月面ネルガル施設。
先日の研究施設襲撃から、数日が経っていた。
テンカワ・アキトは、会議室の端末に向かっていた。
スクリーンには、アカツキ・ナガレの姿が映し出されている。
『……なるほど。つまり、今回回収した情報からは、ユリカ君の移送先を特定できなかったわけだね』
「……ああ」
アキトは短く答えた。
「生体情報は確認できた。施設内にユリカがいたことは間違いない。だが、移送先を示す記録は消されていた」
『相変わらず、用心深い連中だ』
アカツキは、手元の資料へ目を落とした。
『しかし、今回の作戦は無駄ではなかったよ。敵の研究拠点を一つ潰せたうえに、ユリカ君の生存も確認できた。ネルガルとしても、十分な成果だ』
「……あいつらにとって、あの施設は捨て駒だったのかもしれない」
『その可能性はあるね』
「こっちが侵入したとわかると、すぐにユリカを移送した。施設そのものの自爆まで準備していた」
アキトは、机の上に表示された施設の構造図を見つめた。
「あらかじめ、襲撃を想定していたとしか思えない」
『……ふむ』
「ネルガルの妨害工作が、連中の警戒を強めているのかもしれないな」
『だとすれば、我々の活動も多少は効いているということかな』
「……わからない。だが、あいつらがユリカを必要としている限り、どこかに手がかりは残るはずだ」
『そうだね。プロス君にも、引き続き調査を進めてもらおう』
アカツキは頷いた。
『それにしても、今回もずいぶん派手にやってくれたじゃないか。Eユニットまで失うとはねえ』
「……すまない」
『おや、珍しい。君が素直に謝るなんて』
「…………」
『まあ、いいさ。装備はまた造ればいい。幸い、ブラックサレナ本体は無事だったしね』
アカツキは肩をすくめた。
『それより、彼女が無事に帰ってきてくれたことの方が大きい』
アキトが視線を落とすと、アカツキはそれを見逃さなかった。
『……ところで、テンカワ君』
「……何だ」
『少し、個人的な話をしてもいいかな?』
アキトが顔を上げる。
「……あんたが、わざわざ断るとは珍しいな」
『ははは。僕だって、たまには気を遣うさ』
「……何が聞きたい」
アカツキは、しばらくアキトを見つめていた。
それから、何気ない調子で尋ねた。
『……君は、あの子をどうするつもりだい?』
「…………」
アキトは答えなかった。
『最近、ずいぶん懇ろになっているそうじゃないか』
「……誰から聞いた」
『おいおい、そんなに警戒しなくても。別に情報網を駆使して調べたわけじゃないさ』
アカツキは愉快そうに笑った。
『……君にとって、彼女はユリカ君の代わりなのかい?』
「……違う」
即座の返答だった。
声を荒らげることもなく、ただ低く、はっきりと否定した。
アカツキは静かに頷いた。
『もちろん、君が二人を見分けられないと思っているわけじゃないよ』
アキトは、机の上で指を組んだ。
『僕が聞きたいのは、そこから先の話さ』
アカツキは椅子の背に身体を預けた。
『彼女が君に好意を抱いていることは、さすがに気づいているんだろう?』
「…………」
『……それで、君はどうするつもりなんだい?』
アキトは答えなかった。
会議室に、短い沈黙が落ちた。
『君があの子を大切に思っているのは、僕にもわかるよ』
アカツキが口を開いた。
『今回の作戦でも、彼女を残していくことを随分ためらったそうじゃないか』
「…………」
『それ自体を責めるつもりはないさ』
アキトは視線を落とした。
あのとき、Eユニットを分離し、夜天光を押さえつけていた少女。
通信越しに聞こえた声が、今も耳に残っている。
『……お願いです。ユリカさんを、助けてあげてください』
少女は、自分を送り出した。
ユリカを救うために、自分の意思で危険な場所に残った。
それなのに。
あの爆発を感知した瞬間、少女が死んだのではないかという恐怖が頭から離れなかった。
月面ドックで再会したときも、何も言えず、ただその姿を見つめていた。
『……テンカワ君?』
「……聞いている」
『なら、もう少し聞かせてもらおうかな』
アカツキは、指先で机を軽く叩いた。
『……ユリカ君を取り戻したら、君はどうするつもりだい?』
「…………」
『ユリカ君を取り返したら、彼女とルリ君のもとに帰るつもりはないのかい?』
アキトは、しばらく黙っていた。
「……俺はもう、二人のもとに帰ることはできない」
アカツキが、わずかに眉を上げた。
『……何かい? 味覚を失って、コックもできない。昔の自分とは違うから、そんな理由で帰らないなんて言うつもりじゃないだろうね』
「…………」
『まさか、二人に「君の知っているテンカワアキトは死んだ」なんて、格好つけたことを言うつもりじゃないだろうね?』
アキトは答えなかった。
ただ、組んでいた指に力がこもる。
アカツキは、その様子をじっと見つめた。
『……おいおい。まさか図星じゃないだろうね』
アカツキは大げさにため息をついた。
『じゃあ、月のドックで、あの子とラピス君と仲良く三人で暮らすのかい?』
「……そういうわけじゃない」
『それとも、あの子も一緒に連れて、ユリカ君やルリ君と暮らすつもりかい?』
アキトは、何も答えなかった。
『いやあ、ユリカ君なら「妹ができた!」なんて大喜びするかもしれないねえ』
アカツキは、いつもの調子で笑った。
『そうなると、大関スケコマシの称号は君に返上しなければならないな』
「くだらない」
『ははは。まあ、冗談はともかく』
アカツキは、椅子の背に身体を預けた。
『ユリカ君なら、あの子を受け入れてくれるかもしれない。だが、それであの子が幸せになれるとは限らないだろう?』
「…………」
『それにね、あの子は月のドックでも随分評判がいいそうじゃないか』
アキトは、わずかに顔を上げた。
「何の話だ」
『スタッフたちの話さ。ウズメの調整をはじめ、技術者たちの仕事もよく手伝っているらしいね。ドクターや医療班ともラピス君の一件もあって仲良くやっているみたいだし』
「…………」
『突然現れた訳ありの女の子だ。最初はみんな戸惑っていたそうだけど、今じゃすっかり頼りにされているとか。礼儀正しいし、仕事も覚えるのが早い。おまけに、実に一生懸命だそうじゃないか』
「……そうか」
『……ずいぶん嬉しそうじゃないか』
「……別に」
『おやおや、素直じゃないねえ』
アカツキは愉快そうに笑った。
『それにあの容姿だ。普段からバイザーで顔を隠しているみたいだけど、最近は親しいスタッフの前では外しているようだし。年頃の男たちが放っておくとも思えないしね』
「…………」
『あの子にはまだまだ先がある。君みたいな元祖スケコマシなんか忘れて、別の相手を見つけるのも幸せの形の一つじゃないかな?』
アキトの眉が、わずかに動いた。
「……好きにすればいい」
低い声だった。
アカツキは、少しだけ目を細めた。
『……おや。それが君の本心かい?』
「…………」
『……少しくらい、惜しいとは思わないのかい?』
「……あいつが決めることだ」
『もちろん。その通りさ』
アカツキは頷いた。
『彼女には彼女の人生がある。誰を好きになるのも、誰と一緒にいるのも、本人の自由だ。君が勝手に決めることじゃない』
アキトは何も答えなかった。
少女が自分以外の誰かと笑っている姿。それを想像しようとして、やめた。
彼女には、まだ知らない世界がある。その未来を、自分が狭めていいはずがない。
それでも、彼女がいなくなったあとの月面ドックを想像することはできなかった。
『……だがね、テンカワ君』
アカツキは、静かに言葉を続けた。
『君はユリカ君のもとへ帰れないと言った。そして、あの子と一緒に暮らすつもりもないと言う』
「…………」
『……それなら、ユリカ君を取り戻したら、あの子は用済みかい?』
アキトの指が止まった。
『……まさか、現地妻というわけでもあるまい?』
アキトの眉間に、深い皺が寄った。
「……ずいぶん、品のない言い方だな」
『……ああ。自分でもそう思うよ』
アカツキは、あっさりと認めた。
『だが、君が答えを出さなければならない問題には違いないだろう?』
「…………」
『彼女は、誰かの代わりとして造られた。だが、今はもう、自分の意思を持った一人の人間だ』
アカツキの声から、冗談めいた響きが消えていた。
『君だって、そう思っているんじゃないのかい?』
「……ああ」
アキトは短く答えた。
「……あいつは、ユリカじゃない。俺が助け出した、別の人間だ」
アカツキは、黙って耳を傾けていた。
「……最初は、それが許せなかった」
『…………』
「ユリカだと思っていた。ようやく助け出せたと思った。それなのに……」
アキトは、そこで言葉を切った。あの病室で、自分が何をしたのか。忘れたことなどなかった。
「……あいつには、酷いことをした」
『…………』
「……それでも、あいつは俺に近づこうとした」
アキトは、右手を見下ろした。
月面ドックで、少女が取ってくれた手。
