機動戦艦ナデシコ 造花の黒百合   作:くろっかす

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第5話

ネルガル重工、月面建造ドック。

巨大な格納庫の中央に、一隻の白い戦艦が係留されていた。

ナデシコC。

かつて、火星から地球へと帰還した機動戦艦ナデシコ。その名を受け継ぐ、三代目の艦である。

もっとも、初代ナデシコとの共通点は、すでに外観と一部の基本設計に限られていた。

強化された相転移エンジン。三基に増設された重力ブレード。そして、何よりも大きな変更点は、艦の中枢を担う電子頭脳だった。

オモイカネC。

従来のナデシコ級とは比較にならない情報処理能力を与えられた、最新鋭の艦載コンピューターである。

幾何学模様の壁に囲まれたその中枢区画で、マキビ・ハリは苦戦していた。

 

「……うう、やっぱり簡単にはいかないかあ」

 

ハーリーは、調整用のIFSシートに座りコンソールに表示された膨大な数値を睨みつけた。

オモイカネCの最終調整。

それが、ルリたちに先行して月へやって来た彼に与えられた仕事だった。

火星の後継者は、すでに火星極冠遺跡を掌握している。ボソンジャンプの制御権を握った彼らは、地球圏のどこにでも戦力を送り込むことができた。

連合宇宙軍は、数の上では圧倒的に優勢だった。

しかし、司令部や補給拠点を突然襲われては、その戦力も意味をなさない。

一刻も早くナデシコCを完成させ、反撃に移らなければならなかった。

 

「……それにしても」

 

ハーリーは、画面に表示された調整記録を見つめた。

 

「おかしいなあ」

 

本来なら、オモイカネCの調整には相当な時間が必要になるはずだった。

高性能な電子頭脳であればあるほど、その能力を引き出すための調整は難しい。

特に、IFSによる直接接続を前提とする制御系統は、通常の技術者が扱えるものではなかった。

ルリや自分のようなIFS強化体質の人間であっても、簡単にできる仕事ではない。

まして、ナデシコCの電子戦システムは、ルリの能力を最大限に引き出すために設計されている。

オモイカネとルリ。

その二つが、ひとつのシステムとして機能するように。

そのためには、膨大な神経接続データの調整が必要だった。

ところが。

 

「……基礎調整が、ほとんど終わってる?」

 

最初に接続した時から、違和感はあった。

本来なら生じるはずの応答遅延がない。神経信号の変換効率も、異常なほど高い。

まるで、以前から自分やルリと接続していたかのように、オモイカネCの基礎設定が整えられていたのだ。

おかげでハーリーは、ルリの癖や反応速度に合わせた細かな調整に専念できていた。

それ自体は、ありがたいことだった。

けれど。

 

「……誰が、こんなことを?」

 

技術者として、疑問を抱かずにはいられなかった。

自分よりも高いIFS適性を持ち、これほど大規模なシステムを調整できる人間。

真っ先に思い浮かぶのは、ルリだった。

しかし、そのルリはまだ地球にいる。

ハーリーは調整記録を開いた。

担当者名の欄は空白。

作業履歴には、ネルガルの特別管理権限が記録されているだけだった。

 

「……秘密ばっかりだなあ」

 

ため息をつき、椅子の背もたれに身体を預ける。

その時、画面の隅に小さな応答表示が現れた。

オモイカネCからだった。

 

「……あ、ごめんね」

 

ハーリーは慌てて姿勢を正した。

 

「別に、君のせいじゃないから」

 

応答表示が、わずかに明滅する。

 

「うん。もう少しだからね」

 

ハーリーは再びコンソールに向き直った。

 

「艦長が来るまでに、完璧にしておかないと」

 

指先が、素早く操作盤の上を走る。

残るは、システム掌握系のプログラムと神経接続の微調整。

これさえ終われば、ナデシコCはいつでも出航できる。

その時だった。

ブリッジから、緊急通信が入った。

 

『ハーリー君! 聞こえるか!』

 

「……ウリバタケさん?」

 

『調整は終わったか!』

 

「もう少しですけど……どうしたんですか?」

 

『ルリちゃんたちのシャトルが襲われた!』

 

ハーリーの指が止まった。

 

「……え?」

 

『火星の後継者の連中だ! ボソンジャンプで現れやがった!』

 

頭の中が、一瞬真っ白になった。

ルリが乗っているシャトル。

非武装の輸送船。

そこへ、火星の後継者の機動兵器が襲いかかったというのか。

 

「……艦長が!?」

 

ハーリーは立ち上がった。

 

「システム掌握プログラム以外の調整は、すべて完了しています!」

 

『よし! こっちも相転移エンジンとジャンプシステムは準備完了だ! いつでも動かせるぜ!』

 

「わかりました!」

 

『すぐにブリッジへ来てくれ!』

 

「はい!」

 

通信が切れる。

ハーリーは端末を閉じ、オモイカネのコンピュータールームから走り出した。

先ほどまで考えていた疑問は、頭から消えていた。

今は、それどころではない。

ナデシコの仲間たちが危ない。

ルリの代わりに、自分がナデシコCを動かせるのだろうか。

不安がないわけではなかった。

それでも、今は自分がやるしかない。

ハーリーは、ブリッジへと急いだ。

 

 

*

 

 

ブリッジに駆け込むと、すでに出航準備が進められていた。

 

「ハーリー! 相転移エンジンには、もう火を入れてあるぜ!」

 

「ありがとうございます! システムもすぐに起動します!」

 

ウリバタケの声に応じながら、ハーリーは自分の席へ滑り込んだ。

 

「オモイカネC、起動します!」

 

コンソールに手を置く。ウィンドウボールがハーリーを囲むように展開する。

IFS接続開始。

神経接続回路が、ハーリーの意識と艦載コンピューターを結びつけていく。

膨大な情報が、頭の中へ流れ込んできた。

艦内各所の状態。

機関出力。

重力制御。

火器管制。

すべてが、ひとつの情報として処理される。

 

「……よし!」

 

調整後初めての起動だったが接続は正常だった。

オモイカネCは何の抵抗もなく、ハーリーの神経信号を受け入れている。

やはり、誰かが調整していた。

しかも、相当な腕の持ち主が。

けれど、その謎を考える時間はなかった。

 

「相転移エンジン、出力安定! グラビティブラスト、使用可能です!」

 

「よっしゃあ!」

 

ウリバタケが拳を握った。

 

「ドックとの接続解除! 艦体固定アーム、全開放だ!」

 

月へ向かう輸送シャトル。

その後方には、六機の積尸気が迫っていた。

火星の後継者が送り込んだ、ボソンジャンプ能力を持つ機動兵器群。

非武装のシャトルでは、まともに相手ができるはずもなかった。

操縦を代わったミナトが巧みな回避機動を繰り返し、どうにか追撃をかわしている。

だが、推進機関はすでに限界に近づいていた。

 

「もう! しつこいわねえ!」

 

ミナトが操縦桿を捻る。

シャトルが大きく傾き、敵の光弾が船体のすぐ脇を通り過ぎた。

 

「前方、さらに十機出現!」

 

サブロウタが叫んだ。

 

「わかってるわよ!」

 

ミナトは再び機首を振った。

しかし、逃げ切れない。

敵はなおも距離を詰めてくる。

そろそろ、本当にまずいかも。そうミナトが思った瞬間

シャトル前方に、巨大な重力変動が発生した。

青白い光が広がり、何もなかった宇宙空間が歪む。

そして。

 

