冷たい。どこまでも冷たい水の中を、漂っていた。
目を開けているのか、閉じているのかもわからない。ぼんやりとした視界の向こうに、白い光が見える。
私は、巨大なガラスの容器の中にいた。試験管。そう呼ぶにはあまりにも大きな、透明な筒の中。
隣にも、ガラスの容器が並んでいた。
一つ。
二つ。
もっとたくさん。
中には、人の形をしたものが浮かんでいた。けれど、そうでないものもあった。
顔も、手足も見えない、小さな容器。何本もの管につながれた、形のよくわからないもの。
それらが何なのか、その時はわからなかった。
身体を動かそうとしても、指先ひとつ思うようにならない。どれくらい、ここにいるのだろう。
1日か1か月かそれとももっと長い時間か。
考えようとしても、頭の中に白い靄がかかったようで、うまく思い出せない。
ただ、眠かった。何も考えず、このままずっと眠っていたかった。どうせ目が覚ましても待っているのは『実験』だから。
――けたたましい警報音が鳴り響いた。
何が起きたのだろう。ぼんやりとした視界が、赤く染まる。天井で回転するサイレンランプ。
白かった部屋が、赤く、暗く、また赤く照らし出される。
誰かの怒鳴り声が聞こえた。
足音。いくつもの足音が、こちらへ近づいてくる。
私は、重たい瞼を持ち上げた。ガラスの向こうに、人影が見える。
いつもの白衣の男達に加えて、三度笠を被った男たち。一人、二人。
男たちが、試験管のすぐそばまで近づいてきた。そのうちの一人が、こちらへ手を伸ばす。
――嫌。
声にならない叫びが、喉の奥で消えた。その瞬間。
黒い影が、視界を横切った。男たちと、私の間に割って入る。
長い黒いマント。顔を覆う、無機質なバイザー。
その人は、私に背を向けて立っていた。
何かが光って、乾いた音が、立て続けに響く。
あの人は、私を守ってくれている。
どうしてだろう。
そう、それはまるで、『王子様』みたいな――――――
*
「……っ!」
目を開けた。目の前に、見慣れた天井があった。
赤い警告灯も、耳をつんざく警報音も、聞こえない。
代わりに、かすかな電子音と、空調装置の低い唸りが聞こえていた。
ゆっくりと身体を起こす。そこは、ユーチャリスの艦橋だった。
艦長席に座ったまま、どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
夢。
そう、夢を見ていたのだ。
昔のことを。
「……ダイジョウブ?」
すぐそばから、小さな声が聞こえた。
顔を上げる。ラピスが、私を見つめていた。
いつもの無表情に見えるけれど、その瞳には、かすかな心配の色が浮かんでいる。
私が目を覚ますまで、ずっとそばにいてくれたのだろうか。
「……うん。大丈夫だよ」
私は笑ってみせた。ラピスは、じっとこちらを見ている。
「ちょっと、夢を見てただけ」
「……ユメ?」
「そう。昔の夢」
小さく息を吐いた。ラピスが、わずかに首を傾げる。
「……ダイジョウブ?」
もう一度、同じことを聞いてくる。私は思わず笑ってしまった。
「もう。大丈夫だってば」
今度は、そっとラピスの頭に手を伸ばした。柔らかな髪を撫でる。
ラピスは何も言わず、されるがままになっていた。
「心配かけちゃったね」
「……ウン」
「……ねえ、ラピス」
「ナニ?」
私は、もう一度微笑んだ。
「また、力を貸してね」
ラピスは、しばらく私を見つめていた。そして、小さく頷いた。
「……ウン」
「ありがとう」
私は、正面に向き直った。スクリーンの向こうでは、無数の星が静かに瞬いている。
もう一度、目を閉じた。瞼の裏に、黒いマントが翻る光景が浮かんだ。
――今度は、私の番だから。
私は、心の中でそう呟いた。
*
ターミナルコロニー、アマテラス。
それはヒサゴプランの中枢を担う、巨大な宇宙施設だった。
幾重にも重なった居住区画。無数の輸送用ドック。そして、各方面へ伸びるボソンジャンプ航路。
地球と木星の和平によって生まれた、新しい時代の象徴。
人々は、この施設があれば、宇宙のどこへでも自由に行けるようになると信じていた。
その巨大なコロニーへ、一隻の白い艦が接近していた。
試験戦艦ナデシコB。かつて火星戦争で活躍したナデシコの名を受け継ぐ、新世代の戦艦である。
『こちらアマテラス管制センター。ナデシコBの入港を許可します』
「ありがとうございます」
