ネルガル月面研究施設、会議室。
室内には、アカツキ・ナガレをはじめ、エリナ、プロスペクター、ゴート、そしてイネスが集まっていた。
会議机の中央には、テンカワ・アキトの最新の検査結果が表示されている。
『……それで、ドクター』
通信画面越しにアカツキが口を開いた。
『テンカワ君の容態は、どうなんだい?』
「……ひとまず、落ち着いているわ」
イネスは端末を操作した。
スクリーンに、アキトの画像検査の結果が浮かび上がる。
「今回使った試薬は、ナノマシンの異常な活性化を抑制するためのものよ。効果は出ているわ。あの激しい痛みも、痙攣も、今は治まっている」
「……それは、よかったじゃない」
エリナが安堵の息をついた。
「ええ。だけど、問題はそこからなの」
イネスは画像の一部を拡大した。
「お兄ちゃんの身体には、人体実験で組み込まれたものを含めて、性質の異なる複数のナノマシンが存在しているわ。それが脳神経系にまで複雑に入り込んでいるの」
「……神経系に、ですか」
プロスペクターが眼鏡を押し上げた。
「ええ。ナノマシンの暴走そのものが神経組織を傷つけているうえに、抑制することで、それまで保たれていた神経の働きまで変化してしまう可能性がある」
「……つまり?」
「記憶に障害が出ているのよ」
イネスは静かに答えた。
「単純な記憶喪失ではないわ。過去の記憶は残っている。けれど、いつの出来事なのか、今の自分が何歳で、どこにいるのか。その認識が不安定になっているの」
「……どういうことだい?」
「今のお兄ちゃんは、自分がナデシコAに乗っていた頃だと思っていることが多いわ」
アカツキが眉を上げた。
「……三年前に戻った、というわけか」
「それだけじゃないの」
イネスは首を振った。
「ナデシコを降りた直後、軍の監視下で長屋で暮らしていた時代だったり、一人暮らしの安いアパートにいるつもりだったり。かと思えば、そこへユリカさんとルリちゃんが転がり込んできた頃の話を始めることもあるわ。ナデシコA時代なのにユリカさんと恋人同士であることを前提に話したり」
「……そんな時期、あったかしら?」
エリナが尋ねた。
「そこが問題なのよ。実際の記憶だけじゃなく、本人の願望や、別の時代の記憶が混ざっている可能性もある」
「……なるほどね」
アカツキは腕を組んだ。
「それで、今のテンカワ君は何を覚えているんだい?」
「……少なくとも、火星の後継者に連れ去られたことや、これまでの戦いについては認識していないようね」
「…………」
「そして、自分の傍にはユリカさんがいると思っている」
会議室が静まり返った。
「……それで、記憶は戻るの?」
エリナが尋ねた。
「わからないわ」
イネスは、曖昧に慰めようとはしなかった。
「試薬をやめれば、再びナノマシンが暴走する危険がある。でも、投与を続ければ記憶障害が改善しないかもしれない。そもそも、どこまでが暴走による損傷で、どこからが薬の影響なのかも、まだ判断できていないの」
「……なんてこと」
エリナは顔を伏せた。
「……救命には成功した。だが、元のテンカワ君に戻れる保証はない、ということか」
アカツキの問いに、イネスは頷いた。
「……ええ」
沈黙が落ちた。
しばらくして、アカツキが口を開いた。
「……ところで、あの子はどうしているんだい?」
「……あの子?」
「黒い王子様に付き添うお姫様さ。テンカワ君があんな状態になって、ずいぶんショックを受けたんじゃないかと思ってね」
イネスは、少しだけ目を伏せた。
「……そうね」
「……何かあったのかい?」
「見た方が早いわ」
イネスが端末を操作した。
会議室のスクリーンに、別の映像が映し出される。
月面施設の居住区。
小さな食卓を挟んで、二人の男女が向かい合っていた。
『ねえ、アキト! 今日は何を作ってくれるの?』
明るい声が響いた。
エリナが顔を上げる。
『……何がいいんだ?』
『えっとねー、アキトの作るものなら何でもいいよ!』
『それが一番困るんだけどな』
『えへへ。だって、アキトの作るお料理、おいしいんだもん!』
少女が笑った。
ユリカと同じ口調。
ユリカと同じ仕草。
そして、ユリカによく似た顔。
「……あの子?」
エリナが呟いた。
「……ええ」
イネスが答えた。
「お兄ちゃんの記憶に合わせているのよ。その時々のユリカさんを演じているの」
『……そういえば、ユリカ。今日は艦長の仕事、いいのか?』
『あっ、そうだった! ジュン君に任せっぱなしだった!』
『おいおい、大丈夫なのかよ』
『大丈夫、大丈夫!ジュン君優しいから!』
アキトが呆れながら笑った。
少女も笑っていた。
「……これは、驚いたね」
アカツキが呟いた。
「まるで、本物のユリカ君じゃないか」
「……ユリカさんの記憶があるもの。口調も、仕草も、覚えているのよ」
イネスは説明した。
「お兄ちゃんの記憶が変わるたびに、あの子も合わせているわ。艦長だったり、幼馴染だったり、同じアパートで暮らしている恋人だったり……」
「アキト君は、あの子をユリカさんだと思っているの」
「……まさか」
プロスペクターが、スクリーンを見つめた。
「髪も瞳も違うというのに……」
「今の彼は、その違いを疑問に思わないのよ」
イネスは静かに言った。
「そして、あの子も……アキト君の記憶に合わせて、ユリカさんとして振る舞っているわ」
「私は何も報告を受けていないわ……誰かが、そうさせているの?」
エリナが尋ねた。
「いいえ」
イネスは首を横に振った。
「本人が望んだことよ」
「……あの子が?」
「…………」
「あの子、お兄ちゃんの苦しむ姿を、もう見たくないんですって」
エリナは、画面を見つめていた。
アキトが笑っている。
あの復讐者が、何もかもを失う前の青年のように。
そして、その向かいで少女も笑っている。
こんなにも幸せそうに。
「……あの子は、それでいいの?」
エリナが、小さく尋ねた。
イネスは、すぐには答えなかった。
「……わからないわ」
その言葉が、静かに響いた。
画面の中では、二人がまだ笑っていた。
プロスペクターは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
ゴートは険しい表情を浮かべたまま、何も言わなかった。
エリナは、とうとう目を背けた。
アカツキは深いため息をつき、椅子の背にもたれかかった。
「……まったく」
虚空を見上げる。
「……本当に、どうしてこうなってしまったんだろうね」
*
月面ネルガル、非公開ドック居住区。
「ユリカ、そっちの皿、取ってくれ」
「はーい!」
少女は食器棚から皿を取り出し、テーブルへ並べた。
「それと、ルリちゃんの分もね」
「ああ、わかってるって」
アキトは苦笑しながら、三人分の食器を用意した。
以前は、ほとんど表情を変えなかった人だった。何を聞いても素っ気なく、必要なことしか話さない。食事も一人で済ませ、味のわからない栄養食を黙々と口に運んでいた。
もちろん、ラピスと三人で食事をとるようになり、自分に料理を教えてくれるようになってからは、口数こそ少ないものの、会話はずっと増えていた。
それが今では、明るい表情を見せ、よくしゃべる。こうして何気ない会話を交わしている。
少女は、その横顔をそっと見つめた。
「……どうした?」
「ううん。なんでもない!」
「なんだよ、変な奴だな」
アキトが笑った。
少女も、つられて笑う。
あの戦いから、しばらくの時間が過ぎていた。
アキトは、以前のように苦痛にのたうち回ることはなくなった。
ナノマシンの異常活動は抑えられ、静かに眠り、目を覚ませば食事を取り、少女たちと会話する。
それだけを見れば、身体が回復しているようにさえ思えた。
けれど、そうではない。
イネスからは、神経系の損傷が回復したわけではないと告げられている。無理な運動はもちろん、IFS接続やボソンジャンプなど、もってのほかだった。
だからアキトは、居住区の一角で療養生活を送っている。
本人は、それを少し長い休暇だと思っているらしい。
そして。
「おーい、ユリカ。何ぼーっとしてるんだよ」
「あっ、ごめんごめん!」
少女は、慌てて椅子に座った。
アキトは少女をユリカと呼ぶ。
少女も、それに応える。
今では、そのやり取りが当たり前になっていた。
*
「……おはよう」
扉が開き、ラピスが顔を覗かせた。
少女が立ち上がるより早く、アキトが振り返った。
「おう、ルリちゃん。おはよう」
ラピスの足が止まった。
「…………」
「どうした?入っておいでよ」
アキトは、何も疑っていない。
ラピスは少女を見た。
少女は、ほんの少しだけ目を伏せる。
「……おはよう」
ラピスは、もう一度答えた。
「よし。じゃあ、三人で食べるか」
アキトは満足そうに頷いた。
食卓を囲む三人。
以前と同じ光景のはずだった。
けれど、違っていた。
「そういえば、ルリちゃん」
食事の途中、アキトがふと顔を上げた。
「……髪、どうしたんだ?」
ラピスは動きを止めた。
「……髪?」
「ああ。なんか、髪型が違うような……」
腰まで届く、淡い桃色の長い髪。アキトの知っているルリは、肩くらいの銀色の髪をよくツインテールにしていた。
少女は、慌てて口を挟んだ。
「もう、アキトったら!」
「……なんだよ」
「ルリちゃんだって女の子なんだから、髪型くらい変えるよ!」
「気分によって変えたくなることだってあるでしょ? ね、ルリちゃん!」
少女はラピスへ笑いかけた。
ラピスは、少しだけ少女を見つめた。
「……うん」
「ほら!」
「……そうなのか?」
アキトは、まだ不思議そうだった。
少女は、その隙に自分の髪へ手を伸ばした。
「そうだ! ねえ、アキト。私も今度、髪型変えてみようかな?」
「……は?」
「三つ編みとか、もっと短くしてみるとか!」
「お前、せっかく長いんだから、そのままでいいんじゃないか?」
「えーっ! じゃあ、結い上げるのは?」
「今だって結んでるだろ」
「もう! そういうことじゃないの!」
少女が頬を膨らませる。
アキトは呆れたように笑った。
「……お前って、そういうところは昔から変わらないよな」
その言葉に、少女は一瞬だけ黙った。
昔から。
自分には、アキトと過ごしたそんな昔はない。
けれど、その言葉が指す出来事を、少女は知っていた。
ナデシコの艦内で。
火星へ向かう旅の途中で。
何度もアキトに言われた、似たような台詞。
「……そう、かな?」
「ああ」
アキトは笑った。
「……ま、好きにすればいいけどさ」
「えへへ。じゃあ、そうする!」
少女も笑った。
ラピスは、その二人を黙って見つめていた。
*
食事の後、アキトが寝室へ戻ると、ラピスは少女の服の裾を引いた。
「……ねえ」
「なあに、ラピス?」
「……ワタシ、ルリじゃない」
少女は、振り返った。
ラピスは、金色の瞳でまっすぐに見上げていた。
「……うん」
「……ラピス」
「……そうだね。ごめんね」
少女は、その場にしゃがみ込んだ。
「本当は、ちゃんと説明したいんだけど……」
ラピスは黙って聞いている。
「今のアキトは、昔のことを、今起きていることだと思っているの。ラピスのことも、ホシノ・ルリだと思ってる」
「……知ってる」
「……うん」
少女は困ったように微笑んだ。
「でも、今のアキトに本当のことを言ったら、すごく混乱しちゃうかもしれないんだって」
ラピスは、少女を見つめた。
「……アナタも」
「……え?」
「……アナタも、ユリカじゃない」
少女は、何も言えなかった。
その通りだった。
自分はユリカではない。
誰よりも、それをよく知っている。
「……うん」
少女は、小さく頷いた。
「……そうだね」
ラピスは、しばらく黙っていた。
「……アキト、笑ってた」
「……うん」
「……アナタも」
少女は顔を上げた。
ラピスは、ほんの少し首を傾げた。
「……嬉しい?」
「…………」
少女は、すぐには答えられなかった。
アキトが笑っている。
優しく名前を呼んでくれる。
自分と一緒に、食事をしてくれる。
以前は、それだけのことを望むのさえ難しかった。
「……うん」
少女は、ようやく頷いた。
「……嬉しいよ」
ラピスは、それを聞いて目を伏せた。
「……じゃあ、いい」
「……ラピス?」