「グラビティブラスト、いっきまーす!」

 

少年の声が響いた。

ミナトはとっさにシャトルの軌道を横に滑らした。

次の瞬間、光の中から出現した白い戦艦が、凄まじい重力波を放った。

まばゆい光が、シャトルの後方を駆け抜ける。

追撃していた積尸気の編隊が、次々と呑み込まれていった。

一機、また一機。

回避行動を取る暇もない。

シャトルを追跡していた火星の後継者すべてが、瞬く間にレーダーから消失した。

シャトルの窓いっぱいに、巨大な白い船体が広がった。

 

「……ナデシコ!」

 

リョーコが叫んだ。

 

「ナデシコC……!」

 

ヒカルも、窓の外を見つめていた。

かつて自分たちが乗っていた船。

その名を継ぐ、新たな戦艦。

懐かしい艦首の形状に、三基の重力ブレード。

電子戦能力に特化した、最新鋭のナデシコ級だった。

その時、シャトルの通信スクリーンが起動した。

 

『ご都合主義だと笑わば笑え!しかし見よ!見よこの燃える展開!見よこのメカニック!』

 

画面いっぱいに、ウリバタケ・セイヤの顔が映し出された。

得意満面のウリバタケの両頬には、何本もの赤い引っかき傷が残されていた。

新しいものらしく、まだ少し赤く腫れている。

両手を大きく広げ、今にも踊り出しそうな勢いだった。

 

「……ありゃ奥さんだね」

 

ポロロン。

ウクレレを爪弾きながら、イズミがぽつりと呟いた。

 

「……でも、どうやってボソンジャンプしたんだろ?」

 

懐かしい仲間の登場に盛り上がる一同をよそに、ヒカルが首を傾げた。

ボソンジャンプには、A級ジャンパーが必要なはずだった。

その時だった。

画面の下から、金色の髪がすうっと現れた。

続いて、大きなバイザーをかけた女性の顔が、ウリバタケの前へとせり上がってくる。

 

「そこは私が説明しましょ」

 

どこか聞き覚えのある声だった。

女性は、待ちきれないとばかりにとさっとバイザーを外した。

現れたのは、懐かしい顔。

久しぶりの説明を前に、頬をわずかに上気させ、得意げな微笑みを浮かべている。

イネス・フレサンジュ。

死んだはずの彼女が、そこにいた。

 

 

*

 

 

さーん! にーい! いーち!』

 

『なぜなにナデシコー!』

 

「こんにちは、お久し振り、初めまして…ナデシコ医療班並びに科学班担当の イネス・フレサンジュです」

 

「ボソンジャンプによる『新たなる秩序』を謳い、蜂起した『火星の後継者』。その首謀者たる、かつての木連指導者、草壁春樹。彼らの目的は何なのか。そして、その鍵を握るボソンジャンプとは。今回はボソンジャンプのおさらいも交えて、わかりやすく説明しましょう」

 

「……すいません」

 

ルリが、すっと右手を挙げた。

 

「なあに、ホシノルリ?」

 

イネスが指示棒を止めた。

 

「みんな、これが一番気になっていると思うんだけど」

 

「何かしら?」

 

「……どうしてアンタ、生きているんですか?」

 

ぴたり。

 

イネスの指示棒が止まった。

リョーコが煎餅をかじる手を止め、ヒカルも顔を上げる。

そう。誰もが、そのことを聞きたかったのである。

 

「……私たち、ついこの間お墓参りまでしたんですけど」

 

「ああ、そのことね」

 

イネスは何でもないことのように頷いた。

 

「説明しましょう。……と言いたいところだけど、これは私より適任者がいるわね」

 

その時、ブリーフィングルームの壁面モニターに通信が入った。

 

『やあ、みんな。久しぶりだね』

 

現れたのは、アカツキ・ナガレだった。

 

「……アカツキさん」

 

『いやあ、驚かせてしまったようだね。イネス博士には、ネルガルの方でしばらく死んだことになってもらっていたんだ』

 

「……死んだことに?」

 

『そう。君たちも知っているだろう? 二年前のシャトル事故を』

 

ルリの表情が、わずかに曇った。

 

『あの事件の後、僕らは火星の後継者がA級ジャンパーを狙っていることを突き止めた。博士もその一人だからね。安全を確保するため、戸籍上も死亡したことにしておいたというわけさ』

 

「……それで、私たちにも黙っていたんですか?」

 

『秘密というのは、知っている人間が少ないほど守りやすいものだからね』

 

アカツキはいつものように、軽く肩をすくめた。

 

『それに、もう二度と同じ失敗を繰り返すわけにはいかなかったからね』

 

その言葉に、ルリは顔を上げた。

しかし、アカツキはすでにいつもの笑みに戻っていた。

 

「……つまり、ネルガルはずっと前から火星の後継者の動きを知っていたんですね」

 

『まあ、そういうことになるかな』

 

「……それなら、他にも私たちに知らせていないことがあるんじゃないですか?」

 

『おやおや。相変わらず鋭いねえ、ルリ君』

 

「……答えてください」

 

『いやあ、それはだね……』

 

アカツキは困ったように笑った。

その時、ふと何かに気づいたように視線を逸らした。

 

『あっ、キャッチが入っちゃった』

 

「……え?」

 

『いやあ、残念だなあ。せっかく久しぶりに話せたのに。じゃ、後はよろしく!』

 

「……ちょっと、アカツキさん」

 

ルリが呼び止めるより早く、通信は一方的に切れた。

モニターが暗くなる。

 

「……逃げやがった」

 

リョーコが呆れたように呟いた。

 

「相変わらずねえ、あの人」

 

ミナトが苦笑した。

ルリは、通信の切れたモニターをしばらく見つめていた。

 

「……まったく」

 

小さくため息をつく。

 

「さて」

 

イネスが指示棒を持ち直した。

 

「説明を続けましょう」

 

パタン。

 

紙芝居がめくられた。

 

「まずは、ボソンジャンプの仕組みについておさらいしておきましょう」

 

紙芝居には、火星極冠遺跡と、その中央に据えられた巨大な演算ユニットが描かれていた。

 

「皆さんもご存じのとおり、ボソンジャンプに必要な計算は、古代火星文明の演算ユニットが行っています。でも、この装置は人類が作ったものではありません」

 

イネスは指示棒で演算ユニットを示した。

 

「私たちは、その原理を完全には理解できていないの。特に難しいのが、ジャンプ先を演算ユニットに伝えること。人間が座標を入力したからといって、そのとおりにジャンプできるわけではないのよ。いわゆる蜥蜴戦争でゲキガンタイプがパターンの決まった短距離ジャンプしかできなかったのはこのためね」

 

「……じゃあ、これまでのコロニー間の長距離ジャンプはどうしてたんだ?」

 

リョーコが尋ねた。

 

「いい質問ね」

 

パタン。

紙芝居には、大きなチューリップと、その内部へ吸い込まれていく宇宙船が描かれていた。

 

「通常、A級ジャンパーの力を借りずにボソンジャンプを行う場合には、チューリップを利用します。チューリップの内部には、ジャンプに必要なフィールドが形成されているからよ」

 

「昔、ナデシコで飛び込んだこともあるよな」

 

「ええ。でも、チューリップを利用する方法にも制約があるの」

 

イネスは、紙芝居に描かれた二つのチューリップを指示棒で結んだ。

 

