夏休みに入って、すでに半月。
白銀御行とは一度も会えず、何の進展もないまま。
四宮かぐやは京都にある本邸へと召集されていた。
広大で、どこか冷え切った屋敷の廊下。
その向こうから、ゆっくりと歩いてくる老人が一人。
四宮グループ総帥——四宮雁庵である。
雁庵は立ち止まると、部屋にたった一言。
「……ご苦労」
そして素っ気なく、そのまま立ち去ろうとする——。
——しかし。
かぐやは胸元のポケットにそっと触れた。
そこには、宝物のように折りたたまれた一通の手紙。
以前の温泉旅行を許可してくれた、父の直筆だ。
かぐやは小さな拳を握りしめ、勇気を振り絞った。
「——ち、父上!」
ピタリ、と雁庵の足が止まる。
「……なんだ」
「せ、先日は……友人との旅行を許可してくださり、その……本当に、ありがとうございました‼︎」
静まり返る廊下。
わずかな沈黙のあと、雁庵は振り返らないまま。
不器用に、だが少しだけ硬度を落として呟いた。
「そうか……楽しかったか」
「————! はいっ‼︎」
ほんの数秒の、けれど確かな親子の会話であった。
□■□■□
本邸の最奥にある、格式高い客間。
そこには、四宮雁庵と向き合って座る少年の姿が。
中性的な容姿で、しなやかながらも芯のある身体。
「相変わらず男なのか女なのか、わっかんねえ成り立ちしてんなオメエは……」
「ええ、よく言われます。ちなみにそれ、もう何十回も会うたびに言ってますよ、雁庵さん」
天羽合名会社の子息。天羽衣緒である。
彼は表敬訪問としてここに訪れていた。
「はっ……。俺もボケでそろそろ冥土が見えたか」
「メイドさんは、いっぱい見えましたけどね」
「まったく、よく回る口だ。青臭いガキが」
「加齢臭よりかは、青臭い方が幾分マシでしょう」
悪態をつきつつも、雁庵の口元はどこか緩んでいる。
ふと、雁庵が庭の竹林へと視線を向けた。
思い出すのは、かつて唯一愛した女性。
京都・祇園の芸妓だった、かぐやの亡き母のことだ。
「……あいつがいた頃の祇園は、お前んとこの先代がよく守ってくれた」
「まあ、うちは昔からずっと『粋な夜』と『その秘密』を守るのが本業ですからね」
天羽が爽やかに微笑み、湯呑みを傾ける。
——『天羽家』。
かつて聚楽第を作った豊臣秀吉の『黄金の茶室』。
実はあれ、天羽の先祖がプロデュースした密談室だ。
明治維新の志士や伊藤博文らによる『待合政治』。
それらもすべて、天羽の床の上で行われていた。
歴史を作る偉人たちが、唯一鎧を脱いで遊び、骨抜きになり、時には情報を漏らし、保護される場所。
「時代が変わっても、ボクたちは『裏方』ですよ」
「ちっ、高校生が言うセリフじゃねえな」
底知れない少年の笑みに、雁庵がニヤリと笑った。
すると天羽が、すっくと腰を上げる。
「さて、お話はこのくらいにして。せっかく京都まで来たんです、雁庵さんの娘さんに挨拶してから、帰ってもいいですか?」
「……ふん、好きにしろ」
□■□■□
客間を出た天羽を、一人の少女が先導していた。
前髪を下ろし、スーツを完璧に着こなす少女。
かぐやの近侍——早坂愛である。
「こちらでございます、天羽様」
「ありがとう。案内助かるよ」
早坂の心臓は、先ほどからバクバクと跳ねていた。
あの日、ホテルで受けた濃厚なリンパマッサージ。
そして帰り際の、ついした熱のこもった恋人繋ぎ。
あれ以来、どうしても彼を意識してしまうのだ。
(大丈夫、今の私は完璧な使用人モード……! 学校の私だとは、バレないはず……!)
必死に他人のフリをして、かぐやの部屋へと近づく。
——だが、そのすぐ手前の曲がり角だった。
すっ。トン。
「——えっ?」
人目のつきにくい場所にて。
音もなく距離を詰めた天羽が、早坂の退路を塞いだ。
いわゆる『壁ドン』の体勢である。
整った美貌が至近距離に迫り、耳元で甘く囁いた。
「——この早坂も、すっごく似合ってるね?」
「っ⁉︎ あ、天羽様……⁉︎」
「うーん『様』なんて仰々しい。いつも通りにしてよ。それとも——それが”本物”の早坂なのかな?」
「っ——! な、なぜ私だとお気づきに……?」
「匂いですぐ分かったよ。あの日、ホテルのベッドで、たっぷり過ごしたじゃないか」
すうっ、と天羽の細い指先が伸びる。
そして、早坂の肩口から鎖骨へとそっと触れた。
「ほら。まだここ、少し凝ってるんじゃない?」
「ひゃっ……⁉︎」
ゾクッ、と甘い電流が背筋を駆け上がる。
その瞬間、鉄壁の仮面がぐっちょりと融解した。
「ちょ、ちょっと天羽っち! 離れて! かぐや様がすぐそこにいるから……っ⁉︎」
「えー? でもほら、身体がこんなに固くなってる。ここも、ほぐしてあげようか?」
天羽の指先が、スーツの襟元からうなじへと滑る。
あの日あの時、散々開発された敏感な場所。
そこを優しく撫でられ、早坂の膝から力が抜けた。
「ん……! だ、だめ……っ、声、出ちゃう……‼︎」
へたり込みそうになる早坂の細い腰。
それを天羽の片方の腕がぐっと抱き寄せて支える。
結果として、二人の身体がピタリと密着した。
早坂は声を殺そうと、自分の手で口元を必死に押さえながら、天羽の胸元の服をぎゅっと握りしめる。
「はぁ……っ、ふぅ……っ! ほんと悪趣味……っ」
「ふふ、ごめんね? でもそんな早坂も、早坂らしくて、それは早坂でいいんじゃないかな?」
「なっ……⁉︎ ば、バカじゃないの……!」
耳元に直接吹きかかる、熱い吐息。
心臓の音がうるさいくらいに鳴り響き、頭がくらくらと熱に浮かされていく。
「大丈夫だよ。誰も見ちゃあなんかいない」
「っ——! ほ、本当に……?」
——だがしかし!
