機動戦艦ナデシコ 造花の黒百合   作:くろっかす

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しばらく過去回です


第6話

テンカワ・アキトは、病室の前で足を止めた。

 

無機質な白い扉。

 

その向こうに、彼女がいる。

 

何度も夢に見た。何度も手を伸ばした。けれど、そのたびに届かなかった人が。

 

ようやく、取り戻したのだ。

 

そう思いたかった。

 

『……お兄ちゃん。まだ、会わない方がいいわ』

 

あの時、イネス・フレサンジュはそう言った。

 

『どうしてだ。ユリカは目を覚ましたんだろう?』

 

『……ええ。でも、検査はまだ終わっていないの。身体にも精神にも、相当な負担がかかっているわ。記憶にも混乱が見られるし……』

 

『記憶……?』

 

『あの子には、もう少し時間が必要なの。お願い、今はそっとしておいてあげて』

 

イネス・フレサンジュ。

 

かつて火星で出会った少女、アイちゃん。

 

彼女からそう告げられて、すでに一週間以上が経過していた。

 

ガラスの培養槽。

 

透明な液体の中に浮かんでいた、あの姿。

 

実験の影響で五感の多くを損なった、この身体。それでも、見間違えるはずがなかった。

 

あれは、テンカワ・ユリカだ。

 

ユリカ。

 

ようやく、その手を掴んだ。

 

火星の後継者に奪われてから、ずっと追い求めてきた。

 

何度も手がかりを失い、何度も届きかけては逃した。そのたびに、次こそはと自分に言い聞かせてきた。

 

ようやく救い出したのだ。

 

それなのに、救出してから一度も会えていない。

 

イネスは、もう少し待ってほしいと言った。

 

記憶が混乱しているのなら、なおさら自分が傍にいてやるべきではないのか。

 

自分のことを忘れていたとしても構わない。

 

もう一度、最初から始めればいい。

 

あいつが自分を思い出すまで、何度でも名前を呼んでやればいい。

 

……そう、思っていた。

 

長かった。

 

あまりにも、長かった。

 

イネスが何と言おうとも、これ以上待つことはできなかった。

 

アキトは扉の呼び出しベルを押した。

 

しばらくして、中から声が聞こえた。

 

「……イネスさん?」

 

懐かしい声だった。

 

何度も夢の中で聞いた、あの声。

 

アキトの胸が高鳴る。

 

ほどなくして、扉が開いた。

 

     *

 

病室には、一人の少女がいた。

 

白い寝台の上。

 

薄い病衣に身を包み、窓の外を眺めていた。

 

長い髪が、肩から背中へ流れ落ちている。

 

黒い髪。

 

けれど、見慣れた色とは違う。光を受けるたび、鈍い銀色の光沢が浮かんでいた。

 

その横顔を見た瞬間、アキトは息を止めた。

 

ユリカ。

 

そう呼びかけようとして、声が出なかった。

 

実験の影響だろうか。

 

長い間、あんな場所に閉じ込められていたのだ。身体にどんな変化が起きていても、おかしくはない。

 

自分だって、以前とはまるで違う身体になってしまった。

 

味覚も嗅覚も、ほとんど失われた。感情が激しく揺れると、体内のナノマシンが活性化し、皮膚に淡い光が浮かぶことさえある。

 

あいつだって、きっと同じなのだ。

 

そう考えた。

 

考えようとした。

 

ユリカが、こちらを振り向いた。

 

目が合う。

 

金色の瞳。

 

自分の知るユリカの青い瞳ではなかった。

 

アキトの足が止まった。

 

だが、少女はそんな彼の様子に気づくこともなく、不思議そうに首を傾げた。

 

「あなたは誰ですか?……どこかで、お会いしたことがありますか?」

 

アキトの胸が、ひどく軋んだ。

 

無理もない。

 

自分だって、以前とはまるで違う姿になっている。

 

黒い服。傷だらけの身体。失われた感覚。

 

何より、顔を覆うこのバイザー。

 

これでは、わかるはずもない。

 

それに、あの施設で何をされたのかもわからない。

 

記憶を失っていたとしても、不思議ではなかった。

 

アキトはゆっくりと手を伸ばした。

 

バイザーを外す。

 

久しく人前に晒していなかった素顔を、少女に向けた。

 

「……俺だ」

 

少女は目を瞬かせた。

 

「……?」

 

「テンカワ・アキトだ」

 

「テンカワ……アキト?」

 

少女は確かめるように、その名を繰り返した。

 

何かを思い出そうとしているのか、わずかに眉を寄せる。

 

アキトは息を呑んだ。

 

思い出してくれたのか。

 

自分のことを。

 

しかし、少女は申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「……ごめんなさい。わからなくて」

 

「…………」

 

「私、何も覚えていないんです。自分の名前も、ここに来る前のことも……」

 

アキトは黙って少女を見つめていた。

 

記憶喪失。

 

やはり、そうなのか。

 

それなら、説明がつく。

 

自分を覚えていなくても。

 

以前と姿が違っていても。

 

きっと、全部あの実験のせいなのだ。

 

「……お前の夫だ」

 

「……え?」

 

「俺は、テンカワ・アキト。お前の夫だ」

 

少女の金色の瞳が、大きく見開かれた。

 

「……夫?」

 

「ああ」

 

「私の……?」

 

「そうだ」

 

アキトは頷いた。

 

「俺たちは、結婚したんだ。……お前はミスマル・ユリカ、いや、俺の妻テンカワ・ユリカなんだ」

 

その言葉を口にした途端、胸の奥に懐かしい痛みが走った。

 

思い出す。

 

ナデシコで過ごした日々。

 

火星での約束。

 

ようやく互いの気持ちを確かめ合い、これから二人で生きていこうと誓った、あの日。

 

あれから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。

 

少女はしばらく黙っていた。

 

やがて、自分の左手を見つめる。

 

指先を一本ずつ開き、何かを探すように眺めていた。

 

「……結婚」

 

小さく呟く。

 

「じゃあ、私は……あなたのことを好きだったんですか?」

 

アキトは頷いた。

 

「……ああ」

 

好きだった。

 

そんな言葉では、足りない。

 

ユリカは、いつだって自分を見てくれていた。

 

自分が気づかない時も。

 

自分が彼女を遠ざけようとした時も。

 

いつだって、ずっと、変わらずに。

 

「……そう、なんですね」

 

少女は少し考え込んだ。

 

そして、もう一度顔を上げた。

 

「じゃあ……あなたは、私が好きだった?」

 

「…………!」

 

心臓が、跳ねた。

 

ふいに、懐かしい声が蘇った。

 

『アキトは私のこと、好きなんだから!』

 

いつだって、そうだった。

 

あいつは。

 

ユリカは。

 

自分がアキトを好きなのは当たり前で、アキトも自分を好きでいるのだと、何の疑いもなく信じていた。

 

勝手で、無邪気で。

 

いつだって人の都合も考えずに、こちらを振り回して。

 

それなのに、どうしようもなく憎めなくて。

 

今の問いかけも、どこかあの頃のユリカを思わせた。

 

「……ユリカ」

 

思わず、その名が漏れた。

 

少女が顔を上げる。

 

「はい?」

 

返事をした。

 

それだけで、胸がいっぱいになった。

 

今にも、あの笑顔を浮かべてくれるのではないか。

 

昔のように、アキト、アキトと呼びながら、抱きついてくるのではないか。

 

