。

 

四

 片づけが終わったあと、フラットが灯也と凛の袖を引いた。社務所の裏の暗がりだった。めずらしくフラットは笑っていなかった。

 

「ねえ。……フランちゃんの槌、気づいてた?」

 

 灯也はうなずいた。花火のあいだじゅう、石段に立てかけた鉄の槌の先で細い枝が白く脈打っていた。とくん、とくんと。崖の下の、遠い海の底と同じ速さで。

 

「フランちゃんの中にね、白い光が残ってるんだ。前に神社で海の光を吸ったでしょ。あのときの」

 

 フラットは自分の胸のまんなかを指でとんとたたいた。

 

「あの槌の先の丸いところ、フランちゃんの心臓とつながってるんだよ。フランちゃんは雷で動いてるでしょ。その雷の通り道のいちばん奥に白いのが根っこを張ってて……海の底の炉がそれを呼んでるんだ。おいでって」

 

「……取りだせないの?」

 

 凛が言った。フラットは首を横に振った。

 

「引っこぬいたら、心臓もいっしょに止まっちゃう」

 

 誰も何も言わなかった。

 

「でも、海から離れてれば引っぱる力は弱くなる。山のほうの別荘でじっとしてれば、たぶんあと何日か……一週間くらいは」

 

 フラットは早口でつづけた。

 

「あの槌はね、まわりに力があればあるだけ、ほとんどいくらでも吸えちゃうんだ。でも、ためたものを外に出す方法はひとつしかない。宝具だけ」

 

 フラットは指を一本立てた。

 

「いつもは止め金がかかってるから、撃っても平気。……でも、止め金をはずしてぜんぶ出しきったら、フランちゃんは止まっちゃう」

 

「それと、もうひとつ」

 

 フラットは崖の向こうの海を見た。

 

「炉がね、ふきこぼれそうなんだ」

 

「ふきこぼれる?」

 

「鍋みたいに。……炉は橋の上の宝具ふたつぶんをいっぺんに飲みこんだでしょ。おなかがいっぱいすぎるんだよ。二百年前の三人がかけたふたの、いちばん浅いところにぴしっとひびが入ってる。このままだと」

 

 フラットは言葉を切った。

 

「中身が外にあふれる」

 

「あふれたら、どうなるの」

 

 凛の声が固かった。フラットはすぐには答えなかった。

 

「……昔、この海は三日三晩燃えたんでしょ?」

 

 灯也の背中がすうっと冷たくなった。祖母から何度も聞かされた話だった。

 

「いつ」

 

 凛が短く聞いた。

 

「わかんない。たぶんあと二、三日はもつと思う。それまでに結び目を調べて……」

 

「知ってるわ」

 

 社務所の角にイリヤが立っていた。いつからそこにいたのか、わからなかった。

 

「フランのことは、わたしがいちばんよく知ってるもの」

 

「……アインツベルンはなんて言ってるの」

 

 凛が聞いた。イリヤは肩をすくめた。

 

「壊れる前に使いきれって。……だから、手紙は破いて捨ててやったわ」

 

 凛は何か言いかけて、やめた。イリヤはふいと背を向けた。

 

「アビゲイルがお泊まり会したいって騒いでるわ。……ひと晩だけよ。フランも花火の続きがしたいみたいだし。わたし、リンの部屋で寝てあげる」

 

「は? ちょっと、なんでわたしの部屋……!」

 

 凛の声を背中で聞きながら、イリヤは母屋のほうへ歩いていった。

 

 夜中の十二時を過ぎても、灯也は眠れなかった。常夜灯の前に行くと、先客がいた。

 

 イリヤが崖っぷちの手すりの前にしゃがみこんで、常夜灯の火を見上げていた。肩には祖母の古いカーディガンをはおっている。縁側の柱の陰ではフランがこちらを見ていた。

 

「……ほんとに毎晩つけてるのね」

 

「つけるって言ったろ」

 

 灯也はイリヤの隣にしゃがんだ。足もとでいちごが金魚鉢の中をくるりと回った。湯のみの中では閉じたままの露草が夜風に揺れていた。イリヤはしばらく黙って火を見ていた。

 

「……一週間ですって」

 

 灯也は何も言えなかった。

 

「わかってたのよ、最初から。……きれいなものほど、すぐに壊れちゃうんだから」

 

 崖の下から風が吹きあげてきた。常夜灯の火がふるりと揺れた。灯也は少し考えてから、言った。

 

「ばあちゃん、言ってたろ。……じゃけど、咲いとるじゃろうって」

 

 イリヤが灯也を見た。それから、ほんの少しだけ笑った。

 

