地球連合宇宙軍、総司令部。
会議室の中央に、巨大な立体映像が浮かび上がっていた。
ヒサゴプランによって建設された、地球と木星を結ぶ長大な輸送網。その各所で、赤い警告表示が点滅している。
「……以上が、現在までに確認された被害状況です」
ルリが説明を終えた。
会議室には、ミスマル・コウイチロウをはじめとする将校たちが集まっている。その中には、旧木連出身の秋山ゲンパチロウの姿もあった。
「火星の後継者、か……」
コウイチロウが低く呟いた。アマテラスを襲撃した謎の黒い機体。
施設内部に隠されていた第十三番ゲート。
そして、古代火星遺跡を掌握したと宣言する草壁春樹。
事態は、もはや一連のコロニー襲撃事件という範囲に収まらなくなっていた。
「厄介ですな」
秋山が腕を組んだ。
「敵はボソンジャンプによって、こちらの防衛線を自在に突破できます。通常の艦隊戦では、戦力を集中させることすら難しいでしょう」
「……それだけではありません」
ジュンが、新たな資料を表示する。
「統合軍内部にもクーデターに同調する動きがあり、その3割が離反…。今後どこまでどこまで拡大していくか
…」
会議室に、重苦しい沈黙が落ちた。
「……草壁という男は、何を考えておるのだろうな」
コウイチロウの問いに、秋山はしばらく考え込んだ。
「理想でしょうな」
「……理想?」
「旧木連の掲げた正義。そして、それを実現できなかった和平への失望。草壁は今も、自分たちが正しいと信じているのでしょう」
秋山は、静かに続けた。
「問題は、自分にとっての理想が、他人にとっても理想であると固く信じていることです」
コウイチロウは黙っていた。
「正義を信じることと、正義を押しつけることは違います。まして、そのために人の命を弄ぶようでは……」
秋山は、そこで言葉を切った。
「……うむ」
コウイチロウは、目を閉じた。
三年前。
地球と木星は、ようやく長い戦争を終わらせた。
多くの犠牲を払い、ようやく手にした平和だった。
それを再び失うわけにはいかなかった。
「……ネルガルとの調整は?」
「すでに進めております」
ジュンが答える。
「そうか」
コウイチロウは、ゆっくりと目を開いた。
「ルリ君にはネルガル地球支部へ向かってもらう。そこで新型戦艦の受領手続きと、人員の選定を急いでくれ」
「……新型?」
コウイチロウは頷いた。
「うむ」
その顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
「ルリ君にとっては、また、少々騒がしくなるかもしれないがね」
*
地球。火星の後継者による宣戦布告を受け、連合軍は新たな作戦の準備を進めていた。
ネルガル重工が建造した最新鋭艦、ナデシコC。
その乗組員として白羽の矢が立ったのは、かつてのナデシコのクルーたちだった。
もっとも、三年という月日は、誰に対しても平等に流れている。
昔の仲間たちも、今ではそれぞれの生活を送っていた。
*
「うわあああっ! 締切があああっ!」
アマノ・ヒカルは、漫画家になっていた。かつてのエステバリスパイロットも、今では締切に追われる売れっ子漫画家である。
「ルリちゃん! お願い、あと十二ページ!」
「……勧誘に来たんですけど」
「分かってる! 分かってるから手伝ってええっ!」
結局、ルリたちは原稿の完成を手伝うことになった。ルリが背景を描き、サブロウタがベタを塗り、ハーリー食事を作る。
こうして、思いがけない共同作業の末、ヒカルからは無事に乗艦の承諾を得た。
*
一方、その頃。
プロスペクターは、繁華街の一角にある『BAR花目子』を訪れていた。
賑やかな通りから一本入った路地裏。控えめな看板を掲げたその店は、周囲の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
重厚な木製の扉を開くと、カラン、と小さなベルが鳴る。
薄暗い店内には、古いジャズが静かに流れていた。磨き上げられたカウンター。琥珀色の酒瓶が並ぶ棚。そして、その向こうに佇む一人の女性。
「……久しぶりね」
グラスを磨いていた手を止め、マキ・イズミが顔を上げた。
「お久しぶりでございます、イズミさん」
プロスペクターはいつもの営業用の笑みを浮かべ、帽子を取って一礼した。
「……今日は、お客さん? それとも、お仕事?」
「残念ながら、後者でございます」
「……そう。残念」
さほど残念そうでもない声で、イズミは呟いた。
開店直後で客はまだいない。プロスペクターはカウンター席に腰を下ろすと、鞄から一冊の資料を取り出した。
表紙には、ネルガル重工の社章と、新造戦艦の名が記されている。
――ナデシコC。
イズミはその文字をじっと見つめた。
「……ナデシコ?」
「はい。現在、ネルガルが建造しております最新鋭の戦艦でございます。つきましては、ぜひイズミさんにも――」
「……また、宇宙?」
「はい」
「……そう」
イズミはそれきり黙り込んだ。
その視線が、ふと壁へと向けられる。
そこには、一枚の古い写真が飾られていた。
かつてのナデシコのクルーたちが、揃って笑っている写真。