そんな、馬鹿げた期待を抱いてしまった。

 

「……好きだった」

 

声が震えた。

 

「好きだったよ。……今でも、ずっと」

 

少女はじっとアキトを見つめていた。

 

その視線が、少しだけ柔らかくなったように見えた。

 

「……そうなんですね」

 

小さく微笑む。

 

その笑顔に、アキトは息を呑んだ。

 

ユリカ。

 

そうだ。

 

やっぱり、お前は。

 

だが、次の瞬間。

 

「……あの」

 

少女は遠慮がちに口を開いた。

 

「一つ、聞いてもいいですか?」

 

「……何だ?」

 

「さっきから、私のことを……ユリカって呼んでいますよね」

 

「ああ」

 

少女は少し困ったように笑った。

 

「やっぱり、それが、私の名前なんですか?」

 

アキトの表情が凍りついた。

 

「…………」

 

「ごめんなさい。イネスさんにも最初その名前で呼ばれていたんですが、私、何も覚えていなくて……」

 

何も、覚えていない。

 

自分の名前さえ。

 

違う。

 

胸の奥に、小さな疑念が生まれた。

 

違う。

 

だが、何が違うというのだ。

 

あの施設で何をされたのか、まだ何もわかっていない。

 

記憶を失っただけかもしれない。

 

そうだ。きっと、そうに違いない。

 

「……ユリカ?」

 

もう一度、呼んだ。

 

少女は小さく首を傾げた。

 

「……はい」

 

返事はした。

 

けれど、その声には何の感慨もなかった。

 

目の前の男がそう呼ぶから、そう返事をした。

 

ただ、それだけだった。

 

「……俺が、わかるか?」

 

少女は黙った。

 

「テンカワ・アキトだ。……覚えてないのか?」

 

「……ごめんなさい」

 

「火星は?」

 

「……火星?」

 

「ナデシコは? 俺たちが一緒にいた、あの船は?」

 

少女は困惑したように目を伏せた。

 

「……わかりません」

 

「…………」

 

「ごめんなさい。私……」

 

アキトは少女の顔を見つめた。

 

その顔。

 

その声。

 

その仕草。

 

何もかもが、彼女によく似ていた。

 

だが。

 

よく見れば、違っていた。

 

髪も、瞳も。

 

頬の輪郭も、目元も、記憶にある彼女よりわずかに幼い。

 

まるで、ナデシコで再会した頃のユリカより、さらに数歳若い少女のようだった。

 

今まで気づかなかったのではない。

 

気づきたくなかったのだ。

 

ユリカなら。

 

あいつなら、こんな顔はしない。

 

自分のことを忘れていたとしても、もっと騒いで、もっと勝手なことを言って。

 

きっと、泣きながら笑うのだ。

 

こんなふうに、遠慮がちに笑ったりしない。

 

こんなふうに、他人の顔色をうかがったりしない。

 

まして、自分の名前を教えてもらうはずがない。

 

ふと、イネスの言葉が蘇った。

 

『あの子には、もう少し時間が必要なの』

 

あの子。

 

そういえば、イネスは一度も名前を口にしなかった。

 

なぜ。

 

何を、隠している。

 

病室に入る前から抱いていた違和感が、次々と形を成していく。

 

イネスが面会を止めた理由。

 

検査が終わっていないという言葉。

 

そして、あの施設。

 

ガラスの培養槽に並んでいた、いくつもの人影。

 

自分が助け出した少女。

 

ユリカに似た顔。

 

いや。

 

似ているのではない。

 

同じなのだ。

 

けれど、同じではない。

 

「……お前は」

 

喉の奥から、掠れた声が漏れた。

 

「お前は……誰だ?」

 

少女は答えなかった。

 

答えられなかったのだろう。

 

ただ、困ったように眉を寄せた。

 

「……ごめんなさい」

 

まただ。

 

また、その言葉だ。

 

「私も、自分が誰なのか……よくわからなくて」

 

少女は申し訳なさそうに俯いた。

 

「でも、あなたは私のことを知っているんですよね?」

 

アキトは何も言わなかった。

 

「だったら……教えてもらえませんか?」

 

金色の瞳が、まっすぐにアキトを見上げた。

 

「私が、どんな人だったのか」

 

違う。

 

「あなたと、どんなふうに過ごしていたのか」

 

違う。

 

「それから……」

 

少女は少しだけ微笑んだ。

 

「私が、あなたのことを好きだった理由も」

 

その瞬間。

 

アキトの中で、何かが切れた。

 

「……やめろ」

 

少女が口を閉じた。

 

「……え?」

 

「それ以上、喋るな」

 

声が震えていた。

 

怒りなのか。

 

悲しみなのか。

 

自分でも、わからなかった。

 

目の前にいるのは、ユリカではない。

 

そんなことは、もうわかっていた。

 

それでも。

 

あの顔で。

 

あの声で。

 

あいつと同じようなことを言う。

 

何も知らないくせに。

 

何も覚えていないくせに。

 

あいつの顔で、笑う。

 

「……あの、テンカワさん?」

 

その呼び方が、最後の一押しだった。

 

テンカワさん。

 

ユリカは、そんなふうに呼ばなかった。

 

アキト。

 

いつだって、そうだった。

 

何度も、何度も。

 

耳に残っている。

 

忘れたくても、忘れられない。

 

なのに、目の前の少女は。

 

まるで初めて会った他人にでもするように、遠慮がちに名前を呼んだ。

 

「……っ!」

 

気がつけば、少女の肩を掴んでいた。

 

「きゃっ!」

 

細い身体が寝台に倒れ込む。

 

「なんで……!」

 

アキトは少女を押さえつけた。

 

「なんで、ユリカじゃないんだ……!」

 

少女の顔が恐怖に歪んだ。

 

「や……っ、痛い……!」

 

「その顔で……その声で……!」

 

何もかもが、ユリカだった。

 

なのに、ユリカではない。

 

自分がどれだけ探したか。

 

どれだけ苦しんだか。

 

どれだけのものを犠牲にして、ここまで来たか。

 

ようやく。

 

ようやく取り戻したと思ったのに。

 

「なんで……お前なんだ……!」

 

少女が小さく首を振った。

 

「わ、わかりません……!」

 

怯えた声。

 

その声さえ、ユリカによく似ていた。

 

「私……何も……!」

 

「だったら……!」

 

肩を押さえていた手に力がこもる。

 

「だったら、どうして……!」

 

どうして、お前が生きている。

 

どうして、ユリカじゃない。

 

どうして。

 

あの時、俺は。

 

助けたはずだった。

 

確かに、この手で。

 

あの培養槽から。

 

必死になって。

 

ようやく掴んだ、あの手を。

 

離すまいと誓ったのに。

 

なのに。

 

また、間違えたのか。

 

俺は。

 

「……くそっ!」

 

肩を押さえていた片手が離れた。

 

そのまま、少女の首元へ伸びる。

 

何をするつもりだったのか。

 

自分でも、わからなかった。

 

ただ、目の前にあるその顔を。

 

ユリカによく似た、その顔を。

 

見ていたくなかった。

 

「……っ!」

 

少女が息を呑んだ。

 

大きく見開かれた金色の瞳。

 

その瞳に、黒い男の姿が映っていた。

 

恐怖。

 

ただ、それだけだった。

 

少女は抵抗しようともせず、身を固くしていた。

 

両手を胸の前に引き寄せ、震えている。

 

何が起きているのかもわからないまま。

 