「基本的には、チューリップ同士であらかじめ設定された経路を利用しなければならないのよ。かつて木連が無人兵器を地球へ送り込んでいたのも、この仕組みを利用したものね」

 

「……出入口が決まってるってこと?」

 

ヒカルが首を傾げた。

 

「そう。ヒサゴプランでは、ターミナルコロニーの制御コンピューターによって経路の選択や運用条件を管理し、より柔軟な輸送ができるようになったわ。でも、基本的にはチューリップを利用した輸送網の範囲に制限されるの」

 

「なるほど。線路の決まった電車みたいなものね」

 

ミナトが頷いた。

 

「そう考えてもらって構わないわ」

 

イネスは指示棒を持ち直した。

 

「ところが、A級ジャンパーがいれば話は別です」

 

パタン。

今度は、何もない空間から突然姿を現す一隻の宇宙船が描かれていた。

 

「チューリップクリスタルなどによってジャンプフィールドを形成し、A級ジャンパーが目的地を正確にイメージして演算ユニットに伝えれば、既存のチューリップを利用しないジャンプが可能になるの」

 

「……つまり、好きなところに飛べるってこと?」

 

ヒカルが尋ねた。

 

「そういうこと。ただし、どこへでも自由に飛べるというわけではないわ。ジャンパーの能力やジャンプ装置の性能によって、さまざまな制約があるのよ」

 

「……能力って、何が違うんだ?」

 

「まず一つは、イメージング能力ね」

 

イネスは、指示棒で宇宙船の到着地点を示した。

 

「目的地をどれだけ正確に思い描けるか。それによって、ジャンプ先の精度が変わってくるの」

 

「……イメージするだけで?」

 

「ええ。でも、ただ場所を思い浮かべればいいというものではないのよ」

 

イネスは、少し楽しそうに説明を続けた。

 

「私たちが場所を思い描くとき、そこにはさまざまな情報が含まれているわ。景色や距離感、空間の広がり、過去に見聞きしたもの。そうした経験や記憶をもとに、頭の中で目的地を組み立てているの」

 

「……記憶、ですか」

 

ルリが小さく呟いた。

 

「そう。演算ユニットに伝えるのは単なる数字ではなく、ジャンパー自身が持つ目的地のイメージなの。どれだけ精密なイメージを作れるかが重要になるわ」

 

イネスは、紙芝居に描かれた宇宙船を指し示した。

 

「優れたジャンパーなら、それこそミリ単位で到着位置を指定することも、理論上は不可能ではないでしょうね」

 

「へえ……そりゃすげえな」

 

リョーコが感心したように声を上げた。

 

「でも、それだけじゃないの」

 

パタン。

今度は、大きさの異なる宇宙船が何隻も描かれた。

 

「ジャンプには、転移させる対象の質量やジャンプフィールドの規模といった問題もあるわ。どれだけ大きなものを飛ばせるかは、チューリップクリスタルや装置側の性能にも左右されるの」

 

「……そういや、さっきナデシコCもジャンプしてきたんだよな」

 

サブロウタが尋ねた。

 

「ええ。私がジャンプ先のイメージを担当したの」

 

「……戦艦一隻を?」

 

「そう。なかなか骨が折れたわ」

 

イネスは涼しい顔で答えた。

 

「同じA級ジャンパーでもその能力は差があるわ。私は1人で1隻をジャンプさせるので精一杯。だけど、より優れたジャンパーなら何隻もの戦艦を自由にジャンプさせることもできることも可能でしょうね」

 

「……そりゃそうだよな」

 

リョーコが頷いた。

 

「さて、ここからが本題です」

 

イネスは紙芝居をめくった。

描かれていたのは、敵艦隊の背後に突然出現する機動兵器の姿だった。

 

「チューリップを利用しないボソンジャンプ。これが軍事的に何を意味するか、わかるかしら?」

 

「……奇襲か」

 

リョーコが即答した。

 

「そのとおり」

 

イネスは頷いた。

 

「敵の防衛線を迂回して、重要拠点を直接攻撃できる。戦力の集中や撤退も、従来の宇宙航行とは比較にならないほど迅速に行えるわ」

 

「……さっきの積尸気みたいに、か」

 

サブロウタが顔をしかめた。

 

「ええ。あれがボソンジャンプを軍事利用する最大の利点の一つね」

 

パタン。

 

紙芝居には、地球の周囲に展開する巨大な艦隊と、各地に設けられた軍事施設が描かれていた。

 

「もし、高い精度で大量の兵員や機動兵器を自由にジャンプさせられるようになったら、どうなるでしょう?」

 

イネスは指示棒で、地球の各地を示した。

 

「地球連合の議会や軍事施設、発電所、通信施設。そうした重要拠点へ、警戒網をすり抜けて直接戦力を送り込むことができるの」

 

「……ひとたまりもねえな」

 

「そうでしょう? しかも攻撃が終われば、ただちに撤退することもできる。従来の防衛構想そのものを覆しかねない技術なのよ」

 

イネスは、再び演算ユニットの描かれた紙芝居を取り出した。

 

「でも、ここで一つ問題があります」

 

「……まだあるのかよ」

 

リョーコがぼやいた。

 

「もちろん」

 

イネスは笑みを浮かべた。

 

「自由なジャンプを行うためには、目的地のイメージを演算ユニットに伝えるA級ジャンパーが必要になります。つまり、A級ジャンパーの数だけしか、こうした自由な運用はできないの」

 

「……それじゃあ、多量に一度に飛ばすなんて無理じゃねえか」

 

「ええ。そこで火星の後継者は考えたの」

 

パタン。

紙芝居には、巨大な演算ユニットと、その周囲に並ぶ何隻もの宇宙船が描かれていた。

 

「もし、A級ジャンパーに、外部から入力されたジャンプ先を代わりに伝えられるようにしたら?」

 

「……あ!」

 

ヒカルが声を上げた。

 

「A級ジャンパーが乗ってなくても、自由にジャンプできるようになる!」

 

「正解」

 

イネスは満足そうに頷いた。

 

「本来、チューリップを介さなければ難しかった大規模なジャンプを、遺跡側から直接制御できるようになる。つまり、いつでも、どこへでも戦力を送り込めるということよ。ただし、そのためには非常に大量の情報を処理しなければならないの」

 

イネスは、演算ユニットと人間の間に引かれた線を指示棒でなぞった。

 

「ジャンプ先の座標だけではなく、転移させる対象や到着時の位置関係、各艦のジャンプする順番。そうした情報を正確に演算ユニットへ伝える必要があるわ」

 

「……人間一人に、そんなことできんのかよ」

 

「普通なら難しいでしょうね」

 

イネスは少しだけ表情を改めた。

 

「でも、IFSのように人間の神経系と演算装置を直接接続する技術を応用すれば、情報のやり取りを高速化することはできるわ」

 

「……IFS、ですか」

 

ルリが顔を上げた。

 

「ええ。人間の思考を機械に伝える技術は、もともとIFSの得意とするところでしょう?」

 

イネスは指示棒を置いた。

 

「もちろん、IFSを使えば誰でも演算ユニットを操作できる、というわけではないの。あくまで、演算ユニットに目的地を伝えられるA級ジャンパーの能力が前提となるわ」

 

そして、再び紙芝居をめくった。

演算ユニットの周囲から、無数の艦影が四方八方へ飛び去っていく。

 

「優れたジャンパーの能力と、それを補助する高度な情報伝達技術。この二つが組み合わされば、ジャンプの運用能力は飛躍的に高まるでしょうね」

 