自分から触れることをためらった、その手を、少女は何の迷いもなく握ってくれた。
「……あいつは、俺が思っていたよりずっと強い」
低い声だった。
「……だが、危なっかしい。自分のことになると、何も考えていないようなところがある」
アカツキは、小さく笑った。
『そのあたりは、エリナ君も同じことを言っていたよ』
「……そうか」
『……なら、一つ聞くよ。君は、彼女の好意に甘えていないかい?』
アキトの指が、わずかに動いた。
『彼女が君を支えたいと望んでいる。それは彼女自身の意思だろう。僕も、そこは尊重すべきだと思っている』
アカツキは、言葉を選ぶように続けた。
『……ただ、君の方はどうなんだろうね。彼女がそばにいてくれることで、君も救われているんじゃないのかい?』
アキトは目を伏せた。
少女が作った、不格好なオムライス。
味のわからない自分に、心配そうに問いかけてきた顔。
ラピスと並んでいる姿。
そして、あの夜。
自分のために、そばにいてもいいと言ってくれた少女。
彼女は、ユリカではなかった。
そんなことは、最初からわかっていた。
それでも、あの温もりを拒むことができなかった。
アキトは、組んでいた指をほどいた。
「……そうかもしれない」
小さな声だった。
アカツキは何も言わなかった。
「……あいつがそばにいると、少しだけ……」
言葉が途切れた。
ユリカはまだ囚われている。自分の身体も、元には戻らない。
それでも、少女と過ごしている間だけは、自分が復讐のためだけに生きているわけではないような気がした。
「……俺は、あいつを必要としている」
アキトは、静かに告げた。
「……だが、ユリカを諦めるつもりもない」
『……うん』
「……あいつにも、そのことは伝えている」
『……そうか』
アカツキは、ゆっくりと頷いた。
『なら、なおさら考えておくべきじゃないかな。すべてが終わった後のことを。君だけじゃない。彼女の将来も含めてね』
アキトは黙っていた。
ユリカを取り戻した後、少女はどうするのだろう。
ラピスは。
自分は。
そんなことを考えたことが、なかったわけではない。
ただ、考えようとするたびに、目の前の現実がそれを許さなかった。
「……時間がないんだ」
アキトは、ぽつりと呟いた。
『……時間?』
アカツキが眉をひそめた。
『それは、どういう意味だい?』
「…………」
『……僕は、何も聞いていないよ』
アキトは、しばらく黙っていた。
やがて、右手を持ち上げ、指先を見つめた。
「最近、少しずつ動きが悪くなっている」
『……何?』
「細かい操作をするとき、指が思うように動かないことがある」
アキトは、右手の指をゆっくりと曲げた。
一度開き、もう一度握る。
その途中で、人差し指がわずかに震えた。
アカツキの表情が変わった。
『……テンカワ君』
「実験で使われたナノマシンの影響だろう」
『ドクターは、何と言っているんだい?』
「経過を見ながら、調整を続けるしかないと」
『それだけかい?』
「ああ」
アキトは小さく息を吐いた。
「イネス……アイちゃんは、まだ何とかできると思っているんだろうな」
『…………』
「実際、いろいろ試してくれている」
アキトは、机の上に置かれた端末へ目を向けた。
そこには、少女がまとめたナノマシン制御に関する資料が保存されていた。
「あいつも、随分調べてくれた」
『彼女が?』
「火星の後継者の研究記録を漁って、俺に使われたナノマシンの種類や処置を調べていた。戦闘時のIFSの負荷や、ジャンプのときの負担も減らしてくれた」
アカツキは黙って聞いていた。
「あいつのおかげで、随分楽にはなった」
以前なら、戦闘を終えるたびに身体の奥が焼けつくように痛んだ。
神経を無理やり引き伸ばされるような感覚。指先から、感覚が遠ざかっていく恐怖。
それが、少女とイネスによる調整で、いくらか和らいでいた。
しかし。
「根本的に治ったわけじゃない」
『…………』
「戦闘を続ければ、また負担がかかる。ナノマシンの状態も、完全には制御できない」
アキトは、静かに続けた。
「今はまだ動ける。だが、この先もそうとは限らない」
アカツキは、しばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で尋ねた。
『それを、ドクターは知っているのかい?』
「症状は把握している。だが、進行するのか、どこかで止まるのか、それすらわからない」
『…………』
「だが、自分の身体のことだ」
アキトは、わずかに口元を歪めた。
「何が起きているのかくらい、わかる」
アカツキは、スクリーン越しにその姿を見つめていた。
黒いバイザーに、黒衣に包まれた身体。
かつてナデシコの食堂で鍋を振るい、ユリカに振り回されながらも、最後には彼女を放っておけなかった青年。
その面影を、今のアキトに見つけるのは難しい。
それでも、別人になったわけではない。あまりにも多くのものを奪われただけだった。
『……テンカワ君』
「何だ」
『君は、自分の身体がどこまで持つと思っているんだい?』
「わからない」
アキトは即答した。
「半年かもしれない。一年かもしれない。あるいは、もっと長く持つのかもしれない」
淡々とした声だった。
「だが、いつまでも戦えるとは思っていない」
アカツキは目を伏せた。
何かを言おうとして、やめる。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。
『それで、君は焦っているわけか』
「…………」
『ユリカ君を、少しでも早く取り戻さなければならない』
「ああ」
アキトは、静かに頷いた。
「俺が、まだ動けるうちに」
アカツキは、しばらく黙っていた。
やがて、椅子の背に身体を預けた。
『テンカワ君』
「何だ」
『君の戦いが成果を上げていることは、僕も認めているよ』
『火星の後継者の活動を妨害し、研究施設を破壊する。クリムゾングループの動きにも、少なからず影響を与えているだろう』
アカツキは、机の上の資料を指先で叩いた。
『ネルガルにとっても、君を支援する価値は十分にある。これは会長としての判断だ』
「わかっている」
『……だがね』
アカツキは、そこで言葉を切った。
『作戦が成果を上げていることと、君が命を削って戦い続けなければならないことは、別の話だよ』
「…………」
『君が前線に出なくても、できることはあるはずだ』
「それでは、間に合わないかもしれない」
『それは、まだわからないだろう?』
「ああ」
アキトは静かに頷いた。
「……だが、待っている間にユリカがどうなるのかも、わからない」
アカツキは口を閉ざした。
「あいつは、今もどこかに囚われている。何をされているのか、わからない。いつまで無事でいられるのかも」
『…………』
「だから、俺は戦う」
その声は静かだった。怒りも、憎しみも、表には出ていない。ただ、揺るがない決意だけがあった。
「俺がまだ動けるうちに、必ずユリカを助け出す」
アカツキは、スクリーンの向こうにいる男を見つめていた。
ナデシコで、ともに戦った青年。今は、復讐者として生きる男。
『……まったく』
アカツキは、小さく息を吐いた。
『昔から、君は頑固だったねえ』
「あんたに言われたくはないな」
『ははは。違いない』
アカツキは苦笑した。
『まあ、君の決意はわかったよ』
「…………」
『ただ』
アキトが顔を上げた。
『ネルガルが君にどれだけ投資しているかわかってほしいものだね』
アカツキは、いつもの調子で肩をすくめた。
「……結局、それか」
『もちろん。僕は商売人だからね』
アカツキは、にやりと笑った。
アキトも、わずかに口元を緩めた。
ほんの一瞬だった。
やがて、席を立つ。
「……話は終わりか」
『ああ。引き留めて悪かったね』
「別に」
アキトは、端末へ手を伸ばした。
『テンカワ君』
「何だ」
『身体のことは、ドクターとよく相談してくれ。必要なものがあれば、遠慮なく言いたまえ』
「……ああ」
『……それと、あの子のこともね』
アキトの手が止まった。
『彼女は、君のためだけに生きているわけじゃない。そのことは、忘れないでほしい』
アキトは、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「わかっている」
通信が切れた。
*
ネルガル本社。
アカツキ・ナガレは、消えたスクリーンを見つめていた。
しばらくそのまま動かず、やがて椅子の背にもたれて天井を仰ぐ。
「……まったく」
小さなため息が漏れた。
アキトは昔から頑固だった。一度覚悟を決めれば、どれほど困難な道でも進もうとする。
だが今の彼は、その先にある未来を見ようとしていない。
「ユリカ君を取り戻したら、か」
アカツキは、ぽつりと呟いた。
アキトは、その先のことを考えられないと言った。
だが、あの少女はどうなのだろう。
アキトのそばにいることを望み、彼のために戦う少女。ユリカを取り戻したあと、彼女はどこへ行くのだろう。