もう二度と戻らない日々。
もう二度と、全員で撮ることのできない写真。
イズミはしばらくそれを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……わかったわ」
「お引き受けいただけますか?」
「……ええ。しばらくお店は臨時休業ね」
「ありがとうございます。イズミさんなら、そう仰ってくださると信じておりました」
「……でも、せっかくだから、一杯飲んでいって」
「おや、それはありがたい。では、お言葉に甘えまして」
イズミは棚からグラスを取り出し、氷を落とした。
カラン。
澄んだ音が、静かな店内に響く。
そこへ琥珀色の液体を注ぎながら、イズミはぽつりと呟いた。
「……ナデシコAから、ナデシコC……」
「はい?」
「……AからC……」
イズミは何やら考え込んでいる。
「……えー、から、しー……」
不意に、イズミの口元が緩んだ。
「……ナデシコAからC、何が変わった?」
「はて。性能面では大幅な改良が施されておりますが……」
「……料理が辛くなった」
「……はい?」
「……AからC。え、カラシー……」
沈黙。
プロスペクターは、差し出されたグラスを受け取る途中の姿勢で固まった。
イズミは満足そうに目を細める。
「……えへ」
どこからともなく、小さなウクレレが取り出された。
ポロン。
「……えへへへへ……」
ポロロン。
「……大和カラシコ……」
ポロロン、ポロン。
イズミは独特の含み笑いを漏らしながら、楽しげにウクレレを爪弾き始めた。
陽気なはずの音色が、なぜかひどく物悲しく聞こえる。
店内を、何とも形容しがたい冷気が支配した。
「…………」
プロスペクターは無言でグラスを口に運んだ。
氷が、カラン、と鳴る。
「……お変わりないようで、何よりでございます」
それが、彼にできる精一杯の返答だった。
「……えへへへへ……」
イズミの笑い声とウクレレの音色だけが、凍りついた店内にいつまでも響いていた。
*
その一方で、連絡がつかない者、家庭の事情で乗艦が難しい者も少なくなかった。
ウリバタケ・セイヤも、その一人だった。
訪ねた自宅には妻と子供がいたが、本人は不在だった。
幼い子供を抱えた家庭に、再び戦場へ赴いてほしいと強く迫ることはできない。
ルリは、連絡先を残して辞去した。
そうして、一人、また一人と候補者の名前に印がついていく。
かつてのナデシコの乗組員たちは、もうあの頃のままではなかった。
それは、当然のことだった。
*
昼過ぎ。
ルリ、ハーリー、サブロウタの三人は、とある食堂を訪れていた。
店の名は『日々平穏』。
「いらっしゃい!」
厨房から、懐かしい声が響いた。
「あらまあ! ルリ坊じゃないの!」
「お久しぶりです、ホウメイさん」
「大きくなったねえ!」
「……皆さん、そればかりです」
ホウメイは、豪快に笑った。
「そりゃそうさ! あんなに小さかったルリ坊が、今じゃ立派な艦長さんなんだからね!」
三人は奥のテーブルへ案内された。
ほどなくして、料理が運ばれてくる。
「はい、お待ちどう!」
「おお、こいつはうまそうですねえ!」
サブロウタが早速箸を取る。
ルリも、静かに手を合わせた。
「いただきます」
久方ぶりのナデシコAの食堂を思い出す味だった。
「……これで、二十人ですね」
食事が運ばれた後も、カウンター席で、ハーリーが手元の端末を操作していた。
画面には、旧ナデシコ乗組員の一覧が表示されている。名前の横には、不参加、連絡不能、返答保留といった文字が並んでいた。
「……これで、二十人ですね」
ハーリーが、嬉しそうに呟いた。
「おい、ハーリー。食事中に行儀が悪いぞ」
サブロウタが、箸を片手に注意する。
「ちょっと待ってくださいよ。大事なことなんですから!」
「……おやおや」
サブロウタが苦笑する。
「艦長、聞いてください!」
「……はい」
ルリは、箸を止めずに答えた。
「旧ナデシコの乗組員で、参加が決まっていない人、これで二十人ですよ! ウリバタケさんも駄目でしたし、もう無理に集めなくてもいいんじゃないですか?みなさんそれぞれ今の生活があります。」
「だいたい、ナデシコBだって今までちゃんとやってきたじゃないですか。新しいナデシコだって、きっと僕たちなら動かせます。艦長がいれば、どんな任務だって大丈夫ですよ!」
ルリは、黙ってご飯を口へ運んだ。ハーリーは、なおも熱弁を振るう。
「だから、昔の乗組員の人たちにわざわざ来てもらわなくたって、いいと思うんです!」
一度言葉を切り、得意げに胸を張った。
「僕たちだけで十分です!」
「……そうですか」
ルリは、淡々と答えた。
「……でも」
ルリは、箸を動かしながら続けた。
「今回の作戦には、昔のナデシコの皆さんの力が必要です」
「……え?」
いつもと変わらない口調だった。ハーリーの笑顔が、固まった。
「……ど、どうしてですか?」
ルリは、返事をしなかった。
黙々とラーメンを口へ運ぶ。
「だって、僕たちだってずっと頑張ってきたじゃないですか! ナデシコBで、艦長と一緒に!」
ハーリーの声が、少しずつ大きくなる。