「……言ってたわね」

 

 ふたりはしばらく黙って、火を見ていた。

 

「ねえ、お兄さん。来年の花火、見る?」

 

「見るよ。毎年見てる」

 

「……いいな」

 

「イリヤも見ればいいじゃん」

 

 イリヤは答えなかった。常夜灯の火を見上げたまま、膝を抱えた。

 

「……そうね」

 

 小さな声だった。

 

 午前二時。イリヤは光で目をさました。障子が白く光っていた。光って、消えて、また光る。とくん、とくんと。心臓の音と同じ速さで。縁側に立てかけた鉄の槌だった。

 

 隣の布団で凛が寝がえりを打った。布団の脇ではフランが立ちあがっていた。ふすまの向こうの茶の間で小さな声がした。

 

「……マスター。起きて、マスター」

 

 アビーだった。

 

「……ん……なんだよ……」

 

「歌が聞こえるの。……約束したから、起こしたの」

 

 カウレスが跳ねおきる気配がした。イリヤは障子を開けた。

 

 フランが縁側から鉄の槌を取りあげた。槌の先の丸いところがどくん、どくんと白く脈打っていた。花火のときよりずっと強く、ずっと速く。

 

 崖っぷちの常夜灯の前でアルテラが海を見下ろしていた。

 

「……歌が大きい」

 

 アルテラはそれだけ言った。イリヤは崖の下を見た。暗い湾の真ん中、大橋の真下の海が光っていた。

 

 海の底から白い光がにじみだしている。花火のあいだフランの槌の先でまたたいていたのと同じ光。けれど、今夜の光は海の底にとどまってはいなかった。のぼってくる。

 

 ぐつぐつと。煮えたつ鍋の底から泡が湧きあがるように。海面がぼこりと盛りあがった。白い火が噴きだした。

 

 炎だった。白い炎が海の上に燃えひろがっていく。大橋の真下から輪になって。水に落とした石の波紋のように。ひとつ、またひとつ。社務所の戸が勢いよく開いた。

 

「早すぎる……!」

 

 フラットがはだしで飛びだしてきた。

 

「底のほうで何かが寝がえりを打ったんだ。それで、ふたが……!」

 

 母屋の雨戸ががらりと開いた。灯也が転げるように縁側へ出てくる。アルジュナが。イリヤのうしろからは凛が。社務所からはアストルフォが。

 

「海が……」

 

 灯也の声がかすれていた。

 

「燃えてる……」

 

五

「アビーちゃんは来ちゃだめ」

 

 フラットが言った。

 

「扉と炉がつながっちゃう。カウレスくんといっしょにここにいて」

 

 アビーはクマのぬいぐるみを抱きしめて、こくりとうなずいた。今夜は「いってらっしゃい」とは言わなかった。

 

「常夜灯は俺たちが見とく」

 

 カウレスが吊った腕のまま言った。

 

「油を足しとけばいいんだろ。……お前らが帰ってくるまで、消さねえから」

 

「……頼む」

 

 灯也が言うと、アビーが油の缶を両手でぎゅっと抱えた。フランがカウレスの前に立った。それから、カウレスの頭をぽんと撫でた。イリヤにするのと同じように。

 

「ウ」

 

「……なんだよ」

 

 カウレスは予備の眼鏡を押しあげた。今度の「ウ」が何を言ったのか、カウレスにはわからないようだった。わからないまま、その手が少しだけふるえていた。

 

 大橋の入り口には黄色いバリケードが並んだままだった。「ケーブル点検のため通行止め」の看板が夜風にかたかたと鳴っていた。

 

 本土側の主塔の下まで来たとき、湾はもう白い火の海だった。大橋の真下から白い炎の輪がいくつも広がっていく。輪が通ったあとの海面は白く燃えたまま、ゆらゆらと揺れていた。

 

 熱くはなかった。むしろ冷たかった。真冬の朝のような風が橋の上まで吹きあげてくる。

 

 そして、歌っていた。炎が。海が。湾じゅうが同じ歌を歌っていた。ゆるやかな、子守唄のような歌を。

 

 島の浅瀬のブイに白い炎がふれた。赤い灯りがふっと消えた。ブイは霜をかぶったように色をなくして、波に揺れていた。その先のブイも。またその先のブイも。

 

 島の船着き場の街灯も。白い炎になめられた灯りがひとつずつ消えていく。船着き場には誰も乗っていない漁船が一艘つないであった。白い炎が船べりを包んだ。

 

 船が白くなった。塗装も、ロープも、窓のガラスも。塩をかためたように真っ白になって、それから音もなく崩れた。白い砂の山がさらさらと海に溶けていった。

 