ともに暮らすか、別れるか。先ほどは二つの可能性を並べてみせたが、それだけが人生ではない。
少女はまだ、ドックの外の世界をほとんど知らない。いつか自分の居場所を見つけ、自分で行く先を決めてもいいはずだった。
エリナが心配するのも無理はない。
「……しかしねえ」
アカツキは、机の上の端末へ目を向けた。
そこには、ユーチャリスの運用計画が表示されている。
オモイカネ級の高度な中枢コンピューター。IFS接続によるワンマンオペレーションシステム。
電子戦能力の強化。
その計画の中心には、あの少女の存在があった。
彼女の能力は、ネルガルにとって非常に価値がある。今後のアキトの活動を支援するうえでも、欠かすことのできない戦力だった。
そして、ネルガル会長としての自分は、それを十分に理解している。
少女は自分の意思で協力している。だからといって、使う側の責任が消えるわけではない。
アカツキは、端末に表示された少女の識別番号を見つめた。
L-3-07。
研究施設で造られた少女。
自分の名前すら持たずに、外の世界へ放り出された子供。
その能力を、今度はネルガルが利用している。
「……僕も、偉そうなことを言えた義理じゃないか」
苦笑が漏れた。
アキトには、少女の好意に甘えていないかと問いかけた。少女の将来を考えろとも言った。
けれど、自分自身はどうなのか。彼女の能力を必要としている。
アキトの戦いを支援することも、ネルガルの利益になる。
クリムゾングループとの競争。
火星の後継者によるボソンジャンプ技術の独占。
放置できない問題はいくらでもあった。
そのために、アキトの力が必要だった。少女の力も。
「……結局、同じ穴の狢さ」
アカツキは、小さく呟いた。
結局、彼らが戦うことを止めようとはしていない。
それどころか、戦い続けられるように装備を与え、情報を集め、資金を用意している。
自分もまた、彼らを戦場へ送り出している。
けれど、それを会社の利益だけで割り切れるほど、冷淡にもなれなかった。
アカツキは目を閉じた。
ナデシコ。
あの艦で過ごした日々。
馬鹿騒ぎばかりのクルーたち。
何かにつけて騒動を起こすユリカ。そのたびに振り回されるアキト。
呆れながらも、どこか楽しかった。
あの頃のことを、今でも時々思い出す。
アキトの戦いがネルガルの利益になる。
それは間違いではない。
けれど、それだけの理由で、ここまで支援しているわけではなかった。
「……まったく、困ったものだねえ」
アカツキは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
ユリカを救いたい。
アキトにも、生きていてほしい。
そして、あの少女にも。
「……せめて、すべてが終わった後くらいは」
そこまで言って、口を閉ざした。
すべてが終わった後。
アカツキは、深く息を吐いた。
「……さて」
アカツキは、いつもの笑みを浮かべた。
「……僕も、できることをするとしようか」
端末を操作し、次の会議資料を呼び出す。
ネルガル会長としての仕事は、まだ山ほど残っていた。
*
月面ドックの居住区画に戻り、少女のために用意された部屋の扉を開けたアキトは、そこで足を止めた。
「……何してるんだ?」
テーブルの上には、三人分の皿が並んでいた。少女はキッチンから鍋を運び、ラピスはその横でスプーンを数えている。
「おかえりなさい、アキト。ちょうどできたところです」
「……今日も作ったのか」
「はい。今日は煮込み料理を作ってみました」
ラピスが鍋の中を覗き込む。
「……今日はシチュー」
「ラピス。まだ内緒って言ったでしょ」
「……もう見えてる」
言われて少女は鍋を見下ろした。蓋は開いたままだった。
アキトは、思わず笑いそうになった。
こんなふうに食卓へ呼ばれることにも、少しずつ慣れてきた。何かを作り、誰かが帰るのを待つ。かつては当たり前だったことが、今はひどく遠い。
椅子に腰を下ろすと、少女が皿を差し出してくれた。
「熱いですから、気をつけてくださいね」
「……ああ」
湯気の向こうで、少女が嬉しそうに笑った。
アキトはスプーンを取った。
かつては、味のわからない食事に意味を見いだせなかった。身体を動かすための栄養さえ摂れればいい。まずいブロック食でも流動食でも構わない。実際、これまではそうしてきた。一人で、必要な分だけを流し込む。それだけのことだった。
だが、最近はどうだろう。
同じように味がわからないのなら、独りでブロック食を飲み込むより、こうして二人と食卓を囲む方がいい。何が入っているのか尋ねたり、ラピスの感想を聞いたり、料理を作った少女の嬉しそうな顔を眺めたりする方が。
スプーンを口に運ぶ。やはり味はわからない。それでも、煮込まれた野菜の柔らかさや、温かさはわかった。
「どうですか?」
少女が身を乗り出した。
「ちょっと待て。まだ一口目だ」
隣でラピスが小さく肩を揺らした。
「おいしいよ」
アキトは少女を見た。ラピスの反応は上々で嬉しそうだ。
「次は俺も手伝う。切るのとか、火加減を見るくらいならできるだろ」
「でも、アキトは……」
「味がわからなくても、覚えてることはある」
少女は少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「……はい。じゃあ、次は一緒に」
その返事を聞いたアキトは、またスプーンを動かした。
ラピスが、ふと思い出したように口を開く。
「……そういえば、今日ウズメが言ってた」
「何を?」
「整備記録の名前。アナタの名前、また番号のまま」
少女が顔を上げた。
ユーチャリスの運用記録には、いまだに研究施設で与えられた識別番号が残っている。現場では便宜上、セブンという呼称を使うこともあったが、それはコードネームというかあだ名のようなもので本名ではなかった。
「ああ……そういえば、そうだな」
アキトはスプーンを置いた。
「いつまでも番号ってわけにもいかないだろ」
「私は、別に……困ってはいませんけど」
「そういう問題じゃない」
ラピスが、少女を見つめる。
「……名前、あった方がいい」
少女は二人を交互に見た。
「……どんな名前が、いいでしょうか。アキト、何か思いつきませんか」
アキトはしばらく考えた。
ユリカとは違う名前。あの研究施設の番号とも違う、彼女だけの名前。
何か一つ、口にしてみようとして、やめた。
「……簡単には決められないな」
「……そうですね」
「今度、ゆっくり考えよう。お前が気に入る名前がいい」
少女は微笑んだ。
「……はい」
そのとき、テーブルの端に置かれた端末が、短い電子音を立てた。
少女の笑顔が消えた。
表示されたのは、プロスペクターからの優先通信だった。
*
翌日、月面ドックの作戦室には、巨大な立体図が浮かんでいた。
小惑星帯の外縁に近い、使われなくなった工業ステーション。かつて鉱石の選別と積み替えに利用されていた施設で、表向きは数年前に稼働を停止している。
しかし、表示された断面図には、存在しないはずの製造ラインが描き込まれていた。
『……火星の後継者が、ここで奴らの新型量産兵器・積尸気を製造している可能性があります』
通信画面の向こうで、プロスペクターが眼鏡を押し上げた。
『クリムゾングループ系列の輸送記録と、資材の流れを追っていたところ、奇妙な一致が見つかりましてね。必要以上の高出力炉、特殊装甲材、制御部品。いずれも閉鎖施設へ運び込まれています』
「積尸気……」
アキトが低く呟いた。
資料からわかるのは、機体の構造や性能に関する断片的な情報だけだった。しかし、その設計思想はネルガルのエステバリスとも、クリムゾングループのステルンクーゲルとも明らかに異なる。
夜天光や六連と同じ系統の機体。その量産型が、すでに実戦配備に向けて製造されているのだ。
『しかも、先ほど新しい輸送予定を入手しました。完成機を別の拠点へ移すようです。敵戦力の増強は避けたいところですが……』
少女は資料を開き、目を通した。
「情報が揃いすぎていませんか?」
『と、おっしゃいますと?』
「発注時期、積載量、搬出予定まで、きれいにつながっています。こんな重要な施設の情報が、まとめて残っているなんて」
アキトも頷いた。
「……罠の可能性は?」
『否定はできません。ただし、情報の出所は一つではないのです。輸送会社の帳簿、無人観測機の記録、資材調達の履歴。いずれも実在するものと確認できています』
少女は立体図を回転させた。
施設の一部から、規則的な排熱反応が出ている。閉鎖されたはずの工場が、今も動いている証拠だった。周辺の居住区画は無人で、観測記録にも民間人の出入りはない。少なくとも、表から見える範囲では。
「……工場そのものは、本物だと思います」
『私どもも同じ判断です』
プロスペクターの声が少し低くなった。
『ただし、重要なのはここからです。そこに敵がいるとわかったからといって、真正面から踏み込む必要はありません』