「……今は、いい」
そう言うと、ラピスは少女の手を握った。
少女は、その小さな手をそっと握り返した。
「……ありがとう」
ラピスは何も言わなかった。
ただ、手を離さなかった。
*
アキトの記憶は、日によって変わった。
ある日は、ナデシコの食堂で働いていた頃。
またある日は、地球へ戻って長屋で暮らしていた頃。
そして、別の日には。
「……おい、ユリカ」
「なあに?」
「なんでお前、また俺の部屋にいるんだよ」
少女は、手にしていた洗濯物を落としかけた。
「……え?」
「いや、だから。勝手に入ってくるなって、何度も言ってるだろ」
アキトは、困った顔をしていた。
少女は一瞬、考え込んだ。
昨日までは、ホウメイの食堂の話をしていた。
けれど、今日は違う。
何を言っているのだろう。
どうして、突然そんな話をするのだろう。
そう思ったとき。
少女の頭の中に、ある光景が浮かんだ。
小さなアパート。
散らかった部屋。
不機嫌そうなアキト。
そして、その部屋に押しかけてくる、自分によく似た少女。
……ああ。
そういうことか。
「……もう、アキトったら!」
少女は腰に手を当てた。
「せっかくお掃除してあげてるのに、そんな言い方ないでしょ!」
「頼んでないだろ!」
「だって、放っておいたら全然片づけないんだもん!」
「……お前なあ」
アキトが、呆れたようにため息をついた。
少女は、その顔を見て笑った。
思い出した。この頃のユリカは、こんなふうにアキトと言い合っていたのだ。
以前なら、記憶をたどってから言葉を選んでいた。
けれど今は、まるで自分がその場にいたかのように、自然に言葉が出てくる。
「……ほら、アキト! そっち持って!」
「……なんで俺まで手伝うんだよ」
「自分のお部屋なんだから当たり前でしょ!」
アキトは、ぶつぶつ文句を言いながらも洗濯物を受け取った。
その姿を見て、少女は笑った。
彼が覚えている時間は、昨日とは違う。
けれど、アキトは今日も笑っている。
それだけで、嬉しかった。
時折、自分が誰の思い出を生きているのか、わからなくなりそうになる。
けれど、アキトの前では。
少女は、ユリカでいられた。
*
居住区での生活には、いくつかの約束事があった。
アキトを一人で外へ出さないこと。
外部の情報を不用意に見せないこと。
そして、彼が今どの時期の記憶を生きているのか、できる限り注意を払うこと。
イネスは、そのために居住区の一部を療養用に整えた。
とはいえ、アキトを閉じ込めているようには見せたくなかった。
プロスペクターが仕事の合間に顔を出し、エリナも時折訪れた。ゴートは無口なまま、必要な物資を届けてくれる。
アキトは、そんな彼らを不思議がることもあったが、決して嫌がりはしなかった。
「……プロスペクターさん、また仕事の話ですか?」
「いえいえ、本日は純粋なお見舞いでございますよ」
「……本当ですかね」
「もちろんでございます。もっとも、せっかくですので、少々ご相談したい案件が……」
「ほら、やっぱり!」
アキトが笑う。
プロスペクターも、困ったように笑った。
少女は、その様子を少し離れたところから見ていた。
こうしていると、本当に昔へ戻ったようだった。
ナデシコに乗っていた頃。
賑やかな仲間たちに囲まれ、何かと騒ぎを起こしていたアキト。
少女の記憶の中にいる彼が、そこにいた。
*
「……ユリカ」
「なあに、アキト?」
「お前、今日は仕事なのか?」
「……うん。ちょっとだけね」
少女は、机の上の端末を片づけていた。
ユーチャリスの修理は、まだ続いている。ウズメと調整しなければならない作業も残されていた。
そのため、少女は一日のうち何時間か、アキトのもとを離れる必要があった。
「……またかよ」
アキトが、少し不満そうに呟いた。
「えへへ。ごめんね」
「……別に、いいけどさ」
アキトは、ベッドの背に寄りかかった。
「……次はいつ来るんだ?」
少女の手が止まった。
以前のアキトは、自分が部屋を訪ねても、そんなことは聞かなかった。
必要があれば呼ぶ。
用事がなければ、それぞれの時間を過ごす。
そういう人だった。
けれど、今は違う。
自分が離れることを、寂しがってくれる。
待っていてくれる。
「……すぐに戻ってくるよ!」
少女は、明るく答えた。
「だから、いい子にして待っててね!」
「……なんだよ、それ」
「えへへ!」
アキトは、照れくさそうに笑った。
「……わかったよ。待ってる」
少女は、思わず駆け寄りたくなった。
もう少し、一緒にいたかった。
けれど、仕事を放り出すわけにはいかない。
アキトを支えるためにも、ユーチャリスを修理しなければならない。
「……じゃあ、行ってくるね」
「おう」
アキトが手を振った。
「……いってらっしゃい、ユリカ」
少女は笑顔で手を振り返した。
そして、扉が閉まった。
廊下へ出ると、少女はしばらくその場に立っていた。
……アキトさん。
心の中で、呼びかける。
以前は、自分のことを待ってくれたことがあっただろうか。
確かに、アキトは優しくしてくれた。
自分を一人の人間として認めてくれた。
ユリカではないことを知ったうえで、そばにいてくれた。
それなのに。
今のアキトの方が、自分を必要としてくれているように感じる。
「……ずるい、よね」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
少女は小さく首を振り、整備区画へ向かって歩き始めた。
*
月面ネルガル、居住区。
アキトは、ベッドの上で静かに眠っていた。
少女は、その傍らに腰掛けていた。
手元には、小さな薬剤ケースと注射器。
イネスから指導を受け、決められた手順で投与しているナノマシン抑制薬だった。
眠るアキトの腕をそっと取り、消毒する。
以前は、こうした処置を見るだけでも緊張したものだった。
今では、手順を間違えることもない。
少女はゆっくりと薬剤を注入した。
アキトの表情は変わらない。
ただ、穏やかな寝息を立てている。
「……今日も、よく眠れてるのね」
少女は微笑んだ。
そのとき、背後から声がした。
「……もう、慣れたものね」
振り返ると、イネスが立っていた。
「……先生」
少女は注射器を片づけた。
イネスはベッドへ近づき、アキトの状態を確認する。
「ナノマシンの活動は安定しているわ。投与も問題ないみたいね」
「……はい」
「でも、あなたが毎回やる必要はないのよ」
少女は顔を上げた。
「医療スタッフに任せればいいの。私だっているんだから」
「……私が、したいんです」
「……あなたね」
イネスは少し強い口調になった。
「アキト君のことを心配しているのはわかるわ。でも、何もかも自分で背負おうとしなくていいのよ」
少女は答えなかった。
眠っているアキトの顔を見つめる。
穏やかな表情だった。
あの戦場で、苦痛に顔を歪めていた姿が嘘のように。
「……先生」
「何かしら?」
「私、これでいいのか、わからないんです」
イネスは黙って少女を見つめた。
「アキトに、思い出してほしいんです」
少女は、小さく言った。
「私のことも、ラピスのことも。みんなで過ごした時間も……」
アキトの手を、そっと握る。
「……でも」
言葉が詰まった。
「思い出したら、アキトはまた苦しむんですよね」
「…………」
「ユリカさんのことも、火星の後継者のことも。自分が何をされて、何をしてきたのかも……全部」
少女は俯いた。
「また戦おうとするかもしれない。身体だって、もう……」
「……そうね」
イネスは慎重に答えた。
「今の彼に大きな負担をかけることは避けたいわ。でも、記憶が戻ること自体が悪いとは、言い切れないのよ」
「わかっています」
少女は、首を横に振った。
「わかっているつもりなんです。でも……」
アキトの頬に、そっと触れる。
「私、アキトには、嘘でもいいから、幸せな記憶の中で過ごしてほしいんです」
「…………」
「もう、あんなに苦しんでほしくない」
少女は微笑もうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……エゴだって、わかっています」
声が小さくなる。
「だって、今のアキトは、私に笑いかけてくれるんです」
イネスは、何も言わなかった。
「毎日、楽しそうに話してくれて。ご飯を食べて、おしゃべりして……」
少女の目に、涙が浮かんだ。
「……私も、幸せなんです」
そう言って、ようやく笑った。
「たとえ、私のことをユリカさんだと思っていても」
イネスは、その笑顔を見つめた。
何か言おうとして、口を閉じる。
本当に、それでいいのだろうか。
あの子が望んでいるのは、アキト君の幸福だけではない。
自分自身も、愛されたいのだ。
名前のない、あの子自身として。
なのに。
そのために、別の誰かになろうとしている。
「……先生?」
少女が、不思議そうに首をかしげた。
イネスは、静かに微笑んだ。
「……何でもないわ」
そして、眠るアキトへ視線を戻した。
「ただ、あなたも少しは休みなさい。アキト君が起きたときに、あなたまで倒れていたら困るでしょう?」
「……はい」
少女は小さく頷いた。
そのとき。
「……ユリカ……」
眠っていたアキトが、小さく呟いた。
少女は振り返る。
「……アキト?」
アキトは目を覚まさなかった。
ただ、眠ったまま、かすかに笑っていた。
少女はその手を握り直した。
「……うん。ここにいるよ」
その声は、もうすっかりユリカのものだった。
*
少女は、そっと髪に触れた。
特殊なコーティングで染められた髪は、光を受けると濃い青紫色の艶を帯びる。金色だった瞳も、コンタクトレンズで青く変わっていた。
「……本当に、そっくり」
小さく呟く。
エリナに相談したときのことを、思い出した。
『……そこまでする必要は、ないんじゃない?』
エリナは、そう言っていた。
アキトは今のままでも少女をユリカだと認識している。髪や瞳まで変える必要はないのではないか、と。
それでも少女が望むと、エリナは専用の除去剤で元に戻せるコーティングと、青いコンタクトレンズを用意してくれた。
……エリナさんは、きっと。
私がユリカさんのふりをすることを、よく思っていないんだろうな。
少女は、鏡の中の自分を見つめた。
実際、エリナの言う通りなのだ。
アキトは、今の自分をユリカだと信じている。
髪の色が違っても。
瞳の色が違っても。
それを不思議に思うことはあっても、自分が少し言葉を添えれば、すぐに納得してしまう。
最初は、記憶が混乱しているからだと思っていた。
けれど、最近になって、あることに気づいた。
アキトは、『ユリカ』の言うことなら、何でも信じてしまうのだ。
ラピスの髪を見て、不思議そうに首をかしげたときも。
『もう、アキトったら! ルリちゃんだって女の子なんだから、髪の色くらい変えるよ!』
そう言えば、あっさりと納得してしまった。
食堂の仕込みに行かなければと慌てるアキトに、今日はホウメイさんからお休みをもらっているのだと説明すれば、安心してベッドへ戻った。
別の日には、今日はラーメンの試作をする日だったと言えば、嬉しそうに調理器具を取り出した。
長屋で暮らしていた頃の記憶に戻ったときは、戦後処理で混乱しているから不用意に出歩いては駄目だと言い聞かせた。
どれも、その場を取り繕うための嘘だった。
けれどアキトは、疑わなかった。
自分の身体が以前のように動かないことも。
どうしてこんな場所で暮らしているのかという疑問も。
『ユリカ』が大丈夫だと言えば、安心したように笑うのだ。
ナノマシンの暴走を抑えるための処置が、記憶だけでなく、人を疑うという働きにまで影響しているのだろうか。
詳しいことは、イネスにもわからないという。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
今のアキトにとって、『ユリカ』の言葉は、疑う必要のないものなのだ。
「…………」
少女は、鏡に映る自分の頬へ手を伸ばした。
アキトは、今のままでも信じてくれる。
だからこそ、怖かった。
ほんの小さな違和感が積み重なり、いつか、何かの拍子にすべてを思い出してしまうのではないか。
今の穏やかな暮らしが、崩れてしまうのではないか。