「……なに、あれ」

 

 凛の声がふるえていた。

 

「燃やしてるんじゃない。……消してる」

 

「知っている」

 

 アルテラが手すりの前で言った。紅い瞳の奥で白いものがまたたいていた。

 

「あれは文明を消す火だ。人の手が作ったものを、作られる前に戻す」

 

 灯也はアルテラの横顔を見た。アルテラは海から目を離さなかった。

 

 白い炎の輪は島の家々へ、港の岸壁へ、旧居留地の桟橋へと広がっていく。その先には眠っている町があった。アルジュナが弓を取った。夕方に張りなおしたばかりの新しい弦だった。

 

「撃っちゃだめ!」

 

 フラットが叫んだ。

 

「壊すための力はぜんぶあれのごはんになっちゃう。ゆうべの橋で見たでしょ!」

 

 アルジュナの手が止まった。ゆうべ橋の上でぶつかった、ふたつの宝具。それを海がごくりと飲みこんだ音を、灯也もおぼえていた。

 

「押しかえすだけ。近づけないだけ。……ふたは僕がやる!」

 

「承知しました」

 

 アルジュナは弓を引きしぼった。放たれた矢は空の高みで何十にも分かれて、雨のように海へ降った。港の岸壁に沿ってずらりと。海面に突きたった矢の一本一本が青白く燃えあがる。

 

 海の上に青い炎の柵が立った。白い炎の輪がそれにぶつかって止まった。二の矢。三の矢。旧居留地の桟橋のつけ根に沿って。島の岸辺に沿って。青い柵が湾をぐるりと囲んでいく。

 

 それでも、白い炎は引かなかった。柵の前でふくれあがって、青い炎を少しずつ白く塗りかえていく。

 

 炎の先から白い火の粉が散った。火の粉は風に乗って、島の家々の屋根のほうへ飛んでいく。

 

「宝石がないなら、ないなりにやるわよ……!」

 

 凛が左腕の包帯を引きちぎった。腕に刻まれた魔術刻印が赤く光った。遠坂の家が代々受けついできた刻印だった。

 

 凛は人さし指を銃口のように空へ向けた。やけどの痕の残る指先がかすかにふるえていた。

 

「——Gandr(ガンド)!」

 

 黒い弾丸が次々と飛びだした。白い火の粉をひとつずつ撃ちおとしていく。一発がそれて、柵の前の白い炎の先にあたった。白い炎がびくりと縮んだ。

 

 散ったのではなかった。熱にうかされた獣が身をよじるように、そこだけが身をすくめた。それから、のろのろと元にもどった。凛が目を見ひらいた。

 

「……呪いが効いた?」

 

 つぶやくような声だった。

 

「呪いは生きてるものにしか効かないのに」

 

 凛はそれ以上何も言わなかった。次の火の粉に指を向けた。

 

 島の岸辺の柵がいちばん先に白くなった。白い炎の輪が島の家々の軒先へ這いのぼろうとした、そのときだった。金色の炎がひと筋、島の岸辺を横に薙いだ。

 

 壁のように高く燃えあがって、白い炎を海へ押しもどす。一度きりの、ただのひと振りだった。それきり金色の炎は消えた。

 

 見おぼえのある黄金の色だった。けれど、炎の主の姿はどこにも見えなかった。

 

 島側の主塔のてっぺんは暗いままだった。アルジュナが一瞬だけ島のほうを見た。何も言わずに、次の矢をつがえた。

 

「マスター、つかまってて!」

 

 ヒポグリフが橋の上から海へ急降下した。アストルフォの背中にフラットがしがみついている。

 

 白い炎の海すれすれを、ヒポグリフは風を切って飛んだ。大橋の真下へ。白い炎がいちばん激しく噴きだしている湾の真ん中へ。フラットが身を乗りだして、両手を白い炎の中に突っこんだ。

 

「だいじょうぶ! これ、熱くない! ……うわ、冷たっ!」

 

 フラットの目が急に真剣になった。水面の下を指で探るように。

 

「あった……! ふたの結び目! まっすぐなのと、ねじれてるのと、雪みたいに白いのと!」

 

 フラットの指が見えない糸をたぐって、結びなおしていく。大橋の真下の白い炎の勢いがほんの少しだけ弱まった。

 

「閉まる……! ふた、閉まるよ!」

 

 フラットは叫んだ。それから、顔をゆがめた。

 

「でも、だめだ……中身が多すぎて、閉まりきらない!」

 