「……なるほどな」

 

リョーコが腕を組んだ。

 

「だから連中は、A級ジャンパーを集めてたってわけか」

 

「ええ。そして、そのために行われていたのが、A級ジャンパーの組織的な誘拐と人体実験なのよ」

 

イネスの声が、わずかに低くなった。

 

「彼らは捕らえたA級ジャンパーを使い、ジャンプ能力を強化できるか、演算ユニットへの情報伝達を改善できるか、さまざまな実験を行っていたの」

 

それまで菓子をつまんでいたヒカルの手が止まった。

 

「……人体実験ってこと?」

 

「ええ」

 

イネスは短く答えた。

 

パタン。

 

紙芝居がめくられる。

そこには、演算ユニットの内部に組み込まれた、人間のシルエットが描かれていた。

 

「そして現在、火星の後継者が確保した演算ユニットには、A級ジャンパーが組み込まれていることがわかっています」

 

「……組み込まれている?」

 

サブロウタが聞き返した。

 

「そう。演算ユニットと直接接続され、外部から入力されたジャンプ先のイメージを伝える役割を担わされているの」

 

「……人間を、機械の部品みたいに使ってるってことかよ」

 

リョーコの声が低くなった。

 

「そういうことになるわね」

 

イネスは静かに頷いた。

 

「火星の後継者は、この仕組みを利用して大規模なボソンジャンプを運用しているの。個々の艦艇にA級ジャンパーを搭乗させる必要がないというのは、軍事的には非常に大きな利点なのよ」

 

ブリーフィングルームに、しばし沈黙が流れた。

机の上には、食べかけの菓子がそのまま残されている。

 

「……イネスさん」

 

ルリが口を開いた。

 

「その人は、まだ生きているんですか?」

 

「ええ。少なくとも、入手した記録からは生体反応が確認されているわ。ただ、演算ユニットとどの程度融合しているのか、詳しい状態まではわかっていないの」

 

「……そうですか」

 

ルリは小さく頷いた。

 

「……ひでえ話だな」

 

リョーコが吐き捨てるように言った。

 

「自分たちの都合で人をさらって、挙げ句の果てに機械に組み込むだと? ふざけやがって」

 

珍しく、誰もその言葉に茶々を入れなかった。

イネスは少しだけ間を置き、再び指示棒を持ち上げた。

 

「では、彼らはそこまでして手に入れたボソンジャンプを、何に使おうとしているのでしょう?」

 

パタン。

今度の紙芝居には、地球と火星、そして木星圏を結ぶ巨大な輸送網が描かれていた。

 

「ここで登場するのが、ヒサゴプランです」

 

「あ、それなら知ってる!」

 

ヒカルが手を上げた。

 

「ボソンジャンプで、太陽系のあちこちを結ぶ計画でしょ?」

 

「そのとおり。ヒサゴプランは、各地にターミナルコロニーを建設し、ボソンジャンプを利用した大規模な輸送網を整備する計画だったの」

 

イネスは紙芝居の地球と火星を指示棒で結んだ。

 

「従来の宇宙船では何日もかかっていた移動が、ほんの一瞬で済むようになる。人も物資も、これまでとは比較にならない速さで行き来できるようになるわ」

 

「便利な世の中になったもんだねえ」

 

イズミが、ポロロンとウクレレを鳴らした。

 

「ところが、この計画には大きな落とし穴があったの」

 

パタン。

輸送網のあちこちに、黒い人影が現れた。

 

「火星の後継者は、計画の初期段階から関係組織に人員を送り込み、長い時間をかけて内部に潜伏していたの。そして、輸送網が完成するのを待って、一斉に行動を起こしたというわけ」

 

「……最初から乗っ取るつもりだったのね」

 

ミナトが呟いた。

 

「そういうこと。彼らは主要なターミナルコロニーを占拠し、輸送網の制御権を奪おうとしているの」

 

紙芝居の輸送網が、次々と赤く塗り潰されていく。

 

「ボソンジャンプを利用した交通網を支配すれば、人や物資の流れを自由に操ることができるわ。つまり、太陽系全体の経済活動に大きな影響力を持つことになるの」

 

「……それだけじゃありませんね」

 

ルリが呟いた。

 

「ええ。軍事的にも、圧倒的な優位に立つことができるわ」

 

イネスは紙芝居をめくった。

描かれていたのは、巨大な艦隊と、その背後に出現する無数の機動兵器だった。

 

「通常の輸送網を掌握するだけでも大きな脅威だけれど、彼らには演算ユニットを利用した自由なボソンジャンプがあるわ。必要な場所へ、必要な戦力を直接送り込めるということね」

 

「……つまり、反撃する暇も与えず、各地を占拠できるわけか」

 

サブロウタが腕を組んだ。

 

「そういうこと。そして、彼らの目的は単なる軍事的な勝利ではないの」

 

パタン。

そこには、一人の男の肖像が描かれていた。

草壁春樹。

かつて木連を率い、地球との戦争を推し進めた強硬派の指導者である。

 

「火星の後継者を率いる草壁春樹は、現在の地球と木星の政治体制を否定し、ボソンジャンプを中心とした新たな秩序を築こうとしているのよ」

 

「……また、あのオッサンかよ」

 

リョーコが顔をしかめた。

 

「せっかく戦争が終わったってのに、まだ懲りてねえのか」

 

「草壁たちにとっては、戦争はまだ終わっていないのかもしれないわね」

 

イネスは静かに答えた。

 

「地球にも木星にも属さない、新しい支配体制。その実現のために、彼らはボソンジャンプの独占を狙い、そして演算ユニットを手中に収めた」

 

「……迷惑な話ねえ」

 

ミナトがため息をついた。

 

「迷惑ですむ話じゃねえだろ」

 

リョーコは煎餅の袋を机に放り出した。

 

「そんな連中に、宇宙を好き勝手にされてたまるかよ」

 

「ええ。だからこそ、私たちは演算ユニットを取り戻さなければならないの」

 

イネスは最後の紙芝居をめくった。

かつて火星極冠遺跡から発見された、巨大な演算ユニット。

その周囲を、無数の機動兵器が取り囲んでいる。

 

「火星の後継者が自由なボソンジャンプを運用できるのも、演算ユニットを掌握しているからなの。これを取り戻せば、彼らは最大の武器を失うことになるわ」

 

「……つまり、そこを押さえればいいんですね」

 

ルリが口を開いた。

 

「そう。でも、忘れてはいけないことがあるわ」

 

イネスは指示棒を演算ユニットの中央に向けた。

 

「そこには、A級ジャンパーが囚われているのよ」

 

紙芝居には、演算ユニットの内部に置かれた小さな人影が描かれていた。

 

「演算ユニットを取り戻すだけでは、問題は解決しないわ。接続されているジャンパーを、安全に切り離さなければならないの」

 

「……取り外せばいいってわけじゃないんですね」

 

ルリが尋ねた。

 

「ええ。演算ユニットとの接続が、本人の身体や意識にどのような影響を与えているのか、まだ十分にはわかっていないの。無理に分離すれば、命に関わる可能性もあるわ」

 

「……じゃあ、どうすんだよ」

 

リョーコが尋ねた。

 

「まずは演算ユニットの制御権を取り戻すことね。そのうえで、接続されているジャンパーの状態を確認し、分離する方法を考える必要があるわ」

 

イネスは指示棒を置いた。

 