突然現れた男に、押さえつけられて。

 

その男が、自分をどうしようとしているのかもわからずに。

 

ただ、怯えていた。

 

「…………」

 

アキトの手が止まった。

 

少女の頬を、一筋の涙が伝った。

 

声もなく。

 

ただ、静かに。

 

泣いていた。

 

その涙を見た瞬間、アキトは我に返った。

 

自分が何をしているのか。

 

何をしようとしていたのか。

 

目の前にいるのは、ユリカではない。

 

それどころか。

 

自分が誰なのかも知らない、一人の少女だった。

 

「…………」

 

アキトは、ゆっくりと手を離した。

 

一歩、後ずさる。

 

自分の手を見た。

 

何人もの敵を殺してきた手。

 

ユリカを取り戻すためなら、何でもすると決めた手。

 

その手を。

 

何も知らない少女に向けていた。

 

横を向くと、備え付けの洗面台に鏡があった。

 

そこに映っていたのは、自分だった。

 

眉間に深い皺を刻み、唇を引き結び、憎しみに満ちた眼差しで前を睨みつける男。

 

それは、戦いのたびに見慣れてきた顔だった。

 

北辰と向かい合い、殺意だけを胸に立っていた時の、自分の顔。

 

復讐のためだけに生きていた、あの頃の顔。

 

黒い服の隙間から覗く首筋や頬、こめかみのあたりを、ナノマシンの光が這っていた。

 

感情の昂ぶりに呼応するように、淡い燐光はいつもよりも強く、脈打つように明滅している。

 

肌の下を、無数の光の粒が奔流のように駆け巡っていた。

 

怒りと憎しみが、そのまま肉体の表面に滲み出ているようだった。

 

「…………」

 

息が止まりそうになった。

 

自分は今、誰に向かってこんな顔をしていたのか。

 

 

 

 

「……すまない」

 

 

 

少女は答えなかった。

 

ただ、寝台の上で身体を小さく丸めていた。

 

 

 

「…………すまない」

 

 

 

 

もう一度、謝った。

 

けれど、その言葉が届いたとは思えなかった。

 

少女は顔を伏せたまま、動かなかった。

 

アキトは床に落ちたバイザーを拾い上げた。

 

再び黒い仮面で素顔を覆う。

 

もう、少女の顔を見ることができなかった。

 

扉へ向かう。

 

一歩。

 

また一歩。

 

背後から、かすかな声が聞こえた。

 

「……あの」

 

足が止まった。

 

「……ごめんなさい」

 

アキトは振り返らなかった。

 

「私……」

 

少女の声が震えていた。

 

「私、何か……悪いことを、したんですか……?」

 

答えられなかった。

 

何も悪くない。

 

悪いのは、お前じゃない。

 

そう言えばよかった。

 

けれど、声が出なかった。

 

アキトは、そのまま病室を出た。

 

扉が閉まる。

 

廊下には、誰もいなかった。

 

アキトは壁に背を預けた。

 

手が震えていた。

 

少女の首元へ伸ばしかけた手。

 

恐怖に見開かれた金色の瞳が、頭から離れなかった。

 

ユリカではなかった。

 

わかってしまった。

 

ならば。

 

――本当のユリカは、どこにいる。

 

アキトはバイザーをかけ直した。

 

そして、誰もいない廊下を歩き始めた。

 

  

 

 

 

   *

 

 

 

 

ネルガル重工、月面研究施設。

 

地下会議室。

 

「……で、テンカワ君は?」

 

アカツキ・ナガレは、椅子に深く腰掛けたまま尋ねた。

 

普段なら、本社の会長室から通信越しに参加しているはずの男だった。

 

だが、今回は違う。

 

『テンカワ・ユリカの救出に成功』

 

その第一報を受けたアカツキは、珍しく自ら本社を離れ、月面施設まで足を運んでいた。

 

長らく行方の知れなかったテンカワ・ユリカ。

 

テンカワ・アキトが、すべてを犠牲にして追い求めてきた女性。

 

彼女がようやく救い出されたと聞けば、さすがのアカツキも、いつものように部下へ任せきりにはできなかったらしい。

 

もっとも、施設に到着する頃には、事態がそう単純なものではないことも知らされていた。

 

「自室に戻ったきりです。医療スタッフの呼びかけにも応じていません」

 

答えたのは、ゴート・ホーリーだった。

 

いつものように表情を変えず、直立したまま報告を続ける。

 

「少女の方も病室から出ようとしていません。イネス女史が診察したところ、両肩に圧迫による発赤が認められましたが、幸い重篤な損傷はありません。ただし、精神的なショックは大きいと考えられます」

 

「……まったく」

 

エリナ・キンジョウ・ウォンが、苛立たしげに腕を組んだ。

 

「何考えてるのよ、あの馬鹿!」

 

「エリナ君、少し落ち着きたまえ」

 

「落ち着いていられるわけないでしょう! あの子、やっと助かったばかりなのよ!」

 

アカツキは困ったように肩をすくめた。

 

「しかし、テンカワ君には困ったものだね。せっかく救い出したお姫様に、今度は王子様自身が手を上げるとは」

 

「会長!」

 

エリナはアカツキに非難の視線を向けた。

 

「もちろん、アキト君を擁護するつもりはないよ。ただ、彼の精神状態も決して正常とは言い難い。ゴート君。しばらく二人を接触させないようにしてくれ。特にアキト君の方には注意を払ってほしい」

 

「了解しました」

 

「監視なんて言い方はしたくないけどね。これ以上、どちらかが傷つくのは御免だ」

 

ゴートが一礼する。

 

そのとき、会議室の扉が開いた。

 

「お待たせいたしました」

 

柔和な笑みを浮かべた男が入ってくる。

 

プロスペクターだった。

 

その後ろから、イネス・フレサンジュも姿を現した。

 

「さて、皆様お揃いのようで」

 

プロスペクターは会議机の上に端末を置いた。

 

「救出作戦に関する現場報告と、回収資料の一次解析がまとまりましたので、ご報告させていただきます」

 

「……その前に、一ついいかしら」

 

イネスが口を挟んだ。

 

「アキト君と、あの子のことよ」

 

エリナが顔を上げる。

 

「何かわかったの?」

 

「……詳しいことは、まだ二人とも話してくれないわ。ただ、あの子が話してくれた範囲では、アキト君は自分が夫だと名乗ったそうよ」

 

「……夫?」

 

「ええ。アキト君はあの子をユリカさんだと思っていた。けれど、あの子には何のことかわからなかった」

 

イネスは小さく息をついた。

 

「自分が誰なのか、彼がどんな人なのか。あの子はただ、それを知ろうとしただけだったみたいね」

 

「……それで、あんなことになったってわけ?」

 

「そうね。会話の途中で、アキト君がひどく取り乱したみたい。あの子も、それ以上は話してくれなかったわ」

 

「……最悪ね」

 

エリナが吐き捨てた。

 

「だから言ったのよ。ちゃんと事情を説明してから会わせるべきだったって!」

 

「……ええ。私の管理が甘かったわ」

 

イネスは否定しなかった。

 

「もう少し時間が必要だと思っていたの。彼女の記憶の状態も、身体に施された処置も、まだよくわかっていなかったから」

 

「それなら、なおさらでしょう!」

 

「……そうね」

 

イネスは目を伏せた。

 

「アキト君が、あれほど待ち詫びていたことは知っていたのに」

 

しばらく沈黙が落ちた。

 