「僕たちじゃ駄目なんですか!? そんなに昔の人たちの方がいいんですか!?」
「おい、ハーリー落ち着けって」
ルリは、黙々と食事を続けていた。
サブロウタが口を挟むも、ハーリーの言葉は止まらない。サブロウタは困ったように眉を上げた。
「サブロウタさんは黙っててください!「艦長! 僕たちだけじゃ、本当に駄目なんですか!?」
ルリは、スープを一滴残らず飲み干した。箸を揃え、空になった丼を静かに置く。
「……艦長?」
ハーリーは、固唾を呑んで返事を待った。
ルリは、すっと顔を上げた。
「……ホウメイさん、おかわり」
ハーリーの目に、じわりと涙が浮かんだ。自分は、こんなに必死なのに。
艦長は、何も気にしていない。
今まで一緒に頑張ってきたことも、自分がどれほど頼りにしているかということも、きっと伝わっていない。
「……もう、いいです!」
ハーリーは、勢いよく立ち上がった。
「艦長の……」
声が震える。
「艦長の、ばかあああっ!」
涙を浮かべたまま、店の出口へ駆け出した。
「ハーリー君?」
ルリが顔を上げる。
しかし、ハーリーは振り返らなかった。
扉を勢いよく開け、そのまま外へ飛び出していく。
ばたん、と大きな音が響いた。
しばしの沈黙。
「……おやおや」
サブロウタが、困ったように頭を掻いた。
ルリは、閉まった扉を見つめていた。
「……どうしたんでしょう?」
「いやあ……艦長もなかなか罪作りなお人ですねえ」
「……?」
ルリは、不思議そうに首を傾げた。
ホウメイが、その様子を見ながら苦笑する。
「……ルリ坊」
「はい?」
「あの子、寂しいんだよ」
「……寂しい?」
「そうさね。昔の仲間が集まらないことを喜んでいたのも、自分たちだけで何とかできるって、認めてほしかったからじゃないかねえ」
ルリは、少しだけ目を見開いた。
「あの子にとっては、今のナデシコが全部なんだろう? ルリ坊と一緒にやってきたことが、何より大切なんだよ」
ルリは、しばらく黙っていた。
ナデシコB。
ハーリー。
サブロウタ。
自分とともに過ごしてきた仲間たち。
昔のナデシコに思い入れがあるのと同じように、ハーリーにも大切な場所がある。
そんな当たり前のことに、気づいていなかったのかもしれない。
「……そうですね」
ルリは、小さく頷いた。
*
店を飛び出したハーリーは、街の中をとぼとぼと歩いていた。
「……ひっく……」
涙を拭いながら、必死に足を動かす。
「……艦長の、ばか……!」
言いすぎた。そんなことは分かっていた。
ルリ艦長が昔の仲間を大切にしていることも、今回の任務に特別な意味があることも、頭では理解している。
けれど。
ナデシコBでは、どんなに難しい仕事でもルリの隣で必死に働いてきた。
そのことを、少しは認めてほしかったのである。
昔の乗組員がいなくても、自分たちだけでやれる。そう言ってほしかった。
それなのに、艦長は。
「……おかわりって、何だよお……!」
思い出すだけで、また涙が溢れてきた。そんな状態で、角を曲がったのがいけなかった。
「……うわっ!」
「きゃっ!」
どんっ、と柔らかなものにぶつかった。
勢いを止められず、ハーリーはそのまま前のめりになる。
気がつくと、目の前が真っ暗になっていた。
「……むぐっ!?」
顔が、女性の胸の谷間にすっぽりと埋まっていた。
「あら、大胆」
頭の上から、のんびりとした声が降ってくる。
「……っ!?」
ハーリーは、慌てて飛び退いた。
「ご、ごごご、ごめんなさいっ!」
真っ赤になって頭を下げる。
「あらあら。そんなに慌てなくてもいいのよ」
女性は、楽しそうに笑っていた。
長い薄栗色の髪。柔らかな笑顔。
ハーリーは、ますます顔を赤くした。
「ほ、本当にすみませんでした!」
「いいのよ。怪我はない?」
「は、はい!」
「そう。よかった」
女性は微笑んだ。
そして、ハーリーの顔をしげしげと見つめる。
「……あら?」
「……?」
「もしかして、あなた……ハーリー君?」
ハーリーは目を丸くした。
「……え?」
「やっぱり!」
女性の顔が、ぱっと明るくなった。
*
公園のベンチ。ハーリーは、ミナトの隣に座っていた。
少し前までの勢いは、すっかり失われていた。
「……それで、飛び出してきちゃったんです」
「なるほどねえ」
ミナトは、頷いた。
「ルリルリ、昔の仲間を集めてるのね」
「はい」
「そっか……」
ミナトは、少し懐かしそうに空を見上げた。
「また、ナデシコが動くんだ」
ハーリーは俯いた。
「……僕、子供っぽいですよね」
「そうねえ」
ミナトは、少し考えた。
「飛び出しちゃったのは、よくなかったかもしれないわね」
「……はい」
「でも、言いたいことは分かるわ」
ハーリーが顔を上げる。
「……本当ですか?」
「ええ」
ミナトは、優しく微笑んだ。
「ルリルリにとって、昔のナデシコは大切な場所なの」
「……はい」
「でも、あなたにとっては、今のナデシコがそうなんでしょう?」
ハーリーは、少し考えてから頷いた。
「……そうです」
「だったら、同じことじゃない」
ミナトは、彼の頭を軽く撫でた。
「大切な場所を、誰かに取られちゃうような気がしたのよね」