まるで、砂の上に築いたお城のようだった。
少しでも均衡が崩れれば、何もかも壊れてしまいそうで。
アキトには、自分を思い出してほしい。
あの人が知っている、ユリカではない自分を。
けれど、今は。
もう少しだけ、幸せな夢を見ていてほしかった。
「……これなら」
少女は、鏡の前で微笑んでみた。
ユリカのように。
少し大袈裟なくらい、明るく。
「……アキト、喜んでくれるかな」
鏡の中のユリカが、微笑み返した。
そのとき、扉が静かに開いた。
ラピスだった。
少女を探して、たまたま部屋を覗いたのだ。
けれど、その姿を見た途端、足が止まった。
「……ラピス?」
少女が振り返る。
「あ、どうしたの?」
いつもと同じ声。
いつもと同じ笑顔。
けれど、違う。
長い黒銀の髪は、ユリカと同じ青みがかった黒に染まっていた。
そして、金色だった瞳も。
自分と同じ色だった瞳も、青く変わっていた。
「……どうかな?」
少女が、少し照れくさそうに微笑んだ。
「エリナさんにお願いして、髪染めを用意してもらったんだ。コンタクトレンズも」
ラピスは答えなかった。
優しいアキトは好きだった。
今のアキトは、以前よりずっとよく笑う。
一緒にご飯を食べて、話をして、時には自分の頭を撫でてくれる。
それは、嬉しかった。
でも。
自分をルリと呼ぶアキトは、好きではなかった。
アキトが優しくしてくれるたびに、少しだけ寂しくなる。
少女のことも、同じだった。
無理をしてユリカのように話し、ユリカのように笑う。
そんな姿を見るのは、嫌だった。
以前の少女は、もっと違う笑い方をしていた。
黒銀の長い髪。
金色の瞳。
自分と同じ色の瞳で、いつも優しく見つめてくれた。
ラピスは、あの姿が好きだった。
けれど。
どうして少女がこんなことをしているのか、ラピスにもわかっていた。
アキトに、笑っていてほしいから。
アキトと、一緒にいたいから。
だから、何も言わなかった。
少女が心配そうに顔を覗き込む。
「……ラピス?」
ラピスは、そっと手を伸ばした。
少女の髪に触れる。
手触りは、以前と変わらなかった。
「……前の方が、ワタシは好き」
それだけを、伝えた。
少女は少し驚いたように目を瞬いた。
それから、ラピスを見つめた。
「……そっか」
小さく微笑む。
「……ありがとう、ラピス」
少女はしゃがみ込み、ラピスをそっと抱きしめた。
ラピスも、その背中に腕を回した。
髪の色も、瞳の色も変わってしまった。
けれど。抱きしめてくれる腕の温もりは、何も変わっていなかった。
*
「……やあ、テンカワ君。元気にしているかい?」
アカツキ・ナガレは、月ドックの居住区を訪れ、あらかじめ教えられていたアキトの部屋の扉を開いた。
「……なんだ、アカツキか」
アキトはちょうど仕込みの途中だったようで、聞き慣れた声が返ってきた。
「なんだとはご挨拶だねえ。せっかく遊びに来てやったというのに」
「頼んでないだろ。というかネルガルの会長って暇なのか?」
「ははは。相変わらずだね。日々バッシングにさらされるネルガルの会長だから、こうして息抜きも必要なのさ」
アカツキは苦笑した。
そして、部屋の中へ足を踏み入れる。
「……あっ、アカツキさん!」
明るい声が響いた。
「いらっしゃい!」
部屋の奥からエプロンをつけた少女が顔を出した。
「…………」
アカツキは、その場で足を止めた。
青みがかった黒髪。
青い瞳。
屈託のない笑顔。
そこにいたのは、記憶の中のミスマル・ユリカそのものだった。
「……アカツキさん?」
少女が、不思議そうに首をかしげる。
その仕草まで、よく似ていた。
「……いや」
アカツキは、ようやく口を開いた。
「ずいぶん、雰囲気が変わったものだからね」
「えへへ!ラーメン屋台の奥さんが板についてきたって、アキト!」
「誰もそんなこと言ってねえだろ、ユリカ!」
少女は、嬉しそうに髪を揺らした。アキトは少し顔を赤くしながら反論するが、まんざらでもないように見える。
「どうですか? 似合ってます?」
「……ああ」
アカツキは、小さく頷いた。
「とても、よく似合っているよ」
「ありがとうございます!あ、すぐお茶出しますから、アカツキさんも上がってください」
居間に案内され、アカツキは腰を下ろした。まったく同じというわけではないが、ちゃぶ台が置かれ、畳が敷かれた和室は、当時のアキトのアパートを思わせた。奥からアキトの声がした。
「ユリカ、こっち、ちょっと手伝ってくれ!」
「あ、はーい!」
少女は、ぱたぱたとキッチンへ戻っていった。
アカツキは、その後ろ姿を見つめていた。
実際に会った回数は数えるほどしかない。礼儀正しく、少し遠慮がちで、アキトのことになると一生懸命だった、名前のない少女。
その面影が、今はほとんど見えなかった。
「……ほら、アキト! そっちじゃなくて、こっち!」
「わかってるって!」
「もう! ちゃんと聞いてよ!」
「……お前が余計なことするからだろ!」
「えーっ! ひどーい!」
キッチンから、賑やかな声が聞こえてくる。
アキトは、鍋の前に立っていた。以前のような黒衣ではなく、普段着にエプロンをつけている。
その傍らでは、少女が楽しそうに話しかけていた。
アキトが何か言えば、少女が頬を膨らませる。
少女が余計な手を出そうとすると、アキトが慌てて止める。
やがて、二人で顔を見合わせて笑った。
「…………」
アカツキは、何も言えなかった。
懐かしい。
そう思った。
ナデシコに乗っていた頃も、戦いが終わって皆が艦を降りた後も、何度も見た光景だった。
アキトが料理をしている。
その傍らで、ユリカが騒いでいる。
アキトは迷惑そうにしながらも、結局はユリカを放っておけない。
いつも、そんな二人だった。
……まるで、あの頃に戻ったみたいじゃないか。
「アカツキ、昼飯まだだろ?まだ試作段階だけど、ラーメン作ったんだ、食ってけよ」
「ああ。そうだね、せっかくだから一杯ご馳走になろうかな?」
ほどなくして、アカツキの前にラーメンが置かれた。
湯気の立つ一杯。アカツキは箸を取った。
「……いただきます」
スープを口に運ぶ。
それから、麺をすする。
「…………」
「……どうだ?」
アキトが尋ねた。
どこか期待したような顔だった。
アカツキは、もう一口スープを飲んだ。
「うん。なかなかじゃないか」
「なかなか、ね」
「いやいや、褒めているんだよ。おいしいよ、テンカワ君。それに、これからもっと美味くなるんだろう」
「まあな。もっと試してみたいこと、色々あるんだ」
アキトは、少し照れたように笑った。
「ははは。相変わらず凝り性だねえ」
「……コックなんだから、当たり前だろ」
「違いない」
アカツキは、再び箸を進めた。
……うまい。
それは確かだった。
料理人としての腕が、失われたわけではないのだろう。
だが、今のアキトは、この味を本当に感じているわけではない。
イネスの説明では、過去に覚えた味や調理の経験をもとに、記憶の中で味を再現しているにすぎないらしい。
かつて料理人を目指していたアキトなら、材料や調理法から出来上がりの味を予想することもできる。
それを、実際に味わっていると思い込んでいるのだという。
……まったく。
アカツキは、目の前の二人を見つめた。
「よかったね、アキト! アカツキさんもおいしいって!」
「だから、まだ完成じゃないんだって」
二人が笑う。昔と変わらないやり取り。昔と変わらない笑顔。
けれど、そこにいるのは。
味覚を失い、記憶の中で生きているアキトと。
記憶の中のユリカになろうとしている、名前のない少女だった。
「……アカツキ?」
アキトが、不思議そうに顔を上げた。
「……どうした?」
「……いや」
アカツキは、いつもの笑みを浮かべた。
「実に結構。次に来たときも、ぜひご馳走してもらいたいものだね」
「……あんた、遠慮ってものを知らないのか?」
「ははは。おいしいものには目がないんでね」
アキトは呆れたように笑った。
アカツキも笑った。
そして、もう一口、ラーメンをすすった。
*
食事を終え居住区を出たアカツキは、しばらく無言で廊下を歩いていた。
やがて、足を止める。
「……まったく」
小さなため息が漏れた。
「……本当に、テンカワ君は女泣かせだね」
誰に聞かせるでもなく呟き、再び歩き出した。
*
最近のアキトは、屋台を引いていた頃の記憶の中で過ごすことが多くなっていた。
朝になると、仕込みをしなければと言い出す。夕方には、そろそろ屋台を出そうかと時計を気にする。
もちろん、今のアキトに屋台を引くことはできない。
少女は、そのたびに言葉を考えた。
「今日は雨なんだって。ねえ、アキト。せっかくだから、新しいラーメンを試してみない?」
「……雨か。そうだな。それじゃあ、今日は仕込みに専念するか」
アキトは、あっさりと納得した。
それからは、ラーメンの試作が始まる。
少女はエリナやプロスに頼んで、様々な食材を取り寄せてもらった。小麦粉に香味野菜、肉や魚介の乾物。月面ではなかなか手に入らないものもあったが、ネルガルの調達能力は大したものだった。
アキトは、届いた食材を眺めるだけで目を輝かせた。
「おっ、いいじゃないか! これなら、前から試したかったスープが作れそうだ」
「えへへ! アキトが喜ぶと思ったんだ!」
「ありがとな、ユリカ」
そう言って笑うと、アキトは早速キッチンへ向かった。
一度始めると、なかなか終わらない。
スープの配合を変え、麺の太さを調整し、茹で時間を秒単位で測る。
納得できるものが完成するまで、朝から晩まで作り続けることもあった。
少女は、その隣で助手を務めた。
「ユリカ、そっちの鍋を見ててくれ」
「はーい!」
「沸騰させすぎるなよ。火加減が大事なんだから」
「わかってるってば!」
「……本当か?」
「もう! アキトったら!」
そんなやり取りを、ラピスは少し離れた場所から眺めていた。
本を読んだり、ゲームをしたり。
時折、アキトに呼ばれて試食役を務める。
少女から聞いた話では、ホシノ・ルリも、アキトの屋台ではチャルメラを吹いていたらしい。家ではユリカと一緒に試作品を味見したり、アキトとゲームをして過ごしたりしていたという。
だから、こうしているのも、おかしなことではないのだと少女は教えてくれた。
けれど、ラピスは別に、ルリの真似をしたくてここにいるわけではなかった。
ただ、二人を見ているのが好きだった。
アキトが料理を作る。
少女が手伝う。
ときどき言い争いになって、それから二人で笑う。
以前の月面ドックでは、見ることのできなかった光景だった。
「……なあ、ルリちゃん」
アキトが振り返った。
「ちょっと味を見てくれないか?」
「……うん」
ラピスはゲームを中断し、キッチンへ向かった。
差し出された小皿には、スープが少しだけ入っている。
息を吹きかけてから、一口飲んだ。
「……どうだ?」
「……おいしい」
「そっか!」
アキトが嬉しそうに笑う。
「……でも、ちょっとしょっぱい」
「……えっ?」
アキトは首をかしげた。
「おかしいな。塩加減は合ってるはずなんだけど……」
「アキト! 私もちょっとそう思う!」
少女が横から口を挟んだ。
「もう少し薄くしてみようよ!」
「……そうか?」
「うん! ルリちゃんもそう言ってるんだし!」
「……そうだな。じゃあ、少し配合を変えてみるか」
アキトは端末に数字を入力し、調味料の量を書き直した。
「よし。次はこれで試してみよう」
「はーい!」
少女は楽しそうに答えた。
アキトは、自分でもスープを口に運んでいた。
けれど、その表情からは味を確かめられているのかわからなかった。
味覚が戻ったわけではない。
それでも、二人の感想を聞けば、料理を改良することはできた。
少女は、アキトの横顔を見つめた。
かつて、味を失った彼は、もう料理などできないと言っていた。
それなのに、今は。
「……もう一回、やってみるか」
楽しそうに笑っている。
少女も、笑顔で頷いた。
「うん!」
*
新しいスープを煮込んでいる間、アキトは椅子に腰を下ろしていた。
少女も隣に座る。
ラピスは、居間の座布団に座りゲームを続けていた。
「……なあ、ユリカ」
「なあに?」
「いつかさ、ちゃんと自分の店を持ちたいんだ」