アカツキが口を開いた。

 

「……まあ、起きてしまったことを責めても仕方がない」

 

その声音から、いつもの軽薄さが消えていた。

 

「ただ、彼にもいずれ真実を伝えなければならない。僕らが隠し続けられる話でもないだろう?」

 

「……ええ」

 

イネスが頷いた。

 

「でも、今は少しだけ時間をあげてほしいの」

 

「わかった。二人のことはドクターに任せるよ」

 

アカツキは椅子に座り直した。

 

「……さて、本題に入ろうか」

 

プロスペクターが一礼する。

 

「承知いたしました」

 

*

 

会議室の照明が落とされた。

 

正面の大型スクリーンに、一枚の画像が映し出される。

 

薄暗い室内。

 

壁一面に並ぶ、無数の円筒形の容器。

 

内部には青白い液体が満たされ、何本ものケーブルが接続されていた。

 

「こちらは、今回の救出作戦で発見した研究区画です」

 

プロスペクターが説明を始めた。

 

「施設そのものは火星の後継者が保有していたものですが、既存の研究設備を大幅に改造した形跡があります。残念ながら、我々が突入した時点では、すでに証拠隠滅が始まっておりました」

 

「……証拠隠滅?」

 

エリナが眉をひそめた。

 

ゴートが口を開く。

 

「我々の突入に先立ち、敵部隊が研究区画の主要設備を破壊していました。生存していた研究員は確認されていません」

 

「研究員まで?」

 

「はい。遺体の状況と施設内の戦闘記録から、敵部隊によって殺害されたものと判断しています」

 

「……口封じ、というわけか」

 

アカツキが呟いた。

 

「その可能性が高いでしょう」

 

プロスペクターは画面を切り替えた。

 

「そして、こちらが培養区画の内部です」

 

映し出された画像を見て、エリナが息を呑んだ。

 

透明な容器の中に、人影が浮かんでいた。

 

若い女性。

 

長い髪。

 

閉じられた瞳。

 

その顔は。

 

「……ユリカさん?」

 

「ええ」

 

イネスが静かに答えた。

 

「遺伝子解析の結果、これらはすべてテンカワ・ユリカの遺伝情報をもとに造られたクローン体であることが判明したわ」

 

アカツキの目が細くなる。

 

「……複数、存在していたのか」

 

「ええ。少なくとも、今回回収できた資料から複数の個体が製造されていたことは確実ね。正確な総数は不明だけれど」

 

イネスは端末を操作した。

 

次の画像が表示される。

 

エリナは思わず口元を押さえた。

 

先ほどとは異なる、小型の培養槽。

 

その中にあったものは、もはや人の形すらしていなかった。

 

未発達な四肢。

 

形成途中で成長を止めた身体。

 

そして、身体の一部だけが残されたような組織。

 

どれも、無数のケーブルに接続されていた。

 

「……何よ、これ」

 

エリナの声が震えた。

 

「……これも、クローンなの?」

 

「そう記録されているわ」

 

イネスが答えた。

 

「正常な発生が得られなかった個体や、特定の器官だけを形成させた個体も含まれているようね」

 

「……そんな」

 

エリナは言葉を失った。

 

プロスペクターが続けた。

 

「研究資料によりますと、彼らは単にテンカワ・ユリカを複製しようとしていたわけではありません」

 

新たな資料が表示される。

 

神経活動の波形。

 

ナノマシンの反応曲線。

 

脳の断面図。

 

そこには、人間を一個の生命として扱う発想はなかった。

 

「一部の個体は、神経系の発達段階から特殊な処置を施されております。IFSの強制接続、ナノマシンによる神経回路の改変、外部演算装置との接続実験……」

 

「外部演算装置?」

 

アカツキが顔を上げた。

 

「ええ。どうやら、彼らはクローン体の脳そのものを、何らかの演算処理に利用しようとしていたようです」

 

イネスが補足した。

 

「通常のコンピューターでは再現できない、人間の認識能力を利用した演算系と考えられるわ。特に、ボソンジャンプに関連する実験が多いの」

 

「……なるほど。A級ジャンパーの能力か」

 

「おそらくね」

 

アカツキは画面を見つめた。

 

「テンカワ・ユリカの遺伝子を使って、ジャンパーを量産しようとした。いや……」

 

指を組み直す。

 

「最初から、人間として完成させることすら目的ではなかったのかもしれないね」

 

「そのようですな」

 

プロスペクターは、静かに答えた。

 

「回収された実験記録の中には、対象個体の自発的な神経活動を抑制し、外部からの命令だけを受け付けるよう調整した例もございます」

 

「……それって」

 

エリナが顔を上げた。

 

「自分で考えることもできないようにして、機械みたいに使おうとしたってこと?」

 

「簡単に申せば、そうなります」

 

誰も口を開かなかった。

 

スクリーンには、実験体を示す無機質な番号と、適合率を示す数値が並んでいる。

 

成功。

 

失敗。

 

廃棄。

 

そこに、人間の名前は一つもなかった。

 

「……ふざけるんじゃないわよ」

 

エリナが低く呟いた。

 

「こんなの、研究でも何でもないじゃない……!」

 

ゴートは無言で画面を見つめていた。

 

その表情は変わらない。

 

だが、机の上に置かれた拳には、わずかに力がこもっていた。

 

*

 

「……それで」

 

アカツキが沈黙を破った。

 

「彼女は、どういう存在なんだい?」

 

彼女。

 

アキトが救出した、あの少女。

 

イネスは資料を切り替えた。

 

スクリーンに、少女の顔写真が表示される。

 

黒銀の髪。

 

雪のように白い肌。

 

金色の瞳。

 

「まず、遺伝子配列はテンカワ・ユリカとほぼ一致しているわ。したがって、彼女がユリカさんのクローンであることは間違いないでしょう」

 

「……やはり、そうか」

 

アカツキが呟いた。

 

「ただし、通常のクローン体とは大きく異なる特徴があるの」

 

「というと?」

 

「彼女には、非常に高度なIFS適性が認められるわ。いわゆるIFS強化体質ね」

 

イネスは神経活動の解析結果を表示した。

 

「ルリちゃんのことは、皆さんご存じでしょう?」

 

「ああ、もちろん。ナデシコAの誇る天才オペレーターにして、現在はナデシコBの艦長だ」

 

「彼女もIFS強化体質の持ち主よ。通常のIFSでは難しい、AIとの高度な双方向通信ができるの」

 

「でも、IFSなんて珍しくないでしょう?」

 

エリナが尋ねた。

 

「パイロット用ならね。ただ、普通のコンピュータを操作するのに、そこまで高度な接続能力は必要ないのよ。一般人向けのオペレーター用IFSも、ほとんど普及していないわ」

 

「……なるほど。宝の持ち腐れというわけか」

 

アカツキが言った。

 

「以前は、そう考えられていたわ。でも、オモイカネ級AIの登場で状況が変わったの」

 

「……オモイカネ、か」

 

アカツキが頷いた。

 

「遺跡由来の技術を利用したあのAIは、従来のコンピュータとは比較にならない能力を持っている。でも、その能力を十分に引き出せる人間は限られていたの」

 

プロスペクターが口を開いた。

 

「そこで、それまであまり注目されてこなかったIFS強化体質の価値が、改めて見直されたというわけですな」

 

「ええ。ただ、この体質に着目した研究自体は、もっと以前から存在していたの。ルリちゃんが生まれ育った施設も、その研究の一端を担っていたと考えられるわ」

 