「……取られる、なんて」
「違う?」
ハーリーは、言葉に詰まった。
少しの沈黙。
「……少しだけ」
小さく答える。
ミナトは、それ以上からかわなかった。
「……あのね、ハーリー君」
「はい?」
「ルリルリって、昔から少し変わった子だったの」
ハーリーは、顔を上げた。
「……艦長が?」
「そう」
ミナトは、懐かしそうに微笑んだ。
「小さい頃から、とっても頭がよくて、何でも一人でできちゃう子だった」
それから、少しだけ声を落とす。
「でも、家族っていうものを、よく知らなかったのよ」
ハーリーは、黙って聞いていた。
「周りには大人がたくさんいたけれど、あの子が甘えられる相手は、あまりいなかったの」
ミナトは、空を見上げた。
「そんなルリルリに、家族みたいな場所を作ってくれたのが、アキト君とナデシコAの艦長だったユリカさんだったのよ」
「……テンカワアキトさんと、テンカワユリカさん」
「そう」
ミナトは、静かに頷いた。
「二人とも、ちょっと変わってたけどね」
懐かしそうに笑う。
「ユリカなんて、いつも騒がしくて。アキト君は、それに振り回されてばっかり」
ハーリーも、つられて少し笑った。
「でもね」
ミナトの声が、静かになった。
「あの二人といるときのルリルリは、普通の女の子だったの」
ハーリーは、何も言わなかった。
「笑ったり、ちょっと拗ねてみたり、時には甘えたり、一緒に屋台をやったり……」
ミナトは、少し目を伏せた。
「そういうことが、できるようになったのよ」
風が吹いた。
木々の葉が、さわさわと揺れる。
「……でも、三年前」
ミナトは、そこで言葉を切った。
ハーリーは、静かに頷いた。
アキトとユリカの事故。
そのことは、知っていた。
「……ルリルリは、大切な家族を失ったの」
ミナトは、遠くを見つめた。
「それでも、あの子は頑張った。色々あったけどなんとか立ち直って……」
しばらくの沈黙。
「……だからね」
ミナトは、ハーリーへ視線を戻した。
「あなたのことを聞いたとき、私、すごく嬉しかったの」
「……僕のこと?」
「ええ」
ミナトは、微笑んだ。
「ルリルリから、手紙が届いたのよ」
「……手紙?」
「そう」
少し悪戯っぽい笑顔になる。
「弟ができました、って」
ハーリーは、目を丸くした。
「……弟?」
「ええ」
ミナトは、頷いた。
「とっても優秀で、真面目で、一生懸命な男の子なんですって」
ハーリーの頬が、みるみる赤くなる。
「そ、そんな……」
「ふふっ」
ミナトは笑った。
「ルリルリ、昔からあんまり自分の気持ちを話さない子でしょう?」
「……はい」
「でも、あの手紙は違ったわ」
ミナトは、静かに続けた。
「本当に、嬉しそうだった」
ハーリーは、俯いた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ルリ艦長が。
自分のことを。
「……そう、だったんですか」
「ええ」
ミナトは、優しく微笑んだ。
「だからね、ハーリー君」
ハーリーが顔を上げる。
「昔の仲間が戻ってきたからって、あなたの居場所がなくなるわけじゃないのよ」
その言葉に、ハーリーの目が大きく開いた。
「……はい」
小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
ミナトは、満足そうに笑った。
「どういたしまして」
そのときだった。
「……ハーリー君」
正面から、声がした。
二人が顔を上げる。
そこには、ルリとサブロウタが立っていた。
「……艦長!」
ハーリーは、慌てて立ち上がった。
「す、すみません!」
「……心配しました」
ルリは、静かに言った。
ハーリーは俯いた。
「……ごめんなさい」
ルリは、少しだけ首を傾げた。
そして、ミナトへ視線を向ける。
「……お久しぶりです、ミナトさん」
「久しぶりね、ルリルリ」
ミナトは、嬉しそうに笑った。
「……ところで」
ルリが尋ねた。
「何のお話をしていたんですか?」
「ふふっ。内緒」
「……内緒、ですか」
「そう。女同士……じゃなかったわね」
ミナトはハーリーを見て、楽しそうに笑った。
「私とハーリー君だけの秘密」
「……ええっ!?」
ハーリーが、真っ赤になった。
「ミ、ミナトさん!」
「あら、嫌なの?」
「そ、そういうわけじゃ……!」
ルリは、二人を交互に見つめた。
「……そうですか」
そして、ハーリーへ視線を戻した。
「ハーリー君」
「は、はい!」
「帰りましょう」
その言葉は、いつもと変わらない口調だった。
けれど。
「……はい!」
ハーリーには、少しだけ違って聞こえた。
ルリは、歩き始めた。
ハーリーが、その隣に並ぶ。
少し後ろから、ミナトが二人を見つめていた。
並んで歩く二人の背中。
年齢も、性格も、何もかも違う。
けれど、どこか似ている。
ミナトは、そっと微笑んだ。
あの子にも、また仲間や家族と呼べるような存在ができたのだ。
そう思うと、少しだけ胸が温かくなった。
*
「……それで」
しばらく歩いたところで、ルリが口を開いた。
「ミナトさん」
「なあに?」
「お願いがあります」
