初夏の風が、山々を渡っていた。
雨上がりの空は青く澄み、濡れた木々の葉が陽光を受けて輝いている。山腹に設けられた墓地は、ひっそりと静まり返っていた。時折、葉擦れの音に混じって、遠くから鳥の声が聞こえてくる。
その一角に、一人の男が立っていた。
ミスマル・コウイチロウ。
地球連合宇宙軍総司令官。かつて幾多の戦いを指揮し、地球と木連の和平成立に尽力した軍人である。だが、今の彼にとって、そんな肩書きに何ほどの意味があるというのだろう。
目の前にあるのは、一基の墓石だった。
テンカワ・アキト。
テンカワ・ユリカ。
墓誌に並んで刻まれた、二人の名前。
墓前には、まだ新しい花が供えられている。コウイチロウはその傍らに膝をつくと、しばらくの間、何も言わずに墓石を見つめていた。
遺骨はない。
二人を乗せたシャトルは、機体の残骸こそ発見されたものの、乗員の遺体はついに見つからなかった。それでも、帰る場所くらいは用意してやりたかった。
「……ユリカ」
小さく、娘の名を呼ぶ。
当然、返事はない。
「アキト君と、仲良くやっているかね」
口にしてから、我ながら妙なことを聞いたものだと思った。生きていた頃から、あの二人のことでは随分と気を揉まされた。特にユリカは、幼い頃からアキト君、アキト君と、それはもう大変な騒ぎだった。
少し叱れば泣き出し、かと思えば、次の日には何事もなかったように笑っている。目を離せば何かをしでかし、そのたびに父親である自分が頭を抱える羽目になった。
まったく、手のかかる娘だった。
けれど、そんな娘も大きくなった。ナデシコの艦長となり、戦争の只中で多くの人間と出会い、傷つき、悩み、それでも前を向いて進んでいった。そして、幼い頃から想い続けていた青年と結ばれた。
あの日のユリカの笑顔を、コウイチロウは今でも覚えている。本当に、幸せそうだった。
「……まったく。親というのは、勝手なものだな」
思わず苦笑が漏れた。娘が生まれた時には、ただ健やかに育ってくれれば、それでよいと思った。成長するにつれ、あれこれと心配事が増えた。立派な大人になってほしい。幸せな結婚をしてほしい。いつかは孫の顔も見てみたい。
そんなことばかり、考えていた。
だが今となっては、そんなものは何一つ望まない。
ただ、生きていてくれさえすれば。
それだけで、十分だったのに。
コウイチロウは、隣に刻まれた名前へと目を移した。
「……アキト君」
あの青年もまた、実に不器用な男だった。人の気持ちには鈍感なくせに、妙なところで意地を張る。ユリカには散々振り回されていたが、結局のところ、彼もまた娘を大切に想ってくれていたのだろう。
思い出すのは、ユリカが嬉しそうに語っていた言葉だった。アキトが頑張るから、自分も頑張れるのだと。あれほど真っ直ぐに誰かを想えることが、少し羨ましくもあった。
「……あの子を、頼むぞ」
コウイチロウは、静かに頭を下げた。
二人が新婚旅行へ旅立った日のことを思い出す。ユリカは満面の笑みを浮かべ、アキトはどこか照れくさそうにしていた。
長かった戦争は終わった。地球と木連の間には、ようやく和平が訪れた。もう、あの子たちが戦場に立つこともない。
ナデシコで出会った、妹のような、そして今では家族となった少女――ルリとともに、三人で穏やかな日々を送っていく。ようやく、そんな当たり前の幸せを手に入れたのだと。誰もが、そう信じていた。
だが、二人を乗せたシャトルは帰ってこなかった。事故原因は、今も特定されていない。
それから、三年。
コウイチロウは、何度となくこの墓を訪れていた。そして、そのたびに考えてしまう。
もしかしたら、あの二人はどこかで生きているのではないか。ある日突然、何事もなかったように帰ってくるのではないか。
玄関の扉が開いて、ユリカが大きな声で父の名を呼ぶ。その後ろには、困ったような顔をしたアキトが立っている。そんな光景を、幾度となく思い描いた。
……馬鹿なことを。
あれから、もう三年なのだ。数え切れないほどの人員を動員し、あらゆる手を尽くして捜索させた。それでも、二人の消息はつかめなかった。