「ただ、相手は古代火星文明の技術よ。私たちにもわかっていないことが多いの。火星の後継者の実験データも可能な限り回収しているけど、慎重に進める必要があるでしょうね」

 

「……なあ、イネス」

 

リョーコが口を開いた。

 

「何かしら?」

 

「その……演算ユニットに閉じ込められてる奴って、アキトだよな?」

 

イネスは、すぐには答えなかった。

 

「……現時点で、私から話せることは限られているわ」

 

「でもよ、A級ジャンパーなんだろ?」

 

「ええ」

 

「それに、火星の後継者は二年前からA級ジャンパーを狙ってたって話じゃねえか」

 

リョーコは一度、言葉を切った。

 

「……アキトは、あいつらに捕まってるんだろ?」

 

リョーコは拳を握りしめた。

 

「だったら話は早え!」

 

立ち上がる。

 

「火星に乗り込んで、遺跡をぶっ壊して、アキトを連れ戻してやればいい!」

 

「だって、そうだろ!」

 

リョーコは身を乗り出した。

 

「イネスだって、死んだことにされてたんだぜ? だったら、アキトだって……!」

 

言いかけて、リョーコは口をつぐんだ。

二年前の事故。

 

死んだはずのイネス。

 

そして、あの黒い機体。

アマテラスで聞いた声は、間違いなくユリカのものだった。

少なくとも、リョーコはそう信じていた。

 

「……ユリカが生きてるんなら、アキトだって生きてるはずだろ」

 

その言葉に、ヒカルの表情が変わった。

 

「……そっか。そうだよね」

 

ヒカルは胸の前で両手を握りしめた。

 

「アキトさんだって、A級ジャンパーだったもんね」

 

「……可能性は、あるのかもしれないわね」

 

ミナトが静かに呟いた。

けれど、その声はどこか硬かった。

長机の端では、ゴートが腕を組んだまま、黙って一同の会話を聞いている。

ルリもまた、何も言わなかった。

 

「……今、私から言えるのは、そこに誰かが囚われているということだけよ」

 

イネスは静かに答えた。

 

「でも、誰が囚われているのであっても、私たちの目的は変わらないでしょう?」

 

「……そりゃ、そうだけどよ」

 

リョーコは腕を組んだ。

それから、ふんと鼻を鳴らした。

 

「まあ、いいさ。どっちみち連中をぶっ飛ばして、閉じ込められてる奴を助け出しゃいいんだろ?」

 

「リョーコちゃんらしいねえ」

 

ヒカルが笑った。

 

「ああ!」

 

リョーコは力強く頷いた。

 

「そうと決まれば、さっさと行こうぜ!」

 

「ちょっと待って」

 

ミナトが苦笑した。

 

「まだ作戦の説明が終わってないんじゃない?」

 

「あ」

 

リョーコが、間の抜けた声を上げた。

 

「……そのとおりです」

 

ルリが静かに立ち上がった。

 

「イネスさん、少しお借りします」

 

「あら、どうぞ」

 

イネスから指示棒を受け取り、ルリは紙芝居の前に立った。

 

「今回の作戦では、ナデシコCの電子戦能力を利用し、火星の後継者の指揮通信系統と兵器制御系統を掌握します」

 

指示棒が、敵の艦隊を示した。

 

「彼らは統合された情報システムによって、艦艇や機動兵器を運用しています。その制御系に介入できれば、敵の戦力を大幅に無力化できます」

 

「……つまり、敵の機械を動かなくしちまうってことか?」

 

リョーコが尋ねた。

 

「簡単に言えば、そうです」

 

「もっとも、簡単ではありません」

 

ルリは淡々と続けた。

 

「敵の妨害を受けながら、広範囲のシステムを同時に制御する必要があります。そのためには、オモイカネCとの完全な接続が不可欠です」

 

「……だから、ナデシコCなのね」

 

ミナトが納得したように頷いた。

 

「はい」

 

ルリは指示棒を下ろした。

 

「現在、システム掌握プログラムの最終調整が進められています。調整が完了し次第、次の作戦段階へ移行します」

 

「……それで、演算ユニットは?」

 

リョーコが尋ねた。

 

「敵の戦力を無力化した後、演算ユニットの制御権奪還を目指します。ただし、古代文明の演算系そのものは、通常の電子戦とは別の対処が必要です」

 

ルリは一度、イネスを見た。

 

「そして、囚われているA級ジャンパーを救出します」

 

ブリーフィングルームが、静かになった。

 

「……わかったぜ」

 

リョーコが立ち上がった。

 

「要するに、オレたちがルリを守って、ルリが敵をやっつけりゃいいんだろ?」

 

「……だいたい、そんなところです」

 

「よっしゃ!」

 

リョーコは拳を握りしめた。

 

「今度こそ、アキトを連れて帰ろうぜ!」

 

「うん!」

 

ヒカルも勢いよく立ち上がった。

 

「もしアキトさんがそこにいるなら、今度こそ助けてあげなきゃ!」

 

サブロウタが頷き、イズミがウクレレを抱え直した。

イズミは、えへへへ、と笑いながらウクレレを爪弾いた。

その様子に、ヒカルが吹き出した。

やがて、部屋のあちこちから笑い声が上がり始める。

ルリは、その光景を静かに見つめていた。

懐かしい光景だった。

それぞれが勝手なことを言い、思い思いに振る舞っている。

けれど、不思議とまとまっている。

それが、かつてのナデシコだった。

そして今、彼らは再び同じ船に乗っている。

ルリは、ゆっくりと目を伏せた。

――アキトさん。

つい先日、墓地で黒衣の女性に問いかけた言葉が蘇る。

 

「……艦長?」

 

サブロウタに呼ばれ、ルリは顔を上げた。

 

「……何でもありません」

 

いつものポーカーフェイスに戻る。

 

「各員、出航準備をお願いします」

 

「おう!」

 

リョーコの威勢のよい返事が響いた。

ヒカルが慌てて菓子を集め、サブロウタが椅子を片づけ始める。

ミナトは、そんな彼らを見つめながら小さく微笑んだ。

その傍らで、イネスは静かに紙芝居を片づけていた。

最後の一枚。

演算ユニットの中央に描かれた、小さな人影。

イネスは、一瞬だけその絵に目を落とした。

そして、何も言わずに紙芝居を閉じた。

 

 

*

 

 

月面ネルガル、非公開整備ドック。

ナデシコCが出航した後も、地下深くの格納庫では整備作業が続いていた。

そこに係留されているのは、もう一隻の戦艦。

ユーチャリス。秘匿されたナデシコCの試験艦。

艦内ブリッジでは、ラピス・ラズリが最終チェックを進めていた。

その傍らには、黒いマントに身を包んだ人物が立っている。

顔の上半分は、黒いバイザーに覆われていた。

長い髪をまとめ、静かにスクリーンを見つめる。

 

「……準備、完了」

 

ラピスが報告する。

 

「ありがとう、ラピス」

 

柔らかな声が返ってきた。

 

「うん」

 

人物は、小さく頷いた。

その時、ブリッジの扉が開いた。

 

「……ここにいたのね」

 

エリナ・キンジョウ・ウォンだった。

手には、最新の作戦資料が握られている。

 

「ナデシコCが、無事にルリちゃんたちを収容したわ」

 

「……そうですか」

 

「敵の襲撃も撃退。火星へ向かう準備を始めたそうよ」

 

黒衣の人物は、しばらく黙っていた。

そして、静かに頷いた。

 

「……勝ちましたね」

 