「自分のお店?」
「ああ。小さくてもいいからさ。自分の好きな料理を出せる店を」
アキトは、少し照れくさそうに笑った。
「今は屋台だけど、いずれは自分の店を持ちたいからさ」
「いいね! アキトのお店なら、きっと大人気だよ!」
「……そんな簡単にはいかないって」
「そんなことないよ! だって、アキトのラーメン、おいしいもん!」
「……ありがとな」
アキトは苦笑した。
「……それでさ、俺のラーメンが完成したら、ユリカの親父さんにも食べてもらいたいんだ」
「……お父様に?」
「ああ。ちゃんと認めてもらってさ。それで……」
アキトは、そこで言葉を濁した。
「……それで?」
「……いや、なんでもない」
「えーっ! 何それ! 気になるじゃない!」
「いいだろ、別に!」
「だーめ! ちゃんと教えてよ!」
少女が身を乗り出す。
アキトは、困ったように視線を逸らした。
「……お前と、結婚したいから」
小さな声だった。
「…………」
「いつまでも、屋台を引いているわけにもいかないだろ。結婚するなら、ちゃんと店をやっていけるってことを証明しないと」
アキトは、照れくさそうに笑った。
少女は、その顔を見つめていた。
こんなふうに、未来のことを話すアキトを見たのは初めてだった。
いつも、戦うことばかり考えていた。
ユリカを助けること。
火星の後継者を倒すこと。
自分の身体が壊れていくことさえ構わず、ただ前へ進もうとしていた。
そんなアキトが、今は。
自分の店を持ちたいと。
好きな人と結婚したいと。
何でもない、ささやかな未来を語っている。
少女は、胸が温かくなるのを感じた。
……アキト。
こんなふうに笑える人だったんだね。こんな未来を、夢見ていたんだね。
嬉しかった。今のアキトが、こんなにも幸せそうで。
もう一度、未来に希望を持てていることが。
けれど、同時に胸が締めつけられた。
これは、アキトが本当に手にしたかった未来だった。
ユリカと一緒に暮らして。
料理を作って。
店を持って。
いつか家族になって。
そんな、ありふれた幸せ。
それを、火星の後継者は奪った。
アキトからも。
ユリカからも。
そして、ルリからも。
少女は、テーブルの下でそっと手を握った。
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
悲しみ。
切なさ。
そして、消えることのない憎しみ。
あの人たちが、こんな目に遭わなければ。
アキトは、今も幸せに暮らしていたのかもしれない。
料理を作り、笑いながら、明日のことを考えて。
ユリカと一緒に。
……許せない。
その思いが、心の奥底で静かに燻っていた。
「……ユリカ?」
アキトの声に、少女は顔を上げた。
「……どうした?」
「……ううん!」
少女は、いつものように笑った。
「アキトなら、きっと素敵なお店を開けるよ!」
「……そうかな」
「絶対そうだよ! 私、アキトの料理、大好きだもん!」
アキトは、照れくさそうに笑った。
「……ありがとな、ユリカ」
「えへへ!」
少女も笑った。
アキトには、知らなくていい。
今だけは。
奪われた未来のことも。
自分の胸の奥に燻る憎しみも。
ただ、こうして笑っていてほしかった。
「……おかわり」
小さな声がした。
アキトが顔を上げる。
「……ん?」
ラピスが、空になった器を差し出していた。
「……もう一杯」
「おっ、気に入ってくれた?」
「……うん」
ラピスは小さく頷いた。
「……おいしかった」
その一言に、アキトの顔がほころんだ。
「そっか。よかった!」
嬉しそうに器を受け取る。
「ちょっと待ってろよ、ルリちゃん。すぐ作るからな」
「……うん」
ラピスは、アキトの背中を見送った。
その隣で、少女が頬を膨らませる。
「えーっ! アキト、ルリちゃんばっかりずるーい!」
「……なんだよ、ユリカ」
「私にも、もう一杯作ってよ!」
「お前、さっきから味見ばっかりしてただろ!」
「だって、おいしかったんだもん!」
「……まったく」
アキトは呆れたように笑った。
「そんなに食べて、後で苦しくなっても知らないぞ」
「もう! アキトったら!」
少女は、ますます頬を膨らませた。
ラピスは二人を見比べた。
いつもの光景だった。
アキトが何か言って、少女が大袈裟に反応する。
少女が余計なことを言って、アキトが困った顔をする。
そして、最後には二人とも笑っている。
ラピスは、そんな二人を見るのが好きだった。
以前のアキトは、こんなに笑わなかった。
食事の時間も、ほとんど喋らなかった。
今は違う。
自分が料理をおいしいと言えば、嬉しそうに笑ってくれる。
頭を撫でてくれることもある。
優しいアキト。
ラピスは、そんなアキトが好きだった。
ただ。
「……ほら、ルリちゃん。お待たせ」
差し出された器を見つめる。
「……ありがとう」
そう答えながら、少しだけ胸が沈んだ。
アキトは、自分をルリだと思っている。
目の前で笑っている少女のことも、ユリカだと思っている。
本当は、どちらも違うのに。
ラピスは、隣に座る少女を見た。
「……どうしたの、ルリちゃん?」
少女が、ユリカの声で尋ねてくる。
「……なんでもない」
「そっか!」
少女は、にっこり笑った。
その顔を見て、ラピスは思った。
今のアキトは好き。
けれど、自分をルリと呼ぶアキトは、少し嫌だった。
少女がユリカのように振る舞うのも、本当は好きじゃない。
それでも。
目の前には、温かいラーメンがある。
アキトが自分のために作ってくれたものだ。
少女も、隣で笑っている。
ラピスは箸を取った。
麺を口に運ぶ。
「……おいしい」
「おっ、本当か?」
アキトが嬉しそうに身を乗り出した。
「さっきのより、ちょっとスープを調整してみたんだけどさ」
「……こっちの方が、好き」
「そうか!」
アキトは満足そうに笑った。
「よし。じゃあ、こっちでいくか」
「えーっ! 私にも味見させてよ!」
「だから、お前は食べ過ぎだって!」
「もう! ひどーい!」
少女が文句を言う。
アキトが笑う。
ラピスも、小さく笑った。
ルリじゃなくても。
ユリカじゃなくても。
今、ここで三人が笑っていることだけは、本当だった。
ラピスはもう一度、ラーメンを口に運んだ。
温かかった。そして、とてもおいしかった。
*
食事を終え、少女が食器を片づけていると、キッチンから小さな音がした。
「……あれ?」
振り返ると、床にお玉が転がっていた。
「……アキト?」
「……いや、なんでもない」
アキトは苦笑しながら、お玉を拾おうとした。
その右手が、途中で止まった。
「……っ」
指先が、かすかに震えている。
「アキト、大丈夫?」
「ああ。ちょっと手が滑っただけだよ」
アキトは、何でもないことのように答えた。
「……最近、なんか力が入りにくいんだよな」
「…………」
「まあ、ずっと休んでるからな。身体が鈍ったのかもしれない」
そう言って笑う。
少女は、アキトの右手を見つめた。
以前から、指先の動きが悪くなっていることは知っていた。
ブラックサレナの操縦系を調整していたときも、アキトは時折、右手を気にしていた。
あの戦いの後も。
薬のおかげで苦痛はなくなった。
けれど、損傷した神経が元に戻ったわけではない。
「……ねえ、アキト」
「ん?」
「今日は、私が片づけるね」
「……え?」
「ほら、アキトは今日、ずっとラーメンを作ってたでしょ?」
少女は、明るく笑った。
「私だって、ちゃんとお片づけくらいできるんだから!」
「……そうか?」
「そうだよ! もう、アキトったら!」
「……じゃあ、頼むよ。ユリカ」
「うん!」
少女は、お玉を拾った。
アキトの手は、まだ少し震えていた。
けれど、少女は何も言わなかった。
*
月面ネルガル、医療区画。
「……やはり、進行しているわね」
イネスは、端末に表示された検査結果を見つめていた。
その向かいには、少女が座っている。
「……イネス先生」
「何かしら?」
「アキト、今日は一人で起き上がれなかったんです」
少女は、膝の上で両手を握った。
「昨日までは、少し休めばキッチンにも来られたのに。今日は、ベッドから起き上がるのも大変そうで……」
「……そう」
「でも、お昼にはラーメンを食べてくれました。私が作ったのを、おいしいって……」
少女は、少しだけ微笑んだ。
「……だから、まだ大丈夫ですよね?」
イネスは、すぐには答えなかった。
少女の笑顔が、ゆっくりと消えていく。
「……先生?」
「……お兄ちゃんのナノマシンは、今も抑制できているわ」
イネスは静かに答えた。
「以前のような暴走も起きていない。あの激しい苦痛からは、解放されているはずよ」
「……はい」
「でも、傷ついた神経が元に戻ったわけではないの」
端末の画面が切り替わった。
少女にも見慣れた、アキトの神経系の検査結果。
以前のものと並べて表示された数値には、明らかな変化があった。
「……運動機能の低下が進んでいるわ。手指だけじゃなく、体幹や下肢にも影響が出始めている」
「…………」
「今はまだ、調子のよい日には動けるでしょう。でも、この先も同じように動けるとは限らないわ」
少女は、画面を見つめた。
何度も目を通したデータだった。
何度も調べた、アキトの身体。
けれど、どれほど計算を繰り返しても、望んでいる答えは出てこなかった。
「……先生」
「……ええ」
「新しい治療法は、見つかりそうですか?」
イネスは目を伏せた。
「……まだ、見つかっていないわ」
「…………」
「抑制薬の調整も続けている。これまでの研究記録も調べ直しているし、ネルガルの医療部門にも協力してもらっている」
イネスは、そこで一度言葉を切った。
「でも、失われつつある神経の機能を回復させる方法は、今のところないの」
少女は俯いた。
「……そう、ですか」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、少女は顔を上げた。
「……私にも、何かできませんか?」
「……あなたには、もう十分すぎるほど協力してもらっているわ」
少女は、何も言えなかった。
自分には、力がある。
普通の人間にはできないことができる。
戦艦のシステムを掌握し、膨大な情報を処理し、ボソンジャンプさえ行える。
それなのに。
目の前で弱っていくアキトを、助けることができない。
「……ごめんなさい」
イネスが、小さく呟いた。
少女は、慌てて顔を上げた。
「……そんな!イネス先生が謝ることじゃありません!」
「…………」
「先生のおかげで、アキトは苦しまなくなったんです。ちゃんと眠れるようになって、ご飯も食べてくれて……」
少女は、懸命に言葉を続けた。
「……毎日、笑ってくれるんです」
イネスは、黙って聞いていた。
「だから、私……本当に感謝してるんです」
少女は微笑んだ。
イネスは、その顔を見つめた。
以前なら、アキトの身体を治す方法を探してほしいと何度も尋ねてきた少女。
今も、その願いは変わっていないはずだった。
けれど最近は、アキトが穏やかに過ごせていることを、何より嬉しそうに話すようになっていた。
「……ねえ」
イネスは、静かに口を開いた。
「あなた、ちゃんと眠れている?」
「……え?」
「お兄ちゃんの世話も、ユーチャリスの仕事も、ずっと続けているでしょう?」
「……大丈夫です」
少女は、少し困ったように笑った。
「ラピスも手伝ってくれますし、仕事もウズメが随分助けてくれていますから。それに、わたし、結構丈夫にできてますから」
「……そう」
イネスは、それ以上追及しなかった。
代わりに、少女の手元へ視線を落とす。
少女は、膝の上で両手を強く握りしめていた。
「……ひとつだけ、約束して」
「……はい」
「お兄ちゃんのことで、何か変わったことがあったら、どんな小さなことでも教えてちょうだい」
「……はい」
「それから、無理に動かそうとしないこと。お兄ちゃんが料理をしたがっても、身体の状態を見ながらにしてね」
「……わかりました」
少女は、しっかりと頷いた。
それから、少し迷うように口を開いた。
「……先生」
「何?」
「アキトは……」
言いかけて、言葉が止まった。
イネスは、黙って待った。
「……あと、どのくらい……」