軍人としてならば、とうに結論を出している。
だが。
父親としては、どうしても諦めきれなかった。
「……さて」
コウイチロウは膝に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ行くとしようか」
墓石を見下ろす。
「また来るよ。ユリカ、アキト君」
最後にもう一度、二人の名前を見つめてから、背を向けた。
墓地へ続く長い石段を下り始める。しばらく歩いたところで、コウイチロウは登ってくる二人連れに気づいた。
一人は女性。
もう一人は、まだ幼い少女だった。
女性は黒い喪服に身を包んでいた。長い黒髪を後頭部で丁寧に結い上げ、黒い帽子をかぶっている。そこから垂れた薄いヴェールが顔を覆い、表情を窺い知ることはできなかった。
対照的に、その隣を歩く少女は真っ白なワンピースを着ていた。大きなつばのある白い帽子。その縁から、長い薄桃色の髪が覗いている。少女は両腕で、大切そうに白い花束を抱えていた。
こんな山奥の墓地には、少々珍しい取り合わせだった。親子だろうか。
女性は少女の歩幅に合わせて、ゆっくりと石段を登ってくる。少女の方も、時折足元を確かめながら、一段一段、慎重に足を運んでいた。
やがて、互いの距離が近づいた。
すれ違おうとした、その時だった。
女性が、ふと足を止めた。黒いヴェールの奥から、こちらを見つめている。そんな気がした。
「……?」
コウイチロウも、思わず足を止める。女性はしばらくその場に立っていたが、やがて静かに頭を下げた。隣の少女も、それに倣って小さく会釈をする。
「……これは、ご丁寧に」
コウイチロウも軽く頭を下げた。墓地で行き会った者同士の、何ということもない挨拶だった。
それなのに、女性はすぐには歩き出そうとしなかった。何かを言いたげに、こちらを見つめている。
「……何か?」
思わず、コウイチロウが声をかける。
だが、女性は何も答えなかった。ただ、もう一度だけ深く頭を下げると、隣の少女を促して歩き始めた。
少女も、白い花束を抱え直してその後に続く。すれ違いざま、女性が少女の背にそっと手を添えた。本当に、何気ない仕草だった。
けれど。
その姿を見た瞬間、コウイチロウの胸に、奇妙な懐かしさが込み上げてきた。どこかで、見たことがある。
そんな気がした。
誰だっただろうか。
あの、少女を気遣うような仕草。隣を歩く幼い少女と、少し背の高い女性。
記憶の底で、何かが引っかかった。
だが、どうしても思い出せない。
コウイチロウは、小さく首を振った。見ず知らずの二人に、いったい何を重ねたというのだろう。
再び石段を下り始める。
一段、二段。そして、数段下りたところで、また足が止まった。
どうしてだろう。もう一度、あの二人の姿を見ておきたくなった。振り返る。
「……おや?」
そこには、誰もいなかった。先ほどまで二人が登っていた石段には、人影一つない。木々の間から差し込む陽光が、石段の上で揺れているだけだった。
「……もう、行ってしまったのかな」
墓地の入り口までは、まだ少し距離があるはずだった。もっとも、途中には脇道もある。そちらへ入ったのかもしれない。コウイチロウはしばらく石段の先を眺めていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
風が吹いた。木々が揺れ、葉擦れの音が静かに響く。
その時。
ふと、懐かしさの正体に思い至った。
ユリカと、ルリ。
ナデシコで過ごしていた頃の、あの二人。天真爛漫な娘と、その傍らで少し困ったような顔をしていた、幼い少女。二人が並んで歩く姿が、記憶の中で重なった。
「……まったく」
コウイチロウは、誰にともなく苦笑した。
「年を取ると、いかんな」
そう呟くと、今度こそ石段を下りていった。背後には、初夏の陽射しを浴びた墓地が静かに佇んでいた。
*
第八番ターミナルコロニー、シラヒメ。地球圏と木星圏を結ぶ新たな交通網、ヒサゴプラン。その一角を担う巨大な施設は、今まさに戦場と化していた。
