玲奈先輩を深堀していく中、六月も中ごろになってやっと雨が増えてきた。ニュース番組でも例年よりもちょっと遅い梅雨入り発表が関係省庁から出されたと報道され、俺もそれを実感していた。
自転車が面倒になるから早めに歩いて行こうと決めたものの、移動時間がダルすぎる。一時は陽南と同じ時間に出ようかとも思ったが、それはそれでなんか恥ずかしいし大学で暇すぎるため却下した。
「おはよ~瑛士くん」
「おはようございます」
「今日も一限の時間で偉いねぇ」
とはいえ今までの時間よりも早く家を出なければならないというダルさ、サボりたいという悪魔の囁きを愚痴りつつ逃れる方法を考えていたところ、向かいで俺の卵焼きを食べていた天使からそれなら一緒に駅まで行こうと提案されて、断る材料がなく承諾していた。
「子どもみたいな褒め方しないでくださいよ」
「ごめんね、ふふ……」
「笑ってるじゃないですか」
流石に悪魔の甘言を受け入れるわけにはいかず、押し切られる形で予報が雨の日は殆ど天使たる玲奈先輩と待ち合わせて駅に向かうようになっていた。
先輩はロングスカートではなく、黒のブーツに膝上くらいのスカートを履いている日が増えた。雨で汚れるから、なのだろう。かわいい系なのに変わりはないが、なんというかそれだけで印象というのは変わるんだなぁと変なことを考えていた。
「どうしたの?」
「いえ、やっぱり先輩はおしゃれだなぁと」
「じゃあ、キミの服も私が選んであげよっか?」
「んん……流石にそれは、申し訳ないというか」
「遠慮しなくていいのに」
先輩の提案はありがたいものの、受け入れてしまうとものすごく不機嫌になるだろう従妹の顔が思い浮かんでしまった。
なんならちょっと前には大学で男友達作りなよ、と釘を刺されてしまったくらいだ。好きな人が別の女性と仲良くしているのを知るのは嫌だという気持ちが、痛いほど伝わっていた。
──それを知りながら先輩に甘えて頼ってしまう俺は傍から見たらきっと最低の二股野郎なのだろう。
「瑛士くん、コンビニ寄ってもいい?」
「どうぞ」
「朝ごはん、食べそこなっちゃって」
「俺もです」
「一緒だね」
でもちょっとしたことでも明るく笑う玲奈先輩が居る今が、心地良すぎて俺は中々抜け出せなくなっていた。
先輩の明るさは本当にすごい。雨の日すら、外に出て大学に行こうという気分になってしまう程だ。
「先輩は、やっぱりコーヒー好きなんですか? 外でも」
「ううん、私はコーヒーは飲まないんだぁ、カフェラテとかカフェオレは飲むけど」
「意外です」
レコンフォールは喫茶店で、店長さんである先輩のお父さんはバリスタだ。そんな人に育てられた娘なのだからさぞかしコーヒー好きなのか、と思っていたけれどコンビニで買った飲み物はむしろ
「私にとって、コーヒーはお父さんの匂いだったから」
「そうなんですね」
「中学の時は本当にそれが嫌で、嫌いで、お父さんなんかいなくなれって思った」
「……まぁ、そういう時期ですもんね」
穏やかな先輩にもそんな時期があったのか、という驚きをしつつも、俺は実のところ今は良好だろう親子関係が昔はそうでもなかったという事実が、先輩をコーヒーから遠ざけていたのかと納得した。それならむしろ嫌いでもいいくらいだ。嫌でも父親を思い出してしまうだろうし。
「瑛士くんもお店ではいつも紅茶ばっかりだよね」
「うちは父も母も紅茶党で夏、家にあるのは麦茶よりダージリン、なんて時もあったくらいなんです」
「ふふ、それはすごいね」
「その影響と、家で勉強とか本を読んでる時に母がいつもあったかい色んな紅茶を淹れてくれて、それを飲んでるうちにって感じです」
「いいお母さんだね」
俺は頷いた。父も母も忙しい人だけれどさりげない愛情をもらっている俺は恵まれていたと思う。それこそ中学生くらいの時は家に親がいなくてそれをネットで愚痴って、毒親だなんて言っていたけれど。振り返って鳥肌が立つ。
「人少ないから、今日は二人で座れそうだね」
「はい」
一限ギリギリよりも一本早い電車、俺はホームで先輩と並んで待つ。
少し前に朝倉さんたちに判定してもらったけれど、もしかしたらカレシがいて、セフレがいて、性行為に奔放な人なのかもしれないけど、少なくとも善人であると俺は思っているし、朝倉さんもそれは否定しなかった。