 白い炎が大橋の橋脚を這いあがってきた。灯也たちの立つ橋の上へ。その先の眠っている町へ。灯也は手すりに手をついた。

 

「——灯れ」

 

 指先から火の線が手すりの上を走った。主塔の下の、橋のつけ根のひと区間だけ。行きの手すりから車道を越えて、帰りの手すりへ。

 

 ゆうべほどの火はもう出せなかった。凛の宝石はもうひと粒もない。燃やせるのは灯也自身だけだった。それでも、輪になった。

 

「——巡れ」

 

 小さな橙色の輪が回りはじめた。橋脚を這いあがってきた白い炎が輪のふちにぶつかった。輪がぎしりときしんだ。

 

 白い炎がふれるたびに、橙色の火が白く削られていく。削られたぶんを、灯也は自分の中から足した。腕の奥の、まだふさがっていない火傷の底から。

 

 包帯の下が焼けるように熱くなった。白い布に赤いしみがにじんで広がっていった。

 

 守れと唱えるだけの力は、もう残っていなかった。回しつづけるのがせいいっぱいだった。それでも、白い炎は輪の内側へは入ってこなかった。

 

 アルテラは手すりの前から動かなかった。剣の柄に手をかけたまま、抜かなかった。

 

 抜けないのだと、灯也にはわかった。剣を抜けば、あの白い炎がアルテラの中の白いものに応えてしまう。

 

 アルテラの足が手すりのほうへ一歩動いた。それから、止まった。アルテラは自分の足を見下ろした。勝手に動いた足を。

 

「トウヤ」

 

 低い声だった。

 

「手を」

 

 灯也は息をのんだ。アルテラが助けを求めるのは、はじめてだった。灯也は手すりから左手だけを離した。輪がぐらりと揺れた。右手に力をこめて、輪を支えなおす。

 

 それから、血のにじんだ左手でアルテラの手を握った。アルテラは握りかえした。握りつぶさないように、そっと。離さないように、強く。アルテラの足はもう動かなかった。

 

 イリヤがアルテラの隣に来ていた。フランのスカーフの端を握ったまま、アルテラの横顔を見上げる。紅い瞳の奥でまたたく白いものを。

 

「……あなたにも聞こえてるのね」

 

「聞こえる」

 

 アルテラは海を見たまま言った。

 

「おいで、と言っている。作られたものを呼ぶ歌だ」

 

 イリヤは答えなかった。アルテラと、イリヤと、フラン。作られたものたちが手すりの前に並んで、白く燃える海を見下ろしていた。フランの槌の先がどくん、どくんと白く脈打っていた。

 

六

 ヒポグリフが橋の上に舞いもどってきた。アストルフォの背中からフラットが転がりおりた。両手が真っ白に凍えて、ふるえていた。

 

「……だめ。ふたは閉まりかけてるのに、中身が多すぎるんだ。誰かがあれをぜんぶ吸いとってくれたら……」

 

 そこまで言って、フラットは口をつぐんだ。フラットの目がイリヤの隣を見ていた。鉄の槌を握ったフランを。

 

「言わないで」

 

 イリヤは言った。自分でも驚くほど冷たい声だった。

 

「それ以上、言わないで」

 

 フラットは目を伏せた。言われなくても、イリヤにはわかっていた。湾じゅうの白い火を吸いこめるのは、あの槌だけだ。そして、吸いこんだものを外に出すには止め金をはずすしかない。

 

 ——少しでいいの。少しだけ。

 

 神社の夜、イリヤはそう言えた。少しなら、フランは帰ってこられたから。今夜は少しでは足りなかった。

 

 フランが一歩前に出た。スカーフがぴんと張った。イリヤは握った手に力をこめた。

 

「行かせない」

 

 五日前の夜と同じように。

 

「あれはフランが吸っていいものじゃないわ。……行かせないんだから」

 

 フランが振りかえった。それから、イリヤの前に膝をついた。スカーフを握ったイリヤの手に自分の手を重ねる。ひびだらけの冷たい手だった。

 

 その指がイリヤの指を一本ずつほどいていった。親指。人さし指。中指。薬指。小指。ゆっくりと。痛くないように。

 

「やだ……フラン、やだ……」

 

 フランはスカーフをほどいた。首すじも頬もひびだらけだった。ひびの奥で白い光が海と同じ速さで脈打っていた。もう隠すものは何もなかった。

 

 フランはそのスカーフをイリヤの首にふわりと巻いた。ていねいに。日傘をさしかけるときと同じ手つきで。

 

「ウ」

 

 いつもと同じ声だった。

 