『第一防衛線、突破されました!』
『第三小隊、応答しろ! 第三小隊!』
『くそっ、どこへ行った!?』
軍用通信回線を、怒号と悲鳴が埋め尽くす。シラヒメ周辺宙域では、警備艇と機動兵器が入り乱れ、無数の閃光が飛び交っていた。
だが、戦闘と呼ぶにはあまりに一方的だった。外周に展開していた防衛部隊は、すでに半数近くが戦闘能力を失っていた。推進器を破壊された機体が宙を漂い、残った部隊も統制を失いつつある。
『敵は一機だぞ! 一機相手に何をやっている!』
指揮官の怒声が響く。
しかし、誰も答えられなかった。彼らの常識では、目の前で起きていることを説明できなかったからだ。
黒い機体。全身を重厚な装甲に包んだ、異様な姿の人型機動兵器。
その姿が最初に確認されたのは、わずか数分前だった。何の前触れもなく空間が歪み、黒い機体が出現した。直後に警戒網が反応した時には、すでに第一防衛線を突破されていた。
『目標、中央施設群に接近!』
『第四、第五小隊、迎撃しろ!』
複数のステルンクーゲルが、黒い機体の進路を塞ぐ。次の瞬間、一斉に砲撃が開始された。数十条の光が、黒い機体へと殺到する。
だが。
『なっ……!?』
直撃したはずの光線が、機体を包む歪んだ空間に沿って逸らされていく。ディストーションフィールド。それ自体は、決して珍しい技術ではない。しかし、その出力と制御精度は尋常ではなかった。
『効いていない!?』
『構うな、撃ち続けろ!』
さらに砲撃が重ねられる。
黒い機体は回避しなかった。真正面から弾幕へ突っ込み、そのまま突き抜けた。
『な――』
砲撃を続けていた一機が、突如として視界いっぱいに広がった黒い装甲を目にする。次の瞬間、激しい衝撃が機体を襲った。
『うわああっ!』
ステルンクーゲルが弾き飛ばされる。衝突によって姿勢制御を失った機体は、回転しながら宙を漂い始めた。だが、黒い機体は追撃しなかった。すでに次の目標へ向けて加速している。
『速すぎる! 照準が追いつかない!』
『第六小隊、回り込め!』
黒い機体が急旋回する。その直後、先ほどまで機体が存在していた空間を、無数の光線が通り過ぎた。まるで、攻撃の来る場所をあらかじめ知っていたかのようだった。迎撃に出た機体が次々と戦闘不能に陥っていく。
だが、不可解なことがあった。
黒い機体は、機動力を奪った相手には見向きもしなかった。撃破できる状況でも、執拗な追撃を加えようとはしない。ただ、邪魔をするものを排除しながら、一つの方向へ進み続けていた。
シラヒメの中央施設群。
その、さらに奥へ。
『目標、中央ブロックに到達します!』
『何としても阻止しろ!』
残存部隊が一斉に進路を塞ぐ。
しかし、間に合わない。黒い機体が、防衛網の最後の一角を突破した。
その時だった。
シラヒメの中央部で、巨大な閃光が迸った。
『なっ……!?』
最初に吹き飛んだのは、施設の外壁だった。内部からの凄まじい圧力に装甲板が膨れ上がり、次の瞬間、無数の破片となって宇宙空間へ飛び散った。続いて、隣接するブロックが爆発する。
連鎖する衝撃。
砕け散る構造材。巨大なコロニーの内側から、次々と炎が噴き上がった。
『中央ブロック、消失!』
通信に、凄まじい雑音が走る。
誰かの悲鳴が聞こえた。
それも、すぐに途切れた。
黒い機体は、崩壊していく中央施設の前にいた。機体を包む歪曲場に、爆発の閃光が幾重にも反射する。その黒い装甲を、炎が照らし出した。
だが、機体は動かなかった。まるで、崩れゆく施設の奥に何かを探しているかのように。
やがて、爆煙が視界を覆った。黒い機体の姿も、その向こうへと消えていった。
*
新地球連合宇宙軍所属、戦艦アマリリス。その艦橋では、アオイ・ジュン中佐が救助活動の指揮を執っていた。
「救難信号はどうなっていますか!」
「まだ複数残っています! ですが、周辺の瓦礫が多すぎて救助艇が接近できません!」
「警備艇を回してください! 航路を確保できるはずです!」
「了解!」
「収容状況は?」
