夏休みも半ばを過ぎた、とある日の昼下がり。
秀知院学園、高等部の校舎へと続く渡り廊下。
そこを歩く、二人の少女がいた。
中等部生徒会会計——白銀圭。
そして、中等部生徒会副会長——藤原萌葉である。
「ねえ、圭ちゃん。高等部に行くってことは……またあの『先輩』に会えちゃうってことだね〜?」
「っ⁉︎ な、なに言ってるの萌葉!」
萌葉が小首を傾げてにっこりと微笑む。
その無邪気なようで全てを見透かしたような小悪魔な視線に、圭の頬がパッと赤く染まった。
手には、中等部からの予算申請書類が握られている。
「え〜? だってこの前のお出かけ、とっても楽しそうに自慢してたじゃ〜ん。映画館で、どんな『素敵なお話』があったのかな〜?」
「す、素敵なお話なんて、べつに……!」
圭の脳裏に、あの日の記憶がフラッシュバックする。
暗闇の映画館。うなじに貼られた怪しいパッチ。
脳が溶けるような、未知の熱と快楽。
そして最後に、『ボクは圭ちゃんが好きだよ』と微笑んできたあの顔——!
(ううっ……思い出すだけで、恥ずかしい……‼︎)
これは憧れなのか、それともまた別の感情なのか。
その答えは出ないままだ。
「あ〜っ、顔真っ赤〜! ……あ、でももしその先輩が圭ちゃん悲しませるなら、地下に閉じ込めるから」
「変なこと言わないで⁉︎ じゃあね、萌葉!」
「うん! ばいばい。姉様と合流してくるー!」
天使の笑顔で物騒なことを言う親友と別れた。
---
そして圭は高等部の生徒会室の前に到着する。
ふうっと、深呼吸をしてから覚悟を決めて入室した。
コンコン。
「失礼します。中等部生徒会会計、白銀圭です」
「——おお、圭か。わざわざご苦労だな」
「おっは〜ろ! 圭ちゃん、いらっしゃ〜い」
扉を開けると、そこにいたのは二人だけだった。
兄である白銀御行と、その親友——天羽衣緒。
休日を一部返上して、仕事をする彼らの姿がある。
「確か、今日は中等部の予算についてだった——」
「——っ。仕事の用事だからお兄ぃは黙ってて!」
「えっ、なんか急に風当たり強くない⁉︎」
天羽と目が合った瞬間、圭は意識しすぎてしまい、つい兄に八つ当たりをしてしまった。
すると天羽が爽やかな顔で、圭のそばへと歩み寄る。
「お疲れ、圭ちゃん。いつもお仕事、頑張ってるね」
「え……あっ! 会計の仕事ですから、これくらい当然のことですよ。衣緒さん」
「ふふっ、真面目でえらいなあ」
「そ、そんなこと……ありがとうございます」
これってもはや完全に——。
「完全に妹が絆されてる⁉︎」
「いいから静かにしてて!」
「まあまあ。そう喧嘩しないで……ね?」
「は、はいっ!」
「じゃあお仕事、一緒に始めようか?」
「よろしく、お願いします——」
白銀圭は、仄かに頬を紅く染めていた。
□■□■□
「——そしてここをこう直したら。はい終わり」
「ふぁぁぁぁっ〜。感謝します! 衣緒さん!」
「うん。よく頑張ったねえ、いい子いい子〜」
「っっっ〜〜⁉︎」
仕事を早く終わらせて、頭をナデナデされる圭。
「そ、その……恥ずかしい、です」
「そう? じゃあこっちかな? えらいえらい〜」
「う、ううっ〜〜!」
天羽からのそれに、満更でもなさそうな顔だ。
「頑張った圭ちゃんには、ご褒美をあげなきゃね?」
「い、いえ! 別にご褒美なんて——」
「——はいっ! これどーぞ」
すとんっ。
机の上に、とある『物体』が置かれた。
容量たっぷりピンク色のプラスチックボトル。
中には、無色透明でドロリとした液体が。
それがゆったぁりと、揺れていた。
「……? なんですか、これ」
「お肌ツルツル『超保湿ボディローション』だよ」
天羽がにこやかに説明する。
だが、横で見ていた白銀の目がカッと見開かれた。
「おい天羽……! そのピンクのボトル、それにその異常なまでの粘度……どうせロクでもない物だろ⁉︎」
「人聞きが悪いなあ御行。純粋な美容アイテムだよ。保湿力と滑りやすさを極限まで高めただけで——」
「——待て天羽! それ以上は何も言うな!」
白銀が慌てて割って入り、ボトルを奪おうとする。
どう見ても、『いかがわしいもの』の代表格だ。
少なくとも、中学生の妹に渡していい代物ではない!