「……あの施設がねえ」

 

アカツキは腕を組んだ。

 

「先代会長の時代に、ネルガルも関連する研究に関わっていたらしいことは知っているよ。ただ、研究内容までは詳しく把握していないんだ」

 

「当時の資料も、一部しか残されておりませんからな」

 

プロスペクターが補足した。

 

「どうやら、先代は僕が思っていた以上に、いろいろと手を広げていたようだね」

 

アカツキは苦笑した。

 

「それで、あの子もルリちゃんと同じなの?」

 

エリナが尋ねた。

 

「基本的にはね。ただし、彼女の神経系には、通常のIFS強化体質とは異なる特殊なナノマシン処置が施されているの。高度な情報処理能力が認められる一方で、身体への影響はまだわかっていないわ」

 

「……何のために?」

 

「そこが問題なのよ」

 

イネスは資料を切り替えた。

 

「オモイカネ級AIと接続するためだけなら、ここまでする必要はないわ。彼女の場合、もう一つ重要な能力を併せ持っているの」

 

「……ジャンパーとしての能力かい?」

 

「ええ。回収した実験記録では、極めて高い適合率を示しているわ。少なくとも、A級ジャンパーに相当する能力を持つと考えられる」

 

「……人工的に生み出されたA級ジャンパー、か」

 

アカツキは小さく息を吐いた。

 

「成功してしまったわけだね。連中は」

 

「そうとも限らないわ」

 

イネスの声が硬くなる。

 

「A級ジャンパーの能力には、遺跡由来のナノマシンが深く関わっているの。本来は母体を通じて胎児にナノマシンが定着し、その後の発育過程でジャンプ能力が獲得されると考えられているわ」

 

「それを人工的に再現した、ということかい?」

 

「ええ。彼らはクローンの培養初期段階からナノマシンを定着させ、ジャンパーとしての能力を獲得させようとしたのでしょうね。ただし、成功したのはあの子ただ一人。再現性があるのか、それとも偶然の産物なのかは、まだわからないわ」

 

「……なるほどね。それにしても、随分と手の込んだことをするじゃないか」

 

「それだけの理由があったのでしょうね」

 

イネスは少し間を置いた。

 

「仮に、ボソンジャンプに関する膨大な情報を蓄積し、処理できるコンピュータが存在したとするわ」

 

「……ふむ」

 

「それをIFS強化体質の人間と接続する。そして、その人間がA級ジャンパーだったとしたら……」

 

アカツキの表情が変わった。

 

「……コンピュータの情報を、そのままジャンプのイメージに変換できる?」

 

「理論上はね。ただし、実際にそんなことが可能なのかはわからないわ」

 

プロスペクターが頷いた。

 

「回収した研究資料によりますと、彼らはその可能性を真剣に追求していたようです」

 

「……それで、あの子を造ったというわけか」

 

「おそらくは」

 

イネスは少女の写真を見つめた。

 

「テンカワ・ユリカのA級ジャンパーとしての資質に、IFS強化体質を組み合わせる。さらにナノマシンで神経系を強化することで、通常の人間では扱えない情報量に対応させようとしたのでしょう」

 

「……人間を、コンピュータの部品にするために?」

 

エリナが低い声で尋ねた。

 

イネスはすぐには答えなかった。

 

「……まだ、断定はできないわ。ただ、彼らが必要としていたのは、単なる優秀なオペレーターではなかったのでしょうね」

 

スクリーンには、少女の顔写真が映し出されていた。

 

その金色の瞳を見つめながら、アカツキが呟いた。

 

「……残酷な話だね」

 

イネスは静かに頷いた。

 

「それに……まだ、説明しなければならないことがあるわ」

 

画面が切り替わる。

 

今度は、脳の活動領域を示した図だった。

 

「彼女には、テンカワ・ユリカの記憶が転写されている可能性が高いの」

 

「……記憶?」

 

エリナが聞き返した。

 

「ええ。回収した研究記録には、ユリカさん本人から取得した記憶情報を、クローン体へ転写する実験について記されていたわ」

 

「……ちょっと待って」

 

エリナが眉をひそめた。

 

「遺伝子だけじゃなくて、記憶までコピーしたっていうの?」

 

「そういうことになるわね。ただし、どの程度完全に転写できたのかは不明よ」

 

イネスは少し考えてから続けた。

 

「実際、彼女自身はほとんど何も覚えていないの。自分の名前も、火星での生活も、ナデシコのことも。アキト君に尋ねられても、答えられなかったそうよ」

 

「……だったら、記憶の転写は失敗したってこと?」

 

「それは、まだわからないわ」

 

イネスは画面に表示された神経活動の解析結果を指し示した。

 

「転写された情報が、彼女自身の記憶として認識できる状態にあるとは限らないの。何らかの刺激で思い出す可能性もあるし、逆に、ずっと思い出せないままかもしれない」

 

「……なるほどね」

 

アカツキは指を組んだ。

 

「記憶を与えられたからといって、同じ人格になるわけではない、ということか」

 

「ええ」

 

イネスは静かに頷いた。

 

「彼女には、彼女自身の意識がある。たとえテンカワ・ユリカの記憶をすべて持っていたとしても、それを経験したのは彼女ではないわ」

 

アカツキはスクリーンを見つめた。

 

「……残酷な話だね」

 

ぽつりと、呟いた。

 

「自分のものではない人生を与えられて、そのうえ、本人ではないと言われるわけか」

 

エリナは顔を伏せた。

 

「……あの子、自分が何者なのかもわからないのね」

 

「そうね」

 

イネスは少女の顔写真を見つめた。

 

「それに、彼女自身の記憶もほとんどないの。培養槽から救出される以前のことは、断片的にしか覚えていないわ」

 

「……ひどい話ね」

 

エリナが小さく呟いた。

 

「勝手に生み出されて、勝手に他人の記憶を押し込まれて……」

 

唇を噛む。

 

「それで、自分が誰なのかもわからないなんて」

 

アカツキは答えなかった。

 

しばらくして、エリナが口を開いた。

 

「……それで、どうするつもり?」

 

「何がだい?」

 

「あの子よ。まさか、ネルガルで研究材料にするなんて言わないでしょうね?」

 

アカツキは苦笑した。

 

「おいおい、僕を何だと思っているんだい?」

 

「信用ならない大企業の会長」

 

「……手厳しいねえ」

 

いつもの軽口だった。

 

しかし、アカツキの目は笑っていなかった。

 

「確かに、彼女の存在はネルガルにとって計り知れない価値がある。人工的なA級ジャンパー、特殊なIFS、記憶転写技術。どれ一つ取っても、革命的な技術だ」

 

エリナの表情が険しくなる。

 

「アカツキ会長!」

 

「だからこそ、慎重に扱う必要がある」

 

アカツキは静かに続けた。

 

「彼女をもう一度実験台に乗せるような真似をすれば、僕らも連中と同じになってしまうし、黒い王子様はそれを止めるだろうね」

 

エリナは口を閉じた。

 

「今のところ、彼女の身柄はネルガルの保護下に置く。医学的に必要な検査は続けるが、本人の意思を無視した実験は認めない」

 

「……当然よ」

 

「それに、彼女を奪い返そうとする連中が現れないとも限らないからね」

 

アカツキはゴートに目を向けた。

 

「警備体制を強化してくれ」

 

「了解しました」

 

ゴートが短く答えた。

 