「負傷者百二十七名! 重傷者を優先して医療ブロックへ搬送中です!」
「救助可能な人は、全員助けてください!」
ジュンは次々と指示を出しながら、メインスクリーンへ目を向けた。そこには、無残に破壊されたシラヒメの姿が映し出されていた。かつて巨大な円筒を形作っていた外壁は裂け、内部の構造物が宇宙空間へ露出している。破片がゆっくりと漂い、その合間を救助艇が縫うように飛んでいた。
ジュンは唇を噛んだ。
これで、四つ目だった。ヒサゴプランに関係するコロニーが、立て続けに失われている。そして、そのいずれもが、原因不明の爆発事故として処理されていた。
そんな偶然が、何度も続くものだろうか。
しかも、今回のシラヒメには戦闘の痕跡がある。防衛部隊が正体不明の機動兵器と交戦したことも、すでに確認されていた。それなのに、統合軍からは事故調査への介入を控えるよう通達が来ている。
「……いったい、何が起きているんだ」
ジュンが呟いた、その時だった。
「艦長!」
観測員の声が、鋭く響いた。
「シラヒメ外縁宙域に、ボース粒子反応!」
「何だって?」
「反応、急激に増大! 空間歪曲を確認!」
「映像を出してください!」
メインスクリーンが切り替わる。
シラヒメの残骸。
漂流する機動兵器。
その向こうに、何かがいた。
「……何だ、あれは?」
ジュンは、思わず身を乗り出した。
黒い、人型の機動兵器。
全身を覆う重厚な装甲。見慣れたエステバリスやステルンクーゲルとは、明らかに異なるシルエットだった。
「拡大できますか!」
「やっています! ですが、光学映像にノイズが……!」
画像が乱れる。その間にも、ボース粒子の反応は増大し続けていた。
「空間歪曲、さらに拡大!」
黒い機体の周囲で、星々の光が奇妙にねじ曲がる。次の瞬間。
機体が、青白い光に包まれた。
「……まさか!」
ジュンが叫ぶより早く、黒い機体は消えた。あとには、何も残っていなかった。
「目標、消失! 反応も確認できません!」
「転移反応の解析は!?」
「……ボソンジャンプと、極めて類似しています」
ジュンは、言葉を失った。人型の機動兵器が、単独でボソンジャンプを行った。そんなことが、可能なのか。
しかし、今、確かに見た。
「……記録は?」
「すべて保存しています!」
「すぐに司令部へ送ってください。観測データも、映像も、全部です!」
「了解!」
ジュンは、黒い機体が消えた空間を見つめていた。あれは、いったい何だったのか。
そして。
あの機体と、シラヒメの爆発には、どんな関係があるというのだろう。
*
地球連合宇宙軍統合参謀本部。
事故調査委員会。
「……以上が、アマリリスで確認した事実です」
報告を終えたジュンは、正面に並ぶ委員たちを見渡した。誰もが難しい顔で書類に目を落としている。だが、そこに真相を解明しようとする熱意があるようには見えなかった。しばらくの沈黙の後、一人の委員が口を開いた。
「アオイ中佐」
「はい」
「君の報告によれば、全長八メートル程度の人型機動兵器が、単独でボソンジャンプを行ったということだね」
「そのとおりです」
「……ふむ」
委員は眼鏡を直した。
「しかし、それは現在の地球、木星双方の技術水準を考えれば、極めて考えにくい現象だ」
「ですが、実際に観測しています」
ジュンは、努めて冷静に答えた。
「映像記録に加え、ボース粒子の観測データも提出しています。少なくとも、通常の機動兵器による移動では説明できません」
「その件については、こちらでも検討している」
「でしたら――」
「ただし、爆発直後の宙域では、観測機器に異常が発生する可能性も否定できない」
ジュンの表情が強張った。
「……複数の独立した観測機器が、同時に同じ異常を示したとお考えですか?」
「そう断定しているわけではないよ」
委員は穏やかな口調で答えた。
「しかし、混乱した状況下では、優秀な軍人でも判断を誤ることはある。君の報告を否定しているわけではない。慎重な評価が必要だと言っているんだ」
「ですが、あの機体は確かに――」
「アオイ中佐」