エリナは、その言葉に小さく笑った。

 

「まだ作戦は始まったばかりよ」

 

「でも、もう決まりです」

 

黒衣の人物は答えた。

 

「あの子とオモイカネが、一つになれば……」

 

「無敵、ってわけね」

 

エリナが言葉を引き取った。

 

「まったく。あなたも、あの子の能力をずいぶん高く買っているのね」

 

「当然です」

 

黒衣の人物の声には、確信があった。

 

「ホシノ・ルリは、あの船を動かすために必要な人ですから」

 

「そうね」

 

エリナは頷いた。

 

「あなたたちが集めた戦闘データも、十分に役に立ったわ。ユーチャリスの運用記録。あれがなければ、ナデシコCの完成はもっと遅れていたでしょうね」

 

「……それなら、よかったです」

 

「それに、オモイカネCの調整も」

 

エリナは、わずかに目を細めた。

 

「ハーリー君が驚いていたそうよ。誰が基礎設定を済ませたのか、って」

 

「……そうでしょうね」

 

黒衣の人物は、小さく笑った。

 

「ホシノ・ルリに合わせた細かな調整は、マキビ・ハリ君の方が上手でしょうから。私は基礎になる部分を整えただけです」

 

「……だけ、ねえ」

 

エリナは呆れたようにため息をついた。

 

「あなた、自分がどれだけ無茶なことをしてるかわかってる?」

 

「……多少は。でもオモイカネとの『お話』、私は初めてでしたが楽しかったですよ」

 

「多少どころじゃないわよ」

 

エリナは資料を閉じた。

そして、少しだけ声を落とした。

 

「……本当に、行くの?」

 

黒衣の人物は答えなかった。

 

「あなたと出会ったばかりの頃を思い出すわ」

 

エリナは、目の前の人物を見つめた。

 

「まさか、こんなふうになるなんて思わなかった」

 

黒衣の人物は、何も言わなかった。

 

「……ねえ」

 

エリナは、静かに尋ねた。

 

「アキト君は、本当にそれを望んでいるの?」

 

長い沈黙が訪れた。

黒衣の人物は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……アキトの望みが、私の望みです」

 

静かな声だった。

 

「でも、それが正しいことなのかは、正直、わかりません」

 

エリナは黙って聞いていた。

 

「わたしらしく……そう言えるのかも、わかりません」

 

ほんの少しだけ、声が揺れた。

 

「だけど、決着をつけなきゃいけないんです」

 

黒衣の人物は、正面のスクリーンを見つめた。

そこには、火星の姿が映し出されていた。

 

「そうしないと、私はきっと……前に進めないから」

 

エリナは、しばらくその横顔を見つめていた。

 

「……そう」

 

エリナは、それだけを答えた。

 

「補給と整備、ありがとうございました」

 

「……いいのよ」

 

エリナは、いつもの調子で答えた。

 

「それが私の仕事なんだから」

 

そして、踵を返す。

数歩進んだところで、ふと足を止めた。

 

「……ただ」

 

誰にも聞こえないほどの声で、呟いた。

 

「……見ていられないのよ」

 

返事はなかった。

エリナは振り返らず、そのままブリッジを後にした。

残された黒衣の人物は、しばらく動かなかった。

 

「……ダイジョウブ?」

 

ラピスが、静かに声をかけた。

 

「……うん」

 

黒衣の人物は、小さく頷いた。

 

「大丈夫だよ、ラピス」

 

そして、ラピスの方へ向き直る。

 

「……また、力を貸してね」

 

「……ウン」

 

ラピスは、短く答えた。

スクリーンに、出航準備完了の文字が表示される。

ユーチャリス。

 

ブラックサレナ。

 

すべての準備は整った。

 

「……行こう」

 

黒衣の人物は、静かに告げた。

 

 

*

 

 

火星極冠基地。

赤い惑星の北極を覆う、広大な氷原。

かつて古代火星文明の遺跡が発見されたこの地は、今や火星の後継者の本拠地となっていた。

氷の上に築かれた基地の司令部では、将校たちが慌ただしく行き交っている。

草壁春樹は、中央の指揮席に座ったまま、正面のスクリーンを見つめていた。

地球から届く報告は、どれも芳しいものではなかった。

連合総会場の制圧失敗。

月臣元一朗による反乱部隊への投降勧告。

各地の制圧部隊が次々と武装を解除し、地球連合側へ降伏している。

長い歳月をかけて準備した一斉蜂起は、すでに失敗へと傾いていた。

 

「中将! 地球方面の制圧部隊から、また投降の報告です!」

 

「月臣め……!」

 

参謀の一人が、忌々しげに吐き捨てた。

 

「あやつの扇動に、これほど多くの者が応じるとは!」

 

「地球連合軍も反撃を開始しています! このままでは、各地の拠点が……!」

 

草壁は黙っていた。

木連の名の下に集った同志たち。

彼らの多くが、新たな秩序を築くという理想を信じていたはずだった。

しかし、月臣の説得を受け、次々と武器を捨てている。

もはや、地球での作戦は継続できない。

 

「……まだだ」

 

一人の将校が声を上げた。

 

「我々にはボソンジャンプがある! 演算ユニットさえ押さえていれば、戦力の再配置も可能だ! 再び奇襲すれば――」

 

「中将!」

 

その言葉を遮るように、通信士が叫んだ。

 

「火星極冠上空に、ボソンアウト反応!」

 

草壁が顔を上げた。

 

「……何?」

 

「艦影、一! 識別照合……ナデシコ!」

 

メインスクリーンに、白い戦艦の姿が映し出された。

その艦影を見た瞬間、司令部の空気が変わった。

 

「ナデシコだと!?」

 

「ばかな! 月軌道にいたはずではないのか!」

 

将校たちが次々と声を上げる。

草壁は、スクリーンに映る白い艦を見つめていた。

 

「……A級ジャンパーか」

 

その呟きに、答える者はいなかった。

次の瞬間だった。

司令部の照明が、一瞬だけ明滅した。

 

「……何だ?」

 

通信士が端末を操作する。

しかし、画面は反応しなかった。

 

「中将! 通信系統に異常発生!」

 

「火器管制システム、応答ありません!」

 

「基地防衛システムが……!」

 

将校の声が、途中で途切れた。

メインスクリーンに、無数のウィンドウが開いていく。

基地の見取り図。

 

防衛設備の配置。

 

通信回線の一覧。

そのすべてが、次々と書き換えられていった。

 

「外部からの侵入だ! 回線を切断しろ!」

 

「駄目です! 制御権が戻りません!」

 

「独立系統に切り替えろ!」

 

「そちらもすでに……!」

 

火器管制、停止。

 

通信系統、外部制御へ移行。

 

無人兵器、指令待機。

スクリーンの各所に、同じような表示が並んでいく。

そして。

すべてのウィンドウが、一斉に切り替わった。

そこには、たった一つの言葉が表示されていた。

 

『おやすみなさい』

 

「……これは」

 

草壁が、低く呟いた。

 

将校たちの間に動揺が広がる。

 

「電子の妖精……!」

 

 

*

 

 

ナデシコC、ブリッジ。

艦長席の周囲を、幾重もの光のウィンドウが取り囲んでいた。

その中心にいるのは、ホシノ・ルリ。

 

オモイカネCとのIFS接続によって、彼女の意識は艦の情報処理システムと深く結びついている。

 

火星全域の通信網。

 

極冠基地の防衛システム。

 