少女は、その先を言えなかった。
イネスも、しばらく答えなかった。
やがて、静かに首を横に振った。
「……正確なことは、まだわからないわ」
「…………」
「でも、状態がよくないことは確かよ。だから、今できることを続けるしかないの」
少女は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
膝の上で握っていた手を、そっとほどく。
「……私、戻りますね」
「……ええ」
「アキトが、待ってるので」
少女は立ち上がった。
そして、いつものように丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました、先生」
イネスは、何も言わずに見送った。
扉が閉まる。
静かになった診察室で、イネスはもう一度、アキトの検査結果へ目を向けた。
数値は、改善していない。
治療薬を投与し続けても、神経系の機能低下は止まっていなかった。
「……お兄ちゃん」
イネスは、小さく呟いた。
まだ、諦めたわけではない。
けれど。
時間が、残されていない。
そのことだけは、痛いほどわかっていた。
*
数日後。
「……あれ?」
少女が振り返った。
アキトが、キッチンの前で立ち止まっていた。
「……どうしたの、アキト?」
「……いや」
アキトは、右手を開いたり閉じたりしていた。
「……なんか、今日は調子が悪いな」
「……手?」
「ああ。ちょっと力が入りにくい」
少女は、そっとアキトの手を取った。
指先が、かすかに震えている。
以前よりも、握り返す力が弱かった。
「……ねえ、アキト」
「ん?」
「今日は、私が作るね!」
「……え?」
「ほら、アキトは先生役! 私がちゃんとできるか、見てて!」
少女は、明るく笑った。
「……せっかくだし、料理の腕を見てもらいたいな!」
アキトは、少し考えた。
「……そうだな」
それから、苦笑する。
「……じゃあ、今日は任せてみるか」
「うん!」
「ただし、焦がすなよ?」
「もう! アキトったら! いつの話をしてるの!」
「ははっ、悪い悪い!」
アキトは笑いながら椅子に腰掛けた。
少女は、包丁を手に取った。
背中越しに、アキトの声が聞こえる。
「……もう少し細かく切った方がいいぞ」
「はーい!」
「……いや、そこまで細かくしなくても……」
「えーっ! どっちなの!」
アキトが笑う。
ラピスも、小さく笑った。
少女は、そんな二人を見つめて微笑んだ。
……大丈夫。
まだ、こうして一緒に料理ができる。
アキトが作れない日でも、自分が作ればいい。
三人で食卓を囲むことは、何も変わらない。
そう、思っていた。
*
さらに幾日かが過ぎると、アキトはキッチンへ来ること自体が少なくなった。
以前なら、料理の時間になると自分から姿を見せていた。
今では、少女が呼びに行かなければならない。
「……アキト?」
寝室の扉を開く。
アキトは、ベッドに横になっていた。
「……そろそろ、お昼だよ」
「……ん……?」
ゆっくりと目を開ける。
「……ああ、もうそんな時間か」
「うん! これからラーメン試作しようと思うんだけど……」
「……そうか」
アキトは、身体を起こそうとした。
腕をついて、上体を持ち上げる。
しかし。
「……っ」
途中で、動きが止まった。
「……アキト?」
「……いや、ちょっと待ってくれ」
もう一度、力を込める。
けれど、腕がうまく身体を支えられない。
アキトは、困ったように笑った。
「……なんだよ。今日は、やけに身体が重いな」
少女は、すぐにベッドへ駆け寄った。
「……無理しないで!」
アキトの背中を支える。
「今日は、ここで休んでていいから!」
「……でも」
「大丈夫!」
少女は、にっこりと笑った。
「私が作って持ってくるね!」
「……お前、一人で大丈夫か?」
「もう! アキトに何回も教えてもらったでしょ? ちゃんとアキトのレシピ通り作るから」
「……そうだったな」
アキトは、少し照れくさそうに笑った。
「……じゃあ、頼むよ。ユリカ」
「うん!」
少女は、アキトをゆっくりとベッドへ戻した。
毛布を整える。
「……今日はゆっくり休んでね」
「ああ。悪いな」
「いいのいいの!」
少女は笑顔で答えた。
扉を閉めるまで、その笑顔を崩さなかった。
*
キッチンへ戻ると、ラピスが待っていた。
「……アキトは?」
「……今日は、ちょっとお休み」
少女は、小さく答えた。
「……そう」
「でも、大丈夫! 今日は私たちで作ろうね」
ラピスは、少女を見上げた。
「……手伝う」
「……ありがとう、ラピス」
二人は、並んでキッチンに立った。
少女が材料を切り、ラピスが食器を並べる。
アキトに教わった手順を思い出しながらスープを作る。
火加減を調整する。
麺を茹でる。
何度も教わった料理だった。
もう、手順を間違えることはない。
けれど。
「…………」
少女は、鍋をかき混ぜる手を止めた。
いつもなら、後ろから声が聞こえるはずだった。
もう少し火を弱めろ、とか。
塩を入れすぎるな、とか。
そんな、何でもない小言。
けれど、今日は聞こえなかった。
「……ねえ」
ラピスが、少女の服の裾を引いた。
「……どうしたの?」
「……スープ」
「あっ!」
少女は、慌てて鍋へ向き直った。
「いけない! 煮詰めすぎちゃうところだった!」
ラピスは、小さく頷いた。
少女は、もう一度スープをかき混ぜた。
アキトのいないキッチンは、思っていたよりずっと静かだった。
*
「……お待たせ、アキト!」
少女は、出来上がったラーメンを寝室へ運んだ。
「お、できたのか」
「うん! ラピスも手伝ってくれたんだよ!」
「……そうか。ありがとうな、ルリちゃん」
「……うん」
ラピスが頷いた。
少女はベッドの背を起こし、アキトが食べやすいようにテーブルを寄せた。
「……どうかな?」
アキトは箸を取った。
少し時間をかけて、麺を口に運ぶ。
「……うん」
小さく頷いた。
「……うまいよ、ユリカ」
少女は、ぱっと顔を輝かせた。
「……本当!?」
「ああ」
アキトは、穏やかに笑った。
「食べたら、ちゃんと休むんだよ。アキトに習わないといけないことがいっぱいあるんだからね!」
「……そうか?」
「そうだよ! だから、早く元気になってね!」
アキトは、少し困ったように笑った。
「……わかったよ」
それから、もう一口ラーメンを食べる。
「……明日は、俺も手伝うからさ」
「……うん!」
少女は、笑顔で頷いた。
ラピスも、静かにアキトを見つめていた。
その日の夕食も、三人で一緒に食べた。
アキトは楽しそうに話し、少女もラピスも笑った。
けれど、キッチンに立つアキトの姿は、少しずつ見られなくなっていった。
*
ある夜。
アキトは、夢を見ていた。
ナデシコの食堂だった。
鍋からは湯気が立ち上り、ホウメイたちが忙しそうに働いている。
『アキトさん』
振り返ると、ルリちゃんがいた。
『今日もラーメン、作ってくれますか?』
ああ、もちろん。
そう答えて、鍋に手を伸ばした。
けれど。
指先が、うまく動かなかった。
包丁を握ろうとしても、力が入らない。
手から滑り落ちた包丁が、床に乾いた音を立てた。
……あれ?
おかしいな。
もう一度、拾おうとする。
けれど、身体が動かなかった。
いつの間にか、食堂は消えていた。
白い部屋。
身体を拘束するベルト。
皮膚の下を這い回る、青白い光。
……そうだ。
俺は、もう。
料理ができない。
味もわからない。
コックには、戻れない。
目の前に、ルリちゃんが立っていた。
何かを言おうとしている。
けれど、声が聞こえない。
手を伸ばそうとしても、届かなかった。
ルリちゃんの姿が、遠ざかっていく。
……待ってくれ。
まだ、ラーメンを作ってやってないんだ。
せめて、もう一度。
そう思ったとき、別の声が聞こえた。
『アキトーっ!』
ユリカだった。
いつものように、笑っている。
アキトは、必死に手を伸ばした。
けれど、ユリカの姿も遠ざかっていく。
白い光の向こうへ。
手の届かない、どこか遠い場所へ。
……ユリカ!
行かないでくれ。
まだ、助けてない。
お前を、助けなきゃいけないのに。
声を上げようとしても、喉からは何も出なかった。
ルリちゃんも。
ユリカも。
どこにもいない。
自分は、何もできなかった。
もう、二人に会えない。
……嫌だ。
置いていかないでくれ。
「……ユリカ……!」
*
「……アキト?」
少女は、顔を上げた。
ベッドの上で、アキトが苦しそうに顔を歪めていた。
額には、薄く汗が浮かんでいる。
「……ユリカ……」
うわ言のように、繰り返していた。
少女は、そっとアキトの肩に触れた。
「……アキト?」
アキトの瞼が、ゆっくりと開いた。
「……ユリカ……?」
「……うん」
少女は、微笑んだ。
「どうしたの、アキト?」
アキトは、しばらく少女の顔を見つめていた。
それから、安堵したように息を吐いた。
「……よかった」
「……え?」
「……お前、いたんだな」
アキトは、小さく笑った。
「……変な夢を見たんだ」
「……夢?」
「ああ……」
アキトは、天井を見つめた。
「……俺、料理ができなくなってさ」
「…………」
「……ルリちゃんにも、もうラーメンを作ってやれなくて……」
少女の笑顔が、わずかに揺れた。
「……それに、ユリカまで……」
アキトは、言葉を詰まらせた。
「……どこかに行っちまって……」
少女は、黙って聞いていた。
「……もう、会えないんじゃないかって……」
アキトは、少女を見つめた。
その表情は、どこか幼いものだった。
「……怖かったんだ」
「…………」
少女は、そっとアキトの手を取った。
弱くなった指先。
以前のように、握り返してくれる力はない。
それでも。
少女は、いつものように笑った。
「……もう、アキトったら!」
少しだけ、明るい声を作る。
「そんなの、ただの夢だよ!」
「……そう、かな」
「そうだよ!」
少女は、アキトの手を両手で包み込んだ。
「大丈夫だよ。ユリカがついてあげるから」
アキトは、目を瞬いた。
それから、安心したように笑った。
「……そっか」
「うん!」
「……そうだよな。お前がいるもんな」
「……うん」
少女は、微笑んだ。
「ちゃんと、ここにいる。ずっと、そばにいるよ」
アキトは、ほっと息を吐いた。
「……ありがとう、ユリカ」
そして、ゆっくりと目を閉じた。
少女は、その手を握ったまま、寝顔を見つめていた。
アキトが見たという夢。
料理ができなくなり、ルリとユリカに会えなくなる夢。
それは、夢ではなかった。
少なくとも、その一部は。
アキトが実際に経験したことだった。そして今も、本物のユリカは火星の後継者に囚われている。
ルリも、アキトの帰りを待っている。
少女は、それを知っていた。
「…………」
アキトの寝顔を見つめる。
先ほどまで苦しそうだった表情は、穏やかなものに戻っていた。
自分がユリカとして笑いかけただけで。
たったそれだけで、安心して眠ってくれた。
少女は、そっと彼の髪を撫でた。
「……おやすみ、アキト」
小さく囁く。
アキトが、自分を必要としてくれる。
目を覚ましたとき、自分が傍にいることで安心してくれる。
それが、嬉しかった。
たとえ、彼が見つめているのが本当の自分ではなくても。
……ごめんなさい、ユリカさん。
少女は、眠るアキトの手を握り直した。
もう少しだけ。
もう少しだけ、この人の傍にいさせてください。
*
それから、また幾日かが過ぎた。
アキトがキッチンに立つことは、ほとんどなくなった。
調子のよい日は、ベッドの背を起こして少女の作った料理を食べる。
ときには、レシピを眺めながら調理方法を教えてくれることもあった。
けれど、以前よりも疲れやすくなっていた。
食事の途中で眠ってしまうこともある。
会話をしていても、いつの間にか目を閉じている。
少女は、そのたびに毛布を掛け直した。
ラピスも、できることを手伝ってくれた。
水を持ってくる。
必要なものを取ってくる。
アキトが目を覚ましたら、少女に知らせる。
そんな小さなことを、二人で分け合っていた。
アキトは、相変わらず穏やかだった。
自分の身体が思うように動かないことを、不思議がることはあった。