別の委員が、言葉を遮った。
「君の職務への熱意は理解している。しかし、現時点で未知の新兵器の存在を公に認めることは、いたずらに混乱を招きかねない」
「混乱……?」
ジュンは思わず聞き返した。
「四つものコロニーが爆発しているんですよ! 今回に至っては、防衛部隊が正体不明の機動兵器と交戦しているんです! それを――」
「中佐」
低い声が、会議室に響いた。
「発言には注意したまえ」
ジュンは、口をつぐんだ。
委員長は、机上の資料を閉じた。
「今回の報告については、観測情報の誤認の可能性が高いものとして扱う。コロニー爆発事件の調査は、引き続き事故調査委員会と統合軍が行う」
「……では、宇宙軍は?」
「必要に応じて、協力を求めることとする」
それが、結論だった。
ジュンは拳を握り締めた。
あれだけの規模の事件が繰り返されている。
それなのに。
彼らは、何を見ようとしているのだろう。
「……了解しました」
絞り出すように、それだけ答えた。
*
「……くそっ!」
執務室に戻ったジュンは、堪えきれずに壁を殴りつけた。鈍い音が響く。
「何が事故調査委員会だ……! あいつら、ハナから調査する気なんかないんだ!」
「こらこら。建物を壊されちゃ困るなあ」
背後から、のんびりとした声が聞こえた。ジュンが振り向く。部屋の主、ムネタケ参謀長が、湯呑みを片手にこちらを見ていた。
「……参謀長」
「若いねえ、アオイ君。血気盛んなのは結構だけど、少しは落ち着いたらどうだい?」
「ですが!」
「うんうん、わかるよ。君の言いたいことは」
ムネタケは、茶を一口すすった。
「事件は事故調査委員会と統合軍の合同捜査とあいなり、かくして宇宙軍は統合軍の蚊帳の外、と」
どこか芝居がかった口調だった。
「しかしまあ、そういうことなら仕方がない。お偉方がそうお決めになったんだからねえ」
「……では、このまま放っておくんですか?」
「まさか」
ムネタケは、あっさりと答えた。
ジュンが目を瞬く。
「え?」
「放っておくわけにはいかないだろう? 四つもコロニーがやられているんだ。五つ目がないとは限らない」
ムネタケは、机の上に一枚の書類を置いた。
「だからさ、行ってもらうことにしたよ」
「……どこへですか?」
ムネタケは、にやりと笑った。
「ナデシコにね」
*
ターミナルコロニー、タギリ。その近傍を、一隻の白い戦艦が航行していた。
試験戦艦ナデシコB。かつて火星戦争を終結へと導いた戦艦、ナデシコ。その名を受け継いだ新世代の艦である。
艦橋は、驚くほど静かだった。必要最小限の乗員が配置され、いくつものコンソールには複雑な情報が絶え間なく表示されている。だが、乗員たちに慌ただしさはない。艦内のほぼすべてが、高度に自動化されているからだった。
「艦長! タギリの誘導管制との接続、完了しました!」
元気のよい声が、艦橋に響いた。
マキビ・ハリ。
通称、ハーリー。
まだ十一歳の少年である。黒髪をオールバックに整え、精一杯大人びた表情を作っているが、頬には年相応の幼さが残っていた。
「ありがとうございます、ハーリーくん」
艦長席から、静かな声が返ってきた。
ホシノ・ルリ。
十六歳。
長い銀髪と金色の瞳を持つ少女は、背もたれに身体を預けたまま、メインスクリーンを見つめていた。
電子の妖精。その卓越した情報処理能力から、かつてそう呼ばれた少女は、今やナデシコBの艦長となっていた。
「次の中継ポイントを経由すれば、アマテラスですね」
「はい! 航行システムも、すべて正常です!」
ハーリーが胸を張る。
「いつでもジャンプできます!」
「そうですか」
ルリが小さく頷いた。
その時だった。
「いやあ、今日も平和だねえ」
艦橋の後方から、気の抜けた声が聞こえた。高杉サブロウタ。かつては木連の軍人だった男も、今では地球側の宇宙軍に籍を置いている。相変わらず派手な髪型に、相変わらずの軽薄そうな笑顔。その姿は、いかにもこの場の緊張感とは無縁だった。
「サブロウタさん!」
案の定、ハーリーが振り向いた。
「仕事中ですよ!」