すぐ隣の壁の向こうにて少女が一人。
ぴったりと張り付いて聞き耳を立てていた。
もちろん、四宮かぐや。その人である!
(えっ、天羽さんもここに来てるの⁉︎ しかも今の声は、早坂⁉︎ 『ホテルのベッドでたっぷり』って、一体どういうこと⁉︎ Bなの⁉︎ えっBなの⁉︎)
障子の向こうから聞こえる、衣擦れの音と甘い吐息。
さらには『だめ、声、出ちゃう』『こんなにも固くなってる』という、完全にアウトなワードの数々!
(ま、まさか……この廊下で、早坂を押し倒して、あんなことやこんなことをしているとでもいうの⁉︎)
かぐやの脳内で、壮大な妄想が超新星爆発した!
身体がガタガタと震え、頭から湯気が噴き出す。
「……じゃあ早坂、また後でね」
「……お、覚えてるから!」
足早に立ち去る早坂の足音。
かぐやはしばらく言語能力を喪失したのであった。
そして何食わぬ顔で障子を開けて入ってくる天羽。
「おーい、お邪魔しますよ〜。四宮さ〜ん? あれれ……なんだか顔赤いけど大丈夫?」
四宮かぐやは脳から言葉を絞り出す——。
「こっ——、この不埒者〜っ⁉︎」
□■□■□
東京へと戻った、とある日の夜。
壁に反射して灯る、静かな部屋にて。
「——ねね、桃。メイド服、着てみない?」
「……は?」
ベッドの上で、少女が胡散臭そうに眉をひそめた。
少年の手には、フリフリの本格的な『メイド服』。
黒と白のコントラストが眩しい、王道の衣装である。
「絶対に着ねぇぞ、そんなもん」
「えー? 似合うと思うんだけどなあ。この前、京都に行った時さ、すっごく美人なメイドさんたちがいっぱいいて。すごく綺麗だったからさ〜」
「…………」
ぴくり、と少女のこめかみが跳ねた。
わかりやすい煽りだろう。
しかし、それはそれで腹が立つ。
他の女を褒めているのだ、自分の前で。
「……よこせ」
「え? 着てくれるの⁉︎ 優しいじゃん!」
「いいからさっさとよこせ、バカ‼︎」
少女は少年から衣装をひったくった。
——そして数分後。
着替え終えた少女が、頬を朱色に染めて立っていた。
フリルのついたエプロンに、少し短めのスカート。
そしてなんと、頭には白い頭飾りまである。
普段のクールな凄みと、可愛らしい衣装のギャップ。
それらが化学反応を起こし、凄まじい破壊力を放つ。
「わわわ……っ。ちょっと桃、可愛い過ぎるよ⁉︎」
「う、うるさい! ジロジロ見るな、ころすぞ!」
そんな言葉は意にも介さず。
「ねえねえ桃、お願い。あのさあのさ? 一回だけでいいから、ボクを『ご主人様』って呼んでみて?」
「……っ! 調子に乗るなっ!」
「えっだめ? おねが〜い! ねっ、ねっ?」
少年が甘えるように下から覗き込む。
少女は唇を噛みしめ、鋭い瞳で睨みつける。
しかし折れて、絞り出すように呟いた。
「……ばか主人。へんたい主人め」
「ふふ、ご褒美だ。桃はやっぱり可愛いな〜っ」
少年が満足そうに目を細める。
すると少女は、メイド服の裾をぎゅっと摘んだ。
そして、ぷいっと目を逸らしたままに。
熱っぽい吐息混じりで、こう言うのだ——。
「……奉仕してやる」
——それはきっと、ツンデレメイドだった。
□■□■□
後日、東京にある四宮別邸にて。
すでに天羽に正体がバレ、すっかり開き直った早坂。
彼女が、主人の前にすっくと仁王立ちしていた。
「かぐや様。今週の日曜日はお休みをいただき、天羽さんとお出かけしてまいります」
「…………え?」
「ですので、その日は他の者に対応させます」
「え、ええええええ⁉︎ どういうこと早坂!」
四宮がベッドからばっと起き上がる。
「あんな危険な男と二人きりだなんて駄目よ⁉︎」
「いえ、大丈夫だと判断しました」
「本当にほんとうに行く気なの⁉︎」
「ええはい、本当にほんとうです」
その意思の硬さを悟ったのか。
四宮はこうすることに決めた。
「……ならば、後ろからこっそり着いていくわ!」
「——かぐや様?」
にっこりと氷点下の声音で呟く早坂。
それは、絶対零度の瞳であった。
「絶対に来ないでくださいね? じゃないと会長さんに『かぐや様が会長を大好き』ってバラしますよ?」
「な、ななななんですって⁉︎ 別に私は会長を——」
「大大大好きですもんね?」
「〜〜〜〜っっっ‼︎ もう!」
主人の最大の弱みを握り、完全封殺!
早坂のその言葉に、四宮はベッドに倒れ込んでから枕に顔を埋め、脚をばたばたとさせていた。
「——お土産、楽しみにしていてください」