しかし——! ここで兄妹ぶつかる‼︎
「ちょっとお兄ぃ! 勝手なことしないでっ!」
「け、圭⁉︎ いやだがな。こういう怪しいものは、もっと慎重に検討するべきで——」
「——これは衣緒さんがご褒美に、私にくれたものなの! 大丈夫に決まってるでしょ⁉︎」
「いやわからんぞ⁉︎ というか、むしろ大丈夫じゃない可能性が高い方に決まっている‼︎」
「お兄ぃは衣緒さんの一体何を知っているつもり⁉︎」
「いや、めちゃくちゃコイツのこと知ってるわ‼︎ だからこそ、まず兄である俺が安全確認を——」
「お兄ぃが美容品なんて使うわけないじゃん⁉︎」
圭はぶんっと兄からボトルを隠すように抱きしめた。
そして天羽に向き直り、華やかな笑みを咲かせる。
「ありがとうございます、衣緒さん! ちょうど最近、乾燥が気になってたところなんです!」
「どーいたしましてっ。お風呂場で、お湯で少し濡らしてから使うと……すっごく馴染むからね?」
「はい! 今日、さっそく家で試してみます!」
そして兄の御行の方を振り返ると、愉快そうに挑発するよう舌を出す。
「あっかんべー!」
「け、けーい⁉︎ 待つんだ——‼︎」
兄の制止を振り切り、圭はピンクのボトルを大事そうに抱えて生徒会室を後にした。
原因の人物、天羽がふと呟く。
「兄妹仲、すごくいいじゃん」
「お前のせいだぞ⁉︎」
「ならボク良いことした!」
「してなーーーーーいっ‼︎」
□■□■□
そしてその夜、白銀家の浴室にて。
シャワーを浴び終えた圭は、湯気の中でそのピンク色のボトルを見つめていた。
(衣緒さんがくれた、超保湿ボディローション……)
白い素肌に、お湯の水滴がきらきらと弾いている。
圭は少しドキドキしながら、ポンプをぷしゅっと。
手のひらにたっぷりの液体を出した。
とろり……。
手のひらに溢れ出したのは、無色透明な液体。
化粧水というには、あまりにも粘り気が強すぎる。
「わっ……すごい、糸引いてる……」
試しにそれを、濡れた自分の肩から胸元、はたまたお腹まで一気に塗り広げる。
ぬちゃあっ。にゅるりん。
お湯と混ざり合った液体は、まるで生き物のように肌に絡みつき、凄まじい粘り気を発揮し始めた。
圭の目が、驚愕に丸く見開かれる。
「——っ⁉︎ え……⁉︎」
自分の手のひらと肌の間に、摩擦が一切存在しない。
「わ、わぁ……っ。すごく、ぬるぬるする……」
にゅるにゅる。くちゃくちゃ。
不思議な水音が、浴室内に響き渡る。
(こ、これ……本当に美容品⁉︎ なんだか、すごく変なことしてるみたいで……っ!)