ミナトは、ルリを見た。
「……ナデシコCのこと?」
「はい」
ルリは頷いた。
「力を貸していただけませんか?」
ミナトは、少し考えた。
そして、笑った。
「……仕方ないわねえ」
「……ありがとうございます」
「でも、ルリルリ」
ミナトは、優しく続けた。
「昔の仲間だけじゃなくて、今の仲間も大事にしなさいね」
ルリは、隣を歩くハーリーを見た。
ハーリーは、慌てて顔を逸らした。
ルリは、少しだけ微笑んだ。
「……はい」
短い返事。
けれど、そこには確かな温かさがあった。
*
山あいの墓地には、夏の日差しが降り注いでいた。
木々の間を抜ける風が、蝉の声を運んでくる。長い石段の先には、いくつもの墓石が静かに並んでいた。
その石段を、二人の女性が上っていた。
ホシノ・ルリとハルカ・ミナトである。
ミナトの手には、水桶と花束があった。
今日は、イネス・フレサンジュの三回忌だった。
「……そろそろですね」
不意に、ルリが空を見上げた。
「何が?」
「ハーリー君です。もう月へ跳んだ頃だと思います」
「あら、やっぱり心配だったんじゃない」
ミナトが、少しからかうように笑った。
「だったら、見送りに行ってあげればよかったのに」
「……三度目は嫌です」
「……え?」
「非科学的ですけど、縁起を気にしているんです」
ルリは、淡々と答えた。ミナトの表情から、笑みが消えた。
三年前。
ルリは、二度、大切な人を送り出している。
一度目は、新婚旅行へ向かうアキトとユリカ。二度目は、研究施設へ向かうイネス。
どちらも、そのまま帰ってこなかった。
「……意地っ張りね」
ミナトが、ぽつりと呟いた。
「……そうかもしれません」
ルリは、小さく答えた。
ミナトは、そっと彼女の頭を撫でた。
「でも、今度はきっと大丈夫よ」
「……はい」
ルリは頷いた。
二人は、再び石段を上り始めた。
*
墓地の奥。
イネス・フレサンジュの名が刻まれた墓石があった。
三年前、事故によって亡くなったとされるが、遺体は発見されなかった。
それでも、残された人々には、祈りを捧げる場所が必要だった。
「……イネスさん、久しぶりね」
ミナトが、静かに呟いた。
墓前へ歩み寄ろうとした、そのときだった。
「……あら?」
ミナトが、足を止めた。
先客がいた。アキトとユリカの墓標の前に、一人の人物が佇んでいる。
真夏だというのに、全身を黒いマントで覆っていた。頭部には黒いバイザーを装着し、その表情を窺うことはできない。
細い肩と、マント越しの体つきから、女性であることは分かった。
長い髪は後頭部で丁寧に結い上げられ、青いバレッタで留められている。一見すれば黒髪だった。しかし、陽光を受ける角度によって、鈍い銀色の光沢が浮かび上がる。黒銀とでも呼ぶべき、不思議な色合いだった。
墓前には、すでに白い花束が供えられていた。
「……どなたかしら?」
ミナトが、小さく呟いた。
その声に気づいたのか、黒衣の女性がゆっくりと振り返った。
黒銀の髪が、わずかに揺れる。
青いバレッタが、小さく光を返した。
黒いバイザーの下から、雪のように白い頬が覗く。
髪の色も、纏う雰囲気も、以前とは随分変わっていた。
けれど、その横顔は、紛れもなくミスマル・ユリカ、その人だった。
「……え?」
ミナトが、息を呑んだ。
手から、水桶が滑り落ちる。
乾いた音が、墓地に響いた。
「……艦長?」
震える声だった。黒衣の女性は、何も答えなかった。ただ、静かに二人を見つめていた。
ルリも、その場に立ち尽くしていた。目の前にいる女性。黒いマント。
顔を覆うバイザー。そして、その下から覗く横顔。
アマテラスで聞いた、あの声が脳裏に蘇った。
「……ユリカさん?」
ルリが、そっと呼びかけた。黒衣の女性の肩が、わずかに動いた。
「……ルリちゃん」
その声を聞いた瞬間。
ルリの胸が、強く締めつけられた。
忘れるはずがない。
何度も、何度も聞いた声だった。
「……大きくなったね」
懐かしい言葉。
ルリは、何も言えなかった。三年前。
自分を家族として迎えてくれた人。
どんなときでも明るく、騒がしく、誰よりも一生懸命だった人。
その人が、今、目の前にいる。
「……艦長!」
ミナトが、堪えきれずに駆け寄った。
「生きてたのね!?」
黒衣の女性は、動かなかった。
「だったら、どうして!」
ミナトの声が震える。
「どうして、生きているって伝えてくれなかったの?」
その声には、怒りよりも悲しみが滲んでいた。黒衣の女性は、ゆっくりと顔を伏せた。
しばらくの沈黙。そして。
「……伝えられなかったから」
それだけ答えた。
ミナトは、言葉を失った。
ルリも、ただその姿を見つめていた。
伝えられなかった。
それは、何を意味しているのだろう。
もし、ユリカが生きていたのなら。
三年前の事故は、やはり事故ではなかったのかもしれない。
*
「……もっと早く、気づくべきでした」
イネスの墓前で手を合わせながら、ルリが静かに口を開いた。
「三年前から、事故や失踪によって行方不明になった人たちがいました」
ルリは、墓標へ視線を向けた。
「アマテラス事件を調べているうちに、共通点が見つかったんです」