『所謂ビッチが悪人かと言われれば、むしろ逆だろうね』
『心象がよくなかったらセフレもカレシも作れやんからな、当然だろ』
だったら、別に俺は自分が先輩のカレシやらセフレに笑いものにされていても構わない。
ああでもきっと、俺が前の、数ヶ月前の精神だったら悔しくて、ムカついて先輩のことを遠ざけていたのかもしれない。でも今は、陽南がいるから。
──そういう意味なら、俺は先輩より酷いやつだ。陽南からもらう好意に甘えて、この余裕を保っているなんて。
「わ、音消えてなかった」
メッセージアプリの通知音、例の「そうま」だろうか。先輩は失敗したとでも言うように軽く笑って、スマホを操作し始める。
そういえば、先輩のアプリアイコンは俺も知っている限りでは自撮りだった。大学でも見かけたことのある友達の女の人とテーマパークに行った時の、大きな耳がついたツーショットだ。別に「そうま」とアイコンがお揃いってわけじゃないんだな。
相手の名前も玲奈先輩が編集でひらがなの、多分下の名前にしてるだけな気がする。俺も多分編集されてるだろう。なんせメッセージアプリの名前も「モリヒデ」だからな。
「ごめんね、大学着いたら……そこでお別れでもいい?」
「いいですよ、元から授業違うんですし」
「本当にごめんね、お昼は連絡するから」
「はい」
困ったような顔をする。俺より相手を優先することを心苦しく思っているような反応が、不思議だ。相手は少なくとも俺よりも関係が深い男だ。友達、親友、カレシ、そういうものだろうから後輩である俺より優先なのは当たり前だとすら思っている。
でも、玲奈先輩は何もなければ俺を優先する。今だってお昼はきっと俺を優先しようとしている。
「先輩」
「ん?」
「いつもありがとうございます、今日もちゃんと目が覚めた状態で一限受けれそうです」
「急にどうしたの?」
ここでカッコつけて、何も知らないくせに訳知り顔で「俺なんかより他を優先してくれていいんですよ?」なんてことは言えなかった。俺は今めちゃくちゃ先輩に甘えて、それでやっと気怠い気持ちを吹き飛ばせているのだから。もし玲奈先輩がいなければ、下手をしたらサボりの常習犯になっていた可能性すらある。
そんな俺に出来ることは、カッコつけることではなく甘えることと感謝することだけだ。
「なんか感謝しとかないと、先輩に頼るのが当たり前になっちゃう気がして」
「いいんだよ? 私もいざとなったらキミに甘えちゃうから」
「いつでもどうぞ」
「ふふ」
そのタイミングで電車がやってくる。風がホームに吹き、先輩がスカートの裾を手で軽く抑えながら、くすくすと笑っていた。これは揶揄っている時の笑い方だな、と思ったけれどいつでもどうぞは流石に無理かと自省し、開いたホームドアから先輩の後に続いて乗り込んだ。
「ねぇ瑛士くん?」
「はい」
「さっきのは、本当? 甘えてもいいのかな?」
「もちろん、俺が出来る範囲は限られますけど」
「じゃあ……ちょっとだけ、肩、借りてもいい?」
「え?」
「着くまででいいから」
「すぐですよ?」
「うん」
電車が動き始めてすぐ、俺はドル6のアプリを起動しようとしたら肩に先輩の頭が乗っていた。さっきまでの明るい笑顔とは違う、ちょっとだけ疲れたような反応だった。
──玲奈先輩は愚痴を言わない。言わない、は違うか。この講義は難しい、レジュメが多い、レポート課題が辛い、そんなことを言う。
レコンフォールでもバイトの子が無断欠勤して、とかクレームがちょっと面倒とかそんな話をする。愚痴は言うけど、その時はそれでも俺が何かを返すといつも笑ってくれる。
「じゃあ、着く前に起こしますね」
「……ありがとう」
だけど、本当に何かを抱えている時は何も言わない。男の俺がこういうことを言うのは気持ち悪いかもだけど、先月の真ん中くらいに同じような状態だった時はお腹を痛そうにさすっている時が多かった。ちょうど先月か、今もそうなのかも、と思いはするがすぐ何か出来ることなんて思いつきもしなかった。
俺は、肩くらいしか貸せないことをちょっとだけ悔しく思いつつ、せめて貸している間くらいは辛くなければいいな、なんてことを考えていた。
どけ、先輩はぼくが守護る!
メインヒロインの影が薄い