*

 

「……さて」

 

プロスペクターが、端末の画面を切り替えた。

 

「もう一つ、重要なご報告がございます」

 

スクリーンに、研究施設の見取り図が表示された。

 

「今回の救出作戦では、研究区画の大部分を調査することができました。しかし、一部の区画については、すでに主要な設備が搬出されておりました」

 

「……搬出?」

 

アカツキが尋ねた。

 

「ええ。大型の生命維持装置を設置していたと思われる区画です」

 

画面が拡大される。

 

床に残された固定具。

 

太い電源ケーブル。

 

切断された冷却配管。

 

その中央には、大きな円筒形の装置が置かれていたと思われる跡があった。

 

「こちらは、他の培養槽とは構造が異なります。残された資料から、生体を長期間維持するための設備だったと推測されます」

 

「……何が入っていたんだい?」

 

「それが、問題でして」

 

プロスペクターは眼鏡を押し上げた。

 

「該当する記録は、ほぼ完全に消去されておりました。ただし、破損したデータの一部から、搬出に関する記録を復元できました」

 

画面に、短い文字列が表示される。

 

『原個体 移送完了』

 

エリナが息を呑んだ。

 

「……原個体?」

 

「ええ。クローン体とは別に、このような区分で管理されていた個体が存在したようです」

 

アカツキは腕を組んだ。

 

「……オリジナル、ということか」

 

「その可能性が高いかと」

 

「……ユリカさん」

 

エリナが小さく呟いた。

 

イネスは画面を見つめた。

 

「少なくとも、彼女があの施設にいた可能性は高いわね。クローンを造るには、オリジナルの遺伝情報だけでなく、記憶情報も必要だったのでしょうから」

 

「……今は、どこに?」

 

「残念ながら、搬送先に関する記録は削除されております」

 

プロスペクターが答えた。

 

「ただ、移送が行われたのは、我々の突入より前です。救出作戦の直前に急遽移されたのか、それ以前から計画されていたのかは、まだ判断できません」

 

「……生きているのか?」

 

アカツキが尋ねた。

 

プロスペクターは少し間を置いた。

 

「現時点では、不明です。ただし、移送時の記録には、生命維持状態が安定していたことを示す数値が残されております」

 

「……そうか」

 

アカツキは目を伏せた。

 

少なくとも、まだ希望はある。

 

だが、それがどれほど細い糸なのかは、誰にもわからなかった。

 

やがて、ゴートが低い声で言った。

 

「一つ、気になる点があります」

 

全員の視線が集まる。

 

「現場の戦闘記録を確認したところ、研究区画の破壊は極めて計画的に行われていました。通常の撤退戦とは異なります」

 

「……どういうことだい?」

 

「敵は、研究施設そのものを守ろうとしていませんでした。むしろ、我々が到着する前に研究員と実験体を処分し、施設の記録を消去することを優先していたようです」

 

「……なるほど」

 

アカツキが目を細めた。

 

「最初から、捨てるつもりだったわけだ」

 

「おそらく」

 

ゴートは頷いた。

 

「そして、それを指揮していたのは……」

 

スクリーンに、戦闘記録から切り出された画像が表示される。

 

 

特徴的な外套。

 

三度笠を被った集団。

 

「……北辰」

 

エリナが吐き捨てるように言った。

 

ゴートは無言で頷いた。

 

「北辰衆が撤退するまで、研究区画の破壊は続けられていました。我々が確保できたのは、彼らが処分しきれなかった資料と、救出した少女だけです」

 

「……つまり」

 

アカツキが呟いた。

 

「連中は、あの子を失っても構わなかったということか」

 

「いえ」

 

プロスペクターが静かに首を振った。

 

「それについては、少々異なる見方ができるかもしれません」

 

「……ほう?」

 

「回収資料によれば、救出した少女は、今回の実験で唯一、目的とする適合条件を満たした個体とされています」

 

「唯一……」

 

「ええ。他の個体は、いずれも何らかの段階で失敗と判定されております」

 

プロスペクターは画面を切り替えた。

 

「しかも、施設内には実験設備の移設計画が残されていました。研究そのものは、すでに次の段階へ進もうとしていたようです」

 

アカツキの表情が変わった。

 

「……次の段階?」

 

「こちらをご覧ください」

 

スクリーンに、破損した研究記録の一部が映し出された。

 

大半の文字は判読できない。

 

しかし、いくつかの項目だけが残っていた。

 

『A級ジャンパー適合』

 

『生体演算系』

 

『ユニット接続』

 

「……ユニット?」

 

アカツキが眉をひそめた。

 

「ええ。資料の中に、何度かこの単語が登場しております」

 

「具体的には?」

 

「不明です。装置の名称なのか、システム全体を指すものなのか、それすら判然としません」

 

イネスが画面を見つめた。

 

「……生体演算系と、ユニット接続」

 

その声には、かすかな緊張があった。

 

「何か心当たりが?」

 

アカツキが尋ねる。

 

「……いいえ。まだ、何とも言えないわ」

 

イネスは首を振った。

 

「ただ、A級ジャンパーの能力を、単にボソンジャンプのためだけに利用しようとしていたとは思えないの」

 

「……ふむ」

 

アカツキは顎に手を当てた。

 

「連中がそこまでして手に入れようとしているもの……か」

 

しばらく沈黙が続いた。

 

やがて、アカツキが再び口を開いた。

 

「……一つ、嫌な可能性があるね」

 

エリナが顔を上げる。

 

「……何よ?」

 

「彼女たちは、何らかの装置に組み込むために造られた。その中で、唯一の成功個体だった少女が、僕らの手に渡った」

 

「……それで?」

 

「連中は、別の方法を考える必要に迫られるかもしれない」

 

エリナの顔から血の気が引いた。

 

「……まさか」

 

アカツキは、スクリーンに残る文字列へ目を向けた。

 

『原個体 移送完了』

 

「オリジナルは、まだ連中の手の中にある可能性が高い」

 

「……やめてよ」

 

エリナの声が震えた。

 

「まさか、ユリカさんを代わりに使うつもりだっていうの……?」

 

「まだ、そうと決まったわけじゃない」

 

アカツキは静かに答えた。

 

「だが、連中が自由に使えるA級ジャンパーは、そう多くないはずだ。協力を拒む者を排除し、ようやく造り上げた適合個体まで失った。となれば、焦っていても不思議じゃない」

 

アカツキはスクリーンに視線を戻した。

 

「そして、彼らの手元には、まだオリジナルが残されている可能性が高い」

 

「……もう、いいわ」

 

エリナが遮った。

 

それ以上は、聞きたくなかった。

 

イネスも何も言わなかった。

 

画面には、破損した研究記録が映し出されている。

 

『生体演算系』

 

『ユニット接続』

 

人間を、装置の一部として扱う。

 

そんなことを、彼らは本気で実行しようとしていた。

 

そして今、その対象が本物のユリカに移されるのだとしたら。

 

「……捜索は続けよう」

 

アカツキが口を開いた。

 

「こちらも、使える手はすべて使うつもりだ。プロス君、移送された原個体と、このユニットとやらについて、引き続き調査を頼むよ」

 

「承知いたしました」

 

プロスペクターが一礼する。

 

「ただし、あまり期待はなさらぬ方がよろしいかと。敵も相当に慎重です。今回の施設は、彼らにとってすでに役割を終えたものだったのでしょう」

 

「……そうだろうね」

 