「……共通点?」
「A級ジャンパーです」
ミナトの表情が、険しくなった。
「……それって」
「はい。火星生まれで、生まれつき単独でボソンジャンプができる人たちです」
ルリは、静かに頷いた。
「彼らは事故や失踪を装って、計画的に誘拐されていたんです」
「……誘拐?」
「はい」
ルリは、黒衣の女性を見つめた。
「アキトさんとユリカさんも、そうだったんですね?」
長い沈黙が落ちた。
黒衣の女性は、否定しなかった。
「……アマテラスで、黒い機体のパイロットの声を聞きました」
ルリが続ける。
「ユリカさんの声でした」
黒衣の女性は、黙っていた。
ブラックサレナ。アマテラスの防衛部隊を突破し、第十三番ゲートへと到達した謎の機体。
「……あの機体に乗っていたのは、あなたなんですよね?」
黒衣の女性は、しばらくルリを見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「……ええ」
たった一言。けれど、それだけでルリには十分だった。
アマテラスで聞いた、懐かしい声。
あれは幻でも、聞き間違いでもなかったのだ。
「……そうですか」
ルリは、ほっとしたように息を吐いた。
そして。
「……アキトさんは?」
小さな声で尋ねた。
「アキトさんは、どこにいるんですか?」
沈黙。風が吹いた。黒いマントの裾が、静かに揺れる。
「……教えてください」
ルリは、もう一歩近づいた。
「アキトさんも、生きているんですよね?」
黒衣の女性は、答えなかった。
ただ、その右手が、ゆっくりと握りしめられた。
「……アキトさんも、まだ火星の後継者に捕まっているんですか?」
長い沈黙だった。ミナトも、答えを待っていた。
そのとき、ルリの脳裏に浮かぶのは、アマテラスで起きた不可解な出来事。
『OTIKA』
施設の制御システムを暴走させ、繰り返し表示された謎の文字列。
逆から読めば、『AKITO』。
テンカワ・アキトの名前だった。
あれは、単なるシステムの異常だったのだろうか。もし、あの暴走が偶然ではなかったとしたら。
遺跡の中から、誰かが自分の存在を訴えようとしていたのだとしたら。
なぜ、アキトの名前が表示されたのか。
そして、なぜユリカは、たった一人で火星の後継者と戦っているのか。
ルリは、黒衣の女性を見つめた。
アキトは、まだ囚われているのではないか。火星の後継者に、その能力を利用されているのではないか。
「……分かりました」
ルリは、静かに息を吸った。
「今は、聞きません」
黒衣の女性が、わずかに顔を上げた。
「でも、必ず助けます」
ルリは、まっすぐに相手を見つめた。
「アキトさんは、必ず連れて帰ります。だからーーー」
一緒にナデシコに。
「ありがとう、ルリちゃん」
黒衣の女性は、ルリの言葉を遮るようにして小さく答えた。
その声は、ひどく優しかった。
そして、どこか悲しそうだった。
そのときだった。
「……迂闊なり」
低い声が、墓地に響いた。三人が振り返る。
奇妙な装束。深くかぶった笠。口元に浮かぶ、不気味な笑み。
そして、その背後に控える六つの人影。
北辰。
火星の後継者の特殊工作部隊を率いる男だった。
「……北辰」
黒衣の女性が、低く呟いた。
北辰は、その声を聞いて笑みを深めた。
「死者を弔うとは、殊勝な心掛け」
北辰は、墓標へ視線を向けた。
「されど、墓参りとはいささか不用心ではないかな?」
黒衣の女性は、何も答えなかった。ただ、身体の向きを変える。
ルリとミナトを、自分の背後に置くように。
「……下がって」
小さな声だった。
ルリとミナトが後退する。
北辰は、その様子を眺めていた。
「ほう……」
そして、ゆっくりと片手を上げた。
六人衆が、静かに散開する。
黒衣の女性は、無言でマントの内側へ手を伸ばした。
鈍い金属光沢。無骨な銃身。
一丁のリボルバーが、その手に握られていた。
使い込まれた銃身には、細かな傷が刻まれている。
北辰の視線が、その銃に止まった。
「……懐かしき得物よ」
口元が、わずかに歪む。
「そのようなものを、いまだ手放せぬか」
黒衣の女性は、静かに撃鉄を起こした。かちり、と乾いた音が響く。
北辰は、動かなかった。
次の瞬間。銃声が響いた。乾いた破裂音。
銃口から放たれた数発の弾丸が、北辰の胸元へと迫る。
しかし。
その手前で、青白い光が弾けた。
「……!」
弾丸が、見えない壁に阻まれた。わずかに波紋を広げた防御壁が、弾丸を弾き落とした。
からん、と乾いた金属音が響く。
「……ディストーションフィールド!」
ルリが、思わず声を上げた。
北辰は、動じる様子もなかった。
「ふふふ……」
喉の奥で、低く笑う。
「同じ過ちを、幾度繰り返すつもりか」
黒衣の女性は、銃口を下ろさなかった。
北辰は、ゆっくりと視線を動かした。
その目が、ルリに止まる。
「……ほう」
笠の下で、目が細められた。
「ラピスと同じく、金色の瞳……」
ルリは、眉をひそめた。
北辰の視線が、その白い肌と金色の瞳をなぞる。
「人の業にて生み出されし白き妖精」
北辰は、薄く笑った。