 イリヤは右手を持ちあげた。細い腕から首すじにかけて赤い紋様が浮かびあがった。港の倉庫の夜に一画を使って、残りは二画。

 

 あの夜とはちがう。フランはまだ何も吸っていない。雷の木も立っていない。今なら令呪で止められる。

 

 ここにいて、と命じれば、フランはここにいる。山の別荘に帰って、イリヤの隣に。一週間。毎朝、露草を摘んでくる。ひびが顔じゅうに広がって、壊れてしまうその日まで。

 

 そのあいだに、この海はあふれる。三日三晩燃えた昔のように。お兄さんの火も、おばあさまの病院も、ぜんぶ白くなる。

 

「令呪をもって命じるわ。フラン——」

 

 海から風が吹きあげた。フランの前髪がふわりと持ちあがった。前髪の下の目が見えた。静かな目だった。こわがっても、迷ってもいなかった。笑っていた。

 

 港の倉庫の夜。勝ちたいとイリヤが言ったから、フランは命を燃やそうとした。今夜、イリヤは何も言っていない。フランが自分で決めたのだ。

 

「……いってらっしゃい、フラン」

 

 息を継がないまま、言葉が変わった。寝たふりをしながら毎朝言えずにいた言葉だった。腕の紋様がいっせいに燃えあがって、命令を待った。けれど、それは命令ではなかった。

 

 赤い光は行き場をなくしたように揺れて、すうっと暗くなった。紋様は一画も欠けていなかった。

 

 フランがうなずいた。それから、イリヤのうしろを見た。灯也を。灯也はアルテラの手を握ったまま、フランを見かえした。それから、小さくうなずいた。

 

 フランは立ちあがって、走りだした。白い中央線の上をまっすぐに。暗い橋の真ん中へ。花嫁衣装の背中が遠ざかっていく。

 

 花嫁が歩く道みたいだ、とイリヤは思った。ひとりで歩く花嫁なんて、聞いたこともないけれど。

 

「……ばか」

 

 イリヤはスカーフに顔をうずめた。フランの匂いがした。雨あがりの草のような。雷のあとの空気のような。

 

七

 走る。白い線の上をまっすぐに。背中で小さな声がしていた。振りかえらない。

 

 橋の真ん中。手すりに跳びのる。足の下で海が白く燃えていた。歌っていた。おいで、と。おいで、白いもののかけら、と。

 

 胸の奥の白い光がその歌にうなずきそうになる。槌を海に向ける。槌の先の細い枝がいっせいに開く。花のように。

 

 吸う。港の灯りはあたたかかった。神社の光はまぶしかった。これは冷たい。湾じゅうの白い炎が渦を巻いて、ひとすじのつむじ風になってのぼってくる。槌の先へ。腕へ。胸へ。

 

 体の中が冬になっていく。縫い目から白い光があふれる。ひびが走る。腕に。肩に。胸に。

 

 歌が言う。白くなりなさい。名前なんか、いらないでしょう。おまえも作られたものでしょう。

 

 作られた。つぎはぎの体。雷で動く心臓。作った人はこわがって、逃げていった。だから、ずっとほしかった。おなじのが。

 

 黒い日傘。赤い飴。青い花。火の花。ちいさくて、つめたい手。フランとおなじ、人の手で作られた手。一度もフランをこわがらなかった手。

 

 ——フラン。

 

 その手の持ち主が呼んだ名前。作った人の長い名前から三つの音だけを取って、あとは捨ててしまった名前。呼びかえしたかった。

 

 ——……来年も見られたらいいのにね。

 

 ——最後まで咲いた。

 

 おなじのがほしかった。いたのだ。

 

 白いつむじ風の向こうに山の上の小さな橙色の灯りが見えた。白くならない。名前は捨てない。槌を握る手に力をこめる。

 

 海が暗くなった。最後のひとすじが海面から離れて、槌の先に消えた。体の中で白い冬が暴れていた。出たがっている。下へ。海の底へ。槌を空へ向けた。下ではなく、上へ。

 

 胸の奥に小さな、かたい止め金がある。雷が出すぎないように。燃えつきないように。とめているものをはずす。かちりと、どこかで小さな音がした。

 

 雷が空へ駆けのぼった。磔刑の雷樹。枝分かれしながら、また枝分かれしながら、夜空いっぱいに広がっていく。港の夜よりずっと大きな雷の木。

 

 白いものがフランの中を通っていく。冷たい、色のない白。それが縫い目の一本一本を通りぬけるとき。色がついた。あの子の頬の赤。日傘の黒。山の上の火の橙。白が色になった。

 