アカツキは椅子に深く腰掛けた。

 

「それにしても……」

 

スクリーンに映る少女の顔写真を見つめる。

 

「彼女は一体、何のために生み出されたんだろうね」

 

その問いに、答える者はいなかった。

 

 

 

*

 

 

 

会議が終わり、ゴートとプロスペクターが退室した後。

 

アカツキは、まだ椅子に座っていた。

 

エリナも席を立とうとしない。

 

「……ねえ、会長」

 

「何だい?」

 

「あの子、これからどうなるの?」

 

「先ほど説明した通りだよ。しばらくはここで保護して、イネス先生に診てもらうことになるだろうね」

 

「そうじゃなくて」

 

エリナは首を振った。

 

「あの子、これからどうやって生きていくのよ」

 

アカツキは答えなかった。

 

「名前もない。家族もいない。自分の記憶だと思っていたものまで、他人から与えられたものかもしれないなんて……」

 

エリナは少女の顔写真を見つめた。

 

「しかも、自分を助けてくれた人にまで、あんなことをされて」

 

イネスが静かに目を伏せた。

 

「……彼女にとっては、あの培養槽の中が世界のすべてだったのかもしれないわね」

 

「……そうね」

 

「外に出て、ようやく自由になったと思ったら、自分が何者なのかもわからなくなってしまった」

 

イネスは小さく息をついた。

 

「……残酷な話だわ」

 

しばらく沈黙が続いた。

 

やがて、アカツキが口を開いた。

 

「……だからこそ、ここから先は、彼女自身に決めてもらうしかないんじゃないかな」

 

エリナが顔を上げた。

 

「……何を?」

 

「自分が何者なのか。どう生きていくのか。少なくとも、僕らが決めることではないだろう?」

 

「……珍しく、まともなこと言うじゃない」

 

「おいおい。僕はいつだってまともだよ」

 

アカツキは肩をすくめた。

 

いつもの調子だった。

 

けれど、その表情はすぐに真剣なものへと戻った。

 

「……それと、アキト君のことだけど」

 

エリナの表情が曇った。

 

「……何?」

 

「しばらく、彼女には近づけない方がいいだろうね」

 

「当然よ」

 

「ただ、彼にも説明は必要だ。自分が助け出した少女が何者なのか。そして、ユリカ君がまだ見つかっていないことも」

 

イネスが頷いた。

 

「……ええ。私から話すわ」

 

「頼むよ」

 

アカツキは立ち上がった。

 

「まったく……」

 

小さく息を吐く。アカツキは、先ほど自分が口にした言葉を思い返していた。

 

「……『私らしく』、か」

 

その声に、いつもの軽薄さはなかった。

 

エリナは、少しだけ驚いたようにアカツキを見た。

 

だが、何も言わなかった。

 

 

 

*

 

ネルガル月面施設、医療区画。

 

白い病室には、静寂が戻っていた。

 

少女は寝台の上で膝を抱え、閉じた扉を見つめていた。

 

もう、どれくらいそうしていただろう。

 

肩の痛みは、少しだけ和らいでいた。

 

けれど、身体の震えはまだ収まらない。

 

目を閉じると、あの男の顔が浮かんでくる。

 

黒い服。

 

顔を覆う、奇妙なバイザー。

 

そして、その下に隠されていた素顔。

 

最初は、嬉しそうだった。

 

自分を見つめる眼差しには、確かに喜びがあった。

 

それなのに。

 

最後には、あんなに悲しそうな顔をしていた。

 

『なんで、ユリカじゃないんだ……!』

 

怒鳴り声が、耳の奥に残っている。

 

肩を掴まれ、寝台に押し倒された時のことを思い出すと、思わず身体が強張った。

 

怖かった。

 

あの人が、何をしようとしていたのか。

 

それだけは、わかった。

 

けれど。

 

「……テンカワさん」

 

小さく呟いてみる。

 

返事はない。

 

あの人は、自分のことを知っていると言った。

 

夫だと。

 

自分のことが好きだったと。

 

今でも、ずっと好きだと。

 

けれど、あの人が探していたのは、自分ではなかった。

 

ユリカ。

 

あの人は、何度もそう呼んでいた。

 

その名前を聞くたびに、胸の奥がざわついた。

 

知らない名前のはずなのに。

 

どこか、懐かしい。

 

けれど、いくら考えても何も思い出せない。

 

自分は、誰なのだろう。

 

どこから来たのだろう。

 

どうして、あの人は自分を知っていたのだろう。

 

少女は膝に顔を埋めた。

 

その時だった。

 

ふと、脳裏に光景が浮かんだ。

 

暗い場所。

 

冷たい水。

 

どこまでも続く、透明な壁。

 

「……あれ?」

 

少女は顔を上げた。

 

知っている。

 

この場所を。

 

白い光が、ぼんやりと揺れている。

 

身体は重く、手足を動かそうとしても動かない。

 

何本もの管が、身体に繋がっていた。

 

ガラスの向こうには、似たような容器がいくつも並んでいる。

 

その中に、何かが浮かんでいた。

 

自分と同じような、人の形をしたもの。

 

けれど、どれも動かなかった。

 

怖い。

 

そう思ったことだけは、覚えている。

 

どれくらい、そこにいたのだろう。

 

時間の感覚はなかった。

 

眠っていたのか、起きていたのかさえ、わからない。

 

ただ、時折聞こえる機械の音と、ガラス越しに動く白い人影だけが、世界のすべてだった。

 

その世界が、ある時、突然壊れた。

 

激しい振動。

 

遠くで響く爆発音。

 

赤い警告灯が、何度も明滅している。

 

何かが割れるような音がした。

 

透明な壁に、亀裂が走る。

 

冷たい液体が流れ出し、身体が傾いた。

 

息ができない。

 

苦しい。

 

怖い。

 

誰か。

 

助けて。

 

声にならない声で、そう願った。

 

その時。

 

ガラスの向こうに、人影が現れた。

 

黒い服。

 

黒いマント。

 

顔を覆う、黒いバイザー。

 

「……あ」

 

少女は息を呑んだ。

 

知っている。

 

あの人だ。

 

病室に来た、あの男の人。

 

砕けたガラスの向こうから、黒い腕が伸びてきた。

 

冷たい液体の中で、誰かに身体を抱き上げられる。

 

視界が揺れた。

 

何かを叫ぶ声が聞こえた。

 

けれど、何を言っているのかはわからなかった。

 

ただ、その腕だけは、はっきりと覚えている。

 

強く。

 

けれど、壊れ物を扱うように、慎重に。

 

自分を抱きかかえていた。

 

黒いマントに包まれる。

 

冷たい水の中から、温かい腕の中へ。

 

それが、初めて知った外の世界だった。

 

「……そうだ」

 

少女は小さく呟いた。

 

「あの人が……」

 

自分を助けてくれた人。

 

あの暗く冷たい場所から、連れ出してくれた人。

 

思い出した途端、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

あの人は、怖い人だと思っていた。

 

けれど、最初からそうだったわけではない。

 

自分を助けてくれた時、あの人はとても必死だった。

 

何度も、何度も。

 

誰かの名前を呼んでいたような気がする。

 

「……ユリカ」

 

その名前を口にした瞬間。

 

「……っ!」

 

頭の奥に、鋭い痛みが走った。

 

視界が揺れる。

 

何かが、流れ込んでくる。

 

赤い大地。

 

どこまでも続く、火星の空。

 

そこを駆けていく、小さな男の子。

 