艦艇や機動兵器の管制情報。

無数の情報が、絶え間なく流れ込んでくる。

その膨大な情報を、オモイカネCが整理し、ルリの意識へと送り返していた。

 

「……第一防衛系統、掌握」

 

ルリが静かに告げた。

彼女の周囲に浮かぶウィンドウが、次々と緑色に変わっていく。

 

「第二防衛系統、掌握。通信系統、制御権取得」

 

「すごい……」

 

ハーリーが、思わず呟いた。

目の前で起きていることが、信じられなかった。

ナデシコCの電子戦能力が、極めて高いものであることは知っていた。

自分自身、その調整に携わってきたのだから。

しかし、これほどまでとは思っていなかった。

 

火星の後継者が長い年月をかけて構築してきた情報網が、ルリとオモイカネCの前では、次々と無力化されていく。

 

「……ハーリー君」

 

「は、はい!」

 

「敵の独立通信系統を確認してください」

 

「了解! 検索します!」

 

ハーリーは慌てて端末へ向き直った。

複数のウィンドウを開き、残存する通信経路を追跡する。

 

「独立回線、三十二系統を確認! うち二十八系統は、すでにこちらの制御下です!」

 

「残りは?」

 

「解析中です! ……あっ、今、二つ追加で!」

 

「では、残り二つをお願いします」

 

「はい!」

 

ハーリーは指を走らせた。

その途中、ふと月面ドックでの出来事を思い出した。

あの時、オモイカネCの基礎調整は、すでにほとんど完了していた。

誰が行ったのかもわからない、高度な設定。

あれがなければ、今のような円滑な接続は不可能だっただろう。

特に、IFSを介した情報の入出力系。

通常なら調整に膨大な時間を要する部分が、最初から最適化されていた。

まるで、このシステムを使う人間のことを、初めから知っていたかのように。

 

「……やっぱり、おかしい」

 

ハーリーは小さく呟いた。

しかし、それ以上考える暇はなかった。

 

「ハーリー君」

 

「はい!」

 

「残りの二系統、こちらで取得しました」

 

「えっ!?」

 

確認すると、端末にはすでに制御権取得の表示が出ていた。

 

「……早すぎますよ、ルリさん」

 

「そうですか?」

 

ルリは、いつもの調子で首を傾げた。

 

「オモイカネCの性能がいいんです」

 

ハーリーは、何とも言えない顔になった。

これが、電子の妖精。

 

ホシノ・ルリの力だった。

 

「……火星全域の軍事管制網、掌握完了」

 

ルリは静かに告げた。

 

「敵戦力の大部分を、無力化しました」

 

ブリッジの空気が、わずかに緩む。

しかし、ルリはまだ艦長席を離れなかった。

 

「……通信を開いてください」

 

「はい!」

 

ハーリーが通信回線を接続する。

メインスクリーンに、火星極冠基地の司令部が映し出された。

 

 

*

 

 

突然、司令部のメインスクリーンが切り替わった。

そこに映し出されたのは、一人の少女だった。

白い制服。

鈍い銀の光沢を帯びた、長い黒銀の髪。

雪のように白い肌と、年齢に似つかわしくない落ち着いた眼差し。

肌の下を淡い光が駆け抜けた。

 

活性化したナノマシンが全身を巡り、少女の金色の瞳が、内側から光を宿したように輝きを増していく。

 

その姿は、どこか人間離れした美しさを湛えていた。

 

『皆さん、こんにちは』

 

少女は、淡々と名乗った。

 

『地球連合宇宙軍所属、ナデシコC艦長のホシノ・ルリです』

 

「貴様……!」

 

一人の将校が声を上げた。

 

『草壁春樹元中将』

 

ルリは、その声には構わなかった。

 

『あなたを、逮捕します』

 

司令部が騒然となった。

 

「黙れ! 魔女が!」

 

「我々はまだ敗北していない!」

 

「中将! ここは徹底抗戦を!」

 

怒号が飛び交う。

しかし、草壁だけは黙っていた。

眼前のスクリーンには、現在の戦況が表示されている。

火星全域の防衛網は、すでにナデシコCの制御下にあった。

艦隊を動かすこともできない。

 

無人兵器も応答しない。

残存する戦力を集めようにも、通信系統そのものが掌握されている。

そして、地球側の作戦も失敗に終わった。

すべてが、終わっていた。

 

「……中将!」

 

将校の一人が、草壁に詰め寄った。

 

「まだ戦えます! 我々の理想は、こんなところで……!」

 

「……よい」

 

草壁が、低く言った。

その一言で、司令部が静まり返った。

草壁は、ゆっくりと立ち上がった。

スクリーンの向こうにいる少女を、まっすぐに見据える。

 

「……我々の負けだ」

 

誰もが、耳を疑った。

 

「中将……!」

 

草壁は、部下たちを振り返らなかった。

 

「ただし、一つ条件がある」

 

『……何でしょう』

 

「部下たちの安全は、保障してもらいたい」

 

ルリは、わずかに目を伏せた。

 

『……わかりました。武装を解除し、指示に従ってください』

 

草壁は、静かに頷いた。

 

「承知した」

 

火星の後継者。

ヒサゴプランを利用し、ボソンジャンプの独占によって新たな秩序を築こうとした者たち。

その壮大な計画は、たった一隻の戦艦によって終わりを告げた。

 

 

*

 

 

「……草壁中将、投降を受諾しました」

 

ナデシコCのブリッジ。

ルリが、通信の終了を確認した。

 

「火星極冠基地、武装解除を開始しています」

 

「やった!」

 

ハーリーが思わず声を上げた。

 

「やりましたね、ルリさん!」

 

「……はい」

 

ルリは小さく頷いた。

メインスクリーンでは、火星の後継者の艦艇や機動兵器が、次々と活動を停止している。

ハーリーは大きく息を吐いた。

これで、火星の後継者によるクーデターは阻止された。

長かった作戦が、ようやく終わったのだ。

しかし。

 

「……ルリさん?」

 

ルリは、まだスクリーンを見つめていた。

その表情に、安堵の色はなかった。

次の瞬間。

 

「ボソン反応!」

 

ハーリーが叫んだ。

 

「火星極冠基地周辺に、七つ!」

 

メインスクリーンに、七つの光点が現れた。

夜天光。

 

そして、六機の六連。

 

北辰衆だった。

 

「……北辰!」

 

ハーリーが息を呑む。

 

「ルリさん! 敵機がこちらへ接近しています! すぐに制御系への侵入を――」

 

「……その必要はありません」

 

「え?」

 

ハーリーが振り返った。

ルリは、静かに七つの光点を見つめていた。

 

「で、でも!」

 

「あの七機は独立した制御系統で動いています。こちらからの干渉はできません。それに……」

 

ルリは、いつもの無表情のまま答えた。

 

「……あの人が来ます」

 

ハーリーには、その言葉の意味がわからなかった。

しかし、ルリはそれ以上何も言わなかった。

ナデシコのエステバリス隊はいつでも出撃できるように待機をしている。

それでも。

あの人が、自分の手で決着をつけようとしていることだけは、わかっていた。

 

 

*

 

 

火星極冠基地周辺。

白く凍りついた大地を見下ろすように、七機の機動兵器が進んでいた。

先頭に立つのは、夜天光。

その後方に、六機の六連が続く。

北辰衆。

火星の後継者の影として、幾度となく暗殺と破壊工作を繰り返してきた者たちだった。

眼前には、ナデシコCの白い艦影がある。

すべての計画を打ち砕いた、電子の妖精が乗る戦艦。

しかし、その艦から攻撃が行われる気配はなかった。

 