 港の夜、雷の木は剣に斬られて砕けた。今夜はフランが自分でひらく。いちばん高い枝の先がひとつ、またひとつとほどけて、火の花になった。赤。緑。橙。

 

 朝いちばんに咲く、小さな青い花のかたち。最後に金色の大きな花がひらいて、しだれるようにゆっくりと夜空を流れおちていった。今度ばかりはほんとうに花火だった。

 

 下の海でぽつりと赤い灯りがともった。白い炎に消されたブイの灯りだった。緑の灯りがともる。また赤い灯りが。島の船着き場の街灯が。

 

 眠っていた町の窓にひとつ、またひとつと灯りがついていく。

 

八

 ヒポグリフが舞いおりてきた。

 

「乗って、イリヤちゃん!」

 

 アストルフォがイリヤの手をつかんで、背中に引きあげた。ヒポグリフは白い中央線の上を低くまっすぐに飛んだ。

 

 手すりの上でフランの体がぐらりと傾いた。海のほうへ。イリヤはヒポグリフの背中から飛びおりた。

 

 両腕を広げて、フランの腰にしがみつく。ふたりいっしょに手すりの内側へ、アスファルトの上に倒れこんだ。港の倉庫の夜と同じように。フランの体は軽かった。軽すぎた。

 

 花嫁衣装の裾の先が光の粒になって、ほどけていた。さらさらと、砂の山が崩れるように。頭の上ではまだ花火が咲いていた。

 

「ばか……」

 

 イリヤはフランを抱きしめた。

 

「ばかフラン。誰がやれって言ったのよ……」

 

 それから、首を横に振った。

 

「……言ってない。わたし、今度はほんとに言ってないもん……」

 

 フランの手がイリヤの頭をぽんと撫でた。いつものように。

 

 フランの体から光の粒がこぼれていた。粒は空へはのぼらなかった。ふわふわと手すりを越えて、下へ。暗い海のほうへ。

 

「だめだ、真下にひびが残ってる!」

 

 フラットの声がした。

 

「ふたは閉まったけど、いちばん浅いとこが割れたままなんだ。引っぱられてる!」

 

「だめ」

 

 イリヤは叫んだ。

 

「そっちはだめ! 杯に落ちたら、もうフランじゃなくなっちゃう……!」

 

 光の粒をつかもうとした手は何もつかめなかった。

 

 ——迎えるのも火。送るのも火。

 

 ——迷わんようにの。

 

 空から金色の火の粉がひとつ、ゆっくりと落ちてきた。フランの花火の、最後のひとかけらだった。包帯だらけの手がそれを受けとめた。

 

 灯也だった。アルテラの手を離して、ここまで走ってきたのだ。主塔の下の小さな輪はもう消えていた。灯也は指先の金色の火を見つめていた。

 

「……海にはもう誰もやらない」

 

 小さな声だった。灯也は顔を上げて、橋を吊る太いケーブルを見上げた。本土側の主塔のてっぺんへ、斜めにのぼっていく鋼の綱を。

 

「行く道と、帰る道と」

 

 灯也はケーブルに手を当てた。

 

「……送る道だ」

 

「——灯れ」

 

 金色の火が灯也の指先からケーブルへ移った。火がケーブルを駆けのぼっていった。

 

 斜めに、空へ。主塔のてっぺんまで。細い火の線が夜空に一本の道を描いていく。橙色の灯也の火に、金色のフランの火がまじっていた。

 

 ケーブルに沿って小さな火がぽっ、ぽっとともっていく。祭りの晩の石段の提灯のように。灯也の包帯から血がしたたった。鼻からも赤いものが流れていた。

 

「——送れ」

 

 海のほうへ漂っていた光の粒が止まった。迷うように宙でふるえた。フランが顔を上げて、火の道を見た。

 

 それから、光の粒がひとつ、またひとつと火の道のほうへ流れはじめた。ケーブルの火をつたって、のぼっていく。主塔のてっぺんへ。夜空へ。

 

 フランの体はもう胸の上まで光になっていた。フランがひびだらけの手を持ちあげた。空を指さす。消えかけた花火を。それから、その指でイリヤを指さした。

 

「……花火?」

 

 イリヤの声がかすれた。

 

「来年も見られたらいいのにねって、わたしが言ったから?」

 

「ウ」

 

 来年の花火を、フランは見られない。フランは小指を立てた。針千本がこわくて、境内ではあわてて引っこめた小指を。

 

「……見るわよ」

 

 イリヤは言った。

 

「見るわよ。来年も」

 

 常夜灯の前では「そうね」としか言えなかったのに。イリヤは自分の小指をフランの小指にからめた。冷たかった。けれど、ちゃんとそこにあった。

 