少女は頷いた。
「この拠点を放置する理由はありません。ユーチャリスで、施設外から重力波砲を撃ち込みます。ブラックサレナが出撃する必要はありません」
言い終えてから、少女はアキトを見た。
アキトは腕を組んでいた。
「距離は? 敵も大人しく待ってはくれないだろう」
「はい。ですからドック内でグラビティブラストを最大出力まで充填してからジャンプします。工場を射程に収める位置へ現れたら、時間を置かずに撃ちます。敵がこちらの位置を把握し、反撃する前に、施設を破壊できるはずです」
「ジャンプアウトしたら、すぐ離脱できるのか」
「フルパワーで撃った後は、ジャンプフィールドの再展開に少し時間がかかります。でも、施設を破壊してから敵が迎撃部隊を動かすまでには、余裕があるはずです」
少女は一度言葉を切った。
「……念のため、バッタも艦載させます。ウズメの補助もありますし、接近してくる機体があれば私が直接迎撃します」
アキトは立体図を見つめた。
敵の施設に踏み込まず、遠距離から一撃を加えて撤退する。ユリカの手がかりを追う時間を失わず、積尸気の生産を止められる。理屈は通っていた。
それでも、先日の研究施設襲撃が頭から離れなかった。
「……俺も行く」
「アキトさん」
「ブラックサレナで待機しておく。ただし、最初から戦うつもりはない。何かあったときのためだ」
少女は反論しかけたが、アキトが続けた。
「不意を突かれても、お前が離脱するまでの時間は稼げる」
「……わかりました」
少女は、少しだけ困ったように笑った。
「でも、約束してください。もし敵がいても、深追いしないで。今回は敵の生産能力を止めるのが目的です」
「ああ」
アキトは短く答えた。
*
出撃準備を終えたユーチャリスの艦橋は、静かだった。
主砲には、すでに最大出力の砲撃に必要なエネルギーが充填されている。ジャンプアウト後、照準の最終確認さえ終えれば、直ちに発射できる。
艦の各所では整備用のコバッタの点検が続き、ウズメの表示する整備項目が次々と消えていく。
操縦席に座る少女の周囲に、複数のウィンドウが開く。
『グラビティブラストチャージ完了。艦の各系統は正常です』
「ありがとう、ウズメ」
少女はIFSを接続し、目的地の光景を思い描いた。ウズメが艦の制御を補助し、ジャンプシステムが応答する。ユーチャリスの操艦も、跳躍先の指定も、少女自身が行っていた。
少女は表示を確認し、通信を開いた。
「アキトさん。準備できました」
『了解』
通信の向こうから、低い声が返ってくる。
ブラックサレナはユーチャリスの格納庫で待機していた。今回は、万一の場合の護衛役だ。
『無理はするなよ』
「それは、アキトもです」
『わかってる』
その声が、少しだけ柔らかかった。
「約束ですよ」
『ああ』
少女は通信を切ると、作戦用の表示を開いた。
外縁工業ステーション。砲撃予定地点。想定される迎撃機の移動時間。
すべて、計算上は問題なかった。
「……ウズメ。ジャンプを開始します」
『了解。ボソンジャンプ、開始します』
少女がIFSを介して跳躍を指示すると、ウズメの表示が切り替わり、艦内に短い警告音が響いた。
ユーチャリスが、光に包まれた。
*
虚空に、白い艦影が現れた。
ユーチャリス。
ジャンプアウトとほぼ同時に、艦首を包む重力場が収束する。
長い充填を終えた主砲は、すでに発射可能な状態にあった。
「照準、確認。ウズメ、撃ちます!」
『射線上に障害物なし。グラビティブラスト、発射可能です』
少女はIFSを介して、発射を命じた。
ユーチャリスの艦首から、膨大な重力波が解き放たれる。
遠方に浮かぶ工業ステーションが、光の奔流に呑み込まれた。
外殻が歪む。支持構造が引き千切られ、施設を取り巻く資材搬送用の桁が次々と折れていく。内部の炉が閃光を放ち、無数の破片が宇宙へ散った。
『目標施設、構造崩壊。製造区画の消失を確認しました』
少女は短く息を吐いた。
工場は実在した。積尸気の製造設備も、そこにあった。
それを、今、破壊した。
「ウズメ、離脱準備。ジャンプフィールドを――」
警告音が鳴った。
『近傍に異常熱源。岩塊の内部から、複数の推進反応を検出しました』
「……岩塊の中から?」
少女が表示を拡大した瞬間、周囲の小惑星が裂けた。
岩肌を模した外殻が剥がれ、内部から細長い機体が飛び出す。
「ミサイル……!?」
一つではない。
上下、左右。砲撃位置を取り囲む岩塊が相次いで割れ、隠されていた誘導弾を吐き出した。別の岩塊では仕込まれた爆薬が炸裂し、大小の破片が宇宙へ散る。単に飛散しただけではない。推進器を備えた岩石片もユーチャリスへ向かってきた。
天然の小惑星帯に見せかけた、広域の待ち伏せ。
ジャンプアウトと同時にグラビティブラストを撃つことを見越して、ここまで仕込んでいたのだ。主砲発射中は艦首前方へのディストーションフィールド展開が制限される。さらに、最大出力での砲撃によって相転移エンジンの出力も一時的に低下し、艦全体の防御力が落ちていた。
敵は、その隙を狙っていたのだ。
「ウズメ、残存出力を艦首のディストーションフィールドへ集中!」
『了解。ただし、主砲発射に伴う出力再配分が完了していません。全周防御は制限されます』
「わかってます!」
ディストーションフィールドが艦首側で膨らんだ。
先頭の誘導弾が弾かれ、閃光を散らす。その後ろから第二波が迫った。ウズメが迎撃砲を旋回させ、二発、三発と撃ち落とす。しかし落とした機体の破片さえ、次の衝突を呼ぶ。
少女は艦を横滑りさせた。フィールド出力を前方に重点的に回し、正面の大型弾頭をやり過ごす。ところが、その回避先を読んでいたかのように、今度は右舷側の岩塊から小型弾が噴き出した。
『右舷防御場に連続着弾。局所出力、低下しています』
「ウズメ、左舷の姿勢制御を優先!」
『了解。ですが、全方位への同時対応は困難です』
爆発の光が、船窓の外を埋めた。
通常なら押し返せるはずの質量と火力。それが、一度に、四方から押し寄せている。
「……こんなところに、どうして」
答えは、すぐに表示された。
『未確認機動兵器、六。小惑星の陰から接近中』
少女が映像を拡大する。積尸気の両手には巨大な対艦用のミサイルランチャーが握られていた。
「……積尸気!」
機体の一つが、こちらへ砲口を向けた。
「アキト、待ち伏せです! 敵機が現れました!」
『……見えてる。ジャンプは?』
「再展開中です。でも、予定より遅れています」
『……そうか』
短い返事。その声の向こうで、ブラックサレナの起動音がした。
「まだ出ないでください。まずは私とウズメで対処します」
少女は艦載機の表示を開く。
「ウズメ、バッタを全群出撃準備。第一群から順次発進!」
『了解』
格納区画の扉が開き、小型の無人兵器が次々と宇宙へ放たれた。
バッタたちは散開し、迫る積尸気へ向かう。
同時に、少女の周囲へ新たなウィンドウが開いた。ウズメから送られる映像、各機の射線、岩塊の軌道。膨大な情報がIFSを通じて意識へ流れ込んでくる。
少女はためらわなかった。
「第一群、敵の右側面へ。第二群は迎撃に専念。ウズメ、周囲の岩塊の位置関係と軌道を再計算、攻撃パターンを予測して!」
『了解』
バッタの一機がマイクロミサイルを放ち、別の一機が積尸気に取りついた。直後、別の機体が背後へ回り込み、集中砲火を浴びせる。
装甲を貫かれた積尸気が爆ぜた。少女は次の標的へ指示を送った。
敵の新型機は明らかに火力を優先し、対艦装備で強襲をかけていた。しかし、ウズメと直接接続したバッタの連携は、それを上回っていた。
また一機、積尸気が火を噴く。
それでも、戦況は好転しなかった。
『さらに敵影。別方向から四機接近。増援が接近。四機、さらに七機。遠方には戦艦の反応もあります』
「……まだいるの?」
敵機が現れる方角は、一つではなかった。
工場へ至る射線を取れるジャンプアウト地点。その複数に、あらかじめ伏兵が配置されていたのだ。
彼らは今、この場所へ集まり始めている。
少女は奥歯を噛んだ。
「……情報が揃いすぎていたのは、そういうこと……!」
*
工業ステーションから離れた、別の予測宙域。
夜天光の操縦席に、ユーチャリスがジャンプアウトした直後の砲撃報告が届いた。
『製造区画、全損。稼働中の生産ラインも失われました』
別の声が続く。
『現地部隊、交戦開始。敵艦は砲撃後の再充填中と推定されます。岩塊による妨害、効果あり』
「……ふむ」
北辰は、スクリーンに映る白い戦艦を見つめた。ネルガルの戦艦は、予想地点の一つにジャンプアウトしたらしい。北辰自身が潜伏していた宙域ではなかったが、離れた場所からでも、光学映像を通して工場の爆発を確認できた。
工場を守ることができれば、それに越したことはない。
だが、あの艦が出現と同時に最大出力で撃ってくることも、想定のうちだった。