目を閉じると、自分の頭をそっと優しく撫でてくれた、天羽のあの優しい手つきが蘇る。
もしこの身体を、あの綺麗な指で触れられたら——。
「〜〜っ! 私のバカっ‼︎」
自分の妄想に耐えきれなかった圭。
洗い流すべく、真っ赤な顔でシャワーを浴び始めた。
それは粘液か、邪念か。
きっと、誰にもわからない。
わかるのはたった一つ。
いつもより三十分、長風呂しただけ——。
□■□■□
間接照明の効いた、妖しい部屋にて。
「ねえ桃。これ、試してみない?」
「……なんだよ、それ」
ベッドの上に座る少女が、怪訝そうに眉をひそめた。
少年の手には、ピンク色のボトル。
中身は当然、超高粘度のアレである。
「うちの新作のボディローションだよ。お肌がツルツルになるから、桃に塗ってあげようと思って」
「……そんなの自分で塗れる」
「えー? 背中とか届かないでしょ?」
「いらん。どうせ変なことする気だろ」
少女はジト目で少年を睨みつける。
「ひどいなあ。ただの健全なスキンケアなのに」
「その『健全』は信用ならん」
「白銀さんの妹は、喜んで持って帰ったよ?」
「————は?」
ピシリ、と部屋の温度がいつのまに北極圏になった。
温暖化問題を解決するのは、コレなのかもしれない。
少女の目が、一気に鋭さを増す。
「……おい、衣緒。今なんつった」
「え? だから、白銀さんの妹にご褒美で——」
「——なんで他の女にそんなもん渡してんだ」
少女が胸ぐらをぐいっと掴んだ。
だが、少年はそれを待っていたかのように微笑む。
「だから、桃にはボクが直接塗ってあげるね」
「なっ……⁉︎ おい、待て……!」
少年は手を優しくほどくと。
そのまま、少女を押し倒した。
ぷしゅっ。とろり……。
「——っ⁉︎ つ、冷たっ!」
少女の白い鎖骨へと、透明な液体が垂らされる。
驚いて抵抗するように身をよじっている。
だが、少年の手のひらがその上から重なった。
ぬにゃあっ。にゅちゅり。
「……ゃっ、ん……!」
少女が、小さく熱い吐息を漏らす。
極限まで摩擦を失った指先。
それが、首筋から肩、そして下腹部へと滑っていく。
ただ撫でられているだけ。
なのに、布地越しに体温が直接伝わってくる。
「や、やめろ……っ」
「ふふ、すごく滑るね。桃の肌、つやつやだよ」
「見、るな……っ。ばか、へんたい……」
ぬんるぬる。くちゃりちゃり。
少年の手が動くたび、静かな部屋に水音が響く。
少女は羞恥に顔を真っ赤に染め、シーツを堪えるように、ぎゅっと握りしめた。
声を漏らすまいと、必死に唇を噛みしめる。
「……っ、くぅ……!」
「そんなに力入れたら、余計に滑っちゃうよ?」
てかてかと光を弾く、柔らかな肌。
少年の指先が、少女の腰つきをなぞる。
くすぐったさと熱さ。
それぞれが混ざり合い、少女の瞳がトロンと潤む。
「……おい、衣緒」
「ん? なに桃?」
「私だけにしろ……誰にも絶対にするな」
「うん。ボクがするのは、可愛い桃だけ」
「……ばか」
少女はぷいっと顔を背けつつも、ぬるぬると滑る少年の手に、自分の指をそっと絡ませた。
夜が更けるまで、甘い水音が響き続けた——。
□■□■□
とある日の朝。白銀家のリビングにて。
朝食のトーストをかじっていた白銀御行の前に。
妹の白銀圭が、すっくと仁王立ちした。
「……お兄ぃ」
「どうした圭ちゃん?」
白銀が首を傾げる。
圭はすうっと息を吸い込み、静かに宣言した。
「私、今度の日曜日。衣緒さんとお出かけするから」
「な、なにいいいいいいい⁉︎」
白銀が椅子から転げ落ちそうになる。
口からパンのかけらが吹き飛んだ。
「ま、待て圭! あいつと二人きりでは危険だと言っただろう⁉︎ よし、ならば俺が遠くから安全を——」
「——お兄ぃ?」
圭の声が、氷点下まで冷え込んだ。
絶対零度の瞳が、兄を射抜く。
「もし、勝手についてきたら『絶交』するから」
「ぜ、絶交……?」
「一生口きかないし、ご飯ももう作らない」
妹からの非情なる最後通牒!
「だから、わかった?」
「そんなに……? そこまで……?」
「うん。だってキモいし」
白銀の心にチクチク言葉が!
だが肉親との縁をここで切るわけにはいかない。
「わかった……。でも一つだけ約束してくれ」
「なに……?」
兄として、白銀はうぎぎと思いつつも言った。
「——お土産、よろしく」