「地球の連中は、ほとほと遺伝子細工が好きと見える」
ルリの表情が険しくなる。
ラピス。
アマテラスで、黒い機体と行動をともにしていた少女。
北辰は、その名を知っていた。
「……あなたたちですね」
ルリが、静かに口を開いた。
「A級ジャンパーの人たちを誘拐していた実行部隊は」
「……さよう」
北辰は、あっさりと認めた。その声には、罪悪感の欠片もなかった。
「すべては大義のため。人一人の運命など、些事に過ぎぬ」
ルリは、唇を噛んだ。
北辰は、六人衆へと視線を向けた。
「白き妖精は、回収せよ」
その言葉に、男たちが身構える。
そして、黒衣の女性へ視線を戻した。
「……そちらの女もだ」
北辰の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「予備の器として、まだ使い道があるゆえな。胴体さえ残れば手足はどうなってもかまわん」
黒衣の女性の指先が、わずかに動いた。
しかし、何も言わなかった。
「……予備?」
ルリが、小さく呟いた。北辰は、答えなかった。
代わりに、両腕をゆっくりと広げた。
「我らは火星の後継者の影」
六人衆が、一斉に姿勢を正す。
「人の道を外れ、闇に生きる外道なり!」
男たちが、声を揃えた。
「「「「「「すべては、新たなる秩序のため!」」」」」」
墓地に、異様な声が響き渡った。六人衆が、一斉に身構える。
黒衣の女性が、再び銃を構えた。
ルリは、ミナトを庇うように一歩前へ出る。
一触即発。
そのときだった。
「ハーッハッハッハッハッ!」
突然、高らかな笑い声が響き渡った。
北辰が、顔を上げる。
「……何者!」
いつの間にか、一人の男が立っていた。
長い髪。白い制服。その堂々たる立ち姿。
月臣元一朗。
「……新たなる秩序、笑止なり!」
「確かに、破壊と混沌の果てにこそ、新たなる秩序は生まれよう!」
その声は、墓地全体に響き渡った。
「それゆえに、産みの苦しみを味わうは必然!」
北辰の目が細くなる。月臣は、さらに声を張り上げた。
「しかし!」
一拍。
「……草壁に徳なし!」
堂々たる断言だった。北辰が、低く笑った。
「……月臣元一朗」
その声には、侮蔑が込められていた。
「木星を裏切りし者が、よくぞ申した」
「そのとおりだ!」
月臣は、即座に答えた。
「友を裏切り、木星を裏切り、そして今はネルガルの犬よ!」
その言葉と同時に。がさり、と近くの植え込みが揺れた。
北辰の背後から、一人の男が姿を現す。
サングラス。
黒いスーツ。
手には拳銃やマシンガン、日本刀。
さらに、墓石の陰からも。
木の幹の裏からも。
通路脇の茂みからも。
一人、また一人と、黒服の男たちが現れた。
ネルガル重工、会長室警備部第三課。シークレットサービス。
銃を構えた男たちが、北辰と六人衆を取り囲んでいく。
それは、あらかじめ仕組まれていた包囲網だった。
北辰たちの動向は、すでにネルガルによって察知されていたのである。
「……ずいぶん、たくさんいるのね」
ミナトが、呆然と呟いた。
「でも、あれだけの人数が隠れてたなんて……」
そのときだった。
ごとり。
背後で、鈍い音が響いた。
「……え?」
二人が振り返る。
イネス・フレサンジュの墓石。
その墓石が、ゆっくりと持ち上がる。
「……ちょ、ちょっと!?」
ミナトが、目を見開いた。
墓石が真っ二つにパカっと割れると、その下から大柄な男が姿を現した。
見覚えのある、無表情な顔。
「……久しぶりだな」
「……ゴート!?」
ミナトが叫んだ。
ゴート・ホーリー。
かつてナデシコの保安部門を担当していた男だった。
月臣が静かに北辰を見据えた。
「……女にこだわりすぎたのが、仇となったな。北辰!」
北辰は、周囲を見回していた。
墓地の入口。
木々の間。
石段の上下。
いずれも、黒服の男たちによって塞がれている。
「……ふむ」
北辰は、喉の奥で笑った。
「謀られたか」
「ここは死者の眠る、穏やかなるべき場所!」
月臣が、一歩前へ出る。
「おとなしく投降せよ!」
「……せぬ場合は?」
北辰の問いに、月臣は一歩も退かなかった。
「地獄へ落ちる」
その言葉と同時に、黒服の男たちが一斉に武器を構えた。
北辰は、しばらく月臣を見つめていた。
そして、薄く笑った。
「……そうかな?」
ゆっくりと片手を上げる。
「烈風!」
「応!」
六人衆の一人が、前へ出た。
短刀を抜き放ち、月臣へと駆ける。
鋭い斬撃。
木連式抜刀術。
しかし。
月臣は、一歩も退かなかった。
振り下ろされた腕を捌き、相手の懐へ踏み込む。
そのまま、身体を半回転させた。
「……ふんっ!」
次の瞬間。
烈風の身体が、宙を舞った。
「……!」
男は背後の仲間たちへ激突し、まとめて地面に転がった。
あまりにも鮮やかな一撃だった。
「……うそっ!」
ミナトが、思わず声を上げた。
ルリも、目を見開いた。
月臣は、静かに構えを解いた。
「木連式抜刀術は、暗殺剣にあらず!」
月臣は、倒れた烈風を見下ろした。
「邪に堕ちたる剣など、我が柔には通じぬ!」
そして、北辰へと向き直る。
「北辰! 投降しろ!」
北辰は、倒れた部下を一瞥した。それから、月臣を見た。