けれど、少女が疲れているのだと説明すると、それ以上は疑わなかった。
そして、いつものように笑った。
少女も、笑った。
ラピスも、傍にいた。
そうして、三人の時間は静かに過ぎていった。
*
ある夜。
アキトは、ベッドの上でぼんやりと天井を見つめていた。
少女は、その傍らに座っていた。
ラピスも、反対側の椅子に腰掛けている。
「……なあ、ユリカ」
「なあに、アキト?」
「……覚えてるか?」
「……何を?」
「……ナデシコの食堂でさ」
アキトは、少し笑った。
「お前、よく俺のところに来てただろ」
「……うん!」
少女は頷いた。
「だって、アキトの料理、おいしかったんだもん!」
「……そうだったな」
アキトは、懐かしそうに目を細めた。
「……ホウメイさんには、ずいぶん怒られたよな」
「えへへ! アキトが、私のことばっかり気にするからだよ!」
「……お前が勝手に来るからだろ」
「えーっ! ひどーい!」
少女が頬を膨らませる。
アキトは、くすりと笑った。
その笑顔を見て、少女も笑った。
懐かしい思い出。
けれど、その思い出は少女自身のものではない。
ユリカの記憶だった。
アキトが覚えているユリカとの日々。
少女は、その出来事を知っている。
何を言われたのかも、どう答えたのかも。
けれど。
今、アキトの傍にいるのは自分だった。
こうして彼の手を握り、寝顔を見守っているのも。
一緒に料理を作ったのも。
ラピスと三人で、笑い合ったのも。
それは、確かに自分自身の思い出だった。
「……ユリカ?」
アキトが、静かに呼びかけた。
「……なあに?」
「……手、握っててくれないか」
少女は、少し驚いた。
それから、優しく微笑んだ。
「……うん」
アキトの手を取る。
以前よりも、ずっと弱くなった手だった。
けれど、その温もりは変わらなかった。
「……ルリちゃんも」
アキトが、反対側へ視線を向けた。
ラピスは、小さく頷いた。
「……うん」
そして、アキトのもう一方の手を握った。
アキトは、二人を見つめた。
「……ありがとな」
小さな声だった。
少女は、微笑んだ。
「……もう、アキトったら」
少しだけ、声が震えそうになった。
「そんなこと、言わなくてもいいんだよ」
「……そっか」
アキトは、安心したように笑った。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
「……おやすみ、ユリカ」
「……うん。おやすみ、アキト」
「……おやすみ、ルリちゃん」
「……おやすみ」
ラピスが、小さく答えた。
やがて、アキトは眠りについた。
少女は、その手を握ったまま、しばらく動かなかった。
ラピスも、反対側でじっとしていた。
「……ねえ、ラピス」
少女が、小さく呼びかけた。
「……なに?」
「……アキト、今日も楽しそうだったね」
「……うん」
ラピスは頷いた。
「……料理も、おいしいって言ってくれた」
「……うん」
少女は、眠るアキトを見つめた。
「……よかった」
小さく、呟く。
ラピスは、少女の顔を見つめていた。
その表情が、どこか寂しそうに見えた。
けれど、何も言わなかった。
代わりに、アキトの手を握り直した。
少女も、そっと指に力を込めた。
アキトは、静かに眠っていた。
苦しむこともなく。
穏やかな表情で。
少女は、その寝顔を見つめながら、祈るように目を閉じた。
明日も、アキトが笑ってくれますように。
明日も、三人で一緒にいられますように。
そして、いつか。
もう一度、自分のことを思い出してくれますように。
少女は、二人の手を離さなかった。
*
夢を見ていた。
ナデシコの食堂だった。
鍋から立ち上る湯気。ホウメイたちの忙しそうな声。
『アキトーっ! 今日のご飯、なあに?』
ユリカが笑っている。
その隣には、ルリちゃんがいた。
いつものように少し呆れた顔で、それでも自分の作った料理を食べてくれた。
いつか、またラーメンを作ってあげよう。
そう思っていた。
けれど、いつの間にか、厨房は消えていた。
冷たい床。押さえつけられた身体。内側から灼かれるような痛み。
自分の舌には、もう何の味もなかった。
……ルリちゃん。
妹のような、娘のような存在。これから家族三人で幸せになれるはずだった。あの頃のように、またラーメンを作ってあげたかった。
自分の舌で確かめて、もっとおいしい一杯を。
……ごめんな。
もう、君にラーメンを作ってあげることはできない。
そして、ユリカ。
いつだって、自分を信じてくれた。
王子様みたいに、迎えに来てくれると。
けれど、自分はあいつを救い出せなかった。
黒い鎧をまとい、何度も戦ったのに。
……ごめん、ユリカ。
俺、お前の王子様にはなれなかったよ。
*
「……ルリ……ちゃん……」
ベッドの上で、アキトの唇が動いた。
少女は、握っていた手に力を込めた。
「……アキト?」
「……ラーメン……もう……作って、やれない……」
眠ったまま、誰かに語りかけている。
ラピスが、そっと顔を近づけた。
「……アキト?」
「……ユリカ……ごめん……」
少女は、息を呑んだ。
「……王子様に……なれなかった……」
かすれた声だった。
「……ルリちゃん……ユリカに……しあわ……」
そこで、言葉が途切れた。
少女は、アキトの顔を覗き込んだ。
「……アキト、聞こえる?」
ゆっくりと、アキトの瞼が開いた。
すぐそばに、薄桃色の髪の少女がいた。
……ルリちゃん。
一瞬、そう思った。
けれど。
ルリちゃんは、こんな髪の色じゃない。
金色の瞳。薄桃色の髪。
自分のラーメンを、おいしそうに食べてくれた少女。
研究施設から助け出した、あの子。
……そうだ。
「……ラピス……」
少女が、目を見開いた。
「……アキト?」
「……ラピス……」
「……ワタシのこと、わかる?」
アキトは、かすかに頷いた。
「……ああ……」
ラピスの瞳が、揺れた。
「……ごめんな……」
アキトは、息を継ぎながら続けた。
「……ずっと……ルリちゃんって……」
ラピスは、しばらく黙っていた。
自分はルリではない。
それでも、アキトと食べたラーメンも、三人で笑った日々も、確かに自分のものだった。
「……うん」
ラピスは小さく頷いた。
「……でも、楽しかった」
アキトが、ラピスを見つめる。
「……一緒に、ご飯食べた」
「…………」
「……ラーメン、おいしかった」
アキトは、かすかに笑った。
「……ありがとう……ラピス……」
震える手を持ち上げようとする。
少女が、そっとその腕を支えた。
アキトの手が、ラピスの頭に触れた。
「……幸せに……」
薄桃色の髪を、ゆっくりと撫でる。
「……なって、くれ……」
ラピスは、何も言わなかった。
やがて、震える声で答えた。
「……うん。ありがとう、アキト」
アキトは、かすかに微笑んだ。
その手が、ゆっくりと下りていく。
そして、もう一人の少女へ視線を向けた。
ユリカと同じ顔。
今は、髪も瞳もユリカと同じ色をしている。
けれど。
自分は、あの黒銀の髪と金色の瞳を知っている。
いつも傍にいてくれた、名前のない少女。
……ああ。
お前にも、言わなきゃいけないことがある。
伝えたいことが、たくさんあるのに……。
*
「……アキト?」
少女は顔を上げた。
アキトが、こちらを見つめていた。
その眼差しに、胸が高鳴った。
ラピスを、本当の名前で呼んだ。
ならば。
「……アキト。私のことも、わかりますか?」
アキトは、何も答えなかった。
ただ、じっと少女を見つめている。
それから、ほんのわずかに頷いた。
「…………っ」
少女の目から、涙がこぼれた。
「……よかった……」
ずっと、待っていた。
ユリカではない自分を、もう一度見つめてくれる日を。
「……よかった……アキト……」
アキトの唇が、動いた。
何かを言おうとしている。
少女は、顔を近づけた。
「……なあに、アキト?」
けれど、声は聞こえなかった。
もう一度、アキトの唇が動いた。
かすかな息が漏れるだけだった。
「……無理しないで。ゆっくりで、いいから」
少女は、優しく微笑んだ。
アキトは、もどかしそうに眉を寄せた。
伸ばしかけた手を、少女がそっと支える。
自分の頬へ当てた。
「……ここにいるよ。ちゃんと、聞いてるから」
指先が、わずかに動いた。
けれど、その温もりを確かめる間もなく、手から力が抜けていく。
「……アキト?」
呼吸が、浅くなっていた。
「……アキト、大丈夫?」
返事はなかった。
アキトは、まだ何かを伝えようとしていた。
少女は枕元の呼び出しボタンを押した。
「……アキト!」
彼の視線が、最後にもう一度、少女を捉えた。
唇が動く。
けれど、言葉は聞こえなかった。
ゆっくりと、瞼が閉じられた。
*
「お兄ちゃん!」
イネスが、医療スタッフとともに駆け込んできた。
アキトの状態を確認すると、すぐに処置が始まった。
少女は、ベッドから離れるよう促された。
「……待って! まだ、アキトが……!」
何かを伝えようとしていた。
自分に。
ユリカではない、自分に。
「……お願いです、先生!」
少女は、イネスを見つめた。
「……アキト、思い出してくれたんです。私のことも、ラピスのことも……!」
「……わかっているわ」
イネスは短く答え、再びアキトへ向き直った。
少女は、ラピスを抱き寄せた。
もう一度、目を開けてほしかった。
もう一度、自分を見てほしかった。
あのとき、何を言おうとしていたのか。
聞かせてほしかった。
けれど。
やがて、イネスの声が止まった。
アキトの状態を確かめ、もう一度確かめてから、静かに目を閉じる。
「……お兄ちゃん……」
少女は、顔を上げた。
「……先生?」
イネスは、振り返った。
「……ごめんなさい」
その一言で、わかってしまった。
「…………」
少女は、ゆっくりと首を横に振った。
「……そんな……」
アキトは、穏やかな顔で横たわっていた。
まるで、眠っているようだった。
少女は、ベッドへ近づいた。
「……アキト?」
返事はない。
「……ねえ、アキト。起きて」
肩に触れる。
「……もう、お休みは終わりだよ」
少女は、無理に笑おうとした。
「……今日は、何を食べたい?」
オムライスでも、ラーメンでも。
今度は、自分が作るから。
もう何度も教えてもらった。ちゃんと作れるようになった。
だから、また食べてほしかった。
「……アキト……」
少女は、彼の手を握った。
「……やっと、思い出してくれたのに……」
何を伝えようとしていたのだろう。
最後まで、自分を見つめていた。
けれど、少女には知ることができなかった。
少女にも、まだ伝えていないことがあった。
「……私ね……」
声が震えた。
「……アキトが、好き……」
返事はない。
「……愛してる……」
少女は、彼の手を握り直した。
「……聞こえた……?」
答えはなかった。
月面ネルガル本社、会長執務室。
アカツキ・ナガレは、端末に表示された報告書を眺めていた。
ユーチャリス、修復完了。
ブラックサレナ、機体整備完了。
どちらも、再び出撃できる状態にある。
だが、それらを運用していた男は、もういない。
テンカワ・アキト。
「……まったく。最後まで勝手な男だったね、君は」
アカツキは、報告書を閉じた。
アキトが亡くなってから、数日が過ぎていた。
月面ドックでは整備作業が続き、ナデシコCの建造計画も、火星の後継者に対する調査も止まってはいない。
ただ一人、テンカワ・アキトだけがいなくなった。
そのとき、机上の端末が短く鳴った。
「……おっと。そろそろかな」
アカツキが呟いた直後、机の向こうの空間が揺らいだ。
淡い光の粒子が集まり、人の輪郭を描き出していく。
光の中から、黒いマントが現れた。
「……失礼します」
聞き覚えのある、少女の声だった。
「やあ、待っていたよ。しかし、ジャンプで登場とは穏やかじゃないね。ここはネルガルの会長室なんだけど」
「……申し訳ありません」
少女は静かに頭を下げた。
アカツキは、いつもの笑みを浮かべかけて、止めた。
顔の上半分を覆う、黒いバイザー。
肩から垂れる、黒いマント。
テンカワ・アキトが身につけていたものだった。
マントの下から覗く長い髪は、ユリカを演じていたときの黒い色のままだった。けれど、そのバイザーの下に隠されているのは、ユリカ君とは違う金色の瞳だろう。