施設を一つ失っても、テンカワ・アキトと、テンカワ・ユリカのクローンを手に入れられるならば。
それは、決して小さな戦果ではない。
『第三宙域の積尸気、二機喪失。さらに一機、大破!』
『無人機の統制能力が予測を上回っています!』
「……あの娘か」
北辰の口元がわずかに歪んだ。
「面白い。だが、いつまで持つかな」
通信を開く。
「各隊、第三宙域へ集結せよ。交戦中の部隊は足を止められればよい。無理に討ち取ろうとするな」
『了解!』
「戦艦隊は距離を保ち、包囲を狭めよ。あの艦に跳躍の余裕を与えるな」
『捕獲命令に変更はありませんか?』
「両名とも、生け捕りが望ましい」
北辰は間を置いた。
「だが、叶わぬならば殺せ。逃がすことだけは許さぬ」
夜天光が動き出した。
その周囲で、別々の宙域に潜んでいた六連が、次々と進路を変える。
*
『ジャンプフィールド、再構築中』
「……あと、どれくらい?」
『推定値を更新中です。敵機の迎撃とディストーションフィールドの維持により、予定より遅れています』
少女は返事をしなかった。
ユーチャリスの船体が震える。
積尸気の一機が岩塊の陰から飛び出し、左舷へ接近した。少女はバッタを向かわせるが、別の敵機が割って入る。
割って入った積尸気の手には、槍のような武器が握られていた。
その槍がディストーションフィールドを貫き、防御に穴を開けた。そこへ、さらに別の機体がミサイルを撃ち込んできた。
『左舷ディストーションフィールド、貫通を確認。外装損傷、第三甲板付近に減圧警報』
「損傷区画を封鎖して! ウズメ、姿勢制御の補助を!」
『了解』
艦を回頭させ、厚い防御場を敵の射線へ向ける。
その隙を狙うように、後方の岩塊が爆ぜた。
岩石をまとった誘導弾が、破片の陰から船尾へ回り込む。そのうちの一発が防御壁の薄い場所に突き刺さった。
艦内の照明が一瞬消え、背後で何かが砕ける音がした。
『船尾補助機関区、損傷。隔壁を閉鎖します』
「……まだ、跳べないの?」
迎撃を指示しかけたとき、通信が割り込んだ。
『お前は予備のCCで先に月へ戻れ。渡してあるはずだ。ユーチャリスは俺が預かる』
「でも、ジャンプフィールドの再展開には、まだ時間がかかります!」
『回復したら俺が跳ばす。それも無理なら、艦を囮にして自爆させる。ブラックサレナだけなら単独で跳べる』
「駄目です! これ以上のジャンプや戦闘は、アキトさんにはさせられません。それに、ウズメも――」
少女は、はっとした。
アキトを戦わせること。
友人であるウズメを置き去りにすること。
そのどちらも、考えないようにしていた。
けれど、今は、その選択肢さえ捨てられない。
短い沈黙。
『ブラックサレナで出る』
「駄目です! ここは私とウズメで――」
『お前は艦をジャンプさせることだけ考えろ』
少女の指が止まった。
『時間を稼ぐ。跳べるようになったら、すぐに知らせろ』
「でも」
『約束しただろ。深追いはしない』
アキトの声は、驚くほど落ち着いていた。
少女は唇を噛んだ。
けれど、今すぐ手を打たなければ、ユーチャリスが沈む。アキトを戦わせなければならないことが、何より腹立たしかった。
それでも、艦の状態を見れば、ほかに打てる手は少なかった。
「……わかりました。ブラックサレナの戦闘演算は、ウズメと私ができる限り補助します。だから、無理なジャンプだけはしないでください」
『……ああ』
「約束ですよ」
『わかってる』
通信が切れる。
格納庫の扉が開いた。
黒い機体が、宇宙へ飛び出す。
ブラックサレナ。
その姿を捉えた瞬間、積尸気の数機が進路を変えた。
アキトは接近する一機へ突っ込み、機体を丸ごと砕いた。敵機が爆発するより早く身を翻し、別の積尸気の砲撃をディストーションフィールドで弾き、ハンドカノンで牽制する。
敵を追うためではない。
ユーチャリスへ向かう射線を、遮るためだった。
「……アキト」
少女は呼びかけたが、通信の向こうから返事はなかった。
ただ、黒い機体が次の敵へ向かう。
*
ブラックサレナが積尸気の群れへ突っ込んだ。
一機を弾き飛ばし、その反動で別の機体の背後へ回る。敵の砲口がユーチャリスを向く前に、その腕を叩き落とした。
アキトは追撃しなかった。
かつてなら、動けなくなった相手にもとどめを刺すため向きを変えただろう。今はその一瞬が惜しい。倒した敵の向こうに、またユーチャリスへ向かう機影が見えた。
少女から戦場の情報が届く。
『アキトさん、右上方! 三秒後に砲撃が来ます!』
アキトは機体を滑らせた。直後に火線が通り過ぎる。
ウズメによる操縦補正が、機体の微細な姿勢制御を引き受ける。少女は敵機の位置と攻撃予測を送り続け、ブラックサレナの戦闘演算の一部を肩代わりしていた。
ときおり、アキトの入力にわずかな遅れが生じる。少女が補正を入れると、その遅れが埋まる。彼は何も言わない。少女も、いまは指摘しなかった。
右手の感覚は鈍い。反応も、ときおり遅れる。
だが、まだ戦える。
アキトは、ユーチャリスへ向かう機体の前に立ちはだかった。
そのとき、正面の宙域が白く光った。
『……テンカワ・アキト』
聞き覚えのある声が、開いた通信へ滑り込んだ。
アキトは目を細めた。
「……北辰」
暗闇の向こうから、赤い機体が現れた。夜天光。
その左右には六連。さらに遅れて、ほかの機体も次々と合流してくる。
予想地点に分散していた主力が、ついに集結しつつあった。
『随分と働いてくれたようだな。我らが生産拠点を、見事に潰してくれた』
夜天光が横へ流れた。
同時に二機の六連が左右から迫る。
アキトは正面の六連が放ったミサイルをかわし、ハンドカノンを撃ち返した。
直後、反対側の六連が錫杖を振るった。ブラックサレナは機体をひねり、その一撃を紙一重でかわす。
しかし、その回避先には夜天光が待ち構えていた。
突き出された錫杖が、ブラックサレナの装甲に突き刺さった。
アキトは舌打ちした。
『かつてのお前なら、真っ先に我らを追ってきたであろう。今はあの船を背に、随分と守りに徹しているようだ』
「……黙れ」
『あの娘か。復讐という鎧にも、綻びが生じたか』
アキトは答えず、機体を滑らせた。
六連の一機を突き飛ばし、そのままユーチャリスへ向かう積尸気の進路を塞ぐ。
北辰の笑い声が、通信に混じった。
『本物を取り返すことができず、模造品で満足しているようだな。紛い物に絆されたか、復讐者よ』
「あんたには、わからないだろうな」
『……何?』
「俺は、あいつを死なせない」
言い終わるより早く、アキトは機体を加速させた。
夜天光へ向かうと見せかけ、すれ違いざまに六連の一機を弾き飛ばす。その先には、ユーチャリスへ照準を合わせていた積尸気がいた。
二機が衝突し、敵の砲撃は虚空へ逸れた。
アキトはそのまま機体を反転させた。
勝ちに来たのではない。
帰るために、戦っている。
その事実に、アキト自身が少しだけ驚いていた。
工場を破壊した。少女はまだ生きている。
あとは、二人で帰ればいい。
月面ドックには、ラピスが待っている。名前の話をしていた少女の笑顔。
まだ、ここで死ぬわけにはいかなかった。
*
『警告。右舷損傷区画に接近する小型艇を検出』
少女の前に新しいウィンドウが開いた。
工場から遠く離れていた敵戦艦。そこから発進した小型艇が、バッタと積尸気の交戦域を迂回して近づいてくる。
「接近させないで! 第三群を――」
『敵戦艦、グラビティブラスト発射』
遠方の戦艦から放たれた重力波が、ユーチャリスのディストーションフィールドに直撃した。
防御場は持ちこたえたものの、船体が大きく揺れる。
その隙を突くように、別方向に展開していた敵戦艦が砲撃を開始した。
迎撃に向かっていたバッタの一群が、重力波の奔流に巻き込まれて消滅する。
『第三群の大半が消失。防御網を維持できません』
少女が判断を下すより早く、小型艇はユーチャリスの右舷へ張りついた。
衝撃が伝わる。
『敵揚陸艇、接舷。第三甲板の損傷箇所に強制接続。外板の切断が始まっています』
「……そんな!」
少女はシステムを開いた。接舷地点は、先ほど被弾した区画だった。防御場の薄くなった箇所を、敵は正確に狙ってきたのだ。
『敵兵の侵入を確認。人数、30。艦内通路を前進しています』
スクリーンには、装甲服を着た兵士たちの姿が映っていた。一人が通路の端末を破壊し、もう一人が隔壁へ爆薬を取りつける。
彼らが向かう先は、艦橋とアマノウズメの本体があるコンピューター室。
アキトは、外で夜天光と六連を押さえている。
「……ウズメ。艦内整備用のコバッタは動かせますか」
『待機中の十六機が使用可能です。ですが、戦闘用ではありません』
「わかっています。フィールドブロックも併用して時間を稼ぎます」
『了解』
少女はIFSを通じて、十六の小さな機体に意識を広げた。
*
『……ふふふ。随分と手こずらせてくれたものよ、テンカワ・アキト』
「……北辰」
『だが、そろそろ幕引きとしよう』