「……隊長」

 

六連の一機から、通信が入った。

 

「草壁中将も、すでに投降の意向を示しておられる」

 

北辰は答えなかった。

眼前には、遠くナデシコCの姿が見えていた。

白い戦艦。

すべての計画を打ち砕いた、電子の妖精が乗る船。

 

「……ふむ」

 

北辰は、静かに笑った。

 

「地球側にA級ジャンパーが残っていた時点で……」

 

言葉を切る。

脳裏に浮かぶのは、一人の女の姿。

 

「……いや」

 

北辰は、わずかに首を振った。

 

「あの女を奪われた時点で、我々の敗北は決まっていたのかもしれぬな」

 

六連の操縦者たちは、何も答えなかった。

その時だった。

前方の氷原に、青白い光が走った。

空間が歪む。

 

その時だった。

前方の空間に、青白い光が走った。

ボース粒子が収束し、空間が歪む。

その中心から、流線型の巨大な艦影が現れる。

白亜の艦体、ユーチャリス。

その艦首には、一機の機動兵器が立っていた。

黒い装甲。

 

重厚な四肢。

 

赤いセンサーアイ。

 

ブラックサレナ。

 

「……ほう」

 

北辰が、低く笑った。

 

「やはり、参ったか」

 

ブラックサレナは答えない。

その赤いセンサーアイは、夜天光だけを見据えていた。

六機の六連が、左右へ展開していく。

七機対一機。

数の上では、圧倒的に不利な戦いだった。

それでも、ブラックサレナは微動だにしなかった。

夜天光が、ゆっくりと構えを取る。

 

「我らが因縁、ここで終わらせようではないか」

 

ブラックサレナの背部スラスターが、低い唸りを上げ始めた。

その操縦席で。

黒い耐Gスーツに身を包んだパイロットは、ただ静かに、眼前の敵を見据えていた。

もう、言葉は必要なかった。

八機の起動兵器が、一斉に飛び立った。

 

 

*

 

 

ブラックサレナの装甲は、すでに各所が損傷していた。

いかに重装甲の機体とはいえ、七機の連携攻撃を受け続ければ限界はある。

夜天光が、再び間合いを詰める。

ブラックサレナは、それを回避した。

だが、背後から六連の攻撃が迫る。

装甲に、衝撃が走った。

 

機体が大きく傾く。

 

「腕を上がった、だが……」

 

夜天光が、再び踏み込む。強烈な拳が次々と繰り出され、ブラックサレナの胸部装甲を捉えた。

 

「怖かろう。悔しかろう」

 

ブラックサレナの装甲が、火花を散らした。

 

「たとえ借り物の鎧をまとおうとも、己の弱さまでは守れないのだ」

 

その言葉に、ブラックサレナは答えなかった。

ただ、再び前へ出た。

 

真正面から。

 

北辰へ向かって。

 

その時だった。

 

『待たせたな!』

 

通信機に、威勢のいい声が響いた。

赤いエステバリスが、雪原へと飛び込んでくる。

リョーコ機だった。

その後方には、ヒカル機、イズミ機、そしてサブロウタのスーパーエステバリスが続く。

 

『悪いな! ちょっと遅れちまった!』

 

リョーコは、ブラックサレナを一瞥した。

 

『七対一なんて、卑怯な真似させてたまるかよ!』

 

その言葉に、北辰が低く笑った。

 

「……ほう」

 

夜天光が後退しブラックサレナが追撃する。

六連が追いかけようとするが、その前にリョーコたちのエステバリスが立ちはだかった。

 

『……おい、ユリカ!』

 

リョーコが外部スピーカー越しに叫んだ。

 

『こいつらは、オレたちに任せろ!』

 

リョーコは、拳を握りしめた。

 

『その代わり、絶対に負けんじゃねえぞ!』

 

リョーコは、再び前を向いた。

 

『行くぞ! 騎兵隊のお出ましだ!』

 

六連が散開する。

それを追いかけるように、四機のエステバリスが飛び出した。

雪原を舞台に、激しい戦闘が始まる。

その中心で。

ブラックサレナと夜天光が、再び向かい合った。

 

「しかし、哀れなものよ。何も知らず、ただ信じるとは」

 

北辰が笑った。

 

「紛い物なりにここまで来るとはな、偽りの復讐者よ。他人のみならず己自身すらも欺くのが得意と見える」

 

嘲るような笑い声が、通信回線に響く。

それでも、ブラックサレナは沈黙を守り、ゆっくりと構えを取った。

北辰は、その動きを見つめた。

 

「……抜き打ちか」

 

目を細める。

 

「笑止」

 

夜天光も、拳を構え直した。

 

 

*

 

 

ルリは、スクリーンに映る二機を見つめていた。

ブラックサレナ。

 

夜天光。

 

白い氷原に立つ黒と赤。

ルリは、その姿を見つめながら、静かに目を閉じた。

脳裏に、秩父の墓地が蘇る。

 

山の中腹にある、小さな墓地。

夕暮れの光が、墓石を照らしていた。

ルリは、黒衣の人物と向かい合っていた。

少し離れた場所には、ミナト、ゴート、月臣たちがいる。

彼らは、二人の会話を邪魔しないよう、距離を置いて見守っていた。

 

「……ルリちゃん」

 

黒衣の人物が、静かに言った。

 

「あなたに、渡したいものがあるの」

 

黒いマントの内側から、一枚の紙を取り出す。

丁寧に折り畳まれた、古い紙だった。

 

「……これは?」

 

ルリが尋ねる。

 

「……レシピ」

 

その人物は、小さく笑った。

 

「テンカワ特製ラーメンの、ね」

 

ルリは、思わず目を見開いた。

 

「……どうして、これを?」

 

「……預かっていたの」

 

短い答えだった。

 

ルリは、紙を受け取った。

 

ゆっくりと開く。

 

材料。

 

分量。

 

調理手順。

そこに書かれた文字には、見覚えがあった。

テンカワ・アキト。

 

「……アキトさん」

 

ルリは、小さく呟いた。

黒衣の人物は、何も答えなかった。

ルリは、しばらく紙を見つめていた。

そして、ゆっくりと顔を上げる。

 

「私、こんなもの……受け取れません」

 

「……どうして?」

 

「だって、これは……」

 

ルリは、もう一度レシピに目を落とした。

 

「ユリカさんが、持っているべきものです」

 

「ユリカさんが、アキトさんを助けた後に必要なものです」

 

黒衣の人物は、答えなかった。

ただ、どこか寂しそうに微笑んでいた。

その表情を見て、ルリは言葉を失った。

何かが、違う。

 

アマテラスで聞いた声。

 

墓地で再会した時の仕草。

そして、今、目の前で微笑んでいるこの人。

確かに、よく似ていた。

声も、バイザー越しの顔立ちも。

けれど。

ルリの知っている、あの人とはどこか違っていた。

それまで意識の隅に追いやっていた小さな違和感が、次第に大きくなっていく。

 

「……ひとつ、聞いてもいいですか」

 

「……何?」

 

その声を聞いた時。

 

ルリは、確信した。

 

ずっと、何かがおかしかった。

 

声。

 

仕草。

自分の名前を呼ぶ時の、わずかな間。

それらは、確かによく似ていた。

けれど。

ルリの知っている、あの人とは違っていた。

 

「……あなたは、誰ですか」

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