艦長席に座るホシノ・ルリ少佐が、静かに答えた。
「ハーリーくん、管制システムへ接続してください」
「了解!」
マキビ・ハリ、通称ハーリーがコンソールを操作する。
ナデシコBの航行データが、アマテラスの管理システムへ接続された。巨大な施設の誘導灯が、順に点灯する。
「……それにしても」
高杉サブロウタが、背もたれに身体を預けた。
「随分立派なところだねえ」
「ヒサゴプランの中枢施設ですから」
ルリが答えた。
「設備だけなら、現在の地球圏でも最大級でしょう」
「へえ。じゃあ、きっとお偉いさんもたくさんいるんだろうね」
「……そうですね」
ルリは頷いた。
「少し、面倒かもしれません」
サブロウタが笑う。
「おや、艦長がそんなこと言うなんて珍しい」
「事実ですから」
「相変わらずだねえ」
ハーリーは、二人の会話を聞きながら、少し心配そうな顔をした。
「……あの、本当に査察できるんでしょうか」
ルリは、画面から目を離さずに答えた。
「多分すぐ追い返されると思います。でも、できるようにします」
その言葉に、サブロウタが口笛を吹いた。
「頼もしいねえ」
メインスクリーンには、アマテラスの全景が映し出されている。数え切れないほどの輸送船が、その周囲を行き交っており、一見すると平和な光景だった。
シラヒメを含む四つのターミナルコロニーで発生した、原因不明の爆発事故。
そして、アオイ・ジュン中佐が目撃した、黒い機動兵器。
それらが単なる偶然とは、ルリには思えなかった。
「……ハーリーくん」
「はい!」
「入港後、司令部へ向かいます。調査資料を準備しておいてください」
「了解しました!」
ナデシコBは、ゆっくりとアマテラスのドックへ進入していった。
*
アマテラス中央司令部。
「何だ、貴様らは!」
部屋に入った途端、怒鳴り声が響いた。正面の机に座っていたのは、アズマ准将だった。
アマテラスの防衛と管理を統括する人物で、その顔は、すでに不機嫌そうに歪んでいた。
「地球連合宇宙軍、ホシノ・ルリ少佐です」
ルリは、落ち着いた声で名乗った。
「同じく、高杉サブロウタ中尉です」
隣に立つサブロウタが、軽い調子で敬礼する。
「マキビ・ハリ少尉です!」
ハーリーも慌てて姿勢を正し、敬礼した。
「本日は、ターミナルコロニー連続爆発事件の調査のため参りました」
「調査だと?」
アズマは、不機嫌そうに眉をひそめた。
「宇宙軍が勝手に何を調べようというのだ!」
「正式な調査命令を受けていますが」
ルリは、持参した端末を差し出した。
「シラヒメを含む四つのターミナルコロニーで、原因不明の爆発事故が発生しています。その際、通常では説明できないボース粒子反応が観測されています」
「そんなことは知っておる!」
「では、施設の安全性を確認する必要があることも、ご理解いただけると思います」
「管理体制に問題はない!」
「そうであれば、査察にも問題はないはずですが」
アズマは、言葉を詰まらせた。隣では、ハーリーが緊張した面持ちで立っている。一方、サブロウタは、どこか楽しそうだった。
「……この小娘が」
アズマが忌々しそうに呟いた。
そのとき、部屋の奥から別の男が現れた。
「まあまあ、准将」
柔らかな声だった。細身の男。白衣の上に、研究機関の識別証をつけている。
ヤマサキ・ヨシオ。
「ホシノ少佐のおっしゃることにも、一理あります」
ヤマサキは、穏やかに微笑んだ。
「しかし、この施設には機密性の高い研究区画も多数あります。すべてを自由に調査していただくわけにも参りません」
「もちろん、理解しています」
ルリは頷いた。
「まずは公開区画から確認いただくのはどうでしょう?」
「ふん。公開区画だと?」
アズマは、何かを思いついたように口元を歪めた。
「それなら、ちょうどいい」
「……?」
*
司令部の廊下。
「……艦長、本当にいいんですか?」
ハーリーが、心配そうに尋ねた。
「子供たちと見学会なんて、調査にならないんじゃ……」
「そうですね」
ルリは、あっさりと答えた。
「えっ?」
「だから、別の方法で調べてください」
ハーリーは、数秒間黙った。そして。
「……まさか」
「お願いしますね、ハーリーくん」
「ハ、ハッキングですか!?」
ルリは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ほかに方法はありませんから」