『お前が守ろうとしているあの艦。すでに我が配下が乗り込んでおる』
アキトの表情が変わった。
「……何だと?」
『久方ぶりの里帰りだ。あの娘も、さぞ喜ぶことであろう』
アキトの指に力がこもった。
『案ずるな。娘には、まだ利用価値がある。丁重に連れ帰るつもりよ』
北辰が、低く笑った。
『もっとも、抵抗するようならば……多少の傷は、やむを得まいがな』
「……させるか」
ブラックサレナが、急激に加速した。
その瞬間、少女の声が響いた。
『アキト! 駄目です! 戻らないで!』
「……艦内は」
『こちらで何とかします! アキトさんは、敵機を近づけないで!』
アキトは歯を食いしばった。
今すぐにでも駆けつけたい。
しかし、自分が戦線を離れれば、ユーチャリスは敵機の猛攻にさらされる。
『……アキト。お願い。私を信じて』
「…………」
アキトは、わずかに息を吐いた。
「……わかった」
再び機体を反転させる。
「……そっちは頼んだ」
『はい!』
少女の返事を聞き、アキトは迫り来る敵機へ向き直った。
*
第三甲板、保守通路。
装甲服の兵士たちは、次の隔壁の前で足を止めた。
『反応なし。艦内に人影は見えません』
『油断するな。確保対象はA級ジャンパーだ。生け捕りが最優先、抵抗すれば殺せとの命令だ』
先頭の兵士が扉に手をかけた。
その瞬間、扉を開けるよりも早く黄色い六脚の虫型機械が飛び出し、兵士の顔面へ激突した。続く二機がさらに飛びかかる。狭い通路で銃声が響き、装甲板が火花を散らした。
『無人機だ! 撃ち落とせ!』
兵士たちは撃ち返した。整備用のコバッタは、戦闘用のバッタと違ってディストーションフィールドを持たない。一機、二機と砕ける。それでも残った機体は退かなかった。一機が兵士の胸元へ体当たりし、別の機体がその隙をついて襲いかかった。
ひとりが倒れる。別の兵士が、その身体を引きずろうとして足を止めた。
直後、背後の隔壁が閉じた。
逃げ道が失われる。
*
「……侵入部隊をフィールドブロック発生区画に誘導」
少女は艦橋で、彼らの位置を一つずつ確かめていた。
これまでにも、戦闘で敵の機体を破壊したことはある。
けれど、艦内監視映像に映るのは機体ではない。顔を隠した装甲服でも、その中に人間がいることはわかる。
少しためらえば、彼らはここへ到達する。
自分を連れ戻し、アキトも殺すつもりなのだ。
「ウズメ。指定の非常用フィールドブロック、起動できる?」
『損傷区画の誘爆を防ぐためのものです。展開は可能ですが、維持する場合は艦全体の防御系統から出力を転用する必要があります』
少女は口を結んだ。
「一度だけ、フィールドブロックを同時展開します。フィールド間の隙間をなくすように出力を調整して。出力を回すのは……一瞬でいいの……」
『了解』
通路を遮るようにディストーションフィールドが展開された。本来は艦内の損傷区画を隔離するためのフィールドが、通路に追いやられた部隊に迫る。
追いつめられた兵士たちが銃を向けるが、銃弾が光の表面で止まる。
前方からフィールドが迫る。兵士たちは後方へ逃れようとした。
しかし、退路にもフィールドが展開されていた。二枚のディストーションフィールドに挟まれた通路に、逃げる場所はなかった。
監視映像が白く乱れ、悲鳴が途切れた。
『侵入部隊の生体反応、消失。接舷中の揚陸艇も、緊急隔壁で切り離しました』
少女は画面を見つめた。
助かった。
そう思った直後、別の事実が浮かんだ。
あの兵士たちを殺したのは、自分だ。
少女は、消えた生体反応の表示から目を離せなかった。
けれど、後悔している暇はなかった。
ユーチャリスが大きく揺れた。
息をつく暇さえ、与えてはもらえない。
「……ウズメ。外の状況は」
『ブラックサレナ、夜天光および六連と交戦継続中。積尸気、さらに増援。敵戦艦も接近しています』
少女は画面を切り替えた。
黒い機体が、何度も姿勢を崩しながら、赤い機体の攻撃を受け止めていた。
「……アキト」
『第二群、残存三機。第三群、迎撃位置へ移動します』
「……わかった」
少女は、ウズメから送られる数字を見つめていた。
バッタの損耗が増えている。
積尸気だけではない。夜天光と六連が集結したことでブラックサレナが足止めされ、艦を狙う攻撃の精度も上がっていた。
「ウズメ、ブラックサレナの周囲へ残存機を集めて。次に夜天光が仕掛けてきたら、左から挟みます」
『了解』
IFSに重なる戦闘映像の中で、夜天光が再び錫杖を振るった。ブラックサレナが正面から受け止める。その瞬間、バッタ三機が背後へ回り込み、六連の一機を射線から弾き出した。
アキトはその隙を逃さず、夜天光の懐へ機体を押し込んだ。
『……ほう』
北辰の声が、通信へ漏れた。
夜天光が後退する。六連も傷ついた一機をかばうように距離を取った。
『ここまでにしておこう、テンカワ』
傷ついた六連が一機、また一機と戦線を離れていく。夜天光もブラックサレナから離れた。
続いて、周囲の積尸気が後退し始める。遠方の戦艦も砲撃を止め、射線の外へ移動していった。
スクリーンに残ったのは、漂う残骸と、傷ついた黒い機体だった。
『敵部隊、射程外へ後退しています』
少女はすぐには喜べなかった。
あまりに一斉だった。傷ついた機体ばかりとはいえ、これほど都合よく全機が退くものだろうか。
『追撃は推奨しません。敵の意図を確認できません』
「……わかっています」
それでも、こちらに追う余力はなかった。艦の出力が戻りきっていない今、この静けさは何より貴重だった。
「……ウズメ、跳躍系の復旧を優先。アキトさんへ回収誘導を!」
『了解。ジャンプフィールド、安定域まで回復中』
少女は通信を開いた。
「アキト! もう十分です。帰ってきてください!」
『……ああ』
アキトの呼吸が、通信に混じっていた。
「……アキト?」
『聞こえてる』
「もう戦わなくていいんです。早く……!」
ブラックサレナが、ゆっくりとユーチャリスへ向きを変えた。
『……わかった。帰る』
少女の胸が、ようやく緩んだ。
アキトが、帰ってきてくれる。
回収ゲートまでの距離が、表示の上で少しずつ縮まっていく。あと少し。その数字から目を離せなかった。
少女は、胸の奥で固まっていたものがほどけていくのを感じた。
今度こそ。
そう思ったときだった。
『警告、新たな揚陸艇が接近。右舷下方です』
新しい反応が表示される。
先ほどの侵入部隊を失った敵は、まだ諦めていなかった。
敵の後退に合わせ、別の戦艦から発進した高速艇が残骸の陰を進んでいた。船体の大部分にはデブリを模した外装が被せられ、無人機の残骸に紛れ込んでいる。先端には、フィールド中和用の装置が取りつけられていた。
少女は、ようやく理解した。
敵は撤退したのではない。ブラックサレナが帰投し、ユーチャリスが回収態勢に入る瞬間を待っていたのだ。
『敵艇、回収ゲート付近へ進路変更。接舷を試みています』
「……もう一隻!?」
少女はバッタを向かわせようとした。
だが、残存機は敵の再接近を警戒し、周辺に散開している。今から呼び戻しても、接舷には間に合わない。
主砲はまだ使えない。ディストーションフィールドも、接舷を阻めるだけの余力がない。艦内のコバッタも、先の白兵戦で大半を失った。
次に突入を許せば、もう防げない。
「ウズメ、右舷へ回頭――!」
『間に合いません』
警告が響いた。
そのとき、ブラックサレナが突然、進路を変えた。
「……アキトさん?」
『……先に跳べ』
「何を――」
『お前は、捕まるな』
少女は、息を呑んだ。
「アキト待って! ジャンプは駄目!」
アキトの神経系は限界に近い。
これまでの戦闘だけでも、どれほどの負荷がかかっているかわからない。今ここで、さらにボソンジャンプをすれば。
少女は、言葉を続けられなかった。
『……大丈夫だ』
通信越しの声は、静かだった。
『すぐ戻る』
ブラックサレナを包む空間が、わずかに歪んだ。
「アキト!」
*
アキトは、目の前の表示を睨んでいた。
距離。速度。突入艇の進路。
今から普通に追っても、間に合わない。
だが、ほんの少し、距離を飛ばせれば。
かつて何度も繰り返した跳躍だった。
少女とイネスの調整によって、最近はその負担も減っている。
だからといって、無事で済む保証などない。
右手の震えが大きくなった。
指先が、操縦桿の感触を失いかけている。
アキトは歯を食いしばった。
あいつを、また連れていかせるわけにはいかない。
ユリカを奪われた。
ラピスも、あの娘も、同じ場所に閉じ込められていた。
もう二度と。
ボソンジャンプを、開始した。
一瞬、視界が白く染まる。
次の瞬間、ブラックサレナは突入艇の進路上へ現れた。
敵艇の乗員が反応するより早く、黒い機体がその船体へ突っ込んだ。
金属が裂け、衝撃が伝わる。
突入艇は、接舷用の装置ごと砕け散った。
成功した。
そう思った直後、アキトの身体の奥で、何かが弾けた。
「――っ!」
声にならない。