「ゆびきりげんまん……」

 

 声がふるえた。

 

「うそついたら……」

 

 その先が言えなかった。来年の夏、自分がここにいるかどうか。イリヤにはわからなかった。うそになるかもしれない約束を、フランにだけはしたくなかった。

 

 フランの唇が動いた。何度も。何度も。音にならずに。

 

「……イリヤ」

 

 はっきりと聞こえた。ウ、ではなかった。イリヤは目を見ひらいた。それから、泣きながら笑った。

 

「……なによ」

 

 声がつぶれた。

 

「しゃべれるんじゃない」

 

 フランが笑った。前髪の奥で静かな目が細くなった。イリヤは息を吸った。

 

「……うそついたら、はりせんぼん、のーます」

 

 今度は最後まで言えた。

 

「ゆびきった」

 

 からめた小指の中でフランの小指が光になった。光は指のあいだからこぼれた。それから、何もなくなった。

 

 最後の光の粒がイリヤの指先をはなれて、火の道をのぼっていった。まっすぐに。主塔のてっぺんを越えて、夜空へ。

 

 逆さまの流れ星のようだった。イリヤの腕はフランを抱いたかたちのままだった。

 

 うしろでアルテラの声がした。

 

「トウヤ。目から水が止まらない。……これは」

 

 灯也の返事はなかった。アルテラはしばらく黙っていた。それから、自分で答えた。

 

「……知っている。かなしい、だ」

 

 市民病院の六階の窓辺で灯也の祖母が手を合わせていた。湾の上の大橋に細い火の道がのぼっていくのが見えた。

 

「……送り火じゃ」

 

 包帯の手としわだらけの手を合わせたまま、老婆は長いこと目を閉じていた。

 

九

 ケーブルの小さな火がひとつずつ消えていった。下のほうから順番に。灯也は鋼の綱に手を当てたまま、それを見上げていた。手のひらの感覚がなかった。

 

「私の国でも」

 

 いつのまにかアルジュナが隣に立っていた。

 

「火は死者を天へ運ぶ使いでした。……あなたの火はまっすぐにのぼっていきました」

 

 凛は何も言わずに、灯也の手の包帯を巻きなおしはじめた。

 

「お疲れさまでした」

 

 黒い修道服が車道の上に立っていた。カレンは空を見上げた。花火の煙がまだ薄く夜空に残っていた。

 

「バーサーカーの消滅を監督役として確認いたしました」

 

 それから、イリヤを見た。イリヤは車道の真ん中に座りこんでいた。首に白いスカーフを巻いたまま。

 

「イリヤスフィールさん。令呪を放棄して、教会の保護下に入りなさい」

 

 はじめて会った日にカレンが灯也に言ったのと一字一句同じ言葉だった。

 

「……いらない」

 

 イリヤは顔を上げなかった。袖の下で紋様がかすかに赤く光った。二画。

 

「そうですか」

 

 カレンはそれ以上すすめなかった。かわりに、凪いだ黒い海を見下ろした。

 

「ふたにはひびが残ったそうですね」

 

 フラットがしゅんとうなずいた。

 

「次にあふれたら、もうもたないと思う」

 

「では、申しあげておきます」

 

 カレンの声はいつもと同じように静かだった。

 

「次に同じことが起きたら、教会はあの炉を壊します。……町ごと、になるかもしれませんが」

 

 誰も何も言えなかった。カレンはもう一度空を見上げた。

 

「町の方々には遅れてきた送り火の花火、ということにいたしましょう」

 

 少しだけ間があった。

 

「……とてもきれいでしたから」

 

 旧市街のはずれの古い洋館の屋根の上。間桐桜は膝を抱えて、花火の消えた夜空を見上げていた。

 

「……やるじゃない、あの花嫁」

 

 隣でアヴェンジャーが言った。おもしろくなさそうな声だった。桜は何も答えなかった。屋根の下の暗がりからしわがれた笑い声がした。

 

「ふたにひびが入ったのう」

 

 桜の肩がぴくりとふるえた。アヴェンジャーが舌打ちをして、暗がりをにらみつけた。

 

 夜が明けた。境内に朝の光が斜めにさしこんでいた。イリヤは母屋の縁側に座っていた。首に白いスカーフを巻いたまま。一睡もしていなかった。

 

 露草を持ってきてくれる手のない朝は、はじめてだった。アルテラが縁側に来た。

 

「来い」

 

 それだけ言って、石段のほうへ歩いていく。イリヤは黙ってついていった。灯也も。手水舎の陰の草むらの前でアルテラは立ちどまった。草むらの中に青い花が咲いていた。

 