『アキトー!』

 

明るい声が響いた。

 

自分の声だった。

 

いや。

 

自分の声によく似た、誰かの声。

 

男の子が振り返る。

 

少し困ったような顔。

 

その顔を見た瞬間、胸が高鳴った。

 

知っている。

 

この子を、知っている。

 

嬉しくて、駆け寄ろうとした。

 

けれど、足が動かない。

 

そもそも、自分はどこにいるのだろう。

 

次の瞬間、景色が変わった。

 

白い戦艦。

 

広いブリッジ。

 

いくつものモニター。

 

慌ただしく行き交う人々。

 

『艦長!』

 

誰かが呼んだ。

 

振り返る。

 

視界の端に、白い制服の袖が映った。

 

長い髪が、肩の上で揺れている。

 

目の前のスクリーンに、一人の女性の顔が映り込んだ。

 

青い瞳。

 

青みがかった長い黒髪。

 

その女性が、笑っている。

 

『はーい! みんな、頑張っていきましょう!』

 

自分の口が、勝手に動いた。

 

いや。

 

違う。

 

これは、自分ではない。

 

それなのに、声も、笑い方も、あまりにも自然だった。

 

懐かしい。

 

この場所を、知っている。

 

ここにいた人たちも。

 

この白い船も。

 

ナデシコ。

 

そうだ。

 

これは、ナデシコだ。

 

さっき、あの人が口にしていた名前。

 

知らないはずだった。

 

初めて聞いた言葉のはずだった。

 

それなのに。

 

次々と、光景が浮かんでくる。

 

赤い星を見下ろすブリッジ。

 

賑やかな食堂。

 

赤やオレンジの制服を着た少女たち。

 

そして。

 

黄色い制服を着た一人の青年。

 

『ユリカ!』

 

呼ばれた。

 

その声に、胸が弾んだ。

 

嬉しい。

 

名前を呼んでもらえただけで、嬉しい。

 

『アキト!』

 

自分の口が、勝手に動いた。

 

いや。

 

違う。

 

誰かが、そう叫んだのだ。

 

『アキトは私のことが好き!』

 

明るい笑い声が響く。

 

胸の奥から、温かな感情が溢れてくる。

 

好き。

 

大好き。

 

ずっと、ずっと好きだった。

 

幼い頃から、何度も追いかけた。

 

何度も名前を呼んだ。

 

泣いたことも、怒ったこともあった。

 

それでも、最後には必ず笑っていた。

 

アキトがいたから。

 

あの人が、傍にいてくれたから。

 

「……アキト」

 

少女の唇から、名前が零れた。

 

さっきまで、知らなかったはずの名前。

 

初めて会ったはずの男の人。

 

それなのに。

 

今は、その人の笑顔が、どうしようもなく懐かしかった。

 

さらに、景色が変わる。

 

小さな部屋。

 

湯気の立つ料理。

 

食卓を囲み、目の前には一人青年と銀髪の少女。

 

青年が、少し照れくさそうに笑っている。

 

見覚えのある顔だった。

 

あの人だ。

 

病室に来た、あの男の人。

 

けれど、まるで違っていた。

 

顔を覆うバイザーもない。

 

傷もない。

 

憎しみに満ちた眼差しもない。

 

ただ、穏やかに笑っていた。

 

その顔を見た瞬間、胸が締めつけられた。

 

嬉しい。

 

温かい。

 

幸せ。

 

そんな感情が、次々と溢れてくる。

 

この人と、一緒にいたい。

 

ずっと。

 

いつまでも。

 

そんな願いが、胸の奥から湧き上がってきた。

 

「……違う」

 

少女は頭を押さえた。

 

知らない。

 

こんな場所、知らない。

 

こんな人たち、知らない。

 

火星も、ナデシコも。

 

さっき、あの人に尋ねられた時は、何もわからなかった。

 

なのに。

 

どうして、こんな光景が浮かぶのだろう。

 

どうして、こんなにも懐かしいのだろう。

 

自分は、あの場所にいたのだろうか。

 

あの人と、一緒に過ごしていたのだろうか。

 

わからない。

 

何も、わからない。

 

ただ、胸の奥に残る感情だけは、妙にはっきりしていた。

 

アキト。

 

その名前を思い浮かべるだけで、心が温かくなる。

 

けれど。

 

病室で見たあの人は、笑っていなかった。

 

眉間に深い皺を寄せて。

 

苦しそうに顔を歪めて。

 

自分を押さえつけながら、叫んでいた。

 

『なんで、ユリカじゃないんだ……!』

 

「……ユリカ」

 

その名前が、再び頭の中に響いた。

 

同時に、一人の女性の顔が浮かんだ。

 

青い瞳。

 

青みがかった長い黒髪。

 

屈託のない笑顔。

 

ミスマル・ユリカ。

 

テンカワ・ユリカ

 

なぜか、その名前を知っていた。

 

知らないはずの顔も、声も。

 

まるで、自分自身のことのように。

 

けれど。

 

その人は、自分なのだろうか。

 

少女は、ゆっくりと寝台から降りた。

 

足元が少しふらついた。

 

壁に手をつきながら、洗面台へ向かう。

 

鏡の前に立った。

 

そこに、一人の少女が映っていた。

 

長い黒銀の髪。

 

金色の瞳。

 

雪のように白い肌。

 

初めて目覚めた時から、何度も見てきた顔。

 

けれど。

 

記憶の中にいる女性とは、違っていた。

 

髪の色も。

 

瞳の色も。

 

顔立ちも。

 

よく似ている。

 

けれど、鏡に映る自分の方が、少しだけ幼い。

 

「……違う」

 

小さく呟いた。

 

鏡の中の少女も、同じように唇を動かした。

 

火星の風景。

 

白い戦艦。

 

笑っているアキト。

 

誰かを好きだった記憶。

 

誰かに愛されていた記憶。

 

どれも、自分の中にある。

 

その時感じた喜びも、悲しみも、胸の痛みも。

 

すべて、本物のように思えた。

 

けれど。

 

自分が本当に覚えているのは、あの冷たい水の中のことだけだった。

 

透明な壁。

 

身体に繋がれた管。

 

暗い培養槽。

 

そして、差し伸べられた黒い腕。

 

あれは、確かに自分の記憶だ。

 

自分が経験したことだ。

 

では。

 

火星の空は?

 

白い戦艦は?

 

あの人と過ごした、温かな日々は?

 

少女は鏡に手を伸ばした。

 

冷たいガラスに、指先が触れる。

 

その向こうで、金色の瞳がこちらを見つめ返していた。

 

自分は、ユリカなのだろうか。

 

それとも。

 

ユリカという人のことを、覚えているだけなのだろうか。

 

「……ユリカ」

 

もう一度、その名前を呼んでみた。

 

鏡の中の少女が、同じように唇を動かした。

 

けれど、答えは返ってこなかった。

 

あの人は、自分をユリカと呼んだ。

 

そして、最後には、自分がユリカではないと叫んだ。

 

あんなに悲しそうな顔で。

 

あんなに苦しそうな声で。

 

少女は鏡の中の自分を見つめた。

 

金色の瞳が、かすかに揺れていた。

 

そこに映っているのは、誰なのだろう。

 

テンカワ・ユリカ。

 

それとも、別の誰か。

 

名前のない少女は、ゆっくりとガラスから手を離した。

 

そして、誰にともなく問いかけた。

 

「……私は、何?」

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