「で、でも!」
ハーリーが慌てる。
「正式な許可のない施設へのアクセスは、軍規違反になりませんか!?」
「そうですね」
「そうですね、って!」
「ばれなきゃ大丈夫ですし、責任は私が取ります」
ルリは、落ち着いた声で答えた。
「見つからないように頑張ってください。これまでの連続爆破事件情報」
困惑するハーリーの肩を、サブロウタが軽く叩いた。
「ま、そういうことだね。艦長、こっちは任せてよ」
「サブロウタさん、よろしくお願いいたします」
ルリは、小さく頷いた。
「サブロウタさんは、艦の指揮をお願いします」
「了解」
「では、私は見学に行ってきます」
そう言って、ルリは二人と別れた。
その背中を見送りながら、ハーリーが小さくため息をつく。
「……本当に大丈夫なんでしょうか」
「さあねえ」
サブロウタは、楽しそうに笑った。
「とりあえず、オレたちは艦に戻ろうか」
*
アマテラス、一般見学区画。
「はーい! みなさーん、こんにちはー!」
明るい女性の声が響いた。子供たちの前に立っていたのは、アマテラスの見学ガイドを務めるマユミだった。
その隣には、ヒサゴプランのマスコットキャラクター、ヒサゴンの姿もある。
『こんにちはー!』
子供たちが、元気よく答える。
「それでは、これからアマテラスの見学ツアーを始めまーす!」
マユミは、笑顔で手を振った。
「今日は特別ゲストも来てくれていまーす!」
マユミがルリへ手を向ける。
「史上最年少の天才美少女艦長、ホシノ・ルリ少佐でーす!」
子供たちから歓声が上がった。
「よろしくお願いします、ぶい」
ルリは、小さく挨拶した。子供たちは、興味津々といった様子で彼女を見つめている。
「お姉ちゃん、本当に艦長なの?」
「はい」
「何歳?」
「十六歳です」
「えーっ!」
子供たちが、驚いた声を上げた。ルリは、いつもと変わらない表情でそれを見ていた。十六歳の少女が、子供たちの見学ツアーに参加している。しかも、軍服姿で。
事情を知らない者が見れば、奇妙な光景だった。しかし、ルリは気にしなかった。
彼女にとって重要なのは、施設内部を確認することだった。
「それじゃあ、みんな! 出発するよー!」
マユミの声に、子供たちが一斉に歩き出す。
ヒサゴンが、その後ろで愛嬌を振りまいていた。
ルリも、子供たちと一緒に歩き始めた。
*
ナデシコB、艦橋。ハーリーは、コンソールへ向き直った。
アマテラスの公共管理システム。施設の配置図。交通管制。そして、研究区画へのアクセス権限。
それらを一つずつ確認していく。
ナデシコBに搭載された高性能コンピューターは、アマテラスの管理システムへ膨大な照会を送り始めた。
「……変だな」
ハーリーは、眉をひそめた。
「どうした?」
サブロウタが尋ねる。
「施設配置図の一部が、どうしても一致しないんです」
公開されている構造図では、中央区画の奥に大きな空白がある。
しかし、電力消費と空調設備の配置から考えると、そこには何かが存在しているはずだった。
「……隠し区画?」
ハーリーは、別の管理データを呼び出した。
すると、さらに奇妙なものが見つかった。
第二の制御系統。
公式の管理システムとは別に動作している、独立したコンピューター。
通常の研究施設なら、予備の制御装置を設けることは珍しくない。
しかし、このシステムは違った。公共設備の制御権限を持ちながら、その存在そのものが施設図から削除されている。まるで、表向きの管理システムを隠れ蓑にしているかのようだった。
「……サブロウタさん」
「ん?」
「これ、普通の施設管理システムじゃありません」
サブロウタは、画面を覗き込んだ。
「へえ。何か隠してるってこと?」
「たぶん……」
ハーリーは、慎重に接続を試みた。複雑な認証コード。何重もの暗号。それらを迂回し、内部情報の一部に到達する。表示されたのは、研究記録だった。
ボソンジャンプ。A級ジャンパー。神経接続実験。適合率。そして、人間の脳神経の複雑な制御図。
「……人体実験?」
ハーリーは、思わず呟いた。こんなものが、なぜアマテラスにあるのだろう。そのときだった。
コンソールの画面が、一瞬暗くなった。
「……あれ?」
次の瞬間。小さなウィンドウが現れた。そこには、ただ一つの単語が表示されていた。
OTIKA
「……何だ、これ?」