「……おやおや」
アカツキは椅子の背にもたれかかった。
「テンカワ君のモノマネかい?」
「…………」
「マントに、バイザーまで。ずいぶん気合いが入っているじゃないか」
少女は答えなかった。
「それで? よく似合っているとでも言えばいいのかな?」
「……そういうつもりでは、ありません」
「……ふうん」
冗談じゃない。
彼が死んで、まだ何日も経っていない。彼は自分にとって、ナデシコで同じ時を過ごした仲間だった。そして、自惚れでなければ、彼も自分を親友だと思ってくれていたはずだ。その親友の格好をして、いったい何をしているんだ。
アカツキは、胸の内の苛立ちを表に出さないよう、指を組み直した。
「……それで。今日は何の用かな?」
「お願いがあって参りました」
「お願い?」
「ユーチャリスと、ブラックサレナを使わせてください」
アカツキの表情が変わった。
「……何に使うつもりだい?」
「火星の後継者と戦います。ユリカさんを救い出します。そして、アキトが果たせなかったことを……」
「……なるほど」
アカツキは少女の言葉を遮った。
「つまり、テンカワ君の代わりに君が復讐を果たすというわけか」
「……はい」
「悪いけど、それは認められないね」
「…………」
「テンカワ君が死んだ今、ネルガルには君を支援するメリットがないんだよ。ユーチャリスもブラックサレナも修理は完了した。だが、どちらもネルガルの資産だ。君に渡す義理はない」
少女は黙っていた。
「ユリカ君の記憶があるそうだけど、それだけでは僕が君を支援する理由にはならない。それに、だいたい一人でどうやって戦うつもりなんだい?」
「私がユーチャリスに乗ります」
少女は迷わず答えた。
「そして、私がブラックサレナに乗るときは、ラピスがユーチャリスを動かします」
「……ラピス君を?」
アカツキの眉が動いた。
「はい。ラピスも協力すると言ってくれています。ラピスもいつもウズメと話していますからオペレーターは可能です」
「……感心しないね」
声から軽さが消えた。
「テンカワ君は、自分の意思で戦っていた。君も彼を手伝うことを望んだ。そこまではいいさ。だが、今度は君の復讐のためにラピス君を戦場へ連れていくのかい?」
「はい。私はラピスを巻き込みます」
「はっきり言うね。君は本当に、それでいいのかい?」
「ラピスも、ユリカさんを助けたいと言っています」
「そういう問題じゃないんだよ。あの子は、ようやく研究施設から助け出されたんだ。これから普通の生活を送ることだって、できるはずだろう」
「……わかっています」
「まったく。テンカワ君が聞いたら何と言うかな」
少女は答えなかった。
「君の愛した男は、そんなことを望んでいないと思うけどね」
沈黙が落ちた。
「……そうですね」
「なら――」
「私も、アキトがしたことを許せません」
アカツキは口を閉じた。
「……許せない?」
「はい。今でも、怒っています」
少女は静かに答えた。
「……あの人が、私たちを残して死んでしまったことに」
それは、先ほどと少しも変わらない声だった。
「憎いんです。アキトの夢を奪った人たちが。ラピスの心を壊した人たちが」
少女は、短く息を継いだ。
「それに、私にはユリカさんの記憶があります。アキトと過ごした日々も、ルリちゃんをどれほど大切に思っていたかも知っています」
「…………」
「私が経験したわけではないのに、思い出すと、自分のことみたいに感じるときがあります。幸せだったことも、それを奪われたことも」
少女は胸元に手を添えた。
「私自身の怒りなのか、ユリカさんの記憶に引きずられているのか、もうよくわからないこともあります。でも、ユリカさんをあんな目に遭わせて、ルリちゃんを一人ぼっちにした人たちが憎い。それは本当です」
「…………」
「だけど、今、一番怒っている相手は、火星の後継者ではありません」
「……誰だい?」
「テンカワ・アキトです」
アカツキは目を見開いた。
「あの人は、いつも自分の身体を後回しにしていました。どれだけ傷ついても平気な顔をして。自分の命を懸ければ、何もかも許されると思って……」
「…………」
「ユリカさんを救いたいことは、わかります。どれだけ大切に思っていたか、私だって知っています」
少女は顔を上げた。
「でも、アキトが死んでしまったら、どうなるんですか。残された人が、どんな気持ちになるのか、考えてくれたことがあったんでしょうか」
アカツキは答えなかった。
「……私、今でも怒っているんです。あんなふうに死んでしまったことが、どうしても許せない」
しばらく、沈黙が続いた。
「……でも、一番許せないのは、私自身なんです」
「…………」
「無理にでも止めていれば。もう戦わないでと、お願いしていれば。もっと長く生きられたかもしれない」
「……それは、誰にもわからないことだよ」
「ええ。あの時のアキトに、私の言葉が届いたかどうかなんて、わかりません」
少女は頷いた。
「でも、私は止めようともしませんでした」
「…………」
「嬉しかったんです。アキトの隣にいられることが。あの人の役に立てることが」
少女は、自分の両手を見つめた。
「最初は、それだけで幸せでした」
初めて作ったオムライス。
味のわからないアキトが、それでもおいしいと言ってくれたこと。
ラピスと三人で、他愛のない話をしたこと。
アキトが、明日も来るかと尋ねてくれたこと。
「……本当に、幸せだったんですよ」
それはユリカから受け継いだ記憶ではない。自分自身が、あの人と過ごした日々だった。
「でも、だんだん、もっと欲しくなってしまったんです」
「…………」
「ユリカさんみたいに、アキトに愛してほしかった」
アカツキは黙っていた。
「エリナさんも、イネス先生も心配してくれました。私がユリカさんを演じることを」
「……そうだろうね」
「だけど、私……まんざらでもなかったんですよ?」
少女は、わずかに口元を緩めた。
「アキトが笑ってくれるんです。好きだよって、言ってくれるんです」
「…………」
「私も、アキトが自分を好きなのは当たり前だって、言えてしまった。ユリカさんに向けた言葉だと知っていたのに」
言葉が途切れる。
「……嬉しかったんです。あのままでいてほしいって、思ってしまったんです」
少女は顔を上げた。
「ユリカさんが、羨ましかった。あんなにも愛されて、命を懸けてまで取り戻したいと願われて。私も、そんなふうに愛されたかった」
「…………」
「でも、ユリカさんは今も囚われています。どんな扱いを受けているかわかりませんが、ろくなものじゃないでしょう」
少女は静かに続けた。
「それなのに、私はアキトが自分の傍にいることを喜んでいた。……私がユリカさんだったらよかったのに」
少女は、バイザーに手をかけた。
その下から現れたのは、テンカワ・ユリカによく似た少女の顔。金色の瞳。
少女は、外したバイザーを両手に持った。
「……私は、ユリカじゃない」
金色の瞳が伏せられた。
「ユリカさんの記憶を持っているだけの、別の人間です」
「…………」
「だから、憎いんです。私をこんなふうに作った人たちが。ユリカさんの記憶を与えて、ただ自分の欲望のために利用しようとする人たちが」
そして。
「……アキトのことが、憎くて、愛しいんです」
アカツキは目を伏せた。
この少女は、ただテンカワ君の代わりになりたいわけではない。
あの男を愛した。その生き方を憎んだ。そして、傍らにいる幸福を手放せなかった自分を、誰よりも責めている。
あの男が死んで、ようやく理解したのだろう。
その感情が、愛情だけではなかったことに。
「……だから」
少女は顔を上げた。
「私は、私のために戦います。アキトの願いを叶えたい。ユリカさんを助けたい」
その声に迷いはなかった。
「大好きで、大嫌いなアキトのために」
少女は静かに告げた。
「……私は、戦います」
*
「……なるほどね」
アカツキは、深く息を吐いた。
「君の動機は、よくわかった。家族であるラピス君まで巻き込んで、自分のエゴを貫くつもりか」
「……はい」
「とんでもない頑固者だね。まったく、誰に似たんだか」
アカツキは苦笑した。
「だが、それとこれとは話が別だ。気持ちを聞いたからといって、ネルガルの資産を渡すわけにはいかない」
「……ええ。ですから、会長には私を支援していただきます」
「……ほう?」
「ネルガルにも、その方が利益になるはずですから」
アカツキの目つきが変わった。
「……聞かせてもらおうか」
「アキトが戦えなくなってから、火星の後継者もクリムゾングループも、動きを活発にしています。ネルガルは追跡を続けているようですが、潜伏拠点を突き止めるには至っていません」
「ずいぶん詳しいね」
「それに、ナデシコC」
アカツキの笑みが消えた。
「……どこで、その名前を?」
「私を何だと思っているんですか? ネルガルの内側からなら、秘匿ファイルくらいいくらでも調べられます」
「……おやおや。僕の会社の警備体制が心配になってくるね」
「ユーチャリスを造っている時点で、そこまで隠しきれるものでもありませんけど。そもそも、あれはナデシコCの先行試験艦でしょう?」
「……それで?」
「ナデシコCが完成しても、敵が完成したジャンプ網を掌握したあとでは遅いんです」
少女は、端末に触れることなく、机の上へ立体図を呼び出した。
ヒサゴプランの輸送拠点。コロニー。連合宇宙軍の駐留施設。
「火星の後継者は、ここに潜んでいます。コロニーの住民に、統合軍の将校に、地球の企業に。敵だとわかっている者ばかりではありません」
「……そのとおりだね」
「一斉蜂起を許せば、拠点を一つ取り戻しても、次の場所へ跳ばれてしまう。だから、彼らが掌握しようとしているジャンプ設備を先に使えなくします。必要なら施設そのものを止める」
「……ヒサゴプランは民間人の生活も支えているんだよ」
「承知しています。居住区や生命維持設備は対象にしません。だからこそ、ネルガルの情報網と、私の能力が必要です」
「なるほど。無差別に壊すつもりはない、というわけだ」
「最初から狙う理由はありませんよ」
少女は、淡々と答えた。
「ですが、会長が敵の蜂起を待つ方針なら、それでも構いません」
「……何?」
「でしたら、ユーチャリスの電子戦能力をもっと上げてください。コロニー全てを掌握できるところまで」
アカツキは眉を寄せた。
「……掌握して、どうするんだい?」
「中の人間なんて、どうとでもなります」
アカツキは、一瞬、返事を忘れた。
「……住民がいるんだぞ」
「はい」
「君は、住民ごと敵を封じ込めるつもりかい?」
「作戦としては成立します。……もっと簡単な方法だってありますよ」
少女は、立体図を閉じた。
「爆発物さえ用意していただければ、私はどこにでも跳ばせますから」
「……君は」
「統合軍のどこの誰が元木連出身かは、調べればわかります。接触した者や協力者をたどることもできるでしょう。クリムゾングループをはじめ、地球側の協力者も同じです」
「……待ちたまえ。元木連の軍人が全員、連中の仲間とは限らないだろう」
「もちろんです。地球人でも木連出身でも、出自なんて関係ありません。火星の後継者に与する人間なら、同じです」
「……協力した証拠のない人間もいるはずだ」
「そうですね」
「……無実の人間まで巻き込む可能性がある。それでも構わないというのかい?」
「必要なら」
少女は、何のためらいもなく答えた。
「……もっとも、そんなことはしませんけど」
「……ほう。どうしてだい?」
「そんな方法を使えば、A級ジャンパー全員が危険人物扱いされてしまいますから。イネス先生やユリカさんまで、生きにくくなってしまう」
少女は、ほんの少し困ったように笑った。
「それは困ります。だから、しません」
「…………」
「人が死なない方法の方がいいのは、わかっています。ですが、それだけを理由に作戦の選択肢を捨てるつもりもありません」
アカツキは少女を見つめていた。
この子は、自分が何を口にしているのか理解している。
地球人か、木連出身か。そんなことは、彼女にとって重要ではないのだ。
自分の目的を果たせるかどうか。
そのためなら、関係のない人間の命さえ、計算に織り込むことができる。