胸の奥から、焼けるような痛みが走った。腕が勝手に跳ね上がり、操縦系へ伸ばした指が動かなくなる。
視界に無数の光が散った。
皮膚の下で、ナノマシンの輝きが脈打つ。
止めようとしても、止まらない。
頭の中へ、互いに食い違う命令が流れ込んでくる。痛みなのか、熱なのか、それすらわからなくなった。
アキトは、最後の力で通信を開こうとした。
少女に、伝えなければ。
逃げろ。
いや。
……帰ろう。
だが、指は端末に届かなかった。
ブラックサレナが、ゆっくりと回転を始める。
*
「アキト、返事をしてください!」
少女の呼びかけに、応答はない。
突入艇の反応は消えた。
そのすぐ近くで、ブラックサレナが姿勢を失って漂っている。
『ブラックサレナ、操縦信号が途絶しています。機体は損傷。パイロットの生体反応に異常を検出』
「……そんな」
少女は、すぐにIFSを通じて機体の制御系へ接続した。
だが、反応は鈍い。跳躍と衝突の負荷で、外部装甲だけでなく一部の制御機構も損傷していた。
『敵機、再接近。右舷後方から六連二機』
少女は目を閉じた。 まだ、アキトを連れて帰ることはできる。
「ウズメ、IFS同期レベルを最大限まで引き上げて。残っているバッタを含め、全部出します」
「敵を遠ざけて。少しだけでいいから、時間を作って。跳躍直前に展開したバッタは全機自爆させます」
『了解。残存機、全機発進します』
少女の意識に、無数の小さな光点が現れた。
すでに戦っている機体も、最後まで残していた予備機も、すべて投入する。
バッタたちは一斉に散開し、ユーチャリスへ迫る六連と積尸気の前に立ちはだかった。
少女はその隙に、ブラックサレナの補助制御系を開いた。
「……お願い。動いて……!」
機体の姿勢制御が、かすかに応じる。
ウズメが格納庫の回収装置を起動し、少女がIFSでブラックサレナの残存スラスターを操る。
黒い機体が、ゆっくりとユーチャリスへ近づいた。
遅い。
敵は、すぐそこまで迫っている。
バッタの光点が、一つ、また一つと消えた。
「……もう少し」
少女は必死に手を伸ばす。
「……お願いだから……!」
『回収装置、接続。ブラックサレナを収容します』
格納庫の中へ、黒い機体が引き込まれた。
固定装置が作動する。
「アキト……!」
少女は操縦席から立ち上がりかけた。
その瞬間、船体が大きく揺れる。
『敵機、至近。ジャンプフィールド、再展開可能。跳躍座標を維持しています』
少女は歯を食いしばって座り直した。
今、ここを離れれば、アキトに会いに行ける。
離れなければ、二人とも捕まる。
「……ウズメ。帰ります」
『了解』
少女は、月面ドックの位置を思い描いた。
ラピスが待っている。
アキトが作ろうと言った、次の食事。
まだ決めていない、自分の名前。
全部、帰ってからでいい。
「……ジャンプ」
ユーチャリスを光が包んだ。
迫る夜天光の刃が、その船体へ届く寸前。
白い戦艦は、宇宙から消えた。
*
戦場には、破壊された工場の残骸だけが広がっていた。
製造ラインは消失した。新たに造られた積尸気も、多くが失われている。
揚陸艇は二隻失われ、艦内侵入班からの応答も途絶えた。
夜天光の操縦席で、北辰は、ユーチャリスが消えた空間を見つめていた。
『追撃不能。敵艦、跳躍しました』
『製造施設は全損。積尸気も多数喪失。今回の損害は……』
「報告は後でよい」
北辰は通信を切った。
「……逃がしたか」
北辰は、低く呟いた。
そして、ブラックサレナが最後に見せた、不自然な動きを思い返す。
あの短距離跳躍。
その直後、黒い機体は反撃もせず、漂うばかりだった。
「……テンカワ・アキト」
口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「……その身体、いつまで保つか」
だが、答える者はいない。
*
月面ネルガル、非公開整備ドック。
帰還したユーチャリスは、見るも無残な姿になっていた。
右舷の装甲は大きく抉れ、格納庫に収容されたブラックサレナも、幾重にも重ねられた装甲の大部分を失っていた。
そのコックピットに、整備員と医療スタッフが駆け寄っていた。
「テンカワさん! 聞こえますか!」
返事はなかった。
操縦席からアキトの身体が引き出され、耐Gスーツとヘルメットが外される。
その瞬間だった。
「――――っ、あああああっ!」
声にならない叫びが、格納庫に響いた。
アキトの身体が激しく痙攣した。
手足が不規則に跳ね上がり、医療スタッフが慌てて身体を押さえる。
「押さえて! ストレッチャーを!」
「駄目です、拘束できません!」
アキトは何かを振り払おうとするように腕を振り回した。
自分の胸元を掻きむしる。
首へ手を伸ばし、パイロットスーツの襟元を引き裂こうとする。
皮膚の下では、ナノマシンが異常な輝きを放っていた。
「アキト!」
少女が駆け寄った。
しかし、医療スタッフに制止される。
「危険です! 離れてください!」
「でも、アキトが……!」
「お嬢さん、今はこちらに任せてください!」
少女は立ち尽くした。
つい先ほどまで、あの黒い機体を操っていた人が。
自分を守るために戦ってくれた人が。
目の前で、こんなにも苦しんでいる。
「……アキト」
呼びかけても、答えはなかった。
*
医療区画へ搬送されたアキトを待っていたのは、イネスだった。
検査データを確認した彼女の表情が険しくなる。
「……やっぱり」
「先生、どういうことですか?」
少女が尋ねた。
イネスはすぐには答えず、表示された神経系の模式図を拡大した。
異常を示す赤い領域が、脳から脊髄へと広がっている。
「……神経系に定着したナノマシンが、制御不能になっているの」
「ナノマシンが……?」
「ええ。長い間、限界を超えて身体を酷使してきた。過剰なIFS接続に、繰り返されたボソンジャンプ。これまで蓄積してきた負担が、ついに限界を超えたのよ」
イネスは別のウィンドウを開いた。
そこには、ユーチャリスから送られてきた戦闘記録が表示されていた。
最後の短距離ジャンプ。
その直後から、アキトの神経系に異常な信号が発生している。
「……あのときには、もう」
少女の声が震えた。
「……もう、限界だったんですか?」
「おそらくね。でも、今回の戦闘だけが原因ではないわ。以前から症状は進行していたの。最後のジャンプが、引き金になったと考えるべきでしょうね」
処置台の上で、アキトが再び身体を反らせた。
「――あ、あああっ!」
「先生! 神経活動、さらに上昇しています!」
「鎮静を追加して!」
「反応しません!」
アキトの額から、頬へ。
首筋から、腕へ。
青白い光が不規則に走る。
まるで身体の内側から、何かが彼を焼いているようだった。
「……っ!」
イネスは唇を噛んだ。
そして、しばらく迷った末に口を開いた。
「……試験薬を使います」
補助に入っていた医師が顔を上げた。
「先生、あれをですか?」
「ええ」
「ですが、神経系への影響がまだ……」
「わかっているわ」
イネスは、苦しむアキトを見つめた。
「でも、このままでは神経系の損傷が広がり続ける。ナノマシンの暴走を抑えるのが優先よ。これ以上、待てないの」
彼女は端末を操作し、薬剤保管庫を開いた。
取り出されたのは、小さなアンプルだった。
火星由来ナノマシンの異常活動を抑制するために開発されていた、実験段階の薬剤。
ナノマシンの過剰な活動を鎮める一方、複雑に結びついた神経系へどのような影響を及ぼすのか、まだ十分にはわかっていない。
イネスはアンプルを見つめた。
ほんの一瞬。
それから、意を決したように顔を上げた。
「……投与します」
薬剤が注入される。
モニターに表示された数値が、ゆっくりと変化し始めた。
激しく乱れていた神経活動が、少しずつ低下していく。
「……脈拍、低下しています」
「呼吸も安定してきました」
アキトの身体から、力が抜けていった。
不規則に輝いていたナノマシンの光が弱まり、やがてほとんど見えなくなる。
苦痛に歪んでいた表情も、少しずつ穏やかになっていった。
「……アキト?」
少女が、恐る恐る声をかけた。
返事はない。
ただ、アキトは静かに眠っていた。
「……落ち着いたわ」
イネスが、小さく息を吐いた。
少女は処置台へ歩み寄った。
アキトの手を取る。
先ほどまで激しく痙攣していた指は、今は動かない。
「……よかった」
少女の目から、涙がこぼれた。
「……本当に、よかった……」
イネスは、その姿を見つめていた。
モニターには、安定した生命徴候が表示されている。
ひとまず、命はつながった。
けれど、イネスの表情は晴れなかった。
*
それから、三日が過ぎた。
アキトは眠り続けていた。
生命徴候は安定している。
ナノマシンの異常活動も、抑制されたままだった。
しかし、意識が戻る気配はない。
少女は、毎日のように病室を訪れていた。
ベッドの傍らに椅子を置き、アキトの手を握っている。
時には、ラピスも一緒だった。