「してるだろ、仕事」
「さっきから全然コンソールを見てないじゃないですか!」
「見る必要がないんだよ」
サブロウタは複数のガールフレンドからのビデオメールを見ながら涼しい顔で答えた。
「うちには優秀な艦長と、優秀なオペレーターがいるからねえ」
「そ、そういう問題じゃありません!」
「いやいや、信頼してるってことさ。ハーリー君も、そろそろ先輩の信頼に応えてくれないと」
「だったら、サブロウタさんも少しは働いてください!」
「いやあ、手厳しい」
サブロウタは、楽しそうに笑った。ハーリーは頬を膨らませ、何か言い返そうとしたが、結局思いつかなかったらしい。不満げにコンソールへ向き直る。
その様子を、ルリは黙って見ていた。口元に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
かつてのナデシコでも、こんなやり取りは日常茶飯事だった。誰かが騒ぎ、誰かが怒り、また別の誰かがそれを面白がる。そんな、少し騒がしくて、どこか居心地のよい場所。
もう、あの頃のナデシコはない。
けれど。
ここにも、仲間がいる。
ルリは小さく息を吐き、再びメインスクリーンへ目を戻した。
「……艦長!」
ハーリーが、急に真面目な声を出した。
「次のゲートへの進入許可が出ました!」
「了解しました」
ルリは頷いた。
「全艦、ジャンプ航行準備」
「了解!」
メインスクリーンに、巨大なチューリップ型の転移ゲートが映し出される。ヒサゴプラン。かつて軍事目的で利用されていたボソンジャンプ技術は、今や人類の新たな交通網として整備されつつあった。人と物資が、地球と木星の間を行き交う。長い戦争の末に、ようやく手に入れた平和の象徴。
だが、その施設が次々と破壊されている。そして今度の事件では、奇妙なものが目撃された。
一機の、黒い機動兵器。
「……ハーリーくん」
「はい!」
「事故のあったコロニーの配置図を、もう一度出してください」
「了解!」
画面が切り替わり、ヒサゴプランの航路図が表示された。四つの地点が、赤く明滅している。これまでに爆発事故が発生したコロニーだった。
「……ずいぶん、離れていますね」
ハーリーが呟いた。
「通常航行では、短期間にすべてを回るのは難しいと思います」
「そうですね」
ルリは、画面を見つめた。
四つのコロニー。それぞれの間には、相当な距離がある。もし、同一の犯人による連続襲撃なのだとすれば。そして、ジュンの報告が正しいのだとすれば。
「……ボソンジャンプ、ですね」
ルリが、小さく呟いた。
「え?」
ハーリーが振り向く。
「……艦長は、信じているんですか?」
「何をですか?」
「例の、黒い機体です」
ハーリーは、少し声を潜めた。
「だって、人型兵器が単独でボソンジャンプなんて……今まで聞いたこともありませんし」
「そうですね」
「映像だって不鮮明ですし、本当にいたかどうかも……」
ルリは、少しだけ首を傾げた。
「ハーリーくん」
「はい?」
「信じるとか、信じないとか。そういう問題じゃありませんよ」
「……え?」
ルリは、静かに微笑んだ。
「いるかどうか、確かめに行くんですよ」
ハーリーは、しばらくきょとんとしていた。やがて、慌てて姿勢を正す。
「は、はい!」
背後で、サブロウタが小さく笑った。
「ま、そういうことだね」
ルリは、もう一度メインスクリーンへ目を向けた。そこには、転移ゲートが大きく映し出されている。その向こうに、何が待ち受けているのか。今は、まだわからない。
「ナデシコB」
少女の声が、静かな艦橋に響いた。
「ジャンプ開始」
白い艦体が、青白い光に包まれる。空間が歪み、周囲の星々が引き延ばされていく。
次の瞬間。
ナデシコBは、極彩色の光の向こうへと消えた。
初めまして、最近youtubeで一挙放送があり昔妄想していたネタを書いてみました。
見返すとユリカが思った以上にいい女でした。当時はルリルリの陰に隠れていましたが・・・時代が悪かったのか。
まずは劇場版完結を目標にがんばります。