ハーリーは、ウィンドウを閉じようとした。しかし、閉じられない。別の画面にも、同じ文字が現れた。
さらに、もう一つ。また一つ。
瞬く間に、すべてのモニターが同じ文字で埋め尽くされていく。
OTIKA。
OTIKA。
OTIKA。
「……ちょ、ちょっと!」
ハーリーは、慌てて接続を切断しようとした。しかし、操作を受けつけない。
「サブロウタさん!」
「おっと、これは穏やかじゃないねえ」
サブロウタは、メインスクリーンを見上げた。
「艦長に連絡して。こっちでも対処する」
「はい!」
ハーリーは、急いで通信回線を開いた。
*
アマテラス、一般見学区画。
「はーい! こちらが最新のジャンプ航路制御装置になりまーす!」
マユミが、明るい声で説明していた。
巨大な装置を前に、子供たちが歓声を上げる。ヒサゴンも、大げさな身振りで装置を指し示していた。
ルリは、その説明を聞きながら、施設の中央部を見つめていた。
ハーリーが調査を始めてから、しばらく経っている。今のところ、連絡はない。
そのときだった。
突然、けたたましい警報音が鳴り響いた。
「えっ?」
「なになに?」
子供たちが一斉に顔を上げる。
案内モニターが暗転し、赤い警告表示が浮かび上がった。
続いて、空中に一枚のウィンドウが現れた。
そこには、奇妙な文字列が表示されていた。
――OTIKA。
次の瞬間、ウィンドウが増えた。
一枚、二枚。
十枚、二十枚。
それは瞬く間に見学区画全体へと広がり、通路も壁面も、無数のウィンドウで埋め尽くされていった。
OTIKA。
OTIKA。
OTIKA。
「きゃーっ!」
「何これー!」
「すげー! いっぱい出てきた!」
子供たちが騒ぎ始めた。
アマテラスのいたるところで、警報が鳴り続けている。
通路を歩いていた職員たちも足を止め、突然現れたウィンドウを見上げていた。
施設全体の情報表示システムが、何者かに乗っ取られたかのようだった。
「み、みなさーん! 落ち着いてくださーい!」
マユミが懸命に声を張り上げる。
「危ないですから、走らないでくださーい!」
しかし、子供たちは聞いていない。
「こっちにもある!」
「触ったら消えるかな?」
「わーっ!」
ますます騒がしくなる見学区画。
その傍らで、ルリは浮かび続けるウィンドウを見つめていた。
「……ハーリーくん、ドジった?」
小さく呟き、通信回線を開く。
『ち、違いますよ! 僕じゃありません!』
即座にハーリーの声が返ってきた。
『こっちも大変なんです! 勝手にウィンドウが増殖して、もう手がつけられなくて!』
「そうですか」
ルリは落ち着いて答えた。
「何が起きているんです?」
『それが……アマテラスのコンピューター同士が、喧嘩をしているみたいなんです』
「喧嘩?」
『はい。調べてみたら、アマテラスには公式の設計図にない制御システムが存在していました』
ハーリーは、慌ただしくコンソールを操作する。
『そいつが突然動き出して、アマテラスの通常システムに割り込んでいるんです。まるで、自分の存在を訴えているみたいに!』
「……発信元は?」
『中央区画の奥です。どうも、管理コンピューターとつながっているようなんですけど……』
『でも、おかしいんです。アマテラスの管理コンピューターは、そのシステムを認識していないんです。存在しないはずのコンピューターが、施設全体を使って何かを伝えようとしているみたいで……』
ルリは、周囲に目を向けた。
空間を埋め尽くすウィンドウ。
そこには、相変わらず同じ五文字が表示され続けている。
OTIKA。
OTIKA。
OTIKA。
その一枚が、ゆっくりと回転した。
ルリは、ふと目を細めた。
文字列が、裏返しになる。
「……アキト?」
ルリの表情が変わった。
『艦長?』
「ハーリーくん、ナデシコBの出港準備を始めてください」
『えっ? どうしてですか?』
「私も、すぐに戻ります」
ルリは踵を返し、見学区画の出口へ向かって走り出した
『か、艦長!?』
ハーリーの声が追いかけてくる。
『どうしたんですか!? 艦長!』
「敵が来ます!」
『ええっ!?』
ハーリーが素っ頓狂な声を上げた。
『敵って、いったいどこから!?』
ルリは答えなかった。ただ、足を速めた。アマテラスを埋め尽くす警報は、まだ鳴りやまない。
そして、その頃。アマテラス外周宙域では、静かにボース粒子濃度が上昇し始めていた。