「……まだ、起きない?」
ラピスが尋ねた。
「……うん」
少女は頷いた。
「でも、先生は大丈夫だって。きっと、もうすぐ目を覚ましてくれるよ」
「……そう」
ラピスはベッドへ近づき、眠っているアキトを見上げた。
それから、そっと彼の手に触れた。
「……起きて」
小さな声だった。
少女は、その姿を見つめていた。
アキトが目を覚ましたら、何を話そう。
無茶をしたことを、少し怒ってやろうか。
それとも、ただ抱きついてしまおうか。
この前、一緒に料理をすると約束した。
まだ、作っていない料理がたくさんある。
名前だって。
アキトは、考えてくれると言っていた。
そんなことを思いながら、少女は眠り続けるアキトの傍らにいた。
やがて、夜になった。
ラピスは医療スタッフに連れられ、居住区へ戻っていった。
少女だけが、病室に残った。
「……アキト」
返事はない。
「……早く、目を覚まして」
少女は、彼の手を握り直した。
そのままベッドに身を寄せ、いつの間にか眠ってしまっていた。
*
「……おーい」
誰かの声が聞こえた。
「……おーい、起きろー」
肩を、軽く揺すられる。
「こんなところで寝てたら、風邪ひくぞ」
「……ん……?」
少女は、ゆっくりと目を開けた。
目の前に、アキトがいた。
ベッドの上で身体を起こし、こちらを覗き込んでいる。
少し困ったような、けれど穏やかな表情だった。
「……アキト?」
「おう」
アキトは、軽く手を上げた。
「……目を、覚ましたの?」
「ん? ああ」
「……アキト!」
少女は椅子から立ち上がった。
「大丈夫!? 痛くない? どこか苦しいところは……!」
「お、おい! ちょっと待てって!」
少女は慌ててコールボタンを押した。
「先生を呼ばないと!」
「……なんだよ、そんなに慌てて」
アキトは不思議そうに首をかしげた。
「それより、なんで俺、こんなところで寝てるんだ?」
「……え?」
「いや、だからさ。俺、どうしたんだ?」
少女は、きょとんとした。
「……覚えてないの?」
「何を?」
「……戦闘中に倒れたの。身体が……すごく苦しそうで……」
「戦闘?」
アキトは眉をひそめた。
「……何の話だ?」
少女は、思わず言葉を失った。
しかし、今はそんなことよりも。
アキトが目を覚ました。
こうして、話をしている。
それが嬉しかった。
「……アキト」
少女は、彼に抱きついた。
「……よかった……本当に、よかった……!」
「お、おいおい」
アキトは困ったように顔を赤らめ、照れくさそうに視線を逸らした。
「なんだよ、大袈裟だな。大丈夫だって」
少女は、彼の胸に顔を埋めた。
温かい。
アキトが、生きている。
そのことを確かめるように、もう一度強く抱きしめた。
「……でも、よかった……」
「……あっ!」
突然、アキトは何かを思い出したように声を上げた。
「今、何時だ!?」
「……え?」
「まずい! 食堂に行かなきゃ!」
「……食堂?」
少女は顔を上げた。
食堂。
確かに、ラピスと三人で食事をすることは増えた。
けれど、こんな状態で、なぜ急に食堂の心配をするのだろう。
「……何か、食べたいの?」
「違うって!」
アキトは慌てて身体を起こそうとした。
「仕込みがあるんだよ! こんなところで寝てたら、ホウメイさんに怒鳴られちまう!」
「……ホウメイ、さん?」
「そうだよ。ほら、早く行かないと!」
少女は、何も答えられなかった。
ホウメイ。
その名前は知っている。
ユリカの記憶の中にある、ナデシコの食堂を預かっていた女性。
けれど、どうして今、その名前が出てくるのか。
「……アキト、何を……」
「だいたい、お前はいつも大袈裟なんだよ」
アキトは、呆れたように笑った。
「……なあ、ユリカ」
少女の思考が、止まった。
「…………え?」
「なんだよ、その顔」
アキトは不思議そうに首をかしげた。
「……ユリカ?」
その名前。
彼の口から聞くのは、初めてではなかった。
けれど。
今の声は。
あまりにも自然で。
あまりにも、親しげだった。
「……アキト、私は……」
「……アキト君!」
扉が開いた。
イネスが、足早に病室へ入ってくる。
「……イネスさん!」
アキトが顔を上げた。
「よかった。ちょうど聞きたいことがあったんですよ」
「……何かしら?」
「俺、なんでこんなところで寝てるんですかね?」
イネスの表情が、わずかに強張った。
「……え?」
「いや、気がついたらここにいて。なんか、身体もだるいし」
アキトは困ったように笑った。
「でも、そろそろ食堂に戻らないと。ホウメイさんに怒られちゃいますから」
イネスは、しばらく黙っていた。
そして、少女へ視線を向けた。
少女は青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「……そうね」
イネスは、静かに頷いた。
「アキト君。あなた、過労で倒れたのよ」
「……過労?」
「ええ。働きすぎ。パイロットと兼任しているもの。ホウメイさんには私から伝えておいたわ」
「……え、本当ですか?」
「ちゃんと休むように、って言付かってるわよ。休まなかったら容赦しない、ですって」
「……ええーっ!」
アキトは、情けない声を上げた。
「そんなあ……」
それから、自分の身体を見下ろした。
「……まあ、確かに、ちょっとだるい気もするし」
諦めたように肩を落とす。
「……わかりました。少し休みます」
「ええ。そうしなさい」
イネスは微笑んだ。
それから、少女へ向き直る。
「……それと、艦長」
「……え?」
「ここは逢い引きする場所じゃないのよ」
少女は目を見開いた。
「……あ……」
「心配なのはわかるけど、艦長の仕事をほっぽり出してちゃ駄目でしょう?」
「そうだぞ、ユリカ」
アキトが、笑いながら相槌を打った。
「……ええ、そうですね」
少女は、かろうじて答えた。
「……すみません」
「ほら、早く戻りなさい。アキト君のことは私が診ておくから」
「……はい」
少女は、小さく頷いた。
そして、アキトへ向き直る。
「……アキトも、ちゃんと休むんだよ」
「おう。わかってるって」
アキトが笑った。
その笑顔を見て、少女は胸が締めつけられた。
「……じゃあ、また来るね」
「ああ。またな、ユリカ」
少女は、無理に笑顔を作った。
そして、病室を出た。
*
扉が閉まった。
その瞬間、少女は壁に手をついた。
「…………」
足から、力が抜けていった。
その場に、ずるずると座り込む。
アキトは目を覚ました。
笑っていた。
苦しそうな様子もなかった。
それなのに。
「……どうして……?」
少女は、自分の胸に手を当てた。
アキトが、自分をユリカと呼んだ。
ホウメイのことを話していた。
まるで、ナデシコに乗っていた頃のように。
なんで、どうして。
「……アキト……」
小さな声が、誰もいない廊下に消えた。
前回あと2話で完結予定といいましたが、3話になりそうです。
フィールドブロックで敵兵を挟み込み圧死させるのは、原作のユリカが火星の生き残りをディストーションフィールドで見殺しにしたエピソードのオマージュです。ユリカクローンが原作同様、嘔吐するシーンも入れようかと思いましたが、アキトがそれどころではないので断念しました。
設定小話①
今回の戦闘は、火星の後継者による大規模な待ち伏せ作戦でした。ディストーションフィールドは強力ですが、ミサイルやレールガンなどの質量兵器による集中攻撃には弱点があります。
敵は複数のジャンプアウト予測地点に伏兵を配置。ジャンプ直後と、最大出力のグラビティブラスト発射後の隙を狙い、偽装した岩塊やミサイル、積尸気によるタコ殴りを仕掛けました。消耗したところで揚陸艇を送り込み、艦を制圧する計画でしたが、ユーチャリスとブラックサレナの予想外の抵抗によって失敗。
北辰は撤退を装い、回収態勢に入ったところへ直属の暗殺部隊を乗せた第二の揚陸艇を送り込みます。しかし、これもアキトに阻止されました。
アキトたちの妨害工作がいよいよシャレにならなくなってきたので、生産拠点を犠牲にしてでもA級ジャンパーを捕らえる、「肉を切らせて骨を断つ」作戦だったわけです(ただしイネスがネルガルにいる時点で、最終的に火星の後継者は敗北は決定しています)
設定小話②
ネルガル月ドックの人々について。本作では、月ドックのスタッフはエリナが選抜した人員です。オートメーション化をしており、月のドックの人員は最小限という設定です。
スタッフ中には火星の後継者に家族や友人を奪われた人々、特にA級・B級ジャンパーの関係者も多くいます。
エリナが「口が堅い」と評したのも、身元や能力に加え、こうした事情を考慮して選んだからです。
彼らはアキト、ユリカのクローンである少女、ラピスに同情的です。仇を討ってほしい気持ちもありますが、同時に三人の身を案じています。
生活班、医療班、整備班の視点で描く短編も考えましたが、今回はネタがまとまらず断念しました。