 ひとつではなかった。いくつも、いくつも。ゆうべフランが指さした場所に。朝の光を受けて、小さな青い花びらがいっせいにひらいていた。

 

「フランが教えた場所だ」

 

 アルテラは言った。

 

「朝、ここに咲く。……フランがそう教えた」

 

 イリヤは草むらの前にしゃがみこんだ。青い花を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。それから、手をのばした。

 

 親指と人さし指の先だけで、ものすごくゆっくりと。アルテラがいつもそうするように。一本、摘んだ。

 

「……ばかみたい」

 

 かすれた声だった。

 

「同じ花じゃないのに」

 

 アルテラが空を見上げた。

 

「かなしいは、くやしいとはちがうのだな」

 

 イリヤは顔を上げた。アルテラの目は赤くはれていた。

 

「くやしいなら、次は勝つと言える。……かなしいには、次がない」

 

 イリヤは手の中の露草を見つめていた。小さな青い花びらが朝の光に透けていた。

 

「……でも、咲いてる」

 

 イリヤは露草を胸に抱いて、少しだけ泣いた。アルテラはもう一本摘んで、常夜灯の足もとの湯のみに挿した。

 

 古い花は抜かなかった。閉じたままの露草の隣で新しい露草が青く咲いていた。

 

 昼前、イリヤは別荘へ帰ると言った。

 

「うちにいればいいのに」

 

 灯也が言うと、イリヤは首を横に振った。

 

「あそこからも見えるもの。お兄さんの火」

 

「……今夜もつけるよ」

 

「知ってる」

 

 イリヤは石段を降りていった。手には黒い日傘。石段の途中でイリヤは立ちどまった。

 

 日傘をさしかけてくれる手はもうなかった。イリヤは黒い日傘を自分で開いた。それから、振りかえらずに石段を降りていった。

 

 灯也は自分の右手の甲を見た。三画の令呪。一度も使ったことのない、命じるための印。イリヤはそれで命じなかった。灯也はしばらくその赤い印を見つめていた。

 

 暁浜大橋の島側の主塔のてっぺん。沙条愛歌は塔の縁に腰かけて、凪いだ朝の海を見下ろしていた。

 

「知ってたわ」

 

 ひとりごとのような声だった。

 

「あの子がどうするか。……知ってたのに、最後まで見ちゃった」

 

 白い靴の先がぶらぶらと揺れた。

 

「せっかくのごちそう、ぜんぶ花火にされちゃった。最後のひと口まで灯也くんにお空へ送られちゃったわ。……わたし、あんなの知らない」

 

 隣にカルナが立っていた。淡い青の瞳がケーブルに残る焦げあとを見ていた。橙色の火がのぼっていった道を。

 

「ねえ、ランサー。ゆうべ、勝手に動いたでしょ」

 

「炎が家々に向かっていた」

 

 カルナはそれだけ答えた。胸のひび割れた石にそっと手を当てる。

 

「あの娘は求められてもいないのに、すべてを差しだした」

 

 カルナは言った。

 

「オレの施しはいつも求められてからだった。……見事だった」

 

 愛歌はカルナを見上げた。それから、くすりと笑った。

 

「ランサーはああいうの、好きね」

 

「ああ」

 

 カルナは否定しなかった。愛歌の目が湾の向こうの山の上を見た。小さな神社のある山を。

 

「もう迎えには行かないわ」

 

 鈴を転がすような声だった。

 

「ゆうべ、鍵にも歌が聞こえてたもの。……鍵のほうから来るわ」

 

 その夜。郊外の山あいの古い別荘のバルコニー。イリヤはひとりで手すりにもたれていた。首には白いスカーフ。

 

 枕もとのコップの露草は昼にはしぼんでいた。明日の朝は自分で摘みに行く。坂の下の、川の土手まで。

 

 ちりちりと小さな音がした。銀の針金の小鳥が手すりにとまっていた。首をかしげて、イリヤを見上げている。報告を待っているのだ。予備炉の数値を。

 

 持ち帰るものは何もなかった。何もかも空へのぼっていってしまった。イリヤは小さな紙切れに一行だけ書いて、小鳥の足に結びつけた。

 

『きれいだった。以上』

 

 小鳥は夜空へ飛びたっていった。北の、雪の城のほうへ。遠い山の上に橙色の小さな灯りがひとつ。今夜もちゃんとついていた。イリヤはスカーフに頬をうずめた。

 

「……さみしいよ、フラン」

 

 遠い火がふるりと揺れた。

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