しばらくの沈黙。
やがて。
「……ふふふ」
小さな笑い声が漏れた。
「ははは……はーっはっはっはっはっ!」
北辰の高笑いが、墓地に響き渡った。
月臣の表情が険しくなる。
「……何がおかしい!」
「いや、見事なものよ」
北辰は、笑いながら答えた。
「されど、我らをこの程度で捕らえられると思うたか」
六人衆が、素早く北辰の周囲へ集まった。
「……跳躍」
小さな声だった。
次の瞬間。
青白い光が、男たちを包み込んだ。
「……ボソンジャンプ!」
ルリが叫んだ。
空間が歪む。
北辰たちの姿が、光の中へと薄れていく。
「……待て、北辰!」
月臣が、叫んだ。
しかし、北辰は答えなかった。
その視線は、黒衣の女性へと向けられていた。
「……ふふふ」
笠の下で、不気味な笑みが浮かぶ。
「また会おうぞ」
黒衣の女性は、何も言わなかった。
ただ、静かに北辰を見据えていた。
北辰の笑みが、さらに深まる。
「……偽りの復讐人よ」
その言葉を最後に。青白い光が弾けた。
「はーっはっはっはっはっ……!」
高笑いの残響だけを残して、北辰と六人衆は姿を消した。
*
墓地に、再び静けさが戻った。
月臣は、ゆっくりと息を吐いた。
「……逃がしたか」
黒服の男たちが、周囲の警戒を続けている。
ゴートは、通信端末で各員へ指示を出していた。
「……追跡は?」
月臣が尋ねる。
「ジャンプ先は特定できていない」
「……そうか」
月臣は、腕を組んだ。
「まあよい。こちらの目的は果たした」
ゴートが、静かに頷いた。
その様子を、ルリとミナトは少し離れた場所から眺めていた。
「……まったく、何だったのかしら」
ミナトが、ため息をついた。
「……ユリカさん!」
ルリが、黒衣の女性へ駆け寄った。
黒衣の女性は、リボルバーをマントの内側へ収めた。
北辰の放った、最後の言葉。
偽りの復讐人。
その意味は分からなかったが、少なくとも北辰がこの女性に強い執着を抱いていることは明らかだった。
「……ユリカさん」
ルリが、静かに声をかけた。
「一緒に帰りませんか?」
黒衣の女性が、顔を上げた。
「みんな、待っています」
ルリは続けた。
「コウイチロウのおじ様も、ナデシコの皆も」
黒衣の女性は、何も言わなかった。
「今度、新しいナデシコに乗るんです。ナデシコCです」
「……ナデシコC?」
「はい」
ルリは、かすかに微笑んだ。
「私が艦長を務めます」
黒衣の女性は、しばらくルリを見つめていた。
そして、静かに呟いた。
「……そっか」
その声に、ほんの少しだけ温かさが戻った。
「……ルリちゃんが、艦長なんだね」
「はい」
「……すごいね」
ルリは、少しだけ目を伏せた。その言い方が、ひどく懐かしかった。
かつてユリカが、自分を褒めてくれたときと同じだった。
「……でも」
黒衣の女性は、ゆっくりと首を横へ振った。
「……ごめんなさい」
「……どうしてですか?」
「……そこに帰ることはできないの」
ルリは黙った。アキトの行方を尋ねたときも、同じだった。
答えられない事情があるのだろう。
それも、一つや二つではないのかもしれない。
「……そうですか」
ルリは、それ以上追及しなかった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……艦長」
ミナトが、静かに声をかけた。
「……何があったのか、今は聞かないわ」
黒衣の女性が、振り返った。
「でも、これだけは覚えておいて」
ミナトは、まっすぐに相手を見つめた。
「私たちは、いつだって艦長の味方だから」
黒衣の女性は、何も言わなかった。
「だから、一人で何もかも抱え込まないで」
ミナトは、少しだけ微笑んだ。
「困ったときは、頼ってちょうだい。昔みたいにね」
長い沈黙。
やがて。
「……ありがとう、ミナトさん」
小さな声が返ってきた。
ミナトは、嬉しそうに笑った。
「……もう。そんなに他人行儀にならなくてもいいのに」
黒衣の女性は、それ以上何も言わなかった。
ただ、静かに二人を見つめていた。
ルリが、一歩前へ出た。
「……ユリカさん」
「……なあに?」
「私たちは、これから火星の後継者と戦います」
ルリは、まっすぐに告げた。
「必ず、止めてみせます」
黒衣の女性は、黙って聞いていた。
「そして、アキトさんも助けます」
その言葉に、黒衣の女性の手が、わずかに動いた。
「……だから」
ルリは、小さく微笑んだ。
「戦いが終わったら、みんなで帰りましょう」
黒衣の女性は、しばらくルリを見つめていた。
夏の風が吹いた。
結い上げられた黒銀の髪が、わずかに揺れる。
青いバレッタが、鈍く光を返した。
「……ルリちゃん」
やがて、黒衣の女性が小さく呼びかけた。
「……はい?」
女性は、何かを言いかけて、ためらうように口を閉じた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
バイザーの下から覗く横顔には、かすかな微笑みが浮かんでいた。
「……私ね」
一度、言葉を切る。
「……あなたに、渡したいものがあるの」
お気に入りありがとうございます。