誰が死ぬのか。どれほどの犠牲が出るのか。
それを理解したうえで、ためらいを見せない。
つい先ほどまで、テンカワ君が自分の命を粗末にしたことを、あれほど許せないと語っていた少女が。
アカツキは、ふと背筋に寒気を覚えた。
考えてみれば、とんでもない娘だ。
ミスマル・ユリカ譲りの頭脳と、A級ジャンパーとしての能力。さらには、ホシノ・ルリにも匹敵する電子戦能力まで持ち合わせている。
ネルガルが総力を挙げて開発した戦艦を、ほとんど一人で操ることさえできる。
そんな少女が、たった一人の男への愛情に囚われている。
……やれやれ。
テンカワ君。
ユリカ君といい、この娘といい、君はどうしてこうも、とんでもない女性に好かれるのかねえ。
思わず、苦笑が漏れそうになった。
ユリカ君も、相当に一途な女性だった。
思い込みは激しく、行動力は人一倍。幼い頃からテンカワ君を追いかけ続け、戦艦の艦長になってからも、その想いは少しも揺らがなかった。
あの娘に振り回された者は、数え切れない。
だが、目の前の少女は、また別の意味で厄介だった。
その優れた能力もたった一人への愛と復讐のために使われようとしている。
しかも、彼女は冷静だった。
悲しみに取り乱しているわけでも、怒りに我を忘れているわけでもない。
自分の要求が何を意味するのか、誰よりもよく理解している。
理解したうえで、それを選んでいるのだ。
アカツキは、改めて目の前の少女を見つめた。
彼女は、テンカワ君とはまるで違う。
テンカワ君は、大切な人を守るために、自分の命を削った。
この少女は、大切な人への想いを果たすためなら、他人の命さえ犠牲にできる。
戦い方も、考え方も違う。
けれど。
自分の願いのために、命の重さを勝手に決めてしまう。
その危うさだけは、恐ろしいほどよく似ていた。
……まったく、テンカワ君。
君は、実に厄介な娘を遺していってくれたものだねえ。
アカツキは、深く息を吐いた。
少女の能力を利用することはできる。
だが、彼女を思いどおりに動かせるかと問われれば、答えは違う。
彼女には、彼女自身の目的がある。
そして今、その目的を思いとどまらせることのできたかもしれない男は、もうこの世にいない。
アカツキは、ようやく理解した。
目の前の少女が恐ろしいのは、その能力だけではない。
それほどの力を持ちながら、今はただ、失った男への愛と復讐のために、そのすべてを使おうとしていることだった。
「……君は、テンカワ君よりよほど恐ろしいことを考えるんだね」
「……そうでしょうか?」
少女は静かに問い返した。
「私は、アキトのように、大切な人を失いたくないだけです」
アカツキは、椅子から少し身を乗り出した。
「……いいかい。今の提案をネルガルが承認することはない。無実の人間を殺すことも、民間人をまとめて人質にすることも認めない」
「……はい」
「それで、僕が君に艦を預けると、本気で思っているのかい?」
「会長は、私の能力が必要なはずです」
「……まったく、恐れ入るよ」
アカツキは、短く笑った。
「だが、君に勝手な作戦をさせるつもりもない。僕が認めるのは、ヒサゴプランの敵拠点を調べ、正当な目標を限定して妨害する計画だけだ」
「……承知しました」
「作戦はこちらで必ず目を通す。艦の補給も整備も僕らの責任だ。君がその約束を破るなら、支援を打ち切る」
少女は少し考えて、頷いた。
「それで構いません。私は会長と争いたいわけではありませんから」
アカツキは、少女を見つめた。
信用できるのか。
少なくとも、今の彼女の言葉を、そのまま信じるわけにはいかない。
だが、彼女の能力なしに敵のジャンプ網へ対抗するのも難しい。自分たちが彼女を使おうとしていることも、否定できなかった。
「……もう一つ、条件がある」
「何でしょう?」
「君たちは、ちゃんと帰ってくること。君も、ラピス君もだ」
少女は、わずかに視線を伏せた。
「……はい」
「返事だけなら、テンカワ君だってしたんだけどね」
「……必ず、帰ってきます」
アカツキは、しばらく少女を見つめた。
それから、机の引き出しを開いた。
小さな金色の起動キーと、艦長用のカードキーを取り出す。
「預かっていたものだよ。ユーチャリスの艦長登録を、テンカワ君から書き換えるためのものだ」
少女の視線が、キーに向けられた。
「条件付きだけど、君を新しい艦長に任命しよう」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早いよ。なにしろ、君を自由にする気はないんだから」
「……それでも、十分です」
アカツキは、カードキーを手に取った。
「……そういえば。登録には名前が必要なんだ」
少女は顔を上げた。
「いつまでも実験番号というわけにもいかないだろう。どうする?」
名前。
アキトが、一緒に考えようと言ってくれたもの。
けれど、その約束が果たされることはなかった。
少女は、手の中の黒いバイザーを見つめた。
あの人が、何もかもを捨てて身にまとった黒い鎧。
愛する人を取り戻すために、戦い続けた証。
そして今、自分が継ごうとしているもの。
「……サレナ」
アカツキが、目を瞬いた。
「……サレナ?」
「はい」
少女は静かに答えた。
「それが、私の名前です」
アカツキは、しばらく彼女を見つめていた。
「……ブラックサレナ、か」
少女は頷いた。
「自分の名前すら、愛した男が復讐のために使った機体から取るのかい?」
「……ええ」
少女は、手の中のバイザーへ目を落とした。
「……恋、呪い、復讐」
ぽつりと呟いた。
「……私みたいな女に、ぴったりでしょう?」
アカツキは、何も言わなかった。
ただ、カードキーを少女へ差し出した。
少女は、それを受け取った。
*
地球、ミスマル家の墓所。
静かな墓地に、二人の少女が立っていた。
黒い喪服に身を包み、ヴェールで顔を隠したサレナ。
その傍らには、白いワンピースを着た、薄桃色の髪の少女がいた。
二人は先ほど、墓地へ続く石段で一人の男性とすれ違っていた。
サレナは思わず足を止め、その後ろ姿を見送った。けれど、声をかけることはできなかった。
ラピスは、抱えていた白い花束を墓前に供えた。
墓石の傍らには、一基の墓誌が立っている。
そこには、二人の名前が刻まれていた。
ミスマル・ユリカ。
テンカワ・アキト。
ラピスは、しばらくその文字を見つめていた。
「……ねえ」
「なあに、ラピス?」
「……どうして、ここに来たの?」
サレナは、墓誌へ目を向けた。
「……アキトに、報告したかったの」
「……報告?」
「うん。これから私たちが何をするのか、ちゃんと伝えておきたくて」
サレナは、そっと墓誌に触れた。
「……ここはね、アキトとユリカさんが亡くなったと思っていた人たちが、二人のためにお参りするお墓なの」
「……でも、二人とも生きてた」
「……うん」
サレナは、小さく頷いた。
「ここに名前が刻まれていた間も、アキトはずっと戦っていたの。ユリカさんを助けるために」
指先で、刻まれた名前をなぞる。
「……だけど、今は」
そこで、言葉が途切れた。
ラピスは、黙ってサレナを見上げていた。
「……アキト、ここにはいないよ」
「……そうだね」
サレナは、静かに頷いた。
「アキトの身体は、月にあるものね」
アキトの遺体は、今もネルガルの月面施設にあった。
イネスの手によって、冷凍保存されている。
荼毘に付すことは、選べなかった。
ルリも、ユリカも。
まだ、アキトにちゃんとお別れをしていない。
すべてが終わったら、二人にも真実を伝えなければならない。
アキトが生きていたことも。ずっと、戦い続けていたことも。
そして、今度こそ本当に亡くなってしまったことも。
二人には、ちゃんとお別れをさせてあげたかった。
……それに。
自分自身も、まだアキトと別れたくなかったのだ。
「……でもね、ラピス」
サレナは、墓誌から手を離した。
「ここにアキトの身体はないけれど、魂は、きっとここにもあると思うの」
「……魂?」
「うん。アキトを大切に想っていた人たちが、ここに来て、アキトのことを思い出すでしょう?」
サレナは、墓石へ目を向けた。
「もう会えなくても、こうして話しかけたり、一緒に過ごした時間を思い出したりできる。そんな場所があることは、きっと大切なんだと思う」
「…………」
「残された人の悲しみが、すぐに癒えるわけじゃないけれど……いつか、少しずつ、受け入れられるようになるのかもしれないね」
ラピスは、静かに墓誌を見つめていた。
「……アキト、聞いてるかな」
「……うん」
サレナは、微笑んだ。
「きっと、聞いてるよ」
ラピスは、小さく頷いた。
それから、墓前に供えた花束の位置を、少しだけ直した。
「……また、来るね」
サレナも、その隣にしゃがみ込んだ。
テンカワ・アキト。
墓誌に刻まれた名前を、もう一度見つめる。
初めて料理を作ったこと。
ラピスと三人で、食卓を囲んだこと。
何でもないことで笑い合ったこと。
最後に、自分を見つめてくれたこと。
あのとき、アキトは何を伝えようとしていたのだろう。
結局、聞くことはできなかった。
自分にも、まだ伝えたいことがたくさんあったのに。
「……アキト」
小さく、その名を呼んだ。
「……私、行ってくるね」
返事はなかった。
ただ、静かな風が吹き抜け、供えた白い花がかすかに揺れた。
*
サレナは、墓地へ続く石段を振り返った。
先ほど、ここへ来る途中にすれ違った男性の姿が、脳裏に浮かんだ。
ミスマル・コウイチロウ。
ユリカの父親。
受け継いだ記憶の中の彼は、早くに母を亡くした娘を寂しがらせまいと、精一杯の愛情を注いでくれた父親だった。
実際に会った彼は、記憶の中とほとんど変わらなかった。
ただ、その目だけは。
ひどく寂しそうだった。
あの人は、今も二人が亡くなったと思っている。
愛する娘も、その夫も。
二度と帰ってこないものだと。
サレナは、そっと目を伏せた。
……ごめんなさい。
お父様。
そう呼びかけそうになって、思いとどまる。
自分は、ユリカではない。
あの人の娘ではないのだ。
たとえ、記憶の中にどれほど温かな思い出があっても。
自分が、その愛情を受け取ってよいわけではない。
……ごめんなさい、ミスマル提督。
いつか、あなたにも本当のことを伝えなければなりません。
アキトが、あの事故のあとも生きていたこと。
ユリカさんを助けるために、ずっと戦っていたこと。
そして。今度こそ、本当に亡くなってしまったことを。
あの人の代わりに、必ずユリカさんを助け出します。
そして、あなたのもとへ帰します。
……だから、どうか。
もう少しだけ、待っていてください。
サレナは、墓前に向き直った。
墓誌には、二人の名前が並んでいる。
けれど、そのうちの一人は、まだ生きているのだ。
いつか、ユリカが帰ってきたとき。
ここに来て、アキトにちゃんとお別れができるように。
その日まで、この場所を守っていたかった。
「……行く?」
隣で、ラピスが尋ねた。
「……うん」
サレナは、小さく頷いた。
「帰ろうか、ラピス」
差し出された小さな手を、そっと握る。
二人は、ゆっくりと石段へ向かった。
サレナは、一度だけ振り返った。
墓誌の傍らには、白い花束が供えられている。
あそこに、アキトの身体はない。
黒いヴェールの下で、サレナは静かに目を閉じた。
そして、ラピスの手を握り直すと、再び歩き始めた。
回想編はこれで終了です。
今回は、劇場版のユリカとアキトを対比する形で描いてみました。
劇場版では、ユリカはアキトとの幸せな夢を見せられていました。一方、本作では、ユリカを救うために戦い続けたアキト自身が記憶を失い、今度はユリカと過ごす幸せな日々の中で生きることになります。
ユリカはアキトのお願いを拒否しない。そして、アキトはユリカの言葉に疑問を抱かない。そんな対比を意識して描写しました。
そして、ようやく名前が決まったユリカクローン。
ユリア、ユーリ、コハクなど、いろいろ知恵を絞り、いっそ名無しのまま突き進むことも考えましたが、結局「サレナ」に落ち着きました。
エリナさんとも語感が似ているし、これでいいよね、と。安直ながらも決定しました。
一応、次回で劇